伊牟ちゃんの筆箱

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「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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 水中エレベータ

 一瞬の無重力感で、S-2Rから切り離された事が分かった。次の瞬間、海面に叩き付けられ、狭い水中エレベータの中で十本のボンベと一緒にシェークされた。
 ボンベの上に寝そべっていたので、ボンベの上に腹から飛び降りたようになった。ボンベの左右の脇腹、鳩尾に食い込み、息が詰まった。頭もしたたか打ち付け、目から火花が飛んだ。ボンベ同士もぶつかり合って、水素ガスだらけの中で火花も飛んだ。だが、爆発はしなかった。
 外も賑やかだった。
 水中エレベータの懸架装置ごと切り離したせいで、水中エレベータの上にそれが圧し掛かるように激突した。
 S-2Rは、航空機だから、限界まで強度を落として軽量化を図っている。だから、水中エレベータは、機体には大きな負担となっている。万が一、水中エレベータに異常が発生した場合、機体にまで影響が及んでしまう。それを防ぐために、水中エレベータを懸架装置ごと切り離す事ができる。逆に、機体側に異常が発生した場合も考慮し、水中エレベータ側でも切り離しができる。ただ、切り離す場所が違う。
 水中エレベータは、釣り下げている側、この場合にはS-2Rの波浪による揺れでケーブルに大きな力が掛かって切断する事を防ぐために、必ず懸架装置が付属する。水中エレベータを切り離す場合、懸架装置から伸びているケーブルも切り離さなければ下部ハッチが閉められない。このため、S-2R側で切り離す場合、懸架装置毎、切り離してしまう。
 逆に、水中エレベータ側で切り離す場合、懸架装置分の余剰浮力を持っていないので、水中エレベータのケーブルスタンド部分で切り離す。
 当初の予定では、水中エレベータを降ろして水中エレベータ側で切り離す予定だった。だが、銃撃を受けた事で、一々水中エレベータを降ろす暇はなくなった。だから、ユカリは、機体側で切り離す大胆な手段を選んだ。
 タッカは、体の痛んでいる所をチェックした。
 心配は無さそうだ。
 そう思っていると、水中エレベータは一気にひっくり返った。懸架装置が水中エレベータより先に沈降し、水中エレベータを引き摺っているのだ。傾くに連れ、一旦は落ち着きを取り戻していたボンベが暴れ始めた。水中エレベータが一気にひっくり返る瞬間、天地が逆になり、体の上にボンベが降ってきた。
 慌てて、水中エレベータ切り離しスイッチをまさぐったが、その腕の上にも容赦無くボンベが降った。
「うっ!!」
 思わずうめきが漏れた。ボンベがぶつかったのが腕だったのに、激しい痛みで息が詰まった。ボンベに押しつぶされながら、ひたすら息を続ける事だけを考えた。
 懸架装置を切り離せば、今度は、水中エレベータが起き上がりこぶしのように、また回転する。その時にも、ボンベが宙を舞うだろう。その時の衝撃を抑えるためには、ボンベの下敷きになったままがいい。もう一度、切り離しスイッチに手を伸ばした。途端に、激痛が走り息が詰まった。
 骨が折れた?!
 痛む右手を引き寄せ、外から触ってみた。ゆっくりと閉じたり開いたりしてみたが、かなり痛みはすれど特に問題はない。ただ、握力が無くなった事と痺れたみたいになっていて、速く動かすのはできない。
 左手に変え、ボンベの隙間から手を伸ばした。ボンベは絡み合うように行き先を阻んだが、何とかカバーを開くと、スイッチを捻って押し込んだ。
 ゴンと音がして、ゆっくりと回転が始まった。懸架装置が切り離されたのだ。
 回転を助けるようにボンベの位置を直しつつ、内部の整理をした。落ち着いたところで、水圧計を見た。
「百二十メートル」
 予定より早い。時計の秒針を睨んで、分速の沈降率を求めた。
「分速九メートルか。下まで二百八分。この間に五十気圧上げるから、毎分0.25気圧ずつ上げていけばOKだ」
 独り言は、狭い水中エレベータ内で反響した。
 本来は、四十時間以上も掛けて加圧する。目安になる加圧速度は、毎分0.1気圧である。既に、五十気圧まで加圧してあるので、残りの五十気圧分、即ち八時間二十分掛けて加圧すべき所を2.5倍の猛スピードで加圧する不安はあった。S-2R内でも、六時間の飛行時間内で五十気圧まで加圧した。その影響も、体のどこかに出てくる可能性もある。だが、時間との闘いだ。
 早速、水中エレベータの外部ボンベから、水素ガスをエレベータ内に導いた。耳の奥が、痛くなる。直ぐに耳抜きをするが、またツーンとなる。だから、また抜く。数秒毎に繰り返す。これが三時間続くと思うと、うんざりする。
 0.25の気圧差は、三千メートルの高山から地上に降りるのに匹敵する。パイロットとして、四万フィートからの一万四千フィートへの緊急降下はシミュレータで何度も経験している。だが、シミュレータでは気圧は一定で、本物と同じなのは急減圧時の大きな音だけだ。0.6気圧の急減圧だけなら、減圧室で二度だけ経験している。ただ、今までに経験した事が無い急加圧である。
「クストーは、百三十時間でここに来るそうよ」
 切り離す直前に彼女が言った言葉が、耳に残っている。
 六日余りで来るとは、クストーの乗組員が徹夜で頑張った事がわかる。それでも、間に合いそうにない。ただ、俺に無理をさせないために、ほんの僅かだがクストーによる救出の可能性も残っている事を伝えてくれたのだろう。
 水圧計と時計を見比べる。
 降下率がかなり早くなっている。この五分間の降下は、七十一メートルにもなっている。最初の一分で九メートルだから、その後の四分で六十二メートルも降下した事になる。毎分十五メートル以上だ。このペースなら、一時間で下に着く。だが、気圧は五十一気圧になっていない。当初の予定より遅い。
 この水中エレベータは、内圧超過では五十気圧に耐えられる。だが、外圧超過では三十気圧が限度になる。もちろん、安全係数を考慮してあるので、この圧力のまま下まで行っても圧壊する事はないだろうが、危険である事には違いない。
 タッカは、バルブを更に開き、水素ガスを増やした。
 時々、軋み音が聞こえてくる。急激に替わる水圧で、エレベータの色々な場所が少しずつ縮み始めている。その時、中空になっている居住球部分やタンクは、他より早く縮む。その差が歪みとなる。時々、歪みが滑って元に戻り、音となって伝わってくる。
 分かっていても、気持ちのいいものではない。
 エレベータの内壁に触れてみた。まだ、少し濡れているだけだ。
 海水温は、もう三度か四度くらいだろう。外壁が冷たい海水に冷やされれば、熱伝導率の高いチタン製のエレベータは、直ぐに冷やされる。替わりに、吹き出し口から水滴が滴り落ちていた。吹き出し口には加熱装置があるが、追いつかないようだ。加熱装置の出力を上げた。
 また、水圧計と時計を見た。やはり、分速十五、六メートルだ。気圧計を見たが、この一分は0.26気圧上昇し、五十一気圧を越えた。
 ユカリは、この空域を無事に脱出しただろうか。かなり無理をして着水したようだが、上手く離水できたのだろうか。彼女の腕前は一流だ。しかし、攻撃を受けている状況で、兵装が無く防弾にも無縁な飛行艇で、無事に逃げ切ったかどうか。
 ユカリも、大きな危険を冒して俺を落としていった。彼女にとって、危険を冒す価値が、この愚行とも言える救出作戦にあるのだろうか。やはり、鉄腕の存在が大きいのか。

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 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。
 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 俺は、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

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