伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

カテゴリ:索引 > 軌道上のタイトロープ

 4時間余り前に出たエアロックは、なぜか予圧されていた。佐々は、エアロック脇のカバーを外し、操作パネルを見た。
「なぜだ?」
 操作パネルは、真っ暗だった。電源が切れているのだ。パネルに触れてみても、変化はなかった。
 考えている暇は無い。
 ブリッジにとって返し、エアロックの状態を見ようと試みた。しかし、モニターには「権限がありません」と表示され、それ以上の要求は受け付けなかった。もう一度、試みたが、同じだった。
 事故直後に全ての制御権をエアロック側に切り替えた事を思い出した。
 彼女に操作してもらう以外に、選択肢はない。
 ヘッドセットのプラグを差し込んだ。
「相浦さん、聞こえるか?」
 船内カメラには、彼女の姿が映っている。声は聞こえているらしい。呼び掛けた際に、カメラを見た。
「エアロックの操作パネルの電源が落ちているんだ。それで、戻れなくなってしまった」
 彼女が青冷めていくのが分かる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣き出してしまった。
「あたしが悪いの。ごめんなさい」
 そうか。そうだったのか。
 佐々は、無理にでもインカムの操作方法を教えて来るべきだったと後悔した。彼女は、インカムを使う際に、エアロックの操作パネルの電源まで切ってしまったのだ。
 そうと分かれば、手の打ちようはある。
「相浦さん、聞いてくれ。エアロック脇にパネルがあるだろう。左から3番目のLEDは点灯しているか?」
 モニターの向こうで首を振った。
「ちょっと待ってくれ」
 3番目のLEDは、エアロックの主電源の状態だ。消灯しているなら、操作パネルが使えないのは当然だ。
「今から言う通りにパネルを操作してくれ」
 また、首を振った。
「簡単な操作だ」
「無理よ!」
「インカムのスイッチを入れる事が出来たんだ。出来るよ」
「あたしが触ったら、また間違えて、あなたを殺してしまうわ」
「言う通りにすれば、大丈夫だ」
「無理よ! 絶対に無理。間違えないで出来るわけないわ」
 麗子は、涙を浮かべている。
「よく聞いてくれ。君が操作しなければ、1時間もかからずに俺は死ぬ」
「酸素が無くなるの?」
「炭酸ガス中毒が先だろう」
「一酸化炭素中毒?」
「いや、二酸化炭素中毒だ。3%を越えると、頭痛や吐き気が始まる。7%を越えると、意識を失い、放置すれば呼吸停止で死亡する」
 彼女の表情が強張る。
「俺は、まだマシだ。苦しむのは、精々30分だ。だが、君は違う。救助隊が来ても、エアロックが開けられないと、君を助け出す方法がない。そこは広いから、二酸化炭素中毒でも頭痛と吐き気に2日間は苦しむだろう」
 おろおろするだけで、覚悟を決めた様子はない。
「何もしないで俺を見殺しにするのを選ぶのか。一か八か助かる可能性に賭けるのか。君次第だ」
「あたしの立場だったら、どっちを選ぶの?」
「考えるまでもない。賭けに出るさ」
「もし、操作を間違えても、恨まない?」
「何もしないで俺を見殺しにすると言うなら、死ぬまでの一時間か二時間、思い付く限りの恨み事を言ってやる。だけど、頑張ってやってみると言うなら、命尽きるまで応援するぜ」
「本当に?」
「今の状況で、その操作パネルを使って俺を殺す方法を、俺は思い付かない」
 彼女の表情がいくらか明るくなる。
「よし、やるぞ。確実にやるために、俺が手順を言うから、まず復唱するんだ。復唱を聞いて大丈夫だとわかったら、実行と言うから、もう一度復唱しながら操作するんだ。いいね?」
 モニターの向こうで、彼女が頷く。
 頭痛が始まった。時間がない。一発勝負だ。だからこそ、慌てずに確実に進めなければ。
「第1ステップは、右下のボタンを押す。まず、位置を確認しろ」
「右下のボタンの位置を確認し、それを押す」
 直ぐに、彼女の指が止まった。
「位置を確認したなら、実行だ」
「押します」
 モニターからは、彼女の手元は見えない。ただ、手が動いたことは分かる。
「ディスプレイに出た文字を読んでくれ」
「PmwerOn……InitializeComplete」
 初期化まで、終わったようだ。
「Menuと書いてあるボタンは、分かるか?」
「……あっ、あったわ」
「Menuを押す」
「Menuを押す」
「よし、実行だ」
「Menuを押したわ。あっ、表示が変わった。1.SetUp、2.StartUp、3.Control、4.Priority、5.Moniter」
「2のボタンを探せ」
「あった。場所は分かるわ」
「よし、2のボタンを押せ」
「押したわ。あっ、表示がどんどん変わっていく。読めない!」
「大丈夫だ。Completeの表示が出たら教えてくれ」
「わかったわ。……ちょっと待って。StartUpComplete。これでいいのかしら?」
「Okだ。だけど、ここからが危険なオペレーションになるぞ。気を抜くな」
 佐々は、更に数ステップの手順を彼女に課した。
 続くパスワードの入力には手間取った。「オー」と「ゼロ」を打ち間違えたのだ。打ち間違えたとわかった時、彼女は半狂乱のようになった。宥めるのには時間がかかったが、いい薬にもなった。以後の入力には、呆れるほど慎重になった。
「終わったぁ!」
「終わったの?」
「ああ、終わったよ。ここからは、俺の頑張りだけだ。だから、俺が死んでも、俺がヘマをやらかしたんだなって、思ってくれ」
「何が言いたいの?」
「君は、最後までやり抜いたんだ」
「冗談じやないわ。私は、何のために必死になったと思ってるの? 生きて戻ってこなかったら、あなたの意識が無くなるまで、ありったけの恨み言を聞かせるわよ」
 どこかで聞いた台詞だ。佐々は苦笑いした。
「時間がない。また会おう」
 モニターが消える瞬間に見せた彼女の不安そうな顔が、脳裏に焼き付いた。
 吐き気が酷くなってきた。フィルターは、二酸化炭素を吸収できていない。二酸化炭素濃度が上がり始めている。
「慌てるな!」
 自分に言い聞かせた。そして、もう一度、ブリッジの計器を確認した。
「制御権はエアロック側。よし」
 無駄な電力を使わないように、計器の電源を落とした。最後に照明を落とし、シートを離れた。
 エアコンディションモニターは見ないことにした。エアロックに辿り着けるかどうかが問題だ。二酸化炭素濃度を知っても、焦りを誘うか、落ち込むかのどちらかにしかならない。
 慎重にブリッジを出た。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

  第三章
 
 息苦しさはない。だが、頭痛と吐き気に、目眩が加わった。
 ハッチから頭を出し、周囲の安全確認した。真っ暗闇の宇宙空間で、淡く視野が霞む。
 駄目かもしれない。
 弱気を振り払うために、頭を振った。
「うっげぼっ!」
 激しい吐き気に襲われた。胃から喉を突き破り、口の中へと噴き上げてくる。焼けるような痛みが、胃から喉、そして口へと広がる。
 佐々は、逆流してきた胃液を口の中で塞き止めた。吐き出し、バイザーを汚したら、視界を失う。バイザーの内側は、曇り止めの加工はしてあるが、吐瀉物までは対策されていない。
 胃は、腹の中で捻られたようで、繰り返し胃液を噴き上げてくる。それを頬を膨らませて堪える。
 吐き気が落ち着くのを待つつもりだったが、そんな余裕はないようだ。
 背中の推進ロケットを噴射させた。
 宇宙空間での噴射は慎重を要する。抵抗が無いので、噴射を続ければ、速度が上がりすぎる上、減速にも同じだけの噴射が必要になる。失敗すれば、永遠に宇宙を彷徨う事になる。
 佐々は、リスク覚悟で連続噴射を始めた。
 加速力は弱いが、連続噴射の効果で徐々に速度が上がっていく。
 噴射の向きを90度変え、シャトルから離れないように飛ぶ。
 推進剤は十分にある。
 大胆に行こう。
 ブリッジを回り終わる前に、噴射の向きをに90度変えた。それでも、シャトルの屋根の上に出ると、慣性で離れていく。
 だが、佐々は船尾にあるエアロックに向かって加速を続けた。
 佐々は、ブリッジを出る際に最終チェックをした事を後悔した。チェックで異常はなかった。無駄に時間を浪費しただけだ。
 佐々の視線は、エアロックに釘付けになっていた。なんとかブリッジでの遅れを取り戻したかった。
 ふと気付くと、エアロックが近かった。
 気持ちが急き、逆噴射するタイミングが遅れた。スピードを上げすぎた。
 このままでは、エアロックを通りすぎてしまう。
 佐々の目に、エアロック脇の埋め込み取手が映った。減速を諦め、取手に向かうように噴射方向を変えた。
 埋め込み取手は、大気圏を飛行する際の空気抵抗を減らすため、船体内に埋め込まれていて、船体表面と面一になるように二分割の蓋が付いている。赤い枠線で囲まれた蓋は、軽く押すだけで、内側に開き、取手を握れる仕組みになっている。
 佐々は、取手に向かって斜めに突っ込んでいった。そして、埋め込み取手に左手を入れた。蓋は、何の抵抗もなく開き、取手をがっちり掴んだ。
 だが、慣性で取手を軸に体が回転し、船体に激突した。歩くより遅い速さだったが、宇宙服を通して腹に衝撃が伝わった。
 同時に、口の中に堪えていた吐瀉物を吐き出した。胃液の臭気が鼻腔を刺激し、猛烈な吐き気が胃を襲い、噴水のように吐いた。
 あっと言う間に、バイザーは吐瀉物で黄色く汚れ、視界を奪っていった。バイザーに当たって飛び散った雫がヘルメットの中を漂い、右目に入った。
 思わず、手をやったが、外側からヘルメットを叩いただけだった。
 痛みと吐き気でのたうった。のたうちながら、佐々は、ぞっとした。同時に、ほっとしてもいた。
 左手は、今も取手を握っていた。右利きだったから、目に吐瀉物が入った時も右手を使った。取手を右手で掴んでいたら、どうなっていただろう。
 だが、視界は完全に奪われた。手探りで操作するしかない。幸い、慣性は無くなり、左手一本でぶら下がるような体勢で安定していた。
 左手で体を引き寄せようとした時、痛みを感じた。痛みは直ぐに引いた。大した事はなさそうだ。
 エアロックは、思ったより簡単に開ける事ができた。ただ、体が思うように動かない。しかも、エアロックに灯りが点かなかったらしく、汚れたバイザー越しにはエアロックの位置がわからなかった。
 手探りで場所を確認し、重い体をハッチから中へと入れた。体を捻り、ハッチを閉めた。最後の力を振り絞り、ロックした。
 佐々は、自分の体勢を自覚していなかった。目眩のせいで、平衡感覚を失っていた。それに気付かされたのは、エアロックの加圧ボタンを押そうと思った時だった。
 思っていた位置には、加圧ボタンは無かった。その周囲も手探りしたが、手がボタンに触れる事はなかった。
佐々が気付かない内に、彼の体は、180度近く回転していたのだ。
 加圧ボタンを探し当てるまで、狂ったようにエアロック内を探し回った。
 漸く加圧ボタンを見付けた時には、朦朧としていた。エアロック内で、のたうち回ったので、二酸化炭素濃度を更に上げてしまったのだ。
 早くヘルメットを脱ぎたかった。ヘルメットの咽頭部にあるロック解除レバーを引き起こそうとしたが、びくともしない。
 ロック解除レバーは、フールプルーフ設計になっている。ヘルメットの内外気圧差が30hPa以下にならないと、ロック解除はできない。
 平時の佐々なら、気圧差が無くなるまで待つのだが、今の彼は時間感覚を失っていた。
 頭痛は治まりかけていた。喉の痛みも、感じなかった。左手の痛みもない。不快感は消え、浮遊感が気持ちよいくらいだった。
「助かったのか」
 ロック解除レバーを引き起こそうとしていた右手から、力が抜けていった。
 バイナリースターを運営するルナプロジェクト社は、日本では唯一の観光用宇宙船運営会社だ。
アメリカの民間宇宙旅行会社に遅れて発足したため、設立当初から月面旅行を目指す事で巻き返しを狙っていた。バイナリースターは、万を辞して登場した世界初の月往還宇宙船だった。
 初飛行の搭乗客を募集したところ、一人当たり1000万ドルにも届こうかという高額のため、日本からの応募は相浦家の二人だけだった。その二人も、宗太郎氏がメディカルチェックで搭乗できなくなり、麗子一人の搭乗となった。
 相浦宗太郎氏は、三代続く製薬会社の会長職に就いている。孫娘の麗子は大学在学中の二十二歳。夏休みを利用し、地上訓練と月世界旅行に挑んだ。
 星出未来は、ルナプロジェクト社に入社して7年のパイロットだ。月に向かうのはもちろん、衛星軌道はおろか、弾道飛行の経験さえ無かった。彼女が搭乗する事になったのは、女性である麗子の存在があったからだ。
 佐々は、JAXA出身の宇宙飛行士だ。宇宙ステーション往還機の操縦士の経験に加え、船外活動も経験があった事から、ルナプロジェクト社がバイナリースターの船長候補としてヘッドハンティングした。
 彼ら三人を乗せたバイナリースターは、前世紀のアポロ13号同様の大事故を似たような場所で発生し、同じく自由帰還軌道で地球に帰ろうとしていた。
 何となく、唇に暖かさを感じた。その暖かさが離れていくのに合わせて、意識が戻ってきた。
「佐々さん。佐々さん」
 呼び掛けに、佐々は小さく頷いた。
 麗子の声だった。
 ゆっくりと目を開けた佐々だったが、ただ明るいとだけ思った。全身が脱力しているが、体を動かしたいとは思わなかった。
 寝惚けたような感覚で、再び眠りに落ちそうだった。
「佐々さん。大丈夫?」
 頬を二三回叩かれた。
 頬を叩く手を払い除けようと思ったが、夢の中で抵抗するような感じで、思うように動かない。
 思わず「五月蝿いなぁ」と呟いた。
「良かったわ。意識が戻ったのね。ゆっくり休んでね」
「五月蝿い」と言って「良かった」と返されたのは、生まれて初めてだろう。
 佐々は、意識がはっきりしてくるのを自覚した。自分が置かれている状況も、徐々に把握できるようになってきた。
 ヘルメットは脱がされていた。
「助かったのか」
 指が動かしてみた。見えないが、動いているようだ。
 右腕を目の前まで持ってきた。
 間違いない。動いている。指も大丈夫だ。
 痛むところがないか、順番に動かし、確かめた。
 左手首と上腕が痛むが、他は問題なかった。頭痛と吐き気が戻ってきたが、我慢できない程ではない。
 佐々は、宇宙服を脱いだ。
 エアロックを出ると、麗子が待っていた。
「上半身裸になって」
「何を言ってるんだ」
「こう見えても、医大生ですからね」
 大学生とは知っていたが、医学部とは思わなかった。だが、事故直後の未来への処置と判断の早さも、医大生なら頷ける。
 佐々は上半身裸になった。彼女は、聴診器を当てた。
「どうやら、誤飲はなかったみたいね」
 聴診器を外しながら、そう診断を下した。
「ちょっと腕を見せて」
 彼女が左手を取った時、鈍痛を感じた。
「やっぱり痛むのね。腫れてきているから、折れてるかもしれないわ」
「まさか。そんなに痛くないぞ」
「二酸化炭素中毒は、神経を麻痺させるって言ってわね。明日あたり、痛み出すかも」
 医大生程度では分かるまいと、鼻で笑った。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 直後、地上からの無線に呼び出された。
「いったい何をやってくれたんだ?」
「その前に聞くことはないのか?」
「そんなもの、あるわけないだろう!」
 それを聞いた途端、佐々は無線を一方的に切った。安否確認さえしない態度に腹がたった。
 直ぐに、呼び出しが鳴った。
「最初に言う言葉を思い出したか?」
「ふざけるな!」
 それだけ聞けば充分だった。声は、常務だろうと思う。彼は、今回の宇宙旅行の責任者だ。その人物を信用できないとは、情けない。
 また、無線を切った。直後に呼び出しが鳴ったが、今度は無視した。
宇山のローテーションまで待とう。
 それが、彼の結論だった。
 2時間余り後、彼の方から連絡を入れた。
「無事だったようだな」
 宇山の重い声が返ってきた。
「約束通り、減速をした。迎えに来てくれるな」
「あちこちに交渉中だ」
「期待せずに待つよ」
「それより、宇宙エレベータとニアミスしたみたいだが、何をやらかしたんだい?」
「帰還したら、二人で本を出そう。このネタは、その時に教えるよ」
「楽しみだよ、ったく」
 宇山のしかめっ面が目に浮かぶ。
 テレメータの読み上げが始まった。半日ぶりの読み上げになった。読んでいく途中で、一ヶ所だけ気になるところがあった。
 読み上げが終わると、宇山が先に口を開いた。
「空気が漏れているかもしれない」
「俺も気になった。減速時に船体に無理を掛けたのかもしれない」
「あそこを見ておくべきだろうな」
「そうするよ。状況によっては、相談するかも」
「任せてくれ」
 無線を切ると、エアロックを出た。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 佐々は、麗子を押し退けるように通り抜けた。そのまま、1層上のサロンに向かった。
 思った通りだった。
 ハッチに施した応急措置の回りに、埃が吸い寄せられていた。吸い出されていく空気で、埃が揺れている。甲高い音も聞こえる。
「やっぱり漏れてたか」
「あたし、ちゃんと塞いでおいたわよ」
 いつの間にか、彼女は背後に来ていた。
 確かに、彼女は念入りに補修剤を塗り付けていた。補修板と補修板の隙間はもちろん、補修板の表面全体やその周囲まで満遍なく塗り付けてあった。
「原因は、宇宙エレベータにぶら下がったからだ。船首が破壊されているから、歪みが出たんだと思う。ただ、問題は、誰かさんが補修剤を使いきった事さ」
「他には補修剤は無いの?」
「あれが全てさ」
「あたしが指で押さえておくわ」
 事故直後の情景が目に浮かぶ。
 麗子は、シーツでクラックを塞ごうとして、手を吸い取られたのだ。
「マイナスドライバーは、ここには無い。吸い付かれたら、助けようがない。それより、手伝ってくれないか」
「思い付いたの?」
「ああ、シーツの代わりをな!」
 べとべとに塗ってある補修剤に指先で触れてみた。強い粘着力は、衰えていなかった。
 必要な品を求めて、倉庫へ向かった。
 ゴミ箱の中から、使用済みのレトルトパックを見つけ出した。パックを開封する時に使う鋏とピンセットも、用意した。
 更に、新聞紙程の大きさのビニールを見つけ出した。交換用のシーツを入れてあった包装用のビニール袋だ。
 サロンに戻ると、不安そうな面持ちで麗子が待っていた。
「これを直径1cmくらいの大きさで、できるだけ丸く切ってくれ。10個くらいあれば足りるはずだ」
 渡されたレトルトパックと鋏を受け取ると、何も言わずに作業を始めた。彼女の手先の器用さが、意外に感じた。
 切り取られた丸い切れ端を、ピンセットで摘まみ、漏出が続く隙間に重ね貼りしていく。2ヶ所あった隙間を、レトルトパックの切れ端で埋め尽くした。
「もう一仕事だ。これを広げてハッチを覆うんだ」
 ビニール袋を示した。
「ハッチを覆ったら、周囲から補修剤に貼り付けていくんだ。周囲をきちんと貼れば、真ん中の方は自然に貼り付く筈だ」
 二人でビニールを広げて、ハッチに貼り付けた。周囲を、粘着力が残る補修剤に貼り付けていくと、中の空気が船外に吸い出され、びたりとハッチに貼り付いた。
「我ながら、上手くいった」
「これで、大丈夫ね」
 答えずに、エアロックに戻ると、備品リストを端末に表示した。目的の品が何処にどれだけあるのか、これから必要になりそうな品はないか、リストに探した。
 リストをチェックし終わった頃、宇山から無線が入った。
「いい知らせか?」
「当たりだ」
 皮肉のつもりで言ったから、朗報と言われると返事ができなかった。
「嬉しくないのか?」
「あ、いや、なっ内容しだいだ」
 無線の宇山が笑っているだろうなと思った。
「君らの救出するロケットの発射日が決まった」
 耳を疑った。
「但し、問題がある」
 やっぱり。
「ギリギリの高度になるから、君らがシャトルの外に出て、自力で乗り移ってほしいということだ。しかも、ランデブーから30分以内だそうだ」
「ここまで軌道を下げても足りないのか?」
「まだ高いと言ってきている」
「宇宙服が一つしかないことも、承知しているのか?」
「聞かないでくれ」
 宇山の気持ちもわかった。
「今まででは最高の朗報だ」
「ちょっと聞いてくれ」
「なんだ?」
「残った燃料で目一杯減速できないか?」
「いいアイデアだ。噴射のタイミングと、地球に落ちないか、教えてくれ」
「できるのか?」
「できなきゃ、乗客を見捨てる事になる。二人揃って帰るか、彼女だけが帰るかのどちらかだ。さっきの話だと、俺一人しか助かりそうにない。そんな救出案は、無いのと同じだ。やれるだけやってみる」
「必要なデータは、こちらで用意する。俺も、二人揃って帰るか、俺が死ぬかの覚悟で闘う」
「わかっているさ。君が救出ロケットを用意してくれた事を」
「通信、終わり」
 照れたのか、宇山は本当に通信を切った。
 やるべき事は、明白だ。宇宙服を整備し、もう一度だけブリッジに行けるようにする事だ。
 直ぐに、作業に取り掛かろうとした。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 最後の軌道修正は、近地点で行う。それまで、一時間を切っている。
 時間が無い中で呼び掛けられたから、二度目だとわかっていながら、無下にせざるを得なかった。
 最低限の整備しかできない事はわかっていた。
 二酸化炭素除去フィルターは、一度目の船外活動で使ったものに戻した。
 推薬の残量は、僅かだった。ブリッジまでの往復は無理だ。命綱が無いので、万が一、船体から離れてしまった際に、戻ってくるために残しておく。
 酸素は、充填を諦めた。充電を優先するためだ。まだ2時間分は残っているし、フィルターの限界を越えれば酸素の残量は関係無い。
 時間が許す限り、充電を続けた。その間に、倉庫の中からロープを探し出し、エアロックに戻った。
「あれ?」
 辺りを見回した。ヘルメットが無いのだ。
 麗子なら知っているかもと思い、エアロックを出ると、彼女がヘルメットを持って浮かんでいた。
「また出るの? ほんの数時間前に死にかけたばかりじゃない」
「いいか、聞いてくれ」
「あたしの話は聞けないのに、自分の話を聞けっていうの?」
「今なら90%の確率で助かるが、5分後には0%まで下がる。時間が無いんだ!」
 ヘルメットを掴み、奪い取ろうとした。ヘルメットを掴んだ左手に激痛が走った。
「骨折している手で、何ができると言うの」
「幸い左手だ。ほとんど関係無い」
 左手から右手に持ち代えようとしたが、彼女は後ずさった。
「わかった。君は俺を殺したいんだな。俺を殺したいなら、それを持っていればいい」
 佐々は、手を引いた。
 彼女に任せた。
 麗子は、迷っているようだった。だが、意味は理解していた。
「90%の確率は本当なの?」
「今すぐなら」
「だったら、あたしが行きます。怪我してるあなたより、あたしの方が上手くできるわ」
「この宇宙服は、俺の体に合わせてある。体に合わない宇宙服だと、スイッチ一つ操作できないぞ」
 スイッチと聞いて、彼女の血の気が引いた。
 その隙に、ヘルメットを奪った。
「本当にできるの?」
「時間が無い。宇宙服をエアロックに押し込んでくれ。それが終わったら、エアロックの外で待っていてくれ。2時間以内に戻ってくる」
 彼女は言われた通りにした。
 ヘルメットの内側は、汚物を綺麗に拭き取ってあった。バイザー越しの宇宙は、佐々に恐怖を呼び起こした。
 佐々は、慎重に船外に出た。シャトルの外壁には、手掛かりらしい突起はほとんどない。点検孔やメンテナンス用の小さなハッチ等を辿り、ブリッジに向かった。
 意外だった。彼のリーチの範囲内で、エアロックからハッチまで、何がしかの手掛かりがあった。シャトルの屋根部分は、大気圏突入時にも極端な高温にはならない。
 だからだろうか。アンテナやピトー管等があちこちにあった。
 佐々は、開けっ放していたハッチからブリッジに入った。
 直ちに、軌道修正の準備に入った。近地点は、数分後に迫っていた。シャトルの姿勢を変え、軌道修正ロケットを点火した。
 軌道修正ロケットは、2分余りで燃料を使い果たし、自動で停止した。
 軌道修正で、船体の姿勢が乱れたので、姿勢制御する。制御権をエアロック側に移し、各スイッチを切って行く。
 今度こそ、ここに戻ってくる事はない。
 一通りのシャットダウン手順を終えたところで、酸素残量と二酸化炭素濃度をチェックした。まだ、30分は動ける。
 シャットダウンの再チェックを行う。
 失敗は許されないが、落ち着いて行動すれば、何も心配する必要はない。
 チェックが終わったところで、キャビンに向かった。ハッチの状態を、裏側から見ておきたかった。
 ハッチは、見た目に異常は感じなかったが、ロックハンドルは、僅かに弛んでいた。きちんと締め直した。
 自分と麗子のスーツケースを手に、ブリッジに戻った。
 二つのスーツケースの持ち手部分にロープを通して結わえ、2mくらいの余裕を取って体に結びつけた。もう一端は、ハッチのハンドルに通した上で、これも体に結びつけた。
 ハッチからスーツケースを押し出し、続いて彼自身も外に出た。
 来た道を引き返すため、右手を伸ばして最初の手掛かりのピトー管を掴んだ。体を引き寄せ、次の小さな点検孔に左手の中指を掛け、更に引き寄せた。
 次の手掛かりに視線を移し、右手を伸ばした。
 ゴツン!
 何かが、バックパックに追突した。強い衝撃ではなかったが、体が頭の方に押し出された。手掛かりを持つ左手で体を支えようとした時、手首に電気が走った。
 一瞬の事だっだが、気が付くと、体が船体から浮かび上がっていた。右手を伸ばしたが、船体にさえ届かなかった。
 躊躇う事なく、ロケットを噴射する。だが、直ぐにガス欠を起こし、船体から遠ざかるのを防ぐ程度だった。
 佐々は、ロープを引いた。軽い手応えがあり、体はゆっくりとハッチに向かって流れ始めた。
 間も無く、船体に手が届き、手掛かりを確保できた。
「振り出しに戻るっか」
 一人ごちた。
 バックパックにぶつかったのは、スーツケースだった。気をつけて進む事にする。
 再び、手掛かりを辿り始めた。左手は、ズキズキ痛み、感覚が鈍くなっている。力も入らない。
 振り出し以前に戻った気分だった。
 慎重に一歩ずつ進む。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 救難隊との合流日程が決まったのは、最後の船外活動から命からがら戻ってきた2時間後だった。
 救難隊が到着するのは、一週間後になる。そこまで、バイナリースター内で二人の命を繋がなければならない。
「どう思う?」
 佐々の問いかけに宇山が応えてくれた。
「ギリギリだな。二酸化炭素は問題ないが、酸素残量が厳しい。漏出が完璧に止められれば、足りるが」
「ハッチの補修は、これ以上は無理だ。だから、気温を下げて空気密度を上げ、その分だけ気圧を下げるつもりだ」
 エアロックを使えない事は分かっていた。エアロックには、二酸化炭素除去フィルターが付いていない。換気によって、空気組成をコントロールする。
「漏出する空気密度も高くなるから、効果は疑問だ。寒いと、酸素消費量が増える事も考えろよ」
 苦労してスーツケースを持ってきたのは、このためだったが、無駄だったようだ。
「そこの酸素分圧は、0.25で一定しているが、窒素分圧は、0.06から0.03に下がった。船内空気の半分が漏れ出て、酸素タンクから補充された計算だ」
「船外活動の際に排気しているから、そこまでは漏れていない」
「最悪を想定しておくべきだ。これからも監視する事にしよう。その上で、最終手段をいつ使うか、考えよう」
「最後の手段?」
「レスキューボールだよ。だけど、24時間しかもたないから、睡眠薬でできるだけ寝て過ごす事も、案の一つに入れておくべきだろう」
 睡眠薬か。
 気が重くなる。
 救助不可能な宇宙飛行士を安楽死させるために、致死量の睡眠薬を飲ませる事は、過去に検討された事がある。
「やるべき事は、生き残る事だけだ。それだけを考えるようにしてくれ」
 宇山の言うとおりだ。
 麗子も、傍の空間を漂いながら、聞いていた。
 五日後、酸素タンクが空になった。酸素分圧は下がり始め、今は0.2気圧になっている。
 最後の手段を使う時がきたのだ。
 佐々は、レスキューボールの注意点を説明した。
「酸欠は、一瞬で気を失う。レスキューボールを開けて外の様子を見るなんて、絶対に駄目だ。酸欠に気付く前に気を失う」
「分かったわ。自分で開けたら死んじゃうって事ね。今度は、あたしから。処方は守ってよ。ギリギリの量だから、多く飲めば心肺停止になると思って」
「分かった。じゃあ君からだ。レスキューボールに入るんだ。外から気密を確認する」
 麗子は、逡巡した。そして、意を決したように口を開いた。
「一つだけ、聞いてほしい事があるの」
 助かる見込みは高くない。これが最期の会話になるかもしれなかった。
 救助は、30時間後に来る。救助活動が完了するのは、33時間後になるだろう。レスキューボールの限界を超えている。女性の麗子は代謝が低いので、可能性があるが、佐々は可能性が低い。
「何だ?」
「事故の原因」
「それは、ケーブルが切れたからだ」
「だから、ケーブルが切れた原因よ」
「ん?」
「ケーブルが切れた原因は、あたしがボタンに触れたからだと思うの」
「順に話してくれ」
「ブリッジを見学している時、赤と緑の光るボタンがあったから、何か聞こうと思って、指差しながら星出さんに聞いたの。彼女が『何ですか?』って言いながら振り返ったんだけど、その時、彼女の体があたしの肘にぶつかって」
 やはりそうだったか。
 切り離しボタンは、シャトル側が赤色、ブースター側が緑色だ。麗子が言う赤と緑に光るボタンは、切り離しボタンに違いない。
「すまない」
「え?」
 佐々には、切り離しボタンの設計変更を上層部に求めた苦い記憶があった。
 切り離しボタンは、タッチパネルになっていた。しかも、スイッチカバーがない。
 佐々は、訓練開始時から、切り離しボタンのフールプルーフについて問題にしていた。
 まず、色が問題だった。通常の運用では操作しない機械船側の切り離しが緑色なのが、気に入らなかった。
 次に、スイッチカバーがない事が、納得できなかった。
 他にも見つけた問題点と合わせて、会社に改造を提案した。
 バイナリ・スターは、アメリカのモハベ宇宙空港を拠点にするベンチャー企業によって開発された。佐々が訓練を始めた時には、一連の受け入れ試験を終わり、購入契約が交わされた後だった。だから、佐々のクレームは、会社の上層部によって拒否された。
 会社は、2号機以降を改造する妥協案を示し、佐々に搭乗を迫った。佐々は、これを受け入れた。
 心の角においていた後悔と、改めて対峙させられる事になった。
「君が触れたボタンは、本来なら触れないようになっているべきだった。俺は気付いていながら、この船に乗りたいがために、上層部への進言を取り下げた」
「あたしが不用意に指差してなかったら…」
「ちょっと待て。未来とぶつかった時、一度しか触ってないよな」
「え?」
「おかしい。二挙動のはずなのに」
「どういう事?」
「俺だって、この船に乗りたいだけで納得したわけじゃない。操作が二挙動だと聞いたから、納得した。実際、シミュレータは二挙動だった」
「機械船側の切り離しも、二挙動だったの?」
「いや、訓練項目に無かったから、試していない」
「じゃあ、二挙動かわからないのね」
 佐々は、無線で宇山を呼び出した。
「確認してもらいたい事がある」
「何だ?」
「機械船側の切り離しボタンが二挙動か、シミュレータで動作を確認しておいてくれ」
「いいだろう。ただ、回答は明日だ。救助船に連絡を入れる」
 シミュレータを立ち上げ、試してみるには時間が掛かるが、回答を待てないほどでもない。宇山が「救助船に連絡する」と言ったのは、「生きて帰ってこい」との彼のメッセージなのだろう。
「わかった」
「グッドラック」
 何となくすっきりしないまま、通信を終わった。すっきりするためには、生き残るしかない。
 薄い空気の中で、深呼吸した。
「さあ、レスキューボールへどうぞ」
 麗子は素直に従った。
 気密ファスナーを閉じる時、麗子はもう一度顔をだした。
「救助船に着いたら開けてね。それまでキスはお預けよ」
「わかった」
 麗子は、恥ずかしそうに顔を引っ込めた。
 念入りに気密やサバイバルシステムの動作を確認すると、床に固定した。
 やらなければならない事がまだまだあった。
 未来が入ったレスキューボールを移動させてきた。大した作業ではないが、呼吸が乱れる。辛い呼吸の中で、レスキューボールをエアロックの中に入れた。
 深呼吸しても、すかすかと空振りしているような感じだ。息苦しさは感じないが、こめかみの辺りが痛む。二酸化炭素中毒に似た症状だ。
 レスキューボールの生命維持時間から逆算すると、キャビンの空気で二時間は耐えなければならない。
 時々、宇宙服の空気を吸いながら、徐々に始まった頭痛と闘った。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

  第四章
 
 離れた場所から見ると、バイナリースターは何の損傷もないように見えた。
 近付くと、最初に見えてきた異状は、ブリッジ後ろのハッチが開いたままになっている事だ。
 状況を把握するため、外観の確認に努める。ブリッジのウィンドスクリーン越しに中を見たが、人影は勿論、物が散乱している訳でもなく、整然としている。二百年前の幽霊船メアリーセレスト号を思い起こさせる。
 位置を変え、バイナリースターの正面に回り込む。この時、バイナリースターが受けた事故の重大さがわかった。船首の下側に大きな破孔があった。破孔の周辺の耐熱タイルも、砕け散っていた。
 船体の下側から船尾に回り込む。損傷は、見られない。船尾のエンジン周りも目視で確認したが、燃料漏れを含め、異状はなかった。
 上面に出た。緊急用の太陽電池パネルが開いている。機能しているか確認できないが、問題があるようには見えない。
 外観上の損傷は、船首下部だけのようだ。報告の通りだ。
 幸いな事に、バイナリースターは回転していない。姿勢は制御されている。
 コリンズ船長は、エアロック直上に、船の位置を固定した。
 コリンズの命を受け、ズワイガートとクランツは、船外に出た。50mほど離れたバイナリースターのエアロックまで遊泳し、エアロックの操作パネルに取り付いた。
 電源は生きていた。
 パネルを操作し、エアロックの外扉を開けた。中は、照明が点灯していて、レスキューボールが一つ浮かんでいた。
「レスキューボールを発見した。回収する」
「了解」
 二人は、レスキューボールをエアロックから引き出し、自船に持ち帰った。
 医師のヘイズは、自船のエアロックからキャビンに引き込むと、二重の気密ファスナーを開いた。だが、中をちらりと見ただけで、元通りにファスナーを閉めた。
「こちら、救難隊。遺体を一体、収容した。若干、腐敗している事から、事故発生時に死亡したミライ・ホシデと思われる」
「了解した。引き続き、収容作業を続けてくれ」
「作業は継続している。オーバー」
 辺りに漂う異臭を振り払うと、小窓からバイナリースターに視線を送った。ズワイガートらの姿は見えなかった。船内に入ったようだ。
 クランツは、エアロックとキャビンの圧力差がなくなった事を確認し、内扉を開いた。内部は、0.11気圧だった。全てが酸素でも、生き残る事は無理だろう。
 二つめのレスキューボールは、エアロックの目の前に、マジックテープで固定されていた。
「救助する順番を指示されている気分だ」
「最初は遺体だったらしい。と言うことは、これは乗客の女性が入っているって事か」
 二人は、レスキューボールを救助船へ運んだ。
 ヘイズは、二つめのレスキューボールを恐る恐る開いた。最初のレスキューボールと同じような東洋人女性の顔を中に見つけ、背筋が凍りついた。
 だが、今回は異臭がない。もう一度、しっかり見た。綺麗な顔立ちの女性は、微かに寝息をたてていた。眠っているらしい。
 バイタルチェッカーを装着した。レスキューボールの酸素残量も見たが、半分近い量を残していた。
「ハロー」
 呼び掛けに対する反応は、ほとんどなかった。バイタルチェッカーの指す数値は、眠っているだけだと示していた。
 レスキューボールからシートに移し、ベルトで固定した。その時、女性の手から何かが漂い出るのを見つけた。手に取ると、睡眠薬だった。半分は飲んでいたが、半分は手付かずで残っていた。
 酸素の消費量を少しでも減らすために、睡眠薬を使っていたのだ。
「こちら救難隊。レイコ・アイウラと思われる女性を収容した。意識はないが、生命に別状はない」
 無線の向こうで歓声が上がるのが聞こえた。
 小窓からバイナリースターを見やると、三体目のレスキューボールを運び出しているところだった。
 ヘイズは、受け入れ体勢を整えた。
 三体目のレスキューボールからは、バイナリースターの船長が顔を出した。彼は、意識があった。ファスナーを開くと、真っ青な顔で這い出てきて、深呼吸を始めた。
「キャプテン・ササ?」
 男は、荒い呼吸の中で頷いた。
「私はヘイズ、医師だ。早速で悪いが、君を診察したい」
「彼女は?」
「ミス・アイウラ? 彼女は大丈夫だ。彼女のレスキューボールは、酸素残量が40%以上あった。今は、彼女は睡眠薬で眠っている。だが、君は問題だ。酸素残量はゼロだった」
「俺は、深呼吸すれば元通りになる」
「私は診察したいが、どうかね」
 男は、肩を竦めた。
「Okだ」
 ヘイズは、診察を始めた。バイタルチェッカーの値は、芳しくなかった。二酸化炭素中毒による障害が、懸念された。
 だが、命に関わるほどではない。元気な彼女の姿を見せて、安心させてやるのが良いと判断した。
 彼をキャビンに運び、ミス・アイウラの隣に座らせた。
「彼女の状態は?」
「彼女は、全く心配はない。君とは大違いだ」
 苦笑いしている。
「重病人は寝てろと、あんたの顔に書いてあるぞ」
「さっき、自分で書いたんだ」
 ササは、わかったとばかりに片手を上げた。
 しばらくすると、ズワイガートとクランツが戻ってきた。二人は、ササと握手を交した。
 ミス・アイウラはまだ寝ているが、バイタルチェッカーは眠りが浅くなっている事を示していた。
 ブリッジに行ったクランツが、戻ってきた。
「キャプテン・ササ。地上から君に通信が入っている。カメラは正面にある。悪いが、音声はスピーカーから流れる」
 ちらりと視線を送ると、「モニターは無いのか」と呟いた。
「おい、聞こえてるぞ」
「宇山か」
「そうだ。報告がある。知りたいだろう?」
「ああ、待ってたんだ」
「やってみたら、一挙動だったよ。シャトル側の切り離しは二挙動だが、機械船側の切り離しは一挙動だった」
「監査卓の記録も見たのか?」
 シミュレータの監査卓だろうか。そうなら、シミュレータでの訓練内容を監査するためのモニターだ。
 ヘイズは、拙い日本語力で二人の会話に聞き入っていた。
「もちろんだ。ブリッジ側のシステムは、シミュレータも実機も全く同じものだ。シミュレータは、ブリッジ側のシステムのインプット、アウトプットを提供しているだけだ。シミュレータへのアウトプットの記録を監査卓で確認したから、間違いない」
「そうか。やっぱりな」
「つまり、事故原因がわかったという事か」
 ミス・レイコが動いた。ササも気付いたらしく、会話を中断した。
 彼女は、軽く伸びをした。レスキューボールから解放された事を喜んでいるようだ。
「あ、済まない。彼女が目を覚ましそうだったんだが、まだ睡眠薬が残っているようだ」
「君は飲まなかったのか?」
「船の状態が気になって、睡眠薬が効かなかった。だから、飲むのをやめた」
 だから、酸素残量が無かったのか。
「実は、もう一つ報告がある」
「報告が多いな」
「二つの意味で、これが最後の報告だ。この通信を切ったら、この足で辞表を出しに行く」
 無線の向こうがざわつくのが、ヘイズにもわかった。
「ちょっと待て」
「引き留めてくれるのか?」
「いや。俺の名前も連名で出してくれ。頼むぞ」
「おい!」
 ウヤマは何か言おうとしてようだったが、動き始めたミス・レイコに気を取られたのか、ササは返事をしなかった。
 ゆっくりと目を開けた彼女は、正面のヘイズの顔を見た。一瞬、驚きの表情、次に戸惑い、そして平静を取り戻した。
「ここは救助船かしら」
 頭脳も冴えてきたようだ。
「その通りです。我々は、間もなく、帰還軌道に移ります」
 彼女は、育ちの良さを感じさせる笑みを浮かべ、ヘイズに応えた。
「ミスターササはどこですか?」
 最初は日本語だったが、ヘイズの日本語力を見切ったのか、今度は英語で聞いてきた。
 ヘイズは顎をシャクって教えた。
 彼女は、ササを見付けると、自分を固定していたベルトを外した。
 無重力空間での彼女の身のこなしは、軽やかだった。ふわりと浮き上がると、ササに抱きついた。
「お預けにしていたキスよ」
 レイコに覆い被さられたササが、手で“あっちに行け”と合図した。
「しょうがないなぁ」
 ウヤマの大袈裟な声が、スピーカーから流れた。
「通信終わり」
 ヘイズも、気を利かせて通信を切った。他の三人にも目配せして、揃ってブリッジへと移動した。
「楽しんでくれ」
 ズワイガートがにやけた顔で言った。
 12分後、救助船は、帰還軌道へと移った。

                < 目次へ >

自己書評
 
「軌道上のタイトロープ」は、実は全文をガラ携で書いた作品なのです。合間を見て、少しずつメールに書き溜めていったのです。ですが、思い付きで書く事になり、プロットの検討が不十分になっていました。
元々メールでしたから、PCに転送して見直しをする予定でしたが、結果的には、そのまま公開してしまいました。
なぜ、不完全なまま公開する事にしたのかと申しますと、このblogの立ち上げに際し、blog運用の試行として手持ちの中で最も短い本作を利用することにしたためです。
 
さて、自己書評です。
暗号解読に成功した方は、既に最後まで読んでおられるかもしれません。
ですが、長文でもあることから、解読は容易ではないと思います。ほとんどの方は、今も解読されていないことでしょう。
解読版の公開が終わっていない現時点では、内容については書評を控えたいと思いますが、差し障りの無い範囲で一つだけ紹介しておきます。
 
この作品では、「バイナリースター」が辿る軌道が肝になります。
「バイナリ―スター」は、自由帰還軌道で月に向かうのですが、事故によって軌道を外れます。その結果、地球に戻れなくなるわけですが、その後も「バイナリ―スター」の軌道の問題が尾を引いていきます。
軌道を無視していては、物語の骨格が崩れてしまうので、概算ではありますが、軌道計算した結果に基づいて描いています。
このあたりは、私の意地でもあります。
 
最後に、解読版の公開ですが、毎週末の公開を基本とする予定です。
一般的な400字積原稿用紙で140枚余りの短編(中編に分類することも)ですが、blogの機能の問題で一回の公開字数の制限がありますので、第四章までの公開が終わるのは三月中旬となる予定です。
まだ、暗号解読に挑戦していない方は、解読にも挑戦して戴ければと、思います。



                < 目次へ >

↑このページのトップヘ