我が目を疑った。
 いや、今まで気付かなかった間抜けさ加減に、嫌気が差した。
 二酸化炭素分圧は、0.04気圧になっていた。濃度で言えば、0.0006パーセントだ。これは、かなりの中毒症状を起こすレベルだ。実際に、三十分も前から症状があった。
 タッカは、頭痛の原因を、急激な圧力の上昇が原因と考えていた。しかし、それが間違っていたのだ。吐き気が始まっても、まだ頭痛から来る吐き気と考え、二酸化炭素濃度の上昇を考えなかった。
 何という馬鹿さ加減だろう。
 この水中エレベータは、ヘリウム潜水用に設計されている。当然、各部の性能は、ヘリウム潜水の限界といわれている五百メートル五十一気圧に設計されている。今は、七十気圧に届こうかという高圧下だ。おまけに、不活性ガスのヘリウムガスから活性の水素ガスに交換したのだ。二酸化炭素除去装置が本来の性能を発揮できなくても、不思議ではない。
 こんな事なら、水素潜水用の二酸化炭素除去装置を頼んでおけば良かった。
 後悔したが、今更遅すぎる。
 タッカは、空気の吸い込み口に近付いた。
 これから先は、息は吸い込み口に向かって吐こう。そうすれば、いくらか濃度の高い二酸化炭素が二酸化炭素除去装置に流れるので、効率が上がるだろう。
 今から二時間半も、吸い込み口に向かって息を吐きながら耳抜きを繰返さなければならない。面倒な事、この上無しだ。
 この方法で、三十分、様子を見てみた。
 狭い水中エレベータ内で、体を捩った態勢で、右を見て息を吸い、左を見て息を吐く事を続けてきたので、首が痛くなってきた。肩も凝り、その不快感で苛々もつのった。
 頭痛は相変わらずで、頭を押さえつけられるような圧迫感があった。吐き気は少し治まったような気がするが、新たに耳鳴りが始まった。息苦しさは感じないが、呼吸が少し深くなっている。どれも、二酸化炭素中毒の症状だ。二酸化炭素濃度は、ほとんど変わっていない。ちょっと辛いが、我慢すれば何とかなりそうだ。
 間も無く、海底に着くだろう。
 節電のために切っていた音波水深計のスイッチを入れた。音波水深計が発する音が、海底からピンと返ってくる。
「海底まで八十六メートル。六分足らずだ」
 水深計の発する音しか聞こえないエレベータ内に、独り言が淋しく反響した。
 海底に激突しないために、バラストチェーンを降ろした。バラストも二個捨てた。下部の照明を付け、四箇所しかない小窓の一つから海底を探した。
 まだ、見えなかった。
 海底まで四十メートルを切っているが、降下率も毎分三メートル程度まで落ちていた。内圧がまだ六十九気圧しかない。外圧は九十九気圧を越えていく。内外圧力差がマイナス三十気圧もある。水中エレベータの外圧超過の限界状態だ。それも、外圧の上昇に内圧が追いつかない状態が続いている。
 この状態で、海底に激突したくなかった。
 間も無く、水圧計は百気圧の目盛りを振り切り、目盛りの無い所を進み始めた。安全係数は、二割超過までしか余裕がない。外圧が内圧を三十六気圧超過すると、水中エレベータは圧壊する。それも、計算通りならの話で、少しでも傷みがあればそれより前に圧壊する可能性さえある。今、三十二気圧の超過だ。
 軋み音がする度に、胃がきゅっと締め付けられる。
 まだ、海底は見えなかった。音波水深計は、ほとんど海底に着いた事になっている。まさか、こんな深い所に温度境界層があるはずがない。頭では、それを信じようとしているのに、体は冷や汗を流し、信じていない事を教えた。
 ふと、窓の外が、暗闇でなくなったと思った直後に、もうもうと上がる土煙で、完全に視界が無くなった。チェーンバラストが着底したのだ。続いて、エレベータの外側を囲むフレームが、ゆっくりと着底した。
 数分すると、土煙のカーテンが取り払われ、海底が見えるようになった。
「よし!!」
 思わず、ガッツポーズした。
 ほとんど衝撃を感じる事無く、海底に着底する事ができた。しかも、横倒しにもならず、真っ直ぐに起立している。
 水中エレベータが着底した時、横倒しになったら、救助活動をできないまま、ここで死ぬ事になっただろう。この第二の難関も、理想的な姿勢で着底し、通り抜ける事が出来た。正直、ほっとした。
 内圧が外圧と同じ百四気圧まで上がれば、外に出てケーブルの除去作業をすればよい。
 電源を節約するために照明を落とし、トランスポンダで位置の確認を始めた。
 シャングリラ周辺に設置されていたトランスポンダは、まだバッテリが生きていた。お陰で、自分の正確な位置を確認できた。
 ユカリは、波と同じくらい潮流を読むのも上手いらしい。千メートル上でタッカを落とし、一時間半も掛けて降下したのに、今居る場所は、海底基地からの直線距離がわずか五十メートルほど。しかも、作戦には有利なケーブルスタンド側だ。真っ直ぐに落ちた懸架装置はどの窓からも見えなかったのだから、かなり流された筈だが、タッカはベストポジションに居た。
 ユカリが操縦していなかったら、この位置にタッカは居なかったかもしれない。
(ユカリに感謝)
 気圧計は、七十気圧を越えたばかりだ。二酸化炭素分圧は、ほんの少しだが下がり始めている。気圧調整には、まだ一時間半以上も掛かる。
 そろそろ、外部タンクと室内の圧力差が小さくなり、昇圧のペースが少しだけ遅くなり始めた。八十気圧を越えたら、室内に持ち込んだボンベからも水素ガスを放出しよう。
 室温は、十八度まで下がった。水素雰囲気の中では、体からどんどん熱を奪われる。ヘリウム環境と同様、水素ガス環境も、体感温度の適温の幅が非常に狭い。体感では、実際の温度よりずっと低く感じる。ドライスーツを着ているので、寒さはあまり感じないが、顔は冷たくなっていた。
 内壁も、零度に近い海水で外壁から冷やされ、水滴で覆われている。水滴が、あちこちで滴り落ちていた。ヒーターは入っているのだが、水素ガスが放出される際の断熱膨張でどんどん熱が奪われていき、ヒーターの加熱が追いつかないのだろう。
 時計を見る。
 実際に外に出て救出活動をするまで、十分に時間がある。その間に、鉄腕達と連絡を取っておこう。
 駄目元で、水中電話を試してみた。事故後、上から水中電話を試した事が有ったが、繋がらなかった。海上からだと、途中に温度境界層がある事も想像できるが、電源をやられて使えなくなっている可能性も高い。
 十回は呼び掛けたが、予想通り駄目だった。
 今度は、可能性の高いモールスを試してみた。ハンマーで内壁を叩いて、返事を待った。
 返事は無かった。
 また、ハンマーで内壁を叩く。
 十秒、待った。
 返事は無かった。
 ハンマーで叩き、返事を待つ。これを何度も繰り返す。
 きっと、彼等は、救出されるまでの消費酸素量を極限まで減らすために、ベッドに体を横たえているのだろう。即答できる状態じゃないんだ。そうに決まっている。鉄腕は、まだ生きている。絶対に生きている。
 十分が過ぎても、返事が無かった。
 タッカは、モールス表を確認しながら、「我、救助隊。応答せよ」を打ち続けた。
「早く、返事しろ……」
 絶対に生きている。
 それだけを考えていた。だが、自信が揺らぎ始めていた。いくら体を横たえていたにしても、とっくに返信できる筈だ。
 ふと、我が身が心配になった。
 タッカは、海底基地の緊急脱出球で帰るつもりだった。だが、海底基地が破壊されていて入る事ができなければ、この水中エレベータで戻らなければならない。水中エレベータ内は、八十気圧を越えている。このまま浮上すれば、内圧が高過ぎて破裂する危険性がある。安全係数を計算に入れても、ぎりぎりだ。
 浮上する前に、安全な五十気圧まで減圧しなければならない。だが、ポンプは、圧力差が三十気圧までしか内部の空気を排出できない。大量の電力も必要だ。ケーブルを切り離している水中エレベータの電力では、不足する事は目に見えている。おまけに、外圧超過は三十気圧が限度だから、この位置では七十気圧までしか減圧する事ができない。
 浮上には、一時間かそこらしか掛からない。その間に二十気圧は減圧しなければならないが、一時間で二十気圧の減圧をすれば即死に近いだろう。仮に、無事に浮上できたとしても、浮上後に直ぐに救出されて船上減圧室に移るか、酸素の補充を受けるかしなければ、俺も鉄腕と同じ三途の川を渡る事になる。
 タッカは、加圧を中止すべきかどうか、迷い始めた。
「三分だけ」
 それだけ待って返事が無ければ、一旦、加圧を中止し、減圧して浮上しよう。
 また、モールスを叩き始めた。

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