伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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  4

 船の勤務は、三組による六交代制で回る。午前零時を起点に、四時間交代で一日二回八時間の勤務となる。『うりゅう』でも、この慣例に倣って勤務が回る。一般商船のゼロヨン、ヨンパー、パーゼロの表現は使わず、一直から六直で表現する。『うりゅう』は、乗組員が少なく、今のような沈底状態での活動が多いために、当直勤務も柔軟にならざるを得ず、このような呼び名にしている。
 昨夜は、漏水確認と生命維持装置の確認他の作業は、午前二時過ぎまで掛かった。村岡は、乗組員全員を休ませるため、午前八時までの当直を買ってでた。各確認項目をまとめ、朝九時の定時報告に間に合わせるための作業が、彼には残っていたからでもある。
 当直を瓜生に引き継ぎ、一人だけで朝食を摂った。他のメンバーは、七時半に食べている。
 『うりゅう』の食事は、朝七時半、正午、夜七時半と決めてあった。直の交代時間に合わせた時間になっている。三食以外に、午後四時と正午前に、軽食を摂れるようにしている。二十四時間体制で、夜勤や潜水等の重労働をこなすための配慮だ。
 『うりゅう』の内規で、最後に食事をした者が、全員の食器の片付けをすることになっている。食事を終えた村岡は、食堂の隣の厨房に入った。
「あいつら」
 ぼそっと、呟いた。
 村岡が片付けるべき食器は、既に片付いていた。
「あっ、スキッパー。食器はそこに置いといてください。やっておきますから」
 村岡の後ろから声を掛けてきたのは、鮎田だった。
「夕べは、徹夜でしょう。お疲れのはずです。ここはやっておきますから、休んでください」
 停船中なので問題はないが、本来なら指揮所に居るべきだ。裏で、瓜生が気を利かしたのだろう。
「そうはいかないさ。示しが付かなくなるから」
「固いこと言わさんな。鮎田がそう言うのだから、甘えなさい」
 鮎田の後ろから声を掛けたのは、副官の浦橋だった。村岡より十以上も年上で、精神的に甘えることのできる唯一の乗組員だった。
「そうですよ。どうせ、食洗器に入れるだけですよ」
 もう、鮎田は村岡の食器を片付け始めていた。
「悪いな。甘えさせてもらうよ」
 台所仕事を鮎田に任せ、村岡は食堂を出た。
 村岡は、部屋には戻らず、食堂の隣の指揮所に入った。ここが、『うりゅう』の心臓部だ。
 魚塚と江坂が、調査用のグリッドを海底に設置する作業を行っていた。
 考古学の調査では、遺物を採集した場所や状態を記録する必要がある。そのために、調査対象範囲を区切るグリッドを設置する。魚塚と江坂は、有線の水中探査機C1を用いて、グリッドの設置を始めていた。
 魚塚が持ち込んだ機器は、要否を無視したかと思うほど、妙な品が多かった。潜水担当の瓜生と揉めたが、いくつかは半ば強引に持ち込んでいる。特に、周囲に評判が悪かったのが、巨大なミミズのような機器だった。村岡と江坂は見覚えがあるので気にならなかったが、瓜生と小和田は気持ち悪がった。
 村岡は、制御室に並ぶ三台ある端末の一つの前に座った。端末のメニュー画面から、左右画面に船内図画面を表示させた。
 『うりゅう』は、二本の耐圧船殻が左右並行に配置されていて、内部も左舷と右舷がほぼ対称になるように設計されている。船内図画面は、左画面に左舷、右画面に右舷が表示される。
 右舷は、船首から、村岡の自室となるスキッパー室、S2からS5の個室、厨房、食堂、指揮所、資料室、シャワー室、エアロックとなっている。
 左舷もほぼ同様で、浦橋の自室となる副官室、P2からP5の個室、厨房、器具倉庫、指揮所、シャワー室、エアロックとなっている。
 左舷と右舷を繋ぐ通路は二本ある。一本は、船体ほぼ中央にあり、中間にブリッジへのハッチと、水中エレベータへのハッチを持つ。もう一本は、船首に近い場所にあり、中間には、水中スクーターへのハッチがある。
 この船内図は、乗組員がどこにいるかを教えてくれる。
 乗組員は、チップの入った認識章を制服に付けている。これを読み取り、乗組員がどこにいるか、知ることができる。例えば、瓜生は左舷の器具倉庫に居ることがわかる。潜水具のチェックを行っているのだろう。鮎田は、もう指揮所に居る。浦橋は、左舷の廊下を移動している。左舷の指揮所に行くはずだ。原則として、彼は左舷に留まり、右舷側の機能がダウンした際に、左舷側からバックアップする役目がある。
 小和田の位置表示は、右舷のS3個室になっている。そこは彼の自室だが、制服を着ようとしない彼のことだから、本人が今どこにいるかは定かではない。
 船内図画面には、位置表示と共に各部の異常を表示する機能があるが、徹夜でチェックをしたのだから、もちろん、全てグリーン表示である。
 その表示に満足した彼は、左画面をブイ操作画面に、右画面をソナー画面に切り替えた。
 『うりゅう』は、一般的な潜水艦のソナーシステムを小型化した装置が装備されている。運用方法も似ていて、通常はパッシブソナーしか使用しない。ただ、隠密性を維持することが理由の潜水艦とは異なり、『うりゅう』の場合は、周辺の漁船の魚群探知機に影響を与えないことが理由となっている。
 ソナー画面には、海象も表示される。海上は、波長の長いうねりが起きている。台風の余波だろう。瀬戸内海の西端に位置する別府湾は、東しか開いていないし、山に囲まれているので、台風の接近具合に比べれば荒れ方は酷くないが、漁船は港に繋がれたままになっているはずだ。
 パッシブソナーで、周囲に漁船やフェリー等が居ないか、確認した。これくらい荒れていれば、停船していても、船縁に当たる波の音を拾える。
 瀬戸内海の海上交通の西の発着点となる別府湾だが、すべての航路で昨夜から欠航している。
 予想通り、周囲に船影は無い。
 ブイ操作画面からのオペレーションで、多機能ブイを海上に向けて伸ばし始めた。
 多機能ブイは、『うりゅう』と細いケーブルで繋がっていて、ケーブルを延ばすと浮上していく。内部には、通信用アンテナ、GPSアンテナ、気象測定器、水深計、音響発信器、カメラが詰まっている。
 浮上時には、このブイを上げて海上を確認する。ブイは、小型ゆえに長波長のレーダーが取り付けられず、短波長のレーダーでは高さが無いので視程が極端に狭く、小型船なら数十メートル先に居ても探知できない場合がある。そのため、レーダーは装備していない。
 ブイが海上に出ると、画面の隅にあるカメラの映像が少し明るくなった。カメラ画像の処理機能には、自動的にブイの揺れを補正する機能があるが、補正しきれずに揺れている。かなり荒れているようだ。
 どんよりとした空を見上げると、魚眼レンズ特有の歪んだ画像でも雲の動きが早いことが見て取れる。水深六十メートルを超える海底では、この海上の荒れようは全くわからない。
 荒れる海上の映像は、現実感が薄い。録画を見ているような気分になる。
 徹夜でまとめた状況報告を暗号化し、バーストモードで送信する。送信時間は、〇.一秒にも満たない。
 通信文は、通信衛星を通じて、文科省に届く。文科省の通信サーバーは、『うりゅう』からの通信文が届いたことで、多機能ブイが海上にあることを知る。直ちに、あらかじめ用意された『うりゅう』宛ての通信文が返信される。
 村岡は、返信が届くまでの数秒を利用し、海象データを取り込んだ。
 文科省からの通信文の受信が完了すると同時に、多機能ブイを収納した。右画面に表示しているソナー画面には、相変わらず船影は見当たらない。
 省との連絡を終えた村岡は、受信した通信文をゆっくり自室で見るため、立ち上がった。
 隣の端末を占有している魚塚は、早くも自律型無人潜水艇を出して、海底の状態の予備調査を始めている。自律型無人潜水艇は、『うりゅう』からの命令を取り込むと、命令に従い、『うりゅう』から完全に独立して動き回る。
 有線の水中探査機と違い、『うりゅう』とのケーブルが無いので、『うりゅう』の船体を外からチェックする際に、『うりゅう』にケーブルが絡まず便利である。また、ケーブル長の制約が無いので、広範囲の調査にも有用である。
 グリッドの設置を江坂に任せ、魚塚は先行して、状況把握の準備に入ったのだろう。
 予想以上に順調なようだ。
 村岡は、指揮所を出て自室に戻った。
 スキッパー室は、通常の商船に比べると問題にならないくらいに狭い。入り口の引き戸を開けると、正面から右寄りに大きな半球形の隔壁が見える。右舷耐圧船殻の先端部分である。この半球形を利用し、ラウンドした事務用デスクと、予備の椅子が設えてある。
 入り口の直ぐ右側は、隣室との境に薄いクローゼットがある。服を縦ではなく、平面に架けるタイプである。その奥には、トイレがある。
 『うりゅう』には、個室が十室あるが、専用のトイレがあるのは、スキッパー室と副官室だけだ。それ以外の個室は、隣の部屋との共用トイレになる。
 ベッドは、入り口からクローゼット、トイレまでの天井裏のロフトにある。
 他の個室も、ベッドは天井裏にある。このため、どの部屋も天井が低い。長身の村岡は、髪の毛が掠るくらいだ。その代わり、ベッドは幅が充分にあり、寝心地も良い。
 自室でタブレットを起動し、省からの通信文を解凍した。
 思っていたより長い文章だったが、仮眠を取るのは、これを見てからだ。昨日のパフォーマンスに対する注意が、書き連ねられているのだろうと容易に想像できた。
 『うりゅう』は文科省の管轄だが、経産省が割いた予算は少なくなく、それを背景にした『うりゅう』の使用要求は、かなりの量に上っている。その量たるや、『うりゅう』をフルに使っても処理しきれないほどなのだ。経産省の考えは、文科省より多くの使用要求を出し、要求比率に応じた使用比率を確保しようとしているのだ。
 村岡が文科省を離れた理由の一つが、この状況から垣間見ることもできる、お役所的発想からの意味も無い利権の奪い合いだった。
 だが、文面を読み始めると、直ぐに村岡の表情は曇った。
 これは、おそらく村岡に対する処分だろう。処分だとすると、予想以上に厳しい内容だ。しかも、瓜生島調査ミッションにも直接影響を与える、頭の痛い内容でもある。
 最後まで読み終えた村岡は、これを乗組員にどう伝えるべきか、頭を抱えた。
 いくら考えても、疲労が溜まった体では良い考えは浮かばず、同じ思考が繰り返されるばかりだった。
 意を決した村岡は、内容をプリントアウトした。紙は、貴重品だ。原則として、プリントアウトはしない。でも、今回は、『うりゅう』に省の命令を残しておく必要があった。
 それを手に指揮所に向かった。
 指揮所に入る前から、江坂の興奮した声が聞こえてきた。
「まだ、予備調査の段階なのに、こんなに良い状態で遺物が見つかるとは、思ってもみなかったよ」
 村岡は、食堂で立ち止まり、指揮所の様子を伺った。
「まだ、食器の欠片らしき物が、映像の中にあっただけじゃないか」
 魚塚が嗜めるように言った。大した価値は無いと、マスコミの前で言い放った江坂が、食器の欠片だけで興奮しているとは、意外だった。
「これは、イスパノ・モレスク陶器の特徴が見て取れるんだよ。スペインのバレンシア地方で作られていたんだ。磁器が発達していた中国から製法は伝えられていたけど、ヨーロッパでは磁器に適した粘土が見つからず、陶器が作られ続けたんだ。この陶器は、イベリア半島で代表的なものさ」
 魚塚は、午後から始めるヘリウム加圧に備え、無人潜水艇に新しいプログラムをインストールする作業を行っている。時々、その手を止めて、江坂の話し相手をしている。
「考古学的検証は、江坂さんに任せるけど、調査期間は長いようで短いから、広く浅く調査をした方がいいと思うよ。小さな遺跡じゃないし、海底に向かって崩落して行ったから、広い範囲に散らばっているはずだ」
「同感だ。ただ、僕としては、あまり広がっていないことを願っているよ。場所毎の出土品の分布を調べることができれば、当時の生活様式や、社会制度もわかるかもしれないからね」
 江坂と違い、魚塚は冷静を装っているが、度々作業を止めてまで江坂の話に乗ってくるところを見ると、彼自身も興奮気味なのかもしれない。
 そんな二人を見ていると、ますます言い出しにくくなってしまった。
「おや、スキッパーさん。そんな場所で、恋人でも見つめるように突っ立ってるなんて、変な趣味でもお有りですかな」
 後ろから声を掛けられて、飛び上がった。
「あれ、小和田さん、お珍しい。スキッパーも一緒なんて、ますます持って珍しい組み合わせですね」
 二人の気配に気付いた江坂も、得意の毒舌を見せた。
 村岡も、今度こそ観念した。
「みんなを集めてくれ」
 村岡の要請に応じ、魚塚が制服に組み込まれている小型のトランシーバーで、残る三人に集合をかけた。
 食堂から顔を出し、指揮所に居る二人を食堂に呼び寄せた。
 食堂は、会議室としても使用する。六人掛けのテーブルが二脚あり、ホワイトボードやタブレット用の大型モニタも備えている。
 二人が食堂に入る頃、背後から、プリントアウトした用紙をさっと奪われた。振り返ると、浦橋が居た。
「これが、問題になってるんですな」
 浦橋は、シートに目を通し始めた。直ぐに、彼の眉間には深い皺が寄った。
 小和田が、浦橋からシートを取り上げる頃には、瓜生も鮎田も食堂に入った。
「命令書? どういうことだ?」
「小和田、声に出して読んでくれないか」
「俺の美声に惚れたのかい?」
「詰まらんことを言うくらいなら、俺が読もう」
 浦橋は、小和田からシートを取り返そうとしたが、さっと指先をかわされた。
「読めばいいんでしょ。聞けよ。
 命令書。
 一.前文
 以下の内容は、最高機密である。よって、今後の『うりゅう』及び『うりゅう』乗組員の動静は、完全に秘匿されなければならない。本命令に対して疑念を挿む事はもちろん、秘匿のため、本省に確認する事も許されない。
 二.瓜生島調査ミッション中止
 『うりゅう』は、直ちに瓜生島調査を中止せよ。瓜生島調査に使用している全ての機材を撤収せよ。
 ヘリウム潜水は中止せよ。艇内の通気は、通常空気による常圧とする。
 三.移動
 日本時間八月二十四日一五〇〇時に、北緯三十三度四十一分三十秒、東経百三十一度三分五十秒で深度二メートルで待機せよ。指定時刻までは、沈底して待機しなければならない。
 移動に際し、浮上してはならない。あらゆる観測機器、探査機器に発見されてはならない。また、『うりゅう』の移動の痕跡を残してはならない。
 四.スキッパーの交代
 日本時間八月二十四日一五〇〇時をもって、村岡はスキッパーの任を解き、下船することを命ずる。
 浅海が、村岡に代わり、スキッパーとして指揮を執る。
 浅海着任後の『うりゅう』の行動は、浅海が把握、命令するものとする。
 五.注意事項
 本件は、日本国の国家機密である。『うりゅう』艇外への情報漏えい、または順ずる行為は、国家公安委員会の調査対象となり、厳重に処分される。
 以上だ」
 沈黙が流れた。
 別府湾底は、海上の荒れ模様とは完全に隔絶されている。補機類の騒音も聞こえず、七人の男達の呼吸音だけが、艇内を漂っていた。
 『うりゅう』プロジェクトには、経産省以外に防衛省も関与している。
 次期AIP型潜水艦のための燃料電池の実証実験が最重要項目だが、それ以外にも、衛星通信システムを含む多機能ブイや新型のソナー等も、提供を受けている。
 国の最高機密となれば、国家間の密約か、国防上の問題のどちらかと決まっている。国家間の密約には、『うりゅう』が関係するとは考えられないので、国防上の問題が残る。必然的に、防衛省の関与が浮かんでくる。
 海上自衛隊に籍を残している浅海がスキッパーとして乗ってくることも、それを裏付けると言えよう。
「スキッパーは、馘なのか?」
「そういうことだ。浅海君が来るということは、そういうことさ」
 憤懣やるかたない魚塚に対し、さも当然とばかりに、浦橋は答えた。
「上からの命令だ。みんな、直ぐに行動に移してくれ。時間が足りない。指定の海域まで、全速でも六時間は掛かる。十五分後に離底する」
 なにやら言いたそうな鮎田の肩をポンと叩くと、瓜生は食堂を出て行った。
 追うように鮎田も身を翻した。
 それを切っ掛けに、他の者も、持ち場に戻っていった。
 村岡も、指揮所に入り、航路の選択と、航海コンピュータへの入力を始めた。左舷でも、浦橋が同じ事を始めていることだろう。
 左舷と右舷で、完全な二重化システムを構成する『うりゅう』であるが、両舷で異なる操作を行った場合は、右舷が優先される。だが、右舷の制御権を左舷が奪うことも可能で、実質的なところでは、左舷が上の立場になる。
 村岡は、船乗りとしては、自分より遥かに経験豊富な浦橋を左舷に配置し、万が一の事故に備えるようにしている。
 『うりゅう』が離底し、目標海域への航行が始まると、浦橋に操船の全てを委ね、自室に戻った。徹夜の体には、事態の進展の速さについていけなくなりそうだった。四時間程度の仮眠を取ることにした。
 子供の頃から、寝つきの良さには自信がある。この時も、先が読めない状況にも関わらず、あっさりと眠りに落ちた。
 夢さえ見ることなく、四時間半後に目が覚めた。
 航海日誌にここまでの記録を残し、身支度をした。
 元々、私物は少ない。艇の電源が落ちた際や、浸水時に備えて、厚手の下着を用意していることを除けば、小和田と違い、服もスエットと制服が二枚ずつあるだけだ。
 本を持ち込むと嵩張るので、何もかも、タブレットに取り込んで持ち込んだ。タブレット以外では、小径のリフティングボールと硬球が全てだ。
 ほとんどを円筒形の防水ザックに入れ終わったところで、リフティングボールだけ手元に残した。
 幼稚園から小学校卒業まで、サッカークラブに所属していた。あの頃は、プロになることを夢見ていた。
 椅子に座ったまま、リフティングを始めてみた。
 子供の頃は、なかなか上手くいかずに悔しい思いもしたが、今では嘘のように思える。サッカーをしていた頃より、今の方が遥かに上手くなっている。
 ある程度の水深を維持して航海している『うりゅう』は、波浪の影響をほとんど受けない。続けようと思えば、疲れて足が上がらなくなるまで終わることはない。
 百回程度で止めて、荷物を持って自室を出た。艇の中央に近い両舷連絡通路に入り、中間にあるブリッジに上がった。
 ブリッジに入ると、下部の二重ハッチを両方とも閉めた。
 『うりゅう』は、内気圧が外の水圧と同等か、上回る状況が多いので、ハッチは内側に向かって開く構造になっている。ただ、外側側にもハッチがあり、外圧に耐えられるようになっている。今は、艇内を常圧に保っているので、外圧が内圧を上回っている。内外圧力差には、外側ハッチが耐えていることになる。
 村岡は、制服に組み込まれたインカムをONにした。
「今、ブリッジに入った。水密確認はグリーンだ」
「アイサー。目標地点まで五分。現在の深度は、二十メートル。キール下が約十メートル」
 ブリッジのモニタでも、それは確認できた。速度は、五ノットまで落としていたが、キール下はどんどん浅くなり、今では五メートル内外になってきている。
 浦橋は、やや上げ舵をとり、キール下の五メートル余裕を維持したまま、予定地点へのアプローチを続けた。
 周囲には、船影は無い。海上はかなり荒れていて、この水深になると、海底部分まで海水が動くので、『うりゅう』もうねりの影響を免れない。ブリッジの小さな窓から外を見ると、海水が濁っているし、泡立っている。
 浦橋は、海底に沿って深度を上げながら、速度は維持していたが、予定地点付近で後進を掛け、一気に船足を落とした。
 船舶は、簡単には停船できないが、質量の割に抵抗が大きい『うりゅう』は、停船までの距離が比較的短い。その特性を知り尽くしている浦橋の操船は鮮やかだった。
「浦橋さん。浮上はぎりぎりまで待とう。素人の命令だ。深度二メートルは、ブリッジ頂部の水深のつもりかもしれない」
 ほんの僅かだが、間が空いた。この時間に、彼は自分の感情をコントロールしてしまう。いつもと変わらない落ち着いた声が返ってくる。
「アイサー。深度八メートルで停船する」
 計器を横目で見ながら、今回の不思議な命令の裏を考えていた。
 自分を左遷するなら、瓜生島調査の後でないとおかしい。このまま、浅海と交代しても、調査が終了して浮上した際にも、記者会見が予定されているはずで、その場でスキッパーが入れ替わっていれば、どこで入れ替わったのか、追及の声が上がるに決まっている。
 省は、隠密行動を取らせて、浅海に何かをさせようとしているのだ。
 それも、自分が居たのでは浅海がやりにくくなるような内容だ。
 オカに上がったら、直ぐにあいつの元に飛んでいって、絞り上げてやる。
「停船。スキッパー、測位のためにブイを上げてもよいですか?」
 考え事をしているうちに、停船していた。二基ある推進用ダクトスクリューの振動は、無くなっていた。計器を見ると、四基の位置調整用スクリューが、現在位置を維持しようと、せわしなく動いている。そのお陰で、海上の時化を考えると、『うりゅう』はほとんどぶれていなかった。
「ブイは駄目だ。浅海さんがどんな方法でやってくるのか分からないが、何の気配も無くやってくるはずがない。位置が少しぐらいずれていても、それで分かるはずだ」
「アイサー」
 村岡の予想は、直ぐに当たった。
 波浪音の中に、真っ直ぐに『うりゅう』に向かってくる船外機と思われるスクリュー音を捕らえたのだ。
 海上が時化ていて、相手の情報を正確に掴めない。偶然、『うりゅう』の真上を通過する進路を取ったプレジャーボートなのか、漁船なのか、それともお迎えなのか。
「スクリュー音が止まりました」
 時計を見ると、ぴったり十五時だ。
 こんな時化ている時に船を出し、待ち合わせ場所で待ち合わせの時刻に停船する確率は、ゼロと考えてよい。お迎えに間違いない。
「露頂深度まで浮上」
「アイサー」
 直ぐに露頂深度になったことは分かった。今までとは比べ物にならないくらいに、『うりゅう』が揺さぶられ始めたからだ。
 村岡は、圧力を確認の上、内側ハッチを開いた。
「ギアを降ろせ。ブリッジ内への浸水に備え、余剰浮力を取れ。ただし、深度は露頂深度のまま」
「アイサー」
 ネガティブブローで余剰浮力を確保し、位置調整スクリューで下向きに推力を与えて浮かび上がらないようにするのだ。その上で、余剰浮力を失って沈降し、着底を余儀なくされた際に、艇体への損傷を防ぐために、ギアを降ろさせた。
 村岡は、内部ハッチを開いた状態で待機した。
 外側ハッチの外から、打音が聞こえた。合図だ。
 外側ハッチを開くと、まず荷物が、続いて男が飛び込んできた。男は、直ぐに外側ハッチを閉めたが、波をかぶり、かなりの浸水があった。
 村岡は、ハッチが閉まっていることを確認し、排水ポンプを稼動させた。
「ようこそ『うりゅう』へ」
 空いた手を差し伸べると、男はがっちりと握り返してきた。
 引き締まった体は、海上自衛隊で潜水艦に乗り続けてきた事を物語るようだ。
 浅海だった。
「これが、航海日誌です。後をよろしく頼みます」
「わかりました。船は、上で待ってます」
 もう一度、握手をして、村岡は外側ハッチを開いた。
 運良く、今度は波をかぶらなかった。村岡が出ると同時に、浅海がハッチの閉鎖手順をすばやく終わらせ、閉じた。
「どうぞ、こちらに」
 ブリッジに乗り上げるように待機していたゾディアックから、村岡に手が差し伸べられた。
 村岡は、私物を入れたザックを手渡した後、飛び移った。
 飛び移る瞬間、足元が沈む感触があった。『うりゅう』は、浅海の命令で動き始めたのだ。
 もう波間に消えていることは分かっていたので、村岡は、振り返って『うりゅう』を見ることはなかった。

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  3

 翌日の午後、燃料の水素も酸素も満タンになった『うりゅう』は、大分港を出航した。
 村岡は、気になっていた。
 本当は、浦田が岸壁で簡単に挨拶するはずだったが、急遽、予定を変更して早朝の飛行機で省に戻っていった。その理由は、分かっていた。昨夕の記者会見を報告するためだ。できれば、彼より早く省に報告を上げておきたいところだが、そんな暇はない。
 浦田が居ないことで、出港のセレモニーはほぼ無くなり、粛々と出港の準備が進んだ。それは良いのだが、浦田が報告する内容が、正確には言いっぷりが気にかかっていた。
 村岡は、頭を振った。
 これから、潜水実験が始まるのだ。余分なことに気を取られていたら、事故に繋がりかねない。頭から、浦田の件を振り払った。

 潜水予定地点は、大分港を出て直ぐ、港の出入り口に近い所だ。
 瓜生島の推定位置は、大分港の出口の東側一帯と考えられている。ただ、瓜生島は、そこから西北西に向かって崩落したと考えられる。船の出入りや漁業権も考え、潜水地点は、大分港の北西二キロメートルに決まっていた。
 甲板上での最終確認を終え、ブリッジに戻った。ブリッジは球状で、しかも上下にしかハッチがない。ブリッジ下側のハッチは、『うりゅう』本体に接続されている。だから、ブリッジ上部のハッチまでよじ登らなければならない。
 ブリッジ側面のラダーを上り、上部のハッチを開いて、下半身をブリッジ内に押し込んだ。ハッチの直ぐ内側にある計器で現在位置を確認すると、特殊な雑巾でハッチの周囲を丹念に拭き取った。
 ここに、髪の毛一本でも残っていると、深刻な漏水に繋がる。繊維が残るのも好ましくない。だから、雑巾も繊維を使わない特殊なものを使う。
 周辺海域とハッチの確認後、村岡は外側ハッチを閉鎖した。ブリッジの床に足を下ろし、手を伸ばして内側ハッチの縁を同じように拭き取ると、内側ハッチを押し上げる。
 内径が僅か二メートル程の空間だが、意外に広く感じる。緊急時は、最大十名の乗組員がここに入り、海上への脱出を行う。広さを確保するため、計器も、補機類の操作も、二面ずつのタッチパネルとモニターで行う。ジョイスティックが二本あり、洋上航行中の操船は、これを使う。緊急脱出に必要な機器だけが、剥き身のバルブやスイッチとして、天井付近にまとめられている。
 そこに瓜生と二人で篭る。残る五人は、艇内の指揮所に詰めている。潜水に関わる操船は、ブリッジではなく指揮所で行う。村岡は、海上の安全確認のためだけにブリッジに残るだけだ。
 ただ、ここからの視界は、大きく制限を受ける。正面、左後方斜め上、右後方斜め上、後方斜め下の四箇所に、直径二十センチの小さな舷窓しかない。この四つの舷窓からの視界だけで、安全確認をしなければならない。
 瓜生が、正面の窓を担当し、残りが村岡の分担となる。
 うねりで、艇が揺れる。ローリングとピッチングが顕著で、素人なら船酔いするかもしれない。
「ギアダウン」
 本来の機能が海底居住基地である『うりゅう』は、着底用の脚(ギア)を持つ。ただ、航海中は、洋上であれ、海中であれ、大きな抵抗源になってしまうので、着底時以外は艇内に収納している。
「ギアダウン。オールグリーン」
 村岡に答えたのは、指揮所の浦橋だ。
「水密確認」
「全ハッチ閉鎖確認OK。洋上換気システム全閉鎖OK。オール・グリーン」
 これも、指揮所から届く。
「慣性航法装置チェック」
 洋上では、精度の高いGPSを使用するが、衛星からの電波が届かない潜航中は、慣性航法装置を使用する。
「誤差修正済み。慣性航法装置グリーン」
 GPSとの誤差は、自動補正するが、自動補正の状況を確認したのだ。
「ブロー。メインタンク、ベント開け。潜航!」
 メインタンクからの排気音が、ブリッジ内でも聞こえる。
「甲板、冠水」
 前後して、排気音が篭った音に変わった。
 村岡は、後方の窓から、甲板の冠水状況を確認した。うねりが出始めている別府湾の海水が、甲板だけでなく舷窓も洗い始めている。
 直ぐに、他の舷窓も水面下に没した。
「トリム確認」
「トリムバランスOK」
 瓜生が、深度を読み始めた。呼応するように、指揮所の魚塚が着底までの残り水深を読む。潜航震度が深くなるにつれ、艇の揺れは収まってきた。波長の二分の一の深さまで潜ると、海上の波の影響は受けなくなる。海上の波長は、二十メートルから三十メートル程度だった。もう少し潜れば、揺れも完全に無くなる筈だ。
 順調に潜航を続ける『うりゅう』の状況に、村岡は満足していた。
 十分余り後、『うりゅう』は、着底した。艇体は、少し傾いたが、ギアの長さの調整可能な範囲に収まっていた。
 浦橋がギアの長さを調整しているようだ。やや右前に傾いていたが、ディスプレイに表示されている水準器の値が水平に近付いていく。エアロック下のクリアランスも充分にある。
 一、二分で水平になった。
 着底作業も、これで一段落である。
 全員総出で水密確認を初めとする確認作業が待っている。夕食を挟んで深夜まで続くだろう。明日から加圧に入る。明後日からは、飽和潜水による十日間の水中調査だ。そして、二日かけて減圧し、今回のミッションのメイン部分が完了する。
「いよいよだ」
 村岡は、期待に胸が膨らむ思いだった。
 ただ、記者会見での出来事を、浦田が省にどう報告しているか、気掛かりではあった。

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