伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

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 通気口の中は、予想以上に狭苦しかった。ぎりぎり肩幅と同じ幅しかなく、高さも頭を上げられない程だった。中を流れる緩い風が、海のにおいを運んでくる。その中で、後退り、通気口の網を元に戻してから、ユカリの残り香を追って這い進んでいった。
 しかし、音を立てないように気を使いながら通気口の中を這い進むのは、思いの外、難しかった。靴が壁面を叩く音がするので足は使えず、引き摺るしかない。腕で進む訳だが、高さに余裕が無いので肘を使って進む事が出来ない。結局、両手を前に伸ばし、右手で左の側面、左手で右の側面を押さえて、芋虫のように体を引き寄せて進んだ。だが、一回に進めるのは十五センチ程度で、その割には両方の肩が疲れた。
 彼女の姿は、とっくに見えなくなっていた。水密隔壁があるので、通気口もそんなに遠くまで続いている筈はない。そう信じて、休まずに進み続けた。
 彼女が先に網を外した所まで来て、もぞもぞしながら床に降り立った。ほんの数メートル進んだだけだが、腕が満足に上がらない程、疲れていた。
 彼女はドアの脇に張り付いていたが、タッカの姿を見て通気口の下まで戻ってきた。
「遅いわよ。見つかったらどうするの」
 肩を揉むタッカに、声を潜めながらも彼女は非難の言葉を浴びせてきた。同時に、甘美な香りが鼻を衝いた。
「隙を見て走り抜けようと思ってたけど、無理みたいね。監視役が二人居るわ。二人がそろって余所見するのを待っていたら、明日になっちゃうわ」
 やれやれ、また通気口に戻るのかと、タッカは思った。
 思った通り、彼女は吸い込まれるように通気口に消えた。タッカも、その後に続いて通気口に体を入れると、元の通りに直すために網を引き寄せた。
 タッカが網のネジの一本目を締め始めた時、がちゃりと音がして扉が開いた。急いで顔を伏せると同時に網に掛けていた左手を引いて、右手の指先だけでネジを摘んで網を支えた。
 監視役の男がこの部屋の様子を見に来た事は、明らかだった。男は、テーブルと椅子しかない部屋を見回していたが、しばらくして鼻をヒクヒクさせ始めた。
 あっ!
 タッカは、心の中で叫んだ。彼女の残り香に、男が気付いたのだ。
 男は、通気口の下まで来ると、銃口で網を突付いた。ガシャンという音と共に、衝撃が、右手の指先に響いた。危うく指が滑りそうになったが、必死に指先に力を込めて、ネジを摘み続ける。
 早く部屋を出て行ってくれ。
 指先が痺れてきた。腕も引き攣りそうで、震えがきていた。そっと左手を右手に乗せ、震えを押さえつけた。
「へへへ、ここか」と言うと、また銃口で網を突き上げた。
 心臓が止まった。男の位置からは姿は一切見えない筈だが、網の異変に気付いて、タッカかユカリの存在に気付いたのかもしれない。手を上げて投降するべきか、このまま隠れて男が乱射する銃弾で蜂の巣になるか、タッカは迷った。だが、男は「ここか」とは言ったが、出てこいとは言っていない。
 じっと我慢して様子を見ていると、男は直ぐに部屋を出て行った。男は、隣室の女性を閉じ込めている部屋から女性の匂いが通気口を通して漂ってきていると、勘違いしたらしい。
 男が部屋を出た隙に網を固定するネジを止めて、ユカリの後を追った。
 暫く進むと、垂直の配管部に突き当たった。
「遅い。下に降りてきなさい」
 T字を横にした形の通気口は、下に降りようにも、体勢を整えるのが難しかった。一旦、通気口の上に向かって体を引き寄せ、体を右に左に捩りながら、苦労して垂直の通気口に体を入れた。今度は、両手両足で壁を突っ張りながら、ゆっくりと下に滑り落りて行った。
 これで、Iデッキの天井裏に出た事になる。
 そこでL字型にダクトは曲がっていたが、五十センチ程先にある網が既に外されていて、そこに足を投げ出すようにして床に降り立った。
 その場所は、廊下の真ん中だった。
 廊下の影でユカリが手招きしていたが、通気口の網が開いたままでは直ぐに居場所を知られてしまうので、急いで網を元に戻した。
「本当に遅いわね。今度遅れたら、置いて行くからね」
 そんな憎まれ口さえ気にしていらない程、腕や指先が痛んでいた。
 現在位置は、I三Rだろう。このデッキには、リフレッシュ用にジムやサウナ等があったが、とてもリフレッシュする気持ちにはなれない。この真上には、自動小銃を持った監視が二人居る。だから、上のデッキに繋がる階段まで来た時に、ユカリはそっと上の様子を伺った。そして、安全を確かめると、左舷側に走り抜けた。タッカも、それに続いた。
 I三Lで階段の下まで来た時に、ふと背後のエレベータに目が行った。その表示板から、エレベータがEデッキからFデッキに下りてくるところだった。タッカは、ぎょっとなった。階段は狭くて急だが、エレベータの真正面を一直線に登っている。
 タッカは、エレベータの表示を凝視し、いつでもHデッキに駆け上がれるように構えた。そして、足音がしないように靴を脱ぎ、靴紐で両方を繋ぎ合わせて首にかけた。
 エレベータの表示は、ゆっくりと進む。Fデッキに止まったのではないかと思うほど、表示は変わらなかったが、やがて表示はGデッキになり、Hデッキに下りた。今度こそ、止まったかと思われた。
 階段の真下に居る二人から、Hデッキを望める。逆に言えば、上からも見下ろせる。Hデッキで誰かが降りたなら、どこか物陰に身を隠さなければならない。身を隠す場所をさっと目で探した。
 一瞬の隙を突くかのように、ユカリが猛然と奪取してHデッキに駆け上がった。その意味を頭より先に体が理解し、エレベータの表示には目もくれずにHデッキに駆け上がった。階段を半分くらい上がった所で、下からエレベータの到着を知らせるチャイムが聞こえた。後ろを確認したい気持ちを押さえ、二段飛ばしで必死で駆け上がっていく。
 こんな時の時間が経つのは遅く、Hデッキも遠かった。段数はわずか十二段しかないのに、最後の一歩が遠くて仕方が無い。Hデッキに片足が届くと同時に、体を横に投げ出して、下の連中の視界から姿を隠すようにした。そして、息を止め気配を消した。
 Iデッキには、二人が下りてきた事が、連中の駄弁りで分かった。
 這うようにその場を離れると、急いでGデッキに駆け上がった。
 ユカリは、Fデッキに上がった所で立ち止まった。
「さっき、ここで誰か降りたみたいだから、気を付けてね」
「連中、ここから乗ってきたんじゃないのか」
「用心に超した事はないわ」
 彼女は、角毎にその先の様子を探りながら、進んでいく。後ろを警戒しながら、彼女のケツを追った。我ながら情けない情景だと、タッカは思った。
 船員の居住区は、長い真っ直ぐな廊下に対して十字に交差する短い廊下があり、その廊下の左右に四室ずつ部屋が並んでいる。それを十字毎に安全を確認しながら、先へ進んでいく。
 F三LブロックからF四Lブロックに入った最初の十字路に身を潜めて、先の様子を伺っている時、次の十字路に人の気配を感じたらしく、彼女は少し体を下げた。ほとんど同時に、背後の船員居室の一つのドアノブが動いた。タッカは、彼女を抱えて別の部屋に飛び込んで隠れた。
「誰か残っていないか、全ての部屋を確認しているのね」
「ここは終わったのかな」
「隙を見て飛び出すわよ」
 彼女は、ほんの少しだけ扉を開け、外の様子を覗っていた。そして、風のように廊下に飛び出し、音も無く走り去った。余りの素早さに、タッカは一緒に飛び出すタイミングを失った。仕方なく、また扉を薄く開け、外の様子を探った。
 男は、タッカの居る部屋の方に近付いてきていた。彼女が出て行った時の気配を感じたのだろうか。それとも、タッカが開けた扉に気付いたのか。
 部屋の中に隠れるところを探した。しかし、畳二枚分程度の狭い居室には、目の高さにあるベッドと、その下の机と収納、そして狭い部屋には似合わない大きな書棚があるだけだった。最後に残った扉の陰に隠れた。運良く、奴が銃を先に見せたら、銃を奪い取ろうと、構えた。
 足音が聞こえてきた。扉の直ぐ前まで来ているのが、足音で分かった。息を殺して、奴が扉を開けるのを待った。心臓の鼓動が、奴に聞こえそうなくらいばくばくと打ち続けた。
 ところが、男は扉の前で立ち止まると、すっと扉を閉めてしまった。そして、大きな足音を立てて立ち去った。暫く様子を見たが、先に出た彼女が心配になり、タッカは中腰になって、そっと扉を開けた。その途端、扉は勢い良く全開になった。
 最初は何が起こったのか、さっぱりわからなかった。扉が勝手に開く筈はない。何事かと見上げると、男が目の前に銃を構えて立っていた。
 手を上げ、恐る恐る立ち上がった。これで、男が銃を降ろしてくれる事を期待したのだが、男は今にも引き金を引きそうな雰囲気のままだった。本気だろうかと訝りながら、タッカはゆっくりと後退った。
 不意に、やつは横を向いた。そして、慌てて銃をそちらに向けようとした。
 チャンスだった。
 銃身を両手で鷲掴みにして、銃口を斜め上に逸らしながら、思いっきり押した。銃尻は、男の右肩に食い込んだ。だが、それよりもずっと早く、ユカリの足刀が男の首を捕らえていた。男は、呆気なく崩れ落ちた。
「部屋に引き入れて、ベッドに寝かせて」
 彼女の指示通りに、男を部屋の中まで引き摺った。態勢を立て直すと、男を肩に担ぎ、二段ベッドの上段と同じくらいの高さのベッドに頭から押し込んだ。
「それを置いていくのか?」
 彼女は、男が持っていた銃を、態々に男の手に握らせていた。
「貴方はダイハードをしたいの? それとも鉄腕を助けたいの?」
 答えられなかった。
「銃を持って行っても、人を殺す事以外に使い道はないのよ。人殺しをしたいの?」
 護身用にと安易に考えていたタッカは、ショックを受けた。
 彼女が言う通り、相手を殺す事しか出来ない道具で護身するという事は、人殺しをして自分だけ助かろうとする事だと、思い知らされた。それ以上に、銃を持っているもの同士が出会えば、威嚇無しに撃ち合う事にもなる。それこそ護身のために。
「急ぎましょ」
 彼女は、男のポケットからトランシーバを抜き取ると、スイッチを切って机の上に丁寧に置いた。そして、さっきと同じ様に、風の如き素早さで部屋を出た。

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 F四Lブロックの中央寄りに、上下を結ぶ階段があった。それを通して、直ぐ下のデッキでも、各部屋のチェックを行っているのか、時々、扉を開閉する音が聞こえてきた。
 階段を通して、こちらが見えないように注意して走り抜ける。
 一体、何人の男達が押し入ってきたのだろう。それに、さっきの自動小銃も気になる。全員が自動小銃で武装しているらしい。自称環境保護団体なのに。武器の準備が良すぎる。
 ユカリが目の前で立ち止まった。彼女の前には、水密ハッチが閉じていた。
「まずいわ。防水指揮所にいれば、水密ハッチの開閉は一目で分かるから、ここを開けられない」
「やつらは、誰かが動いたら直ぐに分かるようにしているのか?」
「そうね。あまり人数がいないのかもしれないわね」
 賛成はできなかった。
 Hデッキの二人の監視に、合流した二人。Fデッキで倒した一人と、気配があったもう一人。更に、Gデッキでも家捜しをしていた二人か三人。防水指揮所でハッチを監視している筈の一人。いや、もっと居るだろう。ハッチが開いた時に、その場に急行するための要因が二人は居る筈だ。合計すると、少なくとも九人。おそらく倍!
「どうする?」
「上に上がるしか、ないわね」
 上にも、奴等がうろついているだろう。ついさっきの事もあって、そんな中を通り抜けたくなかった。だが、ここはユカリに付いて行くしかないと、タッカも諦めた。
 階段まで戻り、上下の様子を探った。物音は、下のデッキからしか聞こえなかった。彼女は、するするっと上のデッキに上り、その先へ姿を消した。タッカも、それに続いた。
 E四のブロックは、E五と繋がる大きな食堂だった。左右も両舷側まで届いている。多目的に使えるようにパーティションで区分けできるようになっていたが、今はだだっ広い一つの部屋になっていた。
 こんな所で奴等に出くわしたら、逃げも隠れも出来ない。だから、彼女ももう姿を消している。タッカも、船尾を目指して広い食堂を駆け抜けた。
 食堂の先の整備場を通り抜けると、開放甲板に出た。目の前には、鉄腕の帰還を待つ船上減圧室が鎮座していた。
(こいつに鉄腕を連れ帰るために、俺はここに居るんだ)
 船上減圧室を見て、タッカはその思いを強くした。
 二人は、舷側に沿ってU字形に張り出しているDデッキの開放甲板の下を慎重に進んだ。そして、Dデッキ下のハッチから、再び船内に入った。
 ハッチの中は直ぐに下り階段になっていて、タンク室に繋がっていた。タンク室は、ヘリウム、水素、酸素の大きな高圧タンクが並び、複雑な配管が巡らされていた。驚かされたのは、タンク室内に充満する轟音と室内とは思えない強い風である。もし水素が漏れた時にも、タンク室内で爆発しないように大容量の換気装置が取り付けられているらしい。
 タンク室は、Fデッキの床を打ち抜いた二層分の高さがあり、Fデッキの高さには、申し訳程度の手摺が付いたキャットウォークが、タンクの隙間を縫うように繋がっていた。
 キャットウォークは、歩き辛かった。靴を脱いでいる足に、キャットウォークの網目が食い込んだ。網目には足の指も挟まりそうで、足元に注意しながら歩いた。靴を履く事も考えたが、盛大な足音が換気装置の轟音を貫いて響きそうで、やめた。
 彼女は、足が痛くないのかと、ふと目を上げると、彼女は、靴を手にしたまま涼しい顔で走り去って行った。慌てて走り出そうとした瞬間、下りてきたハッチが、再び開く音がした。神経が轟音の中に聞こえたその音に集中し、足元への気配りが不足した。
 あっと思った時には、遅かった。爪先が網目に食い込み、大きくバランスを崩した。もう倒れる事は避けられなかった。辛うじて手摺を掴んだ左手と床をついた右手で膝をつく前に体重を支え、最小限の音で転んだ。だが、首に掛けていた靴は、キャットウォークでワンバウンドしてGデッキまで落ちていった。背筋が凍り付いた。靴が床に落ちる音を聞かれたなら、万事休すだ。
 重力が弱くなったのではないかと思うほどゆっくりとGデッキの床に落ちて行く靴を、目で追った。靴紐でお互いに結ばれた靴は、縦に回転しながら落ちて行く。キャットウォークの網目から見える靴が、突然、その運動方向を変えた。床でバウンドしたのだ。今度は、横に回転しながら床を滑るように跳ね、やがて止まった。だが、音は最後まで聞こえなかった。
 換気装置の騒音が、靴が落ちた音を掻き消したのだ。
 靴を取りに行くべきか判断に迷ったが、靴を諦め、大急ぎで彼女の後を追った。靴を取りに行けば、後ろからやってくる奴に見つかる可能性が高いが、靴だけなら見付かる心配は少ない。それに、靴を見つけたところで、誰の物か分かる筈もない。
 無事にタンク室を抜けられた事で、タッカが下した判断に誤りが無かった事を確認した。
 タンク室の次は、大きな倉庫になっていた。ここも吹き抜けで、キャットウォークは壁面に張り付くように配置されていた。
 ユカリは、倉庫の反対側に見える最後のハッチに取り付いていた。タッカは、今し方、通り抜けたハッチをそっと閉め、彼女の所へ急いだ。倉庫には何も無く、タンク室側のハッチを開けば、反対側まで遮る物は何も無いのだ。タンク室に下りてきた奴が、倉庫までくれば隠れるところも無く、最悪は蜂の巣にされてしまう。
 彼女が開けた最後のハッチを走り抜けると、大慌てで閉めた。
「これで、防水指揮所でも、ここに誰かが来た事が分かったでしょう。急ぎましょ。誰かがここに来る前に脱出するのよ」
「心配するな。直ぐ後ろまで来てたさ」
 タッカは、タンク室に降りてきた奴が居る事を伝えた。
 彼女は、にっこり笑うと、太いロープが山積みされた部屋の先にあるハッチを開いて、外に出た。
「S-2Rは左舷側だったわね。何処にあるの」
 彼女は、左舷の舷側から身を乗り出しながら、タッカに言った。
 左舷の薄暗くなり始めた海上を、タッカもS-2Rを捜した。最後にS-2Rを離れた時、その距離は二百メートル以内だった。ただ、風に押されて、もう少し離れているだろう。そう思っていたタッカも、我が目を疑った。同時に、視力の良い彼女が、「何処にあるの」と言った意味を理解した。
 S-4Rは、少なくとも三千メートル以上も離れていた。
「シーアンカーを上げてたでしょう」
 彼女の指摘通りだった。支援船に近付く際に、シーアンカーは巻き上げてあった。そのまま拉致されたから、シーアンカー無しにS-2Rは漂流していた事になる。
 彼女は、付近の海域をさっと眺めた。
 目に見えたのは、右舷三百メートル付近に停泊する環境保護団体の監視船だけだった。乗り込んできた連中が、ここに来る前に乗っていた船だ。
「あっちへ行きましょ」
 彼女は、事も無げにそう言った。
 言い終わった時には、彼女は海に向かって身を躍らせていた。タンク室に入ってきた奴がここに現れそうで、タッカも後れを取るまいと海に入った。
 飛び込んだタッカは、いきなり何か強い流れに捕まった。最初は、支援船を回り込む風潮かと思い、深く潜って船から離れようとしたが、益々強い流れに捕まり、支援船に引き寄せられて行った。この時になって、初めてスクリューに引き寄せられている事に気付いた。
 支援船は、風や潮を受けても海底基地との位置関係を保つように、常にスクリューとスラスターを動かしている。船尾は、モーター内臓の二基のリングスクリューを三百六十度向きを変えながら、船の位置を制御している。そのリングスクリューが、大きな口を開いて待ち構えていた。
 真っ直ぐ逃げても、到底逃げ切れるものではない。真横、それも、風下の左舷に必死に泳いだ。だが、吸い寄せる力が強く、直ぐにリングのエッジに足が当たった。タッカは、体勢を変え、リングの外側のしがみつき、吸い込まれそうになる下半身を必死に支えた。
 リングスクリューは、本来なら左舷斜め前方を向いている筈だった。海に入る前の波の向きは、その方角だった。恐らく、一時的な潮の流れを感知して、ほとんど逆方向に回ってしまったのだろう。だから、ほんの少しの時間を頑張れば、吸い込もうとしているスクリューが次は押し出してくれる筈だった。
 だが、肺にはあまり空気が入っていなかった。飛び込んだら直ぐに浮上するつもりだったから、目いっぱいに空気を吸っていなかった。
 目の前が暗くなり始めた。酸欠の症状だった。飛び込んでから一分も経っていなかった。
(俺の実力なら二分は持ち堪えられる筈なのに、早くも酸欠になり、息苦しさよりも先にブラックアウトが始まるとは)
 情けない気持ちになりながら、タッカは必死に耐えた。だが、命の危機に体が大量の酸素を消費してしまっていた。
 スクリューが反転するが早いか、肺がダウンするのが早いか、最後の勝負だと思った。それでも、スクリューはタッカを吸い続けた。悔しいが、力が尽きかけ、靴を脱いだ爪先をスクリューの羽根が掠めるのを感じた。
 指先の力が抜け、体がずれ始め、強い力で流され始めた。タッカは、覚悟を決め、下半身の何処にスクリューが食い込むのか、最後の瞬間を待ったが、なぜか、体の何処にも衝撃を感じなかった。
 直ぐには、何が起こったのか、理解できなかった。なぜか体は浮き上がり、水面に押し上げられた。潮の流れが変わり、スクリューが反転したのだ。
 タッカは、水面に顔を出し、思い切り呼吸をした。同時に、大慌てで船尾から離れた。

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 監視船は、支援船の船尾から右舷後方三百メートル足らずに、左舷船尾を見せていた。
 ユカリは、右舷側に回り込むように泳いだ。タッカにも理由の見当がついたが、向かい風の中を泳ぐので、リングスクリューとの格闘で体力を奪われた体には辛かった。
 波高はそれほどでもなかったが、波が押し寄せる度にサーフィンのように流されるし、支援船から丸見えになってしまう。それで、波頭が近付く度に水中に潜ってやり過ごすのだが、繰り返す内に更に体力を消耗し、同時に彼女との距離が開いて行った。
 体力には自信があるが、彼女には適わない。
「女、子供は、足手纏いだ!」とは、映画やドラマでのヒーローの決まり文句だが、今のタッカは、彼女の足手纏いになっている。悔しさと歯痒さが、タッカの頭を支配した。
 彼女は、三分の二を潜って泳いだ。残りの三分の一の大部分は、タッカが追いつくまでの時間だった。彼女は、一度潜ると、平気で三、四分も水中を泳いだ。彼女の驚異的な心肺機能は、赤ん坊の頃から海に慣れ親しみ、専門的な訓練と遊びの中で培われた。子供の頃は、起きている時間の半分を海中で過ごしたという。昼寝は、水の中だったとも言っていた。
 だから、彼女に適わないのは当然としても、せめて彼女に気遣いさせない程度には泳ぎたかった。それでも、一時間も泳ぐと、監視船の舷門が視認できる所まで来た。
 ユカリは、監視船の右舷側に回り込んだ。監視船の乗組員の注意は支援船に集中している筈だし、支援船を乗っ取った連中も監視船を気にしている。だから、支援船からは裏側に当たる右舷は、注意が届いていない筈だ。
 彼女は、彼等に見付からないように潜水したまま、一気に舷門に近付いた。
 タッカは、時間を掛けて呼吸を整えた。そして、彼女と同じ様に潜ると、監視船の舷側に張り付いた。
 ここまで来ると、監視船からは、舷側から体を乗り出して覗き込まない限り見つかる心配は無かったが、風と波に逆らって船を立てているので、じっとしていると直ぐに流されてしまう。流されてスクリューに巻き込まれるのは、二度と御免だった。
 彼女は、舷側に手掛かりを見つけて、水面上一メートル程の所にある舷門に取り付くと、舷門を開けた。そして、中の安全を確認すると、まだ海面に漂うタッカに手を伸ばした。その手を掴み、海中から浮力の無い世界へとタッカは重い体を引き上げた。
 一時間ぶりに浮力の無い世界に戻った二人は、機関室を目指した。
 タッカは、彼女が無線室へ行かない事が納得できなかった。でも、体力を消耗してしまい、浮力の無い世界の感覚が戻ってこない重い体を抱えていては、彼女に付いて行くしかなかった。
 支援船の中ではあれほど苦労したのに、今度は、勝手知ったる他人の船とばかりに、何の障害も無く、あっさりと機関室に行き着いたのには、タッカ自身も呆れてしまった。
 途中の経路同様、機関室も無人だった。機関制御室は船橋の片隅にある筈で、機関室自体は完全に無人化運転が可能になっていた。
「なぜ、無線室に行かなかったんだ?」
 アイドリングとは言え、かなりの騒音の中でタッカは喚いた。
「無線室で何をするの」と、彼女も喚き返す。
「もちろん、救助要請を送信するんだよ」
「それで、殺されちゃう訳? 敵の懐深く潜入して救助信号は発信したら、無事に帰してもらえる訳はないわ。脱出は不可能よ。この船を制圧するしか手は無いけど、そうしようとすると、流血は避けられない。自分の手を血で汚すつもりなの?」
「じゃあ、救助要請は出さないのか。それこそ、この船を制圧するしかなくなるぞ」
「救難信号は、S-2Rから出せばいいじゃないの。そのために、ここに来たんだから」
 ディーゼルエンジン特有の臭気が漂う機関室で、彼女は鼻をひくつかせながら言った。
「いいわ。今からその説明をするから」
 彼女の考えでは、機関を全開で固定すると同時に舵を直進で固定して、監視船を暴走させるのだ。直後に、タッカが後部のボートハッチからゾディアックを略奪して脱出し、彼女の脱出を待つ。彼女は、舵の細工をした後、ボートデッキに上がり、救命ボートと救命筏を切り離して使用に不能にした上で、脱出する。
「いくら風下だって、二海里近くも離された所まで泳ぐとなると、二、三時間は掛かるでしょ。その間にー海里は流されるから、コンスタントに泳いでも早くて三時間、遅ければ六時間掛かるのよ」
「だけど、機関を全開にするのは、支援船での乗組員の立場を変えるためなんだろ?」
 ユカリは小さく肯くと、「いい方に変わるといんだけど」と言った。
 監視船の異状を、支援船の乗組員がどう利用するかによって、チャンスにも危機にも変わるだろう。彼女は、それを懸念しているのだ。
「兎に角、始めましょ」
 監視船も二軸船で、機関は二基ある。それぞれの機関は、機関室の壁にある制御盤で制御されている。実際には、この制御盤は、船橋脇の機関制御室から遠隔操作されている。
 彼女は、ディーゼルエンジンの列式燃料噴射ポンプのスロットルワイヤーに注目した。まず、ワイヤーが動かないように工具を噛ますと、リターンスプリングを逆向きに付け直した。これで、工具を外すと、リターンスプリングの力で機関は全開になる。
 ここまで準備したところで、彼女は一人で船尾に向かった。舵の油圧シリンダーから作動油を抜くためだ。航空機と違い、船舶の油圧系統は多重化していないが、この船は、船尾の特殊な形状から、二枚の舵を持っていて筈だ。二枚の舵は、それぞれが独立した油圧系統で作動する。彼女が二枚の舵の両方に細工を終えるまで、機関室で一人で待機しなければならない。
 機関室の入り口のハッチの一つは、意図的にロックを外してある。これは、敵に脱出経路を勘違いさせるためだ。そのロックされていないハッチから、敵が侵入してくるのではないかと、ひやひやしながら見詰めていた。
 視線をダイバーウォッチに移した。
 約束の時間まで、一分十七秒、十六秒、十五秒……。
 早々と、左舷の燃料噴射ポンプの脇に居た。とても、じっと待っている気持ちにはなれなかった。
 左舷から機関を全開にすれば、監視船はいくらか右舷方向に変進し、支援船の右舷方向、つまりS-2Rから真っ直ぐに遠ざかる筈である。
 彼女は、機関制御盤も、スロットルワイヤー自体も、細工しない事を主張した。彼女は、何処も破壊されていなければ、敵は機関制御盤の故障を考える筈で、リターンスプリングの細工に気付くまで時間が掛かると考えた。確かに、スロットルワイヤーを切断していれば、直接、燃料噴射ポンプを制御しようとするから、直ぐにリターンスプリングの細工に気付くだろう。機関制御盤が破壊されていれば、両舷の機関が同時に暴走する筈が無いので、やはり機関に直接細工した事に気付き、苦も無く細工が見つかるだろう。
 逆に、リターンスプリングだけの細工では、見つければ復旧も早い。むしろ、作動油を抜く舵の方が復旧に時間が掛かるだろう。
 また、時計を見た。
 ちょうど三十秒前だった。
 タッカは、ワイヤーを固定している工具を掴んだ。そして、時計の針を追いながら、秒読みを始めた。
 十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
 力一杯、工具を抜き取った。間の抜けた音と共にスプリングが縮み、機関が轟音をたてて加速し始めた。それは、Gとなって体でも感じられた。キャットウォークを走り、右舷の機関に飛び付いた。そして、同じ様に工具を抜き取ると、手摺を飛び越え下の床に飛び降りた。
 両舷の機関は全開になって、監視船は猛然と加速し始めていた。
 タッカは、つい数分前にユカリが通ったシャフトトンネルに潜り込んだ。機関からスクリューに伸びるシャフトのメンテナンス用のトンネルだった。
 トンネルは、高さが一メートル半程、幅も一メートルちょっと。トンネルの床には、ビルジが小さな水溜まりをあちこちに作っている。そこを、一抱えも有りそうなシャフトは、油を飛び散らしながら、恐ろしい勢いで回転していた。これに巻き込まれたら、ズタズタに引き千切られそうだ。
 顔をシャフトに摺り寄せるよう態勢で腰を折り、横向きの蟹走りで、薄暗いトンネル内を駆け抜ける。シャフトから油が飛び散り、顔が油だらけになるのも構わず、タッカは蟹走りを続ける。
 ほんの十数メートルで、トンネルは行き止まりになった。その手前に、ハッチが有った。だが、ハッチはシャフトの向こう側に有った。
 そこで逡巡していると、入ってきたハッチがガチャガチャ音を立て始めた。脱出ルートがこのトンネルである事がばれると、その後の脱出時間が短くなってしまう。
 シャフトは、船尾に向かって反時計周りに回転している。その右側に居るタッカは、抱き付くようにシャフトに乗った。ところが、想像以上の回転力で振り飛ばされ、反対側の壁面に体を打ち付けた。シャフトと床の間に挟まれたのでは、堪ったものじゃあない。ビルジに足を取られながらも、急いで起き上がり、ハッチを出た。
 ハッチの外は、ロープやワイヤー等が収納された船倉だった。さっと辺りを見回し、見付けた梯子を駆け上った。
 最後のハッチを抜けると、右舷の後部デッキに出た。船尾を見ると、御誂え向きに船外機が付いたゾディアックが二艘あった。その一艘を奪い、もう一艘を海に捨てれば、脱出に成功する。
 タッカは、ゾディアックに駆け寄った……が、そこで息を呑んだ。
 ここまで誰にも出会わなかったので、油断していた。後部デッキの左舷には、遠ざかる支援船を気にする船員が五、六人いた。
 幸いな事に、全員が支援船の方を見ている上、機関銃等を持っている気配はなかった。ゾディアックに掛けられたネットを外し、一艘を逆様に海に投げ込んだ。これで、船外機は水に浸かり、簡単にはエンジンが掛からなくなった筈だ。最悪、敵の手に落ちても、脱出の時間は充分に稼げる。
 次の脱出用のゾディアックのネットを外し始めた時、「そこで何をしている!」と、大きな声が聞こえた。このゾディアックを奪わない限り、脱出の見込みはない。船員が武器を持っていなかった事を思い出し、手を止める事無くネットを取り払った。
 この行動は、賭けだった。
 ユカリは、武器を持たない者にはいきなり発砲する事はほとんどないと、言っていた。それに賭けたのだ。彼等は、持っていてもピストルで、ネットを外す人間を見ただけで発砲する筈はなかった。
 軽く肩を掴まれた。
 タッカは立ち上がり、相手を見下ろした。一七〇センチくらいのスラブ系の白人だった。大した警戒心も持っていなかったが、東洋系のタッカの顔を見て、見る間に緊張を顔に現した。
 男を無視して作業に戻り、ゾディアックをできるだけ静かに投げ入れた。全開で突っ走る船から、ゾディアックはあっと言う間に遠ざかった。
「何をするんだ!」
 男は、ヒステリックな大声を上げた。全開の機関の騒音の中でも、この声が聞こえたのか、他の船員も舷側に張り付いたまま、こちらに振り返った。
 タッカは、立ち上がって握りこぶしに力を込めると、十五センチも背が低い相手を上から思い切り殴り降ろした。男は、呆気なく崩れ落ちた。それを見ていた他の船員は、何が起こったのか理解できずに呆然としていたが、少し遅れて状況を飲み込み始めた。
 騒ぎ始めた船員達の怒声を背中に聞きながら、海に飛び込んだ。

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 息が続く限り潜り続け、ゾディアックの方向に泳いだ。
 水面から出て振り返ると、左舷のボートが宙吊りになっているのが見えた。ユカリが細工したのだ。右舷もボートを宙吊りにしたら、彼女も脱出する。それまでに、ゾディアックに辿り着かなければならない。
 船尾で、チカチカと小さな光が見えた。光は、時に長い線となる事もあった。発砲しているようだ。発射音は、機関の音と船首が海を切り裂く音で掻き消され、タッカの耳に届く事はなかった。
 ゾディアックを先に流しておいて、正解だった。かなりの距離があるので、弾丸が届いても、ゾディアックのゴムに穴を開ける事はないだろう。タッカを狙うにしても、波間に浮き沈みしている頭だけを見付けるだけでも、至難の技だろう。
 タッカは、もう一度潜り、息が続く限り船とは反対方向に泳ぎ続けた。これで、奴等は完全に見失っただろう。浮上すると、ゾディアックを見付け、航跡のお陰で波が消えた海を全力で泳いだ。
 水を含んで重くなった上着は、海の中で脱ぎ捨て、ゾディアックを転覆させないように、重い体をゾディアックの中に引き上げた。ゾディアックの船外機は、一発で始動した。直ぐ様、奴等の船の追跡に入った。ユカリを拾うためだ。
 奴等の船は、未だに右舷のボートがそのままだった。ユカリが、失敗するとは思えない。
 十分な距離を開けて、右舷の様子を見詰めた。
 予定通り、右舷のボートがダペットを滑り落ち始めた。同時に、見事な空中姿勢で海にダイブする彼女の姿が見えた。舷側からは、弾丸が放つ光の線が延び、彼女の後を追ったが、弾丸は水面下一メートルも届きやしない。軽く四分以上も潜水できる彼女なら、船が遠ざかるまで、浮上してくる事はない。
 約一海里の距離を取っていたタッカは、三分後に彼女が飛び込んだ所に着いた。彼女をスクリューに巻き込まないために、船外機を止めた。
 奴等の船の航跡が、燐光で仄かに光っている。その明かりを頼りに、彼女を探した。
「おーい! どこだぁ!」
 だが、返事はなかった。
 今度は、オールを取り出して海面を叩いた。最悪は、鮫を引き寄せてしまう誉められない方法だったが、水中に居る彼女には、こちらの場所を知る手掛かりになる筈だ。十秒待って、もう一度、水面を叩いた。そして叫んだ。
「おーい! どこだぁ!」
 耳を澄ませた。
「ハァーイ。ここよ」
 真後ろ、それも耳元で声がしたので、驚きと恐怖で、大きくバランスを崩した。慌てて、手近なロープを掴んで体を支えた。
「いきなり後ろから声を掛けるなよ。海に落ちそうになったぞ」
「呼んだから、返事をしてあげたのに」と、膨れっ面を見せながらも、タッカから船外機の舵を奪った。
「さぁ、艇に戻るわよ」
 ゾディアックは、くるりと方向を変え、暗闇に沈んだS-2Rを目指して走り始めた。
 一般に、女性は方向感覚が鈍いと言うが、彼女だけは例外らしい。彼女が舵を握るゾディアックは、ほとんど一直線にS-2Rに着いた。
 彼女は、今度も軽々とS-2Rに乗り移った。
 この先も使う事があるだろうと思い、タッカはゾディアックを機内に収容しようとしたが、遠くに奴等の船の光を見つけた事で、状況が変わった。もう、舵を修理したらしい。ゾディアックの収容を諦め、コクピットの自分の席に飛び込んだ。
「奴等、もう舵を直したみたいだ」
 大慌てのタッカと違い、彼女はけろっとしていた。
「それ、言い忘れてたけど、舵を壊せなかったの」
「えっ!」
「だって、油圧のバルブがガチガチに固定してあったんだもの」
 確かに、仕方が無い事なのだろう。いくら天才と言っても、体重が50kgにも満たない細身の女性なのだから、腕力で男並みの仕事をしろと言うのは酷な話だ。
「さあ、離陸のチェックリストを読み上げるわよ」
 こんな状況下でも、彼女はタッカに操縦させようとした。最初は断ろうかと思ったが、彼女の向こうに見えた監視船の光が、タッカに決断させた。彼女の読み上げるチェックリストに従い、手早く離水準備を始めた。
 左舷の遠くに、彼等の船が見えていた。真っ直ぐに、こちらに向かってきている。残された時間は、僅かしかない。
「チェックリストを中断し、水上航走で逃げよう」
 タッカは、そう提案した。
 S2シリーズは、水上航走での燃費改善のために、APUの電源で船外機を駆動し、最大で十ノット程度の航行が出来る設計になっていた。
「だめよ。そんな事をしたら、チェックリストをやり直さなきゃ駄目になるわ。水上航走の速力だと、逃げ切れないでしょ」
 確かに、水上航走ユニットは、チェックリストの最初の方で収納の確認をする事になっている。反論しようかと思ったが、一基でも二基でもエンジンを起動した方が、逃げ切れる可能性が拡大する。
 彼女に肯くと、いつもより早口で読み上げられるチェックリストに従った。
 漸く、第一エンジンの起動に漕ぎ着けたタッカは、第一エンジンの咆哮を聞いてホッとした。
 その時、ぱっと目の前のガラスが白くなった。
「銃撃よ!」
 彼女の言葉を聞くまでもなかった。
 フロントウィンドスクリーンは、バードストライクに対応するため、下手な防弾ガラス並みの強度がある。一発や二発の弾丸では、最外層に傷が付く程度だ。だが、機体自体は、薄いアルミニウム合金だ。弾丸は簡単に貫通する。脇腹を鉄パイプでグリグリ押される錯覚を起こした。
 第二エンジンは、既に起動手順に入っていた。タッカは、第一エンジンの出力を上げ、機体を旋回させ始めた。奴等の船に、S-2Rの大きな土手腹を、見せておきたくなかったためだ。
 第二エンジンも起動を完了すると、出力を上げていった。第三エンジンの起動が完了する頃には、奴等の船は完全に背後になった。
「第四エンジンは停止のまま離水する」
 そう宣言し、エンジン異常時の手順に切り替えた。
「フラップを第四エンジン停止時のモードに切り替え、BLCオンで五〇にセット」
 第四エンジンが停止している場合、反対側の第一エンジン後ろのフラップはBLCを止める。左右の揚力のバランスを保つためだ。
「了解。フラップモード、4オフに切り替え。BLCオン。フラップ五〇」
 三基のエンジンを離昇出力へ上げた。
「BLCオンを確認。フラップ五〇。大気速度四十ノット」
 フラップ五十度で、今回くらいの燃料搭載量なら、六十ノットくらいでVlに達する。でも、奴等の船より速い速度なら、無理に離水する必要はない。
「五十五ノット、六十ノット、Vl」
 彼女が「六十五ノット」と言ったところで、操縦輪を軽く引いた。S-2Rは、軽飛行機のように、軽い身のこなしで海面を離れた。同時に、少し右に依れたが、トリムで修正した。
 水面すれすれを維持し、地表効果で揚力を稼いで、その分を速度に回す。元々、推力に余裕があるS-2Rは、一気に増速していく。
 彼等の船は、視界から消えた。彼等が、仮に対空火器を持っていても、もう攻撃してくる事はないだろう。
「フラップ四〇。BLC、オフ」
 これ以上、BLCをオンにしていると、推力が揚力に食われてしまう。BLCをオフにし、操縦輪を引いて速度を稼ぎつつ上昇に移った。
 彼女が読み上げる速度と高度が、順調に上がっていく。フラップを完全に収納するまで三基のエンジンで頑張り、第四エンジンも再起動チェックリストで起動した。
「燃料は充分。着弾による被害も無い。ただ、ウィンド・スクリーンにヒビが入っているので、与圧は上げないようにしよう」
 ウィンド・スクリーンのヒビは、思ったほど酷くない。流れ弾が掠っただけらしい。最外層の表面に小さな傷が付いただけだ。でも、上空で吹き飛ぶような事があれば、命はない。用心する事にした。
 七千フィートで機体を水平に戻し、機首をサンディエゴに向けた。
「大した物ね。御見事。でも、ここから先は私がやるわ」
 彼女は、タッカから操縦輪を奪った。でも、タッカには有り難かった。これ以上は、緊張を維持できそうになかったからだ。
 タッカは、座席を目一杯後ろに下げた。そして、大きく深呼吸し、ダーウィンの会議室を抜け出す時から続いていた緊張を、ゆっくりと解いていった。

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  海底基地シャングリラ

 鉄腕は、漏水の様子を見た。
 遠くで、壁面をハンマーで叩くモールス信号が聞こえてくる。
 懐中電灯の光に照らされた海底基地シャングリラの内壁からは、零度に近い冷たい海水が吹き出していた。床は、踝の上まで海水が溜まっていて、防水ブーツを通してジンジン痛むような冷たさが伝わってくる。
 漏水の勢いが、最初に見た時よりも激しくなっているようだ。だが、深刻なのは、電源と二酸化炭素の方かもしれない。
 理想郷シャングリラは、冷水地獄に変わりつつあった。
 間も無く、漏水の勢いが弱まってきた。
 暫くすると、下部ハッチからダイバーが上がってきた。
「溶接の継ぎ目に亀裂があったが、漏水シートを塗付してきた。これで、漏水も落ち着くだろう。そっちはどうだ?」
 ダイバーは、鉄腕の首尾を聞いた。
「水酸化リチウムはなんとか準備できたが、量は不足している」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素の吸収剤として使う。通常は、ポンプで海水中を通して解かし、処理しきれない分をアンビリカルケーブルで支援船に送っていた。アンビリカルケーブルも電源も切れた今、緊急時用の水酸化リチウムで二酸化炭素濃度の上昇を抑える必要があった。
「どちらかを閉鎖するしかないな」
「ああ。それ以上に気になるのが、上の様子だ。あれから何も言ってこない」
 モールスを打ち始めた時に、一度だけ返信があったのに、それ以降の音信が途絶えている。
「モールスが分かる奴が居ないんだろう」
 誰かがそう言ったが、そんな筈はない。上からの返信は、モールスだった。公式には廃止されたモールスだが、まだまだモールスを打てる人間はかなり残っている筈だ。
「取り敢えず、B棟に戻ろうや」
 フィンとマスクだけ取った二人のダイバーと共に、奥にある連絡通路に向かった。

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 シャングリラは、ほとんどの設備が、二重化、三重化されている。緊急脱出も、第一に水中エレベータ、第二に緊急脱出球、第三に基地本体の浮上と、三重の脱出方法が用意されていた。ところが、今回は、その総てが被害を受けた。
 鉄腕は、事故直後の海底基地に戻ってきた際に、外から惨状を知った。
 事故で切れたアンビリカルケーブルは、本来ならケーブルステーションの上に落ち、基地本体の上には落ちてこない設計になっていた。しかし、ケーブルステーションは、非常に強い力で引き摺られて基地本体に衝突していたので、当然のようにアンビリカルケーブルは、基地の上に落ちてきた。鉄腕のライトに照らし出されたそれは、大蛇が基地に巻き付き、ぎりぎりと締め上げているようにも見えた。
 緊急脱出の第一の方法、水中エレベータは、ダーウィンが大きな被害を受けて降ろせなくなっているらしく、未だに水中エレベータが下ろされた気配はない。水中エレベータは、その位置が分かるように、特定の音を出す。下ろされれば、必ず気が付く。その音を、誰も聞いていなかった。
 ケーブルステーションが引き摺られるほどの力だ。ダーウィンも、ただでは済む筈がない。水中エレベータが下ろせなくなっていても、不思議はない。
 第二の方法である緊急脱出球は、アンビリカルケーブルが絡まり、海底基地から切り離せない状況になっていた。これは、シャングリラに戻る時に確認しておいた事だ。まだ、脱出を試していないが、緊急脱出球はタンク容量が小さいので、この中に閉じ込められたら死期を縮めてしまう。確実に使える状況になるまで、使う訳にはいかない。
 第三の方法、本体の緊急浮上は、最も難しい状況にあった。
 まず、アンビリカルケーブルが圧し掛かっている事だ。シャングリラの余剰浮力は、それほど大きくない。アンビリカルケーブルを乗せたまま浮上する事は、到底できない相談だ。
 おまけに、落ちてきたアンビリカルケーブルが鞭のようにしなってシャングリラの外壁に叩き付けられたせいで、A棟側の溶接個所にひび割れを生じて漏水が始まっている。もし、このままシャングリラを浮上させると、現在は釣り合っている内外圧力差が内圧超過の状態になり、亀裂の場所から破裂する可能性が高い。
 残された方法は、現在は大西洋側に停泊している。もう一隻の支援船が回航されてきて水中エレベータを降ろしてくれるのを待つ事だけである。だが、パナマ運河を通過したとしても、ここに到着するのは早くても四日後になる。それも、出航準備ができていると仮定しての話だ。記憶違いでなければ、来春に別の場所で行われる水素潜水実験の準備中で、直ぐに出港できるかどうかは怪しいものだ。
 だからこそ、この基地の中で一日でも長く生き延び、救出される確率を高めなければならない。
 鉄腕は、作業艇ハッチ、潜水ハッチ、資材置き場、シャワー室、資料室、研究室と、A棟の各部屋を通り抜けた。
 資料室の漏水は、ほとんど止まりかけていた。
 壁面は、零度近い海水に冷やされて結露していた。だから、僅かな漏水は見抜く事が難しいが、他の部屋に漏水箇所は見当たらなかった。ただ、照明だけでなく暖房も止まり、息が白く凍る程、室温が下がっていた。
 A棟は、閉鎖するしかなさそうだ。
 研究室の脇の直径が五十センチしかないハッチを通り抜け、B棟へ繋がるトンネルに入った。
 トンネルの内径は、二メートル、長さは、四メートル。そのトンネルとA棟との接合部も、亀裂が入っているらしく、海水が滲んでいた。ケーブルステーションは、このトンネルの下側、A棟とB棟の基底部にぶつかっている。構造的には、最も厳しい状況に追い込まれている部分だ。今は、海水が滲んでいるだけだが、鉄腕は、A棟の亀裂より危険な気がした。
 A棟とのハッチを閉めた。厚さ五センチのハッチは、ハッチホールとの間で不気味な擦過音を響かせた。ハッチやハッチホールに傷がつけば、それが僅かな傷であっても、大きな水圧が掛かれば漏水を始めるかもしれない。
 一度、開けて傷が無い事を確認し、ハッチとハッチホールの接触面を奇麗に拭いた。そして、ゆっくりとハッチを閉めたが、また擦過音が聞こえてきた。ハッチホールが変形している事は疑う余地が無い。このまま閉めるしかなかった。
 鉄腕は、B棟とのハッチを通り抜けると、これもしっかりと閉めた。幸いな事に、こちらのハッチには被害が無いようだった。ハッチは、ハッチホールに吸い込まれるように納まった。
 B棟も、照明は落とされ暖房も止まっていた。吐いた息が白く煙り、ヘッドライトに照らされて目の前に浮かんだ。A棟でも聞こえていたモールスを打つ音が、B棟では耳に喧しかった。
 B棟は、生活臭が立ち込めている。厨房があり、トイレがあり、六人の男達の体臭が篭っていた。電源を守るために換気が止まっているので、悪臭と言ってもいいくらいに酷かったが、仲間が居る事を感じさせてくれる臭いが、鉄腕に安心感を与えてくれる。
 鉄腕は、奥に向かって歩き始めた。奥には、厨房、食堂兼会議室、各個人の居室と続いている。居室の二つには、二人の重傷者が寝ている。更に奥にある小さなホールの天井には、緊急脱出球に繋がるハッチがある。
 食堂兼会議室で、一人の男を鉄腕のライトが浮かび上がらせた。彼は、眩しいそうに目を細めた。
 鉄腕は、ライトを消した。途端に、男の顔が漆黒の闇に沈んだ。間も無く、外に出ていたダイバーも食堂に戻ってきた。

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「どうだ。アームストロング」
 ここでは、鉄腕は、アームストロング、または単にアムスと呼ばれていた。でも、アームストロングと呼ばれる時は、必ずロクな話にはならない。
 さっきまでモールスを打っていたリーマンは、上からの返信を待つため、今はじっと耳を欹てている。
「A棟は、閉鎖するしかないですね。連絡トンネルも、厳しいですね。あそこも、閉鎖するしかないです」
「B棟に留まるのは賛成だが、連絡トンネルから閉鎖してしまっては、使えない緊急脱出球しか脱出ルートが無くなってしまうぞ」
 オコーナーの言った事は、当然、出てくる意見だった。
 B棟には、緊急脱出球に繋がるハッチしかない。緊急脱出球には、B棟と接続する下部ハッチの他、上部にもハッチがある。緊急時には、緊急脱出球をエアロック替わりに使用できる。外に出る際には、緊急脱出球の下部ハッチを閉めると、緊急脱出球内に注水し、満水になった所で上部ハッチを開いて外に出る。中に入る際には、緊急脱出球に注水して中に入り、上部ハッチを閉じた後でポンプで排水し、下部ハッチからB棟に入る。
 しかし、電力を温存したい今、ポンプで大きな電力を消費したくない。
 一度出たら、事実上、戻ってくる事が難しい緊急脱出球のルートだけになってしまう事が、根っからダイバーであるオコーナーを不安にさせてしまうのだ。
 再び、リーマンがモールスを打ち始めた。B棟の壁面をハンマーで叩く。目を凝らしていると、壁面とハンマーの間に火花が飛んでいる。
「さて、最大の問題だが、我々は上からの救出を待つべきか、自力脱出を試みるべきか、意見を聞かせてくれないか」
 負傷し、自室のベッドに寝ているリーダーのナンスに替わって、サブリーダーのオハラが切り出した。
 リーマンのモールスが、彼の声を掻き消す。
「もちろん、通常の脱出方法が総て不可能だという事を踏まえての意見をだ」
 言葉を発した本人も含めた四人は、口を噤んでしまった。鉄腕も、気持ちの中で頭を抱えてしまった。
「おい、ドクター・リーマン。モールスは、この話合いが終わってからにしてくれないか」
 リーマンは、きりの良いところでモールスを止めた。そして、ハンマーを床に叩き付けた。ハンマーは、大きな音を立てた後、一度バウンドしたらしく、鉄腕の脹脛にぶつかると、二度目の音を立てて床に落ちた。
 リーマンらしからぬ行動だった。
 鉄腕は、気持ちを切り替えて意見を出してみた。
「取り敢えず、外部から救出に備えて、できる限りの延命策を講じるしかないと思います」
 消極的な意見だと思ったが、自分が口火を切らなければ永遠に沈黙が続きそうだった。
「よし、それを検討してみよう。酸素と二酸化炭素、電力、水、食料、排泄、最後が構造だ。どうだ、酸素と二酸化炭素は」
 酸素と二酸化炭素は、鉄腕の担当だった。
「酸素は、タンクへのケーブルステーションの直撃や配管の損傷から、予備量のほぼ総てが、漏れるか、使用不能になっています。A棟とB棟内の空気だけだと、単純計算で十二日くらいは耐えられると思います。水酸化リチウムタンクも損傷受けていますが、失われた量は僅かです。問題は、電力が足りないため、二酸化炭素を水酸化リチウムに導けない事です」
 酸素の消費は、一分間に睡眠状態で二百ミリリットル弱、軽い運動では三千ミリリットル以上と大きな幅がある。覚醒の安静状態では三百五十ミリリットル程度なので、六人で二千百ミリリットル毎分となる。
 シャングリラの六人は、潜水前の測定では、毎分の消費量は約二千五百ミリリットルであった事が分かっている。この実測値を基準にすると、一時間で百五十リットル、一日で三千六百リットル、三十日で十万八千リットルとなる。
 A棟とB棟の内容量は、約五万三千リットルだ。百気圧に加圧されているが、酸素分圧は0.3気圧なので、常圧では約一万六千リットルだ。中の空気は、四日余りで吸い尽くしてしまう事になる。
 二酸化炭素濃度の許容限度は、ほぼ酸素分圧と二酸化炭素分圧の差で決まる。酸素分圧と二酸化炭素分圧の差の許容値は、二百ヘクトパスカル程度だ。これが、百五十ヘクトパスカルまで下がると、深刻な呼吸困難に陥り、百四十ヘクトパスカルになると、数分の内に死亡してしまう。重傷者がいるので、百八十か、精々百七十ヘクトパスカルが、実際の限度だろう。
 酸素は、一度呼吸すると約五十ヘクトパスカル減り、ほぼ同量の二酸化炭素を産み出す。水酸化リチウムなどの二酸化炭素吸収剤の能力から、シャングリラの定常の二酸化炭素分圧は五十から七十ヘクトパスカルで推移している。シャングリラの酸素分圧は三百ヘクトパスカルなので、一度呼吸すると、酸素分圧と二酸化炭素分圧の差は百五十から二百ヘクトパスカルくらいまで下がる。即ち、一度呼吸すると、二度と同じ空気は呼吸できない。
「A棟は、閉鎖する事も念頭に置く必要があるが、B棟だけだと、どれくらい耐えられるんだ?」
「四十時間くらいです。でも、暖房が止まっているので、体温を維持するのに酸素消費量が増えるので、この数時間の変化を計測して予測しないと危険です。特に、二酸化炭素の濃度には、注意を払う必要があります」
「二酸化炭素濃度から見た場合の、生存可能時間はどれくらいなる?」
「緊急時用バックアップ電源での運転は、十二時間。A棟を閉鎖した状態では、三十時間後には、作動させる必要があります。B棟だけですから、二酸化炭素の除去の効果は大きいと思います」
「つまり、事故後三十時間で十二時間のバックアップ運転をして、更に三十時間耐える事ができるって寸法だな。合計七十二時間」
「いいえ、理想的には、事故後三十時間に四時間のバックアップ運転をし、二十時間後に四時間、更に二十時間後に四時間で、最後の二十時間を耐えれば、百二時間です。ただ、負傷者が、致死量ギリギリの二酸化炭素濃度に耐えられるかです」
 みんなの顔が曇った。
「酸素マスクが使えればなぁ」
 誰かが、ぼそっと言った。
 水素潜水では、水素濃度を爆発限界外に維持しなければならない。酸素マスクを使えば、その周辺だけ水素濃度が下がって爆発限界内に入ってしまう。こうなってしまうと、静電気などの小さな火種でも爆発してしまう。大爆発にはなり難いが、マスクを付けている人間は顔に火傷を負う事になるだろう。
「負傷者が耐えられそうな濃度で計算すると、二十五時間後に四時間、十五時間後に四時間、更に十五時間後に四時間と、最後の十五時間で、合計八十二時間です」
「三日間か。無理かもしれんな」
 鉄腕は、肯くしかなかった。既に十時間が経過しているので、残る時間は七十二時間しかない。負傷者を見捨ててギリギリまで引き伸ばしても、四日に満たない。アクアシティに係留されているクストーが回航されてくるまで、耐えられない可能性が高い。
「空気の問題は、これくらいにしよう。電力は私の担当だが、主電源については話す事は何もない。完全に破壊されていて、修理も考えられない。バックアップ電源は完全に無事だが、耐用時間が四十八時間しかないので、知っての通り、完全に電源を落としてある。今、使っているのは、治療機具の電源だけだ。電源の分配はこれから話合わなきゃならないが、今のペースなら三百時間以上耐えられる。電源が無くなる前に二酸化炭素濃度が致死量になってしまうから、耐用時間は気にすまい。さぁ、今度は水と食料だ」
 食品担当を担当するスポレットが答えた。
「食料は、言うまでもなく最も楽観できますが、電力を使えない場合、調理できませんから非常食を使う事になりますが、こちらは五十食ですから、四、五日でしょうか」
「負傷者は、非常食では無理なので、回復に合わせて調理したものを食べさせる必要があります。電力も必要です」
 唯一の医師、リーマンは、人命第一を強く訴えた。
「分かっている。電力の配分を考える時に相談しよう。で、水はどうだね」
 水と衛生管理も担当するリーマンが答えた。
「水は、全く問題ありません。タンクに損傷が無いので、三十日は耐えられます。もし、電力が使えるなら精製できるので、更に耐えられます。問題は、排泄物の処理です。タンク容量は通常で三日分しかないので、電力が使えない場合、溢れ出る事になります。衛生上も問題がありますが、臭気で健康、特に精神的に苛付く事にもなり兼ねません。二酸化炭素濃度が上がりますと、頭痛や吐き気等の症状も出ますので、相当に辛い状況になるでしょう」
 ここの空気は、海上から送られてくる事もあって清涼な雰囲気があり、閉鎖空間の息苦しさを和らげてくれる。それが、便所臭さの中で耐えるとなると、気が滅入った。換気装置が止まり、その傾向が現れ始めている。
「最後は、この基地が、今の状況でどの程度耐えられるかだが、構造の責任者であるリーダーが負傷しているので、全員で意見を出してもらいたい。まず、私からだが、A棟の漏水は一段落したから、ここに留まる限り心配は無いと思っている」
「そうですね。エア漏れもほぼ収まりましたし、緊急浮上しない限り大丈夫でしょう」
 オハラとオコーナーのスコットランド・コンビが楽観的な見方を示した。
「そうでしょうか」
 鉄腕は、思い余って切り出した。
「A棟は、現状維持ができるかもしれませんが、連絡トンネルは深刻です」
「おいおい、連絡トンネルは、運良く損傷を免れてただろう」
「いいえ、A棟との接合部で漏水が始まりました。事故直後は漏水はありませんでしたが、基礎部分が大きく変形しているので、そのストレスが接合部に掛かり続けているのです。その証拠に、A棟との間のハッチの閉まりが悪くなっています」
 暗闇を通して、仲間の顔を見た。外部からの情報の八十%を受け持つと言われる視覚を奪われ、他の感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。音や空気の僅かな流れで、みんなの動きが感じ取れた。曇った表情さえ、見えるようだった。
「もし、連絡トンネルの亀裂が破断すると、A棟とのハッチにも問題があるので、大量のエアを失う事にもなり兼ねません。A棟を完全に閉鎖し、これ以上の損害を防ぐべきです」
「だが、A棟を完全に閉鎖すると、脱出ルートは緊急脱出球だけになるぞ」
 みんな、超一流のダイバーだ。ハッチから出られなくなる事を、極度に恐れる。鉄腕も、同じダイバーとして、その気持ちは分かった。
「おい、負傷者はどうするつもりだ。彼等にドライスーツを着せ、冷たい海に連れ出すのか。医者として言わせてもらう。ナンスは到底無理ですよ。彼も連れて帰るには、緊急脱出球か、本体の緊急浮上しか、方法は無い」
 語気の荒さから、リーマンが憮然としているのが、闇の中でも手に取るように分かった。
「ちょっと、話が逸れてしまってるぞ。今は、A棟の閉鎖を検討すべきだ。アムスの意見を取り入れ、無駄な消費も抑える意味でもA棟を閉鎖しよう。閉鎖したからと言って、直ぐに失われる訳ではない。どうしても必要となった時には、閉鎖を解けばいい」
 鉄腕も、妥協した。ただ、閉鎖を解いた際に何が起こるか、心配でもあった。
「さあ、今度こそ、最後の問題だ。いつまで待てば良いかだ」
 暗闇の中で、更にみんなの顔が曇った。
 オコーナーが、重苦しい沈黙を破った。
「事故で支援船ダーウィンもやられたのなら、もう一隻の支援船クストーしか、我々を救出できません。でも、クストーはアクアシティに係留されていて、直ぐに出港できるとは思えません。仮に出港できたとして、パナマ経由でここまで来るのに最短でも四日かかります」
「事故後、十時間経ったが、残り八十六時間は耐えるしかないのか」
「いいえ、出航準備するのに最短でも三日かかるでしょうから、百六十時間くらいは覚悟した方がいいですね」
 ぞっとした。
 空気は、九十二時間しかもたない。これは、負傷者を無視したぎりぎりの数値だ。非常食は、二日分が不足する。最悪、水中エレベータを使用するとなると、冷たい海に出るのだから、充分な食事を摂っていないと命取りにもなり兼ねない。現に、ここでの一日の必要摂取カロリーは、三千五百キロカロリーとなっている。非常食では、このカロリーは難しい。
「電力の配分を相当慎重に行わないと、到底生き残れそうにないな。電力の配分は、各自で二時間ほど考えてくれないか。取り敢えず、事故から百八十時間、今からだと百七十時間を生き延びるために、ぎりぎり節約した電力量をそれぞれの担当で検討してくれ。今ここで話し合っても、堂々巡りになるだろうからな。それから、ディックは負傷者の延命も、検討してくれ。二百時間は生きていられ方法だ」
 みんな、納得したらしく、暗闇の中、肯くのを感じた。
「それから、仮に緊急脱出球で脱出できるとして、いつ脱出すべきかも考えておこう」
 緊急脱出球は、浮上に三十分しか掛からない。海上での回収に手間取っても、二、三時間の内に船上減圧室に移れる。だから、内蔵のタンクでは、八時間分の酸素と二酸化炭素除去剤しか持っていない。
 逆に言えば、こちらが勝手に浮上しても、支援船が探してくれなければ、海上で窒息死をする事になる。
「上との連絡が取れない以上、脱出のタイミングも重要な要素だ」
 暗闇の中で、それぞれに頷いた。

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 閉会になった後、みんなで負傷者の様子を見に行った。
 三番目の部屋に、通信と構造担当のアロイが寝ていた。意識はあるのだが、ちょうど鼾をたてて寝ていた。事故の時、研究室に居て、衝撃で胸部を強打したのだった。レントゲンが無いが、肋骨にひびが入っているらしいとの診断だった。今のところ、命には別状ないが、体を動かすと激痛があるらしい。
 続いて、一番奥のリーダーの部屋に入った。ナンスは、集中治療器による監視下に置かれていた。頭に巻かれた包帯に血が滲んでいる。一応、傷は縫合してあるが、衝突のショックで転倒して頭部を強打し、意識は失ったままだ。アロイが、激痛に耐えて止血の応急処置をしたので致命傷にはならなかったが、なるべく早く本格的な治療を受けるべきだと、リーマンは言っている。
 四人はそっと部屋を出ると、それぞれの個室に引き上げた。
 鉄腕は、ベッドに横になって考えながら、頭を使っても酸素摂取量が増える事が気になった。
 一時間後、集まった者は、皆、焦燥しきった顔でだった。電力配分を決めるために集まったのではなかった。配分する電力は、残っていなかった。
 四十分くらい前、ナンスの集中治療器が警報を鳴らした。
 真っ先に飛び込んだ鉄腕は、集中治療器の表示が直ぐには信じられなかった。部屋の照明を点けてみたが、点灯しなかった。表示の通り、電源が切れた事が証明された。
 集中治療器は、内部のバッテリーでバックアップ運転していたが、内臓バッテリーは、本電源が復電するまでの時間稼ぎをする以上の能力はない。遅れて飛び込んできたオハラは、直ぐに復電の作業を始めたが、間も無く、酷く疲れた表情で戻ってきた。連絡トンネル内での漏水による漏電で、主電源のほぼ総てが失われていたと言うのだ。
 集中治療器のバッテリーは、間も無く切れる。それまでに何とか電源を確保したいが、その電源が無い。集中治療器が止まったからと言って、直ちにナンスの命が失われる訳ではないが、格段に危険が増す事には違いがない。考えた末、空調システムのバックアップ電源を取り出し、集中治療器に接続した。
 一段落した後で、どの程度バックアップ電源が持つか確認したところ、集中治療器だけなら六十時間程度だった。その代わり、二酸化炭素の除去は一切行えない。
 B棟内の空気を吸い尽くしたら、全員が死ぬ事になる。しかも、この一時間での消費量は安静状態の十倍近い量となった。負傷者の酸素消費量も多く、鉄腕が計算した予測値は深刻な値となった。
「残りは、二十時間足らずか」
 オコーナーの声は、苦悩で掠れた。
「十五時間後に、一度だけ二酸化炭素の除去をやりましょう。そうすれば、今から四十時間持ちます」
 鉄腕の意見に、リーマンは首を振った。
「酸素分圧が下がると、人間の体は、呼吸数を増やして獲得する酸素量を増やすように反応する。呼吸数が増えるから、安静状態でも基礎代謝が増え、酸素の消費量は増える。アムスの予測値は、現在の消費量をベースにしているよね」
 鉄腕は、素直に頷いた。
「それなら、予測値の八割程度の時間しか持たないと考えた方がいいな」
 リーマンの修正に、鉄腕は異存なかった。
「残りは、三十五時間あるか、ないかだ。クストーが回航されてくるまで待てない。各自で、自力脱出の方法を考えてくれ。そのせいで酸素消費量が増えるのは、認められない。できる限り安静にしながら、頭だけを働かせてくれ。以上だ」
 四人は、自室のベッドに潜り込んだ。そして、体温維持のために酸素消費量が増える事を防ぐため、有りっ丈の毛布をかぶった。

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 彼女に初めて会ったのは、今から十年前の高一の時、夏休みのバレー部の合宿が終わって鉄腕と自宅に帰る道だった。
 今考えると、無用な手出しだった。
 どちらが先に見つけたか覚えていないが、若い女性がちんぴらに絡まれているのが目に留まった。それが、初めて見た彼女だった。
 腕に覚えのある鉄腕も、熱血漢だったタッカも、それを見過ごす事はできなかった。正義の味方宜しく、六人のちんぴらと彼女の間に割って入った。数で優勢と見るや、ちんぴら共はタッカ達に絡んできた。タッカも、鉄腕も、相手が先に手を出すのを待っていた。予想通り、ちんぴらが先に手を出してきたので、それを合図に大立ち回りになった。タッカと鉄腕は、それぞれ二人を片付け、残る二人を探したのだが、なぜか、その二人を含めた六人全員が道路に伸びていた。
 後で分かったのだが、タッカと鉄腕が、二人ずつを相手に梃子摺っていたので、彼女が加勢してくれたのだった。もちろん、ほんの一瞬で二人を叩きのめし、涼しい顔してタッカ達の立ち回りが終わるのを待っていたのだ。
 翌日、何発か殴られて顔に痣を作ったタッカ達の前に、転校生として紹介されたのが、彼女だった。それが、二度目に顔を見た時だった。と言うのも、大立ち回りが終わるが早いか、とんでもない俊足を飛ばして彼女は逃げてしまったのだ。
 当時でも百メートルを十二秒前後で走っていたタッカが、荷物を持っていたとは言え、あっという間に振り切られてしまった。だから、彼女の名前も、住所も、年齢も、何も知らなかった。
 ただ、この後が大変だった。
 彼女が、タッカ達から助けられたと、事の詳細を担任にばらしてしまったから、暴力事件として取り上げられ、危うくバレーボール部の対外試合の禁止、謹慎にまで、事が大きくなりかけた。幸い、彼女の父親が政財界にも顔が利く大物だったので、「正義感を失わさせるような処分は断じて認められない」と教育委員会や関係各所に訴え、注意処分だけで済んだ。
 結局、注意処分になったのは、自分の身に危険が降り掛かるような事をした事に対する注意だった。他に方法があったか無かったかを無視していたので、タッカ達は笑って注意を聞き流した。

「ランディング・チェック」
 彼女の指示が飛んだ。
 直ぐに、飛行鞄から着水時のチェックリストを取り出し、読み上げと確認を行った。
 S-2Rは、彼女の操縦で滑るように着水した。「波の読み方は天才的」と、どこかの機長が言っていたが、その言葉が誇張ではないと、タッカも同意せざるを得なかった。S-2R以外のどの飛行艇もできない暗闇の海面への難しい着水を、好天の滑走路への着陸のようにやってのけた。
 S-2Rは、ランプを登り、真水による洗浄を受けた後、指定のスポットに駐機した。
 駐機時の一通りのチェックリストを済ませると、磯の臭いの中でタラップを駆け下りた。そのまま、もう一機のS-2Rへと走った。
 用意されていたS-2Rには、既に二人のパイロットが乗り込み、エンジンの始動を始めていた。ユカリは、その二人と揉め始めた。危険が伴うので、最小の人数で行きたいと、二人に降りるように説得を始めた。
 タッカには、関係のない話だった。誰でもいいから、目的の海域まで水中エレベータと一緒に運んでくれればよかった。揉め事には首を突っ込まず、前部キャビンの床から下部通路に下りて、水中エレベータセクションまで通り抜けた。
 水中エレベータの外部チェックを始めた。注文の品は、色々な工夫を凝らして、水中エレベータに固定してあった。充分に満足のいく状況だった。救難管制部は鈍いと思っていたが、この辺りの仕事ぶりは大した物だと感心した。
 再び、下部通路を通り抜け、前部キャビンに戻った。そして、今し方通ってきた下部通路との扉を閉め、ドア周りのシール状態を確認した。
 地上作業員は、コクピットで続いている喧騒を気にしていたが、タッカの顔を見ると、減圧室のブリーフィングを始めた。
 水素潜水のマニュアルを受け取り、減圧室のハッチを潜り抜けた。
 減圧室にも、必要な品物が総て揃っていた。地上作業員が、短い時間だったにも関わらず必死に揃えてくれた事が、痛いほど分かった。
 物品のチェックが終わったところで、ハッチを閉め、加圧のためのチェックリストを行った。そして、シール確認のための第一段階の加圧を開始した。第一段階を終了すると、毎時十気圧の割合で加圧する。これが、S-2Rの減圧室の加圧速度の上限に当たる。加圧は、ヘリウムを追加する事で行うが、今回の加圧では、大気中の窒素分を除去する事が難しい。加圧すると、窒素は窒素酔いを引き起こす。それが気掛かりだった。
 機体は、中々発進しなかった。彼女と二人のパイロットの間で揉めている事は、容易に想像できた。タッカは、彼女が強硬手段に出なければと、心配になってきた。
 加圧が第二段階に入り、三気圧を越えた時、エンジン音が高まり発進を始めた事が分かった。
 タッカは、ベッドに横になり、ベルトで体を固定した。非常に狭いS-2Rの減圧室内では、通常のシートが用意されていない。そのため、離着陸時は、カイコ棚のような狭い三段ベッドに潜り込み、ベルトで体を固定する事になっている。
 ランプを下り、海面に機体が浮かんだ事が、大きなピッチングで分かった。
 壁に掛かっていたヘッドセットをかぶった。これで、機内の各所とのインカムによる通話と、無線通信をモニターする事ができる。ピンをプラグに挿し込むが早いか、ユカリがグランドコントロールに捻じ込んでいる声が聞こえてきた。
「滑水路三三で離水します。周辺の機体を退けて下さい」
 彼女は強い口調で言ったが、それ以上に激しい声でグランドコントロールは言い返してきた。
「離水は認められない。貴機は、正規の乗員が乗務していない」
 危惧していた通り、彼女は強硬手段に出たらしい。
「非常時に何を言ってるんですか。兎に角、離水します。空中衝突しないように、誘導して下さい。それから、あの二人は、急にお腹が痛いって寝転がっちゃったんだもの。降ろすしかなかったのよ」
 何が、お腹が痛いだ。彼女が、みぞおちに当て身を食らわしたに違いない。その上で、二人を強引に引き摺り下ろしたのだ。
 グランドコントロールも、事態を理解したらしく、苦い声で離水を認めた。
「了解。スクランブル時のマニュアルに従い、貴機の離水を認めます。滑水路は、三三。離水支障無し」
 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。

 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 タッカは、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

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 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。
 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 俺は、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

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