プロローグ

 人類は、幾度と無く繰り返される試練を乗り越え、種としての繁栄を続けてきた。
 氷河期、旧人から新人へと自らを進化させ、他の動物とは一線を画す高度な知能で乗り越えた。
 自らが招いた温暖化と、それに伴う未曾有の食糧危機も、生産地のシフトを国際協力の下で行い、同時に化石燃料からの脱却を進め、現在では僅かずつではあるが効果が見られるようになってきた。
 温暖化の危機を経験した事により、地球にだけ生活の基盤を置く現状があまりに脆弱であることが、議論されるようになってきた。議論は、太陽系内への広範囲の殖民計画へと展開し、ラグランジュポイントへのスペースコロニーの建設、月への植民、火星のテラ・フォーミングが国際協力の下で行われることが決まった。
 日本政府も、第一段階のスペースコロニー計画に参画するため、宇宙移民事業団を創立し、スペースコロニーの建設、及び移民の募集や殖民を行うようになった。
 宇宙移民事業団の地上の拠点である管制センターは、大隈半島の内之浦に置かれた。
 スペースプレーンが発着できるカタパルト付きの滑走路を備え、地球軌道上にある日本の全ての施設の管制を行うと共に、今後の宇宙開発計画の全てを統括する一大施設である。
 宇宙開発事業団、内之浦管制センターという正式名称が与えられているが、職員と家族を含めると1000人を超える人々が、管制センターの敷地内に居住し、少人数制の小学校と中学校も併設する小都市のようなスケールである。
 その管制センター内を一人の中年女性が、あたふたと駆け抜けていく。二階の更衣室を飛び出すと、廊下の端の階段を目指して走っていった。途中のエレベータにちらりと目をやったが、六階に止まっていた。四階なら走った方が早いと思って諦め、階段を目指した。
 帰宅準備をしていた彼女は、突然の呼び出しに、慌てていた。呼び出しでは、何も説明が無く、「制御室から離れられないから、大至急、来い」とだけ命じられた。センター長から命令形で呼び出されるのも、大至急と言われるのも、初めての事だった。ただ事ではない緊張感が、センター長の声に込められていた。
 だから、彼女は、センター長の征矢野が詰めている制御室まで走るしかなかった。
 走っているのは、彼女だけではなかった。いや、廊下を歩いている者は、一人もいなかった。激しいドアの開閉音と共に、何人もの人々が廊下に飛び出し、走り去った。そして、ほぼ同じ数の人々が、階段を駆け上がり、駆け下り、部屋に飛び込んでいった。
 彼女は、そんな人々とぶつかり合いながら、時には壁に飛ばされながら、制御室に向かった。途中で夫とすれ違ったが、気付かないのか、見向きもしてくれなかった。夫だけでなく、日頃なら挨拶を交わす同僚達も、視線を合わせる以上の事はしなかった。ただ、その目は、「もう駄目!」と言っているようだった。
 彼女が、四階の制御室に辿り着いた時に見たものは、悲壮感と絶望に打ちひしがれた征矢野の顔だった。
 彼は、直ぐに彼女を見付けた。
「帰り掛けていたところをすまなかった。早々で悪いが、大至急、職員の家族をセンターに呼び寄せ、飛鳥に脱出させてくれ」
 彼女は、事態を把握しようと思考を巡らせた。だが、どうしても、一つの単語に引っ掛かってしまう。
「脱出……ですか?」
 彼女は、その単語を口にした。
「そうだ。脱出だ」
 征矢野は、静かに言った。
 その言葉の重みを、彼女は理解した。様々な思いが去来したが、それを振り切り、今すべき事を整理した。彼女の専門は気象学だったが、そんな事を言っていられなかった。頭の中の整理が付いたところで、口を開いた。
「わかりました。早速ですが、センター長も息子さんに連絡を入れ、こちらに呼び寄せてください。他の職員にも、そうしてもらいます。私は、警備に協力を依頼して、受け入れと脱出の手配をします。それでよろしいですね」
 征矢野は肯いたが、直ぐには電話する気配が無かった。
 彼女は、手近の電話で自宅に連絡を入れ、中学生の一人娘に管制センターへ急いで来るように伝えた。その横で、職員達の必死の声が響いた。
「コンピュータは、まだ復旧できないのか?」
 いつも、冷静な征矢野の声が、裏返っていた。
「駄目です! 再起動しましたが、起動が完了すると同時に、ロックしてしまいます」
「ネットワークから切り離すと、ロックしません。ネットワークに問題がある筈です」
「ネットワークのトラフィックは、問題になるほど高くありませんよ。問題は、他にある筈です。例えば、サーバーとか……」
「サーバーも一台を再起動しましたが、直ぐにロック状態に陥ってしまいます。誰かが、外部からクラッカー行為を仕掛けているかもしれません」
「馬鹿な! ここのネットワークは、一般回線には繋がっていないぞ」
 制御室内の声が殺気を帯びていく。
 コンピュータがロックしているのが問題ではない。それだけなら、こんなに慌てる必要はなかった。今発生している深刻な問題に対処するために必要な、最強にして唯一の道具が、コンピュータなのだ。それが使えない。
「管制センター内なら、できない事もないよな」
 誰かが、ぼそっと言った。
「犯人が、ここの職員だというのか!」
 口論を続ける二人の声に、征矢野は表情を強張らせた。
「そんな事は、言っていませんよ。ただ、考えられる可能性を言っただけですよ」
「犯人が、職員だという可能性をか!」
 男は、立ち上がって、噛み付く勢いだった。
 まずい兆候だった。現在の重大な局面に対応しなければならない職員の姿勢が、コンピュータのロックによって、崩れかかっていた。にも関わらず、征矢野の行動は、緩慢ささえ感じられた。
 そんな征矢野の様子に、女の直感とでも言うのだろうか、彼女は一つの原因を見つけ出していた。
(センター長は、犯人に心当たりがある? …… まさか?)
 彼女は、片隅に浮かんだ邪念を振り払った。
 管制室の隅に移動すると、コードレスフォンで警備を呼び出し、手順と配置を指示した。続いて、資材部にも電話し、ベルトとロープをスペースプレーンへ運ばせた。
 一通りの指示が終わると、もう一つの問題に相対した。ナンバーを思い出しながら、ダイヤルした。直ぐに呼び出し音がなり始めたが、相手は簡単には取ってくれなかった。呼び出し音に注意を払いながら、征矢野の様子に見入った。
「犯人探しは、後でもできる。復旧だけを考えろ。制御室と通信室以外のネットワークは総て切れ。ネットワークが原因なら、それでサーバーを再起動すれば復旧できる」
 征矢野の指令に、数人の男達が飛び出していった。物理的に、ネットワークを切るのだろう。彼女は、男達の労力が報われる事を願った。
 結果は、予想より早く出た。
「あれ、動き出した。復旧したみたいです」
 素っ頓狂な声が聞こえてきた。それを合図に、全員が持ち場のコンピュータを確認し始めた。
「テレメトリング、OKです」
「燃料系、OKです」
「軌道計算、OKです」
「軌道観測、OKです」
「推進、OKです」
「記録、OKです」
 あちこちで、同様の言葉が発せられた。
 チャンスと思い、彼女は征矢野に声を掛けた。
「センター長、今すぐ、息子さんに連絡してください」
 呼び出し中のコードレスフォンを差し出した。掛けた先は、征矢野の自宅だった。そこには、娘の同級生の男の子が居る筈だった。彼も、飛鳥に脱出させなければならない。だから、コードレスフォンを押し戻されても、食い下がろうと思っていた。……が、征矢野はあっさりと電話を取った。彼女は、会話が聞こえないように少し下がった。
「燃料パレットの残量を確認しろ。緊急時用の資源パレットも、直ちに推進装置に回せ。起動計算担当、残量から計算して、回避のための推力をかけろ。上手く行けば、大気層で跳ね飛ばせるかもしれない」
 電話に応答するまで、征矢野は次々と指示を出し続けた。
「燃料パレットの残量は、ゼロです」
 予想の範囲内だったらしく、制御室は平静を維持していた。しかし、次の一言で、一瞬にして静まった。
「資源パレット、残量……、残量はゼロ。ゼロです」
「再確認しろ。資源パレットの残量がゼロの訳がない。もう一度確認しろ!」
 その瞬間、電話が繋がったようだ。征矢野は、しばらくの間、受話部を手で押さえたまま、残量の再確認と使用記録のチェックを命じていた。それが済むと、やおら用件を伝え、直ぐに切ってしまった。
 彼女としては、征矢野の息子に状況が伝わったのか、少々不安だったが、最低限の仕事はした。既に、職員家族の受入態勢と搭乗割り当ての基本方針は、整えてある。残る仕事は、四機のスペースプレーンの打上げ手順だけだった。だから、制御室内に留まり、状況を見守った。
 正直言って、スペースプレーンが4機もあるのは幸運としか言いようが無い。
「所長、まさか、あれが落ちてくるのですか?」
 センター長から「脱出」と言われた時から、彼女も気付いていた。ただ、口に出して確かめるのが怖かった。でも、彼女が知る回避策が全て駄目になってしまった事を知った今、はっきりさせておく必要があった。間もなく、官舎に住む数百人の家族がここに集まってくる。彼らに、状況を説明し、脱出に協力してもらわねばならない。
「もう、避けきれないという事ですか?」
 センター長が、「念のため」とは言わないと分かっていたが、「念のためにやっている」と言ってくれる事を期待してもいた。そして、小惑星の墜落が回避できれば、直ぐにでも、脱出計画を白紙に戻すつもりだった。
「資源パレットの使用記録はどうだ?」
「使用した形跡はありません」
「残量計が狂っているのか?」
「いいえ、間違いありません。資源パレットの残量は、ゼロです。推進剤は、全く残っていません」
「残量計は無視しろ。資源パレットがあるものとして、対応する。資源パレットのコンテナは、推進装置まで移動させられるか?」
「今やっていますが、ちょっと変です」
 燃料担当は、首を捻りながら、コンピュータに向かった。
 資源パレットは、緊急時の燃料用として確保してあった。
「駄目です。資源パレットが動きません」
「繰り返し、やってみろ」
 返事はなかった。彼は、何度も同じ操作を繰り返し試みていた。
 征矢野の顔色は、見る見る青ざめていった。
「誰でもいい。最悪の事態を回避する方法を提案してくれ。どんなアイデアでも構わない」
 ざわざわと、耳障りな話し声が続いた。
「月面の資源局のマスドライバーで、パレットを打ち込んでもらう手は……ないですよね」
 誰かが、自信無げに言った。
「パレットが届く頃には、すべてが終わっているよ。おまけに、位置が悪い。月から打ち込めば、状況を悪くしかねない。さぁ、他にはないか?」
 征矢野は、周囲を見回した。
「IAUに依頼して、核を打ち込んでもらったら、どうでしょうか」
「小惑星迎撃システムか。間に合うのか?」
 征矢野は、軌道計算担当に視線を送った。
「無理です。たった今、発射しても、軌道を変える程の効果は得られません。残り時間は、一時間を切っています。核爆発で軌道を変えるには、大気圏突入の十時間前には命中させなければなりません」
 軌道計算担当の一言には、誰も言い返せなかった。
「第一、アメリカ政府が動くまで、日単位で時間が掛かりますよ。まあ、核で粉々に破壊できるなら、いくらかマシになりますが……」と、ぼそっと言い添えた。
「核も諦めよう。他にはないか?」
 しばらく、ざわついていたが、直ぐに静かになった。誰も、征矢野とは視線を合わそうとしなかった。アイデアが尽きたらしい。
「他にはないのか!」
 征矢野は、喝をいれたつもりだろうが、その声はヒステリックに聞こえた。
 その様子を見ていた彼女は、そっと、その場から離れた。
 もう、脱出作戦を敢行するしかなかった。一人でも多く、地球から脱出させなければならなかった。四機のスペースプレーンの打上げスケジュールを大至急作り、管制部と航空運行部に指示を出す必要がある。それに、説得にも当たらなければならない。スペースプレーンを定員しか乗せないで打ち上げるつもりはなかった。定員以上に乗せる方法は、既に考えてあったし、必要になる物は資材部に依頼済みだが、それを航空運行部に納得させる自信はなかった。
 彼女は、粘り強く交渉し、最善の策を実行に移す事を、心に誓った。
 制御室を出る時、征矢野の沈んだ声が聞こえた。
「推定時刻と地点はどこだ?」
 その答を聞く前に、彼女の背後で制御室の扉が閉まった。

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