伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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  津波

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 机の脇で、電話が鳴っている。
 隼人は、その事に気付いていたが、気にもしていなかった。そんな事より、宇宙移民事業団の管制センターのサーバーに侵入して処理させているプログラムの処理速度が、異様に早くなっている事が気になっていた。
 彼は、管制センターのサーバーを介して、管制センター内の総てのコンピュータに、宇宙大規模構造をシミュレーションするプログラムを侵入させ、コンピュータを使用していない時間帯を利用して実行をさせていた。このプログラムの優先度は最低に設定してあり、通常の業務を阻害する事がないようにしてあるので、当然、一つ一つのコンピュータでの処理は遅い。それが、今夜に限って、今までに例が無いほど、処理速度が高かった。
「まさか、最高優先度になってるんじゃ……」
 冗談交じりに呟いたが、急に不安になってきた。
「カツフミ、プログラムの優先度をスクリーンにレポートしろ」
 彼は、父の名前を付けた音声入出力インターフェイスに命じて、各コンピュータで処理しているプログラムの優先度を調べさせた。
 ディスプレィに新しいウィンドウが開き、次々に優先度を表示していった。隼人は、その表示を目で追った。見た目の優先度は最低レベルになっていたが、CPU処理時間が100%に近い値になっていた。
(おかしい!)
「カツフミ、総ての処理を中止しろ」
 彼は、管制センターのサーバーを通じて、各コンピュータで実行していたシミュレーションの処理を途中で止めた。
『シミュレーションを総て中止しました』
 カツフミは、平板な合成音声で、結果を報告した。
「最低優先度で計算終了分のデータを取り込め」
『最低優先度で計算終了分のデータ取り込みを開始します』
 宇宙大規模構造をシミュレートするために、大量のデータについて、膨大な計算を繰り返す必要があった。そのデータ量と計算量は、パソコンで実行するには、容量的にも性能的にも不可能だった。隼人は、シミュレーション自体は、管制センター内の数千台はあると思われるパソコンに分散して行う事を思い付いた。
 隼人のIDは、宇宙移民事業団の管制センターのサーバーのアクセス権を有していた。
 中学一年の夏休みに、事業団主催のコンピュータプログラムコンテストで最優秀賞を貰った際の御褒美として、指定された時間帯だけの条件付きながら、管制センターのサーバーのアクセス権を貰った。このIDは、管制センターの公開情報や一部の非公開情報へのアクセス権を与えていた。もちろん、非公開情報といっても、内容が専門的なために一般への公開が意味を成さないということで非公開と言っているだけで、関係する大学や研究機関には公開している情報だった。
 隼人には自慢のIDだが、同級生は、やっかみ半分で「オタクのID」と言い、隼人を馬鹿にした。それに反発を感じた隼人は、指定時間外も使えるように、不正にIDレベルを書き換え、興味を持ち始めた宇宙大規模構造のシミュレーションに使うようになっていた。
 今は、指定の時間帯から外れている。なぜか最低優先度で実行している彼のプログラムが、管制センター内の総てのコンピュータで、最大のCPU使用時間を消費していた。こんなにCPUが使用できたことは、過去には無かった。大きな問題になる前に、管制センターの総てのコンピュータから、データを取り込んでおきたかった。
 隼人は、カツフミが結果を報告するのを待ちながら、窓の外を見詰めた。
 鹿児島県大隈半島にある宇宙移民事業団の官舎の窓から、西の空に夏の夕日の残光が消え去るのを見てから、既に二時間が過ぎていた。反対の東側からは、事業団の管制センターが見えるのだが、隼人は、遅い時間まで明るい西向きの方が好きで、父に頼んで西向きの部屋を自室にしてもらった。
 その父は、まだ帰ってこない。
 父と離婚し、姉を連れて沖縄の実家に戻った母が恋しくなるのは、夕食を一人で食べる時だ。今晩も、中学校から帰ると、一人で準備し、一人で摂った。食卓には、冷たくなった父の分だけが残っている。
 管制センター長を務める父は、ちょうど資源採取用小惑星を地球軌道に投入するところで、昨晩は管制センターに泊り込んでいた。小惑星は、今夜中に地球周回軌道に投入されるので、明日の夕飯から一緒に食べられそうだと、電話の父は言っていた。だが、管制センターで何かが起こっているらしく、今日も帰りが遅い。
 まさか、管制センターのコンピュータに異常が発生し、父の帰りが遅くなっているのだろうか。
『取り込みが終了しました』
「カツフミ、接続情報消去プログラムを実行しろ」
 今回のような事を想定した訳ではないが、予め、接続情報を消して追跡を逃れるツールを用意してあった。
『接続情報消去プログラムを実行します。……接続情報消去プログラムは終了しました』
 ふうっと、溜息が漏れた。
 これで、犯人が誰か、掴む事はできないだろうと思うと、ほっとした。
「カツフミ、接続を切れ」
『接続を切断しました』 
 カツフミは、間髪を入れずに処理結果を報告した。
 隼人は、休む事無く鳴り続けている電話を取った。表示を見ると、管制センターからだった。父だろうと思い、電話に出た。
「はい、隼人です」
 父は、電話を掛けながら、同時に、何かの仕事をしているらしく、電話口の向こうで周囲の者に次々と命じていたが、その声は、やおら隼人に向けられた。
「着替えをまとめて、急いで発射管制センターまで来い!」
 枉ごう事無き、父の声だった。が、父にしては珍しく、頭ごなしに用件を言った。
 日頃は、物静かで、いかにもエリート技術者の雰囲気を湛える父だが、慌てているのが声だけでも良く分かった。今までに、一度も感じた事が無い父の狼狽ぶりに、ただならぬ状況を感じた。
 父は、管制センターから電話をしているようだった。電話の向こうから、怒声が飛び交うのが聞こえてくる。管制センター全体が、騒然としているようだった。
(シミュレーションを最高優先度で走らせた事が、管制センターの混乱の原因なのだろうか?)
 隼人は、恐る恐る聞いてみた。
「お父さん、どうかしたの?」
 父の返事を、隼人は、生唾を飲み込んで待った。
父は、何も言わず、一方的に電話を切ってしまった。
 電話が切られると、一気に静粛が戻ってきた。
 常温ジョセフソン素子を使うパソコンは、消費電力が少ないので冷却ファンを時代遅れにした。大容量の外部記憶も半導体化されたため、静粛を阻害するような騒音は、一切出さなかった。
 その静粛さが、隼人の背筋に冷たいものを走らせ、根拠の無い不安を感じさせた。
 気を取り直すと、隼人は、自作のパソコンの片付けを始めた。
 彼のパソコンは、持ち運びを容易にするため、アタッシュケースに組み込んであった。
 ディスプレィは、アタッシュケースの裏ブタに。アタッシュケース本体奥にキーボード。キーボード下の大部分をメモリが占め、残った隙間に、電源装置とバッテリーやケーブル類の小物入れが肩身も狭く納まっている。
 宇宙大規模構造のシミュレーションは、結果を保存するだけでも、常識を超えた大容量メモリが必要だったが、市販のパソコンには隼人を満足させる機種が無かった。それが、隼人をパソコンの自作に踏み切らせた唯一の理由だった。
 一見すると、前時代的なパソコンだが、隼人の要求を満足するメモリ容量を確保しようとすると、時代錯誤の形態にならざるを得なかったのだ。
 パソコンの旅行準備ができたところで、着替えを用意しようとウォークイン・クローゼットに入ったが、一体、何日分の着替えを用意したら良いのか、父から聞いていなかった事を思い出した。直ぐに、父の携帯電話に掛け直してみたが、延々と呼び出し音が続くだけで、一向に電話に出る気配がなかった。
(飛鳥への見学が、急に許可されたのかな?)
 高度千六百八十四キロメートルに浮かぶ軌道ステーションの飛鳥には、以前から見学の希望を出していた。飛鳥は、その内部に無重力研究設備を持ち、老朽化が進んでいるとは言え、今も多くの研究者が長期に滞在して研究を続けている。国際スペースコロニーへの中継基地も兼ねるので、スペースコロニーに行く際に、経由地として通過した事は何度かあるが、研究施設の見学は一度もできなかった。
(まさか?!)
 父の電話の雰囲気からは、とても、そんな呑気な雰囲気ではない気がしたが、もしかしたら、小惑星の軌道固定の作業と重なって、いつにない話し振りになっただけなのかもしれない。
(飛鳥の見学なら、三泊分もあれば充分だ)
 飛鳥への旅行なら、父も一緒に行くはずだ。隼人は、二人分の着替えを手早く鞄に詰め込んだ。
 父が母と離婚してからも、多忙な父が家事をする事は少なかった。仕方なく、隼人が家事を受け持つ事になった。そのお陰で、料理の腕も上がった。旅行の支度なんか、訳もない。着替えだけでなく、何がどこに仕舞ってあるのか、総て把握していた。
 隼人は、留守番コンピュータに三日間の旅行をセットし、戸締まりと火の始末を命じた。そして、旅行鞄を肩に担ぎ、重いアタッシュケースを手に持ち、官舎の外に出た。

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  プロローグ

 人類は、幾度と無く繰り返される試練を乗り越え、種としての繁栄を続けてきた。
 氷河期、旧人から新人へと自らを進化させ、他の動物とは一線を画す高度な知能で乗り越えた。
 自らが招いた温暖化と、それに伴う未曾有の食糧危機も、生産地のシフトを国際協力の下で行い、同時に化石燃料からの脱却を進め、現在では僅かずつではあるが効果が見られるようになってきた。
 温暖化の危機を経験した事により、地球にだけ生活の基盤を置く現状があまりに脆弱であることが、議論されるようになってきた。議論は、太陽系内への広範囲の殖民計画へと展開し、ラグランジュポイントへのスペースコロニーの建設、月への植民、火星のテラ・フォーミングが国際協力の下で行われることが決まった。
 日本政府も、第一段階のスペースコロニー計画に参画するため、宇宙移民事業団を創立し、スペースコロニーの建設、及び移民の募集や殖民を行うようになった。
 宇宙移民事業団の地上の拠点である管制センターは、大隈半島の内之浦に置かれた。
 スペースプレーンが発着できるカタパルト付きの滑走路を備え、地球軌道上にある日本の全ての施設の管制を行うと共に、今後の宇宙開発計画の全てを統括する一大施設である。
 宇宙開発事業団、内之浦管制センターという正式名称が与えられているが、職員と家族を含めると1000人を超える人々が、管制センターの敷地内に居住し、少人数制の小学校と中学校も併設する小都市のようなスケールである。
 その管制センター内を一人の中年女性が、あたふたと駆け抜けていく。二階の更衣室を飛び出すと、廊下の端の階段を目指して走っていった。途中のエレベータにちらりと目をやったが、六階に止まっていた。四階なら走った方が早いと思って諦め、階段を目指した。
 帰宅準備をしていた彼女は、突然の呼び出しに、慌てていた。呼び出しでは、何も説明が無く、「制御室から離れられないから、大至急、来い」とだけ命じられた。センター長から命令形で呼び出されるのも、大至急と言われるのも、初めての事だった。ただ事ではない緊張感が、センター長の声に込められていた。
 だから、彼女は、センター長の征矢野が詰めている制御室まで走るしかなかった。
 走っているのは、彼女だけではなかった。いや、廊下を歩いている者は、一人もいなかった。激しいドアの開閉音と共に、何人もの人々が廊下に飛び出し、走り去った。そして、ほぼ同じ数の人々が、階段を駆け上がり、駆け下り、部屋に飛び込んでいった。
 彼女は、そんな人々とぶつかり合いながら、時には壁に飛ばされながら、制御室に向かった。途中で夫とすれ違ったが、気付かないのか、見向きもしてくれなかった。夫だけでなく、日頃なら挨拶を交わす同僚達も、視線を合わせる以上の事はしなかった。ただ、その目は、「もう駄目!」と言っているようだった。
 彼女が、四階の制御室に辿り着いた時に見たものは、悲壮感と絶望に打ちひしがれた征矢野の顔だった。
 彼は、直ぐに彼女を見付けた。
「帰り掛けていたところをすまなかった。早々で悪いが、大至急、職員の家族をセンターに呼び寄せ、飛鳥に脱出させてくれ」
 彼女は、事態を把握しようと思考を巡らせた。だが、どうしても、一つの単語に引っ掛かってしまう。
「脱出……ですか?」
 彼女は、その単語を口にした。
「そうだ。脱出だ」
 征矢野は、静かに言った。
 その言葉の重みを、彼女は理解した。様々な思いが去来したが、それを振り切り、今すべき事を整理した。彼女の専門は気象学だったが、そんな事を言っていられなかった。頭の中の整理が付いたところで、口を開いた。
「わかりました。早速ですが、センター長も息子さんに連絡を入れ、こちらに呼び寄せてください。他の職員にも、そうしてもらいます。私は、警備に協力を依頼して、受け入れと脱出の手配をします。それでよろしいですね」
 征矢野は肯いたが、直ぐには電話する気配が無かった。
 彼女は、手近の電話で自宅に連絡を入れ、中学生の一人娘に管制センターへ急いで来るように伝えた。その横で、職員達の必死の声が響いた。
「コンピュータは、まだ復旧できないのか?」
 いつも、冷静な征矢野の声が、裏返っていた。
「駄目です! 再起動しましたが、起動が完了すると同時に、ロックしてしまいます」
「ネットワークから切り離すと、ロックしません。ネットワークに問題がある筈です」
「ネットワークのトラフィックは、問題になるほど高くありませんよ。問題は、他にある筈です。例えば、サーバーとか……」
「サーバーも一台を再起動しましたが、直ぐにロック状態に陥ってしまいます。誰かが、外部からクラッカー行為を仕掛けているかもしれません」
「馬鹿な! ここのネットワークは、一般回線には繋がっていないぞ」
 制御室内の声が殺気を帯びていく。
 コンピュータがロックしているのが問題ではない。それだけなら、こんなに慌てる必要はなかった。今発生している深刻な問題に対処するために必要な、最強にして唯一の道具が、コンピュータなのだ。それが使えない。
「管制センター内なら、できない事もないよな」
 誰かが、ぼそっと言った。
「犯人が、ここの職員だというのか!」
 口論を続ける二人の声に、征矢野は表情を強張らせた。
「そんな事は、言っていませんよ。ただ、考えられる可能性を言っただけですよ」
「犯人が、職員だという可能性をか!」
 男は、立ち上がって、噛み付く勢いだった。
 まずい兆候だった。現在の重大な局面に対応しなければならない職員の姿勢が、コンピュータのロックによって、崩れかかっていた。にも関わらず、征矢野の行動は、緩慢ささえ感じられた。
 そんな征矢野の様子に、女の直感とでも言うのだろうか、彼女は一つの原因を見つけ出していた。
(センター長は、犯人に心当たりがある? …… まさか?)
 彼女は、片隅に浮かんだ邪念を振り払った。
 管制室の隅に移動すると、コードレスフォンで警備を呼び出し、手順と配置を指示した。続いて、資材部にも電話し、ベルトとロープをスペースプレーンへ運ばせた。
 一通りの指示が終わると、もう一つの問題に相対した。ナンバーを思い出しながら、ダイヤルした。直ぐに呼び出し音がなり始めたが、相手は簡単には取ってくれなかった。呼び出し音に注意を払いながら、征矢野の様子に見入った。
「犯人探しは、後でもできる。復旧だけを考えろ。制御室と通信室以外のネットワークは総て切れ。ネットワークが原因なら、それでサーバーを再起動すれば復旧できる」
 征矢野の指令に、数人の男達が飛び出していった。物理的に、ネットワークを切るのだろう。彼女は、男達の労力が報われる事を願った。
 結果は、予想より早く出た。
「あれ、動き出した。復旧したみたいです」
 素っ頓狂な声が聞こえてきた。それを合図に、全員が持ち場のコンピュータを確認し始めた。
「テレメトリング、OKです」
「燃料系、OKです」
「軌道計算、OKです」
「軌道観測、OKです」
「推進、OKです」
「記録、OKです」
 あちこちで、同様の言葉が発せられた。
 チャンスと思い、彼女は征矢野に声を掛けた。
「センター長、今すぐ、息子さんに連絡してください」
 呼び出し中のコードレスフォンを差し出した。掛けた先は、征矢野の自宅だった。そこには、娘の同級生の男の子が居る筈だった。彼も、飛鳥に脱出させなければならない。だから、コードレスフォンを押し戻されても、食い下がろうと思っていた。……が、征矢野はあっさりと電話を取った。彼女は、会話が聞こえないように少し下がった。
「燃料パレットの残量を確認しろ。緊急時用の資源パレットも、直ちに推進装置に回せ。起動計算担当、残量から計算して、回避のための推力をかけろ。上手く行けば、大気層で跳ね飛ばせるかもしれない」
 電話に応答するまで、征矢野は次々と指示を出し続けた。
「燃料パレットの残量は、ゼロです」
 予想の範囲内だったらしく、制御室は平静を維持していた。しかし、次の一言で、一瞬にして静まった。
「資源パレット、残量……、残量はゼロ。ゼロです」
「再確認しろ。資源パレットの残量がゼロの訳がない。もう一度確認しろ!」
 その瞬間、電話が繋がったようだ。征矢野は、しばらくの間、受話部を手で押さえたまま、残量の再確認と使用記録のチェックを命じていた。それが済むと、やおら用件を伝え、直ぐに切ってしまった。
 彼女としては、征矢野の息子に状況が伝わったのか、少々不安だったが、最低限の仕事はした。既に、職員家族の受入態勢と搭乗割り当ての基本方針は、整えてある。残る仕事は、四機のスペースプレーンの打上げ手順だけだった。だから、制御室内に留まり、状況を見守った。
 正直言って、スペースプレーンが4機もあるのは幸運としか言いようが無い。
「所長、まさか、あれが落ちてくるのですか?」
 センター長から「脱出」と言われた時から、彼女も気付いていた。ただ、口に出して確かめるのが怖かった。でも、彼女が知る回避策が全て駄目になってしまった事を知った今、はっきりさせておく必要があった。間もなく、官舎に住む数百人の家族がここに集まってくる。彼らに、状況を説明し、脱出に協力してもらわねばならない。
「もう、避けきれないという事ですか?」
 センター長が、「念のため」とは言わないと分かっていたが、「念のためにやっている」と言ってくれる事を期待してもいた。そして、小惑星の墜落が回避できれば、直ぐにでも、脱出計画を白紙に戻すつもりだった。
「資源パレットの使用記録はどうだ?」
「使用した形跡はありません」
「残量計が狂っているのか?」
「いいえ、間違いありません。資源パレットの残量は、ゼロです。推進剤は、全く残っていません」
「残量計は無視しろ。資源パレットがあるものとして、対応する。資源パレットのコンテナは、推進装置まで移動させられるか?」
「今やっていますが、ちょっと変です」
 燃料担当は、首を捻りながら、コンピュータに向かった。
 資源パレットは、緊急時の燃料用として確保してあった。
「駄目です。資源パレットが動きません」
「繰り返し、やってみろ」
 返事はなかった。彼は、何度も同じ操作を繰り返し試みていた。
 征矢野の顔色は、見る見る青ざめていった。
「誰でもいい。最悪の事態を回避する方法を提案してくれ。どんなアイデアでも構わない」
 ざわざわと、耳障りな話し声が続いた。
「月面の資源局のマスドライバーで、パレットを打ち込んでもらう手は……ないですよね」
 誰かが、自信無げに言った。
「パレットが届く頃には、すべてが終わっているよ。おまけに、位置が悪い。月から打ち込めば、状況を悪くしかねない。さぁ、他にはないか?」
 征矢野は、周囲を見回した。
「IAUに依頼して、核を打ち込んでもらったら、どうでしょうか」
「小惑星迎撃システムか。間に合うのか?」
 征矢野は、軌道計算担当に視線を送った。
「無理です。たった今、発射しても、軌道を変える程の効果は得られません。残り時間は、一時間を切っています。核爆発で軌道を変えるには、大気圏突入の十時間前には命中させなければなりません」
 軌道計算担当の一言には、誰も言い返せなかった。
「第一、アメリカ政府が動くまで、日単位で時間が掛かりますよ。まあ、核で粉々に破壊できるなら、いくらかマシになりますが……」と、ぼそっと言い添えた。
「核も諦めよう。他にはないか?」
 しばらく、ざわついていたが、直ぐに静かになった。誰も、征矢野とは視線を合わそうとしなかった。アイデアが尽きたらしい。
「他にはないのか!」
 征矢野は、喝をいれたつもりだろうが、その声はヒステリックに聞こえた。
 その様子を見ていた彼女は、そっと、その場から離れた。
 もう、脱出作戦を敢行するしかなかった。一人でも多く、地球から脱出させなければならなかった。四機のスペースプレーンの打上げスケジュールを大至急作り、管制部と航空運行部に指示を出す必要がある。それに、説得にも当たらなければならない。スペースプレーンを定員しか乗せないで打ち上げるつもりはなかった。定員以上に乗せる方法は、既に考えてあったし、必要になる物は資材部に依頼済みだが、それを航空運行部に納得させる自信はなかった。
 彼女は、粘り強く交渉し、最善の策を実行に移す事を、心に誓った。
 制御室を出る時、征矢野の沈んだ声が聞こえた。
「推定時刻と地点はどこだ?」
 その答を聞く前に、彼女の背後で制御室の扉が閉まった。

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