到着の報告が終わり、ロッカーで着替えを済ませると、空港内の喫茶店に急いだ。急ぎながら、途中の花屋で奇麗にラッピングした花束を二つ買った。
 駐機スポットに面した喫茶店は、空港ロビーとの間をプランターで仕切ってあるだけで、開放感に溢れている。駐機スポット側は、床から天井まで届く大きなガラス窓になっている。大きな窓越しに見えるスポットには、まだ日陰になって朝日から逃れているS-2が数機見える。スポットの向こうは、どこまでも続くメキシコ湾の蒼い海原だ。
 メキシコ湾は、湾と言ってもハリケーンが来襲する外洋だから、従来のメガフロートのようなポンツーン方式では、ハリケーンの波浪には到底耐えられない。そのため、アクアシティは、半潜水式、通称S.S.M.P.と呼ばれる構造を採用している。これは、浮力の大部分を波浪の影響をほとんど受けない水深十メートル以下に置いた浮体でまかない、主要構造物を長さ二十五メートルの柱で海面上十五メートルの位置に支持する構造だ。
 アクアシティを訪れる観光客は、ここの磯の臭いを嗅いで、「やっぱり、海だねぇ」と感激する。それを横目で見ながら、住人は苦笑いするのだ。なぜなら、磯の臭いは海岸に打ち上げられた魚介類の死骸の腐敗臭なのだ。こんな沖合いでは、磯の臭いがしないものなのだ。船乗り達は、磯の臭いを嗅ぐと陸に戻ってきたと思うほどだ。
 実は、アクアシティの磯の臭いは、数百本の脚柱に住み着いた貝の表面にこびり付いた魚介類の死骸から発しているのだ。ただ、船乗りが多いアクアシティの住人は、この磯の臭いがあるお陰で、仕事から帰ってきた時に安心感を得ている面もある。
 数百本の脚柱を持つSSMP構造は、タッカ達パイロットにとっては、斜度五度、長さ二百三十メートルにもなるスロープを使って海面上二十メートルのデッキまで上り下りしなければならない厄介な構造でもある。だから、機長はタッカに操縦させた。あのスロープを登るのは、事実上、副操縦士の仕事になっていた。
 百メートルもあれば楽に離着水できる優れた性能を持つS-2のパイロット達は、離着水時の滑水距離の二倍にも及ぶ長いスロープを忌み嫌う。特に、スロープを登る仕事を仰せつかる副操縦士にとって、正に恨み坂だった。
 そのスロープは、ここからは見えない。
 視線を、喫茶店の中に向けた。
 一目で見渡せる明るい店内には、早朝にも関わらず、十数人のビジネスマンが軽い朝食を摂りながら、ある者はパソコンを、またある者は書類を開き、顔をしかめていた。
 その中で二人を探した。ショートカットでイギリス人とのクォーターのユカリと、ジュニアヘビー級のプロレスラー並の頑強な肉体を持つ鉄腕だから、このくらいの数の客でもよく目立つ。
 花屋に寄ったものだから、思った通り二人は先に着いていた。
 二人は、話に華を咲かせていた。
「お待たせ」
 二人は、示し合わせていたかのように揃って振り返った。
「女の子を待たせるとは、どういう事なの!」
 ユカリは、いきなり憎まれ口を叩いた。
 憎まれ口を叩きながら、屈託の無い笑顔を見せていた。
 ハワイからここまでの風向きが悪く、予定より二十分くらい到着時刻が遅くなったのだが、パイロットのユカリにはそれもお見通しの筈だ。その上で、この憎まれ口なのだ。
 だから、違う言い訳で切り替えした。
「ユカリがいつも遅れてくるから、それに合わせたんだよ」
 そう。彼女は、決まって十五分くらい遅れてくる。
「何、言ってるの。あなたが女の子を待たせないで済むように、気を使って少しだけ遅れてきてあげてんじゃない」
 へぇ、女の子ってそんなところに気を使うんだ。と、タッカは妙なところに感心した。
「あなたと違って、鉄腕はちゃんと先に来て待っててくれてたわよ」
 鉄腕はマメな男だから、ユカリの言う通りちゃんと来ていたのだろう。
 ユカリの憎まれ口の相手を止め、タッカは花束を差し出した。
「ほい、これは鉄腕。そして、こっちはユカリ」
 花束を受け取りながら、二人とも意味が分からず、きょとんとしている。
「早く受け取れよ」
 目をくりくりさせながら、またユカリが口火を切った。
「今日は、鉄腕の壮行会じゃなかったの?」
「そうだよ。ついでに、ユカリの機長昇進祝いも兼ねる事になった」
 鉄腕が目を丸くして、ユカリの顔を見た。
「へぇ、もう機長かい。凄いなぁ」
 鉄腕は、感嘆の声を上げた。
「鉄腕も、凄いじゃない。水素潜水試験のスタッフとして、千メートルまで潜るのでしょう。選りすぐりのエリート集団に、最年少で選ばれたんだもの」
 鉄腕も、満更でもなさそうだ。
 傍で見ていても感心する程、彼が懸命に努力を重ねてきたのを、タッカもユカリも知っている。
 鉄腕も才気に溢れた男だ。高校時代、タッカが常にナンバー2だったように、鉄腕はいつもナンバー3だった。正真正銘の天才女性と、天才だと己惚れていた男が居なければ、鉄腕はナンバー1だった。そいつが人並外れた努力をしているんだ。これくらいの結果があっても、当然の事だ。それ以上に、鉄腕の頑張りに結果が出た事が、タッカは自分の事のように嬉しかった。
 水素潜水は、ヘリウム潜水の限界である水深五百メートルを越えて潜水するために、加圧用ガスを水素ガスに変えた潜水方法だ。
 研究が始まったのは、一九七〇年代の半ば頃だ。アクアシティは、四半世紀も遅れて研究を開始したが、二十年以上に及ぶ動物実験を経て、世界に先駆けて実用化実験を始めたのだ。昨年からの地上の高圧タンクでの試験も無事に終わり、鉄腕達は、実際の海洋で初めて実験を実施する事になった。
「俺だけ、籠の外さ。今日も、着水の美味しいところは操縦させてもらえなかった」
 思い出すだけで、タッカは腹が立った。美味しい部分だけ、機長に持っていかれたのだから。ケーキのクリームを取り上げられ、土台のスポンジケーキだけ食べさせられたような気分だ。特に、あのスロープを操縦させられたのだ。いつもの事とは言え、余計にムカついた。

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