監視船は、支援船の船尾から右舷後方三百メートル足らずに、左舷船尾を見せていた。
ユカリは、右舷側に回り込むように泳いだ。タッカにも理由の見当がついたが、向かい風の中を泳ぐので、リングスクリューとの格闘で体力を奪われた体には辛かった。
波高はそれほどでもなかったが、波が押し寄せる度にサーフィンのように流されるし、支援船から丸見えになってしまう。それで、波頭が近付く度に水中に潜ってやり過ごすのだが、繰り返す内に更に体力を消耗し、同時に彼女との距離が開いて行った。
体力には自信があるが、彼女には適わない。
「女、子供は、足手纏いだ!」とは、映画やドラマでのヒーローの決まり文句だが、今のタッカは、彼女の足手纏いになっている。悔しさと歯痒さが、タッカの頭を支配した。
彼女は、三分の二を潜って泳いだ。残りの三分の一の大部分は、タッカが追いつくまでの時間だった。彼女は、一度潜ると、平気で三、四分も水中を泳いだ。彼女の驚異的な心肺機能は、赤ん坊の頃から海に慣れ親しみ、専門的な訓練と遊びの中で培われた。子供の頃は、起きている時間の半分を海中で過ごしたという。昼寝は、水の中だったとも言っていた。
だから、彼女に適わないのは当然としても、せめて彼女に気遣いさせない程度には泳ぎたかった。それでも、一時間も泳ぐと、監視船の舷門が視認できる所まで来た。
ユカリは、監視船の右舷側に回り込んだ。監視船の乗組員の注意は支援船に集中している筈だし、支援船を乗っ取った連中も監視船を気にしている。だから、支援船からは裏側に当たる右舷は、注意が届いていない筈だ。
彼女は、彼等に見付からないように潜水したまま、一気に舷門に近付いた。
タッカは、時間を掛けて呼吸を整えた。そして、彼女と同じ様に潜ると、監視船の舷側に張り付いた。
ここまで来ると、監視船からは、舷側から体を乗り出して覗き込まない限り見つかる心配は無かったが、風と波に逆らって船を立てているので、じっとしていると直ぐに流されてしまう。流されてスクリューに巻き込まれるのは、二度と御免だった。
彼女は、舷側に手掛かりを見つけて、水面上一メートル程の所にある舷門に取り付くと、舷門を開けた。そして、中の安全を確認すると、まだ海面に漂うタッカに手を伸ばした。その手を掴み、海中から浮力の無い世界へとタッカは重い体を引き上げた。
一時間ぶりに浮力の無い世界に戻った二人は、機関室を目指した。
タッカは、彼女が無線室へ行かない事が納得できなかった。でも、体力を消耗してしまい、浮力の無い世界の感覚が戻ってこない重い体を抱えていては、彼女に付いて行くしかなかった。
支援船の中ではあれほど苦労したのに、今度は、勝手知ったる他人の船とばかりに、何の障害も無く、あっさりと機関室に行き着いたのには、タッカ自身も呆れてしまった。
途中の経路同様、機関室も無人だった。機関制御室は船橋の片隅にある筈で、機関室自体は完全に無人化運転が可能になっていた。
「なぜ、無線室に行かなかったんだ?」
アイドリングとは言え、かなりの騒音の中でタッカは喚いた。
「無線室で何をするの」と、彼女も喚き返す。
「もちろん、救助要請を送信するんだよ」
「それで、殺されちゃう訳? 敵の懐深く潜入して救助信号は発信したら、無事に帰してもらえる訳はないわ。脱出は不可能よ。この船を制圧するしか手は無いけど、そうしようとすると、流血は避けられない。自分の手を血で汚すつもりなの?」
「じゃあ、救助要請は出さないのか。それこそ、この船を制圧するしかなくなるぞ」
「救難信号は、S-2Rから出せばいいじゃないの。そのために、ここに来たんだから」
ディーゼルエンジン特有の臭気が漂う機関室で、彼女は鼻をひくつかせながら言った。
「いいわ。今からその説明をするから」
彼女の考えでは、機関を全開で固定すると同時に舵を直進で固定して、監視船を暴走させるのだ。直後に、タッカが後部のボートハッチからゾディアックを略奪して脱出し、彼女の脱出を待つ。彼女は、舵の細工をした後、ボートデッキに上がり、救命ボートと救命筏を切り離して使用に不能にした上で、脱出する。
「いくら風下だって、二海里近くも離された所まで泳ぐとなると、二、三時間は掛かるでしょ。その間にー海里は流されるから、コンスタントに泳いでも早くて三時間、遅ければ六時間掛かるのよ」
「だけど、機関を全開にするのは、支援船での乗組員の立場を変えるためなんだろ?」
ユカリは小さく肯くと、「いい方に変わるといんだけど」と言った。
監視船の異状を、支援船の乗組員がどう利用するかによって、チャンスにも危機にも変わるだろう。彼女は、それを懸念しているのだ。
「兎に角、始めましょ」
監視船も二軸船で、機関は二基ある。それぞれの機関は、機関室の壁にある制御盤で制御されている。実際には、この制御盤は、船橋脇の機関制御室から遠隔操作されている。
彼女は、ディーゼルエンジンの列式燃料噴射ポンプのスロットルワイヤーに注目した。まず、ワイヤーが動かないように工具を噛ますと、リターンスプリングを逆向きに付け直した。これで、工具を外すと、リターンスプリングの力で機関は全開になる。
ここまで準備したところで、彼女は一人で船尾に向かった。舵の油圧シリンダーから作動油を抜くためだ。航空機と違い、船舶の油圧系統は多重化していないが、この船は、船尾の特殊な形状から、二枚の舵を持っていて筈だ。二枚の舵は、それぞれが独立した油圧系統で作動する。彼女が二枚の舵の両方に細工を終えるまで、機関室で一人で待機しなければならない。
機関室の入り口のハッチの一つは、意図的にロックを外してある。これは、敵に脱出経路を勘違いさせるためだ。そのロックされていないハッチから、敵が侵入してくるのではないかと、ひやひやしながら見詰めていた。
視線をダイバーウォッチに移した。
約束の時間まで、一分十七秒、十六秒、十五秒……。
早々と、左舷の燃料噴射ポンプの脇に居た。とても、じっと待っている気持ちにはなれなかった。
左舷から機関を全開にすれば、監視船はいくらか右舷方向に変進し、支援船の右舷方向、つまりS-2Rから真っ直ぐに遠ざかる筈である。
彼女は、機関制御盤も、スロットルワイヤー自体も、細工しない事を主張した。彼女は、何処も破壊されていなければ、敵は機関制御盤の故障を考える筈で、リターンスプリングの細工に気付くまで時間が掛かると考えた。確かに、スロットルワイヤーを切断していれば、直接、燃料噴射ポンプを制御しようとするから、直ぐにリターンスプリングの細工に気付くだろう。機関制御盤が破壊されていれば、両舷の機関が同時に暴走する筈が無いので、やはり機関に直接細工した事に気付き、苦も無く細工が見つかるだろう。
逆に、リターンスプリングだけの細工では、見つければ復旧も早い。むしろ、作動油を抜く舵の方が復旧に時間が掛かるだろう。
また、時計を見た。
ちょうど三十秒前だった。
タッカは、ワイヤーを固定している工具を掴んだ。そして、時計の針を追いながら、秒読みを始めた。
十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
力一杯、工具を抜き取った。間の抜けた音と共にスプリングが縮み、機関が轟音をたてて加速し始めた。それは、Gとなって体でも感じられた。キャットウォークを走り、右舷の機関に飛び付いた。そして、同じ様に工具を抜き取ると、手摺を飛び越え下の床に飛び降りた。
両舷の機関は全開になって、監視船は猛然と加速し始めていた。
タッカは、つい数分前にユカリが通ったシャフトトンネルに潜り込んだ。機関からスクリューに伸びるシャフトのメンテナンス用のトンネルだった。
トンネルは、高さが一メートル半程、幅も一メートルちょっと。トンネルの床には、ビルジが小さな水溜まりをあちこちに作っている。そこを、一抱えも有りそうなシャフトは、油を飛び散らしながら、恐ろしい勢いで回転していた。これに巻き込まれたら、ズタズタに引き千切られそうだ。
顔をシャフトに摺り寄せるよう態勢で腰を折り、横向きの蟹走りで、薄暗いトンネル内を駆け抜ける。シャフトから油が飛び散り、顔が油だらけになるのも構わず、タッカは蟹走りを続ける。
ほんの十数メートルで、トンネルは行き止まりになった。その手前に、ハッチが有った。だが、ハッチはシャフトの向こう側に有った。
そこで逡巡していると、入ってきたハッチがガチャガチャ音を立て始めた。脱出ルートがこのトンネルである事がばれると、その後の脱出時間が短くなってしまう。
シャフトは、船尾に向かって反時計周りに回転している。その右側に居るタッカは、抱き付くようにシャフトに乗った。ところが、想像以上の回転力で振り飛ばされ、反対側の壁面に体を打ち付けた。シャフトと床の間に挟まれたのでは、堪ったものじゃあない。ビルジに足を取られながらも、急いで起き上がり、ハッチを出た。
ハッチの外は、ロープやワイヤー等が収納された船倉だった。さっと辺りを見回し、見付けた梯子を駆け上った。
最後のハッチを抜けると、右舷の後部デッキに出た。船尾を見ると、御誂え向きに船外機が付いたゾディアックが二艘あった。その一艘を奪い、もう一艘を海に捨てれば、脱出に成功する。
タッカは、ゾディアックに駆け寄った……が、そこで息を呑んだ。
ここまで誰にも出会わなかったので、油断していた。後部デッキの左舷には、遠ざかる支援船を気にする船員が五、六人いた。
幸いな事に、全員が支援船の方を見ている上、機関銃等を持っている気配はなかった。ゾディアックに掛けられたネットを外し、一艘を逆様に海に投げ込んだ。これで、船外機は水に浸かり、簡単にはエンジンが掛からなくなった筈だ。最悪、敵の手に落ちても、脱出の時間は充分に稼げる。
次の脱出用のゾディアックのネットを外し始めた時、「そこで何をしている!」と、大きな声が聞こえた。このゾディアックを奪わない限り、脱出の見込みはない。船員が武器を持っていなかった事を思い出し、手を止める事無くネットを取り払った。
この行動は、賭けだった。
ユカリは、武器を持たない者にはいきなり発砲する事はほとんどないと、言っていた。それに賭けたのだ。彼等は、持っていてもピストルで、ネットを外す人間を見ただけで発砲する筈はなかった。
軽く肩を掴まれた。
タッカは立ち上がり、相手を見下ろした。一七〇センチくらいのスラブ系の白人だった。大した警戒心も持っていなかったが、東洋系のタッカの顔を見て、見る間に緊張を顔に現した。
男を無視して作業に戻り、ゾディアックをできるだけ静かに投げ入れた。全開で突っ走る船から、ゾディアックはあっと言う間に遠ざかった。
「何をするんだ!」
男は、ヒステリックな大声を上げた。全開の機関の騒音の中でも、この声が聞こえたのか、他の船員も舷側に張り付いたまま、こちらに振り返った。
タッカは、立ち上がって握りこぶしに力を込めると、十五センチも背が低い相手を上から思い切り殴り降ろした。男は、呆気なく崩れ落ちた。それを見ていた他の船員は、何が起こったのか理解できずに呆然としていたが、少し遅れて状況を飲み込み始めた。
騒ぎ始めた船員達の怒声を背中に聞きながら、海に飛び込んだ。
ユカリは、右舷側に回り込むように泳いだ。タッカにも理由の見当がついたが、向かい風の中を泳ぐので、リングスクリューとの格闘で体力を奪われた体には辛かった。
波高はそれほどでもなかったが、波が押し寄せる度にサーフィンのように流されるし、支援船から丸見えになってしまう。それで、波頭が近付く度に水中に潜ってやり過ごすのだが、繰り返す内に更に体力を消耗し、同時に彼女との距離が開いて行った。
体力には自信があるが、彼女には適わない。
「女、子供は、足手纏いだ!」とは、映画やドラマでのヒーローの決まり文句だが、今のタッカは、彼女の足手纏いになっている。悔しさと歯痒さが、タッカの頭を支配した。
彼女は、三分の二を潜って泳いだ。残りの三分の一の大部分は、タッカが追いつくまでの時間だった。彼女は、一度潜ると、平気で三、四分も水中を泳いだ。彼女の驚異的な心肺機能は、赤ん坊の頃から海に慣れ親しみ、専門的な訓練と遊びの中で培われた。子供の頃は、起きている時間の半分を海中で過ごしたという。昼寝は、水の中だったとも言っていた。
だから、彼女に適わないのは当然としても、せめて彼女に気遣いさせない程度には泳ぎたかった。それでも、一時間も泳ぐと、監視船の舷門が視認できる所まで来た。
ユカリは、監視船の右舷側に回り込んだ。監視船の乗組員の注意は支援船に集中している筈だし、支援船を乗っ取った連中も監視船を気にしている。だから、支援船からは裏側に当たる右舷は、注意が届いていない筈だ。
彼女は、彼等に見付からないように潜水したまま、一気に舷門に近付いた。
タッカは、時間を掛けて呼吸を整えた。そして、彼女と同じ様に潜ると、監視船の舷側に張り付いた。
ここまで来ると、監視船からは、舷側から体を乗り出して覗き込まない限り見つかる心配は無かったが、風と波に逆らって船を立てているので、じっとしていると直ぐに流されてしまう。流されてスクリューに巻き込まれるのは、二度と御免だった。
彼女は、舷側に手掛かりを見つけて、水面上一メートル程の所にある舷門に取り付くと、舷門を開けた。そして、中の安全を確認すると、まだ海面に漂うタッカに手を伸ばした。その手を掴み、海中から浮力の無い世界へとタッカは重い体を引き上げた。
一時間ぶりに浮力の無い世界に戻った二人は、機関室を目指した。
タッカは、彼女が無線室へ行かない事が納得できなかった。でも、体力を消耗してしまい、浮力の無い世界の感覚が戻ってこない重い体を抱えていては、彼女に付いて行くしかなかった。
支援船の中ではあれほど苦労したのに、今度は、勝手知ったる他人の船とばかりに、何の障害も無く、あっさりと機関室に行き着いたのには、タッカ自身も呆れてしまった。
途中の経路同様、機関室も無人だった。機関制御室は船橋の片隅にある筈で、機関室自体は完全に無人化運転が可能になっていた。
「なぜ、無線室に行かなかったんだ?」
アイドリングとは言え、かなりの騒音の中でタッカは喚いた。
「無線室で何をするの」と、彼女も喚き返す。
「もちろん、救助要請を送信するんだよ」
「それで、殺されちゃう訳? 敵の懐深く潜入して救助信号は発信したら、無事に帰してもらえる訳はないわ。脱出は不可能よ。この船を制圧するしか手は無いけど、そうしようとすると、流血は避けられない。自分の手を血で汚すつもりなの?」
「じゃあ、救助要請は出さないのか。それこそ、この船を制圧するしかなくなるぞ」
「救難信号は、S-2Rから出せばいいじゃないの。そのために、ここに来たんだから」
ディーゼルエンジン特有の臭気が漂う機関室で、彼女は鼻をひくつかせながら言った。
「いいわ。今からその説明をするから」
彼女の考えでは、機関を全開で固定すると同時に舵を直進で固定して、監視船を暴走させるのだ。直後に、タッカが後部のボートハッチからゾディアックを略奪して脱出し、彼女の脱出を待つ。彼女は、舵の細工をした後、ボートデッキに上がり、救命ボートと救命筏を切り離して使用に不能にした上で、脱出する。
「いくら風下だって、二海里近くも離された所まで泳ぐとなると、二、三時間は掛かるでしょ。その間にー海里は流されるから、コンスタントに泳いでも早くて三時間、遅ければ六時間掛かるのよ」
「だけど、機関を全開にするのは、支援船での乗組員の立場を変えるためなんだろ?」
ユカリは小さく肯くと、「いい方に変わるといんだけど」と言った。
監視船の異状を、支援船の乗組員がどう利用するかによって、チャンスにも危機にも変わるだろう。彼女は、それを懸念しているのだ。
「兎に角、始めましょ」
監視船も二軸船で、機関は二基ある。それぞれの機関は、機関室の壁にある制御盤で制御されている。実際には、この制御盤は、船橋脇の機関制御室から遠隔操作されている。
彼女は、ディーゼルエンジンの列式燃料噴射ポンプのスロットルワイヤーに注目した。まず、ワイヤーが動かないように工具を噛ますと、リターンスプリングを逆向きに付け直した。これで、工具を外すと、リターンスプリングの力で機関は全開になる。
ここまで準備したところで、彼女は一人で船尾に向かった。舵の油圧シリンダーから作動油を抜くためだ。航空機と違い、船舶の油圧系統は多重化していないが、この船は、船尾の特殊な形状から、二枚の舵を持っていて筈だ。二枚の舵は、それぞれが独立した油圧系統で作動する。彼女が二枚の舵の両方に細工を終えるまで、機関室で一人で待機しなければならない。
機関室の入り口のハッチの一つは、意図的にロックを外してある。これは、敵に脱出経路を勘違いさせるためだ。そのロックされていないハッチから、敵が侵入してくるのではないかと、ひやひやしながら見詰めていた。
視線をダイバーウォッチに移した。
約束の時間まで、一分十七秒、十六秒、十五秒……。
早々と、左舷の燃料噴射ポンプの脇に居た。とても、じっと待っている気持ちにはなれなかった。
左舷から機関を全開にすれば、監視船はいくらか右舷方向に変進し、支援船の右舷方向、つまりS-2Rから真っ直ぐに遠ざかる筈である。
彼女は、機関制御盤も、スロットルワイヤー自体も、細工しない事を主張した。彼女は、何処も破壊されていなければ、敵は機関制御盤の故障を考える筈で、リターンスプリングの細工に気付くまで時間が掛かると考えた。確かに、スロットルワイヤーを切断していれば、直接、燃料噴射ポンプを制御しようとするから、直ぐにリターンスプリングの細工に気付くだろう。機関制御盤が破壊されていれば、両舷の機関が同時に暴走する筈が無いので、やはり機関に直接細工した事に気付き、苦も無く細工が見つかるだろう。
逆に、リターンスプリングだけの細工では、見つければ復旧も早い。むしろ、作動油を抜く舵の方が復旧に時間が掛かるだろう。
また、時計を見た。
ちょうど三十秒前だった。
タッカは、ワイヤーを固定している工具を掴んだ。そして、時計の針を追いながら、秒読みを始めた。
十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
力一杯、工具を抜き取った。間の抜けた音と共にスプリングが縮み、機関が轟音をたてて加速し始めた。それは、Gとなって体でも感じられた。キャットウォークを走り、右舷の機関に飛び付いた。そして、同じ様に工具を抜き取ると、手摺を飛び越え下の床に飛び降りた。
両舷の機関は全開になって、監視船は猛然と加速し始めていた。
タッカは、つい数分前にユカリが通ったシャフトトンネルに潜り込んだ。機関からスクリューに伸びるシャフトのメンテナンス用のトンネルだった。
トンネルは、高さが一メートル半程、幅も一メートルちょっと。トンネルの床には、ビルジが小さな水溜まりをあちこちに作っている。そこを、一抱えも有りそうなシャフトは、油を飛び散らしながら、恐ろしい勢いで回転していた。これに巻き込まれたら、ズタズタに引き千切られそうだ。
顔をシャフトに摺り寄せるよう態勢で腰を折り、横向きの蟹走りで、薄暗いトンネル内を駆け抜ける。シャフトから油が飛び散り、顔が油だらけになるのも構わず、タッカは蟹走りを続ける。
ほんの十数メートルで、トンネルは行き止まりになった。その手前に、ハッチが有った。だが、ハッチはシャフトの向こう側に有った。
そこで逡巡していると、入ってきたハッチがガチャガチャ音を立て始めた。脱出ルートがこのトンネルである事がばれると、その後の脱出時間が短くなってしまう。
シャフトは、船尾に向かって反時計周りに回転している。その右側に居るタッカは、抱き付くようにシャフトに乗った。ところが、想像以上の回転力で振り飛ばされ、反対側の壁面に体を打ち付けた。シャフトと床の間に挟まれたのでは、堪ったものじゃあない。ビルジに足を取られながらも、急いで起き上がり、ハッチを出た。
ハッチの外は、ロープやワイヤー等が収納された船倉だった。さっと辺りを見回し、見付けた梯子を駆け上った。
最後のハッチを抜けると、右舷の後部デッキに出た。船尾を見ると、御誂え向きに船外機が付いたゾディアックが二艘あった。その一艘を奪い、もう一艘を海に捨てれば、脱出に成功する。
タッカは、ゾディアックに駆け寄った……が、そこで息を呑んだ。
ここまで誰にも出会わなかったので、油断していた。後部デッキの左舷には、遠ざかる支援船を気にする船員が五、六人いた。
幸いな事に、全員が支援船の方を見ている上、機関銃等を持っている気配はなかった。ゾディアックに掛けられたネットを外し、一艘を逆様に海に投げ込んだ。これで、船外機は水に浸かり、簡単にはエンジンが掛からなくなった筈だ。最悪、敵の手に落ちても、脱出の時間は充分に稼げる。
次の脱出用のゾディアックのネットを外し始めた時、「そこで何をしている!」と、大きな声が聞こえた。このゾディアックを奪わない限り、脱出の見込みはない。船員が武器を持っていなかった事を思い出し、手を止める事無くネットを取り払った。
この行動は、賭けだった。
ユカリは、武器を持たない者にはいきなり発砲する事はほとんどないと、言っていた。それに賭けたのだ。彼等は、持っていてもピストルで、ネットを外す人間を見ただけで発砲する筈はなかった。
軽く肩を掴まれた。
タッカは立ち上がり、相手を見下ろした。一七〇センチくらいのスラブ系の白人だった。大した警戒心も持っていなかったが、東洋系のタッカの顔を見て、見る間に緊張を顔に現した。
男を無視して作業に戻り、ゾディアックをできるだけ静かに投げ入れた。全開で突っ走る船から、ゾディアックはあっと言う間に遠ざかった。
「何をするんだ!」
男は、ヒステリックな大声を上げた。全開の機関の騒音の中でも、この声が聞こえたのか、他の船員も舷側に張り付いたまま、こちらに振り返った。
タッカは、立ち上がって握りこぶしに力を込めると、十五センチも背が低い相手を上から思い切り殴り降ろした。男は、呆気なく崩れ落ちた。それを見ていた他の船員は、何が起こったのか理解できずに呆然としていたが、少し遅れて状況を飲み込み始めた。
騒ぎ始めた船員達の怒声を背中に聞きながら、海に飛び込んだ。