ハッチが開き始めると、その隙間から男の顔が浮かび上がった。男は、眩しそうに手を翳しながら、「遅刻だぜ」と白い歯を見せた。
「鉄腕!!」
 感激で、日本語が飛び出した。男は、きょとんとした顔を見せた。慌てて、マスクを剥ぎ取り、顔を見せた。
「俺だよ、タッカだよ」
 そう言い終わった途端、胃酸が込み上げてきた。
「くっせぇー!」
 そう。ここの空気は、異様な匂いが立ち込めていた。むかむか込み上げてくる吐き気を抑えつつ、ハッチを通り抜けた。
「お前一人か?」
 喉元まで込み上げてきて、声が出せなかった。
 タッカが小さく肯いたのを確認すると、鉄腕は素早くハッチを閉ざした。
「トイレ、どこだ」
 小さな声で、そう言うのが精一杯だった。
 鉄腕に教えられて、B棟の一番奥にあるトイレへ飛び込んだ。思い切り吐いた後、小便も済ませた。
「マスクの中で吐かなくて、良かったな」
 懐中電灯を俺に当てながら、鉄腕は笑った。
「マスクを外さなきゃ、吐かなかったんだよ」
 眩しさで、目を細めた。鉄腕は、懐中電灯を消した。タッカも、ヘッドライトを消した。闇が、辺りを包んだ。
「どうやって来たんだ?」
「泳いで」
「確かにな」と誰かが闇の中で笑った。
「で、どうやって俺達を救出しようってんだ?」
「ケーブルを退ける」
「でも、どうやって?」
 鉄腕は、タッカ一人に何ができるのかと、非難めいた言い方をした。
「ちょっと、手伝ってくれないか。ああ、それからタンクも貸してくれ」
「冗談じゃない。タンクは貴重品だ。電力が切れてるんだ。補充は利かないんだ!」
 そこまでは、考えていなかった。考えていたら、予備のタンクも持ち込んでいた。
「兎も角、タッカの話を聞こうじゃないか。こっちも、最後の手段を失ったんだから」
 最後の手段?
 彼の言葉が、引っ掛かった。
 彼等は、何か脱出の方法を考えていたらしい。だが、何らかの障害があって、その方法が使えなくなったのだろう。
 その障害に、自分が関与していないか、タッカは不安になった。
「話を聞かせてくれ。俺は、オハラだ。サブリーダーだ」
 闇に目が慣れてきている筈なのに、何も見えなかった。総ての電源が落とされ、一切の光源がなく、燐光さえ窓から入ってこない。
 オハラの声は、闇の中から聞こえてきた。
「俺は、オコーナー」
「ドクターのディックだ。あと、負傷者が二人。リーダーのナンスとアロイだ」
 闇の中から、順番にドナルドダック効果で甲高くなった声が聞こえてきた。声から、その体格は想像できないが、恐らく、屈強な男達なのだろう。
「俺は、タッカだ」
 諦めを感じさせる溜息が、聞こえてきた。
「航空部のタッカだな。鉄腕から名前は聞かされている」
 航空部の奴にこの窮状を解決できるものかと、暗に言われているような気がした。
「上は、どうなってるんだ。連絡が途切れたままだが」
「ああ、変な奴等に乗っ取られたんだ。だから、上からの救出は諦めた方がいい。兎に角、あんたらを浮上させたいんだ。上に行けば、手はいくらでもある」
「具体的には、どうやるんだ?」
「水中エレベータを使う。それから、パラシュートだ」
「パラシュート??」
「そうだ。パラシュートにエアを送り込んで、水中エレベータの浮力と合わせて、ケーブルを引き上げる」
 闇の中で、みんなが唖然としているのが、流れた沈黙の長さで分かった。
「水中エレベータがあるんなら、それで浮上すればいいじゃないか」
「残念ながら、ケーブルを切断して下りてきた。それに、三人乗りだ。俺を含めて、四人が居残りになる。それも、内圧超過は、安全係数を無視しても七十五気圧だ。海面に出る前に破裂してしまう」
 また、沈黙が訪れたが、今度は短かった。
「で、どれくらいの浮力が得られるんだ?」
「水中エレベータが0.5トン。パラシュートは、二、三トンかな」
「水中エレベータにケーブルを括り付けて、水中エレベータとパラシュートの三トンの浮力で引き上げるって寸法だな。で、水中エレベータは、七十五気圧で破裂するんだろ? 水深二百五十メートルまで浮上すると、破裂して、また沈んでくるんじゃないか」
「大丈夫だ。ハッチを開けたままにする。圧力が下がれば、ハッチからエアが溢れ、上で開いているパラシュートの中に納まるって寸法さ」
「上手く考えてるが、浮力が三トンじゃ、ケーブル二百五十メートル分だな」
 闇は不便だ。誰が話しているのか、分かりゃしない。表情を読む事もできない。
「まだ足りないな」
 タッカも、半分しか上がらない事は承知していた。
「全部を持ち上げる必要は無い。緊急脱出球の回りが奇麗になれば、十分だろう」
 闇のあちこちから、溜息が聞こえてきた。
「その緊急脱出球を使用不能にしたのは、一体誰なんだ」
(緊急脱出球を駄目にした?)
 言っている意味が、理解できなかった。

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