彼女に初めて会ったのは、今から十年前の高一の時、夏休みのバレー部の合宿が終わって鉄腕と自宅に帰る道だった。
 今考えると、無用な手出しだった。
 どちらが先に見つけたか覚えていないが、若い女性がちんぴらに絡まれているのが目に留まった。それが、初めて見た彼女だった。
 腕に覚えのある鉄腕も、熱血漢だったタッカも、それを見過ごす事はできなかった。正義の味方宜しく、六人のちんぴらと彼女の間に割って入った。数で優勢と見るや、ちんぴら共はタッカ達に絡んできた。タッカも、鉄腕も、相手が先に手を出すのを待っていた。予想通り、ちんぴらが先に手を出してきたので、それを合図に大立ち回りになった。タッカと鉄腕は、それぞれ二人を片付け、残る二人を探したのだが、なぜか、その二人を含めた六人全員が道路に伸びていた。
 後で分かったのだが、タッカと鉄腕が、二人ずつを相手に梃子摺っていたので、彼女が加勢してくれたのだった。もちろん、ほんの一瞬で二人を叩きのめし、涼しい顔してタッカ達の立ち回りが終わるのを待っていたのだ。
 翌日、何発か殴られて顔に痣を作ったタッカ達の前に、転校生として紹介されたのが、彼女だった。それが、二度目に顔を見た時だった。と言うのも、大立ち回りが終わるが早いか、とんでもない俊足を飛ばして彼女は逃げてしまったのだ。
 当時でも百メートルを十二秒前後で走っていたタッカが、荷物を持っていたとは言え、あっという間に振り切られてしまった。だから、彼女の名前も、住所も、年齢も、何も知らなかった。
 ただ、この後が大変だった。
 彼女が、タッカ達から助けられたと、事の詳細を担任にばらしてしまったから、暴力事件として取り上げられ、危うくバレーボール部の対外試合の禁止、謹慎にまで、事が大きくなりかけた。幸い、彼女の父親が政財界にも顔が利く大物だったので、「正義感を失わさせるような処分は断じて認められない」と教育委員会や関係各所に訴え、注意処分だけで済んだ。
 結局、注意処分になったのは、自分の身に危険が降り掛かるような事をした事に対する注意だった。他に方法があったか無かったかを無視していたので、タッカ達は笑って注意を聞き流した。

「ランディング・チェック」
 彼女の指示が飛んだ。
 直ぐに、飛行鞄から着水時のチェックリストを取り出し、読み上げと確認を行った。
 S-2Rは、彼女の操縦で滑るように着水した。「波の読み方は天才的」と、どこかの機長が言っていたが、その言葉が誇張ではないと、タッカも同意せざるを得なかった。S-2R以外のどの飛行艇もできない暗闇の海面への難しい着水を、好天の滑走路への着陸のようにやってのけた。
 S-2Rは、ランプを登り、真水による洗浄を受けた後、指定のスポットに駐機した。
 駐機時の一通りのチェックリストを済ませると、磯の臭いの中でタラップを駆け下りた。そのまま、もう一機のS-2Rへと走った。
 用意されていたS-2Rには、既に二人のパイロットが乗り込み、エンジンの始動を始めていた。ユカリは、その二人と揉め始めた。危険が伴うので、最小の人数で行きたいと、二人に降りるように説得を始めた。
 タッカには、関係のない話だった。誰でもいいから、目的の海域まで水中エレベータと一緒に運んでくれればよかった。揉め事には首を突っ込まず、前部キャビンの床から下部通路に下りて、水中エレベータセクションまで通り抜けた。
 水中エレベータの外部チェックを始めた。注文の品は、色々な工夫を凝らして、水中エレベータに固定してあった。充分に満足のいく状況だった。救難管制部は鈍いと思っていたが、この辺りの仕事ぶりは大した物だと感心した。
 再び、下部通路を通り抜け、前部キャビンに戻った。そして、今し方通ってきた下部通路との扉を閉め、ドア周りのシール状態を確認した。
 地上作業員は、コクピットで続いている喧騒を気にしていたが、タッカの顔を見ると、減圧室のブリーフィングを始めた。
 水素潜水のマニュアルを受け取り、減圧室のハッチを潜り抜けた。
 減圧室にも、必要な品物が総て揃っていた。地上作業員が、短い時間だったにも関わらず必死に揃えてくれた事が、痛いほど分かった。
 物品のチェックが終わったところで、ハッチを閉め、加圧のためのチェックリストを行った。そして、シール確認のための第一段階の加圧を開始した。第一段階を終了すると、毎時十気圧の割合で加圧する。これが、S-2Rの減圧室の加圧速度の上限に当たる。加圧は、ヘリウムを追加する事で行うが、今回の加圧では、大気中の窒素分を除去する事が難しい。加圧すると、窒素は窒素酔いを引き起こす。それが気掛かりだった。
 機体は、中々発進しなかった。彼女と二人のパイロットの間で揉めている事は、容易に想像できた。タッカは、彼女が強硬手段に出なければと、心配になってきた。
 加圧が第二段階に入り、三気圧を越えた時、エンジン音が高まり発進を始めた事が分かった。
 タッカは、ベッドに横になり、ベルトで体を固定した。非常に狭いS-2Rの減圧室内では、通常のシートが用意されていない。そのため、離着陸時は、カイコ棚のような狭い三段ベッドに潜り込み、ベルトで体を固定する事になっている。
 ランプを下り、海面に機体が浮かんだ事が、大きなピッチングで分かった。
 壁に掛かっていたヘッドセットをかぶった。これで、機内の各所とのインカムによる通話と、無線通信をモニターする事ができる。ピンをプラグに挿し込むが早いか、ユカリがグランドコントロールに捻じ込んでいる声が聞こえてきた。
「滑水路三三で離水します。周辺の機体を退けて下さい」
 彼女は強い口調で言ったが、それ以上に激しい声でグランドコントロールは言い返してきた。
「離水は認められない。貴機は、正規の乗員が乗務していない」
 危惧していた通り、彼女は強硬手段に出たらしい。
「非常時に何を言ってるんですか。兎に角、離水します。空中衝突しないように、誘導して下さい。それから、あの二人は、急にお腹が痛いって寝転がっちゃったんだもの。降ろすしかなかったのよ」
 何が、お腹が痛いだ。彼女が、みぞおちに当て身を食らわしたに違いない。その上で、二人を強引に引き摺り下ろしたのだ。
 グランドコントロールも、事態を理解したらしく、苦い声で離水を認めた。
「了解。スクランブル時のマニュアルに従い、貴機の離水を認めます。滑水路は、三三。離水支障無し」
 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。

 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 タッカは、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

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