伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
カテゴリーから「海と空が描く三角」をクリックすると目次が表示されます。

  21

 浅村は、富山まで出たところで、大規模な停電に見舞われた。
 早朝に出たので、北陸新幹線は、富山に着くまで動いていた。大規模な停電で、新幹線が止まったのは、その少し後だった。
 富山駅の構内で、乗換えを待っていると、構内の電気が突然消えた。
「停電?」
 あちこちで、そんな声が上がった。
 外が明るいことに加え、昨日からニュースを賑わせている各地の停電が、「ここもか」と、諦めを早くしたのかもしれない。パニックには程遠く、一度は天井の灯りを見上げた人々も、それまで通りに歩き始めた。
 浅村も、在来線に乗り換えるべく、新幹線ホームから乗り換え改札口へと向かった。彼は、習慣から、エレベータやエスカレータを使わない。いつも階段で下りる。この時も、階段に向かったのだが、途中のエスカレータは止まっていて、途中で止まってしまった人々が、大きな荷物を重そうに引きずりながら、階段状のステップを上り下りしていた。
 階段を下りていくにつれて、人混みが濃くなってきた。
 理由は、想像できた。
 最近の改札は、どこも自動改札が導入されている。特に、新幹線の駅で、自動改札を採用していないところは無いだろう。でも、停電になってしまえば、ただの狭い通路だ。人が抜けるのに、時間が掛かることは想像に難くない。
 階下に下りると、予想したとおり、正面の乗り換え改札口で混み合っていた。
 駅員総出で、小型の切符読み取り器をかざして、乗り継ぎ切符の確認をしていた。
 ふと左を見ると、出札口は、比較的空いていた。見ていると、切符を受け取るだけにしているようだった。
 一旦、外に出よう。
 外に出れば、他の交通手段も見つかるかもしれないと思った。
 しかし、改札の外は、改札の中よりも人混みが酷かった。窓口は、復旧の見込みなどの情報を得ようとする人々で何重もの人垣に囲まれている。そこから溢れた人々は、改札に立つ駅員を問い詰めていた。
 高山線は、非電化区間だから、停電でも走るかもしれないと思ったが、信号システムがダウンしているので、列車を走らせることが出来ないようだ。
 薄暗いコンコースを抜けて駅舎の外に出た。
 駅舎の前のロータリー越しに、立ち往生している路面電車が見えた。それが邪魔なのか、それとも信号が消えてしまったのか、車のクラクションが喧しい。
 浅村は、リュックを背負い直し、歩き出した。
「こうなりゃ、神岡まで歩くだけだ」
 体力には自信がある。方向感覚も。
 歩く装備はしていないが、靴もトレッキングシューズだ。冬山に比べれば、危険性はほとんど無い。食料さえ手に入れれば、何とでもなる。
 唯一の問題が、新木との約束の時間に間に合わないことだ。
 もう一度、携帯電話を取り出してみた。今も圏外になっていた。
 基地局が停電でダウンしているのだろう。それも、停電はかなり広い範囲に広がっているらしい。連絡を取ることは、当分出来そうもない。
 食料と飲料の調達をするために、コンビニを探した。すると、意外なものを見つけた。
 コンビニを見つけても、レジが機能しない可能性がある。レジが麻痺していたら、コンビニを見つけても意味が無い。そんな不安を抱えていたから、これを見つけたのは、幸運だった。
 浅村は、走った。背中で、リュックが揺れるが気にしない。その勢いで飛び乗った。
「平湯温泉行きバスです。お間違えないよう、御注意ください」
 合成音声の車内放送の後、運転手が錆びた声で発車を告げると、バスは動き始めた。
 長い時間、バスに揺られて岐阜県に入った。
 乗った当初は、交通渋滞で身動きできない状態だった。だけど、市街地を抜けてからは、快適だった。県境の山道は揺れたが、『しらせ』で経験した吠える五十度に比べれば、さざ波にしか感じない。
 バスに乗って正解だったと思ったのは、途中から乗ってきた客が、「コンビニで買い物が出来なくなっていた」と話しているのを聞いた時だ。
 歩き切る自信はあったが、食料と水が手に入らなければ無理だ。
 電気が無くなると、こんなにも不便になるものかと、改めて痛感させられた。
 神岡周辺は、険しい山中にある。車窓の風景は、人工物が減り、千年前からほとんど変わっていないだろうと思わせる景色が増えてきた。こんな山中に、スーパーカミオカンデはあるのだ。
 茂住でバスを降りた。
 ここも、停電になっていた。
 でも、誰もその事を気にしていないようだ。
 新木が待つ宿舎に直行した。
「よく来れたな」と、新木は目を丸くした。
 意外に障害も無く来れた事を報告すると、新木も驚いていた。
「運が良かったよ」
「てっきり歩いてくると思っていたよ」
「そのつもりだったよ。でも、コンビニも駄目になっていたらしいし、歩けても飢え死にしていたな」
 歩いてみたかった。でも、歩いてしまったら、休暇は足りなくなってしまっただろう。今回は、停電という言い訳があったので、バスがあったのは残念でもあった。
 いつか、歩いてみよう。
「それより、動いているマイクロマシンを見せてくれ」
「その前に、昼飯を食わせてくれ」
 もう十四時を回っていた。
 新木は、カップラーメンを用意してくれた。
「そろそろ、動いているマイクロマシンを見せてくれ」
 浅村が箸を置くが早いか、新木が要求した。
「ああ、そうだった」
 浅村は、リュックを持ち上げた。
「ちょっと、この辺りを片付けてくれないか」
 浅村は、筑波で見た彼の研究室と同じように、本や書類が巻き散らかされた部屋の床を指差した。
 荒木は、一枚ずつ、一冊ずつ、物を確かめながら片付けていった。おそらく、彼の頭の中にある書類や書籍の配置図を、書き換えているのだろう。
 少し開けた場所が出来たので、リュックをそこに移動し、リュックの下を開いて大きなガラス瓶を取り出した。
 ガラス瓶の底を確かめてから、散らかった床に置いた。
「この中にあるのか?」
 しげしげと覗き込む。
「底に穴が開いていないから、まだ中にあるはずだ」
 浅村は、瓶のガラス製蓋を固定していたガムテープを剥がし、そっと蓋を開けた。
 新木は、直ぐに中を覗き込んだが、その中には、またガラス瓶があった。外側のガラス瓶との間には、クッションの代わりに古新聞が詰められていた。
 中の瓶をそっと取り出し、同じようにガラス製の蓋をテープごと剥がして開けた。
「まさか、その中にも瓶があるわけじゃないよな」
 浅村が、こんな表情を見せることは多くない。彼は、小馬鹿にしたような表情を浮かべながら、焦らすようにゆっくりと作業を進めた。
 待てずに、新木は小瓶の中を覗き込んだ。
 小瓶の中は、最初の大瓶を縮小コピーしたような状態だった。
 小瓶の中には、新聞紙に包まれた陶器製の湯飲みのようなコップが入っていた。湯飲みには、本体と同じ陶器製の蓋が付いていた。その蓋を、テープでがっちりと固定していた。
 蓋が開かないように注意しながら、浅村は、陶器の湯飲みを取り出した。湯飲みは、小瓶の隣に置かれた。
「随分と厳重だな」
「まあな。こいつの実力を見ると、これでも恐ろしいくらいだよ」
 新木は、早く真相に近付きたかった。
「経験から、鉄じゃ持たないだろうと思ったんでね」
「だから、ガラスや陶器を使ったのか?」
 ガラスや陶器は、鉄の十倍くらい硬い。それを知っている彼にとって、こんな風にすれば、簡単には穴が開かないだろうと、思ったのだ。
「まあね」
 最後の湯飲みの蓋を取った。
 新木は、直ぐに中を覗き込んだ。
 白い陶器の湯飲みの底に、一ミリにも満たない小さな黒い点があった。
「この黒いのがそうか?」
 もったいぶったように、ゆっくりと荒木に場所を譲った。
「動いているのが分かるか?」
 新木は、子どものように覗き込んだ。
 虫眼鏡も駆使して、湯飲みの底を真剣に見つめていた
「ああ。動いているみたいだ。だけど、小さいな」
 浅村は、湯飲みを少しだけ傾けた。
 湯飲みの底で回転しているマイクロマシンは、位置を変えた。元々、マイクロマシンがあった場所は、少しだけ白くなっていた。茶渋が削れたのだろう。
「陶器は、思った以上に硬いようだな」
 新木の呟きに、浅村は、むっとした表情を浮かべた。
「俺をこんなところまで呼び出して、どういう用件だ。お陰で、帰れなくなってしまったぞ」
「君の宝物を見せてもらうためさ」
 浅村は、苦笑いを浮かべた。
 新木が、何かを隠していることは分かっていた。だから、大規模な停電になる危険を冒させてまで、ここに呼び付けたのだ。
 マイクロマシンを見ることが目的ではない。
「これは、ずっと回転しているだけなのか?」
「気付いた時からは、ずっと回転している」
「時計方向に回転しているように見えないか?」
 そんなことは気にしていなかったが、じっくり見てみると、新木の言うとおり、時計方向に回転しているようだ。
 突然、新木は湯飲みに蓋をして、蓋ごと逆さまにした。そして、そっと湯飲みを取り上げた。そして、虫眼鏡でしげしげと見ていた。
「見てみな。やっぱり右回転だ」
 言われるまでもなく、右回転だった。
 新木は、逆さまに湯飲みを被せると、元に戻した。そして、蓋を開けた。
「やっぱり、右回転だ。どうしてだと思う?」
「こいつの中にセンサーがあって、回転方向を制御してるんじゃないか?」
「どんなセンサーだ?」
「慣性を検出するセンサーじゃないかな」
「じゃあ、六時間後に見てみよう。地球が自転して、軸が今とは九十度変わるから、その時の回転方向を見れば、慣性センサーか、分かるはずだ」
 新木に言われるまで考えもしなかったが、回転方向を制御するためのセンサーの存在に気が回らなかった。
「六時間待つ必要はないよ。いつ見ても、回転軸は垂直だった」
 思い出したのだ。初めて回転しているところを見た時の事を。
「そうすると、センサーは何だと思う?」
 なぜ、わざわざにそんな質問をしたのか、新木の真意が見えなかった。
「重力センサーしかないだろう?」
「そうかな」
「じゃあ、何を計測するセンサーだと思うんだい?」
 新木は、黙った。
 やはり、何かを隠している。それを引き出すには、ニアピンを打つしかない。
 彼は、マイクロマシンを知った時、彼自身の研究との関連に気付いたのだ。彼自身の研究、つまりニュートリノに関連する何かだ。
「ニュートリノと関係するのか?」
 目を剥いた。
 ニアピンだ。
「俺をわざわざここまで呼んだ理由は、ここから離れる時間が惜しかったからだ。違うか?」
 今度は、それほど変わらなかった。さっきのニアピンが効いているのだ。
「実は、ニュートリノ通信を発見したんだ」
 新木は、話し始めた。
「見つけたのはいいが、決定的におかしな点があるんだ」
「まず、ニュートリノ通信て、どんな仕組みなんだ?」
「一言で言えば、AM放送。ニュートリノの強度を、時間変化させるのさ。ただし、送るデータはデジタルで、短文の繰り返しになる。だから、見つけることができたんだけどね」
「どうやって見つけたんだい?」
「カミオカンデ、スーパーカミオカンデ、カムランドの過去の受信データを集め、時間変化を調べたんだ。量が多いし、時間変化も周期を決めないとできないし、第一、繰り返し同じ文面を送信していると仮定することが、勇気のいる決断だったんだ」
 そんなのは、どうでもいい。
「時間変化があったわけだ」
「見つけるのは大変だったが、時間変化しているのは、確認できた」
 彼が見つけたわけじゃない。彼のプログラムが、PCの中で少しずつ周期を変化させながら、昼夜を分かたずフーリエ変換などを駆使して特徴的なピークを自動的に探したはずだ。
 彼がやったのは、PCが吐き出してくる特徴的なピークが、本当に周期性を持っているか最終判断することだけだ。
「見つけたニュートリノ通信は、解読できたのか?」
 新木は、渋い顔をした。
「それなんだが、なぜか、通信文が変わったんだ。お陰で、通信文が二例、手に入ったよ。これで解読できると思うよ」
 正直なところ、がっかりした。
 新木は、暗号解読の名手だ。趣味で暗号文を作ったり、自分で作った暗号文を解読したり。何が楽しくてそんなことをするのか分からないが、彼は暗号が好きだ。
 その彼が、まだ解読できないとは。
「以前、地球外からの通信は、相手に解読してもらうのが目的で送信してくるから、解読は簡単だと言っていた記憶があるんだけど」
「それなんだが、二つの点で、このニュートリノ通信は、僕が想定していたのと違っているんだ」
「何が違ってるんだよ。解読できない言い訳じゃないのか?」
 軽くプレッシャーをかけてみた。
「前提が崩れたんだよ。ニュートリノ通信の発信者は、他人に読んでもらうことを考えていないんだよ」
「じゃあ、誰に呼んでもらうために、ニュートリノ通信なんて大仰な通信を発信してるんだ?」
「仲間だろう」
「どこにいる仲間にだ」
「地球上だよ」
「え?」

       < 次章へ >              < 目次へ >

  20

 恐れていたことは、どんどん広がっていった。
 地上は、大混乱に陥っていた。
 『わだつみ』の船長、榎本萌音は、日本の惨状を伝えるニュースに、心を痛めていた。
 同時に、乗組員の不安の増大と、モチベーションの低下を恐れた。
 幸いなことに、『わだつみ』の乗組員は、七割を海自からの出向か、海自出身者が占めていた。残る三割も、海保からの出向か、海保出身者だったので、こんな状況でも、押さえが効いた。
 今回のミッションに備え、造船所関係者を含む技術者のほとんどを下船させてあったので、その点でもラッキーだった。
 榎本自身、海自の補給艦で鍛えられてきた。防衛大学校を卒業し、キャリアではなく、制服を選んだのは、同じ自衛官で護衛艦の艦長を勤めた父の影響かもしれない。有事には国のため、国民のために命を捧げる自衛官の誇りを胸に、懸命に勤めてきた。
 ただ、男女の体力差を痛感させられるに至り、転身先を考え始めていた時、絶好のタイミングで『うりゅう』と『わだつみ』の募集を見た。船会社に再就職しても、貨物船ばかりじゃつまらないと思っていたところだったので、文字通り、渡りに船の気分だった。
 『うりゅう』は、潜水艦乗りと競争しても勝ち目がないとわかっていた。でも、『わだつみ』は、海自で乗り組んでいた補給艦と構造も役割も似ていた。『わだつみ』で勝負しようと、心に誓った。
 海自を退職して退路を断ち、『うりゅう』についても詳細に調べ上げて、公募に臨んだ。
 費用を削って完成させた『わだつみ』は、目立つ能力が無かった。文科省は、『わだつみ』に華を持たせるために、話題性を探していた。海自では、三佐に昇進し、操艦では一等航海士の役割を担っていた榎本は、女性であることが追い風となり、『わだつみ』の船長として抜擢されたのだ。
 女性だから抜擢されたことを、榎本は自覚していた。しかし、大きなチャンスを得たことも事実だった。
 舞鶴に停泊していた『わだつみ』に、急に水素と酸素の補給が命じられた時、チャンスが膨らんだと直感した。
 女の勘。
 女であることを否定し続けていた自衛官の時代とは違い、肯定的に受け止めるように切り替えた。ただ、日頃の生活では、できるだけ女性の部分を消し去るように努めた。それ自体は、海自時代と同じなので、苦にならなかった。
 榎本は、事実上の日課となったキャッチボールをするために、ヘリポートに上がった。
 ヘリポートには、三メートル四方の木枠に土を盛ったマウンドがあった。本来のヘリポートとしての機能を失わないように、木枠の下には数十個のキャスターを取り付け、移動可能にしてあった。
 ヘリポートには、ヘリコプターを固定できるように、ハードポイントが規則正しく配置されていた。木枠のマウンドは、このハードポイントを利用して固定できるようにしていた。
 ヘリポートを斜めに使い、左舷側の船尾寄りにバッターボックスを置く。船尾寄りと言っても、『わだつみ』のヘリポートは、船橋の真上にあるので、船首の方が近い。
 護衛艦にしても、巡視船にしても、ヘリポートは船尾に置くのが一般的だが、『わだつみ』の場合、船尾には『うりゅう』を吊り上げるための大型クレーンがあり、ヘリポートのスペースが無い。船体中央には、ドリル用の櫓があり、船首よりの右舷には『うりゅう』の緊急脱出球を吊り上げるクレーン、左舷には水中エレベータ、更に両者の中央には船上減圧室を備える。
 ドリル用のパイプストレージや作業スペースも所狭しと配置されているので、ヘリポートは、船橋の上に追いやられた。その結果、ヘリコプターの格納庫は持たない。だから、ヘリコプターは搭載していない。
 『わだつみ』は、洋上の一点に留まり活動する場合が多い。ヘリコプターは、陸から飛び立ち、『わだつみ』に人員を運び、帰りには交替した人員を連れて帰る。物資を輸送する場合もあるが、医療品や薬品、試料等の軽量で急を要するものに限られる。他は、小型の補給船をチャーターして運ぶ。
 だから、ヘリコプターの使用頻度は低く、ヘリが飛び立ってから『わだつみ』に到着するまでの時間もあるので、マウンドは出しっぱなしだ。
 甲板手の一人を相手にキャッチボールを始めた。硬球は、少し重く感じる。ゆっくりと肩慣らしを始めた。
 『わだつみ』は、停泊していた。
 本来の姿だと言ってしまえば、その通りなのだが、技術者も科学者も下船させていたので、実質は何もできなかった。どこから監視されているのか、分からないので、水質調査をしているフリはしている。その役割は、海保の水路部出身の乗組員が果たしていた。
 肩も温もってきたので、キャッチャーを座らせた。
 南か、少し東寄りと思われる風が心地良い。
 『わだつみ』は、船首を波に立てているので、風は、榎本の右後ろから吹いてくる。サイドスローから繰り出す球筋を、ナチュラルシュートさせずに、キャッチャーミットまで真っ直ぐに走らせる。
 五十球ほど投げて、お仕舞いにした。クールダウンを兼ねて、軽いキャッチボールをした後、キャッチャーを務めてくれた甲板手にボールを手渡した。
「船長、オカは大変なことになっていますね」
「大丈夫よ。TVもラジオも、放送を続けているから」
 随分酷い言い方をしてしまったなと、言った後で後悔した。
 遠くに、能登半島が望める。
 この辺りの海流は、能登半島の影響を受けて変化する。その結果、漁獲だけでなく、気候にも大きな影響を与える。
 一昨夜まで見えていた能登半島の街明かりが、昨夜はほとんど見えなくなった。
 二日前から始まった大規模な停電が、夜間の灯火にも影響するようになったということなのだろうか。
 大規模な火力発電所の多くが、原因不明の停止を余儀なくされている。その現象は、日本に限らず、世界中で発生していた。そのお陰で、辛うじて戦争を回避する理性的判断を維持させているように、榎本には思えた。
 もし、限定された地域で発生していれば、発生していない地域や、イデオロギーが異なる地域に対して、破壊工作や謀略であると考え、戦争に発展した可能性がある。
 今回の事件は、石油があっても、それを使用できない状況を生み出した。最大の打撃は、電力だ。電力の決定的な不足は、産業を麻痺させ、家庭でも生活を狂わせた。
 日本では、化石燃料で発電される割合は、およそ五十%だ。電力量でみると、火力発電所の七割以上が停止してしまった。盛夏の今、電力会社が夏季対策期間と位置づける、電力需要が厳しい期間の中にあった。その中で、最大発電力の三分の一を削がれては、一溜まりもなかった。
 政府も、緊急電力使用削減令を出して、電力消費の削減を呼び掛けている。そのお陰で、今日は停電にはなっていない。
 昨日は、関東地方で最高気温が三十五度を超えた。停電は、三十三度に届いた昼前に、東京都心を中心に起こった。一度復旧したが、午後一時過ぎに再び停電になった。午後の停電は、北海道を除く全国で発生した。もっとも深刻だったのは沖縄で、深夜まで停電が続いた。
「ニュースが届くのは、情報が入るだけ安心できますね」
「そうだね。君は、今回の事件の目的は、何だと思うかな」
 榎本は、心に引っかかっていた事を口にした。
「つまり、どこの国が、この事件を起こしたかって事ですか?」
「違う。どこの国かが問題ではない。何を目的にしているかだ」
「今回の事件で被害が無いか、少なかった国が、先進国を崩して勢力を拡大しようとしているとしか、私には分かりません」
 ニュースでも、その観点でしか、論じられていない。犯人さえ見つければ、全てが解決するようなコメントばかりなのだ。
「そうか」
 生返事を返しながら、状況を思い返した。
「今回の事件は、二酸化炭素の排出量を抑えるために実行されたとは思わないか?」
「火力発電所は止まったけれど、原子力発電所は止まらなかったからですか?」
「火力発電所だけじゃなく、溶鉱炉や石油精製施設も、攻撃目標になっている」
「でも、誰がそんなことをするんですか?」
「それは、問題じゃない。この事件の解決の糸口は、二酸化炭素の排出量を減らす努力だ」
「そんなことを言われても、この船だって、二酸化炭素をジャカスカ出すじゃないですか」
「そうだな」
 いずれ、この船も攻撃目標になるのだろうか。
「船長は、この事件の犯人と言うか、謀略をめぐらせている国は、どこだと思いますか?」
「推理小説と同じなら、犯人探しは、一番得をする人物となるわけだが、誰が得をしていると思う?」
「被害が無かった国を調べれば、直ぐに分かりますよ。たぶん、アラブのどこかじゃないですか」
「そうかな。アラブなら、西側諸国以外はターゲットにならない。ロシアや中国、インドまでターゲットにする余力はない。これだけ大規模な事件を起こすには、先進国の技術と国力が必要だが、先進国で被害を免れた国はない。じゃあ、誰が得する?」
「先進国で一番被害が少なかった国じゃないですか? フランスは、大規模な停電は無かったと、ニュースで聞きました」
「一番得をしたのは、地球上に住む全ての生物のように思えないか。二酸化炭素の排出量が減り、温暖化にブレーキがかかれば、人間を含めた全ての生物が得をする」
「荒唐無稽ですよ。生物が、人間に逆襲しているといっているように聞こえますよ」
「そうだな」
 この返事が、決まり文句のようになってきた。
 荒唐無稽。
 その通りだ。
 だから、犯人探しをすることは、問題解決を遅らせることになるのだ。
 二人して、ヘリポートを下りた。甲板手は、「また、やりましょう」と言って、立ち去った。
 船長室に戻り、事務仕事を終わらせた後、ラジオに耳を済ませた。
 放送を聴くと、アジア諸国の中では、日本はマシな方だった。
 もっとも厳しい状況に追い込まれたのは、インドだった。元々、水力発電に適さない地域であり、原子力発電には力を注いできたが、中国を抜く人口に加え、急激な近代化で一般家庭の電力需要が急増し、電力不足による停電が繰り返されてきた。そこへ、この事件が発生したのだ。
 インドよりマシだとは言え、中国も厳しいことには違いなかった。三峡ダムが完成し、電力の供給不安が一段落したように見えたが、一般家庭の電力消費の増加がそれを上回り、供給不安は解消しなかった。
 これに加え、産業振興のために省エネ技術より生産高に重きを置く政策が災いし、生産高に対する消費エネルギーが大きな体質が、電力不足を解消する上で足枷となっていた。結果、比較的建設が簡単な火力発電所を増やし、化石燃料消費でも米国も超えた。
 この状況で、今回の事件が発生した。
 贅沢を覚え、海外の状況を知る者が増えた世論を押さえきれず、産業用の電力を制限し、一般家庭に多く分配せざるを得なかった。
 他の新興国でも、多かれ少なかれ、インドや中国に似た状況だった。
 ヨーロッパでは、脱石油が叫ばれ続けてきたが、二酸化炭素の排出量自体は、それほど減っていなかった。一つには、温室効果ガス削減に、メタンガスを取り込んでいたからだ。しかも、それを牛の数で計算する政略的な計算が、背景にはあったのだ。産業には極力手を入れず、このような政略で計算をあわせようとしてきたのだ。
 今回の事件では、なぜか、二酸化炭素の排出量が多い工場が狙われていて、石油、石炭、天然ガスなどの原料には影響されていなかった。既に、メタンハイドレードの利用が始まっていたヨーロッパでは、これを燃料にした発電所が、最初に停止を余儀なくされた。
 米国とブラジルは、真っ先に穀物輸出を制限した。目的は、エタノールを増産するための準備だった。
 両国とも、発電量の大半を火力に頼っていた。今回の事件では、最大の被害国と言えるかもしれない。停電は全土に及び、暴動が頻発して、軍隊の出動が要請されたほどだ。特に、ブラジルでは、非常事態宣言が発令されるに至っている。
 この二国は、以前から、温室効果ガス削減をエタノールで実現することを目標に置いていた。それは、僅かな改良で、自動車用エンジンがエタノール対応できるからだった。
 彼らの主張では、エタノールを燃焼した排出される二酸化炭素は、植物が大気から吸収した分だけだから、温室効果ガスの排出量は無しとみなせる。だが、彼らは、二酸化炭素吸収力が大きな密林を切り開いて畑に変えたことによる影響を、無視した。
 どの国も、温室効果ガス削減そのものより、温室効果ガス削減を口実にした国益の確保が本心であることは確かだ。だから、あの手この手で、温室効果ガスを削減できたと公表するのだ。
「鍵は、二酸化炭素の排出量を抑えることなのに」
 どこの誰が起こした事件か分からないが、数百年後には、英雄として評価されるかもしれない。破壊活動には違いないが、目的は間違っていないように思える。
 この状況が続けば、合衆国は、犯人を突き止め、若しくはスケープゴートとしての犯人をでっち上げ、掃討作戦に出る危険性がある。有り余る武力を背景に、力で物事を解決する手段を選ぶ危険性が高い。今回の事件で被害を受けた国は、その行為を評価するだろうが、目的は間違っていると言わざるを得ない。
 何が正義なのか、見極めることが難しくなりそうだ。
 榎本は、大学時代を思い出した。
 六大学野球が好きで、よく見に行っていた。伝統の早慶戦は、両校の関係者の盛り上がりに付いて行けなかった。だから、シーズンで一勝を上げられるかどうかという東大の試合を見ることが多かった。
 二年後輩に当たる村岡の勇姿を見たのは、そんな時だった。
 彼の試合は、歯痒い思いで見ることが多かった。ストレートは、軽く百四十キロ台をマークし、スライダーも切れ味鋭いのだが、コントロールが悪く、カウントを悪くすることが多かった。カウントが悪くなると、彼は球を置きにいく。そこを狙い打たれるのだ。
 ただ一度だけ、コントロールが安定し、素晴らしいピッチングをしたことがある。ストレートで押し捲り、高めの釣球で空振りを取ったり、低目への変化球でかわしたりと、バッターを翻弄した。結果、優勝候補チームを散発の三安打で完封し、その日の胴上げを阻止した。
 彼が本気になった時の凄みを、そのピッチングに見た。そして、憧れの存在になった。
 『うりゅう』のスキッパーが発表になった時、プロフィールに東大出身で野球部に所属していたとあったので、あの村岡だと分かった。十数年ぶりに彼の名前を見て、心が踊った。既に、『わだつみ』の船長として竣工間近の『わだつみ』で訓練に明け暮れていた榎本にとって、いつか『うりゅう』の彼と一緒に仕事がするであろうことが、嬉しかった。
 神宮球場以外に、二人の接点はなかった。
 だから、彼が自分のことを知るはずもなかった。
 ところが、何の縁か、今は、彼からの連絡を待つ身になっている。
 一週間前、彼を『うりゅう』に乗り移らせる際には、会うことも、声を掛けることも許されなかった。
 もし、彼が当初の目的を果たした際には、ミサイル引き上げのために、彼から『わだつみ』に対して、連絡が入るはずだ。その時には、運が良ければ、会話できるかもしれない。
 ただ、そう期待したまま、一週間が過ぎた。別府湾に戻る時間を考慮したタイムテーブルでは、三日後には、壱岐の北の海上で、『うりゅう』に燃料補給を行うことになっている。そうなってしまえば、全てが秘密裏に行われるので、彼と話す機会は先延ばしになるだろう。
 三等航海士のお守りを兼ねたパーゼロ勤務を終え、昼食後の報告会で、各部門からの報告を受けた。
 その報告には、期待した便りはなかった。
 当然なのだが、甘い期待は萎んでいった。
「これで、本日の報告会は終わる。オカでは、騒ぎが大きくなっている。情報統制は行うつもりはない。不安なのは、誰も同じだ。不安が任務に影響しないように、各部門とも、課員の相談に乗るように」
 乗組員を信じるしかない。だが、待ちの現状では、不安が増大しがちだ。
「機関部は、総点検をして、機関の保全に注意すること。甲板部は、内火艇や救命艇などの動力を持つ短艇の総点検をすること。以上」
 榎本は立ち上がった。全員がそれに倣った。
 ヘリポートで話した「二酸化炭素を出すところが狙われている」が気になっていた。念のため、総点検を命じたが、意味があるのか、分からなかった。
 オカも気になるが、主機が止まってしまう不安もあった。

       < 次章へ >              < 目次へ >

↑このページのトップヘ