伊牟ちゃんの筆箱

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カテゴリ:索引 > 軌道上のタイトロープ

世界初の民間月旅行で、事故が発生した。

乗員を一人失った佐々だが、たった一人の乗客の相浦を抱えて、地球への帰還を目指す。

しかし、軌道逸脱、空気漏れ、コクピットの閉鎖。
辛うじて地上との通信はできるが、地上側の支援にも疑いが。

満身創痍。四面楚歌。

そんな中、相浦の一言から、救出への道筋を見い出していく。


  < 目 次 >


 軌道上のタイトロープ  1
 軌道上のタイトロープ  2
 軌道上のタイトロープ  3
 軌道上のタイトロープ  4
 軌道上のタイトロープ  5
 軌道上のタイトロープ  6
 軌道上のタイトロープ  7
 軌道上のタイトロープ  8
 軌道上のタイトロープ  9
 軌道上のタイトロープ 10
 軌道上のタイトロープ 11
 軌道上のタイトロープ 12
 軌道上のタイトロープ 13
 軌道上のタイトロープ 14

 軌道上のタイトロープ(自己書評)

※2014年12月25日から2015年1月11日にかけてYahooブログに連載した同名の作品の転載です。

軌道上のタイトロープ


  第一章

「目が回ると思ってたけど、意外に平気なものね」
 佐々が客室を覗いた時の、相浦麗子の第一声だった。
 ほっとした表情を浮かべている。
 打ち上げ前のようにガチガチに緊張していてくれれば、こっちもやりやすいのに、寛ぐ様子が忌々しい。佐々にとっては大事なお客だが、金持ちのお嬢様に特有の自己中心的な感覚が鼻につく。
 佐々を見つめる麗子に本音を見破られないように、会話の相手をする。
「意外に平気でしょ。このバイナリースターの自転周期は、60秒ですから」
 連星を意味するバイナリースターは、民間の月往還宇宙船である。乗客4名を乗せ、地球から月までを自由帰還軌道で往復する。一般人の1週間の宇宙旅行を可能にするため、バイナリースターは、機械船とシャトルを250mのケーブルで結び、連星のようにお互いの共有重心を自転することで、疑似重力を得ている。
「でも、体が重いわ」
「相浦様は無重力に慣れるが早かったですから。これでも月面と同じくらいの重力ですよ」
「ここで慣れてれば、月に着いた時も平気なのね」
 彼女が言った意味をどう捕らえれば良いのか悩んだ末、生真面目に答えた。
「申し訳ありません。バイナリースターは、月面には降りません」
 麗子は、微笑みを返した。
 おちょくったのか。
 このお嬢様の相手を1週間も続けなければならないかと思うと、辟易とした。
「宇宙エレベータのステーションも見えるのかしら?」
 彼女は、1時間余りで最接近する事も、肉眼では難しい事も、きっとわかった上で聞いているのだろう。
 腹立たしさで、言葉が出なかった。
「まだ、小さなステーションとパイロットケーブルが届いただけです。肉眼では無理だと思います」
 もう一人の乗組員の星出未来が、佐々の背中越しに声をかけた。
「代わりに、ブリッジを御覧になりませんか?」
 佐々の前に進み出ると、麗子を誘った。
「見せて頂くわ」
 未来は、麗子を客室から誘い出した後、狭い入口から頭だけ客室に突っ込み、「顔に出てるわよ」と囁いた。
 余計な御世話だと、佐々は苦笑いした。

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 バイナリースターは、2人の乗組員で運航される。シャトルは、前からブリッジと客室が2室、ダイニングにも使うサロン、シャワーとキッチン、エアロックと倉庫等になっていて、ここまで与圧される。
 与圧隔壁の後ろは、空調装置やタンク類があり、最後尾には軌道修正用ロケットエンジンと大気圏内用ジェットエンジンを備えている。
 ただ、自転している今は、前が上に、後ろが下になっている。
 佐々が居るのは、ブリッジの下、いや横にある二人用客室の一つだ。
 元々、この客室は麗子一人で使うことにはなっていたが、もう一室は彼女の祖父が乗る予定だった。それが、メディカルチェックでNGとなり、記念すべきバイナリースターの第一便は、彼女が独占することになった。
 客室を出た佐々は、サロンに降りた。
 ここには、八つの丸窓がある。その一つから、下弦の薄い月が見えた。
 もっと月を見ようと、足を踏み出したが、なぜか踏み出したはずの足は床に届かず、体が宙を舞った。
「無重力?」
 そんなはずはない。
 混乱する頭を、サロンの天井にぶつけた。バイナリースターの船内は、床も天井も壁も、緩衝材で覆われているので、怪我はなかったが、反動で天井から離れた。
 直後、鈍い衝撃音が響き、背中から天井に叩きつけられた。
「ウグッ!!」
 激しい痛みで、息が詰まり、目の前が暗くなった。照明が消えたのだ。
 非常灯の薄明かりと、陽光が射していた窓が、回転している。一回転して、胸から床に落ちた。
 今度は、手で受け身をとることができたが、衝撃は痛めた背中に突き抜け、体が仰け反った。体は強張り、息も詰まったままだ。
 受け身で回転は止まったが、足を前にして、漂っていく。
 佐々は、気持ちを落ち着かせながら、強張る体の力を抜いていく。体の力が抜けていくのにつれて、浅いながらも呼吸できるようになった。
 足が壁に付いた時、足裏のマジックテープで壁に安定させた。
 何回も深呼吸し、ブリッジに向かった。
 ブリッジに入ると、麗子は、ぐったりした未来の胸をはだけ、AEDで蘇生を行っていた。
「駄目みたい」
 潤んだ目で佐々を見つめる。
 パッドの位置を確かめてみたが、問題はなかった。本体の表示で、既に作動させたことがわかった。
「肋骨が折れているわ」
「外見だけでわかるはずないだろう」
 納得がいかない佐々は、AEDを最初からやり直した。
 未来は、蘇生しなかった。AEDは、脈拍も呼吸も停止したままであることを示している。
 自動診断装置を引っ張り出し、未来の体をスキャンする。表示された診断結果は、肋骨3本が折れ、内臓に損傷の疑い。蘇生可能性の表示も、0%になっている。
 諦めるしかなかった。
「何があったんだ!」
 振り返ったが、麗子の姿はなかった。
「クソッ!」
 麗子を追うつもりはなかった。今は、何があったのか、データから読み取るだけだ。
 メインモニターには、警告表示が並んでいた。その先頭は、「軌道逸脱」だった。
 佐々は、緊急事態宣言を発信した。救出は期待できない。救出を求めるには、新しい軌道要素が必要だった。
 軌道要素の計算をコンピュータに指令し、次の警告を開いた。
 長々と続く警告リストを流し読んでいく。機械船の全機能が失われている。
 佐々は、顔を上げた。
 ウィンドスクリーン越しに見えるはずの機械船の赤い標識灯は、どこにも見当たらなかった。どんなに探しても、ウィンドスクリーンの広い視野のどこにも、機械船は無かった。代わりに、船首の辺りでトグロを巻くケーブルがあった。
 機械船とのケーブルが、何かの理由で切断したのだ。
 佐々は、原因を探るような人間ではなかった。それより、生き残るために何が問題になるのかを、彼は優先する。
 見終わった警告リストの中には、通信途絶、電源不足、気密低下等がある。
 シャトル内の精密気圧を表示させた。最も気圧が低い場所が、空気が漏れている場所だ。
 表示を見た佐々は、反射的に身を翻すと、ブリッジを飛び出した。

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 麗子の部屋は、すぐだった。部屋に入った佐々は、一番奥で、壁に服を押し付けている麗子を見た。
「バカ野郎! 離れろ!」
「だって、空気が漏れてるのよ」
「とにかく、離れてろ!」
 そこまで言うと、部屋を出た。一気に船尾の倉庫まで行き、樹脂製のボードと補修剤と工具箱を手に取った。工具箱を股の間に挟み、空気抵抗と揚力を抑えるためにボードは胸に密着するように抱え、麗子の部屋へ急いだ。
 麗子は、まだ壁際に居た。
「どけ!」
 背を向けたまま、顔だけ振り返った。
「邪魔だ」
「動けないの」
「なに?」
「手が離れないの」
 慌てて近寄ると、右の掌が壁面に吸い付かれている。小指の付け根付近に、クラックの端があり、口笛のような高い音をたてて、空気が漏れていた。
 麗子の手首を握り、力任せに引っ張ってみた。
「痛い! やめてぇ!」
 実際、かなりの圧力がかかっているらしく、力任せでは上手くいきそうにない。
 空気が漏れる音が、少し低くなったような気がする。クラックも、長くなったように見える。
 壁の向こうは、シャトルの船首にあたる。機器を収めるために、いくつもの区画に分かれている。空気は、配管や配線の隙間から漏れているだろうから、完全に真空になっていないはずだ。そうでなければ、こんな薄い軽合金の板は、簡単に破れている。
 佐々は、工具箱を開き、マイナスドライバーを手に持った。
「よく聞け。今からクラックを広げる。空気が勢いよく抜け始めるから、壁に沿って力一杯引っ張れ。手が取れたら、ぶっ飛ぶだろうから、受け身を考えておけ」
「考えておけって、どうすればいいの?」
「知るか」
 佐々は、ドライバーを握り直し、クラックの先端に突き立てた。
 クラックは、一気に10センチ余り伸び、漏出する空気の勢いで幅も広がった。
「どうした? 早く取れ!」
「無理よ!」
 悲痛な声を出す。
「ふざけんな」
 麗子の手首を握り、渾身の力で引っ張った。思ったより簡単に取れたが、力が入っていたので、二人とも重なるようにふっ跳んだ。反対側の壁に、佐々が下になってぶつかった。
 幸い、足が先についたので、衝撃を小さくできた。だが、直後に麗子がぶつかってきたので、肺の空気を叩き出された。
「大丈夫?」
 衝撃を佐々の体で受け止めさせたので、麗子は申し訳なさそうに言った。
 酷く咳き込んだが、体は動かせた。大事には至らなかったようだ。
「サロンに行け」
 呻くような声で命じると、樹脂製ボードを手に、クラックに近付いていった。慎重に位置を確かめ、ボードでクラックを覆い隠すように塞いだ。
 まだ、ボードの回りで、ピーピーと空気が漏れている。佐々は、風船式の漏出補修剤を使って、ボードの縁を塞いでいった。
「これで大丈夫よね」
 麗子は、まだそこにいた。
「邪魔だと言ったはずだ」
 麗子を押し退け、ブリッジに戻った。
 時間が無かった。
 まず、減圧を始めた。バイナリースターには、本来の減圧機能は無い。佐々が採った減圧は、再循環系の停止だ。
 船内の空調は、酸素分圧を一定に保つ機能に加え、二酸化炭素を除去して循環する。この循環機能を止めた。
 佐々の考えた通りになるなら、漏出した空気の8割に相当する分が減圧していくはずだ。
 次に、迷路のような空調ダクトの経路を目で追いかけ、ブリッジと客室に繋がるダクトへのバルブを閉じた。
 最後に、ブリッジが持っている全ての制御権を、一つずつ切り離していく。
 画面を切り替えながら、面倒な作業をこなす佐々の後頭部に何かがぶつかった。強い衝撃ではなかったが、重い鈍痛が頭の奥で何度も反射した。
 頬に髪が触れる感触があった。
 麗子か。
「何度言ったらわかるんだ。邪魔だ」
 それでも、髪の感触が残った。ムカッとなって振り向いた瞬間、佐々は凍りついた。全身の毛が逆立ち、背筋を悪寒が通り抜けた。
 息がかかりそうな近さに、白目を剥いた未来の遺骸が浮かんでいたのだ。
 憐れな未来の姿に、同情より恐怖が先になった自分が情けなかった。
 そっと瞼を閉じてやった。
 客室から、口笛のような音が聞こえるようになっていた。作業に戻った佐々は、イライラしながら制御権の切り離しを進めた。全てが終わると、未来の遺骸を抱くようにして、ブリッジを出た。
 未来の体には、温もりが残っていた。
 サロンに繋がるハッチを、苦労して未来の体を通した。
「何で連れてきたの?」
「地上に連れて帰る」とだけ答えた。
 補修剤と工具箱を、客室まで取りに戻った。
 当て板をした右横から、気味の悪い音が聞こえてくる。軽い補修剤は、そこに吸い寄せられている。麗子が散らかしたシーツや衣類がクラックを覆っているので、クラックの長さがどれくらいになっているか、わからない。
 今にも崩壊しそうな壁に向かって手を伸ばした。補修剤は、軽く手に取ることができた。
 急いでサロンに戻り、ハッチを閉めにかかった。
 このハッチの本来の目的は、ブリッジと客室を守ることだ。だから、サロン側の気圧が下がった場合に対応している。
 今は、逆の状況だ。
 危惧した通り、逆流する空気に圧され、フランジに密着しない。
「手伝え!」
「嫌よ!」
 頼んだ自分が、馬鹿だった。
 麗子の助けを諦め、ハッチを跨ぐように足場を決めると、腰の力で引き上げた。
 甲高い空気漏れの音が更に高くなり、小さくなり、そして消えると、ハッチのハンドルが回り始めた。ハンドルを最後まで回し、ロックがかかった事を確認した。

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 空気が漏れる音は止まっていたが、ハッチとフランジの接触部に補修剤を塗っていく。それが済むと、倉庫へと急いだ。樹脂製ボードを全てと補修剤を手に、ハッチに戻った。
 ハッチは、ブリッジ側からの圧力に耐えるように、ブリッジ側に膨らませてあるので、ハッチのハンドルは、床面より引っ込んでいる。
 ハッチを覆うように、フランジからフランジへと樹脂製ボードを差し渡す。
「手伝うわ」
 すぐ脇まで来ていた麗子が言ったが、「うるさい!」と怒鳴った。
 3枚でハッチを覆うと、ボードの周囲を補修剤で埋めていった。更に、3枚のボードの境を塞ぐように、2枚の樹脂製ボードを乗せ、同じように周囲を補修剤で埋めていった。
 また倉庫まで行き、レスキューボールを持ってサロンに戻った。
「何しているの?」
 佐々は、麗子を押し退けて、サロンに入った。
 レスキューボールは、シャトルの気密に問題が生じた場合の一時避難用の気密袋だ。これに、未来の遺体を納め、サロンの隅にマジックテープで固定した。
 レスキューボールを使う理由は、減圧だ。代謝が止まった遺体を減圧すれば、内圧で損傷する。酸素が無い方が腐敗も進まない。
 佐々は、レスキューボールに窒素ガスを充填した。膨らんだところで、循環装置を停止した。
 宇宙で未来と組むのは初めてだが、地上では訓練だけでなく、地上バックアップの際にもチームを組んだことがある。宇宙に賭ける想いを語り合ったこともある。
 それが、初めて宇宙に出て4時間も経たない内にこんな事になろうとは、本人も考えもしなかっただろう。
 まだ、やるべきことがある。
 ガンガン響く頭痛に堪え、倉庫の脇にあるエアロックのハッチを開いた。
「私を置いていくのね」
 佐々は振り返り、溜め息をついた。
「俺がどこに行けるのか、教えてもらおう」
「外に出るんでしょう?」
「外に出るなら、ハッチの気密なんか気にしないさ。時間の無駄だ」
 納得したのか、麗子は何も言わなくなった。
「まあいい。何も触らないと約束するなら、付いてきな」
 佐々は、エアロックの中に入り、麗子が来るのを待った。彼女は来なかったが、わざわざに呼び入れる気はなかった。
 エアロックの中にある端末を起動した。端末は、すぐに立ち上がった。直ちに、ブリッジから切り離した制御権をエアロックの端末に引っ張った。
 制御権を獲得して最初に見たのは、新しい軌道要素だった。正直な感想が、口から漏れた。
「運が良いのか、悪いのか」
「どういう意味?」
 麗子の声で、びくっとなった。エアロックの外から、微妙な距離をとりながら佐々を見ていた。その顔を見た時、仕返しをしたくなった。
「当初の予定から変更になりましたところを、御連絡致します」
 わざと営業スマイルを作った。
「月へは、予定通り三日後の到着ですが、通過の際の高度は、予定より低い17kmをフライバイ致します。間近に月をお楽しみください。なお、地球到着は、2時間半早くなります」
「地球に戻れるってことね。良かった」
「ちょっと違うな」
 非常灯の下で、彼女は、怪訝な表情を浮かべた。
「地球に戻ると言っても、15000km以上も離れたところを通過する。まあ、仮に大気圏に入れても、この損傷だと、燃え尽きるか、バラバラに空中分解するかの、どちらかだ」
 言い終わると麗子を相手にせず、エアロックの端末に視線を戻した。
 電源が問題だった。主要な電源は、機械船の太陽電池だ。機械船を失ったので、佐々は、非常用の太陽電池パネルを開いた。
 太陽電池パネルがバッテリーを充電し始めたのを確認できたところで、食品庫の電源を復電した。でも、節電を考え、暖房は入れず、照明も非常灯のままにした。
 各計測場所の気圧を見た。ブリッジの気圧は、0.79気圧まで下がっていたが、サロンやエアロックの気圧は0.95気圧ある。
 このままでは、ハッチがもたない。客室の破孔が一気に裂けたら、ハッチも一緒に吹き飛ぶだろう。
「何か問題があるの?」
「ああ、問題だらけだ」
「火急の問題がありそうに見えるけど」
 無視するつもりだったが、薄明かりの中で辛そうな表情を浮かべる麗子を見て、気が変わった。
「ここの気圧を下げる必要がある。だが、減圧の機能がない」
「私の部屋みたいに、穴を開ければいいじゃない」
 溜め息が出た。
「あそこは、元々が耐圧壁じゃなかったから、穴が簡単に開いた」
「エアロックは? 中の空気を抜くことができるんでしょ?」
 膝を打った。
「いけるかも」
 エアロックは、緊急減圧時に内部の空気を外部に捨てる。注気では、酸素タンクから注入するが、配管図を見ると、酸素タンクからは、エアロックと室内空調機の両方に繋がっている。室内から酸素タンクの手前まで逆送し、エアロックに送ることができそうだ。
 佐々は、エアロックを出た。
 エアロックの外側にある操作パネルから、エアロックの空気を排気した。続いて、空調機側のバルブを開いた。そして、強制制御でエアロックの注気バルブを開こうとしたが、インターロックで強制制御も拒否された。
 一気に空気を抜こうと考えていたが、できなかった。仕方がないので、排気バルブを閉じ、エアロックの注気バルブを開いた。エアロック内の気圧が上がっていく。室内の気圧が下がっている証拠に、耳の奥が圧される感じがする。
 エアロックの内容積は、サロン等の容積の15分の1だ。20回くらい排気すれば、0.3気圧まで下がり、ブリッジ側が真空になっても持ち堪えるだろう。
 エアロックの気圧が室内と同じになった。室内の気圧も、0.91気圧に下がったが、ブリッジの気圧も0.76気圧まで下がっていた。
 佐々は、同じ手順を始めた。これを繰り返していくしかない。
 エアロックの圧力の下がり方の遅さが、苛つかせる。
 12分後、2回目が終わり、気圧は0.86になった。3回、4回と繰り返し、10目が終わった時、船首からドンと鈍い振動が伝わってきた。
 シャトルの姿勢が急激に変わる。
 エアロックは重心に近いので、回転の影響は小さいが、麗子は慌てて壁を突っ張ったし、船首側に引っ張られる加速を感じた。
 気圧を見ると、客室はほとんど真空になっていた。例の壁が、破断したのだ。サロンの気圧は、0.52だった。
 シャトルの姿勢は少しずつ安定してきた。自動姿勢制御装置が働いているのだ。
 見に行きたい気持ちを抑え、エアロックの排気を始めた。
「なぜ、ハッチを確認しないの? 壊れてるかもしれないんでしょ?」
「風を感じないから、ハッチに大きな被害はない」
「そんなの見ないと分からないでしょ。あなたが行かないなら、私が行きます!」
 止める暇も与えず、麗子は補修剤を手にサロンへと向かった。
 多少の空気の漏れは、むしろありがたい。優先すべきは、減圧作業だ。
 佐々は、麗子を無視した。
 1時間余りかかったが、室内は0.35気圧まで下がった。減圧で、気温も氷点下まで下がっている。息が白く曇る。
 佐々は、ハッチの状態を見るため、サロンに入った。麗子は、佐々の顔を見るなり、「寒いわ。何とかならないのかしら」と、両肩を抱いていた。
「節電で暖房を切ってある」
 ハッチに近付く佐々に、彼女は言葉を浴びせた。
「エアロックで遊ぶくらいなら、暖かくする方が先じゃないの」
「部屋を暖かくして、本人が冷たくなりたければな。俺は、優先度が高い方から処理しているだけだ」
 ハッチは、補修剤でベトベトになっていた。気密に関係ないところにも、まんべんなく塗り付けてあった。
「うるさいくらいに、漏れてたわ。ちゃんと塞いでおいたから」
 やり方は下手だが、目的は達したようだ。目に止まった補修剤のスプレー缶を振ってみたが、中身は無さそうだった。
「祈ってくれるか。ぼろぼろの船で漏気の補修が必要にならないことを」
 彼女は、キッと睨み付けてきた。やはり、機嫌を損ねたようだ。
「エアロックに戻る」と言って、その場から逃げた。
 当面の危機は、回避できた。だが、助かる見込みは、未だに0%のままだ。これからは、助かるための第二ステージだ。

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