伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 息が続く限り潜り続け、ゾディアックの方向に泳いだ。
 水面から出て振り返ると、左舷のボートが宙吊りになっているのが見えた。ユカリが細工したのだ。右舷もボートを宙吊りにしたら、彼女も脱出する。それまでに、ゾディアックに辿り着かなければならない。
 船尾で、チカチカと小さな光が見えた。光は、時に長い線となる事もあった。発砲しているようだ。発射音は、機関の音と船首が海を切り裂く音で掻き消され、タッカの耳に届く事はなかった。
 ゾディアックを先に流しておいて、正解だった。かなりの距離があるので、弾丸が届いても、ゾディアックのゴムに穴を開ける事はないだろう。タッカを狙うにしても、波間に浮き沈みしている頭だけを見付けるだけでも、至難の技だろう。
 タッカは、もう一度潜り、息が続く限り船とは反対方向に泳ぎ続けた。これで、奴等は完全に見失っただろう。浮上すると、ゾディアックを見付け、航跡のお陰で波が消えた海を全力で泳いだ。
 水を含んで重くなった上着は、海の中で脱ぎ捨て、ゾディアックを転覆させないように、重い体をゾディアックの中に引き上げた。ゾディアックの船外機は、一発で始動した。直ぐ様、奴等の船の追跡に入った。ユカリを拾うためだ。
 奴等の船は、未だに右舷のボートがそのままだった。ユカリが、失敗するとは思えない。
 十分な距離を開けて、右舷の様子を見詰めた。
 予定通り、右舷のボートがダペットを滑り落ち始めた。同時に、見事な空中姿勢で海にダイブする彼女の姿が見えた。舷側からは、弾丸が放つ光の線が延び、彼女の後を追ったが、弾丸は水面下一メートルも届きやしない。軽く四分以上も潜水できる彼女なら、船が遠ざかるまで、浮上してくる事はない。
 約一海里の距離を取っていたタッカは、三分後に彼女が飛び込んだ所に着いた。彼女をスクリューに巻き込まないために、船外機を止めた。
 奴等の船の航跡が、燐光で仄かに光っている。その明かりを頼りに、彼女を探した。
「おーい! どこだぁ!」
 だが、返事はなかった。
 今度は、オールを取り出して海面を叩いた。最悪は、鮫を引き寄せてしまう誉められない方法だったが、水中に居る彼女には、こちらの場所を知る手掛かりになる筈だ。十秒待って、もう一度、水面を叩いた。そして叫んだ。
「おーい! どこだぁ!」
 耳を澄ませた。
「ハァーイ。ここよ」
 真後ろ、それも耳元で声がしたので、驚きと恐怖で、大きくバランスを崩した。慌てて、手近なロープを掴んで体を支えた。
「いきなり後ろから声を掛けるなよ。海に落ちそうになったぞ」
「呼んだから、返事をしてあげたのに」と、膨れっ面を見せながらも、タッカから船外機の舵を奪った。
「さぁ、艇に戻るわよ」
 ゾディアックは、くるりと方向を変え、暗闇に沈んだS-2Rを目指して走り始めた。
 一般に、女性は方向感覚が鈍いと言うが、彼女だけは例外らしい。彼女が舵を握るゾディアックは、ほとんど一直線にS-2Rに着いた。
 彼女は、今度も軽々とS-2Rに乗り移った。
 この先も使う事があるだろうと思い、タッカはゾディアックを機内に収容しようとしたが、遠くに奴等の船の光を見つけた事で、状況が変わった。もう、舵を修理したらしい。ゾディアックの収容を諦め、コクピットの自分の席に飛び込んだ。
「奴等、もう舵を直したみたいだ」
 大慌てのタッカと違い、彼女はけろっとしていた。
「それ、言い忘れてたけど、舵を壊せなかったの」
「えっ!」
「だって、油圧のバルブがガチガチに固定してあったんだもの」
 確かに、仕方が無い事なのだろう。いくら天才と言っても、体重が50kgにも満たない細身の女性なのだから、腕力で男並みの仕事をしろと言うのは酷な話だ。
「さあ、離陸のチェックリストを読み上げるわよ」
 こんな状況下でも、彼女はタッカに操縦させようとした。最初は断ろうかと思ったが、彼女の向こうに見えた監視船の光が、タッカに決断させた。彼女の読み上げるチェックリストに従い、手早く離水準備を始めた。
 左舷の遠くに、彼等の船が見えていた。真っ直ぐに、こちらに向かってきている。残された時間は、僅かしかない。
「チェックリストを中断し、水上航走で逃げよう」
 タッカは、そう提案した。
 S2シリーズは、水上航走での燃費改善のために、APUの電源で船外機を駆動し、最大で十ノット程度の航行が出来る設計になっていた。
「だめよ。そんな事をしたら、チェックリストをやり直さなきゃ駄目になるわ。水上航走の速力だと、逃げ切れないでしょ」
 確かに、水上航走ユニットは、チェックリストの最初の方で収納の確認をする事になっている。反論しようかと思ったが、一基でも二基でもエンジンを起動した方が、逃げ切れる可能性が拡大する。
 彼女に肯くと、いつもより早口で読み上げられるチェックリストに従った。
 漸く、第一エンジンの起動に漕ぎ着けたタッカは、第一エンジンの咆哮を聞いてホッとした。
 その時、ぱっと目の前のガラスが白くなった。
「銃撃よ!」
 彼女の言葉を聞くまでもなかった。
 フロントウィンドスクリーンは、バードストライクに対応するため、下手な防弾ガラス並みの強度がある。一発や二発の弾丸では、最外層に傷が付く程度だ。だが、機体自体は、薄いアルミニウム合金だ。弾丸は簡単に貫通する。脇腹を鉄パイプでグリグリ押される錯覚を起こした。
 第二エンジンは、既に起動手順に入っていた。タッカは、第一エンジンの出力を上げ、機体を旋回させ始めた。奴等の船に、S-2Rの大きな土手腹を、見せておきたくなかったためだ。
 第二エンジンも起動を完了すると、出力を上げていった。第三エンジンの起動が完了する頃には、奴等の船は完全に背後になった。
「第四エンジンは停止のまま離水する」
 そう宣言し、エンジン異常時の手順に切り替えた。
「フラップを第四エンジン停止時のモードに切り替え、BLCオンで五〇にセット」
 第四エンジンが停止している場合、反対側の第一エンジン後ろのフラップはBLCを止める。左右の揚力のバランスを保つためだ。
「了解。フラップモード、4オフに切り替え。BLCオン。フラップ五〇」
 三基のエンジンを離昇出力へ上げた。
「BLCオンを確認。フラップ五〇。大気速度四十ノット」
 フラップ五十度で、今回くらいの燃料搭載量なら、六十ノットくらいでVlに達する。でも、奴等の船より速い速度なら、無理に離水する必要はない。
「五十五ノット、六十ノット、Vl」
 彼女が「六十五ノット」と言ったところで、操縦輪を軽く引いた。S-2Rは、軽飛行機のように、軽い身のこなしで海面を離れた。同時に、少し右に依れたが、トリムで修正した。
 水面すれすれを維持し、地表効果で揚力を稼いで、その分を速度に回す。元々、推力に余裕があるS-2Rは、一気に増速していく。
 彼等の船は、視界から消えた。彼等が、仮に対空火器を持っていても、もう攻撃してくる事はないだろう。
「フラップ四〇。BLC、オフ」
 これ以上、BLCをオンにしていると、推力が揚力に食われてしまう。BLCをオフにし、操縦輪を引いて速度を稼ぎつつ上昇に移った。
 彼女が読み上げる速度と高度が、順調に上がっていく。フラップを完全に収納するまで三基のエンジンで頑張り、第四エンジンも再起動チェックリストで起動した。
「燃料は充分。着弾による被害も無い。ただ、ウィンド・スクリーンにヒビが入っているので、与圧は上げないようにしよう」
 ウィンド・スクリーンのヒビは、思ったほど酷くない。流れ弾が掠っただけらしい。最外層の表面に小さな傷が付いただけだ。でも、上空で吹き飛ぶような事があれば、命はない。用心する事にした。
 七千フィートで機体を水平に戻し、機首をサンディエゴに向けた。
「大した物ね。御見事。でも、ここから先は私がやるわ」
 彼女は、タッカから操縦輪を奪った。でも、タッカには有り難かった。これ以上は、緊張を維持できそうになかったからだ。
 タッカは、座席を目一杯後ろに下げた。そして、大きく深呼吸し、ダーウィンの会議室を抜け出す時から続いていた緊張を、ゆっくりと解いていった。

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 監視船は、支援船の船尾から右舷後方三百メートル足らずに、左舷船尾を見せていた。
 ユカリは、右舷側に回り込むように泳いだ。タッカにも理由の見当がついたが、向かい風の中を泳ぐので、リングスクリューとの格闘で体力を奪われた体には辛かった。
 波高はそれほどでもなかったが、波が押し寄せる度にサーフィンのように流されるし、支援船から丸見えになってしまう。それで、波頭が近付く度に水中に潜ってやり過ごすのだが、繰り返す内に更に体力を消耗し、同時に彼女との距離が開いて行った。
 体力には自信があるが、彼女には適わない。
「女、子供は、足手纏いだ!」とは、映画やドラマでのヒーローの決まり文句だが、今のタッカは、彼女の足手纏いになっている。悔しさと歯痒さが、タッカの頭を支配した。
 彼女は、三分の二を潜って泳いだ。残りの三分の一の大部分は、タッカが追いつくまでの時間だった。彼女は、一度潜ると、平気で三、四分も水中を泳いだ。彼女の驚異的な心肺機能は、赤ん坊の頃から海に慣れ親しみ、専門的な訓練と遊びの中で培われた。子供の頃は、起きている時間の半分を海中で過ごしたという。昼寝は、水の中だったとも言っていた。
 だから、彼女に適わないのは当然としても、せめて彼女に気遣いさせない程度には泳ぎたかった。それでも、一時間も泳ぐと、監視船の舷門が視認できる所まで来た。
 ユカリは、監視船の右舷側に回り込んだ。監視船の乗組員の注意は支援船に集中している筈だし、支援船を乗っ取った連中も監視船を気にしている。だから、支援船からは裏側に当たる右舷は、注意が届いていない筈だ。
 彼女は、彼等に見付からないように潜水したまま、一気に舷門に近付いた。
 タッカは、時間を掛けて呼吸を整えた。そして、彼女と同じ様に潜ると、監視船の舷側に張り付いた。
 ここまで来ると、監視船からは、舷側から体を乗り出して覗き込まない限り見つかる心配は無かったが、風と波に逆らって船を立てているので、じっとしていると直ぐに流されてしまう。流されてスクリューに巻き込まれるのは、二度と御免だった。
 彼女は、舷側に手掛かりを見つけて、水面上一メートル程の所にある舷門に取り付くと、舷門を開けた。そして、中の安全を確認すると、まだ海面に漂うタッカに手を伸ばした。その手を掴み、海中から浮力の無い世界へとタッカは重い体を引き上げた。
 一時間ぶりに浮力の無い世界に戻った二人は、機関室を目指した。
 タッカは、彼女が無線室へ行かない事が納得できなかった。でも、体力を消耗してしまい、浮力の無い世界の感覚が戻ってこない重い体を抱えていては、彼女に付いて行くしかなかった。
 支援船の中ではあれほど苦労したのに、今度は、勝手知ったる他人の船とばかりに、何の障害も無く、あっさりと機関室に行き着いたのには、タッカ自身も呆れてしまった。
 途中の経路同様、機関室も無人だった。機関制御室は船橋の片隅にある筈で、機関室自体は完全に無人化運転が可能になっていた。
「なぜ、無線室に行かなかったんだ?」
 アイドリングとは言え、かなりの騒音の中でタッカは喚いた。
「無線室で何をするの」と、彼女も喚き返す。
「もちろん、救助要請を送信するんだよ」
「それで、殺されちゃう訳? 敵の懐深く潜入して救助信号は発信したら、無事に帰してもらえる訳はないわ。脱出は不可能よ。この船を制圧するしか手は無いけど、そうしようとすると、流血は避けられない。自分の手を血で汚すつもりなの?」
「じゃあ、救助要請は出さないのか。それこそ、この船を制圧するしかなくなるぞ」
「救難信号は、S-2Rから出せばいいじゃないの。そのために、ここに来たんだから」
 ディーゼルエンジン特有の臭気が漂う機関室で、彼女は鼻をひくつかせながら言った。
「いいわ。今からその説明をするから」
 彼女の考えでは、機関を全開で固定すると同時に舵を直進で固定して、監視船を暴走させるのだ。直後に、タッカが後部のボートハッチからゾディアックを略奪して脱出し、彼女の脱出を待つ。彼女は、舵の細工をした後、ボートデッキに上がり、救命ボートと救命筏を切り離して使用に不能にした上で、脱出する。
「いくら風下だって、二海里近くも離された所まで泳ぐとなると、二、三時間は掛かるでしょ。その間にー海里は流されるから、コンスタントに泳いでも早くて三時間、遅ければ六時間掛かるのよ」
「だけど、機関を全開にするのは、支援船での乗組員の立場を変えるためなんだろ?」
 ユカリは小さく肯くと、「いい方に変わるといんだけど」と言った。
 監視船の異状を、支援船の乗組員がどう利用するかによって、チャンスにも危機にも変わるだろう。彼女は、それを懸念しているのだ。
「兎に角、始めましょ」
 監視船も二軸船で、機関は二基ある。それぞれの機関は、機関室の壁にある制御盤で制御されている。実際には、この制御盤は、船橋脇の機関制御室から遠隔操作されている。
 彼女は、ディーゼルエンジンの列式燃料噴射ポンプのスロットルワイヤーに注目した。まず、ワイヤーが動かないように工具を噛ますと、リターンスプリングを逆向きに付け直した。これで、工具を外すと、リターンスプリングの力で機関は全開になる。
 ここまで準備したところで、彼女は一人で船尾に向かった。舵の油圧シリンダーから作動油を抜くためだ。航空機と違い、船舶の油圧系統は多重化していないが、この船は、船尾の特殊な形状から、二枚の舵を持っていて筈だ。二枚の舵は、それぞれが独立した油圧系統で作動する。彼女が二枚の舵の両方に細工を終えるまで、機関室で一人で待機しなければならない。
 機関室の入り口のハッチの一つは、意図的にロックを外してある。これは、敵に脱出経路を勘違いさせるためだ。そのロックされていないハッチから、敵が侵入してくるのではないかと、ひやひやしながら見詰めていた。
 視線をダイバーウォッチに移した。
 約束の時間まで、一分十七秒、十六秒、十五秒……。
 早々と、左舷の燃料噴射ポンプの脇に居た。とても、じっと待っている気持ちにはなれなかった。
 左舷から機関を全開にすれば、監視船はいくらか右舷方向に変進し、支援船の右舷方向、つまりS-2Rから真っ直ぐに遠ざかる筈である。
 彼女は、機関制御盤も、スロットルワイヤー自体も、細工しない事を主張した。彼女は、何処も破壊されていなければ、敵は機関制御盤の故障を考える筈で、リターンスプリングの細工に気付くまで時間が掛かると考えた。確かに、スロットルワイヤーを切断していれば、直接、燃料噴射ポンプを制御しようとするから、直ぐにリターンスプリングの細工に気付くだろう。機関制御盤が破壊されていれば、両舷の機関が同時に暴走する筈が無いので、やはり機関に直接細工した事に気付き、苦も無く細工が見つかるだろう。
 逆に、リターンスプリングだけの細工では、見つければ復旧も早い。むしろ、作動油を抜く舵の方が復旧に時間が掛かるだろう。
 また、時計を見た。
 ちょうど三十秒前だった。
 タッカは、ワイヤーを固定している工具を掴んだ。そして、時計の針を追いながら、秒読みを始めた。
 十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
 力一杯、工具を抜き取った。間の抜けた音と共にスプリングが縮み、機関が轟音をたてて加速し始めた。それは、Gとなって体でも感じられた。キャットウォークを走り、右舷の機関に飛び付いた。そして、同じ様に工具を抜き取ると、手摺を飛び越え下の床に飛び降りた。
 両舷の機関は全開になって、監視船は猛然と加速し始めていた。
 タッカは、つい数分前にユカリが通ったシャフトトンネルに潜り込んだ。機関からスクリューに伸びるシャフトのメンテナンス用のトンネルだった。
 トンネルは、高さが一メートル半程、幅も一メートルちょっと。トンネルの床には、ビルジが小さな水溜まりをあちこちに作っている。そこを、一抱えも有りそうなシャフトは、油を飛び散らしながら、恐ろしい勢いで回転していた。これに巻き込まれたら、ズタズタに引き千切られそうだ。
 顔をシャフトに摺り寄せるよう態勢で腰を折り、横向きの蟹走りで、薄暗いトンネル内を駆け抜ける。シャフトから油が飛び散り、顔が油だらけになるのも構わず、タッカは蟹走りを続ける。
 ほんの十数メートルで、トンネルは行き止まりになった。その手前に、ハッチが有った。だが、ハッチはシャフトの向こう側に有った。
 そこで逡巡していると、入ってきたハッチがガチャガチャ音を立て始めた。脱出ルートがこのトンネルである事がばれると、その後の脱出時間が短くなってしまう。
 シャフトは、船尾に向かって反時計周りに回転している。その右側に居るタッカは、抱き付くようにシャフトに乗った。ところが、想像以上の回転力で振り飛ばされ、反対側の壁面に体を打ち付けた。シャフトと床の間に挟まれたのでは、堪ったものじゃあない。ビルジに足を取られながらも、急いで起き上がり、ハッチを出た。
 ハッチの外は、ロープやワイヤー等が収納された船倉だった。さっと辺りを見回し、見付けた梯子を駆け上った。
 最後のハッチを抜けると、右舷の後部デッキに出た。船尾を見ると、御誂え向きに船外機が付いたゾディアックが二艘あった。その一艘を奪い、もう一艘を海に捨てれば、脱出に成功する。
 タッカは、ゾディアックに駆け寄った……が、そこで息を呑んだ。
 ここまで誰にも出会わなかったので、油断していた。後部デッキの左舷には、遠ざかる支援船を気にする船員が五、六人いた。
 幸いな事に、全員が支援船の方を見ている上、機関銃等を持っている気配はなかった。ゾディアックに掛けられたネットを外し、一艘を逆様に海に投げ込んだ。これで、船外機は水に浸かり、簡単にはエンジンが掛からなくなった筈だ。最悪、敵の手に落ちても、脱出の時間は充分に稼げる。
 次の脱出用のゾディアックのネットを外し始めた時、「そこで何をしている!」と、大きな声が聞こえた。このゾディアックを奪わない限り、脱出の見込みはない。船員が武器を持っていなかった事を思い出し、手を止める事無くネットを取り払った。
 この行動は、賭けだった。
 ユカリは、武器を持たない者にはいきなり発砲する事はほとんどないと、言っていた。それに賭けたのだ。彼等は、持っていてもピストルで、ネットを外す人間を見ただけで発砲する筈はなかった。
 軽く肩を掴まれた。
 タッカは立ち上がり、相手を見下ろした。一七〇センチくらいのスラブ系の白人だった。大した警戒心も持っていなかったが、東洋系のタッカの顔を見て、見る間に緊張を顔に現した。
 男を無視して作業に戻り、ゾディアックをできるだけ静かに投げ入れた。全開で突っ走る船から、ゾディアックはあっと言う間に遠ざかった。
「何をするんだ!」
 男は、ヒステリックな大声を上げた。全開の機関の騒音の中でも、この声が聞こえたのか、他の船員も舷側に張り付いたまま、こちらに振り返った。
 タッカは、立ち上がって握りこぶしに力を込めると、十五センチも背が低い相手を上から思い切り殴り降ろした。男は、呆気なく崩れ落ちた。それを見ていた他の船員は、何が起こったのか理解できずに呆然としていたが、少し遅れて状況を飲み込み始めた。
 騒ぎ始めた船員達の怒声を背中に聞きながら、海に飛び込んだ。

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