伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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  飛鳥

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「あっ、飛鳥だわ」
 宙美が、軌道ステーション飛鳥を指差し、母親に示した。
 浅い眠りから覚めた隼人も、身を屈めるようにして、宙美が示す方向を見た。
 高度千六百キロの宇宙空間に、純白の軌道ステーション飛鳥は、悠然と浮かんでいた。
 距離が近付くにつれ、白いドーナツ状リングの中心を細長いシャフトが貫く飛鳥の外観が見えるようになってきた。
 気がつくと、窓に張り付くように、目的地である飛鳥に見入っている乗客は他にもいた。ただ、それは少数で、多くは顔色が悪く、中には土色をしている者もいた。宙には、黄色い液体が所々に浮かんでいて、スペースプレーンの姿勢制御が行われる度に、あちこちに移動していく。
 言うまでもなく、黄色い液体は、乗客の吐瀉物である。シートバックのポケットには、いわゆる下袋があるのだが、それが間に合わなかった人や、ネットに体を固定していた人の吐瀉物が、処理するものが居ないために漂っているのだ。
 他人の吐瀉物が近付いてくることもあり、それを手持ちのハンカチや下袋で避ける人も居るが、動く気力も無いほど宇宙酔いに罹った者は、体に付くのも避けようとしない。ただ、強烈な異臭と見た目の気持ち悪さで、本人も下袋に顔を突っ込み、胃からこみ上げてくる悲鳴のような声と共に、胃液を吐いている。
 そういう光景を見ると、宇宙酔いにはなっていない隼人も、気持ち悪くなってくる。周りの惨状から目を逸らしたい気持ちも働いて、飛鳥に神経を集中させた。
 飛鳥の外見は、他の軌道ステーションを少し異なるが、概ね類似点は多い。
 飛鳥のシャフトには、二箇所の太い部分がある。一つは、シャフトの下端、四本のドッキングポートとの接合部だ。もう一つは、シャフトの中間付近、ドーナツ状のリングとを結ぶ六本のスポークとのハブ部分だ。打ち上げ用ロケットの最終段の燃料タンクを切り離さずに軌道に上げ、それを流用して内部を居住用に改装して作られた。
 シャフトのドッキングベイとの逆サイドには、研究用モジュールと大型の太陽電池パネルがある筈なのだが、隼人の位置からは窓枠に隠れて見えなかった。
 六箇所あるリング側のスポークとの接合部分も、ロケットの燃料タンクを流用している。燃料タンク間は、細いパイプで結ばれていて、パイプからカプセル状の円筒を左右に三個ずつ突き出した形状になっている。
 飛鳥は、ペイロードの小さな旧式のロケットによって建造された。シャフトやリング、カプセル等の外観上の細い部分は、ロケットのペイロードベイに積載して打ち上げられた。しかし、ペイロードベイの搭載力は、容量的にも、重量的にも、小さいため、総てをここに搭載していったのでは、打上げ回数が増え、費用が嵩んでしまう。そのため、燃料タンクも流用し、建設コストを押さえつつ、八箇所の大容量ゾーンを造ったのだ。
 各国の軌道ステーションも、以前は似たような形状をしていたが、アメリカ、EU、ロシア、中国等の軌道ステーションは、新造の二重リング、あるいは三重リングのものとの入れ替えを既に完了しており、このような古い形状の軌道ステーションは、地球周回軌道上には飛鳥しか残っていなかった。
(古いなぁ)
 飛鳥の表面のあちこちに、補修や機器を追加した跡が見られる。老朽化は、歴然としている。それでも、日本の低重力研究のメッカとして、今も第一線の研究者が、ここで研究を続けている。
「隼人君、まだ眠そうな目をしてるわよ」
 この状況下で居眠っていた隼人に対し、宙美は刺のある言い方をした。
「なるほど、坊やは慣れてるんだね。ところで、この宇宙船は、墜落途中って事はないじゃろうな」
 無重力は、ちょうどジェットコースターで急降下する感じに似ている。老人には、墜落しているように感じたのだろう。
「僕は平気だよ。おじいさんは?」
「流石だね。わしゃ、胃が持ち上げられているようで、気持ちが悪くて堪らんよ」
 老人は、フォローのつもりで言ったのだろうが、隼人には皮肉に聞こえた。
 隼人自身、なぜ、母の夢を見たのか、不思議だった。胸には、母が抱きついてきた時の感触が、残っていた。こんなにリアルな母の夢を見たのは、初めてだった。
 ぼうっと舷窓を見ていると、オービターが右へ旋回しているらしく、飛鳥は、窓の後ろへと消えていった。
「わしらは、飛鳥に行くんじゃなかったかいな」
 飛鳥を通り過ぎたように見えたので、不安になったようだ。
「ええ。だから、逆噴射するために、後ろ向きに変えているところです」
 手をオービターに見たてて説明すると、老人は感心したように頷いた。
 隼人の言葉を裏付けるように、軽い加速が数秒間続いた。オービターは、飛鳥の下側に潜り込むように接近していき、間も無く、シャフトの先端にあるポートの一つ、第四ポートにドッキングした。
 ドッキングの衝撃は、全く感じられなかった。オービター側のハッチとポート側のハッチとが接続された際の、コクンというロック音だけが、微かに聞こえてきた。
「ただ今、軌道ステーション飛鳥に、到着致しました。これから、皆様には、飛鳥に乗り移って頂きます。飛鳥での行動は、軌道ステーション管理官の指示に従って下さい」
 機内放送が終わったのを合図に、ネットに身体を固定していた男達は、慣れない無重力空間でベルトの拘束を解き、ネットを外していった。
 隼人もそれに習った。
 機内は、乗客が戻した吐しゃ物が、黄色い球体となって強い酸性臭を撒き散らしながら、ところどころに浮かんでいた。
 多少とも元気が残っている者は、それを避けて出口に向かったが、多くは、疲労が顔に浮かんでおり、吐しゃ物が衣服に付くのも厭わずに、ふらふらと出口に向かって漂うように移動した。
 隼人は、地震と大気圏脱出時の揺れで、何箇所かに小さな打ち身があった。それでも、宇宙空間に出るのも、飛鳥も、初めてではない事による気持ちの余裕で、席を譲った老人を介護しつつ、出口へと彼を誘導した。
「胃が持ち上げられるような気がする。胃が口から出てきそうじゃ」
 老人は、慣れない無重力に、不快感を隠せなかった。
「重力エリアに着くまでの辛抱ですよ」と、老人を励ました。
 オービターは、コクピット直後の機体上部を、ドッキングポートに接舷する。
 隼人は、一人ずつしか通れないハッチの下に来ると、先に、老人にハッチをくぐらせ、その後を追った。
 ハッチから到着ロビーへと続く、細く長い通路を、手摺に掴りながら、人々は慣性力で重く感じる体を引き摺って行く。
 通路を抜け、四つのドッキングポートからの通路が集中する到着ロビーに出た時、隼人は、汗臭さに似た異臭を感じた。それでも、定員オーバーと、胃酸の臭いが淀んでいたオービター内に比べると、ここの空気に清廉さを感じた。
「避難民の皆様は、ハーフパイプでシャフトを上がって頂いて、エレベータホールへお越し下さい」
 場内アナウンスが、隼人達を誘導した。
(やっぱり、避難民なんだ、僕達は!)
 避難民という単語が、嫌に耳に残った。
 定員を遥かに越える乗客が、疲労に歪んだ顔でハーフパイプの順番を待つ様は、被災地から命からがら逃げてきた被災民さながらだった。
「ハーフパイプって、何だね?」
 隼人の手を握り締めたまま、老人は口を開いた。
「ハーフパイプは、シャフト内の到着ロビーとエレベータホールを繋ぐ交通機関なんです。ハーフパイプの名前は、人が乗るベッドの形状から来てるんですよ。人一人分の大きさのパイプを半分に縦割りした形なんです」
 ハーフパイプは、一基がシャフト内を往復する。百人近い人々が一度に集まったせいで、中々、順番が回ってこなかった。五回目に戻ってきた時、漸く、隼人達の順番になった。
「おじいさん、こっちこっち」 
 隼人は、慣性が付き過ぎないように注意しながら、老人の体をハーフパイプに引き寄せた。
 ハーフパイプは、横に三列、前後方向に五列の十五人乗りだ。天井と床はあるが、横壁は無い。ハーフパイプとシャフト本体の内壁との隙間は、左右とも一メートルあり、全線に渡って手摺が設けられている。飛鳥の職員の多くは、ハーフパイプを使用せず、この手摺に掴って移動する。左右の隙間は、そのための通路であると同時に、ハーフパイプが途中で動かなくなった際の避難通路も兼ねている。
 乗客は、壁の無い横から乗り降りし、半円筒に立った姿勢のまま乗る。隼人も、老人を引き摺るようにしながら、ハーフパイプの側面から中に入った。
 隼人は、老人を半円筒形の中に押し込み、手早くベルトを締めた。そして、自身も、隣に潜り込んだ。
「おじいさん。気を付けて下さいね。加速が終わると、向きが変りますから」
 老人は、頷いた。
(分かってないかも)
 表情の変化に乏しい老人の顔を見て、隼人はいつでも手助けできるように、心の準備をした。
 ハーフパイプは、重力の二十分の一で加速する。バランスを取るため、ハーフパイプと同じ質量のマスバランサーが、ハーフパイプと逆方向に動くようになっているが、ハーフパイプの天井裏と床下を通るので、目で見る事はできない。
『発車します』
 合成音のアナウンスが流れると、ハーフパイプは、ゆっくりと動き出した。それにつれ、隼人は、体が半円筒のベッドに軽く沈んだ。加速は、六秒間続き、秒速三メートルに達した。
 エレベータホールまで、およそ四十秒の乗車である。
「おじいさん、回転するから注意してね」
 ほとんど同時に、『ベッドが回転し、進行方向と逆向きになりますので御注意下さい』のアナウンスも流れた。半円筒のベッドは、その軸を中心に右回りに回転して、逆向きになった。
 危惧したとおり、老人は、ベッドの回転に驚いて、飛び出しそうになったが、隼人が声を掛けたので、辛うじて落ち着きを取り戻した。ベッドの回転が終わり、再び、お互いの顔が覗けるようになった時、二人で微笑んだ。
 エレベータホール前に到着したハーフパイプから、隼人は、老人を伴って降りた。
「ここが、最大の難関ですから。でも、大した事はないけど」
 隼人は、ハーフパイプの目の前にある手摺を、指し示した。
 飛鳥のリングは、二十五秒に一回の割合で自転し、向心加速度による重力を得ている。その自転は、リングとスポーク、エレベータホールに限られる。つまり、静止しているハーフパイプの駅から自転しているエレベータホールへと移動しなければならない。
 自転エリアとの境には、リング状の手摺がついている。その直径は三メートル程なので、自転側と静止側では毎秒四十センチくらいの速度差がある。この速度差を小さくするために、自転側と静止側の間に、中間の速度で動く幅五十センチのゾーンがある。
(エレベータホールの自転とハーフパイプを同調させないのは、今時、飛鳥くらいのものだよなぁ)
 こんな所にも、飛鳥の古さを感じる。特に、不慣れな老人には、この乗り移りは大変なのに、飛鳥にはこれを改善できる余地が残っていなかった。
「いいですか。エレベータホールは、弱いと言っても、重力があるから、頭を下にしないように」
 老人に注意を与えた後、見本を見せる意味で、先頭に立って乗り移って見せた。
 慣れたもので、スムーズに、中間ゾーン、自転エリアへと乗り移った。渡り終わったところで、彼は老人に合図を送った。老人も、見様見真似で、何とか自転エリアへ乗り移ったが、頭を下にしたままに、ホールを下ろうとしたため、ゆっくりと滑り落ちてしまった。重力は、地上の四十分の一しかないので、大した怪我にはならなかったが、額と肘に小さな擦り傷は作ってしまったようだった。
「坊やの言った通りになってしまったよ」と、老人は頭を掻いた。
 エレベータホールでは、人々は壁面に立っていた。ただ、歩こうとすると体が浮いてしまい、上手く歩けない。本来なら、磁石付きの靴を用意するのだが、避難民には用意が間に合わず、移動する際には四つん這いとなって、床面に穿たれた凹面状の手掛かりを使った。
 人々は、六基の内の二基のシート式エレベータに分乗し、重力エリアへ移動した。

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  母

 どういう訳か、夜中に目が覚めた。
 直前までトイレの夢を見ていた。寝る前に水分を取り過ぎたせいだろう。隼人は、ベッドから出てトイレに行った。
 トイレですっきりしたので、また眠気を催してきた。大きな欠伸をしながら、廊下を歩いた。食堂の前を通り過ぎる時、中から明かりが漏れている事に気付いた。父が帰ってきて、夜食を食べているのだろう。
 父の帰宅時間は午前零時をまわる事がほとんどだったが、更に忙しくなると、二、三日帰ってこない事さえあった。日頃から父と話す機会がほとんど無いので、ちょっと顔でも見ようかと思った。
 だが、食堂のドアに手を掛けた時、隼人の手が止まった。
「あなた! 聞いてるの?」
 珍しく、母の詰問する声が聞こえてきた。
「内藤さんの御主人は、ノイローゼ気味になってるわ。若い吉岡さんや山野さんも、私に愚痴る事があるのよ。御主人は、猛烈すぎて、ついていかれないって」
 つい先日、吉岡さんと山野さんは、両親に仲人を頼みに来たので、隼人も顔を知っていた。
「私は、彼等に無理強いをした事は一度も無いよ」
 父は、ぼそっと言った。
「そうでしょ。あなたは、人に無理強いできるような人じゃないもの。でもね、あなたの態度や行動が、下の人達には、プレッシャーになる事もあるのよ。それを、分かって上げなきゃ」
 母は、賢い人だった。父も頭が良かったが、母の賢さは、父の頭の良さとは正反対のものだった。
 母は、真面目だった。父も仕事熱心な真面目人間だったが、母の真面目さは、父の真面目さとは正反対のものだった。
 母は、常に周囲の人達への気配りを忘れなかった。不愉快な思いをさせないように、一つ一つの言葉にも注意を払っていた。滅多に冗談を言う事はなく、言う場合にも、間接的にも人を傷付けることがないように、神経を遣っていた。
 町内の清掃活動や自治会活動等、いろいろと面倒で人が厭がる事柄も、身を粉にして働いた。それは、他人の仕事を押し付けられた時でも変わらなかった。さりとて、決して出しゃ張る事もなかった。
 だから、母を好きと言う人は多くないにしても、嫌いだと言う人は誰一人居なかった。
「あなた、内藤さんの仕事を代わりに終わらせたんですってね」
「ああ、遅れていたからね。日曜日に、彼が来てなかったから、代わりに済ませたよ」
 父は、食事の最中らしく、口をもごもごさせながら話した。
「それがいけないのよ。内藤さんの御主人も、ここ半年くらい、休みらしい休みも無く頑張ってたんでしょう? 下のお子さんの入学式の日も、式にだけ出席して、午後からは御仕事だったって、奥さんも驚いてたわ」
「私だって、休んでいないよ」と、父は不思議そうに言う。
「逆よ。あなたが休んで見せなきゃ、下の人達が休める筈ないでしょ!」
「仕事は、遅れ気味なんだ。資源用の小惑星は、もうすぐ一度目のフライバイをする。月面すれすれを通過するんだ。三十キロ。高度は、わずか三十キロしかない所を通過するのだよ。失敗すれば、月面に激突し、大きな被害が出てしまう。私の首が飛ぶくらいではすまないんだ」
 隼人は、「高度三十キロ」と言う言葉に、興奮を感じた。
 高度三万メートル!
 スペースプレーンからオービターを切り離す高度と大差ない。地球なら、大気圏の懐深く入り込んだ場所だ。そんな所を、小惑星を通過させるのだ。それも、地球生れの知的生命がやってのけようしている。そして、そのプロジェクトの中心に父が居る。
 隼人は、言葉で言い表せないロマンを感じた。
「あなたは、それを成功させる事しか考えていないわ」
「それが私の仕事だ」
「違うわ!」
 母の声は、ヒステリックに聞こえた。
「何がだ!」
 母に呼応するかのように、父もヒートアップした。
「私は、任された仕事を、全力をあげて完遂する。それとも、お前は、仕事を投げ出すいい加減な男になれと言うのか!」
「あなたは、仕事を自分一人で仕上げる事しか考えていないのよ。チームの考えがないわ」
「そんな事はない。仕事は、一人ではできない。増してや、こんな大規模なプロジェクトは。だから、私は、率先して助け合う雰囲気作りをしている。プロジェクトを動かすとはどういう事なのかが、お前には分かっていない」
「分かっていないのは、あなたの方です!」
 母は、ヒステリーを起こしていた。少なくとも、隼人にはそう思えた。
「もう、この話は止めなさい」
 父は、深呼吸した後に、落ち着きを取り戻した声で、そう言った。
「今夜は、これで止めますけど、あなたの頭が冷めた時に話しましょう」
 大きな溜息をついた父を無視して、母は奥の勝手の方に去った。
 両親の夫婦喧嘩を初めて目撃した隼人は、二人に気付かれないように、そっと寝室に戻った。
 隼人は、父の気持ちが分かった。
 小惑星から資源を採取した例は数多くあったが、小惑星を地球軌道に固定した事は過去に一例もない。
 今回のプロジェクトは、日本の軌道ステーションのリプレースを兼ねている。老朽化が限界まで進んでしまった飛鳥に代わる軌道ステーションは、この小惑星の中に作られる。もちろん、小惑星の中に軌道ステーションを作り込む事も、初の試みである。しかも、この技術が確立したなら、そのまま恒星間宇宙船に転用できるらしい。
 父の立場なら、隼人も、このプロジェクトには夢中になるだろう。
 父が羨ましく感じられた。そして、将来は、父と同じ道に進みたいと、真剣に思った。
 だが、そんな自分勝手なロマンは、数日後に起こった事件で、間違いである事を思い知らされた。
 母がノイローゼ気味と言っていた内藤と言う人が、管制センターの屋上から飛び降り、自殺したのだ。母の危惧が、現実となってしまった。最悪の形で・・・・・・
 内藤の娘は、姉と同級生で、隼人も何度か顔を見た事があった。隼人は、母と姉に伴って、内藤の通夜に出向いた。
 母が、内藤夫人にお悔やみを言おうとした時、夫人は、きっと母を睨んだ。
「御主人は、まだ見えないんですね」
 憎しみと怨みの篭った痛烈な皮肉だった。
「仕事が一段落次第、こちらに伺うと申していました」
「そうよね。御主人は、この世の何よりも、仕事が大事なんですものね。人の命よりも」
 母は、応えに窮していた。
「御引き取り下さい」
「で、でも……」
「貴方にお願いした私は、本当に馬鹿だったわ」
 その一言で、母はよろめいた。
 深々と頭を下げ続けた。隼人は、小さく畳まれた母の背を見詰め続けた。
「頭を下げても、主人は帰ってきません!」
 背に浴びせられた罵声に、母は更に小さくなった。
 長々と頭を下げ続けた母を、姉は抱きかかえるようにして家に連れ帰った。
 この日を境に、母の様子は変わってしまった。
 ある日、母が睡眠薬を飲んでいるところを発見した。それを見た姉は、ヒステリックに叫びながら、母から睡眠薬を奪った。
 母は、内藤の死の責任を一人で背負った。
 宇宙移民事業団の狭い官舎群の中では、噂は一気に広がる。内藤夫人から父を説得するように依頼されていたが、何もしてくれなかったと、実しやかに囁かれた。
 結局、仕事を理由に、通夜にも、葬儀にも、父は出席しなかったのだ。激しい反感を買ったが、父は自分のやり方を正義と信じ、貫き通した。
 管制センター長の地位が持つ力は想像以上に強いらしく、反感は、大人しく優しい母に向けられるようになっていた。噂は噂を呼び、やがて母は悪魔のように言われるまでになった。
 四面楚歌にも関わらず、父には一言も愚痴を言わず、母は耐え続けた。
 だが、心優しい母には、耐え続ける事など、到底できる事ではなかった。間も無く、精神科に通うようになり、睡眠薬にも手を出すようになった。睡眠薬を飲まなければ、眠りに就く事もできない。そこまで、母の心は虫食まれていた。
 だから、父との離婚に踏み切ったのだ。そうしなければ、母は、廃人になり兼ねない程、追い込まれていた。
 実際には、母は、父との離婚を最後まで渋った。離婚は、姉が勧めたのだった。隼人から、あの夜の会話を聞いた姉は、父から引き離さないと母の心が壊されてしまうと、真剣に考えた。父と離婚すれば、母は、仕事の鬼である父の被害者である事を、周囲の人々に印象付けられ、非難の目が母に向けられる事はなくなる。
 逆に、母が離婚を渋った理由は、父だけが悪人になる事を恐れたためだった。
 だが、母の窮状を、父は最後まで気付かなかった。その事が、母が姉の説得を聞き入れる要因の一つとなった。
 結局、父は、実の娘に三行半を突き付けられたのだった。
 隼人は、姉と一緒に母の故郷である沖縄に行く事になっていた。だが、母から離婚を言い渡されて以来、父の元気が無くなった事が心配になった。少し迷ったが、隼人は自分の意志で父の元に残る決断をした。
 母と姉が沖縄に発つ時、隼人は港まで二人を見送りに行った。
 鹿児島から沖縄へは、地表効果航空機(GEP)が、毎日二往復出ていた。GEPは、外見こそ飛行艇のように見えるが、巡航高度は数十メートル程度しかなく、速度も時速五百キロ程度と遅い。だが、燃費が良く、機体の大型化も容易なため、デビューから二十年で海上旅客輸送の中心となった。
 二人が乗る予定のGEPは、乗用車の積み込みを始めていた。出発時刻が、近付いていた。空港内に、最終の搭乗案内が流れた。
「隼人」
 GEPを見詰めていた隼人は、顔を母に向けた。母は、悲しそうな目で隼人を見詰めていた。
「お母さん。早く、元気になってよ」
 見る見るうちに、母の目から涙が溢れてきた。隼人は、もらい泣きしそうで、直視できなかった。
(ここで、僕が涙を見せたら、お母さんが心配する。病気にも良くない)
 隼人は小柄な方だったが、中学生になった時、母の背を追い抜いた。自分より小さくなった母を見下ろし、その肩にそっと手を置いた。
(お父さんを見守る事で、お母さんの心労を減らしてあげたい)
 手の平に母の温もりを感じ、支えてあげなければと思った。
 急に、隼人は抱きしめられた。力のこもった手で抱きしめられ、隼人は母の気持ちを肌で感じた。
「お父さんをお願いね」
 それだけ言うと、母は、すっと離れた。そのまま背を向けると、隼人を案ずる姉の背を押し、ゲートの中へと姿を消した。
 隼人は、駆け出した。人波をかき分け、屋外の送迎デッキへと、階段を駆け登った。
 息を切らせてデッキの手摺に身を乗り出した時、母が乗ったGEPは、ボーディングブリッジを外されていた。母の座席は、右舷の窓側なので、送迎デッキからは見る事ができなかった。
 GEPは、ゆっくりと移動を開始し、やがてスロープから海上へと下りた。GEPが巻き上げた水煙が、冬の遅い朝日を浴びて、虹色に輝いた。
 機種近くの両脇に取り付けられた四基のエンジンがくぐもった騒音を増し、GEPは加速体勢に入った。数秒後、海から押し上げられるようなGEP特有の離水をすると、どんどん遠ざかっていった。
 GEPが錦江湾の彼方に消え去るまで、隼人はデッキの手摺を握り締めていた。

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