伊牟ちゃんの筆箱

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タグ:水素

自己書評

概要にも注記していますが、本作は、2018年1月5日から同年10月26日にかけて
Yahooブログに掲載した同名の小説を改訂・転載しています。

この小説「海と空が描く三角」の登場人物、タッカ、鉄腕、ユカリの三人は、私が高校生だった頃からイメージを膨らませてきました。
挿入している逸話は、その頃からのものです。
海上都市アクアシティや飛行艇S2-Rは、高校から大学時代に考えていました。
本作の舞台になっている水素潜水も、高校生の頃に読んだ本の中にありました。
本作を書いた時期は古く、ダイオウイカの記述も、窪寺博士とNHKの撮影よりも前に書いたままのものです。

私にとって、古くて新しい「海と空が描く三角」です。
高校生の頃からのイメージにいくつかのプロットを追加して仕上げました。
楽しんで頂ければと、思っています。


  エピローグ

「一ヶ月ぶりね。こんなふうに会うのは」
 彼女の声が、空港の喫茶店に心地よく響く。
「そうだな」
 早朝の喫茶店は、前回と同様、数人のビジネスマンが、朝食を口に運びながら、パソコンを睨んでいた。
 ガラス窓の向こうには、南国の海に特有の水色をしたメキシコ湾が、朝日を反射している。
 一ヶ月半の時間が、巻き戻されたように気がした。
 一ヶ月半前と一つだけ違っていた事は、ここにくる途中で偶然出会ったオコーナーが、親しげにタッカの肩を叩いて行った事だ。
「一昨日は、クストーの会議室で、ちょこっと顔を見ただけだったもんな」と鉄腕が言う。
「そうよ。だから、一月半前にここで会って以来よ」
 店内に、煌きが擦り抜けた。外を見ると、S-2Cの垂直尾翼が、朝日を反射していた。これから、どこかの海上まで、貨物を届けるのだろう。
「それはそうと、タッカよ、お前、記者会見をすっぽかしただろ」
 クストーで開かれた記者会見を、ユカリと二人で抜け出した事を思い出した。
「いいじゃないか。ああいうのは、苦手なんだ。それに、救出されたのは、六名だぞ。俺が居たんじゃ、数が合わないだろう」
 タッカが嘯くと、鉄腕は笑った。
「俺が言いたいのは、このメンバーで、記者会見の経験が無いのは、お前だけだって事さ。ユカリは、潜水艦の位置の公開で記者会見しただろ。俺は、潜る前にも簡単な記者会見をしてたし、今回も記者会見に引っ張り出されたけど、お前は記者会見の経験が無かっただろう。折角のチャンスだったのに、それをフイにしてしまったんだよ」
 タッカは、意味も無く、悔しさが込み上げてきた。
 確かに、鉄腕も、ユカリも、記者会見を受けた事がある。
 タッカにとってみれば、今回が一番記者会見に近付いていたのに、それに出なかったから、当分、いや、永久に記者会見のチャンスを失ったのかもしれない。
 たかが記者会見だが、無性に悔しかった。
「タッカ、いい事教えてやろうか」
「何だい?」
「もう一度、事故に遭ってやるから、もう一度、水深千メートルまで助けに来いよ。記者会見間違い無しだぞ」
 タッカは、大笑いした。
「やなこった」
 鉄腕も、ユカリも、声を上げて笑った。
「鉄腕は、俺には、空の方が似合ってると思わないのか」
「海底の方が、似合ってるぞ」
 鉄腕は、そんな事を言ったが、海底は懲り懲りだった。あんなヤバイ救出劇は、二度とするものか。
 でも、誰も亡くならず、負傷者も最小限で済んだ。敵である乗っ取り犯も、彼女が足刀で倒した男以外に、誰も怪我をしなかった筈だ。それは、幸運だったし、彼女が強く願っていた事だった。
「それはそうと、タッカは、鉄腕に報告する事があるんじゃないの」
 何の事だか勘は働いたが、タッカは、知らん振りをした。
 ユカリは、鉄腕を手招きして、頭を突き合わせた。そして、小さな声で囁いた。
「タッカがさ、半年後の機長昇格試験を受ける事になったのよ」
 鉄腕は、何か悪巧みを思い付いたように、にやっとした。
「おめでとう!」
 態とらしく手を出し、握手を求めてきた。
「まだ、めでたくないさ。試験に合格しなきゃ」
 と言いながら、握り返した。
「まあ、いいじゃないか。さぁ、前祝いといこうぜ」
「そうね。いいわね」
「じゃあ決まりだ。おっと、タッカは、救難活動の特別表彰で、報奨金を貰ったんだろ。おごれよ」
 鉄腕は、握った手に力を込めた。握力計を振り切ってしまう彼の手が、タッカの手を締め上げる。握力八十キロ以上のタッカでも、鉄腕には歯が立たない。
 さっき見せた顔は、報奨金と前祝いを結び付ける事を思い付いた笑顔だった。
「あぁぁ、それが目的だろう!」
 タッカは、笑いながら非難した。
 でも、「ばれたか」と舌を出したのは、彼女だった。
 鉄腕が前祝いと言うのを予想し、昇格試験を受ける事をバラしたに違いない。
「OKを言うまで、この手は離さないからな」
 鉄腕は、更に力を込めてきた。
「分かった。分かったから、手を離せ!」
 タッカがOKを出したの聞いて、鉄腕以上に、ユカリが小躍りして喜んだ。
 報奨金は、大した金額じゃなかった。見た目通りの鉄腕に、痩せの大食いのユカリ。大食漢の二人に奢れば、簡単に足が出てしまう額だ。
 でも、そんな小さな事は、どうでも良かった。
 また、三人で、大いに笑う事が出来た事が、今のタッカにとって、最高の幸せだった。

                < 目次へ >

 タッカは、減圧室から出る直前に、鉄腕から打ち明けられていた。
 鉄腕は、タッカを食堂から呼び出した。
「実は、今回の潜水に出る前に、ユカリに告白したんだ」
「告白? プロポーズしたのか?」
「いや、結婚を前提として、付き合って欲しいと言ったんだ。駄目元で言ったんだが……」
 思わず、生唾を飲み込んだ。
「見事に振られたよ」
 彼女は、例の素敵な背中の話をしたのだろうか。
 自分が女なら、鉄腕のプロポーズなら受けるだろうなと、タッカは思った。奴の背中は、男の目から見ても、頼もしく映る。シャングリラで見た奴の背中は、頼れる背中だった。
「彼女は、背中の話をしなかった。俺の背中は、合格点を取っていたらしい。でも、振られた。どうやら、正真正銘、振られたらしい」
 親友の失恋を打ち明けられたのだから、何とか慰めなきゃいけないところだが、ほっとした気持ちと、意外な気持ちが交錯し、言葉に詰まった。
「結婚を前提のお付き合いはできません。彼女は、はっきり、そう言ったんだ。だからこそ、俺は、今回の潜水で死ぬ訳にはいかなかったんだ。これが、死んだら、彼女は、一生責任を感じ続けたと思うんだ。だから、絶対に生きて帰るんだと、心に誓ったんだ。そしたら、お前が飛び込んできただろう。こりゃ、二人して生きて帰らなきゃって、責任重大になったよ」
「そうか。お前に負担を掛けたな。でも、全員が無事に帰還できてよかった。上も、酷い事になっていたらしいが、シージャック以降は、誰一人、怪我もしなかったんだから……」
 そこまで言って、はたと気付いた。
 救出作戦の建て直しにアクアシティへ戻る機上で、彼女があれほどまで取り乱した原因は、鉄腕の言う通り、責任を感じていたからなのだ。
 タッカは、自分の優しくない自己中心的な性格が、恥ずかしくなった。同時に、責任感の強いユカリと、その責任まで受け止めてしまう心優しい鉄腕が、自分の親友である事が誇らしかった。
 タッカは、ユカリほどの天賦には恵まれなかったけれど、こんなに素晴らしい二人を身近に感じ、お互いに切磋琢磨していける事を、神に感謝した。
 アクアシティに着くと、彼女は、急ぎ足で船舶管制部に向かった。
「間に合ったかしら?」
 部屋に入ると同時に、彼女は、そう言った。何やら、予め準備していたらしい。
「ヘイ、ユカリ。放射線漏れは、無いようだ。回収の指示は、出した。これで、いいんだろう?」
「OKよ。で、準備の方は、どうかしら?」
 男は、OKサインを出した。
 ユカリは、手近の電話を取ると、電話を掛けた。耳を欹てて聞いていると、どうやら、ペンタゴンに掛けているらしい事が分かった。
「そうなの。核廃棄物運搬船は、存在しないのね。沈没したから、存在しなくなったのじゃないのね。分かったわ。…………そう。私達の海底基地の近くを、原潜が居たかどうかも、教えてもらえないのね。…………今回で、二度目の事故よ。私達も、原潜の位置を正確に把握する必要があるわ。あなた方が秘密主義を通すなら、自力で知るしかないわ。いいわね?」
 彼女は、タッカにウィンクした。
「私からの最後通牒よ。良くって。…………そう。さよなら」
 電話を切った彼女は、大きな声で号令を掛けた。
「実施してちょうだい」
 彼女は、タッカを大きなスクリーンの前に招き寄せた。
 スクリーンには、メルカトル図法の世界地図が表示されていた。海を表す濃い青が、あちこちで小さな水色の円に置き換わっていく。水色の円は、ゆっくりと広がり、隣り合う円同士が重なっていく。その水色の中に、次々と赤い光点が増えていった。彼女は、カーソルを操作して、サンディエゴの沖を拡大した。およそ二百km四方の海域が、拡大表示された。その中には、二つの光点があり、艦名と艦籍、深度、速度、方向が、表示された。
 誰が見たって、原潜の位置だと分かる。
「まさか、世界中で、アクティブ・ソナーを同時に使ったんじゃ……」
「その、まさかよ。それを、ここで編集して、インターネットに公開したのよ」
「インターネット!!」
 思わず、声が裏返った。
「こんな事して、いいのかよ!」
「さっきの電話を聞いたでしょう。今回みたいな事故を防ぐには、これが一番効果的なのよ。私達だけが知っていても、それを軍部が認識していなきゃ、作戦を強行されてしまうでしょ」
 政府が「鉄の女」と言って彼女を恐れる理由が、はっきり分かった。
 サイレント・サービスと呼ばれる潜水艦隊が、彼女の一声で丸裸にされてしまった。潜水艦の最大の武器である隠密性が、これによって完全に失われた。何せ、世界中のどこでも、潜水艦の位置を確認できるのだ。
「これを利用して、先制攻撃を掛けたら、大変な事になるんじゃないのか?」
「大丈夫よ。どこが、原潜に攻撃しようと、攻撃する方も原潜を持っているから、逆襲を受ける可能性があるわ。だから、攻撃を掛けるには、それなりに覚悟がいるわ」
 呆れた。
 でも、胸の支えが取れた気分だ。
「じゃあ、今から記者会見に行ってくるわね」
 彼女は、スクリーンに食い入っているタッカの傍から、音も無く離れて行った。
「頑張れよ!」
 スタッフの誰かが、一声かけた。彼女は、親指を突き立てて、微笑んだ。
 二時間後に行われた記者会見で、彼女は二つの事を公にした。
 まず、核廃棄物運搬船と思われる沈没船を発見した事。
 この件に関して、無人探査船の映像を公開すると共に、これをマスコミ公開の下、引き上げる事も追加した。マスコミ公開としたのは、海軍の妨害を避けるための措置だろう。
 もう一つは、世界中の原潜の位置を、インターネット上で公開した事だ。
 こちらは、核抑止力が無くなる事を懸念する声が上がったが、総ての原潜の位置が分かると、ミサイル原潜に攻撃型原潜が近付いていく過程が見えるから、危機が近付いているかどうかが分かり、抑止力が働く時間が長くなると言って、それ以上は取り合わなかった。
「鉄の女」の面目躍如。
 彼女の華奢な背中が、大きく感じられた。

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 クストー内の与えられた士官用の個室に入り、シャワーを浴びて着替えた。ユカリに「臭い」と言われた後だけに、念入りにシャワーを浴びた。
 シャワー室を出ると、誰かが、扉をノックしていた。
 返事をすると、
「十分後に、記者会見がありますので、食堂まで御出でください」と扉の外から言われた。
 やはり、記者会見があるらしい。憂鬱だった。
 素人の記者が、訳知り顔で質問し、こちらの回答にズレた解釈を付けて報道する。上院や下院の議員が、シャングリラのメンバーを英雄に奉り上げ、同時に自分達の顔を有権者に売り込む。
 タッカにとって、下の脱出を助けたという自負はなく、邪魔してしまった事の方が、心の中の大きなウェートを占めていた。だから、英雄扱いされるのは、大いに迷惑だったし、耐えられない程、恥ずかしい事でもあった。
「分かった。準備しとくよ」
 タッカは、用意された航空部の制服に手を通した。
 また、誰かが、扉をノックした。
「今から、行くよ」と答える。
「早くしてね」とユカリの声が返ってきた。
 なんで、彼女が来たのか、顔を出すと、制服姿の彼女は、廊下の向こうで手招きした。彼女は、廊下の壁を背に、先の様子を伺っていた。何事かと、タッカが歩いていくと、彼女は、盛んに隅に寄れと、手で合図してきた。
「どうしたんだよ?」
 彼女は、振り返らなかった。
「ここを抜け出すのよ」
 タッカが返事をしないでいると、彼女は振り返った。
「それとも、記者会見に出て、有名人になりたい?」
 なんと、記者会見に出たくなかった事まで、見抜かれていた。
 返事をする代りに、彼女を自分の後ろに下げ、廊下の先の様子を伺った。
「船を抜け出すのは、得意なんだぜ」
 タッカが親指を立てると、彼女も、同じサインを返してきた。
 クストーは、姉妹船のダーウィンと全く同じ構造になっている。ダーウィンで脱走劇を演じたタッカ達は、手慣れたもので、あっさりと舷門に辿り着いた。
 そこからは、航空部の制服を活かして、堂々と胸を張ってタラップを降りた。うろうろしていたマスコミ関係者は、中の様子を聞いてきたが、航空部の制服だから、「知らされていない」と一言だけ言えば、すんなり引いた。
 彼女が用意した車に乗ると、空港に向かわせた。
 一時間後、タッカ達は、アクアシティへ向かうS-2Cに便乗していた。
「タッカ。あの事故、どうして起こったと思う?」
 コクピットの後ろにある予備乗員のシートで、話し掛けてきた。
「ケーブル切断か?」
「そうよ。あっ、その前に、環境保護団体の船だけど、十日前に救命筏で漂流中の保護団体を発見して、私が救助したの」
 やはり、どこかの海軍が、彼等の船を乗っ取り、それを使ってダーウィンを急襲したのだ。そう考えれば、訓練が行き届き、命令系統もしっかりしていた理由が説明できる。
「彼等は、海賊に襲われたと言ってるけど、それは勘違い。この辺りでは、海賊の報告を聞いた事はないわ。それに、あんな船を乗っ取っても、金目の物は何も無いでしょ。海賊に狙われる訳ないわ」
「ケーブルを切断したのも、監視船を乗っ取った連中のせいなのか?」
「違うわ。彼等は、船の引き上げを中止しろって、船長に言ったのよ。ケーブルを切断した連中が、切断した後で、態々に船を乗っ取るかしら。それも、近付くために、別の船まで用意して」
 有り得ない。一隻目を乗っ取った後で、ケーブルを切断した。その後で、ダーウィンを乗っ取っている。一隻目の乗っ取りとダーウィン急襲は、一つの作戦だ。その途中に、もう一つの作戦が挟まるのは、矛盾を感じる。
「じゃあ、ケーブルを切断したのは、誰なんだ?」
 彼女は、意味ありげに、微笑んだ。
「環境保護団体は、アメリカ軍の核廃棄物運搬船を追ってたそうよ。それも、核兵器の弾頭を解体した際に出たプルトニウムよ。でも、ハリケーン・インディアナで、見失ったらしいの。その場所が、あの海域だったの」
「じゃあ、運搬船は、あの海域で沈没したって事か?」
「たぶんね。で、ペンタゴンに問い合わせたけど、そんな事実は無いって、そっけなかったわ」
 予想した回答だ。こんな事実は、公文書の公開でも、永久に公開対象にはならないだろう。真相は、千メートルの海底よりも暗い闇の中だ。
 予想された回答とは言え、腹の虫が治まらない。
「それで、調査船を差し向けて、海底の状況を音波探査してみたら、該当の船を見つけたの。詳しく調べるために、無人の自立型探査艇を降ろしたら、大当たりだったわ」
「それが、事件の切っ掛けだな。マスコミに公開するのか?」
 ふふと、含み笑いをした。
「その前に、やって置く事があるわ」
「なんだよ。その笑いは?」
「そんな事より、ケーブルを切断した犯人を知りたくないの?」
 核廃棄物運搬船が沈んだのなら、それを隠したいアメリカ海軍が、目と鼻の先で海底をうろうろしている鉄腕達の作業を妨害したと考えるべきだろう。
「アメリカ海軍だろ? でも、どうやって切ったんだい?」
「知りたい?」
 悪戯っぽく微笑む。この顔をされると、「鉄の女」と呼ばれる彼女でも、憎めなくなる。
彼女は、ちょっと肩を竦めてから、話を続けた。
「原潜で、フックのついたワイヤを一海里くらい伸ばしておいて、支援船の周りを一周するのよ。支援船は、直ぐ近くは、常時監視しているけど、周辺は監視していないし、ワイヤみたいな細い物は、コンピュータが魚と間違って表示から消してしまうの」
「それで、見付からないようにフックをケーブルに引っかけられたんだな」
「そうよ。貴方がケーブル撤去中に見たケーブル表面の引っ掻いたみたいな傷は、フックか、ワイヤーが付けたんでしょう」
 暗闇の中を昇っていくケーブルの情景が、瞼に浮かんだ。あの直後に、緊急脱出球にケーブルが絡まって、あんな引っ掻き傷なんか、すっかり忘れていた。
「フックを引っかければ、後は、潜水艦で目一杯引っ張るだけ。排水量では、ダーウィンも負けてないけど、推力じゃ敵わないわ。おまけに、潜水艦は耐圧船殻をもってるから、ダーウィンにしてみれば、堪ったものじゃないわ。船長は、船を守るために、ワイヤを切断するしかなかったのよ」
 深呼吸したつもりが、大きな溜息になった。
 ワイヤを切断したために、鉄腕達は生命の危機に晒され、多くの人と資材が投入された。運搬船の沈没を隠すために、いかなる犠牲も厭わない軍の行動が、タッカには納得ができなかった。
「おい、ユカリの力で、これを公にする事は、できないのか?」
 ユカリは、クスッと笑っただけで、答えなかった。
「その事は、後で説明するわ。それより、報告書と始末書を書いてよ。何せ、五千万ドルもするS-2Rの水中エレベータを捨てたんですからね」
「おい……」
「おまけに、緊急脱出球も駄目にして、最後には、海底基地の半分を捨ててきたでしょう。これは、とんでもない損害額になるわよ。しっかり、言い訳を書かないと、全額弁償になっちゃうかも」
 タッカは、必死に弁明したが、彼女は、「言い訳は、報告書に書きなさい」と言うだけで、笑って取り合ってくれなかった。

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  事故原因

 船上減圧室と外部との連絡は、月着陸船と管制センターとの連絡に似ている。目と鼻の先程の距離に居ながら、地球から月程の距離に感じる。少なくとも、気圧の壁のが立ちはだかり、簡単に行き来できない点では、全く同じだった。
 ただ一つの違いは、船上減圧室の側面にある数箇所の小窓から、相手の顔が生で見られる点だろう。
 恋人同士が、小窓のガラスを間に挟んでキスをする。
 映画なら、そんなシーンも出てくるだろう。
 何を勘違いしたのか、クストーの乗組員が、たっぷりと口紅を塗り、小窓の一つにキスマークを付けた。せめて、恋人が来たつもりになってくれという意味なのだそうだ。
 だが、クストーの女性乗組員の協力を得られなかったらしく、キスマークを付けたのは、男だった。だから、減圧室の中に居る七人は、誰一人として、その小窓には近付かなかった。
 そんな小窓の一つから、タッカは外を見た。
「ごめんね」
 小窓の向こうで、ユカリが手を振りながら言った。
 そのままでは、声は聞こえない。彼女は、受話器を片手に、話し掛けてきた。
「見つけるまで、時間が掛かってしまって、ごめんなさいね」
 浮上してから、見つけてもらうまで、一晩を越していた。はっきり言って、中のメンバーは、絶望していた。脱出の際に、大量の酸素を消費したので、酸素は底を突き、二酸化炭素の濃度も、危険な領域まで上昇していた。
 メンバーは、今回の事故後の経緯を詳細な記録に残すため、手分けしてメモに書き留める仕事をした。電源が無くなり、パソコンが使えなかったので、全て手書きになった。二酸化炭素中毒による激しい頭痛と吐き気の中、懸命に記録を残した。発見が間に合わなかった場合でも、彼等の経験が今後に活かされるようにするためだった。
 正に、遺書の代りだった。
 幸い、ギリギリのところで発見され、救出されたのだが、その後も、B棟だけで浮上していたものだから、船上減圧室に乗り移るのに、大変な事になった。
 ダーウィンの甲板は、戦場になった。B棟を大型クレーンで釣り上げ、前の甲板に下ろしたまでは良かった。だが、そこから出す方法が無かった。やむを得ず、外部から電源とエアの供給をしながら、B棟の中で減圧する事になった。でも、俺には部屋が無く、鉄腕が交替で寝ようと言ってくれたので、同じベッドを二人で交替に使った。
 俺達を発見するのが遅くなったのは、俺達が浮上した位置が、元の場所から一海里以上も流された場所だったからだ。B棟は、傾斜したまま浮上したので、斜めに浮上してしまった。おまけに、海面からは、ほとんど出ていないので、空から捜索するまで、気がつかなかったらしい。
 運が良かったというべきか、ダーウィンが潜水艦を振り切って戻ってきた際、海底基地を探してくれた事だ。トランスポンダーで位置決めしただけでなく、音波探知器で、再確認した。その際に、海底基地からのエコーが、変化している事に気付いたのだ。
 ユカリは、何かが浮いてきているかもしれないと思ったが、既に夕闇に沈み始めていたので、翌朝を待ってS-2Rを飛ばした。
 捜索海域が狭いので、彼女は直ぐに見つけた。ただ、航続距離の長いS-2Rも、四回も離着水を繰返したため、燃料が乏しくなり、捜索終了と共に、サンディエゴに戻った。
「今頃謝っても、もう遅い。一ヶ月も前の話だ!」
 タッカは、怒って見せた。
「そこで、待ってろよ。とっちめてやる」
 鉄腕まで、調子に乗って言い加えた。
 彼女は、サンディエゴに戻った後、報告書の山に埋もれ、本来の救難待機と合わせ、ダーウィンに戻ってくる事はできなかった。
 その間、ダーウィンは、B棟で減圧を続けながら、サンディエゴに向かい、二週間前には入港していた。サンディエゴ港で、クストーと合流し、クストーの水中エレベータを緊急脱出球のハッチに接合する事で、クストー側の船上減圧室に移動した。負傷者は、そこで、初めて本格的な治療を受けられるようになったが、ドクターの処置が良かったらしく、二人とも完治するだろうとの事だった。
「私は、忙しいの。鉄腕にとっちめられてる暇は無いの」
 と言って、アカンベーをする。
 彼女は、タッカ達が今日で出られる事を知って、ここに来た筈だ。
 タッカは、胸が締め付けられるような気持ちになった。
(ユカリは、鉄腕を迎えに来たんだ。俺を迎えに来たのではない)
 今日でここを出られるというのに、タッカの気持ちは落ち込んだ。彼女が去った後で、ここを出たかった。
 そっと小窓から離れて、奥に隠れた。
 しばらくして、鉄腕が、タッカの横に来た。
「おい、誰が一番最初に出るか、くじ引きしようぜ。他の連中も、待ってるぞ」
 言われるままに、食堂に集まった。くじは、阿弥陀くじだった。ナンスは、奥のベッドで寝ていたが、最初に彼が引いていた。残る六本を、順番に決めていく。
 結果は、アロイが一番、オコーナーが二番、ナンスが三番、ドクターは四番、五番がオハラで、六番が鉄腕だった。
「くじ運がいいな。酉じゃないか」
 タッカは、くじ運が悪い方だ。特に、阿弥陀くじは、勝った試しが無い。今回だって、くじ運が良いのか悪いのか。この空気の悪く、狭苦しい減圧室から出るのが、七人の中で、最後になってしまった。
 でも、その方がいい。
 外に出た時、彼女に見送られ、自分より後に出てくる鉄腕の所に走っていかれるより、先に鉄腕に飛び付いてもらって、その隙に、そっと身を隠す方がいい。
「で、何時に出られるんだ? もう、減圧は終わったんだろう?」
 オハラが、待ちかねたように言う。
 あれから一ヶ月。暗闇の中で、一緒に仕事をした僅か二時間で、顔を覚えるより先に、仲間になったような気がする。五人で一緒にハッチを押し、五人で一緒に坂になった通路を滑り降りた記憶が、懐かしく思い出された。
「減圧は、今朝で終わったけど、取材陣の準備がまだらしい」
 電話を置いたオコーナーが、がっかりした表情でみんなを見た。
「マスコミは、俺達を監禁する権利を持っているのか」
「らしいな」
「ここを出たら、記者会見場に直行って訳だ」
「そうじゃないらしい。マスコミの連中は、やつれた顔でここから出てくる俺達を、カメラに捕えたいらしい。記者会見は、俺達が臭いんで、シャワーを浴びてからって事になった」
「じゃあ、今日一日、マスコミのお相手かい?」
「そういう事だ」
「おい、勘弁してくれよ。俺は、ここを出たら、真っ先にプールに行って、一泳ぎしたいんだから」
 オハラが、泳ぐ真似をする。
「まだ、泳ぎ足りねぇのか。何なら、もう一度下に行って、泳いできたらどうだ」
 どっと、笑いが巻き起こる。
「下は、今度の機会に取っておくよ。俺はなぁ、お天道様の下で泳ぎたいんだ」
「遠慮しなくていいんだぞ。下なら、一人で泳げるぞ。貸し切りだ」
 オコーナーが笑って言う。
「違う、違う。こいつは、プールにいるギャルが目的なんだ」
「じゃあ、下にギャルを連れてけよ」
「くる女なんか、誰もいないさ」
「だから、まだ一人者なんだ」
 いつに無く口の軽い仲間が、オハラをからかった。
「うるせぇ!」と憮然とするが、直ぐに大口を開けて笑い出す。
 もう、ここを出るまで、時間の問題だ。その安心感からか、タフな精神を持っている彼等も、会話が明るい。
 そんな中、鉄腕が音もなく立ち上がると、食堂を出た。そして、そっとタッカに手招きした。

 一時間後、呼び出し音が鳴った。今からハッチを開けるとの連絡だった。
 全員が、準備に入った。
 ハッチが開き、外の空気が流れ込んできた。
 彼等は、くじの結果を無視した。
 オコーナーが最初に出て、ナンスの担架を受けた。担架の後ろを持ったオハラが続き、ドクターに付き添われたアロイが出た。彼等がくじをしたのは、ただの暇つぶしに過ぎなかった。負傷者を優先するための最良の順番で、ここを出て行った。
 彼等の熱いハートと冷静さに、改めて感心させられた。
 タッカと鉄腕は、最後に残された。
「今度は、ジャンケンで決めないか」
「そんなに酉がいいんだったら、俺は先に行くぞ」
 そう言うと、鉄腕は、さっさとハッチを潜り抜けた。
 タッカは、慌てて後を追った。
 ハッチを出た途端、眩いばかりにフラッシュが煌いた。ただ、ガードマンが壁を作っていて、マイクを突き立てられる事はなかった。人の壁の間を、タッカは鉄腕を追って小走りに抜けた。スタッフが、誘導してくれる中を、会議室に入った。そこには、一ヶ月ぶりに生の顔を見るユカリと船長の姿があった。
 タッカは、ユカリの視線を外し、船長に握手を求めに行こうとした。その肩を、鉄腕のごつい手が押さえつけた。その瞬間、ユカリがタッカに飛び付いてきた。タッカは、何がなんだか、分からなかった。
 彼女の肩を押し戻し、「飛び付く相手を間違えてるぞ」と言った。
 彼女は、激しく首を振った。彼女の涙が飛び散った。
「鉄腕は、船長に挨拶してるわ。あなたしか、飛び付く相手がいないでしょ」
 そう言って、タッカの胸に顔を埋めた。
 そして、もう一言、「臭い!」と言ったまま、肩を震わせ泣いていた。
 船長は、鉄腕と握手したまま、肩を叩き合いながら、離れていった。タッカは、ユカリと二人きりで、会議室に取り残された。

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 ヘッドライトに照らされている所だけが、自分に与えられた世界かもしれない。
 どこを見ても暗闇の世界。後の四人も、ヘッドライトの明かりがちらちら見えるだけだ。これで、千メートルの世界に出るのは、三度目だが、慣れそうにない。自分には、空がむいているようだ。
「タッカ! ワイヤーは、準備OKだ」
 タッカは、返事もせずに、緊急脱出球に入った。二時間前に来た時と、何の変化もなかった。タッカは、下部ハッチを開いた。これで、内圧が高まれば、最大0.4気圧で緊急脱出球が押し上げられ、ハッチとハッチの間に隙間を作り、逃がし弁より早く海水を吐き出すだろう。
 続いて、切り離しレバーを引いた。ゴクンと音がし、ロックが外れた事が分かった。今度は、内圧調整をマニュアルに切り替え、バルブを全開した。一瞬、目の前が真っ白になった。気泡が、霧のように吹き出し始めた。急いで、緊急脱出球の上に出て、上部ハッチを閉じた。
 タッカは、ワイヤーとケーブルに注意しながら、緊急脱出球とB棟の接合部に近付いた。接合部からは、まだ海水は吹き出ていない。まだ、内圧が十分に高まっていないのだろう。手を翳して、海水の吹き出しを待つ。
 もう、内圧は、かなり高くなっている筈だ。
 じりじりしながら待っていると、いきなり緊急脱出球が、横ずれを起こした。
「今だ! 引け!」
 タッカは、水中電話に怒鳴った。
 ワイヤーが張る時の高周波音が聞こえ、面白いほど勢い良く、緊急脱出球が横に走った。B棟のハッチとの接合面からずり落ちると、B棟の屋根に落ちるより早く、A棟側へ移動した。
「やったぁ!」
 思わず叫んだ。
 緊急脱出球は、A棟の屋根に向かって、ゆっくりと落ちて行ったが、途中で沈降速度が無くなった。ケーブルにも引かれ、浮力が付いたのだ。
「まずい! 逆回転させて、ケーブルを外せ!」
 直ぐに、逆回転が始まった。だが、スクリューを保護するリングに絡まり、外れなかった。潜水艇は、緊急脱出球に引かれ、船尾を少しずつ持ち上げ始めた。
 このままでは、潜水艇の重量が浮力を食ってしまい、ケーブルが排除できなくなってしまう。慌てて、潜水艇に近付いた。だが、心配は無用だった。
 突然、青白い光が現れた。水中作業用のトーチだった。一人が、トーチでワイヤを焼き、間も無く切断に成功した。浮力を失った潜水艇は、元の位置に静かに着底した。
「よし、ここはいい。タッカ、酸素の残量を確認しろ。もう残っていないだろう」
 そんな筈はないと思いながら、メーターを見てぞっとした。
「さぁ、中で、配線を手伝ってくれ」
 上手い人使いだ。感心しながら、開放ハッチを目指した。
 配線は、ほとんど終わっていた。タッカは、B棟に入り、負傷者をベッドに固定する作業をした。一人は、意識がはっきりしていて、何とか一人でも動けるようだったが、もう一人は、意識がなく、薬で眠らされている状況だった。
 B棟が切り離される時、大きく傾く事も考えられた。その中で、動けない二人がベッドから落ちて、怪我を酷くする事は防がなければならない。
 担架に使うベルトを外して持ってきて、ベッドに固定した。
 余った時間で、高い場所にある荷物は、ストラップで固定するか、下に降ろして、ネットを被せた。
 簡単に出来る所が終わった頃、全員が戻ってきた。
 今度は、連絡通路を、トーチで焼き切るのだ。爆薬を考えたが、分厚い板を破壊し、かつ、B棟に被害が出ないようにする事は、非常に難しい事が分かったからだ。
 A棟とB棟の外壁は、百気圧の内圧超過に耐えられるように、厚さ三センチの高張力鋼で作られている。連絡通路は、A棟等と同じ強度にするには、厚さ二センチにすれば良いが、それでは、内圧超過になった際の膨張量に差が生じる。それで、その差を減らし、接合部のストレスを減らすために、連絡通路の外壁は、意図的に薄い板を採用している。
 彼等は、B棟側のハッチの下半分に、板をあてがった。これで、連絡通路に浸水した水は、より低いA棟側に流れ込む事になる。
 鉄腕と、オコーナー、オハラの三人で、同時に切断を始めた。連絡通路が、青白い光で溢れた。金属を焼く異臭と、煙が、通路からB棟まで入ってくる。だが、最後の瞬間に、ハッチに飛び込まなければならないので、ハッチは開けておかなければならない。
 接断面が広がるに連れ、浸水が激しくなった。溢れた海水は、勢い良くA棟に流れていく。A棟が、満水になるまでに、切断を終わらなければ、助かる見込みも無くなる。
 浸水は、途中で、減り始めた。理由は、直ぐに分かった。下側が切断されたのだ。気圧は、連絡通路の床面の水圧より、僅かに高い。だから、浸水する以上に、そこから排水されるのだ。だが、天井部分の切断が進むにつれ、そこからの空気の漏れが激しくなる。それは、耳の奥のツーンとした感触で分かる。気圧が下がり始めていた。
「よし、これで終わりにしよう。後は、浮力で破壊する」
 その言葉で、猛烈な海水のシャワーとなっている連絡通路から、全員がハッチに飛び込んできた。
「ドクター、やってくれ」
 一人、ハッチに陣取ったドクターは、A棟の暗闇に線の延びたコントローラのスイッチを捻った。
 ズン。
 振動を感じ、海水の漏れが激しくなった。ドクターは、A棟に向かってコントローラを投げ捨て、さっと逃げた。それを見計らって、板を越えて溢れてくる海水に逆らい、鉄腕が、ハッチを押した。彼の肩に、見事な力瘤が浮き上がった。
 鉄腕の本当の握力は、誰も知らない。
 彼は、百キロまで計れる機械式の握力計を、左右とも軽々と振りきってしまう。それで、ユカリが百二十キロまで計れる電子式の握力計を用意したのだが、鉄腕は顔を真っ赤にしながらも、百二十キロを振り切った。流石に、左では無理と思ったらしく、右のみの挑戦となったが、計測結果は百二十キロ以上の握力がある事が分かっただけで、正確な数値を得る事はできなかった。ただ、三百五十キロ前後の背筋力も含め、並みの男の三倍近い怪力の持ち主である事は、疑いようのない事実だ。
 しかし、彼の力を持ってしても、ハッチの隙間から海水が流れ込み、完全に閉まらない。握力八十キロ以上、背筋力二百五十キロ以上のタッカも加勢したが、閉まらなかった。ついには、オコーナーも、オハラも、ドクターまでもが、力を合わせて、ハッチを押した。小さなハッチに、五人が群がり、必死に押した。
 五人の力は、水圧を捻じ伏せ、ぷしゅっと言う音と共に、ハッチの隙間からの海水は止まった。ドクターが、素早くハッチのロックを掛けた。
 内圧の高さで、一瞬、海水の侵入が止まり、空気が漏れたのだ。その時のベンチュリー効果と内圧で、ハッチは勝手に閉まったらしい。五人は、ハッチの下にしゃがみ、肩で息をした。
 ハッチが閉まるの待っていたかのように、金属が擦れ合う激しい音が聞こえ、同時に、ハッチ側を下に、奥を上に、大きく傾き始めた。
 無気味な音だった。
 A棟との連絡通路が、B棟の浮力に耐え兼ねて、捻じ切れ始めたのだ。
 音は、続いた。B棟の傾斜は、二十度を越えた。ヘッドライトに照らされた通路が、壁のようになっていく。
「全員、落下物に注意しろ。このままの位置に居て、連絡通路を捻じ切る」
 もう、それしか、方法が残っていなかった。ハッチは、内圧を下げない限り、人間の力では開かない。外に出る事さえ、できないのだ。
 しかし、二十度を越えた所で、傾斜は止まった。
 誰の口も、閉じられたままだった。
「おい、誰か、アイデアを出せ。もうちょっと、じたばた出来る時間があるぞ」
 オコーナーが、みんなを勇気付けた。
 だが、誰からも、アイデアは出なかった。
 長い沈黙が流れた。
 と、突然、オコーナーが通路を登り始めた。
「おい、全員来い」
 みんな、ぞろぞろとついて行った。二十度の急坂を登り詰めると、彼は、こう言った。
「一気に駆け下りるぞ」
 その言葉通り、五人で一気に駆け下りた。
 また、軋む音がした。
「もう一度やるぞ」
 五人で、これを繰返した。しかし、軋んだのは、二回目までだった。五回目を終わった時、誰も「もう一度」とは言わなかった。
「誰か、アイデアは無いか?」
 そうだ。まだ、脳波は止まっていない。もう少し、じたばた出来そうだ。だが、アイデアが無かった。
 軋み音が聞こえないかと、耳を澄ませたが、男達の息以外に、何も聞こえない。
「おい、何か聞こえなかったか?」
 誰か、言い終わらない内に、強い振動を感じた。
「地震?」
 オハラが言った。
「いや、違うな。何かの爆発音だ」
 鉄腕の意見に賛成だった。日本に居る時に経験した地震とは、揺れ方が違っている。それに、ここは地震地帯ではない。
 シャングリラが揺れたせいだろう。再び、連絡通路が軋み始めた。
「もう一回、やってみるか」
 その言葉に呼応し、全員が二十度の傾斜を昇り始めた。その時、二度目の爆発音が聞こえた。B棟は、激しい軋み音と共に、傾斜を強くしていった。三十度を越えた傾斜を五人は、足を滑らさないように気遣いながら、黙々と昇って行った。
 軋み音は、途切れる事無く続いていた。
「ようし、一気に滑るぞ!」
 その掛け声と共に、五人は、抱き合うようにして滑り落ちた。
 連絡通路は、激しい音を伴って、破断した。同時に、B棟は、大きく傾斜したまま、海面に向かって駆け上り始めた。
 十五分後、五人は、小さな窓から、真上に太陽光を見ていた。

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 A棟の開放ハッチを入った所で、暗闇の中で、車座になった。
「まずいな、あれは」
 オコーナーは、緊急脱出球に巻き付いたケーブルの事を言った。
「どのみち、緊急脱出球は、何とかしなきゃならないんだが……」
 と、オハラも声に力がない。
「何か、アイデアは無いか?」
 汗臭さが漂うA棟で、タッカは、頭を働かせるどころか、吐き気を押さえるのが精一杯だった。
 スペース・シャトルが帰還した時に、その内部の異臭に耐え切れず、地上作業員が嘔吐したという話を聞く。ここも、同じ閉鎖空間で、色々な臭気が溜まっているのだろう。出来る事なら、マスクを付けて、新鮮な空気を吸いたい所だが、タンク内の空気は、命に直結する貴重品だ。我慢して、A棟の異臭に耐える。
 誰か、早くアイデアを出してくれ。マスクを付けて、早く外に出たい。
 外と繋がる開放ハッチが、気になって仕方なかった。
 開放ハッチは、内外圧力が釣り合うようになっている。今は、空気が漏れたのか、ハッチの上端から水が溢れそうになっている。このままでは、やがて、ここから海水が浸入し、水没してしまうだろう。
 緊急脱出球に入り、上下のハッチを閉めた時、エアが天井部分に溜まった。あれは、どうしてだろう。海水は、ほとんど圧縮できない。だから、空気が溜まった分だけ、容積が増えてなきゃ可笑しい。
 緊急脱出球が膨らんだ?
 そんな馬鹿な事はない。百気圧の内外圧力差に耐えられるんだ。簡単に膨らむ筈が無い。でも、それなら、海水は、どこに行ったんだろう。海水を逃がしてやる仕組みが無いと説明が付かない。
 海水逃がし弁?!
 もし、それがあるなら……
「あのぉ」
「なんだ?」
 オコーナーの声には、険があった。彼も、苛立っているのだ。それを無視して、続けた。
「緊急脱出球は、海水の逃がし弁がありますか?」
「ああ、あるぞ。内圧が0.4気圧以上高くなったら、弁が開くようになっているが、緊急脱出時に備えて、通常は閉じている。ただ、注水弁と一体になっているから、あんたが入ってきた時に、開いた筈だ」
 やっぱり。
「アイデアなんですが、緊急脱出球のロックを解除して、中にエアを吹き込んでやるのは、どうでしょう。浮力がついて、移動させ易くなるんじゃないでしょうか」
 みんな、沈黙した。暗闇で、顔が見えないのが、もどかしい。
 タッカは、ここに来て以来、鉄腕の顔以外見ていない。オコーナーも、オハラも、リーマンも、タッカは顔を知らなかった。街で出会っても、気付かずに通り過ぎてしまうだろう。
 今、そんな仲間と、生き抜く闘いをしている。
「悪くないな。エアは、貴重だが、どうする?」
 オコーナーの声が、力強くなった。
「緊急脱出球の呼吸用タンクのエアを使います。どうせ、不要ですから」
「もう一つ、無理に動かして、バランスを欠いて、B棟を直撃しても困るぞ」
 そこまでは、考えていなかった。
「もし、緊急脱出球が排除できるなら、いいアイデアがある」
 鉄腕の声だった。
「事故直後から考えてたんだ。B棟だけを台座から切り離し、B棟単独で浮上するんだ。今も、B棟側のタンクやバッテリを使っている。A棟と台座を捨てても、生存時間に変化はない。だから、B棟単体で生き残れる」
 感心しているのか、頷く声が聞こえた。
「緊急脱出球の話は、置いておこう。B棟を切り離すのは、トーチと地質調査用の爆薬を使えば出来るだろう。だが、切り離したが最後、B棟は一気に浮上するぞ。切り離し作業をしていた奴は、乗り遅れる」
「その点は、考えてる。二本のワイヤーでB棟の胴体を繋ぎ止め、連絡通路のところで、切断するんだ。切断と同時に、ハッチを閉め、浮上する」
「ワイヤーより、爆薬の点火装置を置く方がいいだろう。いけそうだな。アムス、ドクターに爆薬の量を計算してもらえ。それ以外の細かい所は、緊急脱出球を排除する方法を考えてからだ。どうだ、アイデアは浮かんだか?」
 ワイヤーがあるなら、何かに使えそうだ。使えそうなものは、何か無いだろうか。A棟も捨てるんだ。B棟以外の全ては、使い捨てていい。
 ここにあるものを、順に思い浮かべた。
 あった!
「潜水艇は、まだ使えますよね。バッテリは、大丈夫ですよね」
「大丈夫だと思う」
 嬉しくなってきた。これなら、緊急脱出球を排除できる。最悪、A棟を破壊する事になるかもしれないが、そんな事、お構い無しだ。
「潜水艇のスクリューにワイヤを絡ませ、そのワイヤで緊急脱出球を、A棟側に一気に引き寄せるんです。A棟が壊れても、どうせ捨てるんだから、構わないでしょう?」
 誰も、返事をしてくれなかった。俺一人で、はしゃいでいるみたいだ。
「潜水艇の固定方法は、どうする?」
 また、考えが浅かった。そこまでは、考えていなかった。
「ははは。冗談だよ。驚かせて悪かった。潜水艇は、アンカーを打てばいいだけさ。アンカーロープを伸ばして、A棟の脚部に括り付ける方がいいかも知れんが。どっちにしても、潜水艇を使うのは、いいアイデアだよ。直ぐに実行に移そう。人手が必要だ。ドクターにも来てもらおう。彼とアムスが、爆薬係だ。他は、緊急脱出球の排除だ。さぁ、いくぞ。おい、アムスとドクターを呼んで来い」
 彼は、まだ笑っていた。
 笑うと空気の使用量が増えてしまうと、タッカは心配になってしまった。
「これで駄目だったら、また、別の方法を考えればいいさ。脳波が止まるまで、みんなでじたばたするぞ」
 そう言うと、オコーナーは真っ先に開放ハッチに消えた。

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  脱出作戦

 連絡通路とのハッチを開いた時、思った以上の浸水があった。急いで、A棟側のハッチを開いて、A棟側に海水を逃がした。ドクター以外の四人で、A棟を駆け抜ける。
「おい、交換しときな」と鉄腕が、温水循環装置用のバッテリを投げて寄越した。
 タッカは、指定されたタンクを背負い、バッテリを交換した。予備のタンクは、六本あったが、これで、残るは二本だけとなってしまった。
「よし、行くぞ。アムスとタッカは、水中エレベータの方を頼む。俺達は、浮力嚢を準備する。終わったら、水中電話で呼び出してくれ。ところで、水中エレベータは、どこにあるんだ?」
「ここから、五十メートルくらいです」
「厳しい距離だな。どうするつもりだ?」
「水中エレベータからワイヤーを引っ張って、一番近くのケーブルを持ち上げようと思います」
「分かった。やってくれ。さぁ、行くぞ」
 次々に、開放ハッチに姿を消した。タッカも、それに続いた。
 水中に入ると、鉄腕に合図して、ベルトワイヤと二本の骨材を持って水中エレベータに向かった。今度は、ロープがあったので、呆気なく辿り着いた。
 早速、持ってきた骨材を、水中エレベータのフレームの上端に括り付け始めた。それが終わると、パラシュートを広げた。これは、相当苦労すると思っていたが、空気の八百倍もある海水の抵抗は、少し引っ張っただけでパラシュートを簡単に開かせた。思ったより苦労したのは、パラシュートを骨材に固定する方だった。直ぐにロープが絡まり、思うようにならない。
 ポンと、肩を叩かれた。振り向かなくても、鉄腕だと分かった。鉄腕は、ケーブルと水中エレベータのフレームとの間を、ケプラー系繊維で作られたベルトワイヤで繋ぐ作業をしていた。それが終わり、タッカを手伝いに来てくれたのだ。この環境下では、作業効率の面で、彼には敵わない。
 鉄腕の手を借りて、パラシュートの固定が終わった。
 一旦、水中エレベータに入り、水素ガスボンベを一個だけ持ち出した。バルブを捻り、パラシュートの中に水素ガスを放出した。パラシュートは、準備中の熱気球のように、水素ガスを溜めて膨らんでいった。
 そうかぁ!
 少し膨らんだところで、慌てて水素ガスの放出を止めた。
 パラシュートは、左右に広がるように、中央が持ち上がっている。でも、水素ガスをため込んでいくと、パラシュートの両翼が広がりきらない内に、中央の縁からガスが漏れて行く。これでは、十分な浮力を得られない。パラシュートの浮力を最大にするためには、全体が同じ高さになっていなければならない。
 鉄腕に身振りで示し、ロープの長さを調整した。
「こちらは、準備が完了しました」
 水中無線で、呼び掛けた。
「よし、実行に移してくれ」
 タッカは、水中エレベータに入り、中にある総ての水素ボンベのバルブを開いた。ハッチ付近にあった水面は、徐々に下がり始めた。やがて、水中エレベータから漏れ、外壁に沿って気泡となって昇っていく。気泡は、やがて、パラシュートの中に溜り、大きな空気の固まりを作っていった。
 その様子に満足すると、もう一度、水中エレベータに上体を入れ、バラストの全投下レバーを引いた。
 低周波の振動が、足元から伝わり、もうもうと砂煙が上がった。同時に、タッカを残して、水中エレベータが急浮上を始めた。
 水中エレベータから、シャングリラに向かって、一直線に砂煙が上がった。ベルトワイヤが上げる砂煙だった。
 タッカは、鉄腕と共に、急いでシャングリラに戻った。シャングリラまで戻った所で、酸素の残量を見た。まだ、半分以上ある。
 シャングリラでは、水中エレベータの浮力の程度を見ていた。
 ケーブル・ステーション側からケーブルが持ち上がり始め、大蛇は、鎌首を持ち上げた。これに合わせ、浮力嚢の一つが膨らまされた。同時に、オコーナー達は、もう一つの浮力嚢の位置の変更を始めた。
 ケーブルの大蛇は、やがて龍になり、天の暗闇に頭を消した。
 二つ目の浮力嚢も膨らまされ、天に昇る勢いが増した。
 水中エレベータは、恐らく二百メートルは、浮上しているだろう。水圧は、20%減り、容積は25%増えているだろう。パラシュートも、半分以上に空気が溜まり、浮力は二トン近くなっている筈だ。一つ目の浮力嚢も、百メートル以上、浮上した筈だ。
 暗闇の天井に向かって、垂直に昇っていくケーブルは、良く見ていないと、天井からぶら下がって揺れているだけのように見えてしまう。滑らかな表面が、五人のヘッドライトに照らされて、ぬらぬらと光っている。
 一瞬、ケーブルの表面を黒い影が垂直に走った。ケーブル表面の引っ掻き傷らしい。あっと言う間に、ヘッドライトも届かない暗闇の天井に、吸い込まれていった。
 突然、激しくきしむ音に続いて、水中で大鐘を鳴らすような振動を感じた。
「まずい!」
 水中電話から、悲鳴のような叫びが流れてきた。見ると、ケーブルは垂直に立ったまま、動かなくなっていた。
 ケーブルの下端へと視線を走らすと、緊急脱出球に巻き付き、動かなくなったケーブルがあった。
「全員、戻れ!」
 オコーナーの命令で、タッカと鉄腕は、開放ハッチを目指した。

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 もう爆弾を見つけているだろうと、右舷ウィングに身を乗り出した。しかし、まだ、見付かっていなかった。
 ユカリは、ゾディアックと環境保護団体の船を見た。不思議な事に、ゾディアックは、船には戻らず、その向こう側へと走っていった。
 なぜ?
 そして気付いた。
「船長! みんなを船に戻して下さい。そして、全速で、この海域を逃げて下さい。早く!」
 怪訝な表情を浮かべた船長だが、疑問を挟まなかった。
「総員、帰船せよ! 定点維持システム停止! 全員が戻り次第、両舷全速!」
 船長は、ユカリの顔を見た。
「どういうことですか? 爆弾は探さなくていいのですか?」
「あの船を見ていて下さい。もうすぐ、雷撃を受けて、沈没しますから」
 船長は、驚いて環境保護団体の船を見た。船は、何の変化も無かった。
「私達が爆弾を探し始めた時、彼等は戻ってきませんでした。爆弾があるなら、爆発までの間、射程距離ギリギリの場所で、牽制する筈です。でも、しなかった。おまけに、彼等は船に戻らなかった。おそらく、潜水艦が来ていて、それに乗り移るんでしょう。それなら、証拠になりそうな二隻を雷撃で沈め、誰にも見られずに撤退できます」
「つまり、相手はロシア?」
「断定できませんし、断定する必要もありません。今は逃げるだけです」
 船長は、少し考えていた。
「総員、戻りました」
「両舷全速。アクティブ・ソナー、最大出力。打て! 潜水艦を発見したら、位置を報告せよ」
 船長は、原則禁止されているアクティブ・ソナーを打った。
「潜水艦、発見。位置、五時の方向。距離、一海里」
 右舷後方だった。ほぼ、環境保護団体の船の向こう側だ。
「船長、あの船を楯にしましょう。位置から見て、まずあの船を沈める筈です。あの船が雷撃を受けたら、その騒音に紛れて、潜水艦の真上に出るのです。潜水艦の真上なら、魚雷の安全距離を確保できません」
「緊急浮上して、体当たりをする可能性があるぞ」
「躱すしかありません。アクティブ・ソナーを連射して、僅かな動きも見逃さないようにしましょう」
「面舵一杯、あの船の左舷に付けるぞ」
 船長は、返事もせずに操船の指示を出した。
「全員をボートで脱出させる方法は、考えられませんか?」
「そんな事をしたら、下の七人が助からないわ」
「七人?」
 船長に、タッカが救出に向かった事を、順を追って説明した。
「救出可能ですか?」
「彼は、天才です。彼なら、絶対にやり遂げます。だから、行かせたのです」
「天才をもってして、天才と呼ばせる男ですか。頼もしいですな」
「彼は、自分の才能に気付いていません。遅咲きなのです。これから先、次々に仕事を為し得ていくでしょう。今回の救出だって、私より確率が遥かに高いと思ったから、彼に行かせたのです。パイロットにしておくのは、惜しいくらいです。でも、パイロットの腕も、中々のものです。機長になれる技量は備えています。波に慣れれば、No1の機長になると思います」
「そうですか。確かに、肝の据わっている雰囲気を持っていましたな」
 船長は、感心した。
 その船長の腕も確かで、きっちり環境保護団体の監視船に付けた。支援船の方が大きいので、斜めにして監視船の陰に隠し、雷撃と同時に飛び出す構えを取った。目の前には、監視船があった。しかし、船舶レーダーには、ほとんど船影がなかった。
「潜水艦は、浮上して収容したのでしょうか?」
「おそらく、あの船の直ぐ脇に浮上したと思います。そうすれば、監視船のエコーに隠れる形になって、余程近くないと、レーダーには映らないでしょうから」
 船長も、納得した。
「水質調査用のブイが有りますよね。あれって、ソノブイに似てると思いませんか」
 何の脈絡もなく、ユカリが言い出した事に、船長は怪訝な表情を見せた。
「似てるには似てるが、聴音ソナーなんか備えていませんよ」
 ユカリには、考えがあった。形状さえ、ソノブイに似ていればよかった。
「いいんです。聴音ソナーは、音を出しませんから、着水音さえ似てればいいんです」
 ユカリの意図を理解したらしく、船長は水質調査用のブイを全て掻き集めさせ、船員も二名を貸してくれた。ユカリは、掻き集められた水質調査用ブイと、一緒にゾディアックに乗り込んだ。
 波に煽られて大きなピッチングを繰り返すゾディアックの舳先に立ち、ロープ一本で体のバランスを取りながら、ユカリは、ダーウィンを振り返った。
 潜水艦は、とうの昔に収容を終えて潜航し、雷撃ポジションに移動し終わっている頃だろう。いつ、監視船を攻撃しても、不思議はない。ユカリは、それが気になり、ダーウィンと、その向こうにある監視船を見続けた。
 腹に響く轟音が響いた。
 環境保護団体の監視船の反対側で、マストより高い水柱が立ち上がった。爆発による振動が、ダーウィンを震わせ、船橋の窓ガラスが何枚か割れて飛び散った。
 船長の号令で、ダーウィンは急加速を始めた。速度が上がる前に、もう一度、大きな爆発音が轟き、監視船は、二つに折れた。ダーウィンが、監視船の横から飛び出す時には、監視船は船首の一部を海面に残すだけだった。
 ダーウィンの速力は、最大で二十ノットだ。海が荒れ始めているから、そこまでの速力が出ない可能性もある。潜水艦は、三十ノット以上出る。簡単に振り切られる速度差だ。でも、潜水艦が、ダーウィンを引き離した上で旋回して、安全距離外から魚雷を発射するには、五海里は引き離さないと無理だ。だが、三十分有れば、それが可能になる。
 ユカリは、S-2Rに急いだ。わずか、四海里が遠く感じた。
 ユカリは、潜水艦の艦長の気持ちになって考えた。
 艦長が最も嫌がるのは、ソノブイによる対潜哨戒と雷撃だ。潜水艦の長所は、敵から見えない隠密性にある。だから、ソノブイ等で、敵に見付かる事を極度に恐れる。だが、相手がダーウィンだけなら、反撃の恐れがない分、大胆な行動に出る事ができる。本来なら、敵に発見され易い全速力も、相手がダーウィンなら、平気で使うだろう。それだけに、早く行動を起こさなければ、非常に危険だ。
 S-2Rに乗り移ると、ユカリは直ぐにAPUを始動し、離水のチェックリストを始めた。チェックリストが完了すると、水質調査用ブイと一緒に船員が転がり込むのを待った。後部からOKの声が掛かると同時に、離水のための滑水を始めた。離水後は、超低空、超低速で、潜水艦に向かった。
「場所は、どこですか?」
 無線で、位置を確認する。ダーウィンは、アクティブ・ソナーを打ち鳴らし、潜水艦を追走していた。
「本船の前方、三海里です。全速で、距離を取ろうとしているようです」
 潜水艦は、全速で航行中は、パッシブ・ソナーが使えない。今、ブイを投下しても、彼等は、気が付かない。最も効果的なタイミングでブイを投下し、対潜哨戒機が居ると、敵に勘違いさせなければならない。
「了解。逆方向に逃げて下さい。それが、一番効果的です。パッシブ・ソナーで、潜水艦の位置と方向だけ、確認して下さい」
「了解。こちらから、コーストガードにも、潜水艦らしきものを発見と報告しておいた」
 潜水艦は、ダーウィンが転進したとは知らずに、全速航行をしている。頃合いを見計らって、振り返ったら、ダーウィンは遠くに下がっていて、しかも、目の前にブイが投下される。当然、アメリカ海軍の対潜哨戒機が来たと思う筈だ。
 それが、狙い目だ。
「潜水艦が、速度を落とし始めました」
 離水から二十分後の事だった。
「了解。直ちにブイを投下します」
 ユカリは、大きな円を描くコースに機首を向けた。対潜哨戒機が、ブイを投下する際、目標物を取り囲むように、円形にブイを投下していく。それを真似たコースを飛ぶ。
 できるだけ効果的に投下するため、彼等の前に投下円が来るように、慎重にコースを選択する。
「投下準備。…………投下」
 後ろで、開け放った扉から、手でブイを投下している。正確に時間を計り、投下の指示を出す。速力は、最低限度一杯の五十ノットだ。本物の聴音ブイは、パラシュートが付いていて、着水時の速度は大きくない。それを真似るのだから、できる限りの低空を、できる限りの低速で飛ばなければならない。
 予定の本数を投下し終わると、燃料消費の多い超低速飛行をやめて、加速する。本当なら、着水して、アクティブ・ソナーを打ちたい所だが、そんな事をすれば、こちらのトリックがばれてしまう。
 下りたい衝動を押さえ、上空待機飛行を続ける。潜水艦発射の対空ミサイルを警戒し、充分な距離を取りつつ、いつでも着水できるように低空飛行を続けた。
 タイミング良く、ダーウィンから無線が入った。
「こちら、ダーウィン。潜水艦は、動いていないか、微速で移動しているようです。パッシブ・ソナーでは、探知できません」
 取り敢えず、安全になったのだろうか。
 自信が無い。
 アクティブ・ソナーを打ちたい。
 潜水艦は、ロシア海軍のものだろう。ならば、出来るだけ早く外洋に出たいだろう。それを基に、潜水艦の位置を予想してみた。やはり、南西方向の可能性が高い。
 機首を南西に向けた。
「ブイは、いくつ残ってますか?」
「五個です」
 五個なら、彼等の通った後を塞ぐように一直線に落とし、追い立てるのがいい。
 海面すれすれまで下りると、BLCを動作させて五十ノットまで減速した。そして、一定の間隔を置いて、直線的にブイを投下させた。
「ダーウィン。ブイは、全部投下しました。念のため、一度、アクティブ・ソナーを打ってみて下さい」
 ホワイトノイズだけが、返ってきた。まさか、雷撃を受けたのでは。
 一気に上昇して、ダーウィンを探した。
「こちら、ダーウィン」
 曇天を映し込んだ灰色の海面にダーウィンを見つけるのと、無線が入るのとが、ほとんど同時だった。
「潜水艦は、八時の方向、距離は、十六海里です。ドップラー効果からみて、遠ざかりつつありのは、間違い有りません。もう攻撃してくる事はなさそうです」
 向こうの艦長の発想のセンスは、大した事がなかったらしい。上手く騙す事ができ、正直、ほっとした。
「了解。これから帰還します」
 ユカリは、降下させると、ダーウィンの風下側に着水した。

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  支援船ダーウィン

 ユカリは、S-2Rを彼等の視界から消えるまで、大陸に向かって飛んだ。
 十五分ほど飛んだ所で、航行灯を消して超低空飛行に移った。海面すれすれの高度百フィートまで降下し、奴等の監視船を大きく迂回するように飛び続けた。一時間近く飛んで、奴等の船からは大陸とは反対側に着水した。
 S-2シリーズは、水上航行用のウォーターポンプ式の推進器を持っている。騒音が小さく、燃費もよい。
 ユカリは、これを使って、風下から支援船ダーウィンに近付いていった。環境保護団体の監視船からはダーウィンの裏側になり、ダーウィンからはコリジョンコースなので、少々近付いても見付かり難い。幸い、曇天で太陽光を反射する心配も無い。それでも、翼長が四十メートルもある機体だから、限度がある。三海里まで近付いた所で、シーアンカーを打ち、S-2Rを停泊させた。APUも停止し、総ての機能を止めた。
 ユカリは、ウェットスーツに身を包むと、先に錘の付いた接舷用のロープとモノフィンを用意した。それを、膨らませたゾディアックに積み込むと、S-2Rを離れた。
 強行着水時の経験から、奴等は、ダーウィンを押さえているだけで、何もしていない。船橋には人を配置しているが、ほとんどが、下に閉じ込めている船員達の監視に回っている。だから、船尾寄りに近付けば、気付き難い筈だ。
 ゾディアックを環境保護団体の船からは見えず、ダーウィンのブリッジからも見え難い位置から、支援船の船尾を目指した。海は荒れ始めていて、隠れるには都合が良かった。だが、一海里くらいまで近付くと、流石に目立つようになった。ユカリは、モノフィンを付けてそっと海に入った。
 ユカリは、モノフィンの扱いに絶対の自信があった。
 子供の頃は、自分の事を間違って陸に産まれてしまった人魚だと思っていた。だから、モノフィンを付ければ本物の人魚にだって負けないくらいに泳げる自信がある。ここから先は逆潮だが、それも苦にならない。モノフィンを付ければ、百メートルは三十秒を切る。一キロを六分で泳いだ事もある。ここからなら、十五分もあれば泳げる。
 二、三度、深呼吸すると、彼女は海面下に消えた。
 彼女は、水面に三度顔を出しただけで、ダーウィンの船尾まで辿り着いた。ここで、ロープを取り出すと、小さな円を描いて回し投げ上げた。先に重りの付いたロープは、上手い具合に船尾のデッキの手摺に絡み付いた。
 モノフィンを脱ぎ捨て、ロープをよじ登り始めた。足をロープに絡め、腕の力を助けた。
 こんな時に、彼女は自分が女である事を思い知らされる。どんなに鍛え上げても、腕力は強くならない。鉄腕なら、腕の力だけですいすい昇っていくだろうが、自分にはできない。海面から体が出て行くのにつれて、浮力が無くなった体が、ずしりと腕に響いた。ここに来るまでは姿を隠すのに都合が良かったうねりが、体を弄ぶ。
 ほんの三メートル程昇るのに、一分近く掛かった。
 後部デッキの端に手を掛け、ゆっくりを顔を出す。予想通り、誰も居ない。萎えた腕の力を振り絞り、デッキによじ登った。
 ロープは、外して海に捨てた。そして、物陰に身を隠し、様子を探った。
 誰も居なかった。
 ユカリは、足音を殺して、駆け出した。素早く、左舷の外階段を駆け上がり、Dデッキに上がった。ここは、予想通り、ボートデッキになっていた。左舷の遠くに、S-2Rが見えた。ゾディアックは、波に持ち上げられた時にだけ見える。
 直ぐ近くに船が見えてるのに、中々気付いてもらえないと、遭難を経験した者は言う。船舶でのウォッチは、意外に甘い。しかも、航空機は、投影面積が最小になる正面からは、見つけ難い。
 誰も、S-2Rに気付きはしないだろう。ただ、彼等は、軍事教練を受けているように見える。そうなら、周辺を哨戒するのは基本中の基本だ。
 レーダーにも映り難いように、ダーウィンを陰にしながら、超低空で近付いた。それにしても、彼等の動きが無さ過ぎるのは、ウォッチしていない証拠。不意打ちは、絶対の条件。だから、慎重かつ大胆に行動しなくちゃ。
 ボートデッキを、ボートの陰に隠れて船橋の下まで駆け抜けた。船橋は、二層上にある。
見上げると、Cデッキは、幅三十センチのデッキ状に張り出している。ただ、Dデッキは、メンテナンス用に天井が高い。Dデッキに壁の手摺の上に立っても、手は届かないだろう。
 ユカリは、ボートのダペットに取り付き、Cデッキの張り出し部に飛び移った。上手く手摺を掴むと、壁に沿って移動した。少し進んだ所で、Aデッキまで昇る梯子があった。これをBデッキの高さまで上がり、船橋の左舷ウィングに飛び移った。
 全員を船室に押し込めているので、重い機関銃は手に持っていない可能性が高い。安全装置も掛けているだろう。その条件で不意打ち出来たとして、何人まで倒せるだろうか。三人。いや四人。五人以上は無理だろう。五人以上居たら、下で乱暴を受けた女性乗組員を装うか。
 ユカリは、ウェットスーツを脱ぎ下着姿になった。
 窓から、中の様子を伺った。
「えっ!!」
 我が目を疑った。
 誰も居なかった。
 そんな筈はない。ここは、船の心臓部だ。ここを明け渡す事は、降伏か、撤退しかない。
「まさか?!」
 船橋に走り抜けると、右舷ウィングに飛び出した。
「おい、急げ!」
 右舷の舷門の辺りで、男達の怒声が聞こえた。見えないように下を覗くと、数隻のゾディアックが横付けされ、網梯子や舷門から二十人くらいの男達が乗り移りつつあった。
 撤退している!
 理由は、分からない。だが、撤退を始めている。
 ユカリは、船橋を飛び出し、階段を駆け降りた。途中で撤退途中の連中とぶつかっても構わない。彼等は、深追いしない筈だ。いや、深追いできない理由がある。
 ユカリは、BデッキからHデッキまでの六層を、飛ぶように駆け下りた。右舷側に出ると、男達が閉じ込められていた会議室の扉を開いた。
「全員、無事ね」
 息を切らして、そう叫んだ。
「その格好は、どうしたんです?」
 船長に言われ、下着姿だった事を思い出した。
「そんな事は後です。この船が危ないんです。船長。この船を沈めるために爆薬を仕掛けるとしたら、どこが効果的ですか?」
「舷側の水面付近に、五箇所は仕掛けないと無理ですね」
「五箇所も?」
「そうです。水密隔壁で浸水範囲が抑えられますから、片舷に集中的に浸水させて横転させるのが、沈没させる一番良い方法です。そんな事より、彼等はどうしてんですか?」
「撤退しました。だから、証人が乗っているこの船を沈めたい筈です」
「分かりました」
 状況を理解した船長は、十人ほどを指名し、調査に当たらせた。ユカリは、左舷は無い筈だから、調査は右舷に集中するように追加した。
 二人は、船橋に上がった。
 ユカリは、左舷のウィングに脱ぎ捨てていたウェットスーツを着た。それまで、船長が目のやり場に困っている様子が、少し可笑しかった。

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