伊牟ちゃんの筆箱

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 水中エレベータ

 一瞬の無重力感で、S-2Rから切り離された事が分かった。次の瞬間、海面に叩き付けられ、狭い水中エレベータの中で十本のボンベと一緒にシェークされた。
 ボンベの上に寝そべっていたので、ボンベの上に腹から飛び降りたようになった。ボンベの左右の脇腹、鳩尾に食い込み、息が詰まった。頭もしたたか打ち付け、目から火花が飛んだ。ボンベ同士もぶつかり合って、水素ガスだらけの中で火花も飛んだ。だが、爆発はしなかった。
 外も賑やかだった。
 水中エレベータの懸架装置ごと切り離したせいで、水中エレベータの上にそれが圧し掛かるように激突した。
 S-2Rは、航空機だから、限界まで強度を落として軽量化を図っている。だから、水中エレベータは、機体には大きな負担となっている。万が一、水中エレベータに異常が発生した場合、機体にまで影響が及んでしまう。それを防ぐために、水中エレベータを懸架装置ごと切り離す事ができる。逆に、機体側に異常が発生した場合も考慮し、水中エレベータ側でも切り離しができる。ただ、切り離す場所が違う。
 水中エレベータは、釣り下げている側、この場合にはS-2Rの波浪による揺れでケーブルに大きな力が掛かって切断する事を防ぐために、必ず懸架装置が付属する。水中エレベータを切り離す場合、懸架装置から伸びているケーブルも切り離さなければ下部ハッチが閉められない。このため、S-2R側で切り離す場合、懸架装置毎、切り離してしまう。
 逆に、水中エレベータ側で切り離す場合、懸架装置分の余剰浮力を持っていないので、水中エレベータのケーブルスタンド部分で切り離す。
 当初の予定では、水中エレベータを降ろして水中エレベータ側で切り離す予定だった。だが、銃撃を受けた事で、一々水中エレベータを降ろす暇はなくなった。だから、ユカリは、機体側で切り離す大胆な手段を選んだ。
 タッカは、体の痛んでいる所をチェックした。
 心配は無さそうだ。
 そう思っていると、水中エレベータは一気にひっくり返った。懸架装置が水中エレベータより先に沈降し、水中エレベータを引き摺っているのだ。傾くに連れ、一旦は落ち着きを取り戻していたボンベが暴れ始めた。水中エレベータが一気にひっくり返る瞬間、天地が逆になり、体の上にボンベが降ってきた。
 慌てて、水中エレベータ切り離しスイッチをまさぐったが、その腕の上にも容赦無くボンベが降った。
「うっ!!」
 思わずうめきが漏れた。ボンベがぶつかったのが腕だったのに、激しい痛みで息が詰まった。ボンベに押しつぶされながら、ひたすら息を続ける事だけを考えた。
 懸架装置を切り離せば、今度は、水中エレベータが起き上がりこぶしのように、また回転する。その時にも、ボンベが宙を舞うだろう。その時の衝撃を抑えるためには、ボンベの下敷きになったままがいい。もう一度、切り離しスイッチに手を伸ばした。途端に、激痛が走り息が詰まった。
 骨が折れた?!
 痛む右手を引き寄せ、外から触ってみた。ゆっくりと閉じたり開いたりしてみたが、かなり痛みはすれど特に問題はない。ただ、握力が無くなった事と痺れたみたいになっていて、速く動かすのはできない。
 左手に変え、ボンベの隙間から手を伸ばした。ボンベは絡み合うように行き先を阻んだが、何とかカバーを開くと、スイッチを捻って押し込んだ。
 ゴンと音がして、ゆっくりと回転が始まった。懸架装置が切り離されたのだ。
 回転を助けるようにボンベの位置を直しつつ、内部の整理をした。落ち着いたところで、水圧計を見た。
「百二十メートル」
 予定より早い。時計の秒針を睨んで、分速の沈降率を求めた。
「分速九メートルか。下まで二百八分。この間に五十気圧上げるから、毎分0.25気圧ずつ上げていけばOKだ」
 独り言は、狭い水中エレベータ内で反響した。
 本来は、四十時間以上も掛けて加圧する。目安になる加圧速度は、毎分0.1気圧である。既に、五十気圧まで加圧してあるので、残りの五十気圧分、即ち八時間二十分掛けて加圧すべき所を2.5倍の猛スピードで加圧する不安はあった。S-2R内でも、六時間の飛行時間内で五十気圧まで加圧した。その影響も、体のどこかに出てくる可能性もある。だが、時間との闘いだ。
 早速、水中エレベータの外部ボンベから、水素ガスをエレベータ内に導いた。耳の奥が、痛くなる。直ぐに耳抜きをするが、またツーンとなる。だから、また抜く。数秒毎に繰り返す。これが三時間続くと思うと、うんざりする。
 0.25の気圧差は、三千メートルの高山から地上に降りるのに匹敵する。パイロットとして、四万フィートからの一万四千フィートへの緊急降下はシミュレータで何度も経験している。だが、シミュレータでは気圧は一定で、本物と同じなのは急減圧時の大きな音だけだ。0.6気圧の急減圧だけなら、減圧室で二度だけ経験している。ただ、今までに経験した事が無い急加圧である。
「クストーは、百三十時間でここに来るそうよ」
 切り離す直前に彼女が言った言葉が、耳に残っている。
 六日余りで来るとは、クストーの乗組員が徹夜で頑張った事がわかる。それでも、間に合いそうにない。ただ、俺に無理をさせないために、ほんの僅かだがクストーによる救出の可能性も残っている事を伝えてくれたのだろう。
 水圧計と時計を見比べる。
 降下率がかなり早くなっている。この五分間の降下は、七十一メートルにもなっている。最初の一分で九メートルだから、その後の四分で六十二メートルも降下した事になる。毎分十五メートル以上だ。このペースなら、一時間で下に着く。だが、気圧は五十一気圧になっていない。当初の予定より遅い。
 この水中エレベータは、内圧超過では五十気圧に耐えられる。だが、外圧超過では三十気圧が限度になる。もちろん、安全係数を考慮してあるので、この圧力のまま下まで行っても圧壊する事はないだろうが、危険である事には違いない。
 タッカは、バルブを更に開き、水素ガスを増やした。
 時々、軋み音が聞こえてくる。急激に替わる水圧で、エレベータの色々な場所が少しずつ縮み始めている。その時、中空になっている居住球部分やタンクは、他より早く縮む。その差が歪みとなる。時々、歪みが滑って元に戻り、音となって伝わってくる。
 分かっていても、気持ちのいいものではない。
 エレベータの内壁に触れてみた。まだ、少し濡れているだけだ。
 海水温は、もう三度か四度くらいだろう。外壁が冷たい海水に冷やされれば、熱伝導率の高いチタン製のエレベータは、直ぐに冷やされる。替わりに、吹き出し口から水滴が滴り落ちていた。吹き出し口には加熱装置があるが、追いつかないようだ。加熱装置の出力を上げた。
 また、水圧計と時計を見た。やはり、分速十五、六メートルだ。気圧計を見たが、この一分は0.26気圧上昇し、五十一気圧を越えた。
 ユカリは、この空域を無事に脱出しただろうか。かなり無理をして着水したようだが、上手く離水できたのだろうか。彼女の腕前は一流だ。しかし、攻撃を受けている状況で、兵装が無く防弾にも無縁な飛行艇で、無事に逃げ切ったかどうか。
 ユカリも、大きな危険を冒して俺を落としていった。彼女にとって、危険を冒す価値が、この愚行とも言える救出作戦にあるのだろうか。やはり、鉄腕の存在が大きいのか。

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 少しは、明るい希望はないだろうか。
 真っ暗闇の中で、鉄腕は考えていた。
 ついさっき、小さな振動音を感じた。錯覚かもしれないが、基地自体で発した音ではなく、遠くの海底に何かがぶつかった感じだった。
 沈船が海底にぶつかる時、あんな音を立てるのだろうか。
 ダーウィンが沈没した音だろうか。それなら、海面に浮上する事ができても助かる見込みは皆無になる。モールスの返事が無くなった事が、不安を掻き立てる。
 沈船だとすれば、ダーウィン以外に無いだろう。広い太平洋で、ダーウィン以外の船がシャングリラの直ぐ近くで沈没する可能性は、隕石が頭の上に落ちてくるのと同じくらい確率が低い。
 鉄腕は、不安を掻き消すため、空耳だったと、心に言い聞かせた。
 本来なら、寝ていなければならない。と言って、こんな状況下で簡単に寝られるほど、精神はタフにできていない。だが、睡眠導入剤を使う事はできない。緊急時に、素早く行動できない危険性があるからだ。
 でも、こんな錯覚を起こす程に神経過敏になっているようでは、パニックを起こして正しい判断をできないだろう。
 鉄腕は、寝られない自分に対して、居直った。
 起きている事で余分に使う酸素分以上に、長く生き残る方法を考えればよい事だ。
 二酸化炭素濃度を致死量以下に抑える続け、電力を確保すればいい。
 思考をまとめ、本気で考え始めた。
 ある程度まとまった電力は二酸化炭素浄化装置のバックアップ電源だけだが、それ以外には本当にないのだろうか。
「あっ!」
 いくつか、電源はある。ドライスーツの温水循環装置に使うバッテリーや、水中スクータのバッテリー、水中カメラのバッテリー等だ。だが、使うためには、二つの問題がある。一つは、閉鎖したA棟からどうやってバッテリーを持ってくるかだ。もう一つは、どうやって電源を接続するかだ。大事な事は、作業で浪費する分以上の延命ができるかだ。
 第一の問題の運搬は、連絡トンネルのハッチを開ける事と、重量があるバッテリーをどうやって運ぶかだ。
 連絡トンネル内は、浸水で相当量の海水が溜まっているだろう。ハッチを開けた時に、その海水が流れ込んできる。その浸水で新たな被害があったら、それこそ命取りになる。何とかして、浸水を食い止めなければならない。
 バッテリーの運搬は、ある意味では簡単だ。難しいのは、水中スクータから取り外して棟内に運び込む事だ。水中スクータのオーバーホールは、海上で行う事を原則にしている。海底でバラしてバッテリーを濡らさずに取り出す事は、非常に難しい。水中カメラやドライスーツのバッテリーは容量が小さく、運搬自体は問題無いが、浸水のリスクを犯す割には得られるものが小さい。
 いくら考えても、実行する価値はなさそうだ。
 電力が手に入らないなら、二酸化炭素対策は、ほとんど打つ手がない。打てる手として、浄化装置の運転時間を二時間毎の二回に分ける事だ。これで、二時間くらい伸びるだろう。酸素分圧を上げるのも、方法の一つだ。酸素分圧が上がれば、二酸化炭素の致死量も若干だが上がる。これで伸ばせる時間は、分オーダーかもしれない。どちらの方法でも、三十時間後には集中治療機が止まっているだろう。
 やはり、自力脱出を考えないと。
 水中エレベータは、期待できそうに無い。緊急脱出球も、ケーブルが圧し掛かっている。本体ごと浮上しようにも、ケーブルの重さを支えて浮上するほどの余剰浮力はない。仮に浮上できたとしてもA棟の損傷が問題だし、ケーブルで重心が上がっているので本体もバランスを崩す心配がある。
「待てよ」と思った。
 本体を浮上させる上手い手がある。
 恐ろしく荒っぽい方法だが、ケーブルさえ除去できれば脱出できるかもしれない。まあ、ケーブルが除去できれば緊急脱出球で脱出できるから、この方法を使う事はないだろう。一応、選択肢の一つとして記憶には留めておこう。
 頭が少し重い気がする。二酸化炭素濃度が、上がってきたのだろう。これが今から四日間も続くかと思うと、気が滅入った。
 上からの助けは、来ない可能性が高い。四日後、二酸化炭素濃度が致死量に達した時、どんな苦しみ方をして俺は死ぬのだろう。二酸化炭素中毒は、頭痛から始まり、吐き気、嘔吐等があり、最後に昏睡状態になって死に至る。今から三日間は、嘔吐するほどの濃度にはならない。だが、それ以降の一日は、これらの症状で苦しみながら死を迎える事になる。
「くそ!」
 何としてでも、全員で生き残ってやる。
 俺は、無事に戻らなきゃいけないんだ。タッカのためにも、彼女のためにも。
 鉄腕は、心の中で希望の光を探し続けた。
 シャングリラが壊れてもいい。何とかして、浮力を得て海面まで浮上しなければならない。何でもいい。浮力を得られるものを探した。
 空気が溜まるもの。
「そうだ! 潜水艇の回収用気嚢を使う手があるぞ」
 この実験が終わったら、クリスマスツリーも、潜水艇も、そして、この海底基地も、浮上させて回収する。クリスマスツリーは、解体して海底基地内に戻し、海底基地毎、浮上する。潜水艇は、回収用気嚢で包むようにして気嚢の浮力で海上まで運ぶ。
 非常事態だから、潜水艇の回収は考える必要はない。だから、不要になった回収用気嚢でケーブルを引き上げれば、緊急脱出球が使用できるようになるかもしれない。ケーブル全体を引き上げる浮力はないが、ケーブル全体を持ち上げる必要無い。全員で相談し、最良の方法を見つければいい。
 我ながら、上手い方法だと思った。
 今日は、冴えてるな。
 俺は、二酸化炭素で呼吸しているんだろうか、と冗談に思った。
 鉄腕は、全員に招集をかけた。

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 我が目を疑った。
 いや、今まで気付かなかった間抜けさ加減に、嫌気が差した。
 二酸化炭素分圧は、0.04気圧になっていた。濃度で言えば、0.0006パーセントだ。これは、かなりの中毒症状を起こすレベルだ。実際に、三十分も前から症状があった。
 タッカは、頭痛の原因を、急激な圧力の上昇が原因と考えていた。しかし、それが間違っていたのだ。吐き気が始まっても、まだ頭痛から来る吐き気と考え、二酸化炭素濃度の上昇を考えなかった。
 何という馬鹿さ加減だろう。
 この水中エレベータは、ヘリウム潜水用に設計されている。当然、各部の性能は、ヘリウム潜水の限界といわれている五百メートル五十一気圧に設計されている。今は、七十気圧に届こうかという高圧下だ。おまけに、不活性ガスのヘリウムガスから活性の水素ガスに交換したのだ。二酸化炭素除去装置が本来の性能を発揮できなくても、不思議ではない。
 こんな事なら、水素潜水用の二酸化炭素除去装置を頼んでおけば良かった。
 後悔したが、今更遅すぎる。
 タッカは、空気の吸い込み口に近付いた。
 これから先は、息は吸い込み口に向かって吐こう。そうすれば、いくらか濃度の高い二酸化炭素が二酸化炭素除去装置に流れるので、効率が上がるだろう。
 今から二時間半も、吸い込み口に向かって息を吐きながら耳抜きを繰返さなければならない。面倒な事、この上無しだ。
 この方法で、三十分、様子を見てみた。
 狭い水中エレベータ内で、体を捩った態勢で、右を見て息を吸い、左を見て息を吐く事を続けてきたので、首が痛くなってきた。肩も凝り、その不快感で苛々もつのった。
 頭痛は相変わらずで、頭を押さえつけられるような圧迫感があった。吐き気は少し治まったような気がするが、新たに耳鳴りが始まった。息苦しさは感じないが、呼吸が少し深くなっている。どれも、二酸化炭素中毒の症状だ。二酸化炭素濃度は、ほとんど変わっていない。ちょっと辛いが、我慢すれば何とかなりそうだ。
 間も無く、海底に着くだろう。
 節電のために切っていた音波水深計のスイッチを入れた。音波水深計が発する音が、海底からピンと返ってくる。
「海底まで八十六メートル。六分足らずだ」
 水深計の発する音しか聞こえないエレベータ内に、独り言が淋しく反響した。
 海底に激突しないために、バラストチェーンを降ろした。バラストも二個捨てた。下部の照明を付け、四箇所しかない小窓の一つから海底を探した。
 まだ、見えなかった。
 海底まで四十メートルを切っているが、降下率も毎分三メートル程度まで落ちていた。内圧がまだ六十九気圧しかない。外圧は九十九気圧を越えていく。内外圧力差がマイナス三十気圧もある。水中エレベータの外圧超過の限界状態だ。それも、外圧の上昇に内圧が追いつかない状態が続いている。
 この状態で、海底に激突したくなかった。
 間も無く、水圧計は百気圧の目盛りを振り切り、目盛りの無い所を進み始めた。安全係数は、二割超過までしか余裕がない。外圧が内圧を三十六気圧超過すると、水中エレベータは圧壊する。それも、計算通りならの話で、少しでも傷みがあればそれより前に圧壊する可能性さえある。今、三十二気圧の超過だ。
 軋み音がする度に、胃がきゅっと締め付けられる。
 まだ、海底は見えなかった。音波水深計は、ほとんど海底に着いた事になっている。まさか、こんな深い所に温度境界層があるはずがない。頭では、それを信じようとしているのに、体は冷や汗を流し、信じていない事を教えた。
 ふと、窓の外が、暗闇でなくなったと思った直後に、もうもうと上がる土煙で、完全に視界が無くなった。チェーンバラストが着底したのだ。続いて、エレベータの外側を囲むフレームが、ゆっくりと着底した。
 数分すると、土煙のカーテンが取り払われ、海底が見えるようになった。
「よし!!」
 思わず、ガッツポーズした。
 ほとんど衝撃を感じる事無く、海底に着底する事ができた。しかも、横倒しにもならず、真っ直ぐに起立している。
 水中エレベータが着底した時、横倒しになったら、救助活動をできないまま、ここで死ぬ事になっただろう。この第二の難関も、理想的な姿勢で着底し、通り抜ける事が出来た。正直、ほっとした。
 内圧が外圧と同じ百四気圧まで上がれば、外に出てケーブルの除去作業をすればよい。
 電源を節約するために照明を落とし、トランスポンダで位置の確認を始めた。
 シャングリラ周辺に設置されていたトランスポンダは、まだバッテリが生きていた。お陰で、自分の正確な位置を確認できた。
 ユカリは、波と同じくらい潮流を読むのも上手いらしい。千メートル上でタッカを落とし、一時間半も掛けて降下したのに、今居る場所は、海底基地からの直線距離がわずか五十メートルほど。しかも、作戦には有利なケーブルスタンド側だ。真っ直ぐに落ちた懸架装置はどの窓からも見えなかったのだから、かなり流された筈だが、タッカはベストポジションに居た。
 ユカリが操縦していなかったら、この位置にタッカは居なかったかもしれない。
(ユカリに感謝)
 気圧計は、七十気圧を越えたばかりだ。二酸化炭素分圧は、ほんの少しだが下がり始めている。気圧調整には、まだ一時間半以上も掛かる。
 そろそろ、外部タンクと室内の圧力差が小さくなり、昇圧のペースが少しだけ遅くなり始めた。八十気圧を越えたら、室内に持ち込んだボンベからも水素ガスを放出しよう。
 室温は、十八度まで下がった。水素雰囲気の中では、体からどんどん熱を奪われる。ヘリウム環境と同様、水素ガス環境も、体感温度の適温の幅が非常に狭い。体感では、実際の温度よりずっと低く感じる。ドライスーツを着ているので、寒さはあまり感じないが、顔は冷たくなっていた。
 内壁も、零度に近い海水で外壁から冷やされ、水滴で覆われている。水滴が、あちこちで滴り落ちていた。ヒーターは入っているのだが、水素ガスが放出される際の断熱膨張でどんどん熱が奪われていき、ヒーターの加熱が追いつかないのだろう。
 時計を見る。
 実際に外に出て救出活動をするまで、十分に時間がある。その間に、鉄腕達と連絡を取っておこう。
 駄目元で、水中電話を試してみた。事故後、上から水中電話を試した事が有ったが、繋がらなかった。海上からだと、途中に温度境界層がある事も想像できるが、電源をやられて使えなくなっている可能性も高い。
 十回は呼び掛けたが、予想通り駄目だった。
 今度は、可能性の高いモールスを試してみた。ハンマーで内壁を叩いて、返事を待った。
 返事は無かった。
 また、ハンマーで内壁を叩く。
 十秒、待った。
 返事は無かった。
 ハンマーで叩き、返事を待つ。これを何度も繰り返す。
 きっと、彼等は、救出されるまでの消費酸素量を極限まで減らすために、ベッドに体を横たえているのだろう。即答できる状態じゃないんだ。そうに決まっている。鉄腕は、まだ生きている。絶対に生きている。
 十分が過ぎても、返事が無かった。
 タッカは、モールス表を確認しながら、「我、救助隊。応答せよ」を打ち続けた。
「早く、返事しろ……」
 絶対に生きている。
 それだけを考えていた。だが、自信が揺らぎ始めていた。いくら体を横たえていたにしても、とっくに返信できる筈だ。
 ふと、我が身が心配になった。
 タッカは、海底基地の緊急脱出球で帰るつもりだった。だが、海底基地が破壊されていて入る事ができなければ、この水中エレベータで戻らなければならない。水中エレベータ内は、八十気圧を越えている。このまま浮上すれば、内圧が高過ぎて破裂する危険性がある。安全係数を計算に入れても、ぎりぎりだ。
 浮上する前に、安全な五十気圧まで減圧しなければならない。だが、ポンプは、圧力差が三十気圧までしか内部の空気を排出できない。大量の電力も必要だ。ケーブルを切り離している水中エレベータの電力では、不足する事は目に見えている。おまけに、外圧超過は三十気圧が限度だから、この位置では七十気圧までしか減圧する事ができない。
 浮上には、一時間かそこらしか掛からない。その間に二十気圧は減圧しなければならないが、一時間で二十気圧の減圧をすれば即死に近いだろう。仮に、無事に浮上できたとしても、浮上後に直ぐに救出されて船上減圧室に移るか、酸素の補充を受けるかしなければ、俺も鉄腕と同じ三途の川を渡る事になる。
 タッカは、加圧を中止すべきかどうか、迷い始めた。
「三分だけ」
 それだけ待って返事が無ければ、一旦、加圧を中止し、減圧して浮上しよう。
 また、モールスを叩き始めた。

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 ゴン、ゴン、ゴン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴン、ゴン、ゴン
 モールス信号。それもSOSだった。
 続いて、違う文字を打ち返してきた。タッカは、必死になって書き留めた。相手は、何十年も前に廃止になった筈のモールスを打ち慣れているのか、次から次に送ってくる。それを線と点に書き留めるのは、想像以上に大変だった。
 文章は、五分も続いた。もし手帳を置いてきていたなら、書き留める事ができなかっただろう。書き終わると、直ぐに「少し待て」と送信し、モールスの翻訳を始めた。
「重傷者二。浸水有り。電力無し。A棟閉鎖。連絡通路閉鎖。緊急脱出球使用不能」
 文章にすると、わずかこれだけだった。
 通常のモールス信号と違い、「ツー」に相当する音は、打音の間隔広げて表現するので、一文字の区切りは間隔を十分に空けている。だから、一文字打つのに、五、六秒も掛かる。一行の文を打てば、七、八分にもなる。
 これでは、時間ばかり掛かって埒が明かない。
 気圧計の針を見た。
「二十分後、行く。以上」
 タッカのモールスに反応し、「了解」が返ってきた。続いて、長文のモールスが入る。気圧計の針を見やりながら、モールスを書き留める。彼等は、状況を連絡し、こちらの救出作戦の助けになるようにしてくれているようだ。返信は必要無いらしく、ひたすら打ち続けてくる。少しでも窮状を知って欲しいようだ。だが、タッカは、気圧計の針が百気圧を越えた所で、手帳をモールス表を一緒にビニールの袋に詰めて、雑嚢に入れた。
 また、頭痛が始まった。慣れないモールス表と格闘したので、脳の酸素消費量が増え二酸化炭素濃度が上昇していた。
 吹き出し口に顔を寄せ、何回か深呼吸をした。頭痛は治まらないが、体内の二酸化炭素はいくらか排出できただろう。
「A棟閉鎖か。参ったな」
 ハッチは、A棟側にある。A棟が閉鎖されているのなら、入る所が無いのではないか。
 海底基地の図面を開き、調べ始めた。
 水素ガスで、少し酔ってしまったようだ。頭が朦朧としている。酔いを覚まそうと、二、三度、頭を振ったが、はっきりしない。今度は、空気吹き出し口で深呼吸し、少しでも多くの酸素を取り入れ、二酸化炭素による頭痛だけでも取り除こうとした。それでも、頭痛は相変わらず続いた。
 シャングリラのB棟は、一番奥の上側に緊急脱出球があった。別冊の解説書を読むと、ここがエアロックも兼ねているとある。
(俺が向かうべき場所は、ここだろう)
 タッカは、シャングリラの形状と経路を頭に描いた。
 また気圧計を見た。ちょうど百四気圧になった。ボンベを閉じると、下部ハッチの内外圧力差計が見れるようにボンベを移動させる。圧力差計は、内圧が0.1気圧低かった。これは水深で一メートル分に相当する。このままハッチを開ければ、非常に危険だ。
 内外圧力差計を睨みながら、再びボンベから水素ガスを放出する。内外圧力差計は、じりじりとゼロに近付いていく。ゼロを過ぎた所でボンベを閉じる。そして、ハッチの圧力調整弁を少し開く。
 何も起こらない。
 一旦、通常のチェックリストに戻り、ハッチ開放の手順を確認する。そして、内開きのハッチを開いた。目に入ったのは、エレベータ内の照明でゆらゆら光る水面だけだった。
「今、行く。十秒おきに叩け」
 これを二度打ち、彼等のモールスが止まったところで、更にもう一度打った。彼等は、ほぼ十秒間隔で壁を打ち始めた。
 タッカは、ドライスーツの温水循環が始まった事を確認し、ボンベを背負った。手順に従い、レギュレータ、フェイスマスク、フィン等を確認した。そして、後で戻ってくる時のために外部照明を点灯し、室内灯は消した。
 ゆっくりとハッチに体を沈めていく。爪先が水中に入った時、ドライスーツを着ているにも関わらず、零度近い海水温で体が強張った。暫く足をばたつかせながら温度に体を慣らし、また一段下りていく。やがて、上半身をハッチ内に残したまま、足が海底に着いた。
 人類史上七人目の水深千メートル突破だ。
 過去の記録では、海水中では四百メートル、陸上の圧力タンク内では五百メートルが最高だ。千メートルは、驚異的な記録なのだ。同時に、人間が踏み入ってはならない世界への挑戦でもある。
 レギュレータを確認すると、フェイスマスクをかぶった。そして、ゆっくりと水中に顔を沈めた。辺りは、足が舞い上げた泥で全く視界が利かなかった。
 ゴーンと音が聞こえてきた。
 音の方向を探ろうと、頭を回した。十秒後、また、打音が聞こえてきた。頭まですっぽり覆うドライスーツのせいか、考えていたより音の方向は掴み難い。でも、大体の方向は分かった。その方向は、トランスポンダーが示していた方向とほぼ一致する。
 タッカは、水中エレベータの外側を取り囲むガイドフレームを確認しながら、水中エレベータの上部に移動した。海底から離れるに連れて、視界は回復した。だが、目に見えるものは何も無かった。ヘッドライトを点灯する。でも、視界は変わらなかった。
 漆黒の闇。
 都市に住む現代人が忘れ去ったこの言葉こそが、この場所を表す最良の言葉だろう。照明を当てても、マリンスノーが浮かび上がるだけで何も見えない。僅か三十メートル先が、闇に沈んでいる。
 実際には、かなりの数の生物が密かに生きている筈なのに、気配さえ感じられない。
 月周回軌道上のアポロ指令船で、月面に下りている二人を心配しながら一人留守を守っていた宇宙飛行士でも、これほどの孤独は感じないだろう。ここは、無線さえも届かない。
 酸素が無くなれば、窒息死。二酸化炭素濃度が上がっても、中毒死。ドライスーツの温水循環が止まれば、凍死。一気に浮上すれば、潜水病でアウト。更に浮上すれば、体が中から破裂する。アポロ十三号のクルーの気持ちが、ここなら容易に理解できる。
 なんで、こんな所に来てしまったのだろう。
 鉄腕が死ぬ事は辛い。だけど、奴に傾いているユカリの気持ちを自分に取り戻すには、棚ボタのチャンスだった。それを無に帰して、おまけに自分自身が生きて帰れる保証も全く無いここに、何の目的で来たのだろう。
 鉄腕が死んでも、タッカに何の責任も無い。タッカは、与えられた仕事をきちんとこなしている。それどころか、与えられた以上の事をするために、それも周囲の反対を押し切る形でここまで来てしまった。
 その後悔が、タッカの心に頭をもたげた。
 マリンスノーが、降り頻っている。ゆっくり、ゆっくり、落ちてくる。
「奇麗だ……」
 フェイスマスクの中で、独り言が漏れた。
 恥ずかしくて、きょろきょろ周りを見たが、誰も居る筈はなかった。
「俺は、一人で生きていけない人間なんだ」
 いつも誰かが傍に居て、文句を言ったり、言われたりしてきた。特に、小学校からずっと一緒だった鉄腕とは、兄貴や親以上に、文句を言い合い、喧嘩し合い、競い合い、励まし合ってきた。奴が居たから、今のタッカ俺があった。奴が居たからこそ、タッカはここに来た。
 手元を見た。S-2Rで注文した品物は、そこにあった。その中のロープを外し、一端をガイドフレームに括り付けた。もう一端は手に握りしめ、意を決して、音のする方角へ泳ぎ始めた。
 二十メートルも行くと、水中エレベータの照明はぼんやりしてきた。ヘッドライトが照らす前方も、まだ何も見えてこない。下を見ると、卵色掛かった海底が浮かび上がる。海底基地の上を通り過ぎる心配だけは、ないだろう。
 十秒周期で聞こえてくる打音は、かなり近くなった気がする。
「音は聞こえど、姿は見えず……か」
 確かに、音は聞こえている。方向は、大体の方向しか分からない。それが、心の奥底の不安を掻き立てる。最悪でも、水中エレベータには帰れる。それを心の拠り所に、音がすると思う方向に泳ぎ続ける。
 後ろを振り返っても、水中エレベータの照明もほとんど見えなくなった。手に持ったロープを確認する。これさえあれば、最悪でも水中エレベータへ戻れる。そう思って、先へ進んだ。
「近い?」
 空気中の四倍の速さで伝わる海中の音波は、八百倍の密度の海水を震わせ、伝わってくる。その振動が、腹で感じられるようになってきた。ゆっくりと辺りを見回す。
 突然、ヘッドライトの光の中に大蛇のようなアンビリカルケーブルの残骸が浮かび上がった。ケーブルは、のたうつように海底を這いまわり、前方の闇の中に消えていた。更に、回りを見ると、海底に何か大きな物を引き摺った跡が有った。その後を辿って泳いでいくと……
「あった!」
 ヘッドライトの照明の中に、海底基地の脚部が浮かび上がった。引き摺った跡は、ケーブルスタンドだった。ケーブルスタンドは、海底基地の脚部に激突し、大きくひん曲げていた。
 タッカは、脚部に取り付き、握り締めてきたロープを、海底基地の傷ついていない脚を探してそこに括り付けた。
 どうやら、今居る場所はA棟側らしい。
 見上げると、大きな円筒の一部が見えた。視線を左に移していくと、ずっと細い円筒が左に伸びている。これが、連絡通路だろう。A棟との接合部から、気泡が途切れる事無く立ち昇っている。更に左には、A棟と同じ大きさの円筒が見えた。これが、B棟に間違いない。
 浮上して、A棟の上に出た。
 恐怖とも畏怖とも言えない感覚に襲われ、思わず後退りした。A棟の上には、襲い掛かる深海の大蛇のようにケーブルが海底基地に圧し掛かっていた。さながら、獲物の息の根を止めるために、体をくねらせて締め上げているように見えた。
 全長千メートルを越えるケーブルが、A棟の上にあった。
 気を取り直して、連絡通路の上を泳ぎ、B棟の上に出た。緊急脱出球は、B棟の円筒の反対端にある筈だ。ヘッドライトをそちらに向けると、暗闇の中に、緊急脱出球の丸い姿がおぼろげに浮かんだ。B棟の上には、ケーブルはほとんど乗っていなかった。
 B棟の上を手で這うように、緊急脱出球に向かって進む。
 数秒後、緊急脱出球を目の当たりにした。直径は、三メートルくらいあろうか。タッカが載ってきた水中エレベータと比べると、一回りも、二回りも、大きな球体だった。
 何故、彼等が緊急脱出球で脱出しなかったのか、理解した。緊急脱出球に付属するタンクやバッテリ等の補機類に、ケーブルが引っ掛かっていた。手で何とかしようと考えたが、びくともしなかった。
 片手を緊急脱出球の外壁に這わせながら、ゆっくりと上部ハッチまで浮上した。
 ハッチは、S-2Rの水中エレベータと全くの同形だった。違いは、注排水スイッチがある点だ。操作方法は、一目で分かるようになっていた。直ぐに、注水を始めた。ベントから、大きな気泡が立ち昇った。
 注水には、約一分掛かった。その間に、酸素の残量をチェックした。一時間分を持ってきたのだが、ここまでの十五分で半分近くを消費していた。緊張が、酸素の消費量を増やしてしまっていた。
 気持ちを落ち着かせるため、小さく深呼吸した。
 注水が完了し、ハッチは中に向かって開いた。背中のホース類を傷付けないようにゆっくりと中に入ると、一回転してハッチを閉めた。ハッチのロックを確認し、排水のスイッチを探した。これも、直ぐに見付かった。直ぐに、スイッチを入れた。だが、ランプが点かない。インターロックでハッチのロック状態をちぇっくしているのだろうと思い、もう一度、ハッチを確認した。上部ハッチだけでなく下部ハッチも見たが、しっかりとロックされている。
 改めて、排水のスイッチを入れた。だが、結果は同じだった。その時になって、初めて自分の愚かしさに気付いた。
 彼等は、「電力無し」を連絡してきていたじゃないか。排水ポンプのように、大きな電力を必要とするものが、動く筈無い。注水は空気を抜くだけなので電力を必要としなかったが、排水はそうはいかないんだ。
 タッカは、迷った。
 このまま水中エレベータに戻り、救出を諦めて浮上するか。それとも、他の入り口を探して、救出を続行すべきか。判断の時間は残っていない。戻るなら、直ぐだ。帰りにも、約半分の空気が必要だ。
 緊急脱出球の天井に溜まり始めた空気を見て、もう一度、タンクに戻したくなった。
 ここを出ない事には、何も始まらない。
 上部ハッチを開き、緊急脱出球を出た。そして、念のためを考え、ハッチをがっちりと閉めた。

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 酸素残量をチェックした。残りは、二十分しかない。ここまでの二十五分間に四十分に相当する消費をしているので、実質は、十二分しかない。水中エレベータに戻るのは、危険すぎた。
 タッカは、A棟に向かって泳いだ。
 連絡通路の反対側のこちら側では、A棟の方が四メートルほど長かった。その出っ張った部分の下には、潜水艇があった。しかし、潜水艇は、ケーブルの直撃を受けて、沈没していた。潜水艇は、沈没する際に、ケーブルの一部を巻き込んでいた。そのケーブルは、緊急脱出球に延びていた。
 沈没している潜水艇を横目に見ながら、下側に潜り込み、開放ハッチを探した。開放ハッチは、潜水艇の接続ハッチの直ぐ近くにあった。
 下からハッチを見上げたが、ヘッドライトに反射する水面が見えるだけで、中は真っ暗闇だった。でも、空気がある事は、はっきりした。
 開放ハッチから伸びる梯子に、手を伸ばした。
 ハッチから中に入っても、マスクは外さなかった。もし、酸欠状態になっていたなら、一呼吸しただけで、意識を失ってしまう。ここは、既に閉鎖されているA棟だ。空気の状態が真っ当だと思わない方がいい。
 フィンを外しながら、内部の状態を見た。
 空気は澄んでいるが、漏水で踝まで浸水している。今は、漏水が止まっているらしい。音も聞こえず、シーンと静まり返っていた。スリラー映画に出てくる廃虚と、SF映画の宇宙船の中を混ぜ合わせたとようなものだ。
 でも、取り敢えず、中に入る事ができた。これなら、当初の予定通り、緊急脱出球で帰還できそうだ。
 奥に向かって、歩き始めた。じゃばじゃば音を立てて歩きながら、後で使う事になるだろう物品を確認した。
 二週間前、空港で鉄腕が自慢気に言っていた品物は、奇麗に整理されて置けれていた。
 あの時の様子が、ありありと思い浮かぶ。バラスト代わりと言った品々も、いくつか目に入った。空港での三人だけの壮行会の後、鉄腕はここに来た。
 壁だけでドアの無いA棟を、反対端まで来た。右手に、連絡通路のハッチがあった。これを通り抜けたら、B棟に入れる。空気の残量も、心細くなってきた。
 タッカは、ハッチに手を掛け、ロックを解除した。
 異常に気付いたのは、その時だった。ハッチの隙間から、海水が霧のように吹き出したのだ。
「連絡通路が浸水している!」
 必死になって、ハッチのロックを元に戻そうとしたが、バンと言う音と共に、ハッチが勢い良く開いた。タッカは、弾き飛ばされ、後ろの壁に叩き付けられた。
 やっとの思いで、態勢を立て直し、ハッチに目をやった。ハッチからは、ちょろちょろと海水が溢れているだけだが、自分の居る辺りは、脛まで海水が溜まっていた。連絡通路に溜まっていた漏水が、ハッチを通って、A棟に吹き出したのだった。
 タッカは、立ち上がり、連絡通路内の様子を覗った。
 連絡通路のA棟との接合部から、夕立のような漏水があるが、B棟のハッチは、水面ギリギリの所にあった。
 ハッチを潜って連絡通路に入ると、念のため、A棟のハッチを閉めた。A棟のハッチは、締まりが悪くなっていた。このせいで、ロックを外しても、直ぐには開かなかったのだ。お陰で、ハッチが開く際の衝撃が、いくらか軽くなっていたようだ。
 膝上まで海水に漬かりながら、B棟のハッチまで辿り着いた。ハッチのロックに手を掛け、ゆっくりと開いた。

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 ハッチが開き始めると、その隙間から男の顔が浮かび上がった。男は、眩しそうに手を翳しながら、「遅刻だぜ」と白い歯を見せた。
「鉄腕!!」
 感激で、日本語が飛び出した。男は、きょとんとした顔を見せた。慌てて、マスクを剥ぎ取り、顔を見せた。
「俺だよ、タッカだよ」
 そう言い終わった途端、胃酸が込み上げてきた。
「くっせぇー!」
 そう。ここの空気は、異様な匂いが立ち込めていた。むかむか込み上げてくる吐き気を抑えつつ、ハッチを通り抜けた。
「お前一人か?」
 喉元まで込み上げてきて、声が出せなかった。
 タッカが小さく肯いたのを確認すると、鉄腕は素早くハッチを閉ざした。
「トイレ、どこだ」
 小さな声で、そう言うのが精一杯だった。
 鉄腕に教えられて、B棟の一番奥にあるトイレへ飛び込んだ。思い切り吐いた後、小便も済ませた。
「マスクの中で吐かなくて、良かったな」
 懐中電灯を俺に当てながら、鉄腕は笑った。
「マスクを外さなきゃ、吐かなかったんだよ」
 眩しさで、目を細めた。鉄腕は、懐中電灯を消した。タッカも、ヘッドライトを消した。闇が、辺りを包んだ。
「どうやって来たんだ?」
「泳いで」
「確かにな」と誰かが闇の中で笑った。
「で、どうやって俺達を救出しようってんだ?」
「ケーブルを退ける」
「でも、どうやって?」
 鉄腕は、タッカ一人に何ができるのかと、非難めいた言い方をした。
「ちょっと、手伝ってくれないか。ああ、それからタンクも貸してくれ」
「冗談じゃない。タンクは貴重品だ。電力が切れてるんだ。補充は利かないんだ!」
 そこまでは、考えていなかった。考えていたら、予備のタンクも持ち込んでいた。
「兎も角、タッカの話を聞こうじゃないか。こっちも、最後の手段を失ったんだから」
 最後の手段?
 彼の言葉が、引っ掛かった。
 彼等は、何か脱出の方法を考えていたらしい。だが、何らかの障害があって、その方法が使えなくなったのだろう。
 その障害に、自分が関与していないか、タッカは不安になった。
「話を聞かせてくれ。俺は、オハラだ。サブリーダーだ」
 闇に目が慣れてきている筈なのに、何も見えなかった。総ての電源が落とされ、一切の光源がなく、燐光さえ窓から入ってこない。
 オハラの声は、闇の中から聞こえてきた。
「俺は、オコーナー」
「ドクターのディックだ。あと、負傷者が二人。リーダーのナンスとアロイだ」
 闇の中から、順番にドナルドダック効果で甲高くなった声が聞こえてきた。声から、その体格は想像できないが、恐らく、屈強な男達なのだろう。
「俺は、タッカだ」
 諦めを感じさせる溜息が、聞こえてきた。
「航空部のタッカだな。鉄腕から名前は聞かされている」
 航空部の奴にこの窮状を解決できるものかと、暗に言われているような気がした。
「上は、どうなってるんだ。連絡が途切れたままだが」
「ああ、変な奴等に乗っ取られたんだ。だから、上からの救出は諦めた方がいい。兎に角、あんたらを浮上させたいんだ。上に行けば、手はいくらでもある」
「具体的には、どうやるんだ?」
「水中エレベータを使う。それから、パラシュートだ」
「パラシュート??」
「そうだ。パラシュートにエアを送り込んで、水中エレベータの浮力と合わせて、ケーブルを引き上げる」
 闇の中で、みんなが唖然としているのが、流れた沈黙の長さで分かった。
「水中エレベータがあるんなら、それで浮上すればいいじゃないか」
「残念ながら、ケーブルを切断して下りてきた。それに、三人乗りだ。俺を含めて、四人が居残りになる。それも、内圧超過は、安全係数を無視しても七十五気圧だ。海面に出る前に破裂してしまう」
 また、沈黙が訪れたが、今度は短かった。
「で、どれくらいの浮力が得られるんだ?」
「水中エレベータが0.5トン。パラシュートは、二、三トンかな」
「水中エレベータにケーブルを括り付けて、水中エレベータとパラシュートの三トンの浮力で引き上げるって寸法だな。で、水中エレベータは、七十五気圧で破裂するんだろ? 水深二百五十メートルまで浮上すると、破裂して、また沈んでくるんじゃないか」
「大丈夫だ。ハッチを開けたままにする。圧力が下がれば、ハッチからエアが溢れ、上で開いているパラシュートの中に納まるって寸法さ」
「上手く考えてるが、浮力が三トンじゃ、ケーブル二百五十メートル分だな」
 闇は不便だ。誰が話しているのか、分かりゃしない。表情を読む事もできない。
「まだ足りないな」
 タッカも、半分しか上がらない事は承知していた。
「全部を持ち上げる必要は無い。緊急脱出球の回りが奇麗になれば、十分だろう」
 闇のあちこちから、溜息が聞こえてきた。
「その緊急脱出球を使用不能にしたのは、一体誰なんだ」
(緊急脱出球を駄目にした?)
 言っている意味が、理解できなかった。

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「中の海水を、あんた、どうしてくれるんだ。おい」
 そうか!
 緊急脱出球で排水ができなかったのは、電源が無かったからだ。満水状態にした緊急脱出球は、永久に使用不能になってしまったのだ。
 言い訳できなかった。判断材料は、揃っていたのだから。
「ケーブルを完全に取り除ければ本体の緊急浮上の可能性が残るが、それも緊急脱出球を取り除かないと、余剰浮力を食いつぶしてしまう」
「重心もずれるから、浮かんだとしてひっくり返ってしまう」
「そうだな」
「大変な事をしてくれたものだ」
 タッカは、自分が何のために来たのか、また分からなくなった。
「アムス。こいつの分の酸素消費量を入れて、残り何時間だ?」
「三十時間は切っているでしょう。一人、増えてますから」
 鉄腕は、即答した。
「聞いての通りだ」
 ここまで、脱出の可能性を減らした上、生存時間まで縮めてしまった。
「クストーは、いつ頃、回航できるんだ? 聞いてないのか?」
 ユカリの声が、蘇る。
「およそ百二十七時間後だそうだ」
「そんなに早いのか! 潜水用のボンベも使えば、ぎりぎり、一人か二人は、助かったかもしれないな」
「上の連中も、精一杯の事をやってくれているんだ」
 そうだ。
 それを、無に帰そうとしている。視線が落ちた。
「もう一つ、教えてやろう」 
 声の主に視線を移したが、闇で何も見えなかった。
「実は、あんたと同じ事考えてたんだ。あんたも、ここに入ってくる時に見ただろうが、小型の潜水艇がある。あいつを回収するための空気嚢があるんだ。浮力は、水深千メートルでも二トンある。しかも、海上まで出ても破裂しないように、容量に余裕がある。三倍に膨れ、吸収できない分を弁から逃がすようになっている。こいつの浮力で、ケーブルを持ち上げる予定だったんだ」
 それが、鉄腕の言った最後の手段だったのだ。
 でも、どうしてそれをしなかったのだろう。
「上との連絡が取れ次第、実行に移す予定だった。そこへ、あんたからのモールスだ。ダーウィンの水中エレベータが直ったと思った。だから、負傷者の救出方法を考え始めていたんだ。念のため、モールスでA棟から入れと繰返して送ったのに、あんたは緊急脱出球に注水した」
 慌てて、手帳を取り出した。その物音が気になったのか、誰かが懐中電灯を点けた。眩しさで目を背けている間に、素早く手帳を取られた。
「あんた、モールスが読めないんだろう」
 今までの温和な物言いが、一転した。
「読めないくせに、モールスなんか打って、救出に行くから場所を知らせろって偉そうな事を言いやがって。こっちの話は何も聞けないってか!」
「いや、モールス表を持ってきたから、それで訳せば……」
 タッカは、シドロモドロになった。
「だから、パイロットは嫌いなんだ。ここの連中は、みんなモールスを使えるぜ。なんせ、今回みたいな事があれば、モールスが使えなきゃ命取りになり兼ねない」
 激しく叱責したが、手帳は丁寧に返してくれた。
「アムスから、タッカの話は聞かされていたからな。ユカリと張り合うくらいの凄腕らしいじゃないか」
 これ以上ない皮肉だった。
 懐中電灯は消された。再び、何も見えなくなった。
 みんなが立ち上がるのが、音と空気の流れで分かった。みんな、自室に戻るのだろう。遺書をしたためるのかもしれない。
 俺も、母と兄貴には何か書いておいた方がいいのかもしれないと、タッカは観念した。
 二人には、返せないほどの恩があった。でも、何を書いたらいいのだろう。
 いざとなると、思い付かないものだ。
 母には、産んでくれた恩、育ててくれた恩。兄には、経済的に助けてもらった恩がある。
 俺が中三の時、父が交通事故で死んだ。兄は、大学での研究から離れて、病院に勤務するようになった。父に似て、学者肌の兄には患者の相手は辛かっただろうが、収入が少ない研究職を捨て、タッカが私立の高校に進めるようにしてくれた。タッカは、公立校に進路を変更していたが、兄は黙って私立に願書を出し、受験日の前日にタッカに受験票を渡した。
 断れなかった。三年間も兄の収入に頼る事になってしまうが、兄の気持ちを裏切れなかった。
 兄は、大学に進学しなければ、勘当すると言った。タッカは、その言葉に甘えて、アクアシティに来た。鉄腕でもなれなかった特待生になり、兄の負担を減らせた事は、ちょっとだけ鼻が高かった。
 そんな恩のある兄に何を書いていいのか、何も思い付かなかった。
「おい、タッカ! 何をしてるんだ! 早く来い!」
 鉄腕の声だった。
「お前は、二つだけ、いいものを持ってきてくれたんだ。浮力になるものと、人手だ。負傷者が二人いて、人手が足りないんだ。早く来い!」
 また、別の声がした。
「じっとして死にたいか、じたばたして死にたいか、どっちだぁ!」
 返事に困った。
「俺は、じたばたして死にてぇよ。もし、万が一助かったら、めっけものだろう」
 そう言うと、声の主は豪快に笑った。
 彼の言う通りだ。途中で投げ出すのは、自分の主義に反する。ユカリを追い、自分の背中を見せるために来たんだ。途中で止めるんなら、高校を卒業する時に諦めてればよかったんだ。ここまで来た以上、自分の背中をユカリに見せるまで、絶対に諦めない。生き抜いてやる。問題が起こる度に、解決すればいいんだ。天国でも、地獄でも、後悔のない生き抜き方をしてやる。
 タッカは、手帳を仕舞い、立ち上がった。

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  支援船ダーウィン

 ユカリは、S-2Rを彼等の視界から消えるまで、大陸に向かって飛んだ。
 十五分ほど飛んだ所で、航行灯を消して超低空飛行に移った。海面すれすれの高度百フィートまで降下し、奴等の監視船を大きく迂回するように飛び続けた。一時間近く飛んで、奴等の船からは大陸とは反対側に着水した。
 S-2シリーズは、水上航行用のウォーターポンプ式の推進器を持っている。騒音が小さく、燃費もよい。
 ユカリは、これを使って、風下から支援船ダーウィンに近付いていった。環境保護団体の監視船からはダーウィンの裏側になり、ダーウィンからはコリジョンコースなので、少々近付いても見付かり難い。幸い、曇天で太陽光を反射する心配も無い。それでも、翼長が四十メートルもある機体だから、限度がある。三海里まで近付いた所で、シーアンカーを打ち、S-2Rを停泊させた。APUも停止し、総ての機能を止めた。
 ユカリは、ウェットスーツに身を包むと、先に錘の付いた接舷用のロープとモノフィンを用意した。それを、膨らませたゾディアックに積み込むと、S-2Rを離れた。
 強行着水時の経験から、奴等は、ダーウィンを押さえているだけで、何もしていない。船橋には人を配置しているが、ほとんどが、下に閉じ込めている船員達の監視に回っている。だから、船尾寄りに近付けば、気付き難い筈だ。
 ゾディアックを環境保護団体の船からは見えず、ダーウィンのブリッジからも見え難い位置から、支援船の船尾を目指した。海は荒れ始めていて、隠れるには都合が良かった。だが、一海里くらいまで近付くと、流石に目立つようになった。ユカリは、モノフィンを付けてそっと海に入った。
 ユカリは、モノフィンの扱いに絶対の自信があった。
 子供の頃は、自分の事を間違って陸に産まれてしまった人魚だと思っていた。だから、モノフィンを付ければ本物の人魚にだって負けないくらいに泳げる自信がある。ここから先は逆潮だが、それも苦にならない。モノフィンを付ければ、百メートルは三十秒を切る。一キロを六分で泳いだ事もある。ここからなら、十五分もあれば泳げる。
 二、三度、深呼吸すると、彼女は海面下に消えた。
 彼女は、水面に三度顔を出しただけで、ダーウィンの船尾まで辿り着いた。ここで、ロープを取り出すと、小さな円を描いて回し投げ上げた。先に重りの付いたロープは、上手い具合に船尾のデッキの手摺に絡み付いた。
 モノフィンを脱ぎ捨て、ロープをよじ登り始めた。足をロープに絡め、腕の力を助けた。
 こんな時に、彼女は自分が女である事を思い知らされる。どんなに鍛え上げても、腕力は強くならない。鉄腕なら、腕の力だけですいすい昇っていくだろうが、自分にはできない。海面から体が出て行くのにつれて、浮力が無くなった体が、ずしりと腕に響いた。ここに来るまでは姿を隠すのに都合が良かったうねりが、体を弄ぶ。
 ほんの三メートル程昇るのに、一分近く掛かった。
 後部デッキの端に手を掛け、ゆっくりを顔を出す。予想通り、誰も居ない。萎えた腕の力を振り絞り、デッキによじ登った。
 ロープは、外して海に捨てた。そして、物陰に身を隠し、様子を探った。
 誰も居なかった。
 ユカリは、足音を殺して、駆け出した。素早く、左舷の外階段を駆け上がり、Dデッキに上がった。ここは、予想通り、ボートデッキになっていた。左舷の遠くに、S-2Rが見えた。ゾディアックは、波に持ち上げられた時にだけ見える。
 直ぐ近くに船が見えてるのに、中々気付いてもらえないと、遭難を経験した者は言う。船舶でのウォッチは、意外に甘い。しかも、航空機は、投影面積が最小になる正面からは、見つけ難い。
 誰も、S-2Rに気付きはしないだろう。ただ、彼等は、軍事教練を受けているように見える。そうなら、周辺を哨戒するのは基本中の基本だ。
 レーダーにも映り難いように、ダーウィンを陰にしながら、超低空で近付いた。それにしても、彼等の動きが無さ過ぎるのは、ウォッチしていない証拠。不意打ちは、絶対の条件。だから、慎重かつ大胆に行動しなくちゃ。
 ボートデッキを、ボートの陰に隠れて船橋の下まで駆け抜けた。船橋は、二層上にある。
見上げると、Cデッキは、幅三十センチのデッキ状に張り出している。ただ、Dデッキは、メンテナンス用に天井が高い。Dデッキに壁の手摺の上に立っても、手は届かないだろう。
 ユカリは、ボートのダペットに取り付き、Cデッキの張り出し部に飛び移った。上手く手摺を掴むと、壁に沿って移動した。少し進んだ所で、Aデッキまで昇る梯子があった。これをBデッキの高さまで上がり、船橋の左舷ウィングに飛び移った。
 全員を船室に押し込めているので、重い機関銃は手に持っていない可能性が高い。安全装置も掛けているだろう。その条件で不意打ち出来たとして、何人まで倒せるだろうか。三人。いや四人。五人以上は無理だろう。五人以上居たら、下で乱暴を受けた女性乗組員を装うか。
 ユカリは、ウェットスーツを脱ぎ下着姿になった。
 窓から、中の様子を伺った。
「えっ!!」
 我が目を疑った。
 誰も居なかった。
 そんな筈はない。ここは、船の心臓部だ。ここを明け渡す事は、降伏か、撤退しかない。
「まさか?!」
 船橋に走り抜けると、右舷ウィングに飛び出した。
「おい、急げ!」
 右舷の舷門の辺りで、男達の怒声が聞こえた。見えないように下を覗くと、数隻のゾディアックが横付けされ、網梯子や舷門から二十人くらいの男達が乗り移りつつあった。
 撤退している!
 理由は、分からない。だが、撤退を始めている。
 ユカリは、船橋を飛び出し、階段を駆け降りた。途中で撤退途中の連中とぶつかっても構わない。彼等は、深追いしない筈だ。いや、深追いできない理由がある。
 ユカリは、BデッキからHデッキまでの六層を、飛ぶように駆け下りた。右舷側に出ると、男達が閉じ込められていた会議室の扉を開いた。
「全員、無事ね」
 息を切らして、そう叫んだ。
「その格好は、どうしたんです?」
 船長に言われ、下着姿だった事を思い出した。
「そんな事は後です。この船が危ないんです。船長。この船を沈めるために爆薬を仕掛けるとしたら、どこが効果的ですか?」
「舷側の水面付近に、五箇所は仕掛けないと無理ですね」
「五箇所も?」
「そうです。水密隔壁で浸水範囲が抑えられますから、片舷に集中的に浸水させて横転させるのが、沈没させる一番良い方法です。そんな事より、彼等はどうしてんですか?」
「撤退しました。だから、証人が乗っているこの船を沈めたい筈です」
「分かりました」
 状況を理解した船長は、十人ほどを指名し、調査に当たらせた。ユカリは、左舷は無い筈だから、調査は右舷に集中するように追加した。
 二人は、船橋に上がった。
 ユカリは、左舷のウィングに脱ぎ捨てていたウェットスーツを着た。それまで、船長が目のやり場に困っている様子が、少し可笑しかった。

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 もう爆弾を見つけているだろうと、右舷ウィングに身を乗り出した。しかし、まだ、見付かっていなかった。
 ユカリは、ゾディアックと環境保護団体の船を見た。不思議な事に、ゾディアックは、船には戻らず、その向こう側へと走っていった。
 なぜ?
 そして気付いた。
「船長! みんなを船に戻して下さい。そして、全速で、この海域を逃げて下さい。早く!」
 怪訝な表情を浮かべた船長だが、疑問を挟まなかった。
「総員、帰船せよ! 定点維持システム停止! 全員が戻り次第、両舷全速!」
 船長は、ユカリの顔を見た。
「どういうことですか? 爆弾は探さなくていいのですか?」
「あの船を見ていて下さい。もうすぐ、雷撃を受けて、沈没しますから」
 船長は、驚いて環境保護団体の船を見た。船は、何の変化も無かった。
「私達が爆弾を探し始めた時、彼等は戻ってきませんでした。爆弾があるなら、爆発までの間、射程距離ギリギリの場所で、牽制する筈です。でも、しなかった。おまけに、彼等は船に戻らなかった。おそらく、潜水艦が来ていて、それに乗り移るんでしょう。それなら、証拠になりそうな二隻を雷撃で沈め、誰にも見られずに撤退できます」
「つまり、相手はロシア?」
「断定できませんし、断定する必要もありません。今は逃げるだけです」
 船長は、少し考えていた。
「総員、戻りました」
「両舷全速。アクティブ・ソナー、最大出力。打て! 潜水艦を発見したら、位置を報告せよ」
 船長は、原則禁止されているアクティブ・ソナーを打った。
「潜水艦、発見。位置、五時の方向。距離、一海里」
 右舷後方だった。ほぼ、環境保護団体の船の向こう側だ。
「船長、あの船を楯にしましょう。位置から見て、まずあの船を沈める筈です。あの船が雷撃を受けたら、その騒音に紛れて、潜水艦の真上に出るのです。潜水艦の真上なら、魚雷の安全距離を確保できません」
「緊急浮上して、体当たりをする可能性があるぞ」
「躱すしかありません。アクティブ・ソナーを連射して、僅かな動きも見逃さないようにしましょう」
「面舵一杯、あの船の左舷に付けるぞ」
 船長は、返事もせずに操船の指示を出した。
「全員をボートで脱出させる方法は、考えられませんか?」
「そんな事をしたら、下の七人が助からないわ」
「七人?」
 船長に、タッカが救出に向かった事を、順を追って説明した。
「救出可能ですか?」
「彼は、天才です。彼なら、絶対にやり遂げます。だから、行かせたのです」
「天才をもってして、天才と呼ばせる男ですか。頼もしいですな」
「彼は、自分の才能に気付いていません。遅咲きなのです。これから先、次々に仕事を為し得ていくでしょう。今回の救出だって、私より確率が遥かに高いと思ったから、彼に行かせたのです。パイロットにしておくのは、惜しいくらいです。でも、パイロットの腕も、中々のものです。機長になれる技量は備えています。波に慣れれば、No1の機長になると思います」
「そうですか。確かに、肝の据わっている雰囲気を持っていましたな」
 船長は、感心した。
 その船長の腕も確かで、きっちり環境保護団体の監視船に付けた。支援船の方が大きいので、斜めにして監視船の陰に隠し、雷撃と同時に飛び出す構えを取った。目の前には、監視船があった。しかし、船舶レーダーには、ほとんど船影がなかった。
「潜水艦は、浮上して収容したのでしょうか?」
「おそらく、あの船の直ぐ脇に浮上したと思います。そうすれば、監視船のエコーに隠れる形になって、余程近くないと、レーダーには映らないでしょうから」
 船長も、納得した。
「水質調査用のブイが有りますよね。あれって、ソノブイに似てると思いませんか」
 何の脈絡もなく、ユカリが言い出した事に、船長は怪訝な表情を見せた。
「似てるには似てるが、聴音ソナーなんか備えていませんよ」
 ユカリには、考えがあった。形状さえ、ソノブイに似ていればよかった。
「いいんです。聴音ソナーは、音を出しませんから、着水音さえ似てればいいんです」
 ユカリの意図を理解したらしく、船長は水質調査用のブイを全て掻き集めさせ、船員も二名を貸してくれた。ユカリは、掻き集められた水質調査用ブイと、一緒にゾディアックに乗り込んだ。
 波に煽られて大きなピッチングを繰り返すゾディアックの舳先に立ち、ロープ一本で体のバランスを取りながら、ユカリは、ダーウィンを振り返った。
 潜水艦は、とうの昔に収容を終えて潜航し、雷撃ポジションに移動し終わっている頃だろう。いつ、監視船を攻撃しても、不思議はない。ユカリは、それが気になり、ダーウィンと、その向こうにある監視船を見続けた。
 腹に響く轟音が響いた。
 環境保護団体の監視船の反対側で、マストより高い水柱が立ち上がった。爆発による振動が、ダーウィンを震わせ、船橋の窓ガラスが何枚か割れて飛び散った。
 船長の号令で、ダーウィンは急加速を始めた。速度が上がる前に、もう一度、大きな爆発音が轟き、監視船は、二つに折れた。ダーウィンが、監視船の横から飛び出す時には、監視船は船首の一部を海面に残すだけだった。
 ダーウィンの速力は、最大で二十ノットだ。海が荒れ始めているから、そこまでの速力が出ない可能性もある。潜水艦は、三十ノット以上出る。簡単に振り切られる速度差だ。でも、潜水艦が、ダーウィンを引き離した上で旋回して、安全距離外から魚雷を発射するには、五海里は引き離さないと無理だ。だが、三十分有れば、それが可能になる。
 ユカリは、S-2Rに急いだ。わずか、四海里が遠く感じた。
 ユカリは、潜水艦の艦長の気持ちになって考えた。
 艦長が最も嫌がるのは、ソノブイによる対潜哨戒と雷撃だ。潜水艦の長所は、敵から見えない隠密性にある。だから、ソノブイ等で、敵に見付かる事を極度に恐れる。だが、相手がダーウィンだけなら、反撃の恐れがない分、大胆な行動に出る事ができる。本来なら、敵に発見され易い全速力も、相手がダーウィンなら、平気で使うだろう。それだけに、早く行動を起こさなければ、非常に危険だ。
 S-2Rに乗り移ると、ユカリは直ぐにAPUを始動し、離水のチェックリストを始めた。チェックリストが完了すると、水質調査用ブイと一緒に船員が転がり込むのを待った。後部からOKの声が掛かると同時に、離水のための滑水を始めた。離水後は、超低空、超低速で、潜水艦に向かった。
「場所は、どこですか?」
 無線で、位置を確認する。ダーウィンは、アクティブ・ソナーを打ち鳴らし、潜水艦を追走していた。
「本船の前方、三海里です。全速で、距離を取ろうとしているようです」
 潜水艦は、全速で航行中は、パッシブ・ソナーが使えない。今、ブイを投下しても、彼等は、気が付かない。最も効果的なタイミングでブイを投下し、対潜哨戒機が居ると、敵に勘違いさせなければならない。
「了解。逆方向に逃げて下さい。それが、一番効果的です。パッシブ・ソナーで、潜水艦の位置と方向だけ、確認して下さい」
「了解。こちらから、コーストガードにも、潜水艦らしきものを発見と報告しておいた」
 潜水艦は、ダーウィンが転進したとは知らずに、全速航行をしている。頃合いを見計らって、振り返ったら、ダーウィンは遠くに下がっていて、しかも、目の前にブイが投下される。当然、アメリカ海軍の対潜哨戒機が来たと思う筈だ。
 それが、狙い目だ。
「潜水艦が、速度を落とし始めました」
 離水から二十分後の事だった。
「了解。直ちにブイを投下します」
 ユカリは、大きな円を描くコースに機首を向けた。対潜哨戒機が、ブイを投下する際、目標物を取り囲むように、円形にブイを投下していく。それを真似たコースを飛ぶ。
 できるだけ効果的に投下するため、彼等の前に投下円が来るように、慎重にコースを選択する。
「投下準備。…………投下」
 後ろで、開け放った扉から、手でブイを投下している。正確に時間を計り、投下の指示を出す。速力は、最低限度一杯の五十ノットだ。本物の聴音ブイは、パラシュートが付いていて、着水時の速度は大きくない。それを真似るのだから、できる限りの低空を、できる限りの低速で飛ばなければならない。
 予定の本数を投下し終わると、燃料消費の多い超低速飛行をやめて、加速する。本当なら、着水して、アクティブ・ソナーを打ちたい所だが、そんな事をすれば、こちらのトリックがばれてしまう。
 下りたい衝動を押さえ、上空待機飛行を続ける。潜水艦発射の対空ミサイルを警戒し、充分な距離を取りつつ、いつでも着水できるように低空飛行を続けた。
 タイミング良く、ダーウィンから無線が入った。
「こちら、ダーウィン。潜水艦は、動いていないか、微速で移動しているようです。パッシブ・ソナーでは、探知できません」
 取り敢えず、安全になったのだろうか。
 自信が無い。
 アクティブ・ソナーを打ちたい。
 潜水艦は、ロシア海軍のものだろう。ならば、出来るだけ早く外洋に出たいだろう。それを基に、潜水艦の位置を予想してみた。やはり、南西方向の可能性が高い。
 機首を南西に向けた。
「ブイは、いくつ残ってますか?」
「五個です」
 五個なら、彼等の通った後を塞ぐように一直線に落とし、追い立てるのがいい。
 海面すれすれまで下りると、BLCを動作させて五十ノットまで減速した。そして、一定の間隔を置いて、直線的にブイを投下させた。
「ダーウィン。ブイは、全部投下しました。念のため、一度、アクティブ・ソナーを打ってみて下さい」
 ホワイトノイズだけが、返ってきた。まさか、雷撃を受けたのでは。
 一気に上昇して、ダーウィンを探した。
「こちら、ダーウィン」
 曇天を映し込んだ灰色の海面にダーウィンを見つけるのと、無線が入るのとが、ほとんど同時だった。
「潜水艦は、八時の方向、距離は、十六海里です。ドップラー効果からみて、遠ざかりつつありのは、間違い有りません。もう攻撃してくる事はなさそうです」
 向こうの艦長の発想のセンスは、大した事がなかったらしい。上手く騙す事ができ、正直、ほっとした。
「了解。これから帰還します」
 ユカリは、降下させると、ダーウィンの風下側に着水した。

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  脱出作戦

 連絡通路とのハッチを開いた時、思った以上の浸水があった。急いで、A棟側のハッチを開いて、A棟側に海水を逃がした。ドクター以外の四人で、A棟を駆け抜ける。
「おい、交換しときな」と鉄腕が、温水循環装置用のバッテリを投げて寄越した。
 タッカは、指定されたタンクを背負い、バッテリを交換した。予備のタンクは、六本あったが、これで、残るは二本だけとなってしまった。
「よし、行くぞ。アムスとタッカは、水中エレベータの方を頼む。俺達は、浮力嚢を準備する。終わったら、水中電話で呼び出してくれ。ところで、水中エレベータは、どこにあるんだ?」
「ここから、五十メートルくらいです」
「厳しい距離だな。どうするつもりだ?」
「水中エレベータからワイヤーを引っ張って、一番近くのケーブルを持ち上げようと思います」
「分かった。やってくれ。さぁ、行くぞ」
 次々に、開放ハッチに姿を消した。タッカも、それに続いた。
 水中に入ると、鉄腕に合図して、ベルトワイヤと二本の骨材を持って水中エレベータに向かった。今度は、ロープがあったので、呆気なく辿り着いた。
 早速、持ってきた骨材を、水中エレベータのフレームの上端に括り付け始めた。それが終わると、パラシュートを広げた。これは、相当苦労すると思っていたが、空気の八百倍もある海水の抵抗は、少し引っ張っただけでパラシュートを簡単に開かせた。思ったより苦労したのは、パラシュートを骨材に固定する方だった。直ぐにロープが絡まり、思うようにならない。
 ポンと、肩を叩かれた。振り向かなくても、鉄腕だと分かった。鉄腕は、ケーブルと水中エレベータのフレームとの間を、ケプラー系繊維で作られたベルトワイヤで繋ぐ作業をしていた。それが終わり、タッカを手伝いに来てくれたのだ。この環境下では、作業効率の面で、彼には敵わない。
 鉄腕の手を借りて、パラシュートの固定が終わった。
 一旦、水中エレベータに入り、水素ガスボンベを一個だけ持ち出した。バルブを捻り、パラシュートの中に水素ガスを放出した。パラシュートは、準備中の熱気球のように、水素ガスを溜めて膨らんでいった。
 そうかぁ!
 少し膨らんだところで、慌てて水素ガスの放出を止めた。
 パラシュートは、左右に広がるように、中央が持ち上がっている。でも、水素ガスをため込んでいくと、パラシュートの両翼が広がりきらない内に、中央の縁からガスが漏れて行く。これでは、十分な浮力を得られない。パラシュートの浮力を最大にするためには、全体が同じ高さになっていなければならない。
 鉄腕に身振りで示し、ロープの長さを調整した。
「こちらは、準備が完了しました」
 水中無線で、呼び掛けた。
「よし、実行に移してくれ」
 タッカは、水中エレベータに入り、中にある総ての水素ボンベのバルブを開いた。ハッチ付近にあった水面は、徐々に下がり始めた。やがて、水中エレベータから漏れ、外壁に沿って気泡となって昇っていく。気泡は、やがて、パラシュートの中に溜り、大きな空気の固まりを作っていった。
 その様子に満足すると、もう一度、水中エレベータに上体を入れ、バラストの全投下レバーを引いた。
 低周波の振動が、足元から伝わり、もうもうと砂煙が上がった。同時に、タッカを残して、水中エレベータが急浮上を始めた。
 水中エレベータから、シャングリラに向かって、一直線に砂煙が上がった。ベルトワイヤが上げる砂煙だった。
 タッカは、鉄腕と共に、急いでシャングリラに戻った。シャングリラまで戻った所で、酸素の残量を見た。まだ、半分以上ある。
 シャングリラでは、水中エレベータの浮力の程度を見ていた。
 ケーブル・ステーション側からケーブルが持ち上がり始め、大蛇は、鎌首を持ち上げた。これに合わせ、浮力嚢の一つが膨らまされた。同時に、オコーナー達は、もう一つの浮力嚢の位置の変更を始めた。
 ケーブルの大蛇は、やがて龍になり、天の暗闇に頭を消した。
 二つ目の浮力嚢も膨らまされ、天に昇る勢いが増した。
 水中エレベータは、恐らく二百メートルは、浮上しているだろう。水圧は、20%減り、容積は25%増えているだろう。パラシュートも、半分以上に空気が溜まり、浮力は二トン近くなっている筈だ。一つ目の浮力嚢も、百メートル以上、浮上した筈だ。
 暗闇の天井に向かって、垂直に昇っていくケーブルは、良く見ていないと、天井からぶら下がって揺れているだけのように見えてしまう。滑らかな表面が、五人のヘッドライトに照らされて、ぬらぬらと光っている。
 一瞬、ケーブルの表面を黒い影が垂直に走った。ケーブル表面の引っ掻き傷らしい。あっと言う間に、ヘッドライトも届かない暗闇の天井に、吸い込まれていった。
 突然、激しくきしむ音に続いて、水中で大鐘を鳴らすような振動を感じた。
「まずい!」
 水中電話から、悲鳴のような叫びが流れてきた。見ると、ケーブルは垂直に立ったまま、動かなくなっていた。
 ケーブルの下端へと視線を走らすと、緊急脱出球に巻き付き、動かなくなったケーブルがあった。
「全員、戻れ!」
 オコーナーの命令で、タッカと鉄腕は、開放ハッチを目指した。

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