伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

「海と空が描く三角」の連載を始めました。
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  第三章
 
 息苦しさはない。だが、頭痛と吐き気に、目眩が加わった。
 ハッチから頭を出し、周囲の安全確認した。真っ暗闇の宇宙空間で、淡く視野が霞む。
 駄目かもしれない。
 弱気を振り払うために、頭を振った。
「うっげぼっ!」
 激しい吐き気に襲われた。胃から喉を突き破り、口の中へと噴き上げてくる。焼けるような痛みが、胃から喉、そして口へと広がる。
 佐々は、逆流してきた胃液を口の中で塞き止めた。吐き出し、バイザーを汚したら、視界を失う。バイザーの内側は、曇り止めの加工はしてあるが、吐瀉物までは対策されていない。
 胃は、腹の中で捻られたようで、繰り返し胃液を噴き上げてくる。それを頬を膨らませて堪える。
 吐き気が落ち着くのを待つつもりだったが、そんな余裕はないようだ。
 背中の推進ロケットを噴射させた。
 宇宙空間での噴射は慎重を要する。抵抗が無いので、噴射を続ければ、速度が上がりすぎる上、減速にも同じだけの噴射が必要になる。失敗すれば、永遠に宇宙を彷徨う事になる。
 佐々は、リスク覚悟で連続噴射を始めた。
 加速力は弱いが、連続噴射の効果で徐々に速度が上がっていく。
 噴射の向きを90度変え、シャトルから離れないように飛ぶ。
 推進剤は十分にある。
 大胆に行こう。
 ブリッジを回り終わる前に、噴射の向きをに90度変えた。それでも、シャトルの屋根の上に出ると、慣性で離れていく。
 だが、佐々は船尾にあるエアロックに向かって加速を続けた。
 佐々は、ブリッジを出る際に最終チェックをした事を後悔した。チェックで異常はなかった。無駄に時間を浪費しただけだ。
 佐々の視線は、エアロックに釘付けになっていた。なんとかブリッジでの遅れを取り戻したかった。
 ふと気付くと、エアロックが近かった。
 気持ちが急き、逆噴射するタイミングが遅れた。スピードを上げすぎた。
 このままでは、エアロックを通りすぎてしまう。
 佐々の目に、エアロック脇の埋め込み取手が映った。減速を諦め、取手に向かうように噴射方向を変えた。
 埋め込み取手は、大気圏を飛行する際の空気抵抗を減らすため、船体内に埋め込まれていて、船体表面と面一になるように二分割の蓋が付いている。赤い枠線で囲まれた蓋は、軽く押すだけで、内側に開き、取手を握れる仕組みになっている。
 佐々は、取手に向かって斜めに突っ込んでいった。そして、埋め込み取手に左手を入れた。蓋は、何の抵抗もなく開き、取手をがっちり掴んだ。
 だが、慣性で取手を軸に体が回転し、船体に激突した。歩くより遅い速さだったが、宇宙服を通して腹に衝撃が伝わった。
 同時に、口の中に堪えていた吐瀉物を吐き出した。胃液の臭気が鼻腔を刺激し、猛烈な吐き気が胃を襲い、噴水のように吐いた。
 あっと言う間に、バイザーは吐瀉物で黄色く汚れ、視界を奪っていった。バイザーに当たって飛び散った雫がヘルメットの中を漂い、右目に入った。
 思わず、手をやったが、外側からヘルメットを叩いただけだった。
 痛みと吐き気でのたうった。のたうちながら、佐々は、ぞっとした。同時に、ほっとしてもいた。
 左手は、今も取手を握っていた。右利きだったから、目に吐瀉物が入った時も右手を使った。取手を右手で掴んでいたら、どうなっていただろう。
 だが、視界は完全に奪われた。手探りで操作するしかない。幸い、慣性は無くなり、左手一本でぶら下がるような体勢で安定していた。
 左手で体を引き寄せようとした時、痛みを感じた。痛みは直ぐに引いた。大した事はなさそうだ。
 エアロックは、思ったより簡単に開ける事ができた。ただ、体が思うように動かない。しかも、エアロックに灯りが点かなかったらしく、汚れたバイザー越しにはエアロックの位置がわからなかった。
 手探りで場所を確認し、重い体をハッチから中へと入れた。体を捻り、ハッチを閉めた。最後の力を振り絞り、ロックした。
 佐々は、自分の体勢を自覚していなかった。目眩のせいで、平衡感覚を失っていた。それに気付かされたのは、エアロックの加圧ボタンを押そうと思った時だった。
 思っていた位置には、加圧ボタンは無かった。その周囲も手探りしたが、手がボタンに触れる事はなかった。
佐々が気付かない内に、彼の体は、180度近く回転していたのだ。
 加圧ボタンを探し当てるまで、狂ったようにエアロック内を探し回った。
 漸く加圧ボタンを見付けた時には、朦朧としていた。エアロック内で、のたうち回ったので、二酸化炭素濃度を更に上げてしまったのだ。
 早くヘルメットを脱ぎたかった。ヘルメットの咽頭部にあるロック解除レバーを引き起こそうとしたが、びくともしない。
 ロック解除レバーは、フールプルーフ設計になっている。ヘルメットの内外気圧差が30hPa以下にならないと、ロック解除はできない。
 平時の佐々なら、気圧差が無くなるまで待つのだが、今の彼は時間感覚を失っていた。
 頭痛は治まりかけていた。喉の痛みも、感じなかった。左手の痛みもない。不快感は消え、浮遊感が気持ちよいくらいだった。
「助かったのか」
 ロック解除レバーを引き起こそうとしていた右手から、力が抜けていった。
 バイナリースターを運営するルナプロジェクト社は、日本では唯一の観光用宇宙船運営会社だ。
アメリカの民間宇宙旅行会社に遅れて発足したため、設立当初から月面旅行を目指す事で巻き返しを狙っていた。バイナリースターは、万を辞して登場した世界初の月往還宇宙船だった。
 初飛行の搭乗客を募集したところ、一人当たり1000万ドルにも届こうかという高額のため、日本からの応募は相浦家の二人だけだった。その二人も、宗太郎氏がメディカルチェックで搭乗できなくなり、麗子一人の搭乗となった。
 相浦宗太郎氏は、三代続く製薬会社の会長職に就いている。孫娘の麗子は大学在学中の二十二歳。夏休みを利用し、地上訓練と月世界旅行に挑んだ。
 星出未来は、ルナプロジェクト社に入社して7年のパイロットだ。月に向かうのはもちろん、衛星軌道はおろか、弾道飛行の経験さえ無かった。彼女が搭乗する事になったのは、女性である麗子の存在があったからだ。
 佐々は、JAXA出身の宇宙飛行士だ。宇宙ステーション往還機の操縦士の経験に加え、船外活動も経験があった事から、ルナプロジェクト社がバイナリースターの船長候補としてヘッドハンティングした。
 彼ら三人を乗せたバイナリースターは、前世紀のアポロ13号同様の大事故を似たような場所で発生し、同じく自由帰還軌道で地球に帰ろうとしていた。
 何となく、唇に暖かさを感じた。その暖かさが離れていくのに合わせて、意識が戻ってきた。
「佐々さん。佐々さん」
 呼び掛けに、佐々は小さく頷いた。
 麗子の声だった。
 ゆっくりと目を開けた佐々だったが、ただ明るいとだけ思った。全身が脱力しているが、体を動かしたいとは思わなかった。
 寝惚けたような感覚で、再び眠りに落ちそうだった。
「佐々さん。大丈夫?」
 頬を二三回叩かれた。
 頬を叩く手を払い除けようと思ったが、夢の中で抵抗するような感じで、思うように動かない。
 思わず「五月蝿いなぁ」と呟いた。
「良かったわ。意識が戻ったのね。ゆっくり休んでね」
「五月蝿い」と言って「良かった」と返されたのは、生まれて初めてだろう。
 佐々は、意識がはっきりしてくるのを自覚した。自分が置かれている状況も、徐々に把握できるようになってきた。
 ヘルメットは脱がされていた。
「助かったのか」
 指が動かしてみた。見えないが、動いているようだ。
 右腕を目の前まで持ってきた。
 間違いない。動いている。指も大丈夫だ。
 痛むところがないか、順番に動かし、確かめた。
 左手首と上腕が痛むが、他は問題なかった。頭痛と吐き気が戻ってきたが、我慢できない程ではない。
 佐々は、宇宙服を脱いだ。
 エアロックを出ると、麗子が待っていた。
「上半身裸になって」
「何を言ってるんだ」
「こう見えても、医大生ですからね」
 大学生とは知っていたが、医学部とは思わなかった。だが、事故直後の未来への処置と判断の早さも、医大生なら頷ける。
 佐々は上半身裸になった。彼女は、聴診器を当てた。
「どうやら、誤飲はなかったみたいね」
 聴診器を外しながら、そう診断を下した。
「ちょっと腕を見せて」
 彼女が左手を取った時、鈍痛を感じた。
「やっぱり痛むのね。腫れてきているから、折れてるかもしれないわ」
「まさか。そんなに痛くないぞ」
「二酸化炭素中毒は、神経を麻痺させるって言ってわね。明日あたり、痛み出すかも」
 医大生程度では分かるまいと、鼻で笑った。

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 4時間余り前に出たエアロックは、なぜか予圧されていた。佐々は、エアロック脇のカバーを外し、操作パネルを見た。
「なぜだ?」
 操作パネルは、真っ暗だった。電源が切れているのだ。パネルに触れてみても、変化はなかった。
 考えている暇は無い。
 ブリッジにとって返し、エアロックの状態を見ようと試みた。しかし、モニターには「権限がありません」と表示され、それ以上の要求は受け付けなかった。もう一度、試みたが、同じだった。
 事故直後に全ての制御権をエアロック側に切り替えた事を思い出した。
 彼女に操作してもらう以外に、選択肢はない。
 ヘッドセットのプラグを差し込んだ。
「相浦さん、聞こえるか?」
 船内カメラには、彼女の姿が映っている。声は聞こえているらしい。呼び掛けた際に、カメラを見た。
「エアロックの操作パネルの電源が落ちているんだ。それで、戻れなくなってしまった」
 彼女が青冷めていくのが分かる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣き出してしまった。
「あたしが悪いの。ごめんなさい」
 そうか。そうだったのか。
 佐々は、無理にでもインカムの操作方法を教えて来るべきだったと後悔した。彼女は、インカムを使う際に、エアロックの操作パネルの電源まで切ってしまったのだ。
 そうと分かれば、手の打ちようはある。
「相浦さん、聞いてくれ。エアロック脇にパネルがあるだろう。左から3番目のLEDは点灯しているか?」
 モニターの向こうで首を振った。
「ちょっと待ってくれ」
 3番目のLEDは、エアロックの主電源の状態だ。消灯しているなら、操作パネルが使えないのは当然だ。
「今から言う通りにパネルを操作してくれ」
 また、首を振った。
「簡単な操作だ」
「無理よ!」
「インカムのスイッチを入れる事が出来たんだ。出来るよ」
「あたしが触ったら、また間違えて、あなたを殺してしまうわ」
「言う通りにすれば、大丈夫だ」
「無理よ! 絶対に無理。間違えないで出来るわけないわ」
 麗子は、涙を浮かべている。
「よく聞いてくれ。君が操作しなければ、1時間もかからずに俺は死ぬ」
「酸素が無くなるの?」
「炭酸ガス中毒が先だろう」
「一酸化炭素中毒?」
「いや、二酸化炭素中毒だ。3%を越えると、頭痛や吐き気が始まる。7%を越えると、意識を失い、放置すれば呼吸停止で死亡する」
 彼女の表情が強張る。
「俺は、まだマシだ。苦しむのは、精々30分だ。だが、君は違う。救助隊が来ても、エアロックが開けられないと、君を助け出す方法がない。そこは広いから、二酸化炭素中毒でも頭痛と吐き気に2日間は苦しむだろう」
 おろおろするだけで、覚悟を決めた様子はない。
「何もしないで俺を見殺しにするのを選ぶのか。一か八か助かる可能性に賭けるのか。君次第だ」
「あたしの立場だったら、どっちを選ぶの?」
「考えるまでもない。賭けに出るさ」
「もし、操作を間違えても、恨まない?」
「何もしないで俺を見殺しにすると言うなら、死ぬまでの一時間か二時間、思い付く限りの恨み事を言ってやる。だけど、頑張ってやってみると言うなら、命尽きるまで応援するぜ」
「本当に?」
「今の状況で、その操作パネルを使って俺を殺す方法を、俺は思い付かない」
 彼女の表情がいくらか明るくなる。
「よし、やるぞ。確実にやるために、俺が手順を言うから、まず復唱するんだ。復唱を聞いて大丈夫だとわかったら、実行と言うから、もう一度復唱しながら操作するんだ。いいね?」
 モニターの向こうで、彼女が頷く。
 頭痛が始まった。時間がない。一発勝負だ。だからこそ、慌てずに確実に進めなければ。
「第1ステップは、右下のボタンを押す。まず、位置を確認しろ」
「右下のボタンの位置を確認し、それを押す」
 直ぐに、彼女の指が止まった。
「位置を確認したなら、実行だ」
「押します」
 モニターからは、彼女の手元は見えない。ただ、手が動いたことは分かる。
「ディスプレイに出た文字を読んでくれ」
「PmwerOn……InitializeComplete」
 初期化まで、終わったようだ。
「Menuと書いてあるボタンは、分かるか?」
「……あっ、あったわ」
「Menuを押す」
「Menuを押す」
「よし、実行だ」
「Menuを押したわ。あっ、表示が変わった。1.SetUp、2.StartUp、3.Control、4.Priority、5.Moniter」
「2のボタンを探せ」
「あった。場所は分かるわ」
「よし、2のボタンを押せ」
「押したわ。あっ、表示がどんどん変わっていく。読めない!」
「大丈夫だ。Completeの表示が出たら教えてくれ」
「わかったわ。……ちょっと待って。StartUpComplete。これでいいのかしら?」
「Okだ。だけど、ここからが危険なオペレーションになるぞ。気を抜くな」
 佐々は、更に数ステップの手順を彼女に課した。
 続くパスワードの入力には手間取った。「オー」と「ゼロ」を打ち間違えたのだ。打ち間違えたとわかった時、彼女は半狂乱のようになった。宥めるのには時間がかかったが、いい薬にもなった。以後の入力には、呆れるほど慎重になった。
「終わったぁ!」
「終わったの?」
「ああ、終わったよ。ここからは、俺の頑張りだけだ。だから、俺が死んでも、俺がヘマをやらかしたんだなって、思ってくれ」
「何が言いたいの?」
「君は、最後までやり抜いたんだ」
「冗談じやないわ。私は、何のために必死になったと思ってるの? 生きて戻ってこなかったら、あなたの意識が無くなるまで、ありったけの恨み言を聞かせるわよ」
 どこかで聞いた台詞だ。佐々は苦笑いした。
「時間がない。また会おう」
 モニターが消える瞬間に見せた彼女の不安そうな顔が、脳裏に焼き付いた。
 吐き気が酷くなってきた。フィルターは、二酸化炭素を吸収できていない。二酸化炭素濃度が上がり始めている。
「慌てるな!」
 自分に言い聞かせた。そして、もう一度、ブリッジの計器を確認した。
「制御権はエアロック側。よし」
 無駄な電力を使わないように、計器の電源を落とした。最後に照明を落とし、シートを離れた。
 エアコンディションモニターは見ないことにした。エアロックに辿り着けるかどうかが問題だ。二酸化炭素濃度を知っても、焦りを誘うか、落ち込むかのどちらかにしかならない。
 慎重にブリッジを出た。

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