麗子の部屋は、すぐだった。部屋に入った佐々は、一番奥で、壁に服を押し付けている麗子を見た。
「バカ野郎! 離れろ!」
「だって、空気が漏れてるのよ」
「とにかく、離れてろ!」
 そこまで言うと、部屋を出た。一気に船尾の倉庫まで行き、樹脂製のボードと補修剤と工具箱を手に取った。工具箱を股の間に挟み、空気抵抗と揚力を抑えるためにボードは胸に密着するように抱え、麗子の部屋へ急いだ。
 麗子は、まだ壁際に居た。
「どけ!」
 背を向けたまま、顔だけ振り返った。
「邪魔だ」
「動けないの」
「なに?」
「手が離れないの」
 慌てて近寄ると、右の掌が壁面に吸い付かれている。小指の付け根付近に、クラックの端があり、口笛のような高い音をたてて、空気が漏れていた。
 麗子の手首を握り、力任せに引っ張ってみた。
「痛い! やめてぇ!」
 実際、かなりの圧力がかかっているらしく、力任せでは上手くいきそうにない。
 空気が漏れる音が、少し低くなったような気がする。クラックも、長くなったように見える。
 壁の向こうは、シャトルの船首にあたる。機器を収めるために、いくつもの区画に分かれている。空気は、配管や配線の隙間から漏れているだろうから、完全に真空になっていないはずだ。そうでなければ、こんな薄い軽合金の板は、簡単に破れている。
 佐々は、工具箱を開き、マイナスドライバーを手に持った。
「よく聞け。今からクラックを広げる。空気が勢いよく抜け始めるから、壁に沿って力一杯引っ張れ。手が取れたら、ぶっ飛ぶだろうから、受け身を考えておけ」
「考えておけって、どうすればいいの?」
「知るか」
 佐々は、ドライバーを握り直し、クラックの先端に突き立てた。
 クラックは、一気に10センチ余り伸び、漏出する空気の勢いで幅も広がった。
「どうした? 早く取れ!」
「無理よ!」
 悲痛な声を出す。
「ふざけんな」
 麗子の手首を握り、渾身の力で引っ張った。思ったより簡単に取れたが、力が入っていたので、二人とも重なるようにふっ跳んだ。反対側の壁に、佐々が下になってぶつかった。
 幸い、足が先についたので、衝撃を小さくできた。だが、直後に麗子がぶつかってきたので、肺の空気を叩き出された。
「大丈夫?」
 衝撃を佐々の体で受け止めさせたので、麗子は申し訳なさそうに言った。
 酷く咳き込んだが、体は動かせた。大事には至らなかったようだ。
「サロンに行け」
 呻くような声で命じると、樹脂製ボードを手に、クラックに近付いていった。慎重に位置を確かめ、ボードでクラックを覆い隠すように塞いだ。
 まだ、ボードの回りで、ピーピーと空気が漏れている。佐々は、風船式の漏出補修剤を使って、ボードの縁を塞いでいった。
「これで大丈夫よね」
 麗子は、まだそこにいた。
「邪魔だと言ったはずだ」
 麗子を押し退け、ブリッジに戻った。
 時間が無かった。
 まず、減圧を始めた。バイナリースターには、本来の減圧機能は無い。佐々が採った減圧は、再循環系の停止だ。
 船内の空調は、酸素分圧を一定に保つ機能に加え、二酸化炭素を除去して循環する。この循環機能を止めた。
 佐々の考えた通りになるなら、漏出した空気の8割に相当する分が減圧していくはずだ。
 次に、迷路のような空調ダクトの経路を目で追いかけ、ブリッジと客室に繋がるダクトへのバルブを閉じた。
 最後に、ブリッジが持っている全ての制御権を、一つずつ切り離していく。
 画面を切り替えながら、面倒な作業をこなす佐々の後頭部に何かがぶつかった。強い衝撃ではなかったが、重い鈍痛が頭の奥で何度も反射した。
 頬に髪が触れる感触があった。
 麗子か。
「何度言ったらわかるんだ。邪魔だ」
 それでも、髪の感触が残った。ムカッとなって振り向いた瞬間、佐々は凍りついた。全身の毛が逆立ち、背筋を悪寒が通り抜けた。
 息がかかりそうな近さに、白目を剥いた未来の遺骸が浮かんでいたのだ。
 憐れな未来の姿に、同情より恐怖が先になった自分が情けなかった。
 そっと瞼を閉じてやった。
 客室から、口笛のような音が聞こえるようになっていた。作業に戻った佐々は、イライラしながら制御権の切り離しを進めた。全てが終わると、未来の遺骸を抱くようにして、ブリッジを出た。
 未来の体には、温もりが残っていた。
 サロンに繋がるハッチを、苦労して未来の体を通した。
「何で連れてきたの?」
「地上に連れて帰る」とだけ答えた。
 補修剤と工具箱を、客室まで取りに戻った。
 当て板をした右横から、気味の悪い音が聞こえてくる。軽い補修剤は、そこに吸い寄せられている。麗子が散らかしたシーツや衣類がクラックを覆っているので、クラックの長さがどれくらいになっているか、わからない。
 今にも崩壊しそうな壁に向かって手を伸ばした。補修剤は、軽く手に取ることができた。
 急いでサロンに戻り、ハッチを閉めにかかった。
 このハッチの本来の目的は、ブリッジと客室を守ることだ。だから、サロン側の気圧が下がった場合に対応している。
 今は、逆の状況だ。
 危惧した通り、逆流する空気に圧され、フランジに密着しない。
「手伝え!」
「嫌よ!」
 頼んだ自分が、馬鹿だった。
 麗子の助けを諦め、ハッチを跨ぐように足場を決めると、腰の力で引き上げた。
 甲高い空気漏れの音が更に高くなり、小さくなり、そして消えると、ハッチのハンドルが回り始めた。ハンドルを最後まで回し、ロックがかかった事を確認した。

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