「中の海水を、あんた、どうしてくれるんだ。おい」
 そうか!
 緊急脱出球で排水ができなかったのは、電源が無かったからだ。満水状態にした緊急脱出球は、永久に使用不能になってしまったのだ。
 言い訳できなかった。判断材料は、揃っていたのだから。
「ケーブルを完全に取り除ければ本体の緊急浮上の可能性が残るが、それも緊急脱出球を取り除かないと、余剰浮力を食いつぶしてしまう」
「重心もずれるから、浮かんだとしてひっくり返ってしまう」
「そうだな」
「大変な事をしてくれたものだ」
 タッカは、自分が何のために来たのか、また分からなくなった。
「アムス。こいつの分の酸素消費量を入れて、残り何時間だ?」
「三十時間は切っているでしょう。一人、増えてますから」
 鉄腕は、即答した。
「聞いての通りだ」
 ここまで、脱出の可能性を減らした上、生存時間まで縮めてしまった。
「クストーは、いつ頃、回航できるんだ? 聞いてないのか?」
 ユカリの声が、蘇る。
「およそ百二十七時間後だそうだ」
「そんなに早いのか! 潜水用のボンベも使えば、ぎりぎり、一人か二人は、助かったかもしれないな」
「上の連中も、精一杯の事をやってくれているんだ」
 そうだ。
 それを、無に帰そうとしている。視線が落ちた。
「もう一つ、教えてやろう」 
 声の主に視線を移したが、闇で何も見えなかった。
「実は、あんたと同じ事考えてたんだ。あんたも、ここに入ってくる時に見ただろうが、小型の潜水艇がある。あいつを回収するための空気嚢があるんだ。浮力は、水深千メートルでも二トンある。しかも、海上まで出ても破裂しないように、容量に余裕がある。三倍に膨れ、吸収できない分を弁から逃がすようになっている。こいつの浮力で、ケーブルを持ち上げる予定だったんだ」
 それが、鉄腕の言った最後の手段だったのだ。
 でも、どうしてそれをしなかったのだろう。
「上との連絡が取れ次第、実行に移す予定だった。そこへ、あんたからのモールスだ。ダーウィンの水中エレベータが直ったと思った。だから、負傷者の救出方法を考え始めていたんだ。念のため、モールスでA棟から入れと繰返して送ったのに、あんたは緊急脱出球に注水した」
 慌てて、手帳を取り出した。その物音が気になったのか、誰かが懐中電灯を点けた。眩しさで目を背けている間に、素早く手帳を取られた。
「あんた、モールスが読めないんだろう」
 今までの温和な物言いが、一転した。
「読めないくせに、モールスなんか打って、救出に行くから場所を知らせろって偉そうな事を言いやがって。こっちの話は何も聞けないってか!」
「いや、モールス表を持ってきたから、それで訳せば……」
 タッカは、シドロモドロになった。
「だから、パイロットは嫌いなんだ。ここの連中は、みんなモールスを使えるぜ。なんせ、今回みたいな事があれば、モールスが使えなきゃ命取りになり兼ねない」
 激しく叱責したが、手帳は丁寧に返してくれた。
「アムスから、タッカの話は聞かされていたからな。ユカリと張り合うくらいの凄腕らしいじゃないか」
 これ以上ない皮肉だった。
 懐中電灯は消された。再び、何も見えなくなった。
 みんなが立ち上がるのが、音と空気の流れで分かった。みんな、自室に戻るのだろう。遺書をしたためるのかもしれない。
 俺も、母と兄貴には何か書いておいた方がいいのかもしれないと、タッカは観念した。
 二人には、返せないほどの恩があった。でも、何を書いたらいいのだろう。
 いざとなると、思い付かないものだ。
 母には、産んでくれた恩、育ててくれた恩。兄には、経済的に助けてもらった恩がある。
 俺が中三の時、父が交通事故で死んだ。兄は、大学での研究から離れて、病院に勤務するようになった。父に似て、学者肌の兄には患者の相手は辛かっただろうが、収入が少ない研究職を捨て、タッカが私立の高校に進めるようにしてくれた。タッカは、公立校に進路を変更していたが、兄は黙って私立に願書を出し、受験日の前日にタッカに受験票を渡した。
 断れなかった。三年間も兄の収入に頼る事になってしまうが、兄の気持ちを裏切れなかった。
 兄は、大学に進学しなければ、勘当すると言った。タッカは、その言葉に甘えて、アクアシティに来た。鉄腕でもなれなかった特待生になり、兄の負担を減らせた事は、ちょっとだけ鼻が高かった。
 そんな恩のある兄に何を書いていいのか、何も思い付かなかった。
「おい、タッカ! 何をしてるんだ! 早く来い!」
 鉄腕の声だった。
「お前は、二つだけ、いいものを持ってきてくれたんだ。浮力になるものと、人手だ。負傷者が二人いて、人手が足りないんだ。早く来い!」
 また、別の声がした。
「じっとして死にたいか、じたばたして死にたいか、どっちだぁ!」
 返事に困った。
「俺は、じたばたして死にてぇよ。もし、万が一助かったら、めっけものだろう」
 そう言うと、声の主は豪快に笑った。
 彼の言う通りだ。途中で投げ出すのは、自分の主義に反する。ユカリを追い、自分の背中を見せるために来たんだ。途中で止めるんなら、高校を卒業する時に諦めてればよかったんだ。ここまで来た以上、自分の背中をユカリに見せるまで、絶対に諦めない。生き抜いてやる。問題が起こる度に、解決すればいいんだ。天国でも、地獄でも、後悔のない生き抜き方をしてやる。
 タッカは、手帳を仕舞い、立ち上がった。

       < 次章へ >              < 目次へ >