伊牟ちゃんの筆箱

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「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 シャングリラは、ほとんどの設備が、二重化、三重化されている。緊急脱出も、第一に水中エレベータ、第二に緊急脱出球、第三に基地本体の浮上と、三重の脱出方法が用意されていた。ところが、今回は、その総てが被害を受けた。
 鉄腕は、事故直後の海底基地に戻ってきた際に、外から惨状を知った。
 事故で切れたアンビリカルケーブルは、本来ならケーブルステーションの上に落ち、基地本体の上には落ちてこない設計になっていた。しかし、ケーブルステーションは、非常に強い力で引き摺られて基地本体に衝突していたので、当然のようにアンビリカルケーブルは、基地の上に落ちてきた。鉄腕のライトに照らし出されたそれは、大蛇が基地に巻き付き、ぎりぎりと締め上げているようにも見えた。
 緊急脱出の第一の方法、水中エレベータは、ダーウィンが大きな被害を受けて降ろせなくなっているらしく、未だに水中エレベータが下ろされた気配はない。水中エレベータは、その位置が分かるように、特定の音を出す。下ろされれば、必ず気が付く。その音を、誰も聞いていなかった。
 ケーブルステーションが引き摺られるほどの力だ。ダーウィンも、ただでは済む筈がない。水中エレベータが下ろせなくなっていても、不思議はない。
 第二の方法である緊急脱出球は、アンビリカルケーブルが絡まり、海底基地から切り離せない状況になっていた。これは、シャングリラに戻る時に確認しておいた事だ。まだ、脱出を試していないが、緊急脱出球はタンク容量が小さいので、この中に閉じ込められたら死期を縮めてしまう。確実に使える状況になるまで、使う訳にはいかない。
 第三の方法、本体の緊急浮上は、最も難しい状況にあった。
 まず、アンビリカルケーブルが圧し掛かっている事だ。シャングリラの余剰浮力は、それほど大きくない。アンビリカルケーブルを乗せたまま浮上する事は、到底できない相談だ。
 おまけに、落ちてきたアンビリカルケーブルが鞭のようにしなってシャングリラの外壁に叩き付けられたせいで、A棟側の溶接個所にひび割れを生じて漏水が始まっている。もし、このままシャングリラを浮上させると、現在は釣り合っている内外圧力差が内圧超過の状態になり、亀裂の場所から破裂する可能性が高い。
 残された方法は、現在は大西洋側に停泊している。もう一隻の支援船が回航されてきて水中エレベータを降ろしてくれるのを待つ事だけである。だが、パナマ運河を通過したとしても、ここに到着するのは早くても四日後になる。それも、出航準備ができていると仮定しての話だ。記憶違いでなければ、来春に別の場所で行われる水素潜水実験の準備中で、直ぐに出港できるかどうかは怪しいものだ。
 だからこそ、この基地の中で一日でも長く生き延び、救出される確率を高めなければならない。
 鉄腕は、作業艇ハッチ、潜水ハッチ、資材置き場、シャワー室、資料室、研究室と、A棟の各部屋を通り抜けた。
 資料室の漏水は、ほとんど止まりかけていた。
 壁面は、零度近い海水に冷やされて結露していた。だから、僅かな漏水は見抜く事が難しいが、他の部屋に漏水箇所は見当たらなかった。ただ、照明だけでなく暖房も止まり、息が白く凍る程、室温が下がっていた。
 A棟は、閉鎖するしかなさそうだ。
 研究室の脇の直径が五十センチしかないハッチを通り抜け、B棟へ繋がるトンネルに入った。
 トンネルの内径は、二メートル、長さは、四メートル。そのトンネルとA棟との接合部も、亀裂が入っているらしく、海水が滲んでいた。ケーブルステーションは、このトンネルの下側、A棟とB棟の基底部にぶつかっている。構造的には、最も厳しい状況に追い込まれている部分だ。今は、海水が滲んでいるだけだが、鉄腕は、A棟の亀裂より危険な気がした。
 A棟とのハッチを閉めた。厚さ五センチのハッチは、ハッチホールとの間で不気味な擦過音を響かせた。ハッチやハッチホールに傷がつけば、それが僅かな傷であっても、大きな水圧が掛かれば漏水を始めるかもしれない。
 一度、開けて傷が無い事を確認し、ハッチとハッチホールの接触面を奇麗に拭いた。そして、ゆっくりとハッチを閉めたが、また擦過音が聞こえてきた。ハッチホールが変形している事は疑う余地が無い。このまま閉めるしかなかった。
 鉄腕は、B棟とのハッチを通り抜けると、これもしっかりと閉めた。幸いな事に、こちらのハッチには被害が無いようだった。ハッチは、ハッチホールに吸い込まれるように納まった。
 B棟も、照明は落とされ暖房も止まっていた。吐いた息が白く煙り、ヘッドライトに照らされて目の前に浮かんだ。A棟でも聞こえていたモールスを打つ音が、B棟では耳に喧しかった。
 B棟は、生活臭が立ち込めている。厨房があり、トイレがあり、六人の男達の体臭が篭っていた。電源を守るために換気が止まっているので、悪臭と言ってもいいくらいに酷かったが、仲間が居る事を感じさせてくれる臭いが、鉄腕に安心感を与えてくれる。
 鉄腕は、奥に向かって歩き始めた。奥には、厨房、食堂兼会議室、各個人の居室と続いている。居室の二つには、二人の重傷者が寝ている。更に奥にある小さなホールの天井には、緊急脱出球に繋がるハッチがある。
 食堂兼会議室で、一人の男を鉄腕のライトが浮かび上がらせた。彼は、眩しいそうに目を細めた。
 鉄腕は、ライトを消した。途端に、男の顔が漆黒の闇に沈んだ。間も無く、外に出ていたダイバーも食堂に戻ってきた。

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  海底基地シャングリラ

 鉄腕は、漏水の様子を見た。
 遠くで、壁面をハンマーで叩くモールス信号が聞こえてくる。
 懐中電灯の光に照らされた海底基地シャングリラの内壁からは、零度に近い冷たい海水が吹き出していた。床は、踝の上まで海水が溜まっていて、防水ブーツを通してジンジン痛むような冷たさが伝わってくる。
 漏水の勢いが、最初に見た時よりも激しくなっているようだ。だが、深刻なのは、電源と二酸化炭素の方かもしれない。
 理想郷シャングリラは、冷水地獄に変わりつつあった。
 間も無く、漏水の勢いが弱まってきた。
 暫くすると、下部ハッチからダイバーが上がってきた。
「溶接の継ぎ目に亀裂があったが、漏水シートを塗付してきた。これで、漏水も落ち着くだろう。そっちはどうだ?」
 ダイバーは、鉄腕の首尾を聞いた。
「水酸化リチウムはなんとか準備できたが、量は不足している」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素の吸収剤として使う。通常は、ポンプで海水中を通して解かし、処理しきれない分をアンビリカルケーブルで支援船に送っていた。アンビリカルケーブルも電源も切れた今、緊急時用の水酸化リチウムで二酸化炭素濃度の上昇を抑える必要があった。
「どちらかを閉鎖するしかないな」
「ああ。それ以上に気になるのが、上の様子だ。あれから何も言ってこない」
 モールスを打ち始めた時に、一度だけ返信があったのに、それ以降の音信が途絶えている。
「モールスが分かる奴が居ないんだろう」
 誰かがそう言ったが、そんな筈はない。上からの返信は、モールスだった。公式には廃止されたモールスだが、まだまだモールスを打てる人間はかなり残っている筈だ。
「取り敢えず、B棟に戻ろうや」
 フィンとマスクだけ取った二人のダイバーと共に、奥にある連絡通路に向かった。

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