伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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  海底基地シャングリラ

 鉄腕は、漏水の様子を見た。
 遠くで、壁面をハンマーで叩くモールス信号が聞こえてくる。
 懐中電灯の光に照らされた海底基地シャングリラの内壁からは、零度に近い冷たい海水が吹き出していた。床は、踝の上まで海水が溜まっていて、防水ブーツを通してジンジン痛むような冷たさが伝わってくる。
 漏水の勢いが、最初に見た時よりも激しくなっているようだ。だが、深刻なのは、電源と二酸化炭素の方かもしれない。
 理想郷シャングリラは、冷水地獄に変わりつつあった。
 間も無く、漏水の勢いが弱まってきた。
 暫くすると、下部ハッチからダイバーが上がってきた。
「溶接の継ぎ目に亀裂があったが、漏水シートを塗付してきた。これで、漏水も落ち着くだろう。そっちはどうだ?」
 ダイバーは、鉄腕の首尾を聞いた。
「水酸化リチウムはなんとか準備できたが、量は不足している」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素の吸収剤として使う。通常は、ポンプで海水中を通して解かし、処理しきれない分をアンビリカルケーブルで支援船に送っていた。アンビリカルケーブルも電源も切れた今、緊急時用の水酸化リチウムで二酸化炭素濃度の上昇を抑える必要があった。
「どちらかを閉鎖するしかないな」
「ああ。それ以上に気になるのが、上の様子だ。あれから何も言ってこない」
 モールスを打ち始めた時に、一度だけ返信があったのに、それ以降の音信が途絶えている。
「モールスが分かる奴が居ないんだろう」
 誰かがそう言ったが、そんな筈はない。上からの返信は、モールスだった。公式には廃止されたモールスだが、まだまだモールスを打てる人間はかなり残っている筈だ。
「取り敢えず、B棟に戻ろうや」
 フィンとマスクだけ取った二人のダイバーと共に、奥にある連絡通路に向かった。

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 息が続く限り潜り続け、ゾディアックの方向に泳いだ。
 水面から出て振り返ると、左舷のボートが宙吊りになっているのが見えた。ユカリが細工したのだ。右舷もボートを宙吊りにしたら、彼女も脱出する。それまでに、ゾディアックに辿り着かなければならない。
 船尾で、チカチカと小さな光が見えた。光は、時に長い線となる事もあった。発砲しているようだ。発射音は、機関の音と船首が海を切り裂く音で掻き消され、タッカの耳に届く事はなかった。
 ゾディアックを先に流しておいて、正解だった。かなりの距離があるので、弾丸が届いても、ゾディアックのゴムに穴を開ける事はないだろう。タッカを狙うにしても、波間に浮き沈みしている頭だけを見付けるだけでも、至難の技だろう。
 タッカは、もう一度潜り、息が続く限り船とは反対方向に泳ぎ続けた。これで、奴等は完全に見失っただろう。浮上すると、ゾディアックを見付け、航跡のお陰で波が消えた海を全力で泳いだ。
 水を含んで重くなった上着は、海の中で脱ぎ捨て、ゾディアックを転覆させないように、重い体をゾディアックの中に引き上げた。ゾディアックの船外機は、一発で始動した。直ぐ様、奴等の船の追跡に入った。ユカリを拾うためだ。
 奴等の船は、未だに右舷のボートがそのままだった。ユカリが、失敗するとは思えない。
 十分な距離を開けて、右舷の様子を見詰めた。
 予定通り、右舷のボートがダペットを滑り落ち始めた。同時に、見事な空中姿勢で海にダイブする彼女の姿が見えた。舷側からは、弾丸が放つ光の線が延び、彼女の後を追ったが、弾丸は水面下一メートルも届きやしない。軽く四分以上も潜水できる彼女なら、船が遠ざかるまで、浮上してくる事はない。
 約一海里の距離を取っていたタッカは、三分後に彼女が飛び込んだ所に着いた。彼女をスクリューに巻き込まないために、船外機を止めた。
 奴等の船の航跡が、燐光で仄かに光っている。その明かりを頼りに、彼女を探した。
「おーい! どこだぁ!」
 だが、返事はなかった。
 今度は、オールを取り出して海面を叩いた。最悪は、鮫を引き寄せてしまう誉められない方法だったが、水中に居る彼女には、こちらの場所を知る手掛かりになる筈だ。十秒待って、もう一度、水面を叩いた。そして叫んだ。
「おーい! どこだぁ!」
 耳を澄ませた。
「ハァーイ。ここよ」
 真後ろ、それも耳元で声がしたので、驚きと恐怖で、大きくバランスを崩した。慌てて、手近なロープを掴んで体を支えた。
「いきなり後ろから声を掛けるなよ。海に落ちそうになったぞ」
「呼んだから、返事をしてあげたのに」と、膨れっ面を見せながらも、タッカから船外機の舵を奪った。
「さぁ、艇に戻るわよ」
 ゾディアックは、くるりと方向を変え、暗闇に沈んだS-2Rを目指して走り始めた。
 一般に、女性は方向感覚が鈍いと言うが、彼女だけは例外らしい。彼女が舵を握るゾディアックは、ほとんど一直線にS-2Rに着いた。
 彼女は、今度も軽々とS-2Rに乗り移った。
 この先も使う事があるだろうと思い、タッカはゾディアックを機内に収容しようとしたが、遠くに奴等の船の光を見つけた事で、状況が変わった。もう、舵を修理したらしい。ゾディアックの収容を諦め、コクピットの自分の席に飛び込んだ。
「奴等、もう舵を直したみたいだ」
 大慌てのタッカと違い、彼女はけろっとしていた。
「それ、言い忘れてたけど、舵を壊せなかったの」
「えっ!」
「だって、油圧のバルブがガチガチに固定してあったんだもの」
 確かに、仕方が無い事なのだろう。いくら天才と言っても、体重が50kgにも満たない細身の女性なのだから、腕力で男並みの仕事をしろと言うのは酷な話だ。
「さあ、離陸のチェックリストを読み上げるわよ」
 こんな状況下でも、彼女はタッカに操縦させようとした。最初は断ろうかと思ったが、彼女の向こうに見えた監視船の光が、タッカに決断させた。彼女の読み上げるチェックリストに従い、手早く離水準備を始めた。
 左舷の遠くに、彼等の船が見えていた。真っ直ぐに、こちらに向かってきている。残された時間は、僅かしかない。
「チェックリストを中断し、水上航走で逃げよう」
 タッカは、そう提案した。
 S2シリーズは、水上航走での燃費改善のために、APUの電源で船外機を駆動し、最大で十ノット程度の航行が出来る設計になっていた。
「だめよ。そんな事をしたら、チェックリストをやり直さなきゃ駄目になるわ。水上航走の速力だと、逃げ切れないでしょ」
 確かに、水上航走ユニットは、チェックリストの最初の方で収納の確認をする事になっている。反論しようかと思ったが、一基でも二基でもエンジンを起動した方が、逃げ切れる可能性が拡大する。
 彼女に肯くと、いつもより早口で読み上げられるチェックリストに従った。
 漸く、第一エンジンの起動に漕ぎ着けたタッカは、第一エンジンの咆哮を聞いてホッとした。
 その時、ぱっと目の前のガラスが白くなった。
「銃撃よ!」
 彼女の言葉を聞くまでもなかった。
 フロントウィンドスクリーンは、バードストライクに対応するため、下手な防弾ガラス並みの強度がある。一発や二発の弾丸では、最外層に傷が付く程度だ。だが、機体自体は、薄いアルミニウム合金だ。弾丸は簡単に貫通する。脇腹を鉄パイプでグリグリ押される錯覚を起こした。
 第二エンジンは、既に起動手順に入っていた。タッカは、第一エンジンの出力を上げ、機体を旋回させ始めた。奴等の船に、S-2Rの大きな土手腹を、見せておきたくなかったためだ。
 第二エンジンも起動を完了すると、出力を上げていった。第三エンジンの起動が完了する頃には、奴等の船は完全に背後になった。
「第四エンジンは停止のまま離水する」
 そう宣言し、エンジン異常時の手順に切り替えた。
「フラップを第四エンジン停止時のモードに切り替え、BLCオンで五〇にセット」
 第四エンジンが停止している場合、反対側の第一エンジン後ろのフラップはBLCを止める。左右の揚力のバランスを保つためだ。
「了解。フラップモード、4オフに切り替え。BLCオン。フラップ五〇」
 三基のエンジンを離昇出力へ上げた。
「BLCオンを確認。フラップ五〇。大気速度四十ノット」
 フラップ五十度で、今回くらいの燃料搭載量なら、六十ノットくらいでVlに達する。でも、奴等の船より速い速度なら、無理に離水する必要はない。
「五十五ノット、六十ノット、Vl」
 彼女が「六十五ノット」と言ったところで、操縦輪を軽く引いた。S-2Rは、軽飛行機のように、軽い身のこなしで海面を離れた。同時に、少し右に依れたが、トリムで修正した。
 水面すれすれを維持し、地表効果で揚力を稼いで、その分を速度に回す。元々、推力に余裕があるS-2Rは、一気に増速していく。
 彼等の船は、視界から消えた。彼等が、仮に対空火器を持っていても、もう攻撃してくる事はないだろう。
「フラップ四〇。BLC、オフ」
 これ以上、BLCをオンにしていると、推力が揚力に食われてしまう。BLCをオフにし、操縦輪を引いて速度を稼ぎつつ上昇に移った。
 彼女が読み上げる速度と高度が、順調に上がっていく。フラップを完全に収納するまで三基のエンジンで頑張り、第四エンジンも再起動チェックリストで起動した。
「燃料は充分。着弾による被害も無い。ただ、ウィンド・スクリーンにヒビが入っているので、与圧は上げないようにしよう」
 ウィンド・スクリーンのヒビは、思ったほど酷くない。流れ弾が掠っただけらしい。最外層の表面に小さな傷が付いただけだ。でも、上空で吹き飛ぶような事があれば、命はない。用心する事にした。
 七千フィートで機体を水平に戻し、機首をサンディエゴに向けた。
「大した物ね。御見事。でも、ここから先は私がやるわ」
 彼女は、タッカから操縦輪を奪った。でも、タッカには有り難かった。これ以上は、緊張を維持できそうになかったからだ。
 タッカは、座席を目一杯後ろに下げた。そして、大きく深呼吸し、ダーウィンの会議室を抜け出す時から続いていた緊張を、ゆっくりと解いていった。

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