事故原因

 船上減圧室と外部との連絡は、月着陸船と管制センターとの連絡に似ている。目と鼻の先程の距離に居ながら、地球から月程の距離に感じる。少なくとも、気圧の壁のが立ちはだかり、簡単に行き来できない点では、全く同じだった。
 ただ一つの違いは、船上減圧室の側面にある数箇所の小窓から、相手の顔が生で見られる点だろう。
 恋人同士が、小窓のガラスを間に挟んでキスをする。
 映画なら、そんなシーンも出てくるだろう。
 何を勘違いしたのか、クストーの乗組員が、たっぷりと口紅を塗り、小窓の一つにキスマークを付けた。せめて、恋人が来たつもりになってくれという意味なのだそうだ。
 だが、クストーの女性乗組員の協力を得られなかったらしく、キスマークを付けたのは、男だった。だから、減圧室の中に居る七人は、誰一人として、その小窓には近付かなかった。
 そんな小窓の一つから、タッカは外を見た。
「ごめんね」
 小窓の向こうで、ユカリが手を振りながら言った。
 そのままでは、声は聞こえない。彼女は、受話器を片手に、話し掛けてきた。
「見つけるまで、時間が掛かってしまって、ごめんなさいね」
 浮上してから、見つけてもらうまで、一晩を越していた。はっきり言って、中のメンバーは、絶望していた。脱出の際に、大量の酸素を消費したので、酸素は底を突き、二酸化炭素の濃度も、危険な領域まで上昇していた。
 メンバーは、今回の事故後の経緯を詳細な記録に残すため、手分けしてメモに書き留める仕事をした。電源が無くなり、パソコンが使えなかったので、全て手書きになった。二酸化炭素中毒による激しい頭痛と吐き気の中、懸命に記録を残した。発見が間に合わなかった場合でも、彼等の経験が今後に活かされるようにするためだった。
 正に、遺書の代りだった。
 幸い、ギリギリのところで発見され、救出されたのだが、その後も、B棟だけで浮上していたものだから、船上減圧室に乗り移るのに、大変な事になった。
 ダーウィンの甲板は、戦場になった。B棟を大型クレーンで釣り上げ、前の甲板に下ろしたまでは良かった。だが、そこから出す方法が無かった。やむを得ず、外部から電源とエアの供給をしながら、B棟の中で減圧する事になった。でも、俺には部屋が無く、鉄腕が交替で寝ようと言ってくれたので、同じベッドを二人で交替に使った。
 俺達を発見するのが遅くなったのは、俺達が浮上した位置が、元の場所から一海里以上も流された場所だったからだ。B棟は、傾斜したまま浮上したので、斜めに浮上してしまった。おまけに、海面からは、ほとんど出ていないので、空から捜索するまで、気がつかなかったらしい。
 運が良かったというべきか、ダーウィンが潜水艦を振り切って戻ってきた際、海底基地を探してくれた事だ。トランスポンダーで位置決めしただけでなく、音波探知器で、再確認した。その際に、海底基地からのエコーが、変化している事に気付いたのだ。
 ユカリは、何かが浮いてきているかもしれないと思ったが、既に夕闇に沈み始めていたので、翌朝を待ってS-2Rを飛ばした。
 捜索海域が狭いので、彼女は直ぐに見つけた。ただ、航続距離の長いS-2Rも、四回も離着水を繰返したため、燃料が乏しくなり、捜索終了と共に、サンディエゴに戻った。
「今頃謝っても、もう遅い。一ヶ月も前の話だ!」
 タッカは、怒って見せた。
「そこで、待ってろよ。とっちめてやる」
 鉄腕まで、調子に乗って言い加えた。
 彼女は、サンディエゴに戻った後、報告書の山に埋もれ、本来の救難待機と合わせ、ダーウィンに戻ってくる事はできなかった。
 その間、ダーウィンは、B棟で減圧を続けながら、サンディエゴに向かい、二週間前には入港していた。サンディエゴ港で、クストーと合流し、クストーの水中エレベータを緊急脱出球のハッチに接合する事で、クストー側の船上減圧室に移動した。負傷者は、そこで、初めて本格的な治療を受けられるようになったが、ドクターの処置が良かったらしく、二人とも完治するだろうとの事だった。
「私は、忙しいの。鉄腕にとっちめられてる暇は無いの」
 と言って、アカンベーをする。
 彼女は、タッカ達が今日で出られる事を知って、ここに来た筈だ。
 タッカは、胸が締め付けられるような気持ちになった。
(ユカリは、鉄腕を迎えに来たんだ。俺を迎えに来たのではない)
 今日でここを出られるというのに、タッカの気持ちは落ち込んだ。彼女が去った後で、ここを出たかった。
 そっと小窓から離れて、奥に隠れた。
 しばらくして、鉄腕が、タッカの横に来た。
「おい、誰が一番最初に出るか、くじ引きしようぜ。他の連中も、待ってるぞ」
 言われるままに、食堂に集まった。くじは、阿弥陀くじだった。ナンスは、奥のベッドで寝ていたが、最初に彼が引いていた。残る六本を、順番に決めていく。
 結果は、アロイが一番、オコーナーが二番、ナンスが三番、ドクターは四番、五番がオハラで、六番が鉄腕だった。
「くじ運がいいな。酉じゃないか」
 タッカは、くじ運が悪い方だ。特に、阿弥陀くじは、勝った試しが無い。今回だって、くじ運が良いのか悪いのか。この空気の悪く、狭苦しい減圧室から出るのが、七人の中で、最後になってしまった。
 でも、その方がいい。
 外に出た時、彼女に見送られ、自分より後に出てくる鉄腕の所に走っていかれるより、先に鉄腕に飛び付いてもらって、その隙に、そっと身を隠す方がいい。
「で、何時に出られるんだ? もう、減圧は終わったんだろう?」
 オハラが、待ちかねたように言う。
 あれから一ヶ月。暗闇の中で、一緒に仕事をした僅か二時間で、顔を覚えるより先に、仲間になったような気がする。五人で一緒にハッチを押し、五人で一緒に坂になった通路を滑り降りた記憶が、懐かしく思い出された。
「減圧は、今朝で終わったけど、取材陣の準備がまだらしい」
 電話を置いたオコーナーが、がっかりした表情でみんなを見た。
「マスコミは、俺達を監禁する権利を持っているのか」
「らしいな」
「ここを出たら、記者会見場に直行って訳だ」
「そうじゃないらしい。マスコミの連中は、やつれた顔でここから出てくる俺達を、カメラに捕えたいらしい。記者会見は、俺達が臭いんで、シャワーを浴びてからって事になった」
「じゃあ、今日一日、マスコミのお相手かい?」
「そういう事だ」
「おい、勘弁してくれよ。俺は、ここを出たら、真っ先にプールに行って、一泳ぎしたいんだから」
 オハラが、泳ぐ真似をする。
「まだ、泳ぎ足りねぇのか。何なら、もう一度下に行って、泳いできたらどうだ」
 どっと、笑いが巻き起こる。
「下は、今度の機会に取っておくよ。俺はなぁ、お天道様の下で泳ぎたいんだ」
「遠慮しなくていいんだぞ。下なら、一人で泳げるぞ。貸し切りだ」
 オコーナーが笑って言う。
「違う、違う。こいつは、プールにいるギャルが目的なんだ」
「じゃあ、下にギャルを連れてけよ」
「くる女なんか、誰もいないさ」
「だから、まだ一人者なんだ」
 いつに無く口の軽い仲間が、オハラをからかった。
「うるせぇ!」と憮然とするが、直ぐに大口を開けて笑い出す。
 もう、ここを出るまで、時間の問題だ。その安心感からか、タフな精神を持っている彼等も、会話が明るい。
 そんな中、鉄腕が音もなく立ち上がると、食堂を出た。そして、そっとタッカに手招きした。

 一時間後、呼び出し音が鳴った。今からハッチを開けるとの連絡だった。
 全員が、準備に入った。
 ハッチが開き、外の空気が流れ込んできた。
 彼等は、くじの結果を無視した。
 オコーナーが最初に出て、ナンスの担架を受けた。担架の後ろを持ったオハラが続き、ドクターに付き添われたアロイが出た。彼等がくじをしたのは、ただの暇つぶしに過ぎなかった。負傷者を優先するための最良の順番で、ここを出て行った。
 彼等の熱いハートと冷静さに、改めて感心させられた。
 タッカと鉄腕は、最後に残された。
「今度は、ジャンケンで決めないか」
「そんなに酉がいいんだったら、俺は先に行くぞ」
 そう言うと、鉄腕は、さっさとハッチを潜り抜けた。
 タッカは、慌てて後を追った。
 ハッチを出た途端、眩いばかりにフラッシュが煌いた。ただ、ガードマンが壁を作っていて、マイクを突き立てられる事はなかった。人の壁の間を、タッカは鉄腕を追って小走りに抜けた。スタッフが、誘導してくれる中を、会議室に入った。そこには、一ヶ月ぶりに生の顔を見るユカリと船長の姿があった。
 タッカは、ユカリの視線を外し、船長に握手を求めに行こうとした。その肩を、鉄腕のごつい手が押さえつけた。その瞬間、ユカリがタッカに飛び付いてきた。タッカは、何がなんだか、分からなかった。
 彼女の肩を押し戻し、「飛び付く相手を間違えてるぞ」と言った。
 彼女は、激しく首を振った。彼女の涙が飛び散った。
「鉄腕は、船長に挨拶してるわ。あなたしか、飛び付く相手がいないでしょ」
 そう言って、タッカの胸に顔を埋めた。
 そして、もう一言、「臭い!」と言ったまま、肩を震わせ泣いていた。
 船長は、鉄腕と握手したまま、肩を叩き合いながら、離れていった。タッカは、ユカリと二人きりで、会議室に取り残された。

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