伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 二時間後、隼人は、宙美母子と一緒に、連絡船を降りた。
 直前に、大量に飲んだアイソトニック飲料が、お腹の中でタップンタップン音を立てて揺れている。
 無重力空間では、下半身の体液が上がってしまい、尿で体外に排出される。このまま、重力のある世界に戻ると、下半身に体液が落ち、脱水症状となってしまう。だから、重力がある世界に戻る前に、しっかりと水分を摂っておくのだ。ところが、まだ無重力なので、強引に飲んだ水分は、上へ上へと押し上げ、吐き気を催す。
 隼人は、膨張した胃を感じながら、連絡船のハッチを抜けた。
 飛鳥同様、ドッキングポートは、無重力である。連絡船を降り、ハーフパイプの乗り場まで、狭いトンネルを、手摺を頼りに移動する。
 ハーフパイプは、飛鳥のものより小型で、二.五メートル立方のゲージの中に、十二人しか乗れない。しかし、三十ものサテライトがあるドッキングポートから、重力エリアまで、乗り換え無しで移動できるし、数十基のハーフパイプが行き交うので、乗り場で待っていれば、次から次にやってくる。
 隼人と宙美親子の三人は、日本人街があるオリエント管に向かった。
 オリエント管は、三つあるリングの中で最も北側のリングなので、ドッキングポートから約五キロもある。更に、スポークの中を三.五キロも下らなければならないが、ハーフパイプは、その距離を十分余りで連れて行ってくれる。
 アトランティスは、飛鳥と違い、ドッキングポート以外の総てが自転している。ハーフパイプは、ドッキングポートからシャフトに入る際に、一旦停止する。
 更に、オリエントハブで、スポークへの方向転換する際にも、一旦停止する。ここで、それまでの、無重力空間での水平移動に対し、重力空間での垂直移動に変わる。この時、加速を背中で受けるように、ハーフパイプ自体の向きが変わる。
 スポークに入って直ぐ、隼人は、スペースプレーンがオービターから切り離された直後のような、猛烈な加速を背に感じた。加速で、体が鉛のように重くなり、ベッドに沈み込む感触を覚えた。経験が無ければ、ハーフパイプが暴走を始めたと勘違いしそうだが、これで通常の重力とほぼ同じだった。丸一日の無重力空間での航行が、感覚を狂わせてしまったのだ。
 この加速は、僅か十秒余りで終わり、ベッドが半回転する。それから、約二分、同じ加速が続く。この加速は、本当は減速で、最初の加速で得た速度を利して、三.五キロのスポークを、一気に下るのだ。
 ハーフパイプが停止した時、本当に静止したのか、初めての者には分からないだろう。それまでの加速と変わらない加速感が続いているからだ。ハーフパイプ自体が九十度回転しベッドが垂直になって、漸く重力エリアに到着した事を知るのだ。
 隼人は、すっかり楽を覚えた筋肉に鞭打つように、ハーフパイプを降りた。体は、プールから上がった直後のような重さで、滑り止めの小さな突起にも躓いた。
 降りた場所は、税関の入り口だった。三人は、税関で荷物の検査を受けた。
「隼人君、こちらにいらっしゃい」
 宙美の母の優しい声が、隼人を呼んだ。
 できれば、別々に税関を通りたかった。だが、宙美の母が身元引受人となっている以上、一緒に行動するしかなかった。
「これは、パソコンですか?」
 税関の職員は、業務的な声で、隼人のアタッシュケースの中を見た。
「自作のパソコンです」と小さな声で答えた。
 ひた隠しにしてきたパソコンを、二人には見られたくなかったが、隠しようがなかった。できれば、起動したくなかった。事業団のコンピュータにハッキング紛いの手段で侵入し、しかも総てのパソコンを一時的にロックさせてしまった事がばれないかと、隼人は冷や冷やしたが、税関の職員は、平然と業務を遂行していった。彼は、避難民が、それも特大サイズのパソコンを持ち歩く不自然さなど、一向に気にしていなかった。
 ただ、宙美親子は、怪訝な表情の中に、少しばかり不快感も滲ませていた。税関のチェックが終わったところで、宙美がすたすたと近寄ってきた。隼人は、逃げ場を探したが、そんなものはなかった。
「隼人君、パソコンなんか持ってきたの? それも何十台分もありそうな大きなのを」
 隼人は、頷くしかなかった。
「荷物も二つだし、どうして、二つも荷物を持ってこれたのよ」
「あ、いや、あのね、お父さんの着替えも入ってたから」
 ほとんど、シドロモドロになった。
 管制センターでスペースプレーンに乗る際、重量制限で一人に一つの荷物しか許されなかった。実際、宙美親子は、それぞれ中くらいの大きさのバッグを一つずつしか持っていなかった。
 宙美が、隼人の言葉を信じたかどうかは分からないが、それ以上の詮索はなかった。
 三人は、税関を抜けると、最寄りの周回鉄道の駅に向かった。
「隼人君、兄の家は、Cブロックにあるの」
 アトランティスのリングは、それぞれ六個ブロックがある。そられのブロックは、森林地帯、または住宅地となっていて、交互に配置されている。入出国税関は、森林地帯であるFブロックの地下にあり、その中央からハブに向かってスポークが伸びている。
「周回鉄道で行くんですね」
「良く知ってるわね。そうよ。今から、駅に行くのよ」
 周回鉄道は、リングの最下部を走る高速鉄道で、主としてブロック間の移動手段として用いられる。
 税関を出ると、地下とは思えない巨大な円筒形の空間が待っていた。Fブロックの地下公園である。地下にも関わらず、数基の強い照明によって、驚くほど明るく照らされている。
 ドーム状の天井の高さは、五十メートル以上はあるだろう。直径も、二百メートルを軽く越える。中央には、巨大な柱のように、スポークが貫く。その周囲に、官庁の窓口が並んでいる。
(スポークって、こんなに太かったんだ)
 スポークの直径は、七、八十メートルあるだろうか。天井の高さに比べて幅があるので、特に太さを感じるが、本当の長さが三千五百メートルもある事を考えると、糸のように細いと言うべきかもしれない。
 リングは、スポークで支えているわけではない。スポークは、自重に耐える以上の強度は持たない。リングは、それ自体の強度で形状を維持している。リングには、自転による遠心力が働いているが、張力に強い素材で、それにも1気圧の内圧にも耐える構造になっている。一種の柔構造で、構造的には軟式飛行船に近い。
 スポークを中心にした地下公園は、イギリス庭園のように、幾何学状に通路と植栽、花壇等が配されている。全体が円形なので、中の模様も円が基調になっている。少し高い所に上がれば、ミステリーサークルのように見える筈だ。
 三人は、回廊となっている官庁前の通路を歩き、周回鉄道の駅に降りるエレベータホールを探した。
 隼人達の前にも、そして後ろにも、重い足を引き摺る避難民の姿があった。彼等は、薄汚れており、目も空ろで、足取りも重い。誰が見ても、普通ではないと感じるのではないだろうか。
(僕も、彼等と同じ様に見えるんだろうな)
 隼人は、恥ずかしくなった。
 三人は、エレベータで、地下の周回鉄道の駅に着いた。
 隼人は、避難民に配られたクレジットカードを手に、切符を買おうとした。
「待ちなさい、隼人君。あなたのクレジットは、これから必要な事がある筈だから、今は仕舞っておきなさい。ここは、私が買うわ」
「でも……」
「そんなに気になるんなら、社会人になった時に、あなたの稼ぎの中から返してくれればいいわ。そう、出世払いよ。だから、私が傍に居る間は、あなたは、そのクレジットを使わないようにしなさい」
 隼人は、深々と頭を下げた。
 周回鉄道は、六十人乗りの車両一両のみのリニアモーターカーで、自転と逆方向にのみ走っている。
 リング内には、九箇所の駅があり、並行に八路線が走る。路線毎に、各駅に停まる列車、一駅置きに停まる列車、二駅置きに停まる列車といった具合に、通過する駅の数が決まっている。このため、路線毎に、事実上の行き先が決まる。乗り間違いを除けば、停車駅毎に全乗客が入れ替わる。だから、片面に十箇所のドアが並び、乗降性を確保すると共に、三分間の停車時間がある。
 各路線毎に九両の列車が同一線路上にあり、全駅で同時に発車し、同時に停車する。各駅に停車する路線では、五分足らずの間隔で運転しており、最も通過する駅が多い路線でも、十分足らずの間隔での運転となっている。
 思いの外、便利な交通機関である。
 自転と逆方向に高速で走るので、実質の自転速度が遅くなり、重力が小さくなる。自転速度は、およそ秒速百九十メートルだが、周回鉄道は、秒速四十五メートルまで加速するので、重力は七分の四くらいまで小さくなる。
 三人が乗ると、一分もしない内に最高速に達し、体も軽くなった。
『御乗車ありがとうございます。目的地のCブロック第二駅までは、四分足らずの御案内となります』
 合成音声によるアナウンスが流れた。
「地球の重力も、これくらいだったらいいのに」
 ハーフパイプを降りて以来、自分の体の重さに辟易としていた隼人は、弱音を吐いた。
「こんなに弱かったら、体も弱くなっちゃうわよ」
「でも、これくらいなら、走れるし、ちょうどいいと思うんだけど」
「無重力よりは、マシね。無重力だと、下手に浮いちゃうと、誰かに助けてもらうまで、空中を漂ってしまうものね」
 飛鳥の欠点である静止エリアから自転エリアへの乗り移りも、地上と同じ重力があれば、エスカレータの乗り降り程度にしか感じないだろう。だが、無重力だと、手で移動せざるを得ないので、ああいった乗り移りも、充分な慣れを必要とする事になる。
『……グゥー……』
「今のは、何の音?」
 隼人は、恥ずかしくて、自分のお腹の音だとは言えなかった。
「お腹がすいたでしょう。日本も、飛鳥も、日本時間を使っているし、今はサマータイムだから、こことの時差は二時間になるものね。もう、十二時を回っている事になるわ」
 隼人は、素直に頷いた。
 彼女は十二時と言ったが、腕時計は十時を指していた。電波時計の信号を受信し、その土地の標準時に自動的に合わせる機能があるからだ。
 三連のドーナツ管は、それぞれ八時間の時差がある。これは、太陽光を有効に利用し、かつ、役所や工場等の設備を有効に機能させるためである。オリエント管は、日本に近い東経百二十度の子午線に合わせた標準時を採用している。ユーロ管は、ズールー時(グリニッジ標準時)、アメリゴ管は、アメリカ西海岸の標準時を採用している。
 オリエント管は、日本や飛鳥とは一時間の時差がある。特に、サマータイムを採用している現在は、二時間の時差になる。でも、これくらいの時差なら、ほとんど意識しないで済む。ただ、腹時計は正確で、お腹がすいてたまらなかった。
 列車が、Cブロック第二駅に着くと、三人は、エレベータで地上に出た。
 アトランティスに来て初めて、地上の空気に触れた。出た場所は、湖畔の公園だった。気象スケジュールは見ていなかったが、真夏の日差しが照りつける快晴だった。見上げると、真上に太陽が輝き、湖面はそれをきらきらと反射していた。
 直ぐ脇には、大きな電子掲示板があり、人物の顔と名前、略歴と公約が表示されていた。どうやら、選挙の真っ最中らしい。
「思ったほど、暑くないのね。助かるわ」
 宙美の母は、眩しそうに空を見上げた。
「ほんと。涼しいくらいだわ。高原に居るみたい」
「緑が多いからだよ」
 一周が二十キロメートルに及ぶアトランティスの内部は、濃い緑に覆われている。高層建築は全く無い。住宅や病院、学校等を除くと、大部分の建物は、地下に存在する。道路も、鉄道も、地下に押し込められている。そのせいで、家々の間も、総てが緑の林で覆われている。
 さわやかな空気と、木々の中にぽつんぽつんとしか見えない住宅は、高原の別荘地に着いたような気分にさせる。
「折角だから、湖畔で、食べましょうか」
 宙美の母は、地下のハンバーガー店で三人分のハンバーガーとジュースを買うと、また、地上に出てきた。三人は、湖畔のベンチに座り、ハンバーガーに齧り付いた。
 ここの湖水は、リングの重量バランスを適正化するため、常に水位を調整している。また、二酸化炭素を吸収する役目も担っている。
 その水面を、風が細波を作りながら吹き抜けていった。
「あっ、魚が跳ねた!」
 宙美が叫んだ。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ。今の見た? 大きな魚が、跳ねたのよ!」
「見逃しちゃったよ。本当に、大きかった?」
「本当よ。なんで、見てなかったのよ。見てたら、大きかったのが分かったのに」
 彼女は、手振り身振りで、魚の大きさを説明した。
「宙美。早く食べなさい。大地君を待たせてるのよ。それに、魚の大きさなんかどうでもいいじゃないの」
 宙美は、文句を言いたそうだったが、手に持ったハンバーガーを口にした。
 その時、三人の目の前で、魚が跳ねた。小さな魚だったが、尾が水面を叩き、大きな水飛沫が上がった。
「小さいね」と、隼人は皮肉たっぷりに言った。
 宙美は、膨れっ面のまま、残りのハンバーガーにかぶり付いた。

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  国際スペースコロニー

  - 1 -

 地球と月の重力が産み出す五つの安定な点、ラグランジュポイント。その一つ、L4と呼ばれる宙域に、国際スペースコロニー・アトランティスは、浮かんでいる。
 アトランティスと飛鳥を結ぶ連絡船の八人部屋に押し込められた隼人は、カイコ棚のようなベッドから抜け出し、減速のために生じた僅かな重力を感じながら、船室から廊下へと出た。
 飛鳥では、他の大勢の男達と同様、廊下に雑魚寝をした。マットも、毛布も無く、宙美の母が、不憫に思ってかけてくれた上着に、母の匂いと温もりを感じながら、小さく丸まって寝た。
 目覚めは、最悪と言ってもよかった。
 硬く冷たい廊下で寝たから、体重が掛かっていた腰や肩や脇腹が痛み、節々は硬くなってしまっていた。枕が無かったせいで、首も寝違えた。それに加えて、頭痛がした。体を起こすと、軽い吐き気も感じた。
「二酸化炭素の濃度が上がってるんだ」
 吐き気を堪えながら、ポツリと呟いた。
 二酸化炭素が、空気より比重が重い事を思い出し、床付近の空気より高い場所の空気の方が濃度が低いのではと、ふらつく足を踏ん張った。
 ほとんどの人は、まだ寝ていた。時計の針は、午前六時半を指していた。三時間ほどしか寝ていなかったが、もう一寝入りする気にはなれなかった。
 立ち上がって見ると、廊下の中央付近に、細い道ができていた。廊下は狭いので、通路と直交すると、人が通るスペースが無くなってしまう。人々は、管状の廊下の両側の壁にもたれ掛かるように、あるいは寄り添うように寝ていた。だから、廊下の中央は、細い道として残されていた。
 廊下は、飛鳥の自転による風が流れていた。隼人の記憶では、空調装置は、エレベータホールの地下部分にある筈で、そこに新鮮な空気を放出している。そこまで行けば、ここより少しはおいしい空気が吸えるのではと、人々の枕元をそろそろと歩いた。
 広いエレベータホールに入っても、床には人々が転がっていた。廊下よりも広いせいで、思い思いの方向に寝ているものだから、廊下以上に歩きにくい状況だった。
 ただ、廊下に近いところを通り抜けると、人が立ち入らないように整理していたのだろう。昨日のままに、整然と椅子が並べられていた。その片隅で、昨日と同様に、受付の女性係員が居て、パソコンを開いて、今日の仕事の準備をしているようだった。
 飛鳥に非難してきた被災民の全員が、宇宙移民センターの関係者だ。必然的に、スペースコロニーに親類縁者が居る場合いが多い。中には、自宅を持つっていて、内之浦に転勤できていた者も居るくらいだ。
 既に、紹介センタの職務は終わっている。受付の仕事と言うより、昨日の残務と言うべきか、それとも移動のための臨時便の調整等、職務外の作業なのか。とにかく、こんな早朝から仕事を始めているのは、彼女にとっても初めての経験だろう。
 隼人は、彼女に向かって、一歩、二歩、歩み寄った。
 宙美たちの申し出を断り、一人で生きていける場所を紹介センタに相談しようかとも思った。
 自分からお願いしたわけではなく、神戸家から一緒に申し出があったのだが、策略を巡らし、もったいぶった上で受けた背信が、隼人の心にわだかまりを作っていた。
 しかし、隼人の気配に気付いて係員がパソコンから目を上げた時、彼は視線を外した。
 そのまま、自然体を装って、彼女に近付いた。
「アトランティスに向かう臨時便の搭乗時刻は、何時ですか?」
「11時10分に出航しますから、30分前の10時40分までに、こことは反対側のエントランスホールにお越しください」
 彼女は、事務的に答えた。
「ありがとうございます」と言って、その場を立ち去った。
 早朝にも関わらず、妙に冴えた目で、彼女を見つめ返した後、隼人はその場を去った。
 飛鳥での一晩と同様に、昨夜も、ゆっくりと寝られなかった。地球を脱出してからの二晩は、途切れる事の無い悪夢のように、隼人から安眠を奪った。
 定期連絡船内のベッドはカプセル状になっていて、浮遊防止のスライドドアを締めれば、最低限のプライバシーは確保できた。しかし、見知らぬ年老いた男達と同室になり、落ち着けなかった事に加え、これからの事を考えると、気が重くなった。
 その要因の大部分を、宙美の従兄弟の家に居候する事と、決断に至る身勝手さに対する後悔や、影に下心が潜む後ろめたさが占めていた。
 会った事も無い宙美の伯父と従兄弟。
 父と同じ宇宙移民事業団で働いているらしい。「梅原」と言う姓は、父から聞いた事があるが、父がどんな風に言っていたのか、思い出す事もできないでいた。
 そんな人達の前に、どんな顔で行けば良いのか、どんな風に挨拶をすれば良いのか、どんな風に居候をお願いすれば良いのか、見当も付かなかった。
 船室では、同室の老人達が、不安を酒で紛らわそうと、酒宴を開いていた。最初は、静かに飲んでいた男達だが、酔いが回ってくると段々と声が大きくなり、やがて怒声と歓声と入り交じる宴となった。
 そんな船室のベッドの中で、色々と考えを巡らせながら、中々寝付けずに悶々としていた。
 父の生存は、絶望的と理解していた。母と姉の安否は、確認の術さえない。この世に、唯一人だけ取り残された不安は、拭い切れなかった。幸い、状況を理解できない年齢ではない。一人で生き抜けない年齢でもない。だが、身元引受人となってくれた梅原氏の厚意に、どこまで甘えれば良いのか、迷いがあった。
(中学を卒業したら、夜学に通おう)
 体力には自信がないが、頑張れば、昼の仕事と夜の勉強を両立させられるだろう。
(できなきゃ、夜学は辞めればいいし……)
 そうは考えるのだが、父のような技術者になりたいと考えていた隼人には、進学を諦める事は決心し兼ねる問題だった。
 何度かまどろんだが、時計の針が朝の六時をまわった時、男達の人いきれで空気が淀む船室を抜け出し、廊下に出た。そして、短い廊下の先のロビーに向かった。
 アトランティスに向けて、減速を始めているらしく、極弱い重力を感じた。だから、足で床を蹴って進む。ただ、軽く蹴っただけでも、脚力に比べれば無いに等しい重力なので、体は宙を舞う。
 船内は、どこに行っても、換気のためのファンが騒々しく、神経を逆撫でる。無重力下では、空気は対流を起こさないので、それを補う目的でファンが稼動している。
 ロビーも、その点では、船室と同じだが、ここだけは、微かに芳香が流されていて、逆立った神経を沈めてくれた。
 そのロビーには、早朝にも関わらず、数人の男女が、大スクリーンに映し出される国際スペースコロニー・アトランティスに見入っていた。その中に、宙美の姿を見付けた隼人は、宙美の母も居ないかと探しながら、宙美に近付いた。
「神戸さん、おはよう」
「あら、隼人君。おはよう」
「今朝は、お母さんと一緒じゃないんだね」
「まだ、寝てたわ。疲れが出たんだと思うの。だから、起こさないように、そっと出てきたの」
 宙美親子は、同じ様に母娘の二人連れと同室だった。
 宙美は、長い黒髪を三編みにしていた。三編みにしても胸まで届くほどの長い髪は、無重力に近いロビーの空気の中で、柔らかく宙に揺れていた。
「この髪、気になる?」
 彼女は、隼人の視線に気付いたらしく、三編みの先を指先で弄んだ。
「無重力だと、髪の毛が縺れ易いの。だから、こうして三編みにするのよ」
「女の子には、無重力も大変なんだね」
「そうでもないわ。慣れれば、簡単よ」
(無重力だと、スカートの裾も捲れて、大変なんだろうな)
 隼人の視線が、彼女の足元に流れた。それを敏感に感じ取った彼女は、「残念でした。ジーンズよ」と、ウィンクした。
 彼女に下心を見抜かれたような気がして、顔を赤らめた。
 彼女とこんなふうに話す事は、地上に居る時にもなかった事だ。彼女と話す事で、隼人は、家族を失った事実から、一瞬でも遠ざかる事ができた。
 大スクリーンの中で、アトランティスは徐々に大きくなっていた。特徴的な三連のリングと、それを突き刺すシャフトから構成されるアトランティスは、大気の散乱の無い宇宙空間では、細部に至るまでシャープに見え、その巨大さを感じさせない。
 宙美の視線は、そのアトランティスに釘付けになっていた。
「神戸さんは、アトランティスに行った事はあるの?」
「七年くらい前、まだ、リングが一つしかなかった頃に、一度だけ来た事があるの。隼人君は?」
「今度で四回目だよ。二年に一回くらいの割合かな。最初に来た時は、二つ目のリングが建設中だった。二度目は、三つ目が建設中で、全体が完成してからは、一度しか来たことがないよ」
 数学者ラグランジュが、三体問題の解として見つけ出したラグランジュ・ポイント。
 ここは、地球と月の重力が産み出すラグランジュの第四ポイント、通称L4だ。
 この空間に浮かぶのは、世界最初のスペースコロニー、アトランティス国際スペースコロニーだ。現時点では、三連のドーナツ型コロニーが一基あるだけだが、百年後には、更に巨大なコロニー十数基が、この空間に浮かぶ事になる。総人口は、現在の六百倍以上の一億人にも膨れ上がる。
 L5でも、並行してコロニーの建設が進んでいる。現在は、アトランティスと同型のパシフィックがあるだけだが、L4と同様、十数基のコロニーが列を成す事になる。月や火星表面に建設されるコロニーも合わせると、一世紀後の宇宙人口は、十億人を越えると予想されている。来世紀は、文字通り、宇宙の世紀となる。
 大型スクリーンは、アトランティスの三連のドーナツ型スペースコロニーを映し出している。
「以前に来た時には、飛鳥に似てるなって思ったけど、随分、雰囲気が変わった気がするわ」
「リングが三つに増えたからね。それに、飛鳥は、太陽光を反射するように白く塗られているけど、ここはリングの外側が太陽電池パネルになっているから、藍色に見えるしね。でも、最大の違いは、大きさだよ。リング外側の直径は七千六百メートルと、飛鳥の六十倍以上もあるし、リング自体の管の直径も九百メートルもあって、飛鳥のリングの一番太い部分と比べても、百倍以上だ。
 三本のリングを繋ぎ止めるシャフトは、全長六千五百メートルもある。三本のリングの内部の有効面積の合計は、五十三平方キロにもなるんだ。それを照らすミラーは、アトランティスの北天に主鏡、リングの内側に副鏡を配置してあり、主鏡の直径は七千九百メートルだ。そして人口は……」
「十五万人ですもの」と、宙美が割り込んだ。
 隼人は、知ったかぶりをしていた自分が、恥ずかしくなった。
「流石、宇宙移民事業団の子弟!」
 恥ずかしさを誤魔化すために、わざと宙美を持ち上げた。
 数字を上げてみても、大型スクリーンの映像からは、相変わらず、その巨大さが伝わってこない。
 このアトランティスのリングを地上に寝かせたなら、リングの両端は、東京駅から新宿駅を越え、立てれば、富士山の二倍に達する。二十世紀末までに地上に建設された総ての建造物は、アトランティスの中で、天井にぶつかる事も無く納まってしまうのだ。そんな比較をしても、アトランティスの巨大さは、俄かに信じ難い。
 真っ暗な宇宙を背景にして浮かぶアトランティスは、人類の理想郷とすべく、生産のリサイクル機構から生態系まで、総てを人工的に作り上げた人類初の構造物である。内に秘めた機能と理想は、神々しいまでの藍色の輝きを帯びていた。
 荘厳さを湛える圧倒的な存在感は、隼人の瞼に鮮明に焼き付いた。
 すうと、体重が抜けるのを感じた。減速度が小さくなり、ほとんど無重力に戻ってしまったのだ。
「隼人君、もうすぐドッキングよ」
 宙美の元気な声が、大型スクリーンをぼうっと見ていた隼人に飛んでくる。
 宙美は、屈託の無い笑顔を見せていた。
 元々、宙美は、この笑顔の魅力で、クラスでも人気者だった。誰もが素直になってしまう笑顔と、明るく闊達な性格、そして愛らしい表情で、男子生徒はもちろん、女生徒や先生にまで人気があった。
 それが、今回の小惑星落下事故で、すっかり変わってしまった。あの笑顔は、スペースプレーンの機内以降、一度も見る事ができなくなっていた。
 今、彼女は、以前に地上で見せていたのと同じ笑顔をしている。少し表情が硬いような気もするが、少し吹っ切れたのだろう。隼人は、くよくよと思い悩んでいる今の自分を反省した。
「見習わないとね……」
「えっ、何を?」
 彼女の笑顔は、怪訝な表情に変わってしまった。
「神戸さんの笑顔だよ」
 自分で言っておきながら、恥ずかしさで顔を赤らめた。
 彼女は、もう一度、あの笑顔を見せた。彼女の笑顔は、隼人の悩みも雲散霧消させた。

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