- 5 -
三人は、固まって下校した。
学校の校門も、地下にある。そこから、一般の地下道へと出て行く。地下道は、地下とは思えない程、照明で明るく照らされていた。所々で、壁が横穴のように外に向かって開いている。そこから、傾いた陽の光が降り注いでくる。横穴から覗くと、谷に向かう傾斜の中に、家々の屋根が見えた。
総てが人工的に作られているのに、なぜか、清々しい気持ちになれた。担任が、真剣に取り組もうとしてくれている姿が、頼もしく思い出された。
明日は無理でも、来週には改善されるだろう。
隣を歩く大地の横顔が、頼もしく見えた。
「大地君は、弁護士になるべきだよ。大地君が弁護士なら、被告人も安心できるよ」
大地は、首を振りながら笑った。
帰るのが遅くなっていた。だから、周囲には、学生の姿はなく、希に人が通り過ぎるだけだった。
「大地君は、検事になりたいんだよね。以前、そう言ってたもの」
彼は、いつもと変わらない足取りで、歩き続けた。
「へぇ、そうなんだ。大地君は、検事になりたいんだ。でも、どうして検事なんだい?」
横穴の日溜まりを、また通り抜けていく。暑さは残るものの、初秋の日差しは、肌を優しく照らした。
「僕が検事になりたい理由は、弁護士よりも検事の方が、裁判をリードしやすいからなんだ。一言で言えば、弁護士は求刑できないからなんだ」
「どういう事?」
「裁判は、被害者側に検事が、加害者側に弁護士が立つ。実際の裁判だと、弁護士が加害者の人権を守るんだが、被害者の人権はおざなりになりがちなんだ。僕は、被害者の立場に立って、加害者を断罪し、情状を酌量した上で求刑したいんだ。最終判断は、判事が行うけど、裁判をリードしていくには、加害者からも被害者からも話が聞け、被害者の人権を守る事ができ、求刑もできる検事の立場が、僕には向いていると思うんだ」
感心するしかなかった。彼は、もう将来の事を決めているんだ。そして、彼なら実現できるだろう。色々な困難や疑問も出てくるだろうが、彼なら、真正面から立ち向かいつつ、乗り越えていくだろう。
隼人は、大地を羨ましく思った。
「隼人君は、警察官になれよ」
「えっ?」と、言ったのは宙美が先だった。
「君には、警察官が向いている。僕が言うんだから、間違い無いよ」
大地が言うんだから、確かに間違いはないかもしれない。彼は、どんな場面でも、嘘は言わないし、深く考えて言葉にする。いい加減な成り行きで、警察官という言葉は出していないだろう。
「でも、僕なんか、警察官から一番遠い所に居るよ。体は小さいし、弱いし、大地君のような正義感も無いし」
「大丈夫。君には、君の得意分野で頑張ればいいんだ。君は、コンピュータが得意だよね。それも、ネットワークの中を渡っていく事が」
「知ってたの?」
隼人は、大地と宙美の顔を交互に見た。
「ああ、宙美から聞いていたんだ」
宙美は、地上に居る時から、ネットサーフィン……と言うより、ハッキング紛いをしている事を、薄々感づいていた筈だ。そこへ、地球脱出時にも後生大事にパソコンを抱えていたのを見たのだから、勘の良い彼女は、確信したに違いあるまい。
だが、事業団のコンピュータの不正使用までは、正直に答える気持ちにはなれなかった。
「お父さんが、隼人君の成績を見て、驚いていたよ」
「?」
あまり自慢できる成績ではない筈だが。
「何に驚いたか、不思議なんだろう?」
「うん」
「隼人君の成績が、極端に片寄っているんで、驚いたらしいんだよ。お父さんは、隼人君を天才かもしれないって、驚いていたよ」
「僕が天才? 僕が天才なら、大地君は神様だよ。お父さんは、きっと、僕の成績が目茶苦茶に悪かったから、驚いたんだよ」
「ははは。語学と社会は全然駄目だとも、言ってたな」
その通りだった。
「それから、音楽と体育もだ」
それも、間違い無かった。運動音痴に、本物の音痴。音楽と体育が、学校の授業から無くなれば、どんなにいいだろうか。隼人は、いつもそう思っていた。
しかし、大地に成績を知られていたとは、穴があったら逃げ込みたいくらい恥ずかしい。
「そうなのよ。隼人君は、地上に居た時から、理数系だけが得意だったのよ。他は、見てる方が恥ずかしくなるくらい、全然、全く、どうしようもないくらい、できなかったわ」
彼女は、これでもかと、成績が悪い事を強調して言った。
「でも、死んだお父さんも言ってたけど、語学や社会は、記憶の科目だから、努力次第で成績が決まるって。努力の度合いを測るのにいいけど、才能を測るなら、下手な知能テストより、理数系の成績を見た方がいいって言ってたわ。理数系は、努力より、才能が出易いって」
「うちのお父さんも、同じ事を言ってた。努力の科目と、理数系の科目の成績の差があればあるほど、才能を持っているんだって。だから、隼人君には頑張って欲しいって言ってたよ」
隼人は、少し面映ゆい気持ちになった。
「二十世紀前半に活躍した天才物理学者のアインシュタインも、実はね、チューリッヒ連邦工科大学の入試で失敗するような、落ちこぼれだったんだ。後年、この大学に入学できたんだけど、物理研究室の成績は、なんと最低レベルの一だったそうだ。でも、この年の電気技術の成績は、最高レベルの六だったというから、興味が有るか無いかで、成績が大きく変ったようだね。そして、彼は、電磁気学の研究から、あの有名な相対性理論を導き出したんだ」
確かに、隼人も、興味のある科目は成績が良く、興味の無い科目は成績が悪い。でも、二十世紀最高の天才と言われるアインシュタインと同じだとは、どんなに己惚れても言えそうに無い。
「さっきは、僕の希望を言ったけど、隼人君は、将来は何になりたいんだい?」
隼人は、言ったものかどうか、逡巡した。
彼には、一つの夢があった。それは、恒星間旅行だ。できれば、自分で設計した宇宙船に乗って、恒星間旅行をしたかった。目標の恒星系は、エリダヌス座のε星か、クジラ座のτ星だ。
でも、余りにも壮大なので、笑われそうに思った。
「あのぉー」
隼人は、思い切って言ってしまおうと、二人に恐る恐る声を掛けた。
その瞬間、隼人の身体は、勢い良くつんのめった。
最初のは、何が起こったのか、さっぱりわからなかった。隼人は、大地と宙美の間を擦り抜け、その先の地面に頭から突っ込んで行った。辛うじて手を着いたが、膝は、したたか地面に打ち付けた。
打ち付けたのは膝なのに、なぜか、背中に鈍痛がある。
「何をするんだぁ!」
大地の大きな声が聞こえた。続けて、鈍い音がして、大地のうめきが聞こえた。
隼人は、立ち上がろうとしたが、横から脇腹を蹴り上げられ、仰向けに転がった。息が詰まった。苦しくて、身を捩っている所に、今度は、お腹を踏みつけられた。二、三度、踏まれた後に、胸座を掴まれて引き立てられた。よろめきながら立ち上がったところを、左の頬を思い切り殴られた。
目の前を、星が飛んだ。
また、胸座をぐっと持ち上げられたので、また殴られると思って、思わず両手で顔を庇った。すると、今度は、執拗に胸や腹を下から打ち上げるように殴られた。胸を殴られると息が詰まり、腹を殴られた時には、吐きそうになった。
相手は、殴り疲れたのか、横に居た別の男に、胸座を掴んだまま引き渡した。隼人は、引き摺られるようにして、その男の前に立たされた。そして、両手で胸座を掴んで引き上げると、小柄な隼人が爪先立ちになるほど引き寄せた。
目の前に、高校生くらいの男の顔があった。
隼人は、ぷいと横を向いた。その視線の先では、大地が、数人の男に囲まれながらも、宙美の前に立ち塞がり、彼女を守ろうとしていた。
「宙美! 僕の後ろに隠れて!」
大地の鋭い声が飛ぶ。宙美は、悲鳴を上げてながら、大地に振り切られまいと、必死に背中に隠れようとしていた。
大地は、男達の拳や蹴りを躱し、時には体で受け止め、彼女を守ろうとしていた。大地の身のこなしは滑らかで、殴り掛かった男達の方がバランスを崩す場面が多かった。ただ、大地は、躱す事はするが、決して反撃には出なかった。
「おい、連れの様子を見物するとは、余裕があるじゃねぇか」
男は、もう一度、隼人を引き寄せると、右手をぐっと引いた。
隼人は、また殴られると思い、両手で顔を庇った。
「そっちじゃねぇよ」
そう言うと、男は、鳩尾の当たりを膝で蹴り上げた。息が全くできなくなり、目の前が暗くなった。顔を庇っていた手は、無意識の内に腹を押さえていた。
「今度は、こっちだぁ!」
男は、体重を乗せたパンチで、隼人の顔を殴り降ろした。
隼人は、一瞬、意識が飛んだような気がした。気が付くと、右膝を地面についていた。
「まだ、ねんねは、早ぇんだよぉ」
胸座を掴み直し、隼人は立たされた。膝は、がくがくし、思うように踏ん張れない。頭はふらふらし、焦点も定まらなかった。
(脳震盪だ。これ以上殴られたらヤバイ!)
隼人は、必死で頭を庇った。
男は、それを見ると、膝で何度も腹を蹴り上げた。隼人は、目一杯の力をお腹に入れて、それに耐えた。そして、頭を庇っている両手を、耳の位置から下げないように頑張った。
「くそぉ!」
男が苛つき始めているのが、隼人にも分かった。
今度は、何されるんだろう? 背中を殴られるんだろうか? それとも、棍棒か何かで殴られるんだろうか?
不安と恐怖が、隼人の心をかき乱していた。
「おめぇがその気なら」
男は、隼人を軽く突き放した。
もしかしたら、諦めたのだろうか?
隼人は、ほんの一瞬、気を緩め、両手で顔を庇ったまま、顔を上げた。
男は、諦めていなかった。左足を大きく踏み込むと、サッカーボールを蹴るような勢いで、右足を振り切り、爪先で隼人の腹を蹴り上げた。
隼人の体は、小さく宙を舞って、そのまま頭から地面に落ちた。
「オゲェー!!!」
声じゃなかった。胃から突き上げられた物が、そのまま喉を震わせながら、口から吹き出した。酸っぱい匂いの中に、血の匂いが微かに混じっていた。
「隼人君!」
大地は、回りの男を跳ね除け、隼人に駆け寄った。
「大丈夫かい?」
覗き込む大地に、隼人は、苦しさで肯く事さえできなかった。それどころか、また、臭いゲップと一緒に、胃液が込み上げてきた。隼人は、ゲェゲェ言いながら、血の混じった胃液を吐いた。
大地は、隼人の背中を摩りながら、顔を覗き込んだ。
「きゃっ!」
宙美の悲鳴が、背後で聞こえた。同時に、ボコンと言う音がした。ついさっきまで、大地が守っていた彼女が、誰かに殴られたらしい。
大地は、慌てて振り向いて、宙美の様子を確認した。
「きっさっまっらー!」
大地の顔色が、瞬時に変わった。まるで、大魔人のように、見た事も無い恐ろしい形相で、すっくと立ち上がった。
余りの凄まじい形相に、男達の動きが止まった。
大地は、一番近くに居た男を捕まえると、有無を言わさず、拳を振り下ろした。男は、すっ飛んだ。殴られた本人が、事態が掴めず、驚いた顔をして立ち上がろうとしたが、脳震盪を起こしているらしく、酔っ払いのような千鳥足になり、そのまま座り込んだ。
大地は、それには見向きもせず、二人目を男を捕まえた。その男は、反撃に出たが、大地は、それを軽く躱すと、右の拳を男の腹部に叩き込んだ。隼人には、男の体が浮かび上がったように見えた。男は、隼人と同様に、ゲェゲェ言って、胃液を吐いた。
大地は、早くも三人目を捕まえていた。男達は、四、五人で囲んで、袋叩きにしようとしたが、大地は、いくら殴られようと意に介さず、一人ずつ確実に殴り倒した。あっと言う間に、五、六人の男が、大地の足元に転がった。
残った男達は、棍棒やナイフを手に、再び大地を囲んだ。大地は、軽くステップを踏むと、さっと身を沈めて、ナイフを持っている男の足を払った。男は、スローモーションのように、ゆっくり空中で半回転し、上半身から落ちた。大地は、さっと近付くと、ナイフを蹴り飛ばして馬乗りになり、左の拳を男の右頬に叩き込んだ。男は、一発で意識を失った。
大地は、残った男達に振り向いた。
「いいか、覚えとけ。今度、彼女に手を出したら、今日みたいな手加減はしない。命は無いと思え!」
(これでも、まだ手加減しているなんて)
隼人は、頼もしさよりも、怖さを感じた。
大地の迫力に、男達も気圧されていた。素手の大地が一歩近付くと、ナイフや棍棒の武器を持った男達は、二、三歩下がった。やがて、「覚えとけ」の決まり文句と共に、走って逃げた。数人の仲間を残したまま。
大地は、宙美に駆け寄り、怪我の状態を確認しながら、抱き起こした。
学校の校門も、地下にある。そこから、一般の地下道へと出て行く。地下道は、地下とは思えない程、照明で明るく照らされていた。所々で、壁が横穴のように外に向かって開いている。そこから、傾いた陽の光が降り注いでくる。横穴から覗くと、谷に向かう傾斜の中に、家々の屋根が見えた。
総てが人工的に作られているのに、なぜか、清々しい気持ちになれた。担任が、真剣に取り組もうとしてくれている姿が、頼もしく思い出された。
明日は無理でも、来週には改善されるだろう。
隣を歩く大地の横顔が、頼もしく見えた。
「大地君は、弁護士になるべきだよ。大地君が弁護士なら、被告人も安心できるよ」
大地は、首を振りながら笑った。
帰るのが遅くなっていた。だから、周囲には、学生の姿はなく、希に人が通り過ぎるだけだった。
「大地君は、検事になりたいんだよね。以前、そう言ってたもの」
彼は、いつもと変わらない足取りで、歩き続けた。
「へぇ、そうなんだ。大地君は、検事になりたいんだ。でも、どうして検事なんだい?」
横穴の日溜まりを、また通り抜けていく。暑さは残るものの、初秋の日差しは、肌を優しく照らした。
「僕が検事になりたい理由は、弁護士よりも検事の方が、裁判をリードしやすいからなんだ。一言で言えば、弁護士は求刑できないからなんだ」
「どういう事?」
「裁判は、被害者側に検事が、加害者側に弁護士が立つ。実際の裁判だと、弁護士が加害者の人権を守るんだが、被害者の人権はおざなりになりがちなんだ。僕は、被害者の立場に立って、加害者を断罪し、情状を酌量した上で求刑したいんだ。最終判断は、判事が行うけど、裁判をリードしていくには、加害者からも被害者からも話が聞け、被害者の人権を守る事ができ、求刑もできる検事の立場が、僕には向いていると思うんだ」
感心するしかなかった。彼は、もう将来の事を決めているんだ。そして、彼なら実現できるだろう。色々な困難や疑問も出てくるだろうが、彼なら、真正面から立ち向かいつつ、乗り越えていくだろう。
隼人は、大地を羨ましく思った。
「隼人君は、警察官になれよ」
「えっ?」と、言ったのは宙美が先だった。
「君には、警察官が向いている。僕が言うんだから、間違い無いよ」
大地が言うんだから、確かに間違いはないかもしれない。彼は、どんな場面でも、嘘は言わないし、深く考えて言葉にする。いい加減な成り行きで、警察官という言葉は出していないだろう。
「でも、僕なんか、警察官から一番遠い所に居るよ。体は小さいし、弱いし、大地君のような正義感も無いし」
「大丈夫。君には、君の得意分野で頑張ればいいんだ。君は、コンピュータが得意だよね。それも、ネットワークの中を渡っていく事が」
「知ってたの?」
隼人は、大地と宙美の顔を交互に見た。
「ああ、宙美から聞いていたんだ」
宙美は、地上に居る時から、ネットサーフィン……と言うより、ハッキング紛いをしている事を、薄々感づいていた筈だ。そこへ、地球脱出時にも後生大事にパソコンを抱えていたのを見たのだから、勘の良い彼女は、確信したに違いあるまい。
だが、事業団のコンピュータの不正使用までは、正直に答える気持ちにはなれなかった。
「お父さんが、隼人君の成績を見て、驚いていたよ」
「?」
あまり自慢できる成績ではない筈だが。
「何に驚いたか、不思議なんだろう?」
「うん」
「隼人君の成績が、極端に片寄っているんで、驚いたらしいんだよ。お父さんは、隼人君を天才かもしれないって、驚いていたよ」
「僕が天才? 僕が天才なら、大地君は神様だよ。お父さんは、きっと、僕の成績が目茶苦茶に悪かったから、驚いたんだよ」
「ははは。語学と社会は全然駄目だとも、言ってたな」
その通りだった。
「それから、音楽と体育もだ」
それも、間違い無かった。運動音痴に、本物の音痴。音楽と体育が、学校の授業から無くなれば、どんなにいいだろうか。隼人は、いつもそう思っていた。
しかし、大地に成績を知られていたとは、穴があったら逃げ込みたいくらい恥ずかしい。
「そうなのよ。隼人君は、地上に居た時から、理数系だけが得意だったのよ。他は、見てる方が恥ずかしくなるくらい、全然、全く、どうしようもないくらい、できなかったわ」
彼女は、これでもかと、成績が悪い事を強調して言った。
「でも、死んだお父さんも言ってたけど、語学や社会は、記憶の科目だから、努力次第で成績が決まるって。努力の度合いを測るのにいいけど、才能を測るなら、下手な知能テストより、理数系の成績を見た方がいいって言ってたわ。理数系は、努力より、才能が出易いって」
「うちのお父さんも、同じ事を言ってた。努力の科目と、理数系の科目の成績の差があればあるほど、才能を持っているんだって。だから、隼人君には頑張って欲しいって言ってたよ」
隼人は、少し面映ゆい気持ちになった。
「二十世紀前半に活躍した天才物理学者のアインシュタインも、実はね、チューリッヒ連邦工科大学の入試で失敗するような、落ちこぼれだったんだ。後年、この大学に入学できたんだけど、物理研究室の成績は、なんと最低レベルの一だったそうだ。でも、この年の電気技術の成績は、最高レベルの六だったというから、興味が有るか無いかで、成績が大きく変ったようだね。そして、彼は、電磁気学の研究から、あの有名な相対性理論を導き出したんだ」
確かに、隼人も、興味のある科目は成績が良く、興味の無い科目は成績が悪い。でも、二十世紀最高の天才と言われるアインシュタインと同じだとは、どんなに己惚れても言えそうに無い。
「さっきは、僕の希望を言ったけど、隼人君は、将来は何になりたいんだい?」
隼人は、言ったものかどうか、逡巡した。
彼には、一つの夢があった。それは、恒星間旅行だ。できれば、自分で設計した宇宙船に乗って、恒星間旅行をしたかった。目標の恒星系は、エリダヌス座のε星か、クジラ座のτ星だ。
でも、余りにも壮大なので、笑われそうに思った。
「あのぉー」
隼人は、思い切って言ってしまおうと、二人に恐る恐る声を掛けた。
その瞬間、隼人の身体は、勢い良くつんのめった。
最初のは、何が起こったのか、さっぱりわからなかった。隼人は、大地と宙美の間を擦り抜け、その先の地面に頭から突っ込んで行った。辛うじて手を着いたが、膝は、したたか地面に打ち付けた。
打ち付けたのは膝なのに、なぜか、背中に鈍痛がある。
「何をするんだぁ!」
大地の大きな声が聞こえた。続けて、鈍い音がして、大地のうめきが聞こえた。
隼人は、立ち上がろうとしたが、横から脇腹を蹴り上げられ、仰向けに転がった。息が詰まった。苦しくて、身を捩っている所に、今度は、お腹を踏みつけられた。二、三度、踏まれた後に、胸座を掴まれて引き立てられた。よろめきながら立ち上がったところを、左の頬を思い切り殴られた。
目の前を、星が飛んだ。
また、胸座をぐっと持ち上げられたので、また殴られると思って、思わず両手で顔を庇った。すると、今度は、執拗に胸や腹を下から打ち上げるように殴られた。胸を殴られると息が詰まり、腹を殴られた時には、吐きそうになった。
相手は、殴り疲れたのか、横に居た別の男に、胸座を掴んだまま引き渡した。隼人は、引き摺られるようにして、その男の前に立たされた。そして、両手で胸座を掴んで引き上げると、小柄な隼人が爪先立ちになるほど引き寄せた。
目の前に、高校生くらいの男の顔があった。
隼人は、ぷいと横を向いた。その視線の先では、大地が、数人の男に囲まれながらも、宙美の前に立ち塞がり、彼女を守ろうとしていた。
「宙美! 僕の後ろに隠れて!」
大地の鋭い声が飛ぶ。宙美は、悲鳴を上げてながら、大地に振り切られまいと、必死に背中に隠れようとしていた。
大地は、男達の拳や蹴りを躱し、時には体で受け止め、彼女を守ろうとしていた。大地の身のこなしは滑らかで、殴り掛かった男達の方がバランスを崩す場面が多かった。ただ、大地は、躱す事はするが、決して反撃には出なかった。
「おい、連れの様子を見物するとは、余裕があるじゃねぇか」
男は、もう一度、隼人を引き寄せると、右手をぐっと引いた。
隼人は、また殴られると思い、両手で顔を庇った。
「そっちじゃねぇよ」
そう言うと、男は、鳩尾の当たりを膝で蹴り上げた。息が全くできなくなり、目の前が暗くなった。顔を庇っていた手は、無意識の内に腹を押さえていた。
「今度は、こっちだぁ!」
男は、体重を乗せたパンチで、隼人の顔を殴り降ろした。
隼人は、一瞬、意識が飛んだような気がした。気が付くと、右膝を地面についていた。
「まだ、ねんねは、早ぇんだよぉ」
胸座を掴み直し、隼人は立たされた。膝は、がくがくし、思うように踏ん張れない。頭はふらふらし、焦点も定まらなかった。
(脳震盪だ。これ以上殴られたらヤバイ!)
隼人は、必死で頭を庇った。
男は、それを見ると、膝で何度も腹を蹴り上げた。隼人は、目一杯の力をお腹に入れて、それに耐えた。そして、頭を庇っている両手を、耳の位置から下げないように頑張った。
「くそぉ!」
男が苛つき始めているのが、隼人にも分かった。
今度は、何されるんだろう? 背中を殴られるんだろうか? それとも、棍棒か何かで殴られるんだろうか?
不安と恐怖が、隼人の心をかき乱していた。
「おめぇがその気なら」
男は、隼人を軽く突き放した。
もしかしたら、諦めたのだろうか?
隼人は、ほんの一瞬、気を緩め、両手で顔を庇ったまま、顔を上げた。
男は、諦めていなかった。左足を大きく踏み込むと、サッカーボールを蹴るような勢いで、右足を振り切り、爪先で隼人の腹を蹴り上げた。
隼人の体は、小さく宙を舞って、そのまま頭から地面に落ちた。
「オゲェー!!!」
声じゃなかった。胃から突き上げられた物が、そのまま喉を震わせながら、口から吹き出した。酸っぱい匂いの中に、血の匂いが微かに混じっていた。
「隼人君!」
大地は、回りの男を跳ね除け、隼人に駆け寄った。
「大丈夫かい?」
覗き込む大地に、隼人は、苦しさで肯く事さえできなかった。それどころか、また、臭いゲップと一緒に、胃液が込み上げてきた。隼人は、ゲェゲェ言いながら、血の混じった胃液を吐いた。
大地は、隼人の背中を摩りながら、顔を覗き込んだ。
「きゃっ!」
宙美の悲鳴が、背後で聞こえた。同時に、ボコンと言う音がした。ついさっきまで、大地が守っていた彼女が、誰かに殴られたらしい。
大地は、慌てて振り向いて、宙美の様子を確認した。
「きっさっまっらー!」
大地の顔色が、瞬時に変わった。まるで、大魔人のように、見た事も無い恐ろしい形相で、すっくと立ち上がった。
余りの凄まじい形相に、男達の動きが止まった。
大地は、一番近くに居た男を捕まえると、有無を言わさず、拳を振り下ろした。男は、すっ飛んだ。殴られた本人が、事態が掴めず、驚いた顔をして立ち上がろうとしたが、脳震盪を起こしているらしく、酔っ払いのような千鳥足になり、そのまま座り込んだ。
大地は、それには見向きもせず、二人目を男を捕まえた。その男は、反撃に出たが、大地は、それを軽く躱すと、右の拳を男の腹部に叩き込んだ。隼人には、男の体が浮かび上がったように見えた。男は、隼人と同様に、ゲェゲェ言って、胃液を吐いた。
大地は、早くも三人目を捕まえていた。男達は、四、五人で囲んで、袋叩きにしようとしたが、大地は、いくら殴られようと意に介さず、一人ずつ確実に殴り倒した。あっと言う間に、五、六人の男が、大地の足元に転がった。
残った男達は、棍棒やナイフを手に、再び大地を囲んだ。大地は、軽くステップを踏むと、さっと身を沈めて、ナイフを持っている男の足を払った。男は、スローモーションのように、ゆっくり空中で半回転し、上半身から落ちた。大地は、さっと近付くと、ナイフを蹴り飛ばして馬乗りになり、左の拳を男の右頬に叩き込んだ。男は、一発で意識を失った。
大地は、残った男達に振り向いた。
「いいか、覚えとけ。今度、彼女に手を出したら、今日みたいな手加減はしない。命は無いと思え!」
(これでも、まだ手加減しているなんて)
隼人は、頼もしさよりも、怖さを感じた。
大地の迫力に、男達も気圧されていた。素手の大地が一歩近付くと、ナイフや棍棒の武器を持った男達は、二、三歩下がった。やがて、「覚えとけ」の決まり文句と共に、走って逃げた。数人の仲間を残したまま。
大地は、宙美に駆け寄り、怪我の状態を確認しながら、抱き起こした。