伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 ゴン、ゴン、ゴン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴン、ゴン、ゴン
 モールス信号。それもSOSだった。
 続いて、違う文字を打ち返してきた。タッカは、必死になって書き留めた。相手は、何十年も前に廃止になった筈のモールスを打ち慣れているのか、次から次に送ってくる。それを線と点に書き留めるのは、想像以上に大変だった。
 文章は、五分も続いた。もし手帳を置いてきていたなら、書き留める事ができなかっただろう。書き終わると、直ぐに「少し待て」と送信し、モールスの翻訳を始めた。
「重傷者二。浸水有り。電力無し。A棟閉鎖。連絡通路閉鎖。緊急脱出球使用不能」
 文章にすると、わずかこれだけだった。
 通常のモールス信号と違い、「ツー」に相当する音は、打音の間隔広げて表現するので、一文字の区切りは間隔を十分に空けている。だから、一文字打つのに、五、六秒も掛かる。一行の文を打てば、七、八分にもなる。
 これでは、時間ばかり掛かって埒が明かない。
 気圧計の針を見た。
「二十分後、行く。以上」
 タッカのモールスに反応し、「了解」が返ってきた。続いて、長文のモールスが入る。気圧計の針を見やりながら、モールスを書き留める。彼等は、状況を連絡し、こちらの救出作戦の助けになるようにしてくれているようだ。返信は必要無いらしく、ひたすら打ち続けてくる。少しでも窮状を知って欲しいようだ。だが、タッカは、気圧計の針が百気圧を越えた所で、手帳をモールス表を一緒にビニールの袋に詰めて、雑嚢に入れた。
 また、頭痛が始まった。慣れないモールス表と格闘したので、脳の酸素消費量が増え二酸化炭素濃度が上昇していた。
 吹き出し口に顔を寄せ、何回か深呼吸をした。頭痛は治まらないが、体内の二酸化炭素はいくらか排出できただろう。
「A棟閉鎖か。参ったな」
 ハッチは、A棟側にある。A棟が閉鎖されているのなら、入る所が無いのではないか。
 海底基地の図面を開き、調べ始めた。
 水素ガスで、少し酔ってしまったようだ。頭が朦朧としている。酔いを覚まそうと、二、三度、頭を振ったが、はっきりしない。今度は、空気吹き出し口で深呼吸し、少しでも多くの酸素を取り入れ、二酸化炭素による頭痛だけでも取り除こうとした。それでも、頭痛は相変わらず続いた。
 シャングリラのB棟は、一番奥の上側に緊急脱出球があった。別冊の解説書を読むと、ここがエアロックも兼ねているとある。
(俺が向かうべき場所は、ここだろう)
 タッカは、シャングリラの形状と経路を頭に描いた。
 また気圧計を見た。ちょうど百四気圧になった。ボンベを閉じると、下部ハッチの内外圧力差計が見れるようにボンベを移動させる。圧力差計は、内圧が0.1気圧低かった。これは水深で一メートル分に相当する。このままハッチを開ければ、非常に危険だ。
 内外圧力差計を睨みながら、再びボンベから水素ガスを放出する。内外圧力差計は、じりじりとゼロに近付いていく。ゼロを過ぎた所でボンベを閉じる。そして、ハッチの圧力調整弁を少し開く。
 何も起こらない。
 一旦、通常のチェックリストに戻り、ハッチ開放の手順を確認する。そして、内開きのハッチを開いた。目に入ったのは、エレベータ内の照明でゆらゆら光る水面だけだった。
「今、行く。十秒おきに叩け」
 これを二度打ち、彼等のモールスが止まったところで、更にもう一度打った。彼等は、ほぼ十秒間隔で壁を打ち始めた。
 タッカは、ドライスーツの温水循環が始まった事を確認し、ボンベを背負った。手順に従い、レギュレータ、フェイスマスク、フィン等を確認した。そして、後で戻ってくる時のために外部照明を点灯し、室内灯は消した。
 ゆっくりとハッチに体を沈めていく。爪先が水中に入った時、ドライスーツを着ているにも関わらず、零度近い海水温で体が強張った。暫く足をばたつかせながら温度に体を慣らし、また一段下りていく。やがて、上半身をハッチ内に残したまま、足が海底に着いた。
 人類史上七人目の水深千メートル突破だ。
 過去の記録では、海水中では四百メートル、陸上の圧力タンク内では五百メートルが最高だ。千メートルは、驚異的な記録なのだ。同時に、人間が踏み入ってはならない世界への挑戦でもある。
 レギュレータを確認すると、フェイスマスクをかぶった。そして、ゆっくりと水中に顔を沈めた。辺りは、足が舞い上げた泥で全く視界が利かなかった。
 ゴーンと音が聞こえてきた。
 音の方向を探ろうと、頭を回した。十秒後、また、打音が聞こえてきた。頭まですっぽり覆うドライスーツのせいか、考えていたより音の方向は掴み難い。でも、大体の方向は分かった。その方向は、トランスポンダーが示していた方向とほぼ一致する。
 タッカは、水中エレベータの外側を取り囲むガイドフレームを確認しながら、水中エレベータの上部に移動した。海底から離れるに連れて、視界は回復した。だが、目に見えるものは何も無かった。ヘッドライトを点灯する。でも、視界は変わらなかった。
 漆黒の闇。
 都市に住む現代人が忘れ去ったこの言葉こそが、この場所を表す最良の言葉だろう。照明を当てても、マリンスノーが浮かび上がるだけで何も見えない。僅か三十メートル先が、闇に沈んでいる。
 実際には、かなりの数の生物が密かに生きている筈なのに、気配さえ感じられない。
 月周回軌道上のアポロ指令船で、月面に下りている二人を心配しながら一人留守を守っていた宇宙飛行士でも、これほどの孤独は感じないだろう。ここは、無線さえも届かない。
 酸素が無くなれば、窒息死。二酸化炭素濃度が上がっても、中毒死。ドライスーツの温水循環が止まれば、凍死。一気に浮上すれば、潜水病でアウト。更に浮上すれば、体が中から破裂する。アポロ十三号のクルーの気持ちが、ここなら容易に理解できる。
 なんで、こんな所に来てしまったのだろう。
 鉄腕が死ぬ事は辛い。だけど、奴に傾いているユカリの気持ちを自分に取り戻すには、棚ボタのチャンスだった。それを無に帰して、おまけに自分自身が生きて帰れる保証も全く無いここに、何の目的で来たのだろう。
 鉄腕が死んでも、タッカに何の責任も無い。タッカは、与えられた仕事をきちんとこなしている。それどころか、与えられた以上の事をするために、それも周囲の反対を押し切る形でここまで来てしまった。
 その後悔が、タッカの心に頭をもたげた。
 マリンスノーが、降り頻っている。ゆっくり、ゆっくり、落ちてくる。
「奇麗だ……」
 フェイスマスクの中で、独り言が漏れた。
 恥ずかしくて、きょろきょろ周りを見たが、誰も居る筈はなかった。
「俺は、一人で生きていけない人間なんだ」
 いつも誰かが傍に居て、文句を言ったり、言われたりしてきた。特に、小学校からずっと一緒だった鉄腕とは、兄貴や親以上に、文句を言い合い、喧嘩し合い、競い合い、励まし合ってきた。奴が居たから、今のタッカ俺があった。奴が居たからこそ、タッカはここに来た。
 手元を見た。S-2Rで注文した品物は、そこにあった。その中のロープを外し、一端をガイドフレームに括り付けた。もう一端は手に握りしめ、意を決して、音のする方角へ泳ぎ始めた。
 二十メートルも行くと、水中エレベータの照明はぼんやりしてきた。ヘッドライトが照らす前方も、まだ何も見えてこない。下を見ると、卵色掛かった海底が浮かび上がる。海底基地の上を通り過ぎる心配だけは、ないだろう。
 十秒周期で聞こえてくる打音は、かなり近くなった気がする。
「音は聞こえど、姿は見えず……か」
 確かに、音は聞こえている。方向は、大体の方向しか分からない。それが、心の奥底の不安を掻き立てる。最悪でも、水中エレベータには帰れる。それを心の拠り所に、音がすると思う方向に泳ぎ続ける。
 後ろを振り返っても、水中エレベータの照明もほとんど見えなくなった。手に持ったロープを確認する。これさえあれば、最悪でも水中エレベータへ戻れる。そう思って、先へ進んだ。
「近い?」
 空気中の四倍の速さで伝わる海中の音波は、八百倍の密度の海水を震わせ、伝わってくる。その振動が、腹で感じられるようになってきた。ゆっくりと辺りを見回す。
 突然、ヘッドライトの光の中に大蛇のようなアンビリカルケーブルの残骸が浮かび上がった。ケーブルは、のたうつように海底を這いまわり、前方の闇の中に消えていた。更に、回りを見ると、海底に何か大きな物を引き摺った跡が有った。その後を辿って泳いでいくと……
「あった!」
 ヘッドライトの照明の中に、海底基地の脚部が浮かび上がった。引き摺った跡は、ケーブルスタンドだった。ケーブルスタンドは、海底基地の脚部に激突し、大きくひん曲げていた。
 タッカは、脚部に取り付き、握り締めてきたロープを、海底基地の傷ついていない脚を探してそこに括り付けた。
 どうやら、今居る場所はA棟側らしい。
 見上げると、大きな円筒の一部が見えた。視線を左に移していくと、ずっと細い円筒が左に伸びている。これが、連絡通路だろう。A棟との接合部から、気泡が途切れる事無く立ち昇っている。更に左には、A棟と同じ大きさの円筒が見えた。これが、B棟に間違いない。
 浮上して、A棟の上に出た。
 恐怖とも畏怖とも言えない感覚に襲われ、思わず後退りした。A棟の上には、襲い掛かる深海の大蛇のようにケーブルが海底基地に圧し掛かっていた。さながら、獲物の息の根を止めるために、体をくねらせて締め上げているように見えた。
 全長千メートルを越えるケーブルが、A棟の上にあった。
 気を取り直して、連絡通路の上を泳ぎ、B棟の上に出た。緊急脱出球は、B棟の円筒の反対端にある筈だ。ヘッドライトをそちらに向けると、暗闇の中に、緊急脱出球の丸い姿がおぼろげに浮かんだ。B棟の上には、ケーブルはほとんど乗っていなかった。
 B棟の上を手で這うように、緊急脱出球に向かって進む。
 数秒後、緊急脱出球を目の当たりにした。直径は、三メートルくらいあろうか。タッカが載ってきた水中エレベータと比べると、一回りも、二回りも、大きな球体だった。
 何故、彼等が緊急脱出球で脱出しなかったのか、理解した。緊急脱出球に付属するタンクやバッテリ等の補機類に、ケーブルが引っ掛かっていた。手で何とかしようと考えたが、びくともしなかった。
 片手を緊急脱出球の外壁に這わせながら、ゆっくりと上部ハッチまで浮上した。
 ハッチは、S-2Rの水中エレベータと全くの同形だった。違いは、注排水スイッチがある点だ。操作方法は、一目で分かるようになっていた。直ぐに、注水を始めた。ベントから、大きな気泡が立ち昇った。
 注水には、約一分掛かった。その間に、酸素の残量をチェックした。一時間分を持ってきたのだが、ここまでの十五分で半分近くを消費していた。緊張が、酸素の消費量を増やしてしまっていた。
 気持ちを落ち着かせるため、小さく深呼吸した。
 注水が完了し、ハッチは中に向かって開いた。背中のホース類を傷付けないようにゆっくりと中に入ると、一回転してハッチを閉めた。ハッチのロックを確認し、排水のスイッチを探した。これも、直ぐに見付かった。直ぐに、スイッチを入れた。だが、ランプが点かない。インターロックでハッチのロック状態をちぇっくしているのだろうと思い、もう一度、ハッチを確認した。上部ハッチだけでなく下部ハッチも見たが、しっかりとロックされている。
 改めて、排水のスイッチを入れた。だが、結果は同じだった。その時になって、初めて自分の愚かしさに気付いた。
 彼等は、「電力無し」を連絡してきていたじゃないか。排水ポンプのように、大きな電力を必要とするものが、動く筈無い。注水は空気を抜くだけなので電力を必要としなかったが、排水はそうはいかないんだ。
 タッカは、迷った。
 このまま水中エレベータに戻り、救出を諦めて浮上するか。それとも、他の入り口を探して、救出を続行すべきか。判断の時間は残っていない。戻るなら、直ぐだ。帰りにも、約半分の空気が必要だ。
 緊急脱出球の天井に溜まり始めた空気を見て、もう一度、タンクに戻したくなった。
 ここを出ない事には、何も始まらない。
 上部ハッチを開き、緊急脱出球を出た。そして、念のためを考え、ハッチをがっちりと閉めた。

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 我が目を疑った。
 いや、今まで気付かなかった間抜けさ加減に、嫌気が差した。
 二酸化炭素分圧は、0.04気圧になっていた。濃度で言えば、0.0006パーセントだ。これは、かなりの中毒症状を起こすレベルだ。実際に、三十分も前から症状があった。
 タッカは、頭痛の原因を、急激な圧力の上昇が原因と考えていた。しかし、それが間違っていたのだ。吐き気が始まっても、まだ頭痛から来る吐き気と考え、二酸化炭素濃度の上昇を考えなかった。
 何という馬鹿さ加減だろう。
 この水中エレベータは、ヘリウム潜水用に設計されている。当然、各部の性能は、ヘリウム潜水の限界といわれている五百メートル五十一気圧に設計されている。今は、七十気圧に届こうかという高圧下だ。おまけに、不活性ガスのヘリウムガスから活性の水素ガスに交換したのだ。二酸化炭素除去装置が本来の性能を発揮できなくても、不思議ではない。
 こんな事なら、水素潜水用の二酸化炭素除去装置を頼んでおけば良かった。
 後悔したが、今更遅すぎる。
 タッカは、空気の吸い込み口に近付いた。
 これから先は、息は吸い込み口に向かって吐こう。そうすれば、いくらか濃度の高い二酸化炭素が二酸化炭素除去装置に流れるので、効率が上がるだろう。
 今から二時間半も、吸い込み口に向かって息を吐きながら耳抜きを繰返さなければならない。面倒な事、この上無しだ。
 この方法で、三十分、様子を見てみた。
 狭い水中エレベータ内で、体を捩った態勢で、右を見て息を吸い、左を見て息を吐く事を続けてきたので、首が痛くなってきた。肩も凝り、その不快感で苛々もつのった。
 頭痛は相変わらずで、頭を押さえつけられるような圧迫感があった。吐き気は少し治まったような気がするが、新たに耳鳴りが始まった。息苦しさは感じないが、呼吸が少し深くなっている。どれも、二酸化炭素中毒の症状だ。二酸化炭素濃度は、ほとんど変わっていない。ちょっと辛いが、我慢すれば何とかなりそうだ。
 間も無く、海底に着くだろう。
 節電のために切っていた音波水深計のスイッチを入れた。音波水深計が発する音が、海底からピンと返ってくる。
「海底まで八十六メートル。六分足らずだ」
 水深計の発する音しか聞こえないエレベータ内に、独り言が淋しく反響した。
 海底に激突しないために、バラストチェーンを降ろした。バラストも二個捨てた。下部の照明を付け、四箇所しかない小窓の一つから海底を探した。
 まだ、見えなかった。
 海底まで四十メートルを切っているが、降下率も毎分三メートル程度まで落ちていた。内圧がまだ六十九気圧しかない。外圧は九十九気圧を越えていく。内外圧力差がマイナス三十気圧もある。水中エレベータの外圧超過の限界状態だ。それも、外圧の上昇に内圧が追いつかない状態が続いている。
 この状態で、海底に激突したくなかった。
 間も無く、水圧計は百気圧の目盛りを振り切り、目盛りの無い所を進み始めた。安全係数は、二割超過までしか余裕がない。外圧が内圧を三十六気圧超過すると、水中エレベータは圧壊する。それも、計算通りならの話で、少しでも傷みがあればそれより前に圧壊する可能性さえある。今、三十二気圧の超過だ。
 軋み音がする度に、胃がきゅっと締め付けられる。
 まだ、海底は見えなかった。音波水深計は、ほとんど海底に着いた事になっている。まさか、こんな深い所に温度境界層があるはずがない。頭では、それを信じようとしているのに、体は冷や汗を流し、信じていない事を教えた。
 ふと、窓の外が、暗闇でなくなったと思った直後に、もうもうと上がる土煙で、完全に視界が無くなった。チェーンバラストが着底したのだ。続いて、エレベータの外側を囲むフレームが、ゆっくりと着底した。
 数分すると、土煙のカーテンが取り払われ、海底が見えるようになった。
「よし!!」
 思わず、ガッツポーズした。
 ほとんど衝撃を感じる事無く、海底に着底する事ができた。しかも、横倒しにもならず、真っ直ぐに起立している。
 水中エレベータが着底した時、横倒しになったら、救助活動をできないまま、ここで死ぬ事になっただろう。この第二の難関も、理想的な姿勢で着底し、通り抜ける事が出来た。正直、ほっとした。
 内圧が外圧と同じ百四気圧まで上がれば、外に出てケーブルの除去作業をすればよい。
 電源を節約するために照明を落とし、トランスポンダで位置の確認を始めた。
 シャングリラ周辺に設置されていたトランスポンダは、まだバッテリが生きていた。お陰で、自分の正確な位置を確認できた。
 ユカリは、波と同じくらい潮流を読むのも上手いらしい。千メートル上でタッカを落とし、一時間半も掛けて降下したのに、今居る場所は、海底基地からの直線距離がわずか五十メートルほど。しかも、作戦には有利なケーブルスタンド側だ。真っ直ぐに落ちた懸架装置はどの窓からも見えなかったのだから、かなり流された筈だが、タッカはベストポジションに居た。
 ユカリが操縦していなかったら、この位置にタッカは居なかったかもしれない。
(ユカリに感謝)
 気圧計は、七十気圧を越えたばかりだ。二酸化炭素分圧は、ほんの少しだが下がり始めている。気圧調整には、まだ一時間半以上も掛かる。
 そろそろ、外部タンクと室内の圧力差が小さくなり、昇圧のペースが少しだけ遅くなり始めた。八十気圧を越えたら、室内に持ち込んだボンベからも水素ガスを放出しよう。
 室温は、十八度まで下がった。水素雰囲気の中では、体からどんどん熱を奪われる。ヘリウム環境と同様、水素ガス環境も、体感温度の適温の幅が非常に狭い。体感では、実際の温度よりずっと低く感じる。ドライスーツを着ているので、寒さはあまり感じないが、顔は冷たくなっていた。
 内壁も、零度に近い海水で外壁から冷やされ、水滴で覆われている。水滴が、あちこちで滴り落ちていた。ヒーターは入っているのだが、水素ガスが放出される際の断熱膨張でどんどん熱が奪われていき、ヒーターの加熱が追いつかないのだろう。
 時計を見る。
 実際に外に出て救出活動をするまで、十分に時間がある。その間に、鉄腕達と連絡を取っておこう。
 駄目元で、水中電話を試してみた。事故後、上から水中電話を試した事が有ったが、繋がらなかった。海上からだと、途中に温度境界層がある事も想像できるが、電源をやられて使えなくなっている可能性も高い。
 十回は呼び掛けたが、予想通り駄目だった。
 今度は、可能性の高いモールスを試してみた。ハンマーで内壁を叩いて、返事を待った。
 返事は無かった。
 また、ハンマーで内壁を叩く。
 十秒、待った。
 返事は無かった。
 ハンマーで叩き、返事を待つ。これを何度も繰り返す。
 きっと、彼等は、救出されるまでの消費酸素量を極限まで減らすために、ベッドに体を横たえているのだろう。即答できる状態じゃないんだ。そうに決まっている。鉄腕は、まだ生きている。絶対に生きている。
 十分が過ぎても、返事が無かった。
 タッカは、モールス表を確認しながら、「我、救助隊。応答せよ」を打ち続けた。
「早く、返事しろ……」
 絶対に生きている。
 それだけを考えていた。だが、自信が揺らぎ始めていた。いくら体を横たえていたにしても、とっくに返信できる筈だ。
 ふと、我が身が心配になった。
 タッカは、海底基地の緊急脱出球で帰るつもりだった。だが、海底基地が破壊されていて入る事ができなければ、この水中エレベータで戻らなければならない。水中エレベータ内は、八十気圧を越えている。このまま浮上すれば、内圧が高過ぎて破裂する危険性がある。安全係数を計算に入れても、ぎりぎりだ。
 浮上する前に、安全な五十気圧まで減圧しなければならない。だが、ポンプは、圧力差が三十気圧までしか内部の空気を排出できない。大量の電力も必要だ。ケーブルを切り離している水中エレベータの電力では、不足する事は目に見えている。おまけに、外圧超過は三十気圧が限度だから、この位置では七十気圧までしか減圧する事ができない。
 浮上には、一時間かそこらしか掛からない。その間に二十気圧は減圧しなければならないが、一時間で二十気圧の減圧をすれば即死に近いだろう。仮に、無事に浮上できたとしても、浮上後に直ぐに救出されて船上減圧室に移るか、酸素の補充を受けるかしなければ、俺も鉄腕と同じ三途の川を渡る事になる。
 タッカは、加圧を中止すべきかどうか、迷い始めた。
「三分だけ」
 それだけ待って返事が無ければ、一旦、加圧を中止し、減圧して浮上しよう。
 また、モールスを叩き始めた。

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