海底千メートル

 深海は、どこでも変わらないな。
 当初の予定よりも早くクリスマスツリーが完成しそうなので、その自信からだろうか、水深が四百メートルでも千メートルでも大差ないなと、鉄腕は思った。
 ドライスーツのヘルメットに取り付けられたヘッドライトで照らされるところ以外は、右を見ても左を見ても真っ暗闇で、水温もほぼ零度だ。ドライスーツでなければ、タイタニックの遭難者達の命を奪ったように、立ち所に凍え死んでしまう程の冷たさだ。
 だが、そんな苛烈な環境だからこそなのだろう。水深が千メートルになっても、水圧以外に違いはないように、鉄腕には思えてしまう。その水圧の違いも、飽和潜水では感じる事はない。
 鉄腕達が組み上げたクリスマスツリーは、メタンハイドレート掘削櫓の別名である。外観が似ているので、そう呼ばれている。ただ、今回は櫓を組むだけで、実際にメタンを採掘するわけではない。
 今回の目的は、海底での作業の効率をクリスマスツリーの作業状況から推定する事にある。そのために、水深百メートルでのクリスマスツリー組み立てを三ヶ月前に実施している。人間の学習能力による数値の向上分を補正するため、この実験の三ヶ月後にも、水深百メートルでのクリスマスツリー組み立てを行う事が決まっている。他の学習能力の検査結果を加味し、水深千メートルでの作業効率の正確な解析が行われる。
 結果がまとまるのは一年先だが、ここまでの状況では素晴らしい結果が出ると、鉄腕は手応えを感じていた。
 マリンスノーが降り頻る中、十五メートルおきにあるガイド灯を頼りに、海底居住基地への帰路に就いた。どんなに強い光源を使っても精々五十メートルしか光が届かない水中は、ヘルメットのヘッドライトが照らし出すマリンスノーと大半を占める闇で構成されていた。
 深海には、まだ知られていない生物が数多く残っているという。その中には、体長十五メートルを超えるダイオウイカも含まれる。
 直径二十五センチもあるという大きな目で獲物が発する微かな光を感じ捕まえるというが、生態は全く分かっていない。ただ、ダイオウイカの天敵である抹香鯨の体に、直径三十センチもあるダイオウイカの吸盤の跡が残っていた事で、抹香鯨との死闘が推測されるだけだ。
 鉄腕は、微かな音を聞き、泳ぐのを止めた。緩い弦を弾くような、継続する低周波の振動だった。
 もしかすると、近くにダイオウイカが居るかもしれないと、冷たい海水と漆黒の闇に包まれた世界で、身が凍り付いた。
 果たして、ダイオウイカが人間を襲うのか、誰にも分からない。ダイオウイカが居る千メートルの海底に生身の人間が来るのは、今回が始めてなのだ。だから、鉄腕自身が最初の犠牲者になる事も、有り得ない事ではない。数メートルにも及ぶ八本の足や二本の触手に捕まれば、絞め殺されてしまうかもしれない。
 鉄腕は、ヘッドライトを海底に向けた。
 足元の海底から、段々と前方へとライトを向けていく。
 さっきの音は何だったのだろう。
 海底には異常がない。空耳だったのだろうか。
 今までこんな事を心配した事は、一度もなかった。クリスマスツリーの完成が見えてきた余裕で、ちょっとした音がしただけで根拠も無く危険を感じてしまうのだろう。
 それでも、注意をするに越した事はない。
 帰路を急ごうと、鉄腕は泳ぎだした。その時、再び音が聞こえてきた。今度は、何かが擦れ合う人工的な激しい騒音だった。一瞬、ダイオウイカが居住区を襲撃したのかとも思ったが、それにしては音が大き過ぎる。音は益々大きくなり、海水と海底を揺さぶる轟音となって、鉄腕の全身を震わせた。
 疑う余地は無かった。
 居住基地で、何かの事故が発生したのだ。原因も、事故内容も、今は分からない。だが、居住基地を守らなければ命が無い事だけは確かだった。
 一瞬の明滅の後、ガイド灯が消えた。
 この騒音が、事故によるものである事が確定した。
 鉄腕は、携帯型のポジショニング・システムを取り出した。海底基地周辺に設置した発信機の音波を受信し、位置を確定する仕組みになっている。予想通り、単独の電源を持つ発信機は、事故後も生きていた。
 鉄腕は、基地へ向かって急いで泳いでいった。

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