軌道計算の鬼

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 隼人のコンピュータの無断使用に対して、御咎めはなかった。事業団内部の問題であり、使用の事実を知った上で黙認していたので、今更、問題にはし難い事情もあったのだろうが、大地の父が弁明してくれた事が大きかったと、隼人は思っている。
 隼人は、公開審判の翌日から、宙美を伴って登校するようになった。
 通学路は、不穏な空気が流れていたが、隼人が胸を張って歩くと、人々は道を開けた。級友も、気まずそうに挨拶をし、腫れ物にでも触るように、二人を扱った。また、大地の事を話題にする事を避け、それが、何時の間にか、クラスの暗黙の了解となった。
 大地の裁判も、間も無く結審した。
 もちろん、無罪だった。少年審判なので、判決が出る訳ではないが、大地には、いかなる処分も課せられなかった。
 直ちに釈放され、少年鑑別所から出てきた大地は、しかし、表情が暗かった。
 理由は、言わずと知れた父の事である。
 隼人は、大地を元気付けようと、明るく振る舞った。だが、大地は学校にも行こうとしなかった。隼人は、彼が弁護士となるためには勉強が欠かせないと、毎日、ノートやパソコンを彼に見せたが、力の無い笑いを返してくるだけだった。
 隼人は、一生懸命、柄にも無く明るく振る舞い、大地の心を開かせようと頑張った。時には失敗をして見せ、時にはおちょけて見せた。でも、大地の暗い表情は、変わる事はなかった。
 むきになって、馬鹿な事をやって見せようとする隼人に、宙美は「やめなさい。本当に馬鹿になるわよ」と言った。
 大地の父、梅原翔貴は、拘置所に居た。罪状は、殺人。業務上重過失致死ではなかった。検察は、未必の殺意があったと認定したのだ。刑法には、殺人は三年以上、最高で無期又は死刑になると記されている。報道を真に受けるとしたら、自首と反省を考慮したとしても、数億人を死に至らしめた結果を考えると、極刑に値するとの事だ。
 隼人は、優しくしてくれた大地の父がそんな罪を犯したとは、俄かに信じ難かったが、もし事実なら、死刑になるのもやむを得ないと思うのだった。
「隼人君」
 ぼうっと考え事をしていた隼人は、飛び上がるように振り返った。
 宙美だった。
「伯父様が犯人だと思っていないでしょうね」
「あ、いや、そんな事はないよ」
「ウソ! 顔に書いてあるわよ。人間、裏では何をやってるか、分からないって」
 彼女に指摘され、思わず顔に手が行った。
「大地君は、あなたのお父様が送検された時、なんて言ったか覚えてる?」
(確か、あの時、大地君は……)
「そんな筈はないって、大地君は言ったのよ。あの状況で、そう言ったのよ。誰が見たって、お父様は、業務上の最高責任者で、その責任を免れない状況にあったのよ。それでも、大地君は、そんな筈はないって……」
 そうだった。
 誰が見たって、父の責任は明らかだった。なのに、大地は、「そんな筈はない」と言った。もしかしたら……
「大地君は、この事を知ってたんじゃ……」
 そう考えると、大地が必死に庇ってくれた事も、説明が付くような気がした。
 ピシッ!
 左の頬に、鋭い痛みを感じた。
「隼人君、サイテイ!」
 顔を上げると、顔を真っ赤にした宙美が、涙さえ浮かべて、隼人を睨んでいた。
「そんな人だったとは、私、知らなかった!」
 彼女は、くるっと身を翻すと、居間から走って出ていった。
「勝手にしろ!」
 隼人は、手近にあったクッションを床に叩き付けた。
 ソファにふんぞり返ると、二、三回深呼吸して、気持ちを落ち着かせようと努力した。
 遠くで、扉が、勢い良く閉まる音がした。宙美が、飛び出していったのだろう。
 そんなに怒らなくてもと、隼人は、ヒステリックになっている宙美の顔を思い浮かべた。
「隼人君、宙美は?」
 大地だった。
 隼人は、気まずい心持ちを押さえて振り返った。
「今、出ていったよ」
「一人でか?」
 隼人は、頷くより早く立ち上がった。
「まずい!」
 大地は、隼人の前を、玄関に走った。二人は、靴を爪先で引っかけただけで、家を飛び出し、地下通路に出た。
 途端に、大地に向けて、生卵が飛んできた。一個は、外れて扉に当たって中身が張り付いた。二個目は器用に手でキャッチしたが、三個目が大地の体に当たった。ただ、服でショックを吸収したのか、地面に落ちて割れた。
 隼人は、呆然としていたが、大地は動じない。地下通路の向こうの影から、こちらの様子を見ている連中には目もくれず、宙美の行く先を探した。
「大地君?!」
 宙美の声が、後ろから聞こえた。
 隼人も、大地も、振り返った。彼女は、玄関脇の壁を背にして佇んでいた。
「なぁに? 拍子抜けした顔して」
 二人は、宙美に言われて、お互いの顔を見合わせた。確かに、拍子抜けした顔をしていると、隼人は大地の顔を見て吹き出した。
「なんだよ?」
 大地は、隼人に笑われた事が、ちょっと不満らしい。だが、最近、見せたことがない穏やかな表情を見せていた。この事件で、大地の心が開かれる切っ掛けになればと、隼人は思った。
 ひゅっと風を切る音がして、卵が隼人の側頭部に当たって割れた。隼人は、べっとりと張り付いた黄身を気にせず、宙美に駆け寄った。そして、彼女に覆い被さるようにして、彼女の楯になった。
 振り返ると、大地は、二、三個の卵を手で叩き落とした後、犯人に向かって突進した。犯人は、残った卵を適当に投げて、地下通路の向こうへと逃げ出した。逃げ際に、犯人が盲滅法に投げた卵の一つが、隼人達の方に飛んできた。隼人は、宙美の前に立ったまま、反射的に首を竦めた。
 バシャッ!
 卵が当たった。
 確かに当たった音がした。でも、感触は無かった。
「ありがとう」
 宙美の声には、刺があった。
 恐る恐る顔を上げると、額から黄身を滴らせている宙美が居た。ただでさえ小柄な隼人が首を竦めたものだから、隼人の頭上を通過した生卵は、見事、彼女の額に命中したのだ。こんなところを大地に見られたら、何と言われるか。急いで、彼女を家に入れて、シャワーを浴びさせようと思った。
「逃げられたよ」
 深追いをしなかったらしく、大地は、もう戻ってきた。大地に声を掛けられ、隼人は慌てて振り返った。宙美を後ろに隠そうとしたが、背の高い大地には、呆気なく見付かってしまった。
「あれ、隼人君が楯になってたんじゃなかったのかい? 僕は、そう思ったから、犯人を追っかけたのに」
「ええ、楯になってくれたわ。とっても役に立ったわ」
 彼女は、膨れっ面をしている。本当に怒っているらしい。隼人は、立場が無かった。
「ははは、楯のサイズが合わなかったんだね。兎に角、二人ともシャワーを浴びておいでよ」
 大地は、白い歯を見せて笑った。声を上げて笑った。
(大地君が、笑った?!)
 隼人は、嬉しくなった。宙美も、同じ気持ちらしく、ほっとしたような笑顔を見せていた。

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