伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

カテゴリ:索引 > アイソスタシー

資源採取用として地球近傍に移動中の小惑星が、パラオ諸島付近に落下した。
地球は、小惑星の冬に突入し、落下地点に近い日本は、津波と降下物で壊滅した。
小惑星の軌道変更を担当していた宇宙移民事業団は、直前に家族を宇宙に脱出させた。脱出に成功した征矢野少年は孤児となり同級生の親戚宅に身を寄せるが、級友たちは彼を支えてくれた。
しかし、小惑星墜落の当事者だった征矢野の父が業務上重過失致死で書類送検されたことで、状況が一変する。
征矢野は、父への疑いを晴らすために動き始める。
その矢先、協力してくれていた梅原少年の父親が小惑星墜落について自首する。


  < 目 次 >

 アイソスタシー  1
 アイソスタシー  2
 アイソスタシー  3
 アイソスタシー  4
 アイソスタシー  5
 アイソスタシー  6
 アイソスタシー  7
 アイソスタシー  8
 アイソスタシー  9
 アイソスタシー 10
 アイソスタシー 11
 アイソスタシー 12
 アイソスタシー 13
 アイソスタシー 14
 アイソスタシー 15
 アイソスタシー 16
 アイソスタシー 17
 アイソスタシー 18
 アイソスタシー 19
 アイソスタシー 20
 アイソスタシー 21
 アイソスタシー 22
 アイソスタシー 23
 アイソスタシー 24
 アイソスタシー 25
 アイソスタシー 26
 アイソスタシー 27
 アイソスタシー 28
 アイソスタシー 29
 アイソスタシー 30
 アイソスタシー 31
 アイソスタシー 32
 アイソスタシー 33
 アイソスタシー 34
 アイソスタシー 35
 アイソスタシー 36
 アイソスタシー 37

 アイソスタシー 自己書評

※2018年1月5日から10月26日にかけてYahooブログに連載した同名の作品の転載です。



 索引

  プロローグ

 人類は、幾度と無く繰り返される試練を乗り越え、種としての繁栄を続けてきた。
 氷河期、旧人から新人へと自らを進化させ、他の動物とは一線を画す高度な知能で乗り越えた。
 自らが招いた温暖化と、それに伴う未曾有の食糧危機も、生産地のシフトを国際協力の下で行い、同時に化石燃料からの脱却を進め、現在では僅かずつではあるが効果が見られるようになってきた。
 温暖化の危機を経験した事により、地球にだけ生活の基盤を置く現状があまりに脆弱であることが、議論されるようになってきた。議論は、太陽系内への広範囲の殖民計画へと展開し、ラグランジュポイントへのスペースコロニーの建設、月への植民、火星のテラ・フォーミングが国際協力の下で行われることが決まった。
 日本政府も、第一段階のスペースコロニー計画に参画するため、宇宙移民事業団を創立し、スペースコロニーの建設、及び移民の募集や殖民を行うようになった。
 宇宙移民事業団の地上の拠点である管制センターは、大隈半島の内之浦に置かれた。
 スペースプレーンが発着できるカタパルト付きの滑走路を備え、地球軌道上にある日本の全ての施設の管制を行うと共に、今後の宇宙開発計画の全てを統括する一大施設である。
 宇宙開発事業団、内之浦管制センターという正式名称が与えられているが、職員と家族を含めると1000人を超える人々が、管制センターの敷地内に居住し、少人数制の小学校と中学校も併設する小都市のようなスケールである。
 その管制センター内を一人の中年女性が、あたふたと駆け抜けていく。二階の更衣室を飛び出すと、廊下の端の階段を目指して走っていった。途中のエレベータにちらりと目をやったが、六階に止まっていた。四階なら走った方が早いと思って諦め、階段を目指した。
 帰宅準備をしていた彼女は、突然の呼び出しに、慌てていた。呼び出しでは、何も説明が無く、「制御室から離れられないから、大至急、来い」とだけ命じられた。センター長から命令形で呼び出されるのも、大至急と言われるのも、初めての事だった。ただ事ではない緊張感が、センター長の声に込められていた。
 だから、彼女は、センター長の征矢野が詰めている制御室まで走るしかなかった。
 走っているのは、彼女だけではなかった。いや、廊下を歩いている者は、一人もいなかった。激しいドアの開閉音と共に、何人もの人々が廊下に飛び出し、走り去った。そして、ほぼ同じ数の人々が、階段を駆け上がり、駆け下り、部屋に飛び込んでいった。
 彼女は、そんな人々とぶつかり合いながら、時には壁に飛ばされながら、制御室に向かった。途中で夫とすれ違ったが、気付かないのか、見向きもしてくれなかった。夫だけでなく、日頃なら挨拶を交わす同僚達も、視線を合わせる以上の事はしなかった。ただ、その目は、「もう駄目!」と言っているようだった。
 彼女が、四階の制御室に辿り着いた時に見たものは、悲壮感と絶望に打ちひしがれた征矢野の顔だった。
 彼は、直ぐに彼女を見付けた。
「帰り掛けていたところをすまなかった。早々で悪いが、大至急、職員の家族をセンターに呼び寄せ、飛鳥に脱出させてくれ」
 彼女は、事態を把握しようと思考を巡らせた。だが、どうしても、一つの単語に引っ掛かってしまう。
「脱出……ですか?」
 彼女は、その単語を口にした。
「そうだ。脱出だ」
 征矢野は、静かに言った。
 その言葉の重みを、彼女は理解した。様々な思いが去来したが、それを振り切り、今すべき事を整理した。彼女の専門は気象学だったが、そんな事を言っていられなかった。頭の中の整理が付いたところで、口を開いた。
「わかりました。早速ですが、センター長も息子さんに連絡を入れ、こちらに呼び寄せてください。他の職員にも、そうしてもらいます。私は、警備に協力を依頼して、受け入れと脱出の手配をします。それでよろしいですね」
 征矢野は肯いたが、直ぐには電話する気配が無かった。
 彼女は、手近の電話で自宅に連絡を入れ、中学生の一人娘に管制センターへ急いで来るように伝えた。その横で、職員達の必死の声が響いた。
「コンピュータは、まだ復旧できないのか?」
 いつも、冷静な征矢野の声が、裏返っていた。
「駄目です! 再起動しましたが、起動が完了すると同時に、ロックしてしまいます」
「ネットワークから切り離すと、ロックしません。ネットワークに問題がある筈です」
「ネットワークのトラフィックは、問題になるほど高くありませんよ。問題は、他にある筈です。例えば、サーバーとか……」
「サーバーも一台を再起動しましたが、直ぐにロック状態に陥ってしまいます。誰かが、外部からクラッカー行為を仕掛けているかもしれません」
「馬鹿な! ここのネットワークは、一般回線には繋がっていないぞ」
 制御室内の声が殺気を帯びていく。
 コンピュータがロックしているのが問題ではない。それだけなら、こんなに慌てる必要はなかった。今発生している深刻な問題に対処するために必要な、最強にして唯一の道具が、コンピュータなのだ。それが使えない。
「管制センター内なら、できない事もないよな」
 誰かが、ぼそっと言った。
「犯人が、ここの職員だというのか!」
 口論を続ける二人の声に、征矢野は表情を強張らせた。
「そんな事は、言っていませんよ。ただ、考えられる可能性を言っただけですよ」
「犯人が、職員だという可能性をか!」
 男は、立ち上がって、噛み付く勢いだった。
 まずい兆候だった。現在の重大な局面に対応しなければならない職員の姿勢が、コンピュータのロックによって、崩れかかっていた。にも関わらず、征矢野の行動は、緩慢ささえ感じられた。
 そんな征矢野の様子に、女の直感とでも言うのだろうか、彼女は一つの原因を見つけ出していた。
(センター長は、犯人に心当たりがある? …… まさか?)
 彼女は、片隅に浮かんだ邪念を振り払った。
 管制室の隅に移動すると、コードレスフォンで警備を呼び出し、手順と配置を指示した。続いて、資材部にも電話し、ベルトとロープをスペースプレーンへ運ばせた。
 一通りの指示が終わると、もう一つの問題に相対した。ナンバーを思い出しながら、ダイヤルした。直ぐに呼び出し音がなり始めたが、相手は簡単には取ってくれなかった。呼び出し音に注意を払いながら、征矢野の様子に見入った。
「犯人探しは、後でもできる。復旧だけを考えろ。制御室と通信室以外のネットワークは総て切れ。ネットワークが原因なら、それでサーバーを再起動すれば復旧できる」
 征矢野の指令に、数人の男達が飛び出していった。物理的に、ネットワークを切るのだろう。彼女は、男達の労力が報われる事を願った。
 結果は、予想より早く出た。
「あれ、動き出した。復旧したみたいです」
 素っ頓狂な声が聞こえてきた。それを合図に、全員が持ち場のコンピュータを確認し始めた。
「テレメトリング、OKです」
「燃料系、OKです」
「軌道計算、OKです」
「軌道観測、OKです」
「推進、OKです」
「記録、OKです」
 あちこちで、同様の言葉が発せられた。
 チャンスと思い、彼女は征矢野に声を掛けた。
「センター長、今すぐ、息子さんに連絡してください」
 呼び出し中のコードレスフォンを差し出した。掛けた先は、征矢野の自宅だった。そこには、娘の同級生の男の子が居る筈だった。彼も、飛鳥に脱出させなければならない。だから、コードレスフォンを押し戻されても、食い下がろうと思っていた。……が、征矢野はあっさりと電話を取った。彼女は、会話が聞こえないように少し下がった。
「燃料パレットの残量を確認しろ。緊急時用の資源パレットも、直ちに推進装置に回せ。起動計算担当、残量から計算して、回避のための推力をかけろ。上手く行けば、大気層で跳ね飛ばせるかもしれない」
 電話に応答するまで、征矢野は次々と指示を出し続けた。
「燃料パレットの残量は、ゼロです」
 予想の範囲内だったらしく、制御室は平静を維持していた。しかし、次の一言で、一瞬にして静まった。
「資源パレット、残量……、残量はゼロ。ゼロです」
「再確認しろ。資源パレットの残量がゼロの訳がない。もう一度確認しろ!」
 その瞬間、電話が繋がったようだ。征矢野は、しばらくの間、受話部を手で押さえたまま、残量の再確認と使用記録のチェックを命じていた。それが済むと、やおら用件を伝え、直ぐに切ってしまった。
 彼女としては、征矢野の息子に状況が伝わったのか、少々不安だったが、最低限の仕事はした。既に、職員家族の受入態勢と搭乗割り当ての基本方針は、整えてある。残る仕事は、四機のスペースプレーンの打上げ手順だけだった。だから、制御室内に留まり、状況を見守った。
 正直言って、スペースプレーンが4機もあるのは幸運としか言いようが無い。
「所長、まさか、あれが落ちてくるのですか?」
 センター長から「脱出」と言われた時から、彼女も気付いていた。ただ、口に出して確かめるのが怖かった。でも、彼女が知る回避策が全て駄目になってしまった事を知った今、はっきりさせておく必要があった。間もなく、官舎に住む数百人の家族がここに集まってくる。彼らに、状況を説明し、脱出に協力してもらわねばならない。
「もう、避けきれないという事ですか?」
 センター長が、「念のため」とは言わないと分かっていたが、「念のためにやっている」と言ってくれる事を期待してもいた。そして、小惑星の墜落が回避できれば、直ぐにでも、脱出計画を白紙に戻すつもりだった。
「資源パレットの使用記録はどうだ?」
「使用した形跡はありません」
「残量計が狂っているのか?」
「いいえ、間違いありません。資源パレットの残量は、ゼロです。推進剤は、全く残っていません」
「残量計は無視しろ。資源パレットがあるものとして、対応する。資源パレットのコンテナは、推進装置まで移動させられるか?」
「今やっていますが、ちょっと変です」
 燃料担当は、首を捻りながら、コンピュータに向かった。
 資源パレットは、緊急時の燃料用として確保してあった。
「駄目です。資源パレットが動きません」
「繰り返し、やってみろ」
 返事はなかった。彼は、何度も同じ操作を繰り返し試みていた。
 征矢野の顔色は、見る見る青ざめていった。
「誰でもいい。最悪の事態を回避する方法を提案してくれ。どんなアイデアでも構わない」
 ざわざわと、耳障りな話し声が続いた。
「月面の資源局のマスドライバーで、パレットを打ち込んでもらう手は……ないですよね」
 誰かが、自信無げに言った。
「パレットが届く頃には、すべてが終わっているよ。おまけに、位置が悪い。月から打ち込めば、状況を悪くしかねない。さぁ、他にはないか?」
 征矢野は、周囲を見回した。
「IAUに依頼して、核を打ち込んでもらったら、どうでしょうか」
「小惑星迎撃システムか。間に合うのか?」
 征矢野は、軌道計算担当に視線を送った。
「無理です。たった今、発射しても、軌道を変える程の効果は得られません。残り時間は、一時間を切っています。核爆発で軌道を変えるには、大気圏突入の十時間前には命中させなければなりません」
 軌道計算担当の一言には、誰も言い返せなかった。
「第一、アメリカ政府が動くまで、日単位で時間が掛かりますよ。まあ、核で粉々に破壊できるなら、いくらかマシになりますが……」と、ぼそっと言い添えた。
「核も諦めよう。他にはないか?」
 しばらく、ざわついていたが、直ぐに静かになった。誰も、征矢野とは視線を合わそうとしなかった。アイデアが尽きたらしい。
「他にはないのか!」
 征矢野は、喝をいれたつもりだろうが、その声はヒステリックに聞こえた。
 その様子を見ていた彼女は、そっと、その場から離れた。
 もう、脱出作戦を敢行するしかなかった。一人でも多く、地球から脱出させなければならなかった。四機のスペースプレーンの打上げスケジュールを大至急作り、管制部と航空運行部に指示を出す必要がある。それに、説得にも当たらなければならない。スペースプレーンを定員しか乗せないで打ち上げるつもりはなかった。定員以上に乗せる方法は、既に考えてあったし、必要になる物は資材部に依頼済みだが、それを航空運行部に納得させる自信はなかった。
 彼女は、粘り強く交渉し、最善の策を実行に移す事を、心に誓った。
 制御室を出る時、征矢野の沈んだ声が聞こえた。
「推定時刻と地点はどこだ?」
 その答を聞く前に、彼女の背後で制御室の扉が閉まった。

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  津波

  - 1 -

 机の脇で、電話が鳴っている。
 隼人は、その事に気付いていたが、気にもしていなかった。そんな事より、宇宙移民事業団の管制センターのサーバーに侵入して処理させているプログラムの処理速度が、異様に早くなっている事が気になっていた。
 彼は、管制センターのサーバーを介して、管制センター内の総てのコンピュータに、宇宙大規模構造をシミュレーションするプログラムを侵入させ、コンピュータを使用していない時間帯を利用して実行をさせていた。このプログラムの優先度は最低に設定してあり、通常の業務を阻害する事がないようにしてあるので、当然、一つ一つのコンピュータでの処理は遅い。それが、今夜に限って、今までに例が無いほど、処理速度が高かった。
「まさか、最高優先度になってるんじゃ……」
 冗談交じりに呟いたが、急に不安になってきた。
「カツフミ、プログラムの優先度をスクリーンにレポートしろ」
 彼は、父の名前を付けた音声入出力インターフェイスに命じて、各コンピュータで処理しているプログラムの優先度を調べさせた。
 ディスプレィに新しいウィンドウが開き、次々に優先度を表示していった。隼人は、その表示を目で追った。見た目の優先度は最低レベルになっていたが、CPU処理時間が100%に近い値になっていた。
(おかしい!)
「カツフミ、総ての処理を中止しろ」
 彼は、管制センターのサーバーを通じて、各コンピュータで実行していたシミュレーションの処理を途中で止めた。
『シミュレーションを総て中止しました』
 カツフミは、平板な合成音声で、結果を報告した。
「最低優先度で計算終了分のデータを取り込め」
『最低優先度で計算終了分のデータ取り込みを開始します』
 宇宙大規模構造をシミュレートするために、大量のデータについて、膨大な計算を繰り返す必要があった。そのデータ量と計算量は、パソコンで実行するには、容量的にも性能的にも不可能だった。隼人は、シミュレーション自体は、管制センター内の数千台はあると思われるパソコンに分散して行う事を思い付いた。
 隼人のIDは、宇宙移民事業団の管制センターのサーバーのアクセス権を有していた。
 中学一年の夏休みに、事業団主催のコンピュータプログラムコンテストで最優秀賞を貰った際の御褒美として、指定された時間帯だけの条件付きながら、管制センターのサーバーのアクセス権を貰った。このIDは、管制センターの公開情報や一部の非公開情報へのアクセス権を与えていた。もちろん、非公開情報といっても、内容が専門的なために一般への公開が意味を成さないということで非公開と言っているだけで、関係する大学や研究機関には公開している情報だった。
 隼人には自慢のIDだが、同級生は、やっかみ半分で「オタクのID」と言い、隼人を馬鹿にした。それに反発を感じた隼人は、指定時間外も使えるように、不正にIDレベルを書き換え、興味を持ち始めた宇宙大規模構造のシミュレーションに使うようになっていた。
 今は、指定の時間帯から外れている。なぜか最低優先度で実行している彼のプログラムが、管制センター内の総てのコンピュータで、最大のCPU使用時間を消費していた。こんなにCPUが使用できたことは、過去には無かった。大きな問題になる前に、管制センターの総てのコンピュータから、データを取り込んでおきたかった。
 隼人は、カツフミが結果を報告するのを待ちながら、窓の外を見詰めた。
 鹿児島県大隈半島にある宇宙移民事業団の官舎の窓から、西の空に夏の夕日の残光が消え去るのを見てから、既に二時間が過ぎていた。反対の東側からは、事業団の管制センターが見えるのだが、隼人は、遅い時間まで明るい西向きの方が好きで、父に頼んで西向きの部屋を自室にしてもらった。
 その父は、まだ帰ってこない。
 父と離婚し、姉を連れて沖縄の実家に戻った母が恋しくなるのは、夕食を一人で食べる時だ。今晩も、中学校から帰ると、一人で準備し、一人で摂った。食卓には、冷たくなった父の分だけが残っている。
 管制センター長を務める父は、ちょうど資源採取用小惑星を地球軌道に投入するところで、昨晩は管制センターに泊り込んでいた。小惑星は、今夜中に地球周回軌道に投入されるので、明日の夕飯から一緒に食べられそうだと、電話の父は言っていた。だが、管制センターで何かが起こっているらしく、今日も帰りが遅い。
 まさか、管制センターのコンピュータに異常が発生し、父の帰りが遅くなっているのだろうか。
『取り込みが終了しました』
「カツフミ、接続情報消去プログラムを実行しろ」
 今回のような事を想定した訳ではないが、予め、接続情報を消して追跡を逃れるツールを用意してあった。
『接続情報消去プログラムを実行します。……接続情報消去プログラムは終了しました』
 ふうっと、溜息が漏れた。
 これで、犯人が誰か、掴む事はできないだろうと思うと、ほっとした。
「カツフミ、接続を切れ」
『接続を切断しました』 
 カツフミは、間髪を入れずに処理結果を報告した。
 隼人は、休む事無く鳴り続けている電話を取った。表示を見ると、管制センターからだった。父だろうと思い、電話に出た。
「はい、隼人です」
 父は、電話を掛けながら、同時に、何かの仕事をしているらしく、電話口の向こうで周囲の者に次々と命じていたが、その声は、やおら隼人に向けられた。
「着替えをまとめて、急いで発射管制センターまで来い!」
 枉ごう事無き、父の声だった。が、父にしては珍しく、頭ごなしに用件を言った。
 日頃は、物静かで、いかにもエリート技術者の雰囲気を湛える父だが、慌てているのが声だけでも良く分かった。今までに、一度も感じた事が無い父の狼狽ぶりに、ただならぬ状況を感じた。
 父は、管制センターから電話をしているようだった。電話の向こうから、怒声が飛び交うのが聞こえてくる。管制センター全体が、騒然としているようだった。
(シミュレーションを最高優先度で走らせた事が、管制センターの混乱の原因なのだろうか?)
 隼人は、恐る恐る聞いてみた。
「お父さん、どうかしたの?」
 父の返事を、隼人は、生唾を飲み込んで待った。
父は、何も言わず、一方的に電話を切ってしまった。
 電話が切られると、一気に静粛が戻ってきた。
 常温ジョセフソン素子を使うパソコンは、消費電力が少ないので冷却ファンを時代遅れにした。大容量の外部記憶も半導体化されたため、静粛を阻害するような騒音は、一切出さなかった。
 その静粛さが、隼人の背筋に冷たいものを走らせ、根拠の無い不安を感じさせた。
 気を取り直すと、隼人は、自作のパソコンの片付けを始めた。
 彼のパソコンは、持ち運びを容易にするため、アタッシュケースに組み込んであった。
 ディスプレィは、アタッシュケースの裏ブタに。アタッシュケース本体奥にキーボード。キーボード下の大部分をメモリが占め、残った隙間に、電源装置とバッテリーやケーブル類の小物入れが肩身も狭く納まっている。
 宇宙大規模構造のシミュレーションは、結果を保存するだけでも、常識を超えた大容量メモリが必要だったが、市販のパソコンには隼人を満足させる機種が無かった。それが、隼人をパソコンの自作に踏み切らせた唯一の理由だった。
 一見すると、前時代的なパソコンだが、隼人の要求を満足するメモリ容量を確保しようとすると、時代錯誤の形態にならざるを得なかったのだ。
 パソコンの旅行準備ができたところで、着替えを用意しようとウォークイン・クローゼットに入ったが、一体、何日分の着替えを用意したら良いのか、父から聞いていなかった事を思い出した。直ぐに、父の携帯電話に掛け直してみたが、延々と呼び出し音が続くだけで、一向に電話に出る気配がなかった。
(飛鳥への見学が、急に許可されたのかな?)
 高度千六百八十四キロメートルに浮かぶ軌道ステーションの飛鳥には、以前から見学の希望を出していた。飛鳥は、その内部に無重力研究設備を持ち、老朽化が進んでいるとは言え、今も多くの研究者が長期に滞在して研究を続けている。国際スペースコロニーへの中継基地も兼ねるので、スペースコロニーに行く際に、経由地として通過した事は何度かあるが、研究施設の見学は一度もできなかった。
(まさか?!)
 父の電話の雰囲気からは、とても、そんな呑気な雰囲気ではない気がしたが、もしかしたら、小惑星の軌道固定の作業と重なって、いつにない話し振りになっただけなのかもしれない。
(飛鳥の見学なら、三泊分もあれば充分だ)
 飛鳥への旅行なら、父も一緒に行くはずだ。隼人は、二人分の着替えを手早く鞄に詰め込んだ。
 父が母と離婚してからも、多忙な父が家事をする事は少なかった。仕方なく、隼人が家事を受け持つ事になった。そのお陰で、料理の腕も上がった。旅行の支度なんか、訳もない。着替えだけでなく、何がどこに仕舞ってあるのか、総て把握していた。
 隼人は、留守番コンピュータに三日間の旅行をセットし、戸締まりと火の始末を命じた。そして、旅行鞄を肩に担ぎ、重いアタッシュケースを手に持ち、官舎の外に出た。

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  ー 2 -

 昼間に比べれば、気温は下がっているが、じっとりと湿気を帯びた夜気が体を包んだ。梅雨の終わりから続いている熱帯夜は、今夜も終わらないようだ。蒸せるような草の臭いが、鼻孔をくすぐる。室内の冷房に慣れた体は、あっと言う間に汗ばんだ。
 草むらの虫の鳴き声が、やたらと耳につき、暑さを増幅する。
 官舎のある丘陵地帯の一キロほど東に、管制センターの灯りが見えた。その向こうには、スペースプレーンの飛行場が有り、更にその先には、夜の太平洋が広がる。
 天頂から水平線まで雲一つ無い快晴の空に、数え切れない程の星がきらきらと瞬いていた。その星屑が無くなる所が、水平線だ。今夜は、その境界線がくっきりと見える。
 空気が澄んでいる証拠だ。
 ふいに、ジェット機の爆音が、遠雷のように聞こえてきた。東の海岸線近くにある飛行場から、親子型のスペースプレーンが離陸するところだった。
 この時間帯にスペースプレーンが離陸する事は、特段、珍しい事ではない。大量の貨物と、時には管制センターの職員をその隙間に乗せて、スペースプレーンは飛鳥に向かうのだ。今夜も、荷物と同類の扱いで、職員が押し込められているのだろう。
 隼人は、二人分の荷物を電動カートに積み込んだ。
 電動カートは、音声で行き先を入力すれば、宇宙移民事業団の管制センターの敷地内なら、どこへでも自動運転で走っていく。自動運転モードでは、免許証も要らない。
 スペースプレーンの爆音が遠ざかるのを待って、隼人は行き先を電動カートに命じた。
 電動カートは、ゆるゆると走り始めた。
 やたら、虫の声が煩い。広大な敷地に点在する官舎の間を縫って電動カートが走る間、虫の声が気になって仕方がなかった。夜間に外出する事は滅多にないが、こんなに虫の声が煩いものだとは、思ってもみなかった。人間にとって、蒸し暑くて堪らないこの季節が、虫達には最高の恋の季節なのだろう。
 地球温暖化で、住む所を奪われた動植物も多いが、この辺りは、それほどでもないようだ。その中で、気を付けなくてはいけないのが、マラリアだ。最近は、この辺りでもマラリア蚊が越冬できるくらいに、冬の気温が高くなった。だから、マラリアの予防注射は欠かせない。
 そんな訳だから、政府も重い腰を上げ、遅れ馳せながら、二酸化炭素やメタンガス等の温室効果ガスの排出を本格的に削減するようになった。
 ここでは、二酸化炭素の排出を最小限に絞るため、化石燃料で走る車は一台もない。車は、充電方式の電動カートだけだ。燃料電池で動くZEVは、その名(ゼロ・エミッション・ビークル)に反して、温室効果ガスの水蒸気を排出する。だから、敷地内では、ZEVさえ、見掛ける事は少ない。
 隼人は、何気なく目をやったある官舎に、普通は二、三台有る筈の電動カートが、一台も無い事に気付いた。
(あれぇ、みんなで旅行かな)
 最初は、そんな風に気軽に考えていたが、次の官舎も、電動カートが一台も無かった事で、隼人の気持ちが落着かなくなった。
 次の官舎では、家族総出で大きな荷物を電動カートに積み込んでいた。幼稚園児らしい子供も、泣きながら手伝いをしていた。その子の母親らしい女性も、子供を叱り付けながら、片手に赤ん坊を抱えて、必死の形相で荷物の積み込みをしている。
(何かあったんだ!)
 とんでもない事が起こっていると、生来鈍感な隼人も感じ始めた。
 電動カートが、管制センターへの広い道路に出た時、それが確信に変わった。道路は、電動カートで埋め尽くされていた。
(どこかの国が、日本を攻撃してきたのかな?)
 宇宙に移民する時代に、地上で小さな領土争いをしても、何の得にもならない。日本が侵略されるなんて、馬鹿馬鹿しい発想だ。だが、領土を巡る小競り合いが、いまだに世界のあちこちで起こっているのも、確かに事実だった。
 自動運転のカートは、その能力の限界まで車間を詰めて走り続けた。それは、長い光の帯となって、管制センターまで続いていた。
 管制センターの前は、大勢の人々で騒然となっていた。電動カートも、駐車場が足りないため、右往左往していた。官舎の総ての電動カートがここに集まっているのではないかと思うくらい、電動カートで埋め尽くされていた。
 渋滞でカートが動かなくなった。しばらく待ったが、一向に動く気配が無い。そのせいか、カートを乗り捨てた人が、隼人のカートの横を歩いていく。ぞろぞろと、長い行列が、遥か後から管制センターに向かって伸びていた。
 隼人も、ほかの人々に習って、カートを乗り捨てた。荷物を降ろすと、電動カートには自宅へ戻るように命じた。
 無人のまま暗闇を走り去るカートをちらりと見やると、荷物を持って立ち上がった。そして、人波に押し流されるようにして、管制センターに向かって歩いた。
 また、ジェット機のエンジン音が聞こえてきた。見ると、管制センターの脇を、スペースプレーンが離陸に向けて誘導路を指導し始めたところだった。ついさっきの離陸から、三十分程度しか経っていない。こんな間隔での離陸は、昼間でも見た事がない。
(宇宙に逃げるんだ)
 状況は掴めていなかったが、漠然とそう思った。
 管制センターの入り口も、人々でごった返し、半ばパニック状態とも言えた。仮設の強力な照明の下で、大きな荷物を持った人々が、急いで中に入ろうと入り口の前で混乱を産み出していた。
 見ると、女性と子供が圧倒的に多く、大人の男性は、大部分が管制センターの警備員や職員だった。その中に父の姿を探したが、ついぞ、見掛ける事はなかった。
「順番に御案内していますので、整列してお待ち下さい!」
 あちこちで、同じ叫びが上がっていた。人々は、ギリギリの線で平静を維持し、手早く誘導されるのに従った。
「IDカードをお持ちですか?」
 隼人は、自分のIDカードを出した。
「征矢野センター長の御子息ですね」
「父はどこですか?」
「飛鳥に着くまで、お会いできません」
「飛鳥? 一体、何が起こっているのですか?」
 飛鳥は、日本が運営する軌道ステーションだ。何の準備も無くそこへ行くとは、ただ事ではない。隼人は、どうしても理由を知りたかった。しかし……
「後ろの方が、お待ちです。先へ、お進み下さい」
 職員は、質問には答えず、隼人の背中を押して先に進ませた。隼人は、人の流れに乗って進むしかなかった。人の流れは、大会議室に入ると、再び滞留した。
 大会議室は、外来の見学者への説明や、宇宙移民事業団に所属する学者や技術者の講演を行う場所だが、展示用のホログラムパネルや模型は、会議室の片隅に追いやられ、少しでも広く使えるように片付けられていた。その大会議室は、今は、手に手に大きな荷物を抱えた人々で、ごった返していた。管制センターの入り口の喧騒が、そのままここに移動してきていた。
 荷物が邪魔にならないように、間隔を充分に空けて置かれた椅子に、焦燥と緊張を胸の内に押し込んだ人々が、一点を見詰めていた。
 人々の視線は、講演用の大型ディスプレィに注がれていた。そこに、IDナンバーと氏名が表示されると、次の部屋に移動する。見ていると、ほんの数分の内に、会議室内に居た人の半数が、次の会議室に移動した。ただ、大会議室を出る人数と同じくらいの人々が新たに入ってくるので、いつまでも同じ喧騒が続いた。
 隼人は、待つ間に、隣の老婦人に聞いてみた。
「一体、何があったのですか?」
 老婦人は、目を丸くして、隼人を見詰めた。
「私も、何も聞いていないのよ。嫁が、急いで管制センターに行かなきゃならないと、私を急かしてね。そう言う坊やも、何も聞いてないのかい?」
 隼人は、頷いた。
「そうかい。坊やのお父さんも、ここで働いてるのかい?」
「ええ。僕も、父から管制センターへ至急来るように言われただけで、何も聞かされてないんです」
 老婦人は、大型ディスプレィを見詰めた。ディスプレィの表示が変わった時、彼女は落ち着き無く周囲を見回した。誰かを探しているようだった。しばらく、きょろきょろしていたが、どうやら探していた人物を見つけたらしく、小さく頷いて合図を送った。
「私の番が来たようよ。悪いけど、先に行くわね。私達は、飛鳥に行くらしいから、向こうで会いましょう」
 老婦人は、呼びに来た中年の婦人に伴われ、大会議室を出ていった。
 目一杯に開放されている入口と、緊張で興奮した人々の人いきれで、冷房が効かない。大会議室が、蒸し風呂のようになっていた。居ても立ってもいられないらしく、初老の男性が席を立ち、入り口付近にいる係員に食って掛かっていた。
 隼人は、周囲を見回したが、ほとんどが子連れの婦人か、老人達で、その人達が今の状況を正確に把握しているようには思えなかった。
 恐らく、ここに居る誰に聞いても、さっきの老婦人の話に優る情報を得られるとは考えられなかった。さりとて、あの初老の男性のように、係員に食って掛かるのは大人げ無いように思えた。
 ここは、黙って待つしかないと、腹を括った。
「そうさ。お父さんに教えてもらえばいいさ」
 管制センター長の父なら、誰よりも正確で詳細な情報を知っているに違いなかった。
 大型ディスプレィの表示が二回も変わると、大会議室も人数がめっきり減った。どうやら、隼人は最後の方だったようだ。残った人々の様子も、興奮より、焦燥と不安が支配し始めていた。
 内容は知らされていないが、非常事態である事も、ここに居るのが危険である事も、人々は敏感に感じ取っていた。隼人も同様で、落ち着き無く周囲を見回した。
 父は、まだ来ない。
 矢も楯も堪らず、じっと座っていられなくなった。係員に事情を聞いてみようかと、入り口に居る係員に視線を走らせたが、自分でパニックを引き起こそうとしているように思え、それを自重した。
 それから何分も経たない内に、大型ディスプレィの表示が変り、隼人の名前とIDが表示された。まだ、父の姿を見ていなかったが、係員の誘導で、別の会議室に連れて行かれた。
 そこでは、荷物のチェックが行われていた。荷物の制限があるのだろう。あちこちで激しい問答が繰返されていた。
 隼人の荷物もチェックを受けた。
「こちらの荷物は、問題ありませんが、このアタッシュケースに入っている物は何か、説明して下さい」
 係員は、隼人のパソコンを不審に思ったらしい。
「自作のパソコンです。起動しても見せてもいいですよ」
 隼人は、係員が見たくらいでは、ハッキングの証拠を掴む事はできまいと考え、アタッシュケースの蓋を開けるそぶりを見せた。
「いえ、起動するには及びません。ただ、重量制限が厳しいので、手荷物は、一つにして頂きたいのです。私の見たところ、着替えが入っている荷物をお持ちになった方が宜しいように思います」
 隼人は、返事に窮した。
 仮に、パソコンを置いていく事になれば、誰かに中身を見られる危険性が増し、ハッキングの証拠を掴まれかねない。何とかして、パソコンを持っていきたい。しかし、着替えを置いてパソコンを持っていくと言えば、それこそ疑われてしまう。
「荷物については、父に相談したいのです。父から、父の着替えも持ってくるように言われてるんです。僕の着替えだけでしたら、パソコンと一緒の鞄に入れられたのですが、父の着替えも用意したので、荷物が二つになってしまいました。どうしてもパソコンを持っていきたいから、荷物を一つにするために、父の着替えは、父に取りに来てもらいたいのですが」
 隼人にしては、一世一代の嘘をついた。その裏には、強かな計算が隠れていた。
「お父さんは、お名前は?」
 予想通り、父の名前を聞いてきた。
「征矢野勝史です」と言って、征矢野姓が書かれた自分のIDカードを見せた。
 思った通り、係員の表情が変った。
 ただ、この先の係員の反応には、二通りが考えられた。一つは、「父に渡すから、パソコンは置いて行け」と言われる事だ。そして、もう一つは……
「管制センター長の征矢野殿の息子さんですか?」
 係員は、隼人のIDカードをちらっと見ると、
「お父様は、遅れて飛鳥に向かわれる筈ですが、ここへ来る時間を割く事はできないでしょう。荷物は、どちらもお持ちになって結構です」と、あっさりと引き下がった。
 ほっとしつつも、それを気取られない内にアタッシュケースをロックすると、会議室から外に通じるドアを通り抜けた。

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  - 3 -

 会議室の前には、大型のバスが待機していて、それに乗り込むと、満員の乗客共々、駐機場に運ばれた。
(無茶だ)
 隼人は、心の中で、そう思った。
 バスを降りると、全員がそのままスペースプレーンに誘導されたからだ。
 スペースプレーンは、最大加速度でも二G弱程度と小さくなっているが、宇宙に出ると無重力環境になる点では、昔の宇宙船と何ら変わりがない。当然、無重力環境での活動に慣れていなければならない。少なくとも、身体検査を充分に行い、無重力環境に耐えられる事を確認しておくべきだ。だが、それらを何も実施していない。それどころか、年端のいかない幼児や母親に抱かれた乳児まで居る。
「無重力下に出たら、吐く奴が大勢出るぞ」
 口の中で、小さく呟いた。常識的な危惧だった。
(一体、何が起こってるんだろう?)
 これほどの無茶をしてまで、飛鳥にこれだけ大勢の人々、それも事業団の家族を移動させるのだから、その理由も緊急、かつ深刻な筈だ。
(まるで天変地異の直前じゃないか)
 困惑と混乱の頭を抱えたまま、隼人はスペースプレーンのタラップを上った。
 機内に入り、隼人は更に困惑させられた。なぜなら、どう見ても、定員以上の乗客が、客室内で蠢いていたからだ。そして、もう一つ。転落防止ネットにベルトが巻かれているのが、目に留まったのだ。使用目的は、一目で想像が付いた。
「体重が十五キロ未満のお子様は、膝にお抱き下さい。最大加速は二G近いのですが、お子様は仰向けに抱いていただければ、何の心配もございません」
 機内放送で、嘘のような事を言っている。
 確かに、体重が軽いほど、耐G能力は高くなる。航空機事故で、乳幼児だけが助かる例があるが、まさにそれだ。とは言え、通常なら二歳未満の子供は、原則としてスペースプレーンへの乗機は認められていない。二歳以上でも、きちんと一人分の座席が与えられ、体格に応じたチャイルドシートが用意される。それが、今日は、膝の上だという。
 母親達が、素直にそれに従うだろうかと危惧したが、その程度の事は予測していたらしく、特に混乱はなかった。キャビンアテンダントが、乗り込んできた乗客を、奥から順番にシートに座らせていった。
 隼人にあてがわれた席には、やや遅れて、母と同じくらいの年齢の婦人が、娘らしい少女を伴ってやってきた。
「隼人君?」
 聞き覚えのある可愛い少女の声だった。隼人は、声の主を確かめるため、隣の婦人の向こう側を覗き見た。その少女は、長い真っ直ぐな髪を両サイドに結わえ、無理矢理作った笑顔を見せていた。
「神戸さん?!」
 神戸宙美。隼人の同級生だった。
 明るい性格と、誰にでも平等に見せる笑顔で、クラスのアイドル的存在だった。その宙美の笑顔が、今は曇っている。
「あたしの母よ」と彼女が、隣の婦人を紹介した。
 言われてみると、婦人は、宙美に良く似た知的な美人だった。
「おかあさん、征矢野隼人君よ」
 彼女は、隼人の名前を聞いた瞬間、ほんの一瞬だったが、動揺を見せた。
 征矢野姓は珍しい。管制センター長の親族だと考えてるのも無理はない。彼女が見せた動揺は、そのせいだろう。
「宙美が、いつも御世話になっています」
 婦人は、軽く会釈したが、緊張は隠せず、笑顔は見せなかった。
(御世話になってるなんて、まるで逆なのに)
「いいえ、僕の方こそ」
 どぎまぎしながら、それだけ答えるのが精一杯だった。
 隼人が、シートベルトで身体を固定した後も、ぞくぞくと人が乗り込んできた。ほとんどが成人男性だが、みんな還暦をとうに超えているようだった。中には、白寿が近そうな老人さえ居た。
 彼等は、足元の転落防止ネットを手に取ると、天井と床のフックに引っ掻け、ハンモックを垂直にしたような形にした。ベルトを使って、これに身体を固定するのだろう。こんな方法は、尋常ではない。
 隼人の隣には、八十歳を超えていそうな老人が、ネットを準備していた。
「おじいさん、ここに座って」
 隼人は、大忙しでベルトを外した。見ていられなかったのだ。
「坊や、私は大丈夫だ。君は、そこに座っていなさい」
「駄目だよ。僕の方が、おじいさんよりずっと元気だし、身体が柔らかいから怪我し難いよ。それに、僕は今度で五回目のフライトだから、慣れてるし」
 ベルトを外し終わると、老人をシートに引っ張った。
「隼人君……」
 宙美が、心配そうに声を掛けた。
 老人は、宙美の顔をちらっと見ると、「ガールフレンドかい?」と、隼人にだけ聞こえる小さな声で言った。
「違うよ」
 隼人は否定したが、老人は「ありがとう。シートに座らせてもらうよ」と言うと、宙美達を窓側へ一つ席をずらさせ、隼人と場所を入れ替えた。
 何だか、彼女の前で格好良い所を見せようとしているように思われたのではないかと、心外だったが、急いでネットの準備をし、身体をそれに固定した。
 このネットは、本来は、転落防止用だ。宇宙空間で加速している時は、機首が天井、機尾が床になっているのと同じだ。こんな時に、シートから離れたら、機首から機尾まで、真っ逆様に転落してしまう事になる。物を落とした場合も、同じだ。それを防止するのが、このネットの本来の役目だが、今日は、そのネットまで使って、乗客を乗せようとしている。
 無茶苦茶だった。いや、無茶苦茶な事をしなければならない何かが起こっているのだ。
 隼人は、得体の知れぬ恐怖に、身の竦む思いだった。
 スペースプレーンは、ドアを閉めるなり、誘導路を走り始めた。
 客室内では、まだ転落防止ネットに体の固定が終わっていない者が居た。キャビンアテンダントは、悲鳴に近い声で指示を出していた。
 パイロットも、管制塔も、何かを恐れて焦っているのが、隼人にも伝わってきた。
 機内放送が、機内の設備、事故時の対処方法や脱出器具、無重力状態での注意事項など、法律で定められている文を読み上げていく。客室の総てのディスプレイが、映像でそれを補強する。だが、この状況では、どこか空々しい気がした。
 誘導路端まで来た機体は、滑走路の方へ向きを変えた。そして、停止したまま動かなくなった。
 通常なら、ここでリニアカタパルトの接続をするが、その作業には1分も掛からない。それが、2分を過ぎても動かなかった。
「こちら、機長です」
 本来の手順を知っている乗客が異常に気付き、ざわつき始めていたが、スピーカーから流れ始めた機長の声に、みんなが傾聴した。
「ただ今、管制塔からの連絡で、間も無く、大きな地震の揺れがここに到達する事が分かりました。本機は、地震の揺れが収まるまで、ここで待機し、揺れが収まった後、直ちに離陸する予定でございます」
 隼人は、驚いた。
(地震の発生を予知できるようになったのか?)
 大きな地震の発生確率は、かなり精度が上がってきたとは言え、発生時期の予測は不可能と言われている。それが、今は、数分後に発生する事を、管制塔が断言している。
 P波で、本震のS波の到着時刻を予測するシステムは、ずいぶん昔からある。それなら、秒単位の予測もできている。それを使ったのだろうか。それにしては、地震の予測から揺れまでの時間が開きすぎている。
 他の乗客も、不審に思っているらしく、機内は再びざわつき始めた。
 そのざわめきを突き破って、激しい揺れが機体を襲った。
「キャー!!」
 機内のあちこちで、悲鳴が上がった。
 今までに経験した事が無い、激しい揺れだった。オーバーヘッドコンソールの中の手荷物が、激しい音を立てながら蓋に激突し、今にも飛び出して来そうだ。乱気流には慣れている筈のキャビンアテンダントでさえ、あまりに激しい揺れに悲鳴を上げた。
 隼人も、ネットに身体を固定していても、とても立っていられないほど、上下、左右に身体を揺さぶられた。最後には、足を取られて転倒し、ベルトに支えられてネットにしがみついている有り様だった。それでも、揺れは収まらず、ネットから振り解かれそうに、左右のシートに叩き付けられた。
 地球の最後を主題にした映画の主人公にでもなったような状況で、これでもかと揺れ続いた。映画の主人公なら、何かの名案を閃き、こんな状況さえも潜り抜けるところだが、今の隼人は、成されるがままに振り回され続けた。
 数分間も続いて、ようやく揺れが納まった時、隼人は、捩じれたネットに絡め取られ、蜘蛛の巣に掛かった蝶さながらになっていた。
「坊や、大丈夫かい?」
 老人は、隼人を気遣った。
「平気です」
 急いでネットの捩じれを戻しながら、四肢の自由を取り戻そうとあがいた。何とか、両足で立ち上がる事ができた時、平然とした顔を作り、老人に微笑んだ。老人の向こうには、宙美の心配そうな顔があった。
「大きな地震だったね」
 確かに、今までに経験した事が無い激しい揺れだった。
「マグニチュードは、揺れの継続時間の平方根に近い値になるんですよ」
 ちょっと、自慢気に隼人は言った。
「と言う事は、マグニチュードは九か十ぐらいって事かな。一分半くらい、揺れていたから」
 隼人は、答えられなかった。
 地震のマグニチュードは、史上最悪の地震でもマグニチュードが十を越えた事はない。
(何か、おかしい)
 隼人の疑問を、更に混迷の底に陥れるような機内放送が始まった。
「ただ今の地震は、縦揺れです。次の横揺れが襲ってくる前に離陸するよう、管制塔から指示がありましたので、直ちに離陸します」
 縦揺れ? 横揺れ?
 確かに、縦揺れ、即ち圧縮派であるP波は、横揺れのS波のほぼ倍の速さで伝わる。だが、P波は、もう少し軽く、継続時間も半分程度になる筈だ。そうなると、概算のマグニチュードは、ルート二倍のマグニチュード十三か十四?
 仮に、そんなマグニチュードがあるとしたら、この程度の揺れで済む筈が無い。機体の脚を圧し折るくらいの揺れになってもおかしくない。
 それに、P波とS波の間隔が、スペースプレーンが離陸するのに十分なだけ空いている事も、不思議だ。震源地との概算の距離は、おおよそ、P波とS波の秒単位の時間差を八倍したところだ。仮に、離陸に必要な時間が三分だとすると、震源地は千四百キロメートルも離れている事になる。
 揺れの激しさとのバランスは取れそうだが、過去の最大規模の地震を考えると、とても納得できない。
 隼人の困惑を余所に、機内放送で言った通り、機体は滑走を始めた。
「怪我をされている方は、離陸後、水平飛行に移りました際に、客室乗務員がお薬をお持ちします。それまでの間、席を立ったり、ベルトを外さないようにお願いします。ただ今から、本機は、離陸いたします」
 キャビンアテンダントが、なんとか平静を装い、繰り返し注意を呼び掛けている。
 揺れが収まっても、直ぐには離陸できない筈だ。滑走路の路面状態を確認しないで良い筈がない。それでも離陸を強行するのは、次の揺れで、滑走路を破壊される事を警戒しているのだろう。
「おとうさん……」
 隼人は、呟いた。
 父は、今も管制センターに残っている。滑走路でさえ破壊するような地震が襲ってくるとなると、管制センターもタダではすまないだろう。それに、隼人達を脱出させなければならない何かから逃れようにも、滑走路は使えなくなっている可能性があるのだ。
 機体は、重々しく加速を開始した。
 大型輸送機の背中に超音速機に似た宇宙船を載せたスペースプレーンは、満載の燃料に加え、定員を超える乗客を乗せているので、加速にも時間が掛かっている。しかし、強力なリニアカタパルトの力を借りて、戦闘機のような加速を続けた。
 もう誰もが異常事態に気付いていた。心臓を締め付けるような緊張と不安が漂う中、機体は確実に速度を上げていった。
 宙美の母は、手を合わせて祈りを捧げている。席を譲ったおじいさんも、手を合わせていた。どこからか、お経さえ聞こえてくる。隼人も、だんだん不安になり、神様でも、仏様でも、キリスト様でもいいから、拝みたい気持ちになった。
 五十秒は滑走しただろうか。滑走路の末端が気になり始めた頃、ようやく、機首を持ち上げた。やがて、スペースプレーンは地上を離れ、南へと進路を取った。
 約一時間、南下を続け、ラムエアジェットを全開にして加速を続けたスペースプレーンは、長い持続旋回に移った。四十分を越える持続旋回によって進路を東に変えたスペースプレーンは、赤道上空で、予定の高度八万フィート、マッハ六に達した。ここで、スペースプレーンのオービターがマザーベッド(母機)から切り離され、地球周回軌道へと、更に高度と速度を上げていった。

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  母

 どういう訳か、夜中に目が覚めた。
 直前までトイレの夢を見ていた。寝る前に水分を取り過ぎたせいだろう。隼人は、ベッドから出てトイレに行った。
 トイレですっきりしたので、また眠気を催してきた。大きな欠伸をしながら、廊下を歩いた。食堂の前を通り過ぎる時、中から明かりが漏れている事に気付いた。父が帰ってきて、夜食を食べているのだろう。
 父の帰宅時間は午前零時をまわる事がほとんどだったが、更に忙しくなると、二、三日帰ってこない事さえあった。日頃から父と話す機会がほとんど無いので、ちょっと顔でも見ようかと思った。
 だが、食堂のドアに手を掛けた時、隼人の手が止まった。
「あなた! 聞いてるの?」
 珍しく、母の詰問する声が聞こえてきた。
「内藤さんの御主人は、ノイローゼ気味になってるわ。若い吉岡さんや山野さんも、私に愚痴る事があるのよ。御主人は、猛烈すぎて、ついていかれないって」
 つい先日、吉岡さんと山野さんは、両親に仲人を頼みに来たので、隼人も顔を知っていた。
「私は、彼等に無理強いをした事は一度も無いよ」
 父は、ぼそっと言った。
「そうでしょ。あなたは、人に無理強いできるような人じゃないもの。でもね、あなたの態度や行動が、下の人達には、プレッシャーになる事もあるのよ。それを、分かって上げなきゃ」
 母は、賢い人だった。父も頭が良かったが、母の賢さは、父の頭の良さとは正反対のものだった。
 母は、真面目だった。父も仕事熱心な真面目人間だったが、母の真面目さは、父の真面目さとは正反対のものだった。
 母は、常に周囲の人達への気配りを忘れなかった。不愉快な思いをさせないように、一つ一つの言葉にも注意を払っていた。滅多に冗談を言う事はなく、言う場合にも、間接的にも人を傷付けることがないように、神経を遣っていた。
 町内の清掃活動や自治会活動等、いろいろと面倒で人が厭がる事柄も、身を粉にして働いた。それは、他人の仕事を押し付けられた時でも変わらなかった。さりとて、決して出しゃ張る事もなかった。
 だから、母を好きと言う人は多くないにしても、嫌いだと言う人は誰一人居なかった。
「あなた、内藤さんの仕事を代わりに終わらせたんですってね」
「ああ、遅れていたからね。日曜日に、彼が来てなかったから、代わりに済ませたよ」
 父は、食事の最中らしく、口をもごもごさせながら話した。
「それがいけないのよ。内藤さんの御主人も、ここ半年くらい、休みらしい休みも無く頑張ってたんでしょう? 下のお子さんの入学式の日も、式にだけ出席して、午後からは御仕事だったって、奥さんも驚いてたわ」
「私だって、休んでいないよ」と、父は不思議そうに言う。
「逆よ。あなたが休んで見せなきゃ、下の人達が休める筈ないでしょ!」
「仕事は、遅れ気味なんだ。資源用の小惑星は、もうすぐ一度目のフライバイをする。月面すれすれを通過するんだ。三十キロ。高度は、わずか三十キロしかない所を通過するのだよ。失敗すれば、月面に激突し、大きな被害が出てしまう。私の首が飛ぶくらいではすまないんだ」
 隼人は、「高度三十キロ」と言う言葉に、興奮を感じた。
 高度三万メートル!
 スペースプレーンからオービターを切り離す高度と大差ない。地球なら、大気圏の懐深く入り込んだ場所だ。そんな所を、小惑星を通過させるのだ。それも、地球生れの知的生命がやってのけようしている。そして、そのプロジェクトの中心に父が居る。
 隼人は、言葉で言い表せないロマンを感じた。
「あなたは、それを成功させる事しか考えていないわ」
「それが私の仕事だ」
「違うわ!」
 母の声は、ヒステリックに聞こえた。
「何がだ!」
 母に呼応するかのように、父もヒートアップした。
「私は、任された仕事を、全力をあげて完遂する。それとも、お前は、仕事を投げ出すいい加減な男になれと言うのか!」
「あなたは、仕事を自分一人で仕上げる事しか考えていないのよ。チームの考えがないわ」
「そんな事はない。仕事は、一人ではできない。増してや、こんな大規模なプロジェクトは。だから、私は、率先して助け合う雰囲気作りをしている。プロジェクトを動かすとはどういう事なのかが、お前には分かっていない」
「分かっていないのは、あなたの方です!」
 母は、ヒステリーを起こしていた。少なくとも、隼人にはそう思えた。
「もう、この話は止めなさい」
 父は、深呼吸した後に、落ち着きを取り戻した声で、そう言った。
「今夜は、これで止めますけど、あなたの頭が冷めた時に話しましょう」
 大きな溜息をついた父を無視して、母は奥の勝手の方に去った。
 両親の夫婦喧嘩を初めて目撃した隼人は、二人に気付かれないように、そっと寝室に戻った。
 隼人は、父の気持ちが分かった。
 小惑星から資源を採取した例は数多くあったが、小惑星を地球軌道に固定した事は過去に一例もない。
 今回のプロジェクトは、日本の軌道ステーションのリプレースを兼ねている。老朽化が限界まで進んでしまった飛鳥に代わる軌道ステーションは、この小惑星の中に作られる。もちろん、小惑星の中に軌道ステーションを作り込む事も、初の試みである。しかも、この技術が確立したなら、そのまま恒星間宇宙船に転用できるらしい。
 父の立場なら、隼人も、このプロジェクトには夢中になるだろう。
 父が羨ましく感じられた。そして、将来は、父と同じ道に進みたいと、真剣に思った。
 だが、そんな自分勝手なロマンは、数日後に起こった事件で、間違いである事を思い知らされた。
 母がノイローゼ気味と言っていた内藤と言う人が、管制センターの屋上から飛び降り、自殺したのだ。母の危惧が、現実となってしまった。最悪の形で・・・・・・
 内藤の娘は、姉と同級生で、隼人も何度か顔を見た事があった。隼人は、母と姉に伴って、内藤の通夜に出向いた。
 母が、内藤夫人にお悔やみを言おうとした時、夫人は、きっと母を睨んだ。
「御主人は、まだ見えないんですね」
 憎しみと怨みの篭った痛烈な皮肉だった。
「仕事が一段落次第、こちらに伺うと申していました」
「そうよね。御主人は、この世の何よりも、仕事が大事なんですものね。人の命よりも」
 母は、応えに窮していた。
「御引き取り下さい」
「で、でも……」
「貴方にお願いした私は、本当に馬鹿だったわ」
 その一言で、母はよろめいた。
 深々と頭を下げ続けた。隼人は、小さく畳まれた母の背を見詰め続けた。
「頭を下げても、主人は帰ってきません!」
 背に浴びせられた罵声に、母は更に小さくなった。
 長々と頭を下げ続けた母を、姉は抱きかかえるようにして家に連れ帰った。
 この日を境に、母の様子は変わってしまった。
 ある日、母が睡眠薬を飲んでいるところを発見した。それを見た姉は、ヒステリックに叫びながら、母から睡眠薬を奪った。
 母は、内藤の死の責任を一人で背負った。
 宇宙移民事業団の狭い官舎群の中では、噂は一気に広がる。内藤夫人から父を説得するように依頼されていたが、何もしてくれなかったと、実しやかに囁かれた。
 結局、仕事を理由に、通夜にも、葬儀にも、父は出席しなかったのだ。激しい反感を買ったが、父は自分のやり方を正義と信じ、貫き通した。
 管制センター長の地位が持つ力は想像以上に強いらしく、反感は、大人しく優しい母に向けられるようになっていた。噂は噂を呼び、やがて母は悪魔のように言われるまでになった。
 四面楚歌にも関わらず、父には一言も愚痴を言わず、母は耐え続けた。
 だが、心優しい母には、耐え続ける事など、到底できる事ではなかった。間も無く、精神科に通うようになり、睡眠薬にも手を出すようになった。睡眠薬を飲まなければ、眠りに就く事もできない。そこまで、母の心は虫食まれていた。
 だから、父との離婚に踏み切ったのだ。そうしなければ、母は、廃人になり兼ねない程、追い込まれていた。
 実際には、母は、父との離婚を最後まで渋った。離婚は、姉が勧めたのだった。隼人から、あの夜の会話を聞いた姉は、父から引き離さないと母の心が壊されてしまうと、真剣に考えた。父と離婚すれば、母は、仕事の鬼である父の被害者である事を、周囲の人々に印象付けられ、非難の目が母に向けられる事はなくなる。
 逆に、母が離婚を渋った理由は、父だけが悪人になる事を恐れたためだった。
 だが、母の窮状を、父は最後まで気付かなかった。その事が、母が姉の説得を聞き入れる要因の一つとなった。
 結局、父は、実の娘に三行半を突き付けられたのだった。
 隼人は、姉と一緒に母の故郷である沖縄に行く事になっていた。だが、母から離婚を言い渡されて以来、父の元気が無くなった事が心配になった。少し迷ったが、隼人は自分の意志で父の元に残る決断をした。
 母と姉が沖縄に発つ時、隼人は港まで二人を見送りに行った。
 鹿児島から沖縄へは、地表効果航空機(GEP)が、毎日二往復出ていた。GEPは、外見こそ飛行艇のように見えるが、巡航高度は数十メートル程度しかなく、速度も時速五百キロ程度と遅い。だが、燃費が良く、機体の大型化も容易なため、デビューから二十年で海上旅客輸送の中心となった。
 二人が乗る予定のGEPは、乗用車の積み込みを始めていた。出発時刻が、近付いていた。空港内に、最終の搭乗案内が流れた。
「隼人」
 GEPを見詰めていた隼人は、顔を母に向けた。母は、悲しそうな目で隼人を見詰めていた。
「お母さん。早く、元気になってよ」
 見る見るうちに、母の目から涙が溢れてきた。隼人は、もらい泣きしそうで、直視できなかった。
(ここで、僕が涙を見せたら、お母さんが心配する。病気にも良くない)
 隼人は小柄な方だったが、中学生になった時、母の背を追い抜いた。自分より小さくなった母を見下ろし、その肩にそっと手を置いた。
(お父さんを見守る事で、お母さんの心労を減らしてあげたい)
 手の平に母の温もりを感じ、支えてあげなければと思った。
 急に、隼人は抱きしめられた。力のこもった手で抱きしめられ、隼人は母の気持ちを肌で感じた。
「お父さんをお願いね」
 それだけ言うと、母は、すっと離れた。そのまま背を向けると、隼人を案ずる姉の背を押し、ゲートの中へと姿を消した。
 隼人は、駆け出した。人波をかき分け、屋外の送迎デッキへと、階段を駆け登った。
 息を切らせてデッキの手摺に身を乗り出した時、母が乗ったGEPは、ボーディングブリッジを外されていた。母の座席は、右舷の窓側なので、送迎デッキからは見る事ができなかった。
 GEPは、ゆっくりと移動を開始し、やがてスロープから海上へと下りた。GEPが巻き上げた水煙が、冬の遅い朝日を浴びて、虹色に輝いた。
 機種近くの両脇に取り付けられた四基のエンジンがくぐもった騒音を増し、GEPは加速体勢に入った。数秒後、海から押し上げられるようなGEP特有の離水をすると、どんどん遠ざかっていった。
 GEPが錦江湾の彼方に消え去るまで、隼人はデッキの手摺を握り締めていた。

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  飛鳥

  - 1 -

「あっ、飛鳥だわ」
 宙美が、軌道ステーション飛鳥を指差し、母親に示した。
 浅い眠りから覚めた隼人も、身を屈めるようにして、宙美が示す方向を見た。
 高度千六百キロの宇宙空間に、純白の軌道ステーション飛鳥は、悠然と浮かんでいた。
 距離が近付くにつれ、白いドーナツ状リングの中心を細長いシャフトが貫く飛鳥の外観が見えるようになってきた。
 気がつくと、窓に張り付くように、目的地である飛鳥に見入っている乗客は他にもいた。ただ、それは少数で、多くは顔色が悪く、中には土色をしている者もいた。宙には、黄色い液体が所々に浮かんでいて、スペースプレーンの姿勢制御が行われる度に、あちこちに移動していく。
 言うまでもなく、黄色い液体は、乗客の吐瀉物である。シートバックのポケットには、いわゆる下袋があるのだが、それが間に合わなかった人や、ネットに体を固定していた人の吐瀉物が、処理するものが居ないために漂っているのだ。
 他人の吐瀉物が近付いてくることもあり、それを手持ちのハンカチや下袋で避ける人も居るが、動く気力も無いほど宇宙酔いに罹った者は、体に付くのも避けようとしない。ただ、強烈な異臭と見た目の気持ち悪さで、本人も下袋に顔を突っ込み、胃からこみ上げてくる悲鳴のような声と共に、胃液を吐いている。
 そういう光景を見ると、宇宙酔いにはなっていない隼人も、気持ち悪くなってくる。周りの惨状から目を逸らしたい気持ちも働いて、飛鳥に神経を集中させた。
 飛鳥の外見は、他の軌道ステーションを少し異なるが、概ね類似点は多い。
 飛鳥のシャフトには、二箇所の太い部分がある。一つは、シャフトの下端、四本のドッキングポートとの接合部だ。もう一つは、シャフトの中間付近、ドーナツ状のリングとを結ぶ六本のスポークとのハブ部分だ。打ち上げ用ロケットの最終段の燃料タンクを切り離さずに軌道に上げ、それを流用して内部を居住用に改装して作られた。
 シャフトのドッキングベイとの逆サイドには、研究用モジュールと大型の太陽電池パネルがある筈なのだが、隼人の位置からは窓枠に隠れて見えなかった。
 六箇所あるリング側のスポークとの接合部分も、ロケットの燃料タンクを流用している。燃料タンク間は、細いパイプで結ばれていて、パイプからカプセル状の円筒を左右に三個ずつ突き出した形状になっている。
 飛鳥は、ペイロードの小さな旧式のロケットによって建造された。シャフトやリング、カプセル等の外観上の細い部分は、ロケットのペイロードベイに積載して打ち上げられた。しかし、ペイロードベイの搭載力は、容量的にも、重量的にも、小さいため、総てをここに搭載していったのでは、打上げ回数が増え、費用が嵩んでしまう。そのため、燃料タンクも流用し、建設コストを押さえつつ、八箇所の大容量ゾーンを造ったのだ。
 各国の軌道ステーションも、以前は似たような形状をしていたが、アメリカ、EU、ロシア、中国等の軌道ステーションは、新造の二重リング、あるいは三重リングのものとの入れ替えを既に完了しており、このような古い形状の軌道ステーションは、地球周回軌道上には飛鳥しか残っていなかった。
(古いなぁ)
 飛鳥の表面のあちこちに、補修や機器を追加した跡が見られる。老朽化は、歴然としている。それでも、日本の低重力研究のメッカとして、今も第一線の研究者が、ここで研究を続けている。
「隼人君、まだ眠そうな目をしてるわよ」
 この状況下で居眠っていた隼人に対し、宙美は刺のある言い方をした。
「なるほど、坊やは慣れてるんだね。ところで、この宇宙船は、墜落途中って事はないじゃろうな」
 無重力は、ちょうどジェットコースターで急降下する感じに似ている。老人には、墜落しているように感じたのだろう。
「僕は平気だよ。おじいさんは?」
「流石だね。わしゃ、胃が持ち上げられているようで、気持ちが悪くて堪らんよ」
 老人は、フォローのつもりで言ったのだろうが、隼人には皮肉に聞こえた。
 隼人自身、なぜ、母の夢を見たのか、不思議だった。胸には、母が抱きついてきた時の感触が、残っていた。こんなにリアルな母の夢を見たのは、初めてだった。
 ぼうっと舷窓を見ていると、オービターが右へ旋回しているらしく、飛鳥は、窓の後ろへと消えていった。
「わしらは、飛鳥に行くんじゃなかったかいな」
 飛鳥を通り過ぎたように見えたので、不安になったようだ。
「ええ。だから、逆噴射するために、後ろ向きに変えているところです」
 手をオービターに見たてて説明すると、老人は感心したように頷いた。
 隼人の言葉を裏付けるように、軽い加速が数秒間続いた。オービターは、飛鳥の下側に潜り込むように接近していき、間も無く、シャフトの先端にあるポートの一つ、第四ポートにドッキングした。
 ドッキングの衝撃は、全く感じられなかった。オービター側のハッチとポート側のハッチとが接続された際の、コクンというロック音だけが、微かに聞こえてきた。
「ただ今、軌道ステーション飛鳥に、到着致しました。これから、皆様には、飛鳥に乗り移って頂きます。飛鳥での行動は、軌道ステーション管理官の指示に従って下さい」
 機内放送が終わったのを合図に、ネットに身体を固定していた男達は、慣れない無重力空間でベルトの拘束を解き、ネットを外していった。
 隼人もそれに習った。
 機内は、乗客が戻した吐しゃ物が、黄色い球体となって強い酸性臭を撒き散らしながら、ところどころに浮かんでいた。
 多少とも元気が残っている者は、それを避けて出口に向かったが、多くは、疲労が顔に浮かんでおり、吐しゃ物が衣服に付くのも厭わずに、ふらふらと出口に向かって漂うように移動した。
 隼人は、地震と大気圏脱出時の揺れで、何箇所かに小さな打ち身があった。それでも、宇宙空間に出るのも、飛鳥も、初めてではない事による気持ちの余裕で、席を譲った老人を介護しつつ、出口へと彼を誘導した。
「胃が持ち上げられるような気がする。胃が口から出てきそうじゃ」
 老人は、慣れない無重力に、不快感を隠せなかった。
「重力エリアに着くまでの辛抱ですよ」と、老人を励ました。
 オービターは、コクピット直後の機体上部を、ドッキングポートに接舷する。
 隼人は、一人ずつしか通れないハッチの下に来ると、先に、老人にハッチをくぐらせ、その後を追った。
 ハッチから到着ロビーへと続く、細く長い通路を、手摺に掴りながら、人々は慣性力で重く感じる体を引き摺って行く。
 通路を抜け、四つのドッキングポートからの通路が集中する到着ロビーに出た時、隼人は、汗臭さに似た異臭を感じた。それでも、定員オーバーと、胃酸の臭いが淀んでいたオービター内に比べると、ここの空気に清廉さを感じた。
「避難民の皆様は、ハーフパイプでシャフトを上がって頂いて、エレベータホールへお越し下さい」
 場内アナウンスが、隼人達を誘導した。
(やっぱり、避難民なんだ、僕達は!)
 避難民という単語が、嫌に耳に残った。
 定員を遥かに越える乗客が、疲労に歪んだ顔でハーフパイプの順番を待つ様は、被災地から命からがら逃げてきた被災民さながらだった。
「ハーフパイプって、何だね?」
 隼人の手を握り締めたまま、老人は口を開いた。
「ハーフパイプは、シャフト内の到着ロビーとエレベータホールを繋ぐ交通機関なんです。ハーフパイプの名前は、人が乗るベッドの形状から来てるんですよ。人一人分の大きさのパイプを半分に縦割りした形なんです」
 ハーフパイプは、一基がシャフト内を往復する。百人近い人々が一度に集まったせいで、中々、順番が回ってこなかった。五回目に戻ってきた時、漸く、隼人達の順番になった。
「おじいさん、こっちこっち」 
 隼人は、慣性が付き過ぎないように注意しながら、老人の体をハーフパイプに引き寄せた。
 ハーフパイプは、横に三列、前後方向に五列の十五人乗りだ。天井と床はあるが、横壁は無い。ハーフパイプとシャフト本体の内壁との隙間は、左右とも一メートルあり、全線に渡って手摺が設けられている。飛鳥の職員の多くは、ハーフパイプを使用せず、この手摺に掴って移動する。左右の隙間は、そのための通路であると同時に、ハーフパイプが途中で動かなくなった際の避難通路も兼ねている。
 乗客は、壁の無い横から乗り降りし、半円筒に立った姿勢のまま乗る。隼人も、老人を引き摺るようにしながら、ハーフパイプの側面から中に入った。
 隼人は、老人を半円筒形の中に押し込み、手早くベルトを締めた。そして、自身も、隣に潜り込んだ。
「おじいさん。気を付けて下さいね。加速が終わると、向きが変りますから」
 老人は、頷いた。
(分かってないかも)
 表情の変化に乏しい老人の顔を見て、隼人はいつでも手助けできるように、心の準備をした。
 ハーフパイプは、重力の二十分の一で加速する。バランスを取るため、ハーフパイプと同じ質量のマスバランサーが、ハーフパイプと逆方向に動くようになっているが、ハーフパイプの天井裏と床下を通るので、目で見る事はできない。
『発車します』
 合成音のアナウンスが流れると、ハーフパイプは、ゆっくりと動き出した。それにつれ、隼人は、体が半円筒のベッドに軽く沈んだ。加速は、六秒間続き、秒速三メートルに達した。
 エレベータホールまで、およそ四十秒の乗車である。
「おじいさん、回転するから注意してね」
 ほとんど同時に、『ベッドが回転し、進行方向と逆向きになりますので御注意下さい』のアナウンスも流れた。半円筒のベッドは、その軸を中心に右回りに回転して、逆向きになった。
 危惧したとおり、老人は、ベッドの回転に驚いて、飛び出しそうになったが、隼人が声を掛けたので、辛うじて落ち着きを取り戻した。ベッドの回転が終わり、再び、お互いの顔が覗けるようになった時、二人で微笑んだ。
 エレベータホール前に到着したハーフパイプから、隼人は、老人を伴って降りた。
「ここが、最大の難関ですから。でも、大した事はないけど」
 隼人は、ハーフパイプの目の前にある手摺を、指し示した。
 飛鳥のリングは、二十五秒に一回の割合で自転し、向心加速度による重力を得ている。その自転は、リングとスポーク、エレベータホールに限られる。つまり、静止しているハーフパイプの駅から自転しているエレベータホールへと移動しなければならない。
 自転エリアとの境には、リング状の手摺がついている。その直径は三メートル程なので、自転側と静止側では毎秒四十センチくらいの速度差がある。この速度差を小さくするために、自転側と静止側の間に、中間の速度で動く幅五十センチのゾーンがある。
(エレベータホールの自転とハーフパイプを同調させないのは、今時、飛鳥くらいのものだよなぁ)
 こんな所にも、飛鳥の古さを感じる。特に、不慣れな老人には、この乗り移りは大変なのに、飛鳥にはこれを改善できる余地が残っていなかった。
「いいですか。エレベータホールは、弱いと言っても、重力があるから、頭を下にしないように」
 老人に注意を与えた後、見本を見せる意味で、先頭に立って乗り移って見せた。
 慣れたもので、スムーズに、中間ゾーン、自転エリアへと乗り移った。渡り終わったところで、彼は老人に合図を送った。老人も、見様見真似で、何とか自転エリアへ乗り移ったが、頭を下にしたままに、ホールを下ろうとしたため、ゆっくりと滑り落ちてしまった。重力は、地上の四十分の一しかないので、大した怪我にはならなかったが、額と肘に小さな擦り傷は作ってしまったようだった。
「坊やの言った通りになってしまったよ」と、老人は頭を掻いた。
 エレベータホールでは、人々は壁面に立っていた。ただ、歩こうとすると体が浮いてしまい、上手く歩けない。本来なら、磁石付きの靴を用意するのだが、避難民には用意が間に合わず、移動する際には四つん這いとなって、床面に穿たれた凹面状の手掛かりを使った。
 人々は、六基の内の二基のシート式エレベータに分乗し、重力エリアへ移動した。

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  - 2 -

「ここは、目が回るのぉ」
 重力エリアは自転しているので、敏感な人は目眩を感じる。普通は、子供の方が感じ易いのだが、この老人は年齢に似合わず敏感らしく、自転を目が回ると表現した。ただ、隼人は気にならなかった。
「おじいさん、ここがエントランスホールだよ。反対側にも同じものがあるから、もし、おじいさんの家族が向こう側に行ってしまったのなら、僕が探してきてあげるよ」
 飛鳥は、各部屋がシンメトリックに配置されているので、こことは反対側にもエントランスホールがあり、別のエレベータで降りた人達は、そこに集合している筈だった。
「わしの家族は、息子夫婦と孫が一人なんじゃよ。嫁と孫は、最初の便で出ているから、もう着いとるじゃろう。息子は、最後の便で来ると言っていたから、わしは息子を待ってから二人の所へ行くつもりだ」
 目眩が酷いのか、疲れた声だった。だが、身寄りが居ると聞いて、隼人もほっとした。
 エントランスホールには、折り畳み椅子が並べられていた。地球の重力の八割しかないが、疲れた体には、立ちん坊は辛い。隼人は、老人を空いていた椅子に座らせ、自分も他に空いている椅子を探した。
 意外に空いている椅子は少なかった。
 小さな子供たちは、こっくりこっくりと居眠っている。母親に抱かれて、すやすや眠る赤ちゃんも居る。大人も、ほとんどがぐったりしていて、中には居眠っている人もいた。壁際には、気分が悪くなった人が、ストレッチャーの上に横になり、治療を受けていた。そのほとんどは、老人だったが、一人赤ちゃんが治療を受けていた。傍らで、母親が、悲壮感を帯びた声で、子供の名前を呼び続けている。
 隼人は、胸が締め付けられるような気持ちがした。
「隼人君」
 宙美の声だった。隼人は、宙美の姿を探した。彼女は、最後列で手招きして、隣の空いている椅子を示した。隼人は、宙美の母も一緒だったので、どうしようか迷ったが、彼女の隣に座った。
「おい、いつになったら、始まるんだ!」
 どこからか、怒声が響いた。
 重力が戻ってきたせいか、思考力も回復し、それが苛立ちを産み始めたのだろう。
「我々が、ここに連れてこられた理由の説明が無いのか?」
「おい、こら! 時間稼ぎをしてるつもりか!」
 男達の言葉が、徐々に荒さを増してきた。初老の一人は、席を立ち上がり、ホールの入り口付近にいる係員の一人に詰め寄った。
「私達をどうするつもり!」
 疲れて眠っている二、三歳くらいの男の子を抱いた母親も、ヒステリー気味だ。
 誰もが苛ついていた。ホール内も、騒然とした雰囲気に包まれ、一触即発の雰囲気だった。とうとう、避難民同士で、口論が始まった。興奮状態の二人は、それぞれに自分の主張を言い張り、すれ違いの口論を続けた。誰かが、二人の間に割って入り、何とか沈静化しようとしたが、役目を果たせずに、口論の続きを眺めているしかなかった。
 その二人が取っ組み合いを始めてしまう寸前に、一人の男性が壇上に現れた。
「お待たせしました。ただ今から、皆様が避難民となった経緯と、これからについて、御説明します」
 男性は、コホンと咳払いすると、再び、マイクに向かった。
「皆様は、地上を襲った小惑星の冬を逃れてきた避難民でございます。資源採取用に地球周回軌道に固定しようとしていた小惑星が、周回軌道を外れ、地上に落下しました。皆様が、地球を離れる数分前です」
 ざわめきが広がった。
「地上は、小惑星が巻き上げた土砂や海水によって、完全に覆われています」
(それじゃ、小惑星の冬になってしまう!)
 隼人は、恐竜を絶滅させた小惑星を思い出していた。
 北半球は、真夏だ。一気に小惑星の冬に陥れば、農作物が壊滅してしまうだろう。農作物の生産量は、北半球が圧倒的に大きい。地上が未曾有の食糧難に陥る事は、想像に難くない。
 それだけではない。
 野生の動植物まで絶滅する恐れがあるし、地球環境自体が元には戻らないかもしれない。
「小惑星が落下した地点は、パラオ諸島付近の北緯七度、東経百三十三度です。落下時の衝撃と津波によって、フィリピン、インドネシアはもちろんの事、日本の海岸地帯も、ほぼ壊滅しました。津波は、沖縄付近では百メートルを越え、東京湾内でも二十メートルもあったそうです。
 大変申し上げにくいのですが、鹿児島の宇宙移民事業団管制センターは、連絡が取れない状況が続いており、海岸線にあった事から、絶望視されています。東京も、港区、千代田区、中央区、江戸川区等の低地帯は壊滅状態で、その前に襲った地震の被害と合わせて、これらの地区での生存は、絶望的かと……」
 男性は、声を詰まらせた。
 鳴咽が、ホールに響いた。
「被害状況を、正確に聞かせてくれ!」
 一人の男が、怒りに満ちた声で要求した。
「そうよ。長野はどうだったの? 祖父が一人暮らしをしてるのよ」
「山間部は、大丈夫なんでしょう? うちは、新潟に妹夫婦が居るの。日本海側はどうなの?」
 みんな、親族や知人の安否が気になっていた。
(お父さん、お母さん、お姉さん。脱出できたよね)
 隼人は、昨日の朝に出掛けていった父の後ろ姿が、瞼に浮かんで仕方なかった。
「皆様のお気持ちは分かりますが、地上との連絡は、ほとんど取れていません。分かった事は、情報センターに集約して提供しますので、そちらを見て頂けますよう、お願いいたします」
「ここで、教えてくれ。地上がどうなっているか。我々は、地上に大勢の親族や知り合いが居るんだ。彼等が、今どんな目にあっているのか、全体的な状況だけでいいので、教えろ!」
 語気が荒くなっていた。
「お気持ちは分かりますが、もっと重要な事があるのです。お願いですから、私の話を聞いて下さい。
 今、飛鳥は、オーバーユースの状態にあります。新しい避難民を、受け入れる事ができないばかりか、このままでは、四十八時間以内に、二酸化炭素中毒の濃度に達してしまいます。皆様が、ここに留まれば、皆様を含めて、全員が極めて危険な状況に陥ってしまいます」
「おい、こら! 体の良い追い出しかよ」
「どうおっしゃっても構いません。皆様には、L4かL5の国際スペースコロニーに移動して頂きます。飛鳥に、収容力を残して置く事が、非常に大切なのです」
「ふざけるな。わしは、息子の無事が確認できるまで、ここを動く気はないぞ」
「そうよ。そうよ。私だって、主人がここに来るまで、動く気はありませんからね」
 ホール内が、殺気立ち、騒然となった。周辺部では、立ち上がり、壇上に向かおうとする人と警備員とのもみ合いも、始まっていた。
「皆様だけが、被害者ではありません。皆様だけが、被害者だと考えないで頂きたいのです。この世に生き残った総ての人が、被害者なのです。実は、私の家族は、全員、東京に居ました。もちろん、連絡は取れていません」
 どよめきと、恥ずかしさが、避難民の殺気を消した。
「地球は、これから、冬のような状態になる事が予想されます。上手く、難を逃れた人達は、これからも、ここを始めとする五箇所の軌道ステーションに、続々と脱出してくるでしょう。その時に、一人でも多くここに収容し、人命を救いたいのです。その中には、皆様方の親族、知人も、含まれるかもしれません。かく言う私も、家族が脱出してこないかと……」
 男性は、泣き崩れた。
「あなたの家族は、東京のどちらにいらしたのですか?」
 女性の一人が、彼を気遣って聞いた。
「…港区です…」
 力の無い声で、そう言った。
 彼自身が「壊滅」と言った港区に、彼の家族は住んでいた。
「みんな被害者」
 隼人は、そう呟いた。
 地球は、急速に寒冷化し始めている。地上での被災民は、これから増え始めるのだ。その中で、軌道ステーションに逃げてこられる人は、運が良く、金と権力を持ち合わせている人達だ。僅かな人々。いわゆる選民だ。
 隼人達は、その選民の第一号とも言えない事もない。
「国際スペースコロニーに身寄りのある方は、できるだけ早く、名乗り出て下さい。名乗り出て頂いた方から順番に、移住手続きをさせて頂きます。身寄りのない方は、こちらで照会をして、受け入れ準備が整ったところで、移住をして頂く事になりますので、それだけ、ここでの不自由な生活が長くなります。
 それから、飛鳥の収容力は低いので、一時的に、アメリカの軌道ステーション・リンカーンに移動して頂く場合も有り得ます。あちらは、飛鳥の十倍以上の収容力がありますし、現時点では、収容余力も、十分に残っているそうです」
 隼人には、国際スペースコロニーの住人には、心当たりはなかった。
 父は、管制センターに居た。母と姉は、沖縄に居た。父方の祖父は、既に他界している。祖母は地上に居た。父は、一人っ子なので、伯父伯母は居ない。母方の祖父母も、伯父伯母も、地上に住んでいた。身近な親族には、国際スペースコロニーに住んでいる者は居ない。
 もしかすると、母は、嘉手納宇宙空港で働いていたので、姉と共に脱出に成功したかもしれない。母なら、誰か、身を寄せる事ができる人を知っているかもしれない。
(何とか、母と連絡を取りたい) 
 隼人は、母の安否の確認方法を考えた。
「電話は、衛星携帯電話は使用できます。衛星携帯端末も使用可能です。しかし、飛鳥が中継できる回線数は少ないので、繋がり難くなると思います。公衆電話は、電話コーナーにあります。ですが、地上との連絡は、制限されています。連絡は、国際スペースコロニーか、軌道ステーションのみとなります」
(関係無いや。地上に居たなら、助かりっこない)
 隼人は、地上との連絡を諦めていた。
「私共からの連絡とお願いは、以上です。早速ですが、移民先のある方は、エレベータの反対側に設けました移民受け付けに申し出て下さい。また、移民先がない方は、移民受け付けの隣の照会センターで、IDカード等の身分を証明するものをお見せの上、お名前と多少の情報を登録して頂く事になります。これらの手続きが済んだ方から、ホテルへと案内させて頂きます。その際、移住先での当座の資金として、クレジットカードを支給致します。再発行はできませんので、無くさないようにお願いします」
(クレジットカード? 時代物だけど、随分と対応が早いなぁ)
 疑問に感じたが、深く考える余裕は無かった。早くも、人々は立ち上がり、移動を始めていた。
 それを押し止めるように、大きな声が続いた。
「但し、ここには、ベッド数の三倍近い方が居られるので、御老人、お子様、病気の方、怪我をされている方、こういった方から先にベッドに案内させて頂きます。ベッドの無い方には、毛布を支給しますが、これも不足すると思われます。従いまして、毛布は女性の方に優先させて頂きます。各部屋には、シャワーがございますが、これは止めさせて頂いています。生活水が不足するためです。
 不自由は承知していますが、飛鳥は、これほど多くの人を受け入れるようには設計されていません。これから先も、必要に応じて、本来の旅行客なら当然受けられるサービスを、緊急に停止する場合もあるかもしれませんが、御了承ください」
 彼が、言うべき事を総て言い終わり、壇上から降りるのを待ちかねていたように、人々は一斉に行動を起こした。
 説明の間に運び込まれた荷物が、各自に渡された。隼人は、父の分と偽って持ち込んだ鞄を含め、荷物を二個とも受け取った。
「隼人君は、荷物を二つも持ち込んだの?」
 宙美は、呆れ顔と不満顔の両方を見せた。
「うん。一つは、お父さんの分だよ」
「で、お父さんは、乗れたの?」
 隼人は、首を振った。
 宙美は、しんみりとした声で、「私もよ」と呟いた。くるっと背を向けると、やはり大きな鞄を二つ抱えて、母親の所へ走り去った。
 隼人は、一人になれる所を探し、エントランスホールの隅でパソコンを開いた。音声インターフェイスは、周囲が騒がしいので使えず、キーボードでの入力に切り替えた。そして、内蔵させてある衛星携帯電話でネットワークに繋いだ。
 まず、嘉手納宇宙空港の乗客名簿に接続を試みた。しかし、既に破壊されているのか、接続はできなかった。
 嘉手納宇宙空港は、軌道ステーションとの宇宙路線の他に、国内線、国際線の通常航空路もある。国内線は、新千歳、仙台、羽田、新名古屋、大阪、福岡の六箇所だ。国際線は、ソウル、北京、上海、ウラジオストク、台北、マニラ、シンガポールの七箇所だ。
 定期便が飛んでいる宇宙空港は、世界に六箇所ある。
 日本の嘉手納、インドのマドラス、アメリカのケープカナベラルとヒロ、ブラジルのベレン、ケニアのモンバサである。嘉手納からは、スペースプレーンの機体移送のために、残る五箇所の宇宙空港への不定期航空路も存在する。
 隼人は、これらの総ての乗客名簿をチェックし始めた。
 定期便が飛んでいる空港の内、新千歳と、北京には、接続ができた。宇宙空港では、ケープカナベラルとベレンは、接続できた。しかし、どこも、サーバーからの応答は非常に悪かった。それでも、一分ほどで、乗客名簿の検索は終わった。そして、母と姉の名前が、どこにも無い事も分かった。
 隼人は、諦めきれなかった。
 飛鳥を始め、アメリカの軌道ステーション・リンカーン、EUの軌道ステーション・モンブラン、ロシアの軌道ステーション・ピヨトル、中国の軌道ステーション・重慶とも、接続してみた。そこの旅客リストを検索してみたが、やはり、母と姉の名前は見付からなかった。
 隼人は、基本に立ち返って、母と姉の携帯に電話してみた。しかし、お決まりの「ただ今、電波の届かないところに居られるか、電源が入っていません」の台詞が返ってくるだけだった。
 スペースプレーンの中で見た夢は、母の体から離れた魂が見せたものだったのだろうか。
 隼人は、天を仰いだ。
(神様、両親と姉をお守り下さい)
 神様を信じた事はなかったが、今は願わずにはいられなかった。
 今、地上に居れば、まず助かるまい。核の冬とは異なり、小惑星の冬は、急速に始まる。二次要因である核爆発による火災によって核の冬に陥るのに対し、小惑星の冬は、一次要因である衝突時に巻き上げた塵が原因である点で、冬に至るまでの期間が短い。墜落地点周辺では、既に気温が下がり始めている筈だ。明日には、津波の直撃から逃れた宇宙空港も、凍結や降雪で閉鎖を余儀なくされるだろう。
 隼人の耳には、「やっぱり繋がらない」と言う囁きが、あちこちから届いた。みんな、考える事は同じなのだ。地上に居る筈の親類縁者に電話し、無事を確認しようとしていた。

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  - 3 -

 ふと、隼人の目に、係員が真っ直ぐこちらに向かってくる姿が見えた。慌ててパソコンをシャットダウンさせ、素知らぬ振りでトランクの蓋を閉めた。
(パソコンを取り上げられるかもしれない)
 不安が隼人の脳裏を過ぎったが、係員の視線は隼人の頭上を越え、更に後ろへと注がれていた。係員は、隼人の脇を通り過ぎ、後ろで必死に電話を掛けている初老の男性の所へ向かった。しばらくの間、何事かで揉めていたが、係員に付き添われて照会センターへと歩いていった。
 エントランスホールには、数人を残して、避難民の姿は消えた。隼人も、照会センターへと重い歩を進めた。それしか、母とも連絡が取れない今、他に方法はなかった。
 突然、ホール全体に、館内放送のチャイムが響き渡った。
「業務放送。ただ今、第三ポートに、内之浦からの便が到着しました。各担当は、直ちに、受入態勢を整えて下さい」
(内之浦からの便! 宇宙移民事業団の管制センターからだ)
 人々は、色めきたった。
「行ってみよう」
 一人、二人と、人々は重い腰を上げた。隼人も、エレベータに向かった。
 エントランスホールのエレベータ前は、群衆に囲まれていた。
「隼人君も、行ってみるの?」
 エレベータ前の混雑の中で、宙美に声を掛けられた。
「神戸さんも?」
 宙美は、小さく頷いた。
「でも、この人集りだと、しばらくエレベータに乗れそうにないわ。ここで待つしかなさそうね」
 隼人は、肯かなかった。近くに居た係員を捕まえ、質問をぶつけた。
「到着した人は、ここと反対側のエントランスホールに案内されるんですか?」
「そうだよ」
 予想通りの回答だった。
「ありがとうございます」
 隼人は、丁寧に礼を言った後、宙美に手招きして、人気の少なくなったエントランスホールに呼び寄せた。
「エントランスホールは、反対側にもあるんだ。ここに居たら、半分にしか会えないよ」
「どうするの?」
「別のエレベータを使うんだ。ホテルエリアのエレベータなら、早いと思うんだ」
 隼人は、エントランスホールの端に来た。その先には、ホテルエリアへの通路が続いていた。だが、その手前には、係員が居て、受け入れ完了の札のチェックをしていた。
 隼人は、大胆にも係員に近付いていった。
「すみません。さっき、説明は聞いたんですが、母は反対側のエントランスに降りたんで、姉とそこに行きたいんです」
 隼人の姉にされてしまった宙美は、面食らっていた。
 係員は、隼人が持っている二つの荷物を見て、二人分の荷物と勘違いしたらしく、納得したようだ。
「四百メートル近くあるから、ちょっと遠いが、一本道だから迷う事はないよ。ここを真っ直ぐに行きなさい」
 係員は、道を開けた。隼人は、素早く通り抜け、宙美を招き寄せた。
「四百メートルもあるんだって」
「エントランスまで行けばね。でも、僕達は次のホールのエレベータで上に行くから、百メートルくらいしかないよ」
「そうなの?」
 隼人は、ほとんど背丈の変わらない宙美の手を引いた。
「行こう!」
(姉にしたのは、正解だった。妹だと言ったら、疑われていたかも)
 少しほくそ笑みながら、延々と続く坂道のような通路を急ぎ足で歩いた。次のホールに着くと、エレベータに乗ってシャフトに上がった。
 隼人達がシャフトに着いた時には、ちょうど最初のハーフパイプが着いたところだった。ほとんどは不慣れらしく、自転エリアへの移動に手間取っていた。それを、係員が補助していたが、手が不足している感じだった。
 隼人は、先に来ていた高校生か大学生くらいの男を捕まえて聞いてみた。
「どこから来た便ですか?」
「日本からに決まってるだろう」
「だから、日本のどこからですか?」
「うるさいな。日本のどこだろうが、坊やには関係無いだろう」
 その男性は、隼人の手を振り解いた。
 日本のどこから来たのか関係無いとは、無責任な話である。
 憤慨しながらも、この男からは、今以上の情報は聞き出せまいと、諦めた。事情に詳しい者は居ないかと、周囲を見回した。手隙の係員を探したが、誰も接合部に集まっていて、聞ける雰囲気ではなかった。
 振り返り、宙美の顔を見た。大きな瞳が、潤んでいた。彼女も、父親の安否が気になっているのだ。父親が、ハーフパイプから出てくるのを待っているのだ。その気持ちは、隼人も全く同じだった。
(直接、聞くしかないな)
 隼人は、小さな子供を空中に浮かせたまま、要領よく自転エリアに乗り移る婦人を見付けた。彼女は、ぐるっと一周した所で見事に子供をキャッチし、慣れた足取りでエレベータホールの床に降り立った。
「すみません!」
 隼人は、その婦人を捕まえた。
「どこから来たのですか?」
 その婦人は、子供を抱えたまま隼人の顔を見て、目を剥いた。
「隼人君? 隼人君でしょう」
 やつれた婦人の顔を、まじまじと見詰めた。
「あっ、おばさん!」
 結婚した後も、長い間、父の元で仕事をしていた女性である事を思い出した。家にも、夫婦で何度か来ている。昨年、子供を出産してからは、仕事を辞めて子育てに専念していたが、父はキャリア制度での職場復帰を期待していた。
「やっぱり、隼人君ね。お父様は脱出された?」
 隼人は、首を振った。そして、総てを理解した。
「お父様は、一緒じゃなかったのね。それじゃあ、うちの人も……」
 彼女は、子供をしっかりと胸に抱き、その場で泣き崩れた。二歳にもならない子供は、母親の表情から何かを察知し、健気にも母親を宥めようとしていた。父を亡くした事を理解できないその子を見ていて、隼人も、もらい泣きした。
 彼女が乗っていた便は、隼人達より先に飛び立っていた。ただ、飛鳥との会合のタイミングが合わず、地球を一周余分に飛ぶ事になり、隼人達より後になった。だから、最終便となった隼人の便に夫が乗っていない事を知り、彼女は絶望したのだ。
 隼人達は、地球を最後に脱出した日本人だった。
 十数分で、エレベータホールは空になった。宙美は、まだ、奥に誰か居ないかと、シャフトの向こうを見詰めていた。隼人は、この便が自分達より先に飛び立った便だとは、どうしても宙美に伝えられなかった。
 彼女の背中が、小刻みに震えていた。彼女も、気付いているのだ。ゲートを通過した人の中に、何人かの同級生や、顔見知りの大人が居た。彼女は、それを見て、期待を膨らませると同時に、絶望的である事を認識していたのだ。ただ、どうしても、父親が死んだ事を認めたくなかったのだ。
「神戸さん、行こう」
「隼人君?」
「下に戻ろう。別の軌道ステーションに行ってるかもしれない。でも、その前に、下に戻ろう。お母さんが心配しているよ」
 宙美は、小さく頷いた。
 隼人は、下で管理官についた嘘がばれないように、上ってきたエレベータとは別のエレベータを利用した。そして、出ていったホテルエリア方向とは反対側の通路から、照会センターの設置されているホールへ戻った。
 宙美の母は、直ぐに二人を見付けて駆け寄った。
「シャフトに上がっていたの?」
「隼人君が、連れていってくれたの」
 宙美の母は、頷いた。
 彼女は、総てを見抜いていたようだ。到着した便が、自分達より早くに地球を飛びたっていた事も、隼人の父も、宙美の父も、それに乗っていなかった事も。
「辛いでしょうけど、お父様は、どんなに待っても、ここにはいらっしゃらないわ」
 優しい言葉だった。諭すようにも聞こえた。でも、内容は、二人にとって悪夢そのものだった。
「もし、スペースコロニーに身を寄せるところが無いなら、私達と一緒にいらしたら。私の兄が、L4のスペースコロニーに居ますの。兄の息子は、宙美と同い年だから、隼人君とも上手くいくと思うわ」
 父の死を認める気にはなれなかったが、認めざるを得ないのも事実だった。それに、身を寄せる先が無くて途方に暮れていた隼人にとって、これ以上ない有り難い申し出でもあった。
「岐阜に、母方の伯母が住んでいるので、連絡を取ってみます。岐阜は、内陸なので、津波の被害は無いと思います」
 宙美の母は、首を振った。
「私は、大学で気象学を学んだので、これから先の地上の気象は、大体想像が付きます。地上に戻る事は、死にに行くようなもの。第一、地上に向かう便は、全便、欠航しているのよ」
 言われなくても、地上がどうなってしまうのか、隼人だって知っていた。ただ、宙美に付いていく理由が欲しかった。それを、宙美の母に言わせたかっただけだ。
「私達は、明日朝の便で、L4に向かいます。今晩一晩考えて、結論はそれからにしても、構わないわよ」
「御厚意、ありがとうございます。少し考えさせて下さい」
 隼人は、宙美と一緒に行きたかった。だから、本音では、結論は出ていた。少しもったいぶりたかった。自分を軽く見せたくなかった。
 ちょうど良いタイミングで、館内放送のチャイムが鳴った。
「ただ今から、夜食を配給します。避難民の皆様は、第二レストランにいらして下さい。お部屋の割り振りも、そこで発表いたします」
 放送は、もう一度、繰り返した。
 レストランは、黒山の人だかりとなっていた。隼人は、トレイに載った食事を受け取り、宙美達の横に戻った。テーブルは、老人や幼児に優先的に与えられ、若い者が先に食事を始めていても、老人や子供連れが現れると、係員の指示で席を譲ったし、指示が無くても譲り合った。
 三人は、他の人々と同じように、直接床に座って、食事を始めた。部屋割りの決まった人達の中には、部屋に戻って食事をしている人も居た。
 飛鳥では日本時間を採用している。今は午前二時前で、食事の時間ではなかったが、四時間近い緊張を強いられた体には、思いの外、有り難いものだった。その証拠に、三人共、直ぐに食べ終わってしまった。
 食事が終わると、何となく気持ちにゆとりが出てきた。その勢いで、宙美の母に申し出た。
「よろしくお願いします。一緒に連れて行って下さい」
 二人のほっとした表情が見えた。
「大丈夫。もう、心配しなくても、いいのよ。直ぐに、手続きをしてきますからね」
 宙美の母は、宙美を残して、移民受け付けに向かった。
「良かったわ」
 この事故が始まって以来、初めての笑顔が、彼女の顔に浮かんだ。
「伯父様は、優しい方だし、従兄弟の大地君も、頼もしい子だから、何も心配いらないわ。直ぐに慣れるわ」
 宙美は、従兄弟の大地を「頼もしい子」と表現した。まだ見た事も無い大地に、隼人は少しばかり、嫉妬を感じた。

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  国際スペースコロニー

  - 1 -

 地球と月の重力が産み出す五つの安定な点、ラグランジュポイント。その一つ、L4と呼ばれる宙域に、国際スペースコロニー・アトランティスは、浮かんでいる。
 アトランティスと飛鳥を結ぶ連絡船の八人部屋に押し込められた隼人は、カイコ棚のようなベッドから抜け出し、減速のために生じた僅かな重力を感じながら、船室から廊下へと出た。
 飛鳥では、他の大勢の男達と同様、廊下に雑魚寝をした。マットも、毛布も無く、宙美の母が、不憫に思ってかけてくれた上着に、母の匂いと温もりを感じながら、小さく丸まって寝た。
 目覚めは、最悪と言ってもよかった。
 硬く冷たい廊下で寝たから、体重が掛かっていた腰や肩や脇腹が痛み、節々は硬くなってしまっていた。枕が無かったせいで、首も寝違えた。それに加えて、頭痛がした。体を起こすと、軽い吐き気も感じた。
「二酸化炭素の濃度が上がってるんだ」
 吐き気を堪えながら、ポツリと呟いた。
 二酸化炭素が、空気より比重が重い事を思い出し、床付近の空気より高い場所の空気の方が濃度が低いのではと、ふらつく足を踏ん張った。
 ほとんどの人は、まだ寝ていた。時計の針は、午前六時半を指していた。三時間ほどしか寝ていなかったが、もう一寝入りする気にはなれなかった。
 立ち上がって見ると、廊下の中央付近に、細い道ができていた。廊下は狭いので、通路と直交すると、人が通るスペースが無くなってしまう。人々は、管状の廊下の両側の壁にもたれ掛かるように、あるいは寄り添うように寝ていた。だから、廊下の中央は、細い道として残されていた。
 廊下は、飛鳥の自転による風が流れていた。隼人の記憶では、空調装置は、エレベータホールの地下部分にある筈で、そこに新鮮な空気を放出している。そこまで行けば、ここより少しはおいしい空気が吸えるのではと、人々の枕元をそろそろと歩いた。
 広いエレベータホールに入っても、床には人々が転がっていた。廊下よりも広いせいで、思い思いの方向に寝ているものだから、廊下以上に歩きにくい状況だった。
 ただ、廊下に近いところを通り抜けると、人が立ち入らないように整理していたのだろう。昨日のままに、整然と椅子が並べられていた。その片隅で、昨日と同様に、受付の女性係員が居て、パソコンを開いて、今日の仕事の準備をしているようだった。
 飛鳥に非難してきた被災民の全員が、宇宙移民センターの関係者だ。必然的に、スペースコロニーに親類縁者が居る場合いが多い。中には、自宅を持つっていて、内之浦に転勤できていた者も居るくらいだ。
 既に、紹介センタの職務は終わっている。受付の仕事と言うより、昨日の残務と言うべきか、それとも移動のための臨時便の調整等、職務外の作業なのか。とにかく、こんな早朝から仕事を始めているのは、彼女にとっても初めての経験だろう。
 隼人は、彼女に向かって、一歩、二歩、歩み寄った。
 宙美たちの申し出を断り、一人で生きていける場所を紹介センタに相談しようかとも思った。
 自分からお願いしたわけではなく、神戸家から一緒に申し出があったのだが、策略を巡らし、もったいぶった上で受けた背信が、隼人の心にわだかまりを作っていた。
 しかし、隼人の気配に気付いて係員がパソコンから目を上げた時、彼は視線を外した。
 そのまま、自然体を装って、彼女に近付いた。
「アトランティスに向かう臨時便の搭乗時刻は、何時ですか?」
「11時10分に出航しますから、30分前の10時40分までに、こことは反対側のエントランスホールにお越しください」
 彼女は、事務的に答えた。
「ありがとうございます」と言って、その場を立ち去った。
 早朝にも関わらず、妙に冴えた目で、彼女を見つめ返した後、隼人はその場を去った。
 飛鳥での一晩と同様に、昨夜も、ゆっくりと寝られなかった。地球を脱出してからの二晩は、途切れる事の無い悪夢のように、隼人から安眠を奪った。
 定期連絡船内のベッドはカプセル状になっていて、浮遊防止のスライドドアを締めれば、最低限のプライバシーは確保できた。しかし、見知らぬ年老いた男達と同室になり、落ち着けなかった事に加え、これからの事を考えると、気が重くなった。
 その要因の大部分を、宙美の従兄弟の家に居候する事と、決断に至る身勝手さに対する後悔や、影に下心が潜む後ろめたさが占めていた。
 会った事も無い宙美の伯父と従兄弟。
 父と同じ宇宙移民事業団で働いているらしい。「梅原」と言う姓は、父から聞いた事があるが、父がどんな風に言っていたのか、思い出す事もできないでいた。
 そんな人達の前に、どんな顔で行けば良いのか、どんな風に挨拶をすれば良いのか、どんな風に居候をお願いすれば良いのか、見当も付かなかった。
 船室では、同室の老人達が、不安を酒で紛らわそうと、酒宴を開いていた。最初は、静かに飲んでいた男達だが、酔いが回ってくると段々と声が大きくなり、やがて怒声と歓声と入り交じる宴となった。
 そんな船室のベッドの中で、色々と考えを巡らせながら、中々寝付けずに悶々としていた。
 父の生存は、絶望的と理解していた。母と姉の安否は、確認の術さえない。この世に、唯一人だけ取り残された不安は、拭い切れなかった。幸い、状況を理解できない年齢ではない。一人で生き抜けない年齢でもない。だが、身元引受人となってくれた梅原氏の厚意に、どこまで甘えれば良いのか、迷いがあった。
(中学を卒業したら、夜学に通おう)
 体力には自信がないが、頑張れば、昼の仕事と夜の勉強を両立させられるだろう。
(できなきゃ、夜学は辞めればいいし……)
 そうは考えるのだが、父のような技術者になりたいと考えていた隼人には、進学を諦める事は決心し兼ねる問題だった。
 何度かまどろんだが、時計の針が朝の六時をまわった時、男達の人いきれで空気が淀む船室を抜け出し、廊下に出た。そして、短い廊下の先のロビーに向かった。
 アトランティスに向けて、減速を始めているらしく、極弱い重力を感じた。だから、足で床を蹴って進む。ただ、軽く蹴っただけでも、脚力に比べれば無いに等しい重力なので、体は宙を舞う。
 船内は、どこに行っても、換気のためのファンが騒々しく、神経を逆撫でる。無重力下では、空気は対流を起こさないので、それを補う目的でファンが稼動している。
 ロビーも、その点では、船室と同じだが、ここだけは、微かに芳香が流されていて、逆立った神経を沈めてくれた。
 そのロビーには、早朝にも関わらず、数人の男女が、大スクリーンに映し出される国際スペースコロニー・アトランティスに見入っていた。その中に、宙美の姿を見付けた隼人は、宙美の母も居ないかと探しながら、宙美に近付いた。
「神戸さん、おはよう」
「あら、隼人君。おはよう」
「今朝は、お母さんと一緒じゃないんだね」
「まだ、寝てたわ。疲れが出たんだと思うの。だから、起こさないように、そっと出てきたの」
 宙美親子は、同じ様に母娘の二人連れと同室だった。
 宙美は、長い黒髪を三編みにしていた。三編みにしても胸まで届くほどの長い髪は、無重力に近いロビーの空気の中で、柔らかく宙に揺れていた。
「この髪、気になる?」
 彼女は、隼人の視線に気付いたらしく、三編みの先を指先で弄んだ。
「無重力だと、髪の毛が縺れ易いの。だから、こうして三編みにするのよ」
「女の子には、無重力も大変なんだね」
「そうでもないわ。慣れれば、簡単よ」
(無重力だと、スカートの裾も捲れて、大変なんだろうな)
 隼人の視線が、彼女の足元に流れた。それを敏感に感じ取った彼女は、「残念でした。ジーンズよ」と、ウィンクした。
 彼女に下心を見抜かれたような気がして、顔を赤らめた。
 彼女とこんなふうに話す事は、地上に居る時にもなかった事だ。彼女と話す事で、隼人は、家族を失った事実から、一瞬でも遠ざかる事ができた。
 大スクリーンの中で、アトランティスは徐々に大きくなっていた。特徴的な三連のリングと、それを突き刺すシャフトから構成されるアトランティスは、大気の散乱の無い宇宙空間では、細部に至るまでシャープに見え、その巨大さを感じさせない。
 宙美の視線は、そのアトランティスに釘付けになっていた。
「神戸さんは、アトランティスに行った事はあるの?」
「七年くらい前、まだ、リングが一つしかなかった頃に、一度だけ来た事があるの。隼人君は?」
「今度で四回目だよ。二年に一回くらいの割合かな。最初に来た時は、二つ目のリングが建設中だった。二度目は、三つ目が建設中で、全体が完成してからは、一度しか来たことがないよ」
 数学者ラグランジュが、三体問題の解として見つけ出したラグランジュ・ポイント。
 ここは、地球と月の重力が産み出すラグランジュの第四ポイント、通称L4だ。
 この空間に浮かぶのは、世界最初のスペースコロニー、アトランティス国際スペースコロニーだ。現時点では、三連のドーナツ型コロニーが一基あるだけだが、百年後には、更に巨大なコロニー十数基が、この空間に浮かぶ事になる。総人口は、現在の六百倍以上の一億人にも膨れ上がる。
 L5でも、並行してコロニーの建設が進んでいる。現在は、アトランティスと同型のパシフィックがあるだけだが、L4と同様、十数基のコロニーが列を成す事になる。月や火星表面に建設されるコロニーも合わせると、一世紀後の宇宙人口は、十億人を越えると予想されている。来世紀は、文字通り、宇宙の世紀となる。
 大型スクリーンは、アトランティスの三連のドーナツ型スペースコロニーを映し出している。
「以前に来た時には、飛鳥に似てるなって思ったけど、随分、雰囲気が変わった気がするわ」
「リングが三つに増えたからね。それに、飛鳥は、太陽光を反射するように白く塗られているけど、ここはリングの外側が太陽電池パネルになっているから、藍色に見えるしね。でも、最大の違いは、大きさだよ。リング外側の直径は七千六百メートルと、飛鳥の六十倍以上もあるし、リング自体の管の直径も九百メートルもあって、飛鳥のリングの一番太い部分と比べても、百倍以上だ。
 三本のリングを繋ぎ止めるシャフトは、全長六千五百メートルもある。三本のリングの内部の有効面積の合計は、五十三平方キロにもなるんだ。それを照らすミラーは、アトランティスの北天に主鏡、リングの内側に副鏡を配置してあり、主鏡の直径は七千九百メートルだ。そして人口は……」
「十五万人ですもの」と、宙美が割り込んだ。
 隼人は、知ったかぶりをしていた自分が、恥ずかしくなった。
「流石、宇宙移民事業団の子弟!」
 恥ずかしさを誤魔化すために、わざと宙美を持ち上げた。
 数字を上げてみても、大型スクリーンの映像からは、相変わらず、その巨大さが伝わってこない。
 このアトランティスのリングを地上に寝かせたなら、リングの両端は、東京駅から新宿駅を越え、立てれば、富士山の二倍に達する。二十世紀末までに地上に建設された総ての建造物は、アトランティスの中で、天井にぶつかる事も無く納まってしまうのだ。そんな比較をしても、アトランティスの巨大さは、俄かに信じ難い。
 真っ暗な宇宙を背景にして浮かぶアトランティスは、人類の理想郷とすべく、生産のリサイクル機構から生態系まで、総てを人工的に作り上げた人類初の構造物である。内に秘めた機能と理想は、神々しいまでの藍色の輝きを帯びていた。
 荘厳さを湛える圧倒的な存在感は、隼人の瞼に鮮明に焼き付いた。
 すうと、体重が抜けるのを感じた。減速度が小さくなり、ほとんど無重力に戻ってしまったのだ。
「隼人君、もうすぐドッキングよ」
 宙美の元気な声が、大型スクリーンをぼうっと見ていた隼人に飛んでくる。
 宙美は、屈託の無い笑顔を見せていた。
 元々、宙美は、この笑顔の魅力で、クラスでも人気者だった。誰もが素直になってしまう笑顔と、明るく闊達な性格、そして愛らしい表情で、男子生徒はもちろん、女生徒や先生にまで人気があった。
 それが、今回の小惑星落下事故で、すっかり変わってしまった。あの笑顔は、スペースプレーンの機内以降、一度も見る事ができなくなっていた。
 今、彼女は、以前に地上で見せていたのと同じ笑顔をしている。少し表情が硬いような気もするが、少し吹っ切れたのだろう。隼人は、くよくよと思い悩んでいる今の自分を反省した。
「見習わないとね……」
「えっ、何を?」
 彼女の笑顔は、怪訝な表情に変わってしまった。
「神戸さんの笑顔だよ」
 自分で言っておきながら、恥ずかしさで顔を赤らめた。
 彼女は、もう一度、あの笑顔を見せた。彼女の笑顔は、隼人の悩みも雲散霧消させた。

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