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 翌日の午後、燃料の水素も酸素も満タンになった『うりゅう』は、大分港を出航した。
 村岡は、気になっていた。
 本当は、浦田が岸壁で簡単に挨拶するはずだったが、急遽、予定を変更して早朝の飛行機で省に戻っていった。その理由は、分かっていた。昨夕の記者会見を報告するためだ。できれば、彼より早く省に報告を上げておきたいところだが、そんな暇はない。
 浦田が居ないことで、出港のセレモニーはほぼ無くなり、粛々と出港の準備が進んだ。それは良いのだが、浦田が報告する内容が、正確には言いっぷりが気にかかっていた。
 村岡は、頭を振った。
 これから、潜水実験が始まるのだ。余分なことに気を取られていたら、事故に繋がりかねない。頭から、浦田の件を振り払った。

 潜水予定地点は、大分港を出て直ぐ、港の出入り口に近い所だ。
 瓜生島の推定位置は、大分港の出口の東側一帯と考えられている。ただ、瓜生島は、そこから西北西に向かって崩落したと考えられる。船の出入りや漁業権も考え、潜水地点は、大分港の北西二キロメートルに決まっていた。
 甲板上での最終確認を終え、ブリッジに戻った。ブリッジは球状で、しかも上下にしかハッチがない。ブリッジ下側のハッチは、『うりゅう』本体に接続されている。だから、ブリッジ上部のハッチまでよじ登らなければならない。
 ブリッジ側面のラダーを上り、上部のハッチを開いて、下半身をブリッジ内に押し込んだ。ハッチの直ぐ内側にある計器で現在位置を確認すると、特殊な雑巾でハッチの周囲を丹念に拭き取った。
 ここに、髪の毛一本でも残っていると、深刻な漏水に繋がる。繊維が残るのも好ましくない。だから、雑巾も繊維を使わない特殊なものを使う。
 周辺海域とハッチの確認後、村岡は外側ハッチを閉鎖した。ブリッジの床に足を下ろし、手を伸ばして内側ハッチの縁を同じように拭き取ると、内側ハッチを押し上げる。
 内径が僅か二メートル程の空間だが、意外に広く感じる。緊急時は、最大十名の乗組員がここに入り、海上への脱出を行う。広さを確保するため、計器も、補機類の操作も、二面ずつのタッチパネルとモニターで行う。ジョイスティックが二本あり、洋上航行中の操船は、これを使う。緊急脱出に必要な機器だけが、剥き身のバルブやスイッチとして、天井付近にまとめられている。
 そこに瓜生と二人で篭る。残る五人は、艇内の指揮所に詰めている。潜水に関わる操船は、ブリッジではなく指揮所で行う。村岡は、海上の安全確認のためだけにブリッジに残るだけだ。
 ただ、ここからの視界は、大きく制限を受ける。正面、左後方斜め上、右後方斜め上、後方斜め下の四箇所に、直径二十センチの小さな舷窓しかない。この四つの舷窓からの視界だけで、安全確認をしなければならない。
 瓜生が、正面の窓を担当し、残りが村岡の分担となる。
 うねりで、艇が揺れる。ローリングとピッチングが顕著で、素人なら船酔いするかもしれない。
「ギアダウン」
 本来の機能が海底居住基地である『うりゅう』は、着底用の脚(ギア)を持つ。ただ、航海中は、洋上であれ、海中であれ、大きな抵抗源になってしまうので、着底時以外は艇内に収納している。
「ギアダウン。オールグリーン」
 村岡に答えたのは、指揮所の浦橋だ。
「水密確認」
「全ハッチ閉鎖確認OK。洋上換気システム全閉鎖OK。オール・グリーン」
 これも、指揮所から届く。
「慣性航法装置チェック」
 洋上では、精度の高いGPSを使用するが、衛星からの電波が届かない潜航中は、慣性航法装置を使用する。
「誤差修正済み。慣性航法装置グリーン」
 GPSとの誤差は、自動補正するが、自動補正の状況を確認したのだ。
「ブロー。メインタンク、ベント開け。潜航!」
 メインタンクからの排気音が、ブリッジ内でも聞こえる。
「甲板、冠水」
 前後して、排気音が篭った音に変わった。
 村岡は、後方の窓から、甲板の冠水状況を確認した。うねりが出始めている別府湾の海水が、甲板だけでなく舷窓も洗い始めている。
 直ぐに、他の舷窓も水面下に没した。
「トリム確認」
「トリムバランスOK」
 瓜生が、深度を読み始めた。呼応するように、指揮所の魚塚が着底までの残り水深を読む。潜航震度が深くなるにつれ、艇の揺れは収まってきた。波長の二分の一の深さまで潜ると、海上の波の影響は受けなくなる。海上の波長は、二十メートルから三十メートル程度だった。もう少し潜れば、揺れも完全に無くなる筈だ。
 順調に潜航を続ける『うりゅう』の状況に、村岡は満足していた。
 十分余り後、『うりゅう』は、着底した。艇体は、少し傾いたが、ギアの長さの調整可能な範囲に収まっていた。
 浦橋がギアの長さを調整しているようだ。やや右前に傾いていたが、ディスプレイに表示されている水準器の値が水平に近付いていく。エアロック下のクリアランスも充分にある。
 一、二分で水平になった。
 着底作業も、これで一段落である。
 全員総出で水密確認を初めとする確認作業が待っている。夕食を挟んで深夜まで続くだろう。明日から加圧に入る。明後日からは、飽和潜水による十日間の水中調査だ。そして、二日かけて減圧し、今回のミッションのメイン部分が完了する。
「いよいよだ」
 村岡は、期待に胸が膨らむ思いだった。
 ただ、記者会見での出来事を、浦田が省にどう報告しているか、気掛かりではあった。

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