伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 直後、地上からの無線に呼び出された。
「いったい何をやってくれたんだ?」
「その前に聞くことはないのか?」
「そんなもの、あるわけないだろう!」
 それを聞いた途端、佐々は無線を一方的に切った。安否確認さえしない態度に腹がたった。
 直ぐに、呼び出しが鳴った。
「最初に言う言葉を思い出したか?」
「ふざけるな!」
 それだけ聞けば充分だった。声は、常務だろうと思う。彼は、今回の宇宙旅行の責任者だ。その人物を信用できないとは、情けない。
 また、無線を切った。直後に呼び出しが鳴ったが、今度は無視した。
宇山のローテーションまで待とう。
 それが、彼の結論だった。
 2時間余り後、彼の方から連絡を入れた。
「無事だったようだな」
 宇山の重い声が返ってきた。
「約束通り、減速をした。迎えに来てくれるな」
「あちこちに交渉中だ」
「期待せずに待つよ」
「それより、宇宙エレベータとニアミスしたみたいだが、何をやらかしたんだい?」
「帰還したら、二人で本を出そう。このネタは、その時に教えるよ」
「楽しみだよ、ったく」
 宇山のしかめっ面が目に浮かぶ。
 テレメータの読み上げが始まった。半日ぶりの読み上げになった。読んでいく途中で、一ヶ所だけ気になるところがあった。
 読み上げが終わると、宇山が先に口を開いた。
「空気が漏れているかもしれない」
「俺も気になった。減速時に船体に無理を掛けたのかもしれない」
「あそこを見ておくべきだろうな」
「そうするよ。状況によっては、相談するかも」
「任せてくれ」
 無線を切ると、エアロックを出た。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 佐々は、麗子を押し退けるように通り抜けた。そのまま、1層上のサロンに向かった。
 思った通りだった。
 ハッチに施した応急措置の回りに、埃が吸い寄せられていた。吸い出されていく空気で、埃が揺れている。甲高い音も聞こえる。
「やっぱり漏れてたか」
「あたし、ちゃんと塞いでおいたわよ」
 いつの間にか、彼女は背後に来ていた。
 確かに、彼女は念入りに補修剤を塗り付けていた。補修板と補修板の隙間はもちろん、補修板の表面全体やその周囲まで満遍なく塗り付けてあった。
「原因は、宇宙エレベータにぶら下がったからだ。船首が破壊されているから、歪みが出たんだと思う。ただ、問題は、誰かさんが補修剤を使いきった事さ」
「他には補修剤は無いの?」
「あれが全てさ」
「あたしが指で押さえておくわ」
 事故直後の情景が目に浮かぶ。
 麗子は、シーツでクラックを塞ごうとして、手を吸い取られたのだ。
「マイナスドライバーは、ここには無い。吸い付かれたら、助けようがない。それより、手伝ってくれないか」
「思い付いたの?」
「ああ、シーツの代わりをな!」
 べとべとに塗ってある補修剤に指先で触れてみた。強い粘着力は、衰えていなかった。
 必要な品を求めて、倉庫へ向かった。
 ゴミ箱の中から、使用済みのレトルトパックを見つけ出した。パックを開封する時に使う鋏とピンセットも、用意した。
 更に、新聞紙程の大きさのビニールを見つけ出した。交換用のシーツを入れてあった包装用のビニール袋だ。
 サロンに戻ると、不安そうな面持ちで麗子が待っていた。
「これを直径1cmくらいの大きさで、できるだけ丸く切ってくれ。10個くらいあれば足りるはずだ」
 渡されたレトルトパックと鋏を受け取ると、何も言わずに作業を始めた。彼女の手先の器用さが、意外に感じた。
 切り取られた丸い切れ端を、ピンセットで摘まみ、漏出が続く隙間に重ね貼りしていく。2ヶ所あった隙間を、レトルトパックの切れ端で埋め尽くした。
「もう一仕事だ。これを広げてハッチを覆うんだ」
 ビニール袋を示した。
「ハッチを覆ったら、周囲から補修剤に貼り付けていくんだ。周囲をきちんと貼れば、真ん中の方は自然に貼り付く筈だ」
 二人でビニールを広げて、ハッチに貼り付けた。周囲を、粘着力が残る補修剤に貼り付けていくと、中の空気が船外に吸い出され、びたりとハッチに貼り付いた。
「我ながら、上手くいった」
「これで、大丈夫ね」
 答えずに、エアロックに戻ると、備品リストを端末に表示した。目的の品が何処にどれだけあるのか、これから必要になりそうな品はないか、リストに探した。
 リストをチェックし終わった頃、宇山から無線が入った。
「いい知らせか?」
「当たりだ」
 皮肉のつもりで言ったから、朗報と言われると返事ができなかった。
「嬉しくないのか?」
「あ、いや、なっ内容しだいだ」
 無線の宇山が笑っているだろうなと思った。
「君らの救出するロケットの発射日が決まった」
 耳を疑った。
「但し、問題がある」
 やっぱり。
「ギリギリの高度になるから、君らがシャトルの外に出て、自力で乗り移ってほしいということだ。しかも、ランデブーから30分以内だそうだ」
「ここまで軌道を下げても足りないのか?」
「まだ高いと言ってきている」
「宇宙服が一つしかないことも、承知しているのか?」
「聞かないでくれ」
 宇山の気持ちもわかった。
「今まででは最高の朗報だ」
「ちょっと聞いてくれ」
「なんだ?」
「残った燃料で目一杯減速できないか?」
「いいアイデアだ。噴射のタイミングと、地球に落ちないか、教えてくれ」
「できるのか?」
「できなきゃ、乗客を見捨てる事になる。二人揃って帰るか、彼女だけが帰るかのどちらかだ。さっきの話だと、俺一人しか助かりそうにない。そんな救出案は、無いのと同じだ。やれるだけやってみる」
「必要なデータは、こちらで用意する。俺も、二人揃って帰るか、俺が死ぬかの覚悟で闘う」
「わかっているさ。君が救出ロケットを用意してくれた事を」
「通信、終わり」
 照れたのか、宇山は本当に通信を切った。
 やるべき事は、明白だ。宇宙服を整備し、もう一度だけブリッジに行けるようにする事だ。
 直ぐに、作業に取り掛かろうとした。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 最後の軌道修正は、近地点で行う。それまで、一時間を切っている。
 時間が無い中で呼び掛けられたから、二度目だとわかっていながら、無下にせざるを得なかった。
 最低限の整備しかできない事はわかっていた。
 二酸化炭素除去フィルターは、一度目の船外活動で使ったものに戻した。
 推薬の残量は、僅かだった。ブリッジまでの往復は無理だ。命綱が無いので、万が一、船体から離れてしまった際に、戻ってくるために残しておく。
 酸素は、充填を諦めた。充電を優先するためだ。まだ2時間分は残っているし、フィルターの限界を越えれば酸素の残量は関係無い。
 時間が許す限り、充電を続けた。その間に、倉庫の中からロープを探し出し、エアロックに戻った。
「あれ?」
 辺りを見回した。ヘルメットが無いのだ。
 麗子なら知っているかもと思い、エアロックを出ると、彼女がヘルメットを持って浮かんでいた。
「また出るの? ほんの数時間前に死にかけたばかりじゃない」
「いいか、聞いてくれ」
「あたしの話は聞けないのに、自分の話を聞けっていうの?」
「今なら90%の確率で助かるが、5分後には0%まで下がる。時間が無いんだ!」
 ヘルメットを掴み、奪い取ろうとした。ヘルメットを掴んだ左手に激痛が走った。
「骨折している手で、何ができると言うの」
「幸い左手だ。ほとんど関係無い」
 左手から右手に持ち代えようとしたが、彼女は後ずさった。
「わかった。君は俺を殺したいんだな。俺を殺したいなら、それを持っていればいい」
 佐々は、手を引いた。
 彼女に任せた。
 麗子は、迷っているようだった。だが、意味は理解していた。
「90%の確率は本当なの?」
「今すぐなら」
「だったら、あたしが行きます。怪我してるあなたより、あたしの方が上手くできるわ」
「この宇宙服は、俺の体に合わせてある。体に合わない宇宙服だと、スイッチ一つ操作できないぞ」
 スイッチと聞いて、彼女の血の気が引いた。
 その隙に、ヘルメットを奪った。
「本当にできるの?」
「時間が無い。宇宙服をエアロックに押し込んでくれ。それが終わったら、エアロックの外で待っていてくれ。2時間以内に戻ってくる」
 彼女は言われた通りにした。
 ヘルメットの内側は、汚物を綺麗に拭き取ってあった。バイザー越しの宇宙は、佐々に恐怖を呼び起こした。
 佐々は、慎重に船外に出た。シャトルの外壁には、手掛かりらしい突起はほとんどない。点検孔やメンテナンス用の小さなハッチ等を辿り、ブリッジに向かった。
 意外だった。彼のリーチの範囲内で、エアロックからハッチまで、何がしかの手掛かりがあった。シャトルの屋根部分は、大気圏突入時にも極端な高温にはならない。
 だからだろうか。アンテナやピトー管等があちこちにあった。
 佐々は、開けっ放していたハッチからブリッジに入った。
 直ちに、軌道修正の準備に入った。近地点は、数分後に迫っていた。シャトルの姿勢を変え、軌道修正ロケットを点火した。
 軌道修正ロケットは、2分余りで燃料を使い果たし、自動で停止した。
 軌道修正で、船体の姿勢が乱れたので、姿勢制御する。制御権をエアロック側に移し、各スイッチを切って行く。
 今度こそ、ここに戻ってくる事はない。
 一通りのシャットダウン手順を終えたところで、酸素残量と二酸化炭素濃度をチェックした。まだ、30分は動ける。
 シャットダウンの再チェックを行う。
 失敗は許されないが、落ち着いて行動すれば、何も心配する必要はない。
 チェックが終わったところで、キャビンに向かった。ハッチの状態を、裏側から見ておきたかった。
 ハッチは、見た目に異常は感じなかったが、ロックハンドルは、僅かに弛んでいた。きちんと締め直した。
 自分と麗子のスーツケースを手に、ブリッジに戻った。
 二つのスーツケースの持ち手部分にロープを通して結わえ、2mくらいの余裕を取って体に結びつけた。もう一端は、ハッチのハンドルに通した上で、これも体に結びつけた。
 ハッチからスーツケースを押し出し、続いて彼自身も外に出た。
 来た道を引き返すため、右手を伸ばして最初の手掛かりのピトー管を掴んだ。体を引き寄せ、次の小さな点検孔に左手の中指を掛け、更に引き寄せた。
 次の手掛かりに視線を移し、右手を伸ばした。
 ゴツン!
 何かが、バックパックに追突した。強い衝撃ではなかったが、体が頭の方に押し出された。手掛かりを持つ左手で体を支えようとした時、手首に電気が走った。
 一瞬の事だっだが、気が付くと、体が船体から浮かび上がっていた。右手を伸ばしたが、船体にさえ届かなかった。
 躊躇う事なく、ロケットを噴射する。だが、直ぐにガス欠を起こし、船体から遠ざかるのを防ぐ程度だった。
 佐々は、ロープを引いた。軽い手応えがあり、体はゆっくりとハッチに向かって流れ始めた。
 間も無く、船体に手が届き、手掛かりを確保できた。
「振り出しに戻るっか」
 一人ごちた。
 バックパックにぶつかったのは、スーツケースだった。気をつけて進む事にする。
 再び、手掛かりを辿り始めた。左手は、ズキズキ痛み、感覚が鈍くなっている。力も入らない。
 振り出し以前に戻った気分だった。
 慎重に一歩ずつ進む。

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  第三章
 
 息苦しさはない。だが、頭痛と吐き気に、目眩が加わった。
 ハッチから頭を出し、周囲の安全確認した。真っ暗闇の宇宙空間で、淡く視野が霞む。
 駄目かもしれない。
 弱気を振り払うために、頭を振った。
「うっげぼっ!」
 激しい吐き気に襲われた。胃から喉を突き破り、口の中へと噴き上げてくる。焼けるような痛みが、胃から喉、そして口へと広がる。
 佐々は、逆流してきた胃液を口の中で塞き止めた。吐き出し、バイザーを汚したら、視界を失う。バイザーの内側は、曇り止めの加工はしてあるが、吐瀉物までは対策されていない。
 胃は、腹の中で捻られたようで、繰り返し胃液を噴き上げてくる。それを頬を膨らませて堪える。
 吐き気が落ち着くのを待つつもりだったが、そんな余裕はないようだ。
 背中の推進ロケットを噴射させた。
 宇宙空間での噴射は慎重を要する。抵抗が無いので、噴射を続ければ、速度が上がりすぎる上、減速にも同じだけの噴射が必要になる。失敗すれば、永遠に宇宙を彷徨う事になる。
 佐々は、リスク覚悟で連続噴射を始めた。
 加速力は弱いが、連続噴射の効果で徐々に速度が上がっていく。
 噴射の向きを90度変え、シャトルから離れないように飛ぶ。
 推進剤は十分にある。
 大胆に行こう。
 ブリッジを回り終わる前に、噴射の向きをに90度変えた。それでも、シャトルの屋根の上に出ると、慣性で離れていく。
 だが、佐々は船尾にあるエアロックに向かって加速を続けた。
 佐々は、ブリッジを出る際に最終チェックをした事を後悔した。チェックで異常はなかった。無駄に時間を浪費しただけだ。
 佐々の視線は、エアロックに釘付けになっていた。なんとかブリッジでの遅れを取り戻したかった。
 ふと気付くと、エアロックが近かった。
 気持ちが急き、逆噴射するタイミングが遅れた。スピードを上げすぎた。
 このままでは、エアロックを通りすぎてしまう。
 佐々の目に、エアロック脇の埋め込み取手が映った。減速を諦め、取手に向かうように噴射方向を変えた。
 埋め込み取手は、大気圏を飛行する際の空気抵抗を減らすため、船体内に埋め込まれていて、船体表面と面一になるように二分割の蓋が付いている。赤い枠線で囲まれた蓋は、軽く押すだけで、内側に開き、取手を握れる仕組みになっている。
 佐々は、取手に向かって斜めに突っ込んでいった。そして、埋め込み取手に左手を入れた。蓋は、何の抵抗もなく開き、取手をがっちり掴んだ。
 だが、慣性で取手を軸に体が回転し、船体に激突した。歩くより遅い速さだったが、宇宙服を通して腹に衝撃が伝わった。
 同時に、口の中に堪えていた吐瀉物を吐き出した。胃液の臭気が鼻腔を刺激し、猛烈な吐き気が胃を襲い、噴水のように吐いた。
 あっと言う間に、バイザーは吐瀉物で黄色く汚れ、視界を奪っていった。バイザーに当たって飛び散った雫がヘルメットの中を漂い、右目に入った。
 思わず、手をやったが、外側からヘルメットを叩いただけだった。
 痛みと吐き気でのたうった。のたうちながら、佐々は、ぞっとした。同時に、ほっとしてもいた。
 左手は、今も取手を握っていた。右利きだったから、目に吐瀉物が入った時も右手を使った。取手を右手で掴んでいたら、どうなっていただろう。
 だが、視界は完全に奪われた。手探りで操作するしかない。幸い、慣性は無くなり、左手一本でぶら下がるような体勢で安定していた。
 左手で体を引き寄せようとした時、痛みを感じた。痛みは直ぐに引いた。大した事はなさそうだ。
 エアロックは、思ったより簡単に開ける事ができた。ただ、体が思うように動かない。しかも、エアロックに灯りが点かなかったらしく、汚れたバイザー越しにはエアロックの位置がわからなかった。
 手探りで場所を確認し、重い体をハッチから中へと入れた。体を捻り、ハッチを閉めた。最後の力を振り絞り、ロックした。
 佐々は、自分の体勢を自覚していなかった。目眩のせいで、平衡感覚を失っていた。それに気付かされたのは、エアロックの加圧ボタンを押そうと思った時だった。
 思っていた位置には、加圧ボタンは無かった。その周囲も手探りしたが、手がボタンに触れる事はなかった。
佐々が気付かない内に、彼の体は、180度近く回転していたのだ。
 加圧ボタンを探し当てるまで、狂ったようにエアロック内を探し回った。
 漸く加圧ボタンを見付けた時には、朦朧としていた。エアロック内で、のたうち回ったので、二酸化炭素濃度を更に上げてしまったのだ。
 早くヘルメットを脱ぎたかった。ヘルメットの咽頭部にあるロック解除レバーを引き起こそうとしたが、びくともしない。
 ロック解除レバーは、フールプルーフ設計になっている。ヘルメットの内外気圧差が30hPa以下にならないと、ロック解除はできない。
 平時の佐々なら、気圧差が無くなるまで待つのだが、今の彼は時間感覚を失っていた。
 頭痛は治まりかけていた。喉の痛みも、感じなかった。左手の痛みもない。不快感は消え、浮遊感が気持ちよいくらいだった。
「助かったのか」
 ロック解除レバーを引き起こそうとしていた右手から、力が抜けていった。
 バイナリースターを運営するルナプロジェクト社は、日本では唯一の観光用宇宙船運営会社だ。
アメリカの民間宇宙旅行会社に遅れて発足したため、設立当初から月面旅行を目指す事で巻き返しを狙っていた。バイナリースターは、万を辞して登場した世界初の月往還宇宙船だった。
 初飛行の搭乗客を募集したところ、一人当たり1000万ドルにも届こうかという高額のため、日本からの応募は相浦家の二人だけだった。その二人も、宗太郎氏がメディカルチェックで搭乗できなくなり、麗子一人の搭乗となった。
 相浦宗太郎氏は、三代続く製薬会社の会長職に就いている。孫娘の麗子は大学在学中の二十二歳。夏休みを利用し、地上訓練と月世界旅行に挑んだ。
 星出未来は、ルナプロジェクト社に入社して7年のパイロットだ。月に向かうのはもちろん、衛星軌道はおろか、弾道飛行の経験さえ無かった。彼女が搭乗する事になったのは、女性である麗子の存在があったからだ。
 佐々は、JAXA出身の宇宙飛行士だ。宇宙ステーション往還機の操縦士の経験に加え、船外活動も経験があった事から、ルナプロジェクト社がバイナリースターの船長候補としてヘッドハンティングした。
 彼ら三人を乗せたバイナリースターは、前世紀のアポロ13号同様の大事故を似たような場所で発生し、同じく自由帰還軌道で地球に帰ろうとしていた。
 何となく、唇に暖かさを感じた。その暖かさが離れていくのに合わせて、意識が戻ってきた。
「佐々さん。佐々さん」
 呼び掛けに、佐々は小さく頷いた。
 麗子の声だった。
 ゆっくりと目を開けた佐々だったが、ただ明るいとだけ思った。全身が脱力しているが、体を動かしたいとは思わなかった。
 寝惚けたような感覚で、再び眠りに落ちそうだった。
「佐々さん。大丈夫?」
 頬を二三回叩かれた。
 頬を叩く手を払い除けようと思ったが、夢の中で抵抗するような感じで、思うように動かない。
 思わず「五月蝿いなぁ」と呟いた。
「良かったわ。意識が戻ったのね。ゆっくり休んでね」
「五月蝿い」と言って「良かった」と返されたのは、生まれて初めてだろう。
 佐々は、意識がはっきりしてくるのを自覚した。自分が置かれている状況も、徐々に把握できるようになってきた。
 ヘルメットは脱がされていた。
「助かったのか」
 指が動かしてみた。見えないが、動いているようだ。
 右腕を目の前まで持ってきた。
 間違いない。動いている。指も大丈夫だ。
 痛むところがないか、順番に動かし、確かめた。
 左手首と上腕が痛むが、他は問題なかった。頭痛と吐き気が戻ってきたが、我慢できない程ではない。
 佐々は、宇宙服を脱いだ。
 エアロックを出ると、麗子が待っていた。
「上半身裸になって」
「何を言ってるんだ」
「こう見えても、医大生ですからね」
 大学生とは知っていたが、医学部とは思わなかった。だが、事故直後の未来への処置と判断の早さも、医大生なら頷ける。
 佐々は上半身裸になった。彼女は、聴診器を当てた。
「どうやら、誤飲はなかったみたいね」
 聴診器を外しながら、そう診断を下した。
「ちょっと腕を見せて」
 彼女が左手を取った時、鈍痛を感じた。
「やっぱり痛むのね。腫れてきているから、折れてるかもしれないわ」
「まさか。そんなに痛くないぞ」
「二酸化炭素中毒は、神経を麻痺させるって言ってわね。明日あたり、痛み出すかも」
 医大生程度では分かるまいと、鼻で笑った。

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