伊牟ちゃんの筆箱

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ハリケーン・インディアナの通過を待って、水深1000mでの潜水活動を可能にすべく、水素潜水実験が開始された。
その水素潜水実験施設で事故が発生し、6名のアクアノーツが閉じ込められてしまう。
海底の実験施設から親友を救い出すため、タッカとユカリは支援船に向かう。
しかし、水素潜水実験施設を支える支援船では、とんでもないトラブルに見舞われていた。


  < 目 次 >

 海と空が描く三角  1
 海と空が描く三角  2
 海と空が描く三角  3
 海と空が描く三角  4
 海と空が描く三角  5
 海と空が描く三角  6
 海と空が描く三角  7
 海と空が描く三角  8
 海と空が描く三角  9
 海と空が描く三角 10
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 海と空が描く三角 32
 海と空が描く三角 33
 海と空が描く三角 34
 海と空が描く三角 35

 海と空が描く三角 自己書評

※2015年1月12日から2016年10月30日にかけてYahooブログに連載した同名の作品の転載です。

  海と空が描く三角

  プロローグ

 艦長は、エジプト軍になったような気がしていた。
 艦首が切り裂いた波飛沫が、艦橋の窓を激しく叩いた。窓枠が曲がるのではないかと思うほどの衝撃が、艦橋を揺さぶる。飛沫の水煙が晴れる頃には、艦首が次の波に突っ込み、新しい飛沫を上げている。飛沫は、再び強い風に煽られ、加速しながら艦橋に向かって飛んできた。
 艦は、波と波の谷間に落ち込み、見通しが利かなくなるかと思えば、次の瞬間には、波頭に乗り上げ、高い塔の上にいるような気分にもなる。
 艦首が波に突っ込むのは、波頭を乗り越えた直後だ。艦全体を震わせて、モーゼの如く海を切り裂く。艦長がエジプト軍になったような気持ちになるのは、艦首が切り裂いた波飛沫が、自分の立つ艦橋に弾丸のように降り注ぐこの時だった。
「艦長。このまま、ハリケーン・インディアナと進みますか?」
 艦長は、両足をしっかり踏ん張り、前方を見据えて立っていた。
「そうしよう。どうしても、P・A・Eをまく必要がある」
 艦長の苦々しそうな顔が、環境保護団体P・A・Eのしつこさを物語っている。
「この艦が、未処理の廃棄核弾頭を満載している事を知られないためには、港に入る前に振り切らねばならない。で、奴等は、付いて来てるのか?」
 艦体に強い動揺が伝わり、大きく横に傾いたが、直ぐに復原した。二人は、手近な手摺に掴り、体を支えた。
「いえ、間も無く、レーダー圏外に離脱します。流石に、この大嵐では、付いて来れないようです」
 この嵐の中では、艦体は、直立する事はない。常にピッチングとローリングを繰返し、時には、横波に煽られてヨーイングも起こした。これでも、波に立てる操艦をしているので、いくらか揺れを押さえる事に成功している筈だ。
「ハリケーン・インディアナだったか。天の恵みというべきかもしれんな」
 どうしても振り切る事ができなかったP・A・Eの監視船は、ハリケーン接近と同時に離れていった。これを、「天の恵み」を言わず、何と言おうか。
 しかし、この荒天では、乗組員の中にも、船酔いでベッドから出られない者が、少なからず居た。軍務に就いている水兵が、この有り様ではと思う気持ちもあるが、ハリケーンの真っ只中で、船に酔うなという方が、酷なのかもしれない。
 ただ、乗組員がこの調子では、この艦の本来の性能を引き出す事は難しいかもしれないと、艦長は危惧していた。
 艦長は、目の前の海象に一瞬躊躇したが、新たな決断を下した。
「よし、レーダー圏外に離脱すると同時に、進路を二時に変える。奴等が追いつく前に、港に入るぞ」
 再び、大きな横揺れが、艦を襲った。艦は、身震いしながら、元の姿勢に復元していく。軍艦は、一般商船に比べて、復元力が大きく設計されている。この艦も、輸送艦とはいえ、復元力は大きく設計されていた。しかし、復元力の大きな船の類に漏れず、揺れが酷く、特に、この荒天では、木の葉のように波に揉まれるのだった。
「ですが、ハリケーンの中心付近を通り抜ける事になりますが」
「大丈夫だ。この程度の嵐なら、過去にも経験がある」
 艦長は、不敵な笑みを浮かべた。
「奴等は、我々がこの嵐を利用して、北へ遁走したと思うだろう。まさか、中心を突っ切って、ハリケーンの東側に抜けたとは思うまい。だから、奴等が、我々を発見する頃には、我々は、荷物を降ろして、再び出港しているってわけだ。どこで、荷物を降ろしたのか、誰にも分からないさ」
 艦長は、この艦での航海は、初めてだった。それでも、新造艦である、この艦の中では、もっとも経験が豊富だった。
 二人は、大きくピッチングとローリングを繰り返す艦を、頼もしそうに見詰めた。
 この艦は、廃棄核弾頭や、処理済みの核弾頭を輸送するために、海軍が造った新造輸送艦だった。外観には、一般商船との違いはほとんど無いが、各所に武器を装備し、テロリストに対峙できるようになっていた。
 原子力潜水艦のサブロックから取り外した廃棄核弾頭を、パールハーバーから本土の書く処理施設へ輸送するのが、今回の任務だ。だが、どこで機密が漏れたのか、軍港出港の翌日から、環境保護団体P・A・Eの監視船の追跡を受け始めた。おまけに、太平洋上では、振り切る事ができなかった。
 帰港した際には、報告書にこの旨を詳細に記載し、漏洩ルートの徹底的な捜査を要求しなければならない。
 だが、今回は、ハリケーン・インディアナを利用して、振り切れそうだ。ハリケーンに遭遇したのは、ラッキーだったと言うべきだろう。
 四十分後、艦は、二時の方角へ、転進を始めた。
 二十四時間後、海軍の哨戒機は、この海域を繰り返し低空で通過した。そして、連絡を絶った核燃料輸送艦と、その乗組員を、必死に捜索した。

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  アクアシティ

 フロリダ半島のセントピーターズバーグから西へ百キロのメキシコ湾、上空四千フィート。
 フロリダ半島の方から昇り始めた太陽が、青空を明るくしていた。快晴の空の色を映し込んだ真っ青な洋上には、こんな早朝にも関わらず、変わった形の数隻の漁船が、自動化された漁獲装置で、操業をしている。
 この辺りの海域は、半径五十海里にわたって、海洋牧場の実証実験場に指定されている。その中央に、海上都市、アクアシティが浮かんでいる。
 アクアシティは、千メートル四方の四角い浮体構造物が、田の字型に四ブロック並んでいる。四ブロック目は、まだ工事中だが、浮体部分は、既に完成しているようだ。これが完成すると、人口五万人の海上都市が生まれる。
(ここが、俺の家だ)
 タッカは、この特徴的な建造物を空から見る度に、そう思うのだった。
 特に、今回のような長距離を飛んできた際には、ここの海は、タッカを和ませた。今回の勤務では、一週間に、四万キロ近い飛行をこなした。そして、昨夜、ホノルル空港を飛び立ち、九時間に及ぶ最後の飛行の末、漸く帰ってきた。
 タッカは、機をアクアシティに向け、最終の着水態勢に向けて、飛ばした。
 アクアシティの白く巨大な構造物が、進入路の右手に見える。近付くにつれ、巨大さを増し、右側面の窓一杯に広がる。数百本の円筒柱で海面上十五メートルの高さに支持された構造物は、さしずめ、巨大なICチップのように見える。
「AAL一一三便。着水を許可する。滑水路は、31を使用の事。波高、二フィート」
 機長が、着水許可を取ったので、このまま俺の操縦で着水させてくれるのだろうと、タッカは思っていた。波高も二フィートしかなく、技術的には、何ら難しいところはなかった。
 だが、機長席から、操縦を替わるように、声が掛かった。
「I have control」
「You have control」
 タッカは、機長が操縦輪を握った事を確認し、そっと手を放した。
 本名は、高木 大。
 だけど、親友の鉄腕が呼び習わした「タッカ」の方が、ここでも通用した。
「着水時のランディングチェック」
 チェックリストを開いた。
「ランディングモードスイッチ」
「モードスイッチ、マリン、OK」
 タッカが乗る機体、S-2は、水陸両用ジェット飛行艇だ。陸上に着陸する事も、海上に着水する事もできる。着陸と着水では、操作が異なる。そのため、それをバックアップし、誤操作時に警報を鳴らして知らせるコンピュータのモードを、着陸時と着水時では切り替える必要がある。モードスイッチは、チェックリストの冒頭にある。
 タッカは、モードスイッチを着水モードに切り替えた。
 機長は、フラップ角を指示し、それを復唱しながら、フラップを下げていく。
「APU、始動」
 これからが、S-2の着水の本番だ。世界に四機種しかない、補助動力を使用する高揚力装置が、仕事を始める。
 タッカが、APUの起動スイッチをオンにした。間も無く、APUの運転ランプがグリーンになった。通常機と異なり、S-2は、滞空中にAPUを起動する。S-2のAPUは、BLC用の高圧空気を作る役割を兼ねるためだ。
「APU始動、OK。出力制御モード、オート」
 機長の指示は続く。
「ASE、オン」
「ASE、オン、OK」
 S-2シリーズは、ASE(自動安定装置)を装備し、超低速時の水平尾翼と垂直尾翼の舵の利きを維持している。これの作動状態は、重要だ。そして、もう一つのアイテムが、推力自動制御装置だ。
「フラップ四〇、BLC、オン」
「推力自動制御装置がオフですが」
 BLC(境界層制御)をオンにした際に、抵抗が急激に大きくなるので、これを自動制御する推力自動制御装置が備えられている。それが、オフなのだ。
「オフの方が、やり易い」
 機長は、皆、そう言うのだ。
 実際には、BLCをオンにすると、抵抗が増えるだけでなく、バックサイドと呼ばれる通常の航空機が使用できない特殊な空力特性域を使って操縦するので、スロットル操作が非常に難しくなる。
 バックサイド領域は、速度が落ちるほど推力を必要とするようになる。この領域では、スロットルを一定にしていると、どんどん加速するか、どんどん減速して失速するかのどちらかである。常にスロットルを調整していないと、真っ当に飛ぶ事さえできない。だから、パイロットの負担を減らすために、推力自動制御装置が備えられている。
 だが、タッカの知る範囲の機長は、装置を信頼できないのか、それとも腕に覚えがあるのか、誰もが、オフのまま着水するのだ。
 通常の固定翼機とは異なり、S-2シリーズのフラップレバーは、四十度の所にクランクゲートがある。零度から四十度まで縦に操作する点は、通常の固定翼機と同じだが、S-2は、四十度で右にクランクが切られていて、更に、そこから下へ八十度まで、フラップを下げられる。
 タッカは、フラップレバーを四十度で右に寄せて、BLCをオンにした。
「BLCオン、OK」
 タッカがそう言うと、機長は軽く操縦輪を引き、バックサイド領域に入れた。直ぐ様、右手がスロットルレバーを押し込み、パワーを入れる。
 機長は、右手で微妙なスロットル操作をしながら、左手一本で、S-2C水陸両用飛行艇を操る。タッカに残された仕事は、フラップを八十度まで順次下ろす事と、対水面平均高度を読み上げるくらいになった。
 慣れたもので、「五十ノット」と速度計を読んだのと、機長が指定された滑水路に着水させたは、ほとんど同時だった。
 この辺りは、エアフェンスが張り巡らされている関係で、波はほとんど立たない。波高三メートル以上でも着水できるS-2の着水性能をもってすれば、ここの波は無いに等しかった。
 機体が滑水路から誘導水路に移ると、機長は、またタッカに操縦を任せた。その理由は気付いていたが、仕方ないと諦めた。
 手が空いた機長は、気楽に話し掛けてきた。
「ユカリは、凄いな。機長への昇格が決まったよ。俺はなぁ、彼女の事を、周りが天才、天才と囃し立ててるだけで、社長令嬢という親の七光りだと思っていた」
 機長は、外に注意を払いながら、タッカを見た。
 S-2の機長になるには、平均で十四年、最短でも十年のキャリアが必要だ。それを、彼女は八年足らずでやってのけた。いくつもの特例をクリアし、彼女の強い立場も利用しての最短記録だった。
「ところが、一緒に飛んでみると、人間的にもジェントルと言うか、レディと言うか、高慢さとは無縁の好人物だった。昇格審査の時に彼女の能力の詳細なデータを見たが、頭脳や運動能力は、タッカよ、お前以外に敵うものは居ないと思ったね」
 鉄腕が付けたタッカのニックネームが、ここアクアシティで通用するようになったのは、ユカリのせいだ。今では、アクアシティ内なら、どこでもタッカで通じる。
 そのアクアシティは、沢木会長が、各国政府に働き掛けていた海洋牧場計画に唯一賛同したアメリカ政府の協力を得て、私財を投じて建設した。ユカリは、沢木会長の孫娘である。彼女の父も、社長として、辣腕をふるっている。
 その彼女とは、パイロットの同期生に当たる。
「腕前なんか、俺以上かもしれん。一度、波高十フィートで着水させてみたが、波の読み方なんかは天才的だった」
 ユカリが天才だなんて、十年前から知っている。
 彼女に出会うまでは、タッカ自身、天才じゃないかと思っていた。
 頭脳明晰、スポーツ万能。
 五十メートル走も、一番早かった。遠投も、一番遠くまで投げた。リトルリーグでは、エースで四番だった。甲子園、甲子園と、周囲に騒がれるのが嫌で、高校ではバレーボールに転向したが、一年からレギュラーで、攻撃の軸に当たるセンタープレーヤーを任された。
 どちらかと言えば理数系を得意にしていたが、中学校までは、苦手な科目を含めて、テストで百点でなかったのは数えるほどだ。通知票は、いつでも最高の評価だった。担任は、「成績が良すぎて、通知票を点けるのに頭を悩まされています」と、母に言ったそうだ。
 何をやっても一番じゃなかった事は無い。唯一、腕相撲だけは鉄腕に一番を譲った。
 ところが、高校一年の九月、ユカリが編入してきた途端、スポーツ以外の総ての一番を彼女に奪われた。いや、男女の体力差を考えると、スポーツも完全に負けていた。
 本物の天才とはこういうものなのだと、彼女に思い知らされた。
「タッカ。同期に先を越されたわけだが、焦るなよ。ユカリは例外だ。ユカリ以外じゃ、俺はお前が一番だと思ってる。もう少し経験を積んだら、俺が機長に推薦してやる。お前は、いいセンスを持っている。頑張れよ」
 誉められたのだから、喜ぶべきなのだろうが、タッカは、素直になれなかった。
「彼女は、潜水艇でも艇長の資格を得たんですよ。もちろん、史上最年少。水上船舶は、とおの昔に船長ですから。そして、今度は俺の専門分野でも先を越していきました」
「お前も、とんでもないのをライバルにしたものだな」
 機長は、カラカラと笑った。
 アクアシティの空港は、四基のブロックの中の西ブロックにある。西ブロックの西角がオープンデッキになっていて、空港として使用されている。駐機スポットは六基しかない小さな空港だが、世界で唯一の飛行艇専用空港だ。また、世界で唯一の浮体構造の空港でもある。
 タッカは、長い長いスロープからデッキへと機体を登らせ、真水のシャワーで機体を洗浄した後、指定の貨物用スポットに停止させた。

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 到着の報告が終わり、ロッカーで着替えを済ませると、空港内の喫茶店に急いだ。急ぎながら、途中の花屋で奇麗にラッピングした花束を二つ買った。
 駐機スポットに面した喫茶店は、空港ロビーとの間をプランターで仕切ってあるだけで、開放感に溢れている。駐機スポット側は、床から天井まで届く大きなガラス窓になっている。大きな窓越しに見えるスポットには、まだ日陰になって朝日から逃れているS-2が数機見える。スポットの向こうは、どこまでも続くメキシコ湾の蒼い海原だ。
 メキシコ湾は、湾と言ってもハリケーンが来襲する外洋だから、従来のメガフロートのようなポンツーン方式では、ハリケーンの波浪には到底耐えられない。そのため、アクアシティは、半潜水式、通称S.S.M.P.と呼ばれる構造を採用している。これは、浮力の大部分を波浪の影響をほとんど受けない水深十メートル以下に置いた浮体でまかない、主要構造物を長さ二十五メートルの柱で海面上十五メートルの位置に支持する構造だ。
 アクアシティを訪れる観光客は、ここの磯の臭いを嗅いで、「やっぱり、海だねぇ」と感激する。それを横目で見ながら、住人は苦笑いするのだ。なぜなら、磯の臭いは海岸に打ち上げられた魚介類の死骸の腐敗臭なのだ。こんな沖合いでは、磯の臭いがしないものなのだ。船乗り達は、磯の臭いを嗅ぐと陸に戻ってきたと思うほどだ。
 実は、アクアシティの磯の臭いは、数百本の脚柱に住み着いた貝の表面にこびり付いた魚介類の死骸から発しているのだ。ただ、船乗りが多いアクアシティの住人は、この磯の臭いがあるお陰で、仕事から帰ってきた時に安心感を得ている面もある。
 数百本の脚柱を持つSSMP構造は、タッカ達パイロットにとっては、斜度五度、長さ二百三十メートルにもなるスロープを使って海面上二十メートルのデッキまで上り下りしなければならない厄介な構造でもある。だから、機長はタッカに操縦させた。あのスロープを登るのは、事実上、副操縦士の仕事になっていた。
 百メートルもあれば楽に離着水できる優れた性能を持つS-2のパイロット達は、離着水時の滑水距離の二倍にも及ぶ長いスロープを忌み嫌う。特に、スロープを登る仕事を仰せつかる副操縦士にとって、正に恨み坂だった。
 そのスロープは、ここからは見えない。
 視線を、喫茶店の中に向けた。
 一目で見渡せる明るい店内には、早朝にも関わらず、十数人のビジネスマンが軽い朝食を摂りながら、ある者はパソコンを、またある者は書類を開き、顔をしかめていた。
 その中で二人を探した。ショートカットでイギリス人とのクォーターのユカリと、ジュニアヘビー級のプロレスラー並の頑強な肉体を持つ鉄腕だから、このくらいの数の客でもよく目立つ。
 花屋に寄ったものだから、思った通り二人は先に着いていた。
 二人は、話に華を咲かせていた。
「お待たせ」
 二人は、示し合わせていたかのように揃って振り返った。
「女の子を待たせるとは、どういう事なの!」
 ユカリは、いきなり憎まれ口を叩いた。
 憎まれ口を叩きながら、屈託の無い笑顔を見せていた。
 ハワイからここまでの風向きが悪く、予定より二十分くらい到着時刻が遅くなったのだが、パイロットのユカリにはそれもお見通しの筈だ。その上で、この憎まれ口なのだ。
 だから、違う言い訳で切り替えした。
「ユカリがいつも遅れてくるから、それに合わせたんだよ」
 そう。彼女は、決まって十五分くらい遅れてくる。
「何、言ってるの。あなたが女の子を待たせないで済むように、気を使って少しだけ遅れてきてあげてんじゃない」
 へぇ、女の子ってそんなところに気を使うんだ。と、タッカは妙なところに感心した。
「あなたと違って、鉄腕はちゃんと先に来て待っててくれてたわよ」
 鉄腕はマメな男だから、ユカリの言う通りちゃんと来ていたのだろう。
 ユカリの憎まれ口の相手を止め、タッカは花束を差し出した。
「ほい、これは鉄腕。そして、こっちはユカリ」
 花束を受け取りながら、二人とも意味が分からず、きょとんとしている。
「早く受け取れよ」
 目をくりくりさせながら、またユカリが口火を切った。
「今日は、鉄腕の壮行会じゃなかったの?」
「そうだよ。ついでに、ユカリの機長昇進祝いも兼ねる事になった」
 鉄腕が目を丸くして、ユカリの顔を見た。
「へぇ、もう機長かい。凄いなぁ」
 鉄腕は、感嘆の声を上げた。
「鉄腕も、凄いじゃない。水素潜水試験のスタッフとして、千メートルまで潜るのでしょう。選りすぐりのエリート集団に、最年少で選ばれたんだもの」
 鉄腕も、満更でもなさそうだ。
 傍で見ていても感心する程、彼が懸命に努力を重ねてきたのを、タッカもユカリも知っている。
 鉄腕も才気に溢れた男だ。高校時代、タッカが常にナンバー2だったように、鉄腕はいつもナンバー3だった。正真正銘の天才女性と、天才だと己惚れていた男が居なければ、鉄腕はナンバー1だった。そいつが人並外れた努力をしているんだ。これくらいの結果があっても、当然の事だ。それ以上に、鉄腕の頑張りに結果が出た事が、タッカは自分の事のように嬉しかった。
 水素潜水は、ヘリウム潜水の限界である水深五百メートルを越えて潜水するために、加圧用ガスを水素ガスに変えた潜水方法だ。
 研究が始まったのは、一九七〇年代の半ば頃だ。アクアシティは、四半世紀も遅れて研究を開始したが、二十年以上に及ぶ動物実験を経て、世界に先駆けて実用化実験を始めたのだ。昨年からの地上の高圧タンクでの試験も無事に終わり、鉄腕達は、実際の海洋で初めて実験を実施する事になった。
「俺だけ、籠の外さ。今日も、着水の美味しいところは操縦させてもらえなかった」
 思い出すだけで、タッカは腹が立った。美味しい部分だけ、機長に持っていかれたのだから。ケーキのクリームを取り上げられ、土台のスポンジケーキだけ食べさせられたような気分だ。特に、あのスロープを操縦させられたのだ。いつもの事とは言え、余計にムカついた。

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 あまりに腹が立ったので、話題を変えた。
「あっちは、ハリケーン・インディアナだったけ、結構吹き荒れたからな。ハリケーンの間は、支援船も避難していたんだろう?」
「ああ、嵐の間は、アンビリカル・ケーブルを切り離して、支援船のダーウィンは、サンディエゴ港に入っていたんだ」
「じゃあ、ケーブルはどうなったんだい?」
「大型のブイに繋いであるんだ。今朝、ブイからダーウィンに繋ぎ替えたって、連絡があった」
 海面を浮き沈みするブイが、目に浮かんだ。実物を見た訳ではないので、浮かんだ映像が正確かどうかはタッカには分からなかったが、妙にリアルに迫ってくるのだった。
「でも、海底は穏やかなものさ。海上の波の影響は、波長の二分の一の深さまでしか届かないんだ。ハリケーンといっても、波長は百メートルを少し越えるくらいだから、精々六十メートルも潜れば、海上の嵐も関係なくなるのさ」
「深さ千メートルじゃ、嵐が来てても気がつかないかもな」
 鉄腕は、身を乗り出してきた。彼にとっても、今回の実験に参加する事は特別な事なのだろう。
「そうさ、下は別天地。深度千メートルのユートピア」
 いつの間にか、遠くを見詰める目になっている。
「ところで、海底基地には名前が無いのかい?」
「シャングリラ!」
 タッカも、ユカリも、お互いに顔を見合わせた。
「海底のユートピアの名前が、シャングリラか」
「エルドラドじゃ駄目なの?」
 ユカリも、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「いいじゃん。ファーストネームがシャングリラで、ミドルネームがユートピア、ラストネームがエルドラドだ」
 鉄腕は、膨れっ面をした。ごつい体の割には、鉄腕は童顔の方だ。でも、膨れっ面は似合わない。
「で、何日間潜るんだったけ」
「潜るのは、十日間だけなんだけど、船上減圧室で加圧に四日、減圧に三十日掛かるから、一ヶ月半の出張になるな。明日、移動して、明々後日から加圧に入る予定だ」
「減圧は三十日も掛かるの? 毎度の事とは言っても減圧は辛いわね」
 潜水で加圧すると、体内、特に血液中に大気成分が溶け込んでいく。急激に減圧すると、血液中に溶け込んでいた大気成分が気泡になり、毛細血管を塞いで潜水病を引き起こす。これを防ぐため、減圧はゆっくりと行われる。
「減圧は仕方ないとして、加圧にも四日は長いな」
「水素を使うからな。二回に分けて、加圧しなきゃならないんだ。水素の爆発限界は、上限でおよそ98%にもなるんだ。酸素分圧が0.2気圧だとすると、十気圧まで加圧した時でも、水素の割合が98%になるから、これでも爆発してしまうんだ。
 今回は、ヘリウムで四十気圧まで加圧して、一気に水素99.3%と酸素0.7%の部屋に移る事になってる。それに、一度、水素大気に移ってしまうと、ヘリウム大気に戻るにも厄介だから、ヘリウムで四十気圧まで加圧した時点で、二十四時間の観察期間が設けられているんだ。水素で百気圧まで加圧した後も、二十四時間の監査月間を経て、初めて水中エレベータに乗り移るんだ」
 タッカも、最近、ヘリウム潜水のライセンスを取ったので、高圧下の雰囲気というか、圧迫感は分かった。判断力も落ちるし、気だるさが付き纏う。
「部屋を移る時が、大変そうね」
「ああ、そうなんだ。ハッチ付近はヘリウムと混ざり合うんで、水素濃度下がる可能性があるんだ。ハッチで火花が飛べば、爆発の危険もある。だから、服も静電気が溜まらない材質のものを着る事になってる」
 ただでさえ、高圧下での重労働なのに、水素の危険を背負ってのストレスは、想像を絶するものがあるだろう。おまけに、実験期間の七十七%は、船上減圧室での加減圧に費やされる。
「船上減圧室は、S-2Rのしか見た事無いけど、あれはきつそうだ」
 狭い船上減圧室での生活が相当苦しいだろう事も、想像できた。
 海底住居は、潜水作業がある筈だ。本来は、体力を消耗する辛い仕事だが、狭い減圧室で同じ顔を一ヶ月も見ながら何もしないでいる事の方が、ストレスの発散ができず辛いだろう。
 タッカの知っているS-2Rの船上減圧室は、ストレスを増大しそうな住環境なのだ。
 S-2は、その目的別に、C(貨物)、P(旅客)、R(救難)の基本三タイプがある。その中でも、Rは船上減圧室と水中エレベータを備える世界で唯一の機体だ。現在、四機が運用されている。S-2Rの船上減圧室は、長さ約四メートル、内径二メートル弱で、最大六名が寝泊まりできる。ベッドは三段で高さも幅も五十センチくらいしかない。
「船上減圧室は、はっきり言って牢屋だな。だけど、仕方が無いんだ。水素用とヘリウム用の二基が必要なんだから。支援船の大きさは限られているから、一つ一つの減圧室を小さくするしかないんだ。でも、下は快適だぜ。内径で三メートルもあるし、長さも十五メートルと十二メートルの二基が平行に繋がってる。ベッドルームなんか個室だぜ。まあ戸は無いけど。ちょっとした海底のパラダイスさ」
 戸が無いのは、浸水時に水圧で戸が開かなくなる事を想定しての事だろう。
「鉄腕」
 ユカリが、しんみりした声で呼び掛けた。
「気を付けて行ってきてね」
「心配すんなって」
 鉄腕は、けろっとした顔で答えた。
 今回の実験が危険と隣り合わせである事は、鉄腕自身が誰よりも心得ている。その彼が、精一杯の演技で心配を掛けまいとしている事が、ひしひしと伝わってきた。
「例の事故を気にしてるなら、今回は問題がない。何せ、水深千メートルまで潜れる潜水艦は、ウルフ級か、アルファ級くらいのものだ」
 二年前、原潜がアクアシティのダイバーを巻き込み、一人が死亡、一人が脳障害の後遺症に悩まされる事故となった。
 この時は、訓練海域外の事故で、民間船を敵艦に見立てた魚雷発射訓練の最中だった。仮想標的にされた船は、アクアシティの魚類調査船で、ちょうどダイバーが回遊魚の生態調査中だった。回遊魚の退路を魚網で絶ち、一部の回遊魚から体液を採取する予定だった。その魚網を、原潜のスクリューが引っかけたのだ。
 アクアシティは海軍に対して猛烈に抗議したが、国防総省はこれを無視した上に、アクアシティの潜水船監視システムに対する査察を要求する事で、アクアシティに圧力を掛けた。
 アクアシティは、海洋開発全般を行っているため、アメリカとロシアと中国を除く各国の海軍より潜水船(艦)の保有数が多い。当然、これらの潜水船の位置は、アクアシティで総て把握している。
 国防総省は、このシステムを利用してアクアシティが総ての原潜の位置を正確に掴んでいる可能性があると、マスコミを通じて国民に伝えた。その情報が仮想敵国へ漏洩する危険性がある事を表向きの理由にしながら、裏ではこのシステムで他国の原潜の位置情報を入手しようと企んでいた。
 この企みを実行に移すため、システムの査察を行い、最終的には国防総省の管轄下に組み入れる事を画策していた。
「気を付けるに越した事はないわ。何が起こるか、誰にも見当が付かないもの」
 鉄腕は、真顔になって答えた。
「必ず、元気で戻ってくる。大丈夫だ」
 ユカリも、頷いた。
「俺からの提案だ。ちゃんと鉄腕が帰ってくるように、一ヶ月半後に、今日と同じ時間にここに集まろう」
「約束よ」
 ユカリは、切ない視線を鉄腕に送った。
「任せとけって」
 鉄腕は、分厚い胸板を、右手でドンと叩いた。
「で、準備は出来てんのか?」
 見詰め合う二人に、タッカは話題を変えて割り込んだ。
「ああ、本体を沈める前に、必要な物は総て持ち込んである。後は、下に行って開封するだけだ。今回の実験では使わないものも含めて五トンくらい入れたかな。本体が浮かばないようにバラスト代りに積むんだと、冗談を言ったくらいだ。例えば、……」
 鉄腕は、目録を思い出しながら、使いそうもない装備を次々に挙げた。
「そろそろ、待機勤務に行かなくちゃ」
 ユカリが、時計を見てそう言った。
 機長や副操縦士に欠員が出た場合に代りに乗務するため、パイロットには待機勤務が課せられる。彼女は、東部時間の朝六時から二十時まで待機しなければならない。
「機長としてかい?」
 彼女は、首を振った。
「まだよ。機長としては、来月からS-2Rで太平洋地区の勤務よ」
「来月ったって、来週からじゃん。そしたら、俺が潜ってる頃、俺の救助担当ってわけだ」
 ユカリが救助担当なら安心とばかりに、椅子に大きくもたれ掛かった。
「S-2Rじゃ無理よ。水中エレベータのワイヤーは、三百尋しかないのよ」
「俺は、その二百四十尋も下に居るってわけだ」
 そう言いながら、椅子にふんぞり返っている。ユカリなら何とかしてくれると、信頼しきった眼差しを彼女に送っている。
「分かったわ。足りない分はロープを積んでおくから、ロープを登ってきてね」
「よし。その時には俺の腕力を見せてやるぜ」
 そう言うと、ニックネームの「鉄腕」の由来にもなった筋肉隆々の腕に、立派な力瘤を作った。
 三人で大いに笑い、壮行会はお開きになった。
 鉄腕は、どうせ暇だからと、彼女を見送りに行った。
 タッカは、一週間の勤務が終わったばかりで疲れが溜まっていたので、自宅に戻ると言って、二人に別れを告げた。彼は、二人に気を使っていた。
 二人は、元気に手を振ると、空港に戻っていった。

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  海底千メートル

 深海は、どこでも変わらないな。
 当初の予定よりも早くクリスマスツリーが完成しそうなので、その自信からだろうか、水深が四百メートルでも千メートルでも大差ないなと、鉄腕は思った。
 ドライスーツのヘルメットに取り付けられたヘッドライトで照らされるところ以外は、右を見ても左を見ても真っ暗闇で、水温もほぼ零度だ。ドライスーツでなければ、タイタニックの遭難者達の命を奪ったように、立ち所に凍え死んでしまう程の冷たさだ。
 だが、そんな苛烈な環境だからこそなのだろう。水深が千メートルになっても、水圧以外に違いはないように、鉄腕には思えてしまう。その水圧の違いも、飽和潜水では感じる事はない。
 鉄腕達が組み上げたクリスマスツリーは、メタンハイドレート掘削櫓の別名である。外観が似ているので、そう呼ばれている。ただ、今回は櫓を組むだけで、実際にメタンを採掘するわけではない。
 今回の目的は、海底での作業の効率をクリスマスツリーの作業状況から推定する事にある。そのために、水深百メートルでのクリスマスツリー組み立てを三ヶ月前に実施している。人間の学習能力による数値の向上分を補正するため、この実験の三ヶ月後にも、水深百メートルでのクリスマスツリー組み立てを行う事が決まっている。他の学習能力の検査結果を加味し、水深千メートルでの作業効率の正確な解析が行われる。
 結果がまとまるのは一年先だが、ここまでの状況では素晴らしい結果が出ると、鉄腕は手応えを感じていた。
 マリンスノーが降り頻る中、十五メートルおきにあるガイド灯を頼りに、海底居住基地への帰路に就いた。どんなに強い光源を使っても精々五十メートルしか光が届かない水中は、ヘルメットのヘッドライトが照らし出すマリンスノーと大半を占める闇で構成されていた。
 深海には、まだ知られていない生物が数多く残っているという。その中には、体長十五メートルを超えるダイオウイカも含まれる。
 直径二十五センチもあるという大きな目で獲物が発する微かな光を感じ捕まえるというが、生態は全く分かっていない。ただ、ダイオウイカの天敵である抹香鯨の体に、直径三十センチもあるダイオウイカの吸盤の跡が残っていた事で、抹香鯨との死闘が推測されるだけだ。
 鉄腕は、微かな音を聞き、泳ぐのを止めた。緩い弦を弾くような、継続する低周波の振動だった。
 もしかすると、近くにダイオウイカが居るかもしれないと、冷たい海水と漆黒の闇に包まれた世界で、身が凍り付いた。
 果たして、ダイオウイカが人間を襲うのか、誰にも分からない。ダイオウイカが居る千メートルの海底に生身の人間が来るのは、今回が始めてなのだ。だから、鉄腕自身が最初の犠牲者になる事も、有り得ない事ではない。数メートルにも及ぶ八本の足や二本の触手に捕まれば、絞め殺されてしまうかもしれない。
 鉄腕は、ヘッドライトを海底に向けた。
 足元の海底から、段々と前方へとライトを向けていく。
 さっきの音は何だったのだろう。
 海底には異常がない。空耳だったのだろうか。
 今までこんな事を心配した事は、一度もなかった。クリスマスツリーの完成が見えてきた余裕で、ちょっとした音がしただけで根拠も無く危険を感じてしまうのだろう。
 それでも、注意をするに越した事はない。
 帰路を急ごうと、鉄腕は泳ぎだした。その時、再び音が聞こえてきた。今度は、何かが擦れ合う人工的な激しい騒音だった。一瞬、ダイオウイカが居住区を襲撃したのかとも思ったが、それにしては音が大き過ぎる。音は益々大きくなり、海水と海底を揺さぶる轟音となって、鉄腕の全身を震わせた。
 疑う余地は無かった。
 居住基地で、何かの事故が発生したのだ。原因も、事故内容も、今は分からない。だが、居住基地を守らなければ命が無い事だけは確かだった。
 一瞬の明滅の後、ガイド灯が消えた。
 この騒音が、事故によるものである事が確定した。
 鉄腕は、携帯型のポジショニング・システムを取り出した。海底基地周辺に設置した発信機の音波を受信し、位置を確定する仕組みになっている。予想通り、単独の電源を持つ発信機は、事故後も生きていた。
 鉄腕は、基地へ向かって急いで泳いでいった。

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  救難飛行艇S-2R

「スクランブル! スクランブル!」
 電子的に合成された声は、タッカを眠りから引き戻した。毛布を蹴って立ち上がると、隣室のブリーフィング室に消えるユカリの後ろ姿が見えた。タッカも続いて隣室に入った。
 制服をビシッと着たブリーフィングコンダクターが、タッカらを待っていた。
「水素潜水試験設備で、事故があったそうです」
 タッカは、ユカリと顔を見合わせた。
「事故は、下であったんですか。上であったんですか」
 上、即ち、支援船で事故があったのなら、鉄腕の身に即座に危険が降り掛かる事はない。支援船の支援が無くとも、最大一ヶ月は自力で生存できる。だが……
「下です」
 ブリーフィングコンダクターは、聞きたくなかった言葉をあっさりと吐いた。
「現在、海底基地との連絡は切断されているそうです。下に生存者が居るかどうか不明ですが、救出した場合には直ちに移送できるように、派遣要請が入りました」
「で、現地の気象と海象はどうですか」
 ユカリは、通常の救難飛行と同じ様に、淡々としていた。
「現在のところ、全く問題ありません。風力は1、平均波高3フィート未満です」
「もし救出した場合、アクアシティまで空輸する可能性が高いのですね」
「ええ、高圧医療設備は、あそこが一番整っていますから」
「現地までの気象状況は?」
「これが高層天気図です。特に問題はありません。ただ、行きは三万五千フィートから四万フィートで向かい風になります」
 タッカは、メモを取りながら、高層天気図に見入った。この天気図だと、快適な空の旅になりそうだ。行く目的が観光なら最高なのだが。
「アクアシティの受け入れ準備は、どうなってるの?」
「まだです。下の様子が見えてこないと、準備のしようがありませんから」
「で、事故の内容はどうなんですか」
 タッカは、どうしても聞いておきたかった。が、ユカリに制止された。
「それは機上で聞きましょう。空輸する品はありませんね」
「総て支援船の搭載品で間に合うようです。少なくとも、S-2Rで運ぶものは無いと、言っています」
「では、医療品が必要になった場合には、支援船の備品を借りられますね」
 ドクターの質問に、ブリーフィングコンダクターはしっかりと肯いた。
「分かりました。直ぐに離陸します」
 レスキュースイマー三人、観測員一人、ドクター一人で構成されるS-2Rの乗員達と共に、タッカとユカリは機に乗り込んだ。
 何の因果か、ユカリが機長を務める機の副操縦士として、サンディエゴで勤務する事になった。突然の勤務変更だった。その訳は、ユカリが、機長最初の勤務は最も腕の良い副操縦士と組ませて欲しいと要求したためらしいが、ユカリの口からしか聞いていないので、タッカには真相の程はわからない。
「難しくない飛行だけど、気を抜かないでね」
 彼女は、タッカに操縦のチャンスを与えてくれた。先週の空港の喫茶店での話を、彼女は気にしてくれていたのだ。
 二分後、ジャイロが自立した。直ちに離陸前のチャックリストに移り、間も無くサンディエゴの空港を飛び立った。

 S-2は、新明和工業のUS-2の技術を昇華させた機体と言ってよい。そして、そのUS-2の根底には、新明和工業の前進である川西航空機が作り上げた二式大艇が息づいている。
 日本海軍の飛行艇として、第二次世界大戦中にデビューした。その性能は、総てにおいて当時の飛行艇の水準を遥かに超えており、実用飛行艇では世界で最も速く、最も遠くまで飛べた。どの性能値も、飛行艇では比較できるものは世界のどこにも無く、空の要塞と呼ばれた陸上機のB17にさえ、比肩し得る高性能だった。特に、航続距離の長さは特筆もので、B17を二千キロ近くも上回る七千百五十三キロを誇った。パイロット達は、三食分のおにぎりを持って乗り込む事を自慢し、まる一昼夜に及ぶ作戦行に耐えた。
 事実上の後継機であるUS-1、その改良型のUS-2を除けば、二式大艇を上回る飛行艇は今もって少ない。零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦よりも、この二式大艇を日本の傑作機として揚げる専門家は少なくない。
 二式大艇は、高性能ぶりを示すいくつかの逸話を残している。その一つに、B17との空中戦がある。
 B17と二式大艇が、それぞれ単機で遭遇し、空中戦になった事がある。
 両者共、四発の大型機だったが、陸上機のB17に対し、二式大艇は重い艇体を持っている点で明らかに不利だった。この空中戦の勝敗は、火を見るよりも明らかな筈だった。
 だが、結果は逆だった。鈍重な筈の飛行艇である二式大艇は、中型攻撃機並みと言われた軽快さで飛び回り、B17を上回る重武装と日本軍機には珍しい燃料タンクの防弾装置の甲斐もあり、B17を撃墜したと言うのだ。
 こんな高性能にも関わらず、終戦時には大部分の機体は失われた。
 パイロット達には、機体が失われるのは生爪を剥がされるような心の痛みがあっただろう。機体と共に散った者。目の前で機体を破壊された者。
 同じパイロットながら、平和な空を飛べる俺は幸せだと、タッカは思う。
 戦争さえなければ、空に散った若いパイロット達も、この美しい空と鳥瞰を思う存分楽しむ事が出来ただろう。飛行経路の大部分が海上であるタッカだが、空からの景色が常に心のどこかにあり、たとえパイロットを辞める時が来ても、乗客となって空を飛び続けたいと願っている。
 戦争さえなければ、彼等若いパイロット達も、この美しい空を飛ぶ事が出来ただろう。そして、美しい景色を数え切れないほど心に刻んだであろう。
 戦争さえなければ!
 戦後、僅かに三機だけ残った内の一機を横須賀に回航する際にも、二式大艇は逸話を作った。
 二式大艇をノーフォークに研究保存するため、横須賀に回航する事になった。先導するアメリカ海軍の飛行艇に追従し、二式大艇は横須賀までの最後の飛行を行った。
 横須賀までの空路、アメリカ軍飛行艇のあまりの鈍足ぶりに、二式大艇はフラップを降し、機体を左右にスイープさせながら飛行した。アメリカ軍飛行艇を追い越すと、逃亡と見なして攻撃を受けてしまうため、このような飛行となった。着水も、ポーポイジングを起こしながら着水したアメリカ軍飛行艇を尻目に、かつお節と呼ばれる独特の波消し装置を備えた二式大艇は、見事な着水を決めたという。
 この回航に同行したアメリカ軍パイロットは、「こんな素晴らしい飛行艇を持ちながら、なぜ日本は負けたんだろう?」と漏らしたそうだ。後に、ノーフォークで繰り返された性能調査でも、アメリカ人技術者を一様に唸らせたのは、言うまでもない。
 S-2は、この二式大艇と同じ技術の流れを汲む。
 ただ一つ、S-2が平和目的で製造された点を除いて。

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 水素潜水試験の現場は、サンディエゴから二時間足らずの場所にあった。
 真っ青に広がる太平洋に、白い船体が見えてきた。
 タッカは、エンジンを絞りながら高度を下げていった。支援船ダーウィンは、視界の中で徐々に大きくなっていく。
「ディセント・チェックリスト・コンプリート」と、ユカリが言う。
 降下は終了。ここからは着水態勢だ。
 アプローチ・チェックリストを要求した。ユカリが次々にこなしていく。タッカは、彼女の手順を一つ一つ確認した。
 BLCをオンにすると、操縦輪を軽く引き、ごく一部の機種でしかできないバックサイド領域に入れた。急激に抗力が増えて一瞬速度が落ちるが、推力自動制御装置が遅れて推力を調整する。
 この遅れが、機長達には不評なのだろう。
 タッカは、支援船の船尾付近を目指した。どうしても事故の状況を見ておきたかった。
 エンジン音に驚いて飛び立つ海鳥に注意しながら、支援船の上空をローパスした。
 最初に目に飛び込んできたのは、船尾の甲板上にある大きく曲がったクレーンだった。クレーンのアームは、箱型に溶接された部分がぱっくりと口を開けていた。
 アームの付け根は、ジョイント部分が引き千切られた様になっている。台座部分の甲板も、引っ張られて膨らんでいる。恐ろしく強い力が掛かったようだ。船自体にも、損傷が出ているのかもしれない。
 このクレーンは、アンビリカルケーブルを釣るためのものなのだろう。事故は、支援船と海底基地を結ぶアンビリカルケーブルで起こったのだ。これでは、アンビリカルケーブルを直す事は不可能だろう。
 ひん曲がったクレーンは、水中エレベータをつり下げた別のクレーンにもたれ掛かっていた。水中エレベータも、降ろせない可能性が高い。
「想像以上ね」
 彼女の暗い声が聞こえた。
 事故の激しさを目の当たりにしたタッカは、彼女の言葉に答える事ができなかった。
 海底基地は、完全に支援船からの支援を絶たれたのだ。電力も、空気も、連絡も。
 海底基地は、電力と空気を海上から供給されるが、緊急時に備え、自力でも一ヶ月の生存ができるだけの電力と空気、二酸化炭素除去物質を貯えている。だが、海上であれだけの被害を受けているのだから、海底の基地でも無事で済んだ筈はない。
 鉄腕の顔が、心に浮かんだ。
 小学校から大学まで、ずっと同じ学校に通った仲だ。親以上に、お互いの事を理解しあう親友だ。そして、勉強から恋まで総てにおいてライバルだった。
 鉄腕が、青く光る海面から千メートル下に閉じ込められている。この深さでは、救出は愚か、遺体の収容でさえ困難を極めるだろう。
 正に、世界最悪の牢獄と言える。
「さあ、そろそろ降りましょう」
 彼女の言葉に促され、タッカは着水予定水面に目をやった。
 そこは僅かなうねりしかなく、波高計測の結果も平均波高で三フィート強でしかなかった。多くの飛行艇では着水限界に近いのだが、世界最高の着水性能を誇るS-2Rには、細波に等しかった。
 S-2の着水性能と比肩し得る唯一の飛行艇は、US-2だ。ところが、US-2は、四基のプロペラが総て同じ向きに回転しているため、エンジンナセルの左側面に揚力を発生し、左傾左旋の悪癖を引き起こす。この悪癖は、限界性能に大きな影響を及ぼしている。主翼の限界が来る前に、左傾左旋による垂直尾翼の失速が先に起こるのだ。S-2は、ジェット化されたため、この悪癖から開放された。
 現行の総ての飛行艇の中で、離着水性能も、航続距離も、最高速度も、上昇限度も、最大離陸重量も、S-2は世界最高の性能を誇る。
 だからこそ、慎重に機体を降ろした。
「流石、No1のファーストオフィサーね」
 機体が停止すると同時に、彼女はそう言った。
 何が、No1の副操縦士だ。
 所詮、俺は副操縦士でしかないと、タッカは面白くなかった。
 機体を支援船の左舷、風下側に寄せると、ゾディアックを出して、彼女とドクターがレスキュースイマーの操船で支援船に向かった。状況の確認と打ち合わせのためである。機は、二人のレスキュースイマーと観測員とタッカの四人となった。彼女達が帰ってくるまで、機を支援船の風下に維持するだけだった。
 タッカは、シーアンカーを降ろした。
 支援船から一海里も離れた所で待機するので、エンジンは四基とも停止し、APUを兼ねる第五エンジンだけ運転を継続する。そして、艇体から小型のウォータージェット推進器を下ろす。必要な時は、これで移動する事ができる。
 タッカがすべき事は、周囲の船舶に注意し衝突を回避するだけで、ぼうっとしていれば良かった。幸い、近くに船影はない。支援船の向こう側はレーダーに映らないが、見えてから行動を起こしても十分に間に合うだろう。
 艇体は、ピッチングもローリングも殆どしていない。
 この真下で、六人の男達が生命の危機に瀕しているとは思えない穏やかな海だった。
 タッカの視線は、吸い寄せられるように後部甲板のクレーンにいった。
 上空から見た情景を思い出すと、支援船の水中エレベータは降ろせそうに無かった。支援船の水中エレベータが駄目なら、下は望みが薄い。水深千メートルまで届く水中エレベータは、支援船ダーウィン以外にはアクアシティで整備中の同型船クストーにしかない。出港できる状態にあるとしても、パナマを通過してここまで来るには相当な日数が掛かるだろう。
 タッカは、アクティブソナーを打ちたくなった。そうしたところで、下の様子が分かるわけでも、救助の手助けになる訳でもない。理屈で分かっていても、無性にソナーを打ちたくなった。
散々に逡巡した後、救助を混乱させる事になるだけだと、思い止まった。
 太陽が太平洋の向こうに沈み、見事な夕焼けが西の空と海面を赤く染めた。赤い空は、やがて紫色に変わり、海も深い藍色になっていった。艇体を叩く波の音が、APUの騒音に混じって微かに聞こえてくる。
 太平洋は、夜の闇に包み込まれようとしていた。
「タッカ? 居る?」
 ユカリが日本語で呼び掛けてきたのは、夕焼けも終わり間近になった頃だった。
「こちらタッカ。どうぞ」と、軽く返した。
 気付くと、タッカの後ろに他の三人が集まってきていた。
「やっぱり相当に厳しそうね。上から見て気付いたでしょう。船尾のクレーンは全滅よ。アンビリカル・ケーブルが急に引っ張られて、クレーンを引き倒したそうよ。その力は、支援船が危なくなったほどらしいわ。でも、原因は潜水艦が引っかけたのか、下の基地自体が動いたのか、下と連絡が取れないから分からないんだって。
 ダーウィン内でも五人が負傷しているけど、一人を除いて軽傷よ。重傷の一人は、私達が搬送すべきかどうか、微妙なところね。ここの医療設備を使って回復を待つ方が、今のところは得策のようよ。
 あっ、ちょっと待って」
 ユカリは、無線の送信ボタンを押したまま、何やら話していた。そして、嬉しそうな声が返ってきた。
「下から、モールス信号を打ってきたそうよ。取り敢えず、六人全員無事よ」
 無線を聞いていた後ろの三人が、奇声を上げた。
「怪我人は二人だって。怪我をしたのは、リーダーのナンスとアロイらしいわ」
 鉄腕は、怪我もしないで済んだらしい。ナンスとアロイには申し訳ないが、ホッとする。
 ユカリは、今度は無線の送信ボタンを切って、何やら話しているようだった。間も無く送信を再開した。
「原因は、下でも分からないそうよ。急に、アンビリカル・ケーブルが引っ張られて、ケーブルスタンドごと引き摺られて、かなりの被害が出てるそうよ」
 後ろの三人が騒がしくなった。原因について、ああでもない、こうでもないと、話しているようだ。彼等も、下の様子が気になっているのだ。
「おまけに、支援船が危険を感じてケーブルを切断したけど、緊急脱出装置がそのケーブルの直撃を受けて、被害が出てるらしいの。もうちょっと待って」
 また、無線の送信ボタンを離したようだ。だが、直ぐに彼女は送信ボタンを押した。
「貴方は誰なの?」
 タッカだよと答えようと思ったが、ただならぬ雰囲気を感じて、沈黙を保った。
 無線の向こうから、きゅっきゅっと軽快な靴音が聞こえてきた。何かが起こっているらしい。タッカは、後ろの三人に静かにするように手で合図を送り、無線に耳を澄ませた。
 靴音は、五、六人分はいただろう。だが、総ての靴音がほとんど同時に止まった。
「この船を占拠した。大人しく、無線を貰おう」という荒々しい男の声が聞こえてきた。同時に無線は切れた。
 暫く無線を開いたまま様子を伺っていたが、それっきり何も聞こえなくなった。後ろの三人も、身動ぎもせず、ヘッドセットからの音に耳を澄ませている。
 このままでは埒が明かない。
 念のため、航空管制所を呼び出し、ダーウィンが何者かに占拠された疑いがある事は連絡した。航空管制所は、救難信号は受信していないが、占拠された事が確認できれば、連絡を寄越すように言った。確認が取れれば、最寄りのコーストガードに通報する事を約束してくれた。
 どんな目的を持っているのか分からないが、何者かが支援船を乗っ取ったらしい。だが、不思議とユカリの事は心配しなかった。彼女を捕まえようと思った連中は、相当苦労するだろう。彼女の武道の腕は、半端じゃない。非力な女性だが、技が恐ろしく切れるのだ。
(俺なら、機関銃を持っていても彼女とは戦わない)
 タッカならそうする。それほどの腕前なのだ。
 タッカは、ウォータジェット推進器を始動した。シーアンカーを引き上げ、機体を支援船の風下三百メートルまで近付けた。ここで様子を見る事にした。この位置なら、重火器でも無い限り、弾は届かないだろう。念のため、機体を支援船に真っ直ぐに向けた。こうする事で、支援船から見えるS-2の大きさを最小にできる。
 発砲もあるかと緊張して監視していたが、支援船は静かだった。
 ユカリは、船橋に居た筈だ。逃げるなら、そこから海に飛び込むだろう。
 誰かが海に飛び込んだら、直ぐにでも救出しよう。
 夕焼けの残光で紫色に浮かんだ支援船の船首から船尾まで目をこらしたが、甲板にも船橋にも人影は無かった。
 いくつかの舷窓からは灯りが漏れてきていた。船橋も、灯りが点いている。
 乗っ取り犯は、風上側から近付いたのだろう。だから、こちら側からは全く見えなかったのだ。同時に、奴等はこちらに気付かなかった。この運の良さを何とか利用しないといけないのだが、現時点では脱出する人を助けよう。それに、彼女なら乗っ取り犯を逆に押さえる可能性も高い。
 もう少し待とうと、タッカは考えた。
「おい、ゾディアックが戻ってくるぞ」と、バブル状に膨らんだ観測窓から監視を続けていた観測員が叫んだ。
 船尾を迂回し、ゾディアックがこちらに向かってくる。
 彼女なら、乗っ取り犯を一人で制圧する事も可能だ。無事、乗っ取り犯を取り押さえたが、無線を壊されていてゾディアックを寄越したのだろうと、タッカは解釈した。
「よし、収容準備だ」
 後ろの三人が、左側面の救難収容扉を全開にした。生温く湿った海風が、大きな開口部からコクピットにまで流れてくる。艇体を叩く波の音に混じって、ゾディアックの船外機の騒音が聞こえてきた。
 コクピットの窓から見ると、船外機を操るレスキュースイマーしか乗っておらず、ほとんどが大きな黒いシートで覆われていた。
 ゾディアックは、左舷側に大きく回り込むと、真っ直ぐに接近してきた。ゾディアックがすぐ脇まで近付いた時、初めてレスキュースイマーの顔が確認できた。だが、顔は蒼ざめていた。そして、何かを表情で伝えようとしていた。
 数秒後、ゾディアックの舳先が機体にコツンと当たった。その瞬間、シートが捲れ上がり、五人の男が機関銃をもって飛び出してきた。
「フリーズ!!」
 機関銃を突き付けられ、全員、言葉通りに凍り付いてしまった。
 タッカは、後の三人に叫んだ。
「逆らうな! 今は言う通りにするんだ!」
 タッカに言われ、ピストルを抜こうとしていたレスキュースイマーは、そっと手を離した。彼は命拾いした。敵は、既に彼に自動小銃を向けていたのだから。
 奴等は、乗り込んでくると、まるで何度も練習していたかのように行動した。
 最初に三人が乗り込むと、一人がタッカ達四人に銃を向け、もう一人が入り口で睨みを利かしながら、残る一人の援護ができる体制を整えた。ゾディアックに残った二人は、一人は舵を握るレスキュースイマーに、もう一人は入り口付近に銃を向けた。
 中に入った三人目は、まずコクピットを、続いて、船上減圧室と、その後ろの水中エレベータまで、素早く家捜しを終えた。最後には、床にあったハッチから床下通路の存在にも気付き、そこも誰かが潜んでいないか、手早く捜索をした。
 一通りの家捜しが終わると、順番に武装解除をしていった。それも、一人ずつ引き離した上で一人が至近距離から後頭部を狙って銃を構え、丸腰の男がボディチェックをするのだ。
 丸腰なのは、ボディチェックの相手に武器を奪われないための用心なのだろう。それに、後ろから狙われていたのでは、反撃のチャンスも捜せない。後頭部に狙いを付けているのは、中腰でボディチェックをしている仲間を楯にされる事無く、確実に打ち殺せるようにするためなのだろう。
「軍隊みたいだ」
 誰かがぼそっと漏らした言葉に、タッカも無言で賛意を示した。

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 奴等は、ライトで合図を送り二隻目のゾディアックを呼び寄せると、タッカ達四人を分乗させて支援船に連れ込んだ。その間も、一言も口を利かず、無線も使わなかった。まるで、機械のように正確で、つけいる隙はなかった。
 自動小銃で背中を小突かれながら、支援船内の階段を降りた。用心深い奴等は、四人にそれぞれ一人ずつが付き、十分に離れて移動した。タッカはしんがりで、仮に何かを仕出かせば、前からも後ろからも蜂の巣にされそうだった。
 他の三人が通り過ぎた階段を、どうされるのか考えながらゆっくりと降りていった。床に「H」と掛かれた所で、横の廊下に出た。そこで、やはり自動小銃を背中に突き付けられてエレベータを降りててきたユカリと会った。
 彼女は何か考えているなと、直感した。自動小銃を突き付けられているとは言え、武道の達人の彼女なら、自動小銃くらい簡単に奪い取れるだろう。それでも逆らわずにいるのは、何かを狙って自らの爪を隠しているのだ。だが、タッカには彼女の考えが読めなかった。
 俺がS-2Rに残っている事を前提にして彼女が何かを考えているなら、現状を伝えておく必要があると、タッカは感じた。
「おい、あっちはエレベータで俺は階段かよ」
 タッカは、後ろで銃を突き付けてる男に言った。男は、返事の代りに銃口で背中を小突いた。
 銃口を突き付けられている割には、恐怖感は薄かった。
 奴等は、訓練を積んでいる。自制心も強い。こちらが逃亡か反撃を試みない限り、絶対に撃たない。そう確信ができるような鍛えられ方なのだ。
 だから、こんな軽口が叩ける。
 男が動揺しない事が確認できたので、今度はずっと大きな声で言った。
「わかったよ。俺にエレベータは勿体無いよな」
 タッカの声で、彼女が後ろを振り返った。そして、驚いた表情で言った。
「タッカ!」
 振り返った彼女は、小銃を持った男に静止されるのを無視し、タッカの方に歩いてきた。男は、やむを得ず彼女の背後に回り込んで、銃口だけは向け続けた。
「あなた、何でここに居るのよ。信じらんない!」
 彼女の声が非難めいている。
「こいつらに招待されたんだよ。御丁寧に、銃まで突き付けられてな」と答えた。
「そう言うユカリこそ、何でそこに居るんだよ」
「か弱い女性に何をしろって言うの」と膨れっ面を作った。
 先程の行動といい、今の表情といい、とても銃口を突き付けられた女性とは思えない。
「何が、か弱いだぁ」
 彼女は、返事の代りにアカンベェをした。
 日本語で話していたので、二人で無駄口をたたいていると思ったのだろう。背中を銃口で強く小突かれた。これが、男の我慢の限度らしい。タッカも、素直に従う事にした。男は、タッカを彼女とは違う部屋へ押し込んだ。
 部屋は、本来は会議室らしい。広さは十メートル×八メートルくらいだが、天井は高くなく、圧迫感を感じた。どこにも窓はなく、机や椅子は片隅に寄せてあった。そこに、支援船の全男性スタッフが押し込まれていた。七十人近い男達の人息れで、空調が効いていないのかと思うほど蒸し暑くなっていた。
 その中で、男達は憔悴した顔で膝を抱えて床に座っていた。
 女性スタッフは、向かい側の小会議室に集められているらしい。ユカリが入っていく時に、中の様子がちらっと見えた。
 その様子も、直ぐに断ち切られた。
 タッカを部屋の中に突き飛ばすと、男は大きな声を出した。
「一人で英雄ぶろうなんか、思うんじゃねぇぞ。一人の英雄のせいで、死体がごろごろ転がる事になんぞ。さっきも言ったが、下手な真似をしたら、誰彼構わずぶっ放すからな。妙な真似をしたやつだけを撃つような器用な事は、俺様は得意じゃないんでね」
 そう言うと、気味の悪い笑いを口元に浮かべた。
 だが、彼の言動とは違い、出鱈目に撃つ事はないだろう。正確に、狙った奴だけを確実に死に追いやるだろう。その証拠に、その男の言い方は、三文役者の台詞のようにわざとらしかった。
「大人しくしてな」
 奴は、鼻先で扉を勢い良く閉めた。これが締めの演技らしい。
 タッカがみんなの方を振り返ると、一人の士官が立ち上がった。
「船長は、一緒ではなかったのですか?」
 制服の袖口の線の数で、一等航海士だと分かった。
「いや、ユカリとはそこで会ったが、他に見かけなかった」
 他の三人も、同様に肯いた。
「船長は、ユカリと一緒に船橋に残ったのです。ユカリが降りてきたなら、船長も降りてきても良い筈です」
 航海士は、落着かない様子だった。何をどうすれば良いのか自分では決断できず、船長の助言を求めているのだ。
 突然、最後の判断を委ねていた船長が居なくなり、過去に経験の無い事態に晒されて、そのプレッシャーに潰されそうになっていた。どうリーダーシップを取ればよいのか、彼は分からずにいるようだった。
 気持ちは理解できる。責任が重くなればなるほど、決断する勇気が必要になる。人命に直結する状況では、最大限の勇気が無ければ決断する事はできない。
 勇気を奮い立たせる最も簡単な方法は、今の状況が船長にも経験の無い事態である事を、自分に言い聞かせる事だ。船長だって決断する事が苦しい事なのだと、理解すればいいのだ。
 彼がリーダーに成長するための貴重なチャンスなのだが、それを活かす前にチャンスは逃げていった。
 会議室のドアが開き、袖に四本線を付けた紳士が入ってきた。

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「船長! よく御無事で」
 紳士は、この事態にも動じる様子も無く、部屋に入ってきた。彼が部屋の中程まで進んだところで、会議室のドアは閉じられた。
 部屋に居た全員が、船長の周りに幾重もの輪を作った。
「全員、怪我はないか?」
 誰よりも早く、船長はその言葉を口にした。顔はタッカ達に向けられていたが、実際には、船長は部下に向かって言っていた。その毅然とした面持ちは、経験した事も無いこの局面に立ち向かおうとする気概と、部下を思い遣る優しさが滲み出ていた。
「全員、全くの無傷です」
 タッカは、他の三人と顔を見合わせ、微笑んだ。
「私達も、ユカリが抵抗しないように指示を出したので、誰も怪我をしないで済んだ。連中も、抵抗しないと紳士的に振る舞うんだ」
 紳士は言い過ぎだが、直ぐに暴力に訴えるような事はなく、身の危険はほとんど感じなかった。
「妙な連中だな」
 ぼそりと、船長はこぼした。
 タッカも、頷いた。
 環境保護団体P.A.E.だと名乗っているが、武装していること自体、環境保護団体らしくない。かといって、海賊にしては統率が取れている。訓練が行き届いている感じなのだ。その点では軍隊的だが、軍であれ、海賊であれ、この船を制圧する理由が見当たらない。
「連中は、いったい何が目的で、この船を押さえたんでしょうか?」
 何か気付いた事があるんじゃないかと、船長に疑問をぶつけてみた。
「それが、妙な事を言ってるんだよ。なんでも、この近くに船が沈んでいるので、サルベージしろと言うだ」
 意味が分からなかった。
「その何処が妙なんですか?」
 船長も、困惑した表情を浮かべた。
「連中は、その船を私達がサルベージしていたと、思っているようだ。海底基地で事故があってその救出作業中だと言ったが、納得しない」
 連中は、何かを勘違いしているのだろう。でも、いったい何を勘違いしているのだろう。それに、船とはどんな船の事なんだろう。
「その船については、何か言っていましたか?」
 船長は、小さく首を振った。
「何も。それに、この船ではサルベージできないと船の装備を説明したら、あっさり引き下がった。いや。むしろ、サルベージできない事に満足したようだった。そこが妙なんだ」
 サルベージしろと言っておいて、できないと知ると満足そうな表情を見せるとは、いったいどういう事なんだろう。
 さっぱり訳が分からない。
「ところで、下はどんな様子なんですか?」
 具体的な状況は、何も知らされていなかった。
「かなり厳しい状況だな。電源と酸素は大丈夫らしいが、水酸化リチウムのタンクが損傷しているのか、二酸化炭素濃度が上がり始めているらしい。ただ、それ以上の詳細な情報は、奴等が乗り込んできたので途絶してしまった」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素を吸い取るために使う物質だ。それが被害を受けたのなら、酸素欠乏になる前に二酸化炭素中毒の危険性が高まるだろう。
「で、どうやって救助する予定ですか? 方法はありますか?」
 冷静さを維持する事に努めながら、船長に聞いた。
「なんとか緊急浮上してくれれば、前甲板のクレーンで釣り上げる事が出来るが、今もって緊急浮上してこないところをみると、緊急浮上システムにも障害が発生しているのだろう。こちらが切断したアンビリカルケーブルが海底基地に二次被害をもたらしてしまったのが、影響しているらしい。兎に角、下と連絡を取りたいのだが」
 船長の眉間の皺が、深くなった。
 彼が命じて切断したアンビリカルケーブルが二次被害をもたらした事を、彼は後悔しているのだろう。だが、クレーンの破壊されようを見ると、ケーブルを切った判断は間違っていなかったと思う。
「大型クレーンで、水中エレベータは下ろせないのですか?」
 素人考えだと思いながらも、聞いてみた。
「水中エレベータのアンビリカルケーブルの始末が出来ないので、無理だ。何せ、千メートル以上もあるからな」
「そうなると、海底基地に留まり、少しでも延命してもらうしかないですね」
 船長が、顔をしかめた。彼の手は、胃の辺りに行った。
「そのためには、なんとしてでも、この船の指揮権を取り戻さなければならない」
「でも、ユカリが抵抗するなと言った理由も、考えないと。彼等は、相当に訓練を積んでいます。安易に抵抗すれば、大きな人的被害が出ると思います。そうなったら、下の救出作戦どころではありません」
「わかっている。だから、何もできない。何もできない事が歯痒いんだ」
 船長は、自らの焦燥を吐露した。その気持ちが、タッカにも痛いほど分かった。
 この船を奪還する方法を考えなければならない。
 まずは、連中の人数と携行武器、配置を知る必要がある。出来る事なら、この部屋を抜け出して、状況を把握した上で、全員で一気に行動を起こしたい。統制の取れた相手には、しっかりした作戦と彼等以上の統制で対処する必要がある。
 タッカは、入り口の扉まで行き、耳を澄ませて外の様子を探ろうとした。直ぐに、扉の脇に監視が二人以上居る事を、彼等の会話から知った。
 扉は鍵が無いので、監視をぶちのめしてここを出る事は出来るだろう。だが、一度しか使えない手だ。一度使えば、後戻りはできない。船を奪還するまで、突き進むしかない。しかし、彼等の武装や配置を知らずに丸腰の人間が事を起こしても、飛んで火に煎る夏の虫となってしまう。
 確実に勝てる作戦を立て、全員でここを出る時まで、その手は使いたくない。
 タッカは、他の脱出場所を探す事にした。出入り口はそこしかないし、窓も無い。床にも、メンテナンスハッチは無い。空調ダクトは利用できないだろうかと、天井の通気口を見上げた。
 通気口を見る限り、狭くて入れるかどうか、難しいところだ。しかも、中は暗く、中が広いかどうか等、何もわからなかった。天井が低いのが幸いし、手が届く。網を外したら、脱出口として使えるかどうか、わかるだろう。
 そう思って、通気口に手を伸ばしかけた時、そこに「にぃっ」と笑う人の顔が出てきた。全身の毛穴が、きゅっと締まる感じがした。きっと、鳥肌が立っていただろう。体が凍り付き、視線を外す事さえ出来ずに通気口を凝視し続けた。
 すると、通気口の網が音も無く開き、ユカリの笑う顔が出てきた。
 ユカリは、クノイチのような軽い身のこなしで、天井の通気口から下りてきた。
「逃げてきたのかい」と、声を潜めて聞いた。
「これから逃げるのよ。鉄腕達を助けるには、このままじゃどうしようもないでしょう。取り敢えず、S-2Rまで行って、下と連絡を取ってみましょう。S-2Rは、大丈夫なんでしょう?」
 機体から降ろされた時、連中も一緒に離れた。誰も機体には残らなかったし、爆破する様子もなかった。
「大丈夫だと思うよ。でも、どうやって?」
「あれを使うのよ」と、ユカリは通気口を指差した。
「ユカリは細いから大丈夫だろうが、俺には苦しそうだな」
 体型は細い方だが、百八十五センチの身長があるから、肩幅は狭くない。
「大丈夫よ。隣の部屋まで行ければいいだけから。ただ、私と一緒に行くのは、貴方だけよ。一人くらい居なくなっても気付かれないけど、二人、三人になったら危ないわ」
「ちょっと待ちなさい」と、船長が割って入った。
「ここより二つ上のデッキに、舷門がある。そこから海に飛び込めば、S-2R泳いで行けるだろう」
「舷門を開けっ放しにしたら、誰かが逃げた事がバレてしまうわ。後部甲板の下から海に入りたいから、見つからずに行く方法は無いかしら」
「かなり遠いが、いいのか?」と言いながら、船長は指で床に絵を書き始めた。
「この船は、船橋のBデッキから船底のIデッキまである。船首から船尾までは、水密横隔壁で一ブロックから九ブロックに分かれている。更に、三ブロックから八ブロックまでは、水密縦隔壁で左右に分かれている。船橋は、三ブロックのBデッキだ。今いる所は、ここ。H三R、つまり船底の一つ上、船橋の真下で右舷側だ。
 ユカリの言う場所はF九だから、二デッキ上の六ブロック後ろ。かなり離れているぞ。水密隔壁はFデッキまで届いているが、Fデッキは水密ハッチで通り抜けられる。一般商船じゃないから、機関室のハッチも施錠していない。水密縦隔壁を通り抜けるハッチは、Iデッキにある」
 彼女は、頷いた。
「じゃあ、Fデッキまで上がって、機関室を抜けていけばいいのですね」
 船長は、指先を左右に振って、彼女が思っているほど簡単ではない事を示した。
「F三からF四は、船員の居室になっている。F五は食品庫、F六は機関室の最上部だ。F七は高圧タンク室で、水素と酸素の高圧タンクが並んでいる。F八は、倉庫と資料保管庫になっている。機関室まで行くにもかなりあるし、一直線の廊下だから見通しが良すぎる」
 かなりの距離だ。この間を見付からずに通り抜けるのは、簡単ではなさそうだ。
「機関室から、シャフトトンネルを通って、F9へ行けませんか?」
「本船はディーゼルエレクトリック船で、ダクトスクリュー内にモーターが組み込まれているから、機関室からスクリューまでのシャフトトンネルは無い。残念だが、抜け道は無いよ。表通りを行くしかない」
 彼女は、沈黙した。
「Fデッキを駆け抜けるしかないわね」と言うと、すくっと立ち上がった。
「さあ、行きましょう」
 タッカが肯くのを確認すると、ユカリは通気口に飛び付き、ぶら下がった。軽く体を前後に揺すると、蹴上がりの要領であっさりと通気口に姿を消した。タッカは、長身を利して直接通気口に手を掛け、ジャンプして潜り込んだ。

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