母

 どういう訳か、夜中に目が覚めた。
 直前までトイレの夢を見ていた。寝る前に水分を取り過ぎたせいだろう。隼人は、ベッドから出てトイレに行った。
 トイレですっきりしたので、また眠気を催してきた。大きな欠伸をしながら、廊下を歩いた。食堂の前を通り過ぎる時、中から明かりが漏れている事に気付いた。父が帰ってきて、夜食を食べているのだろう。
 父の帰宅時間は午前零時をまわる事がほとんどだったが、更に忙しくなると、二、三日帰ってこない事さえあった。日頃から父と話す機会がほとんど無いので、ちょっと顔でも見ようかと思った。
 だが、食堂のドアに手を掛けた時、隼人の手が止まった。
「あなた! 聞いてるの?」
 珍しく、母の詰問する声が聞こえてきた。
「内藤さんの御主人は、ノイローゼ気味になってるわ。若い吉岡さんや山野さんも、私に愚痴る事があるのよ。御主人は、猛烈すぎて、ついていかれないって」
 つい先日、吉岡さんと山野さんは、両親に仲人を頼みに来たので、隼人も顔を知っていた。
「私は、彼等に無理強いをした事は一度も無いよ」
 父は、ぼそっと言った。
「そうでしょ。あなたは、人に無理強いできるような人じゃないもの。でもね、あなたの態度や行動が、下の人達には、プレッシャーになる事もあるのよ。それを、分かって上げなきゃ」
 母は、賢い人だった。父も頭が良かったが、母の賢さは、父の頭の良さとは正反対のものだった。
 母は、真面目だった。父も仕事熱心な真面目人間だったが、母の真面目さは、父の真面目さとは正反対のものだった。
 母は、常に周囲の人達への気配りを忘れなかった。不愉快な思いをさせないように、一つ一つの言葉にも注意を払っていた。滅多に冗談を言う事はなく、言う場合にも、間接的にも人を傷付けることがないように、神経を遣っていた。
 町内の清掃活動や自治会活動等、いろいろと面倒で人が厭がる事柄も、身を粉にして働いた。それは、他人の仕事を押し付けられた時でも変わらなかった。さりとて、決して出しゃ張る事もなかった。
 だから、母を好きと言う人は多くないにしても、嫌いだと言う人は誰一人居なかった。
「あなた、内藤さんの仕事を代わりに終わらせたんですってね」
「ああ、遅れていたからね。日曜日に、彼が来てなかったから、代わりに済ませたよ」
 父は、食事の最中らしく、口をもごもごさせながら話した。
「それがいけないのよ。内藤さんの御主人も、ここ半年くらい、休みらしい休みも無く頑張ってたんでしょう? 下のお子さんの入学式の日も、式にだけ出席して、午後からは御仕事だったって、奥さんも驚いてたわ」
「私だって、休んでいないよ」と、父は不思議そうに言う。
「逆よ。あなたが休んで見せなきゃ、下の人達が休める筈ないでしょ!」
「仕事は、遅れ気味なんだ。資源用の小惑星は、もうすぐ一度目のフライバイをする。月面すれすれを通過するんだ。三十キロ。高度は、わずか三十キロしかない所を通過するのだよ。失敗すれば、月面に激突し、大きな被害が出てしまう。私の首が飛ぶくらいではすまないんだ」
 隼人は、「高度三十キロ」と言う言葉に、興奮を感じた。
 高度三万メートル!
 スペースプレーンからオービターを切り離す高度と大差ない。地球なら、大気圏の懐深く入り込んだ場所だ。そんな所を、小惑星を通過させるのだ。それも、地球生れの知的生命がやってのけようしている。そして、そのプロジェクトの中心に父が居る。
 隼人は、言葉で言い表せないロマンを感じた。
「あなたは、それを成功させる事しか考えていないわ」
「それが私の仕事だ」
「違うわ!」
 母の声は、ヒステリックに聞こえた。
「何がだ!」
 母に呼応するかのように、父もヒートアップした。
「私は、任された仕事を、全力をあげて完遂する。それとも、お前は、仕事を投げ出すいい加減な男になれと言うのか!」
「あなたは、仕事を自分一人で仕上げる事しか考えていないのよ。チームの考えがないわ」
「そんな事はない。仕事は、一人ではできない。増してや、こんな大規模なプロジェクトは。だから、私は、率先して助け合う雰囲気作りをしている。プロジェクトを動かすとはどういう事なのかが、お前には分かっていない」
「分かっていないのは、あなたの方です!」
 母は、ヒステリーを起こしていた。少なくとも、隼人にはそう思えた。
「もう、この話は止めなさい」
 父は、深呼吸した後に、落ち着きを取り戻した声で、そう言った。
「今夜は、これで止めますけど、あなたの頭が冷めた時に話しましょう」
 大きな溜息をついた父を無視して、母は奥の勝手の方に去った。
 両親の夫婦喧嘩を初めて目撃した隼人は、二人に気付かれないように、そっと寝室に戻った。
 隼人は、父の気持ちが分かった。
 小惑星から資源を採取した例は数多くあったが、小惑星を地球軌道に固定した事は過去に一例もない。
 今回のプロジェクトは、日本の軌道ステーションのリプレースを兼ねている。老朽化が限界まで進んでしまった飛鳥に代わる軌道ステーションは、この小惑星の中に作られる。もちろん、小惑星の中に軌道ステーションを作り込む事も、初の試みである。しかも、この技術が確立したなら、そのまま恒星間宇宙船に転用できるらしい。
 父の立場なら、隼人も、このプロジェクトには夢中になるだろう。
 父が羨ましく感じられた。そして、将来は、父と同じ道に進みたいと、真剣に思った。
 だが、そんな自分勝手なロマンは、数日後に起こった事件で、間違いである事を思い知らされた。
 母がノイローゼ気味と言っていた内藤と言う人が、管制センターの屋上から飛び降り、自殺したのだ。母の危惧が、現実となってしまった。最悪の形で・・・・・・
 内藤の娘は、姉と同級生で、隼人も何度か顔を見た事があった。隼人は、母と姉に伴って、内藤の通夜に出向いた。
 母が、内藤夫人にお悔やみを言おうとした時、夫人は、きっと母を睨んだ。
「御主人は、まだ見えないんですね」
 憎しみと怨みの篭った痛烈な皮肉だった。
「仕事が一段落次第、こちらに伺うと申していました」
「そうよね。御主人は、この世の何よりも、仕事が大事なんですものね。人の命よりも」
 母は、応えに窮していた。
「御引き取り下さい」
「で、でも……」
「貴方にお願いした私は、本当に馬鹿だったわ」
 その一言で、母はよろめいた。
 深々と頭を下げ続けた。隼人は、小さく畳まれた母の背を見詰め続けた。
「頭を下げても、主人は帰ってきません!」
 背に浴びせられた罵声に、母は更に小さくなった。
 長々と頭を下げ続けた母を、姉は抱きかかえるようにして家に連れ帰った。
 この日を境に、母の様子は変わってしまった。
 ある日、母が睡眠薬を飲んでいるところを発見した。それを見た姉は、ヒステリックに叫びながら、母から睡眠薬を奪った。
 母は、内藤の死の責任を一人で背負った。
 宇宙移民事業団の狭い官舎群の中では、噂は一気に広がる。内藤夫人から父を説得するように依頼されていたが、何もしてくれなかったと、実しやかに囁かれた。
 結局、仕事を理由に、通夜にも、葬儀にも、父は出席しなかったのだ。激しい反感を買ったが、父は自分のやり方を正義と信じ、貫き通した。
 管制センター長の地位が持つ力は想像以上に強いらしく、反感は、大人しく優しい母に向けられるようになっていた。噂は噂を呼び、やがて母は悪魔のように言われるまでになった。
 四面楚歌にも関わらず、父には一言も愚痴を言わず、母は耐え続けた。
 だが、心優しい母には、耐え続ける事など、到底できる事ではなかった。間も無く、精神科に通うようになり、睡眠薬にも手を出すようになった。睡眠薬を飲まなければ、眠りに就く事もできない。そこまで、母の心は虫食まれていた。
 だから、父との離婚に踏み切ったのだ。そうしなければ、母は、廃人になり兼ねない程、追い込まれていた。
 実際には、母は、父との離婚を最後まで渋った。離婚は、姉が勧めたのだった。隼人から、あの夜の会話を聞いた姉は、父から引き離さないと母の心が壊されてしまうと、真剣に考えた。父と離婚すれば、母は、仕事の鬼である父の被害者である事を、周囲の人々に印象付けられ、非難の目が母に向けられる事はなくなる。
 逆に、母が離婚を渋った理由は、父だけが悪人になる事を恐れたためだった。
 だが、母の窮状を、父は最後まで気付かなかった。その事が、母が姉の説得を聞き入れる要因の一つとなった。
 結局、父は、実の娘に三行半を突き付けられたのだった。
 隼人は、姉と一緒に母の故郷である沖縄に行く事になっていた。だが、母から離婚を言い渡されて以来、父の元気が無くなった事が心配になった。少し迷ったが、隼人は自分の意志で父の元に残る決断をした。
 母と姉が沖縄に発つ時、隼人は港まで二人を見送りに行った。
 鹿児島から沖縄へは、地表効果航空機(GEP)が、毎日二往復出ていた。GEPは、外見こそ飛行艇のように見えるが、巡航高度は数十メートル程度しかなく、速度も時速五百キロ程度と遅い。だが、燃費が良く、機体の大型化も容易なため、デビューから二十年で海上旅客輸送の中心となった。
 二人が乗る予定のGEPは、乗用車の積み込みを始めていた。出発時刻が、近付いていた。空港内に、最終の搭乗案内が流れた。
「隼人」
 GEPを見詰めていた隼人は、顔を母に向けた。母は、悲しそうな目で隼人を見詰めていた。
「お母さん。早く、元気になってよ」
 見る見るうちに、母の目から涙が溢れてきた。隼人は、もらい泣きしそうで、直視できなかった。
(ここで、僕が涙を見せたら、お母さんが心配する。病気にも良くない)
 隼人は小柄な方だったが、中学生になった時、母の背を追い抜いた。自分より小さくなった母を見下ろし、その肩にそっと手を置いた。
(お父さんを見守る事で、お母さんの心労を減らしてあげたい)
 手の平に母の温もりを感じ、支えてあげなければと思った。
 急に、隼人は抱きしめられた。力のこもった手で抱きしめられ、隼人は母の気持ちを肌で感じた。
「お父さんをお願いね」
 それだけ言うと、母は、すっと離れた。そのまま背を向けると、隼人を案ずる姉の背を押し、ゲートの中へと姿を消した。
 隼人は、駆け出した。人波をかき分け、屋外の送迎デッキへと、階段を駆け登った。
 息を切らせてデッキの手摺に身を乗り出した時、母が乗ったGEPは、ボーディングブリッジを外されていた。母の座席は、右舷の窓側なので、送迎デッキからは見る事ができなかった。
 GEPは、ゆっくりと移動を開始し、やがてスロープから海上へと下りた。GEPが巻き上げた水煙が、冬の遅い朝日を浴びて、虹色に輝いた。
 機種近くの両脇に取り付けられた四基のエンジンがくぐもった騒音を増し、GEPは加速体勢に入った。数秒後、海から押し上げられるようなGEP特有の離水をすると、どんどん遠ざかっていった。
 GEPが錦江湾の彼方に消え去るまで、隼人はデッキの手摺を握り締めていた。

       < 次章へ >              < 目次へ >