伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

タグ:水素

「中の海水を、あんた、どうしてくれるんだ。おい」
 そうか!
 緊急脱出球で排水ができなかったのは、電源が無かったからだ。満水状態にした緊急脱出球は、永久に使用不能になってしまったのだ。
 言い訳できなかった。判断材料は、揃っていたのだから。
「ケーブルを完全に取り除ければ本体の緊急浮上の可能性が残るが、それも緊急脱出球を取り除かないと、余剰浮力を食いつぶしてしまう」
「重心もずれるから、浮かんだとしてひっくり返ってしまう」
「そうだな」
「大変な事をしてくれたものだ」
 タッカは、自分が何のために来たのか、また分からなくなった。
「アムス。こいつの分の酸素消費量を入れて、残り何時間だ?」
「三十時間は切っているでしょう。一人、増えてますから」
 鉄腕は、即答した。
「聞いての通りだ」
 ここまで、脱出の可能性を減らした上、生存時間まで縮めてしまった。
「クストーは、いつ頃、回航できるんだ? 聞いてないのか?」
 ユカリの声が、蘇る。
「およそ百二十七時間後だそうだ」
「そんなに早いのか! 潜水用のボンベも使えば、ぎりぎり、一人か二人は、助かったかもしれないな」
「上の連中も、精一杯の事をやってくれているんだ」
 そうだ。
 それを、無に帰そうとしている。視線が落ちた。
「もう一つ、教えてやろう」 
 声の主に視線を移したが、闇で何も見えなかった。
「実は、あんたと同じ事考えてたんだ。あんたも、ここに入ってくる時に見ただろうが、小型の潜水艇がある。あいつを回収するための空気嚢があるんだ。浮力は、水深千メートルでも二トンある。しかも、海上まで出ても破裂しないように、容量に余裕がある。三倍に膨れ、吸収できない分を弁から逃がすようになっている。こいつの浮力で、ケーブルを持ち上げる予定だったんだ」
 それが、鉄腕の言った最後の手段だったのだ。
 でも、どうしてそれをしなかったのだろう。
「上との連絡が取れ次第、実行に移す予定だった。そこへ、あんたからのモールスだ。ダーウィンの水中エレベータが直ったと思った。だから、負傷者の救出方法を考え始めていたんだ。念のため、モールスでA棟から入れと繰返して送ったのに、あんたは緊急脱出球に注水した」
 慌てて、手帳を取り出した。その物音が気になったのか、誰かが懐中電灯を点けた。眩しさで目を背けている間に、素早く手帳を取られた。
「あんた、モールスが読めないんだろう」
 今までの温和な物言いが、一転した。
「読めないくせに、モールスなんか打って、救出に行くから場所を知らせろって偉そうな事を言いやがって。こっちの話は何も聞けないってか!」
「いや、モールス表を持ってきたから、それで訳せば……」
 タッカは、シドロモドロになった。
「だから、パイロットは嫌いなんだ。ここの連中は、みんなモールスを使えるぜ。なんせ、今回みたいな事があれば、モールスが使えなきゃ命取りになり兼ねない」
 激しく叱責したが、手帳は丁寧に返してくれた。
「アムスから、タッカの話は聞かされていたからな。ユカリと張り合うくらいの凄腕らしいじゃないか」
 これ以上ない皮肉だった。
 懐中電灯は消された。再び、何も見えなくなった。
 みんなが立ち上がるのが、音と空気の流れで分かった。みんな、自室に戻るのだろう。遺書をしたためるのかもしれない。
 俺も、母と兄貴には何か書いておいた方がいいのかもしれないと、タッカは観念した。
 二人には、返せないほどの恩があった。でも、何を書いたらいいのだろう。
 いざとなると、思い付かないものだ。
 母には、産んでくれた恩、育ててくれた恩。兄には、経済的に助けてもらった恩がある。
 俺が中三の時、父が交通事故で死んだ。兄は、大学での研究から離れて、病院に勤務するようになった。父に似て、学者肌の兄には患者の相手は辛かっただろうが、収入が少ない研究職を捨て、タッカが私立の高校に進めるようにしてくれた。タッカは、公立校に進路を変更していたが、兄は黙って私立に願書を出し、受験日の前日にタッカに受験票を渡した。
 断れなかった。三年間も兄の収入に頼る事になってしまうが、兄の気持ちを裏切れなかった。
 兄は、大学に進学しなければ、勘当すると言った。タッカは、その言葉に甘えて、アクアシティに来た。鉄腕でもなれなかった特待生になり、兄の負担を減らせた事は、ちょっとだけ鼻が高かった。
 そんな恩のある兄に何を書いていいのか、何も思い付かなかった。
「おい、タッカ! 何をしてるんだ! 早く来い!」
 鉄腕の声だった。
「お前は、二つだけ、いいものを持ってきてくれたんだ。浮力になるものと、人手だ。負傷者が二人いて、人手が足りないんだ。早く来い!」
 また、別の声がした。
「じっとして死にたいか、じたばたして死にたいか、どっちだぁ!」
 返事に困った。
「俺は、じたばたして死にてぇよ。もし、万が一助かったら、めっけものだろう」
 そう言うと、声の主は豪快に笑った。
 彼の言う通りだ。途中で投げ出すのは、自分の主義に反する。ユカリを追い、自分の背中を見せるために来たんだ。途中で止めるんなら、高校を卒業する時に諦めてればよかったんだ。ここまで来た以上、自分の背中をユカリに見せるまで、絶対に諦めない。生き抜いてやる。問題が起こる度に、解決すればいいんだ。天国でも、地獄でも、後悔のない生き抜き方をしてやる。
 タッカは、手帳を仕舞い、立ち上がった。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 ハッチが開き始めると、その隙間から男の顔が浮かび上がった。男は、眩しそうに手を翳しながら、「遅刻だぜ」と白い歯を見せた。
「鉄腕!!」
 感激で、日本語が飛び出した。男は、きょとんとした顔を見せた。慌てて、マスクを剥ぎ取り、顔を見せた。
「俺だよ、タッカだよ」
 そう言い終わった途端、胃酸が込み上げてきた。
「くっせぇー!」
 そう。ここの空気は、異様な匂いが立ち込めていた。むかむか込み上げてくる吐き気を抑えつつ、ハッチを通り抜けた。
「お前一人か?」
 喉元まで込み上げてきて、声が出せなかった。
 タッカが小さく肯いたのを確認すると、鉄腕は素早くハッチを閉ざした。
「トイレ、どこだ」
 小さな声で、そう言うのが精一杯だった。
 鉄腕に教えられて、B棟の一番奥にあるトイレへ飛び込んだ。思い切り吐いた後、小便も済ませた。
「マスクの中で吐かなくて、良かったな」
 懐中電灯を俺に当てながら、鉄腕は笑った。
「マスクを外さなきゃ、吐かなかったんだよ」
 眩しさで、目を細めた。鉄腕は、懐中電灯を消した。タッカも、ヘッドライトを消した。闇が、辺りを包んだ。
「どうやって来たんだ?」
「泳いで」
「確かにな」と誰かが闇の中で笑った。
「で、どうやって俺達を救出しようってんだ?」
「ケーブルを退ける」
「でも、どうやって?」
 鉄腕は、タッカ一人に何ができるのかと、非難めいた言い方をした。
「ちょっと、手伝ってくれないか。ああ、それからタンクも貸してくれ」
「冗談じゃない。タンクは貴重品だ。電力が切れてるんだ。補充は利かないんだ!」
 そこまでは、考えていなかった。考えていたら、予備のタンクも持ち込んでいた。
「兎も角、タッカの話を聞こうじゃないか。こっちも、最後の手段を失ったんだから」
 最後の手段?
 彼の言葉が、引っ掛かった。
 彼等は、何か脱出の方法を考えていたらしい。だが、何らかの障害があって、その方法が使えなくなったのだろう。
 その障害に、自分が関与していないか、タッカは不安になった。
「話を聞かせてくれ。俺は、オハラだ。サブリーダーだ」
 闇に目が慣れてきている筈なのに、何も見えなかった。総ての電源が落とされ、一切の光源がなく、燐光さえ窓から入ってこない。
 オハラの声は、闇の中から聞こえてきた。
「俺は、オコーナー」
「ドクターのディックだ。あと、負傷者が二人。リーダーのナンスとアロイだ」
 闇の中から、順番にドナルドダック効果で甲高くなった声が聞こえてきた。声から、その体格は想像できないが、恐らく、屈強な男達なのだろう。
「俺は、タッカだ」
 諦めを感じさせる溜息が、聞こえてきた。
「航空部のタッカだな。鉄腕から名前は聞かされている」
 航空部の奴にこの窮状を解決できるものかと、暗に言われているような気がした。
「上は、どうなってるんだ。連絡が途切れたままだが」
「ああ、変な奴等に乗っ取られたんだ。だから、上からの救出は諦めた方がいい。兎に角、あんたらを浮上させたいんだ。上に行けば、手はいくらでもある」
「具体的には、どうやるんだ?」
「水中エレベータを使う。それから、パラシュートだ」
「パラシュート??」
「そうだ。パラシュートにエアを送り込んで、水中エレベータの浮力と合わせて、ケーブルを引き上げる」
 闇の中で、みんなが唖然としているのが、流れた沈黙の長さで分かった。
「水中エレベータがあるんなら、それで浮上すればいいじゃないか」
「残念ながら、ケーブルを切断して下りてきた。それに、三人乗りだ。俺を含めて、四人が居残りになる。それも、内圧超過は、安全係数を無視しても七十五気圧だ。海面に出る前に破裂してしまう」
 また、沈黙が訪れたが、今度は短かった。
「で、どれくらいの浮力が得られるんだ?」
「水中エレベータが0.5トン。パラシュートは、二、三トンかな」
「水中エレベータにケーブルを括り付けて、水中エレベータとパラシュートの三トンの浮力で引き上げるって寸法だな。で、水中エレベータは、七十五気圧で破裂するんだろ? 水深二百五十メートルまで浮上すると、破裂して、また沈んでくるんじゃないか」
「大丈夫だ。ハッチを開けたままにする。圧力が下がれば、ハッチからエアが溢れ、上で開いているパラシュートの中に納まるって寸法さ」
「上手く考えてるが、浮力が三トンじゃ、ケーブル二百五十メートル分だな」
 闇は不便だ。誰が話しているのか、分かりゃしない。表情を読む事もできない。
「まだ足りないな」
 タッカも、半分しか上がらない事は承知していた。
「全部を持ち上げる必要は無い。緊急脱出球の回りが奇麗になれば、十分だろう」
 闇のあちこちから、溜息が聞こえてきた。
「その緊急脱出球を使用不能にしたのは、一体誰なんだ」
(緊急脱出球を駄目にした?)
 言っている意味が、理解できなかった。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 酸素残量をチェックした。残りは、二十分しかない。ここまでの二十五分間に四十分に相当する消費をしているので、実質は、十二分しかない。水中エレベータに戻るのは、危険すぎた。
 タッカは、A棟に向かって泳いだ。
 連絡通路の反対側のこちら側では、A棟の方が四メートルほど長かった。その出っ張った部分の下には、潜水艇があった。しかし、潜水艇は、ケーブルの直撃を受けて、沈没していた。潜水艇は、沈没する際に、ケーブルの一部を巻き込んでいた。そのケーブルは、緊急脱出球に延びていた。
 沈没している潜水艇を横目に見ながら、下側に潜り込み、開放ハッチを探した。開放ハッチは、潜水艇の接続ハッチの直ぐ近くにあった。
 下からハッチを見上げたが、ヘッドライトに反射する水面が見えるだけで、中は真っ暗闇だった。でも、空気がある事は、はっきりした。
 開放ハッチから伸びる梯子に、手を伸ばした。
 ハッチから中に入っても、マスクは外さなかった。もし、酸欠状態になっていたなら、一呼吸しただけで、意識を失ってしまう。ここは、既に閉鎖されているA棟だ。空気の状態が真っ当だと思わない方がいい。
 フィンを外しながら、内部の状態を見た。
 空気は澄んでいるが、漏水で踝まで浸水している。今は、漏水が止まっているらしい。音も聞こえず、シーンと静まり返っていた。スリラー映画に出てくる廃虚と、SF映画の宇宙船の中を混ぜ合わせたとようなものだ。
 でも、取り敢えず、中に入る事ができた。これなら、当初の予定通り、緊急脱出球で帰還できそうだ。
 奥に向かって、歩き始めた。じゃばじゃば音を立てて歩きながら、後で使う事になるだろう物品を確認した。
 二週間前、空港で鉄腕が自慢気に言っていた品物は、奇麗に整理されて置けれていた。
 あの時の様子が、ありありと思い浮かぶ。バラスト代わりと言った品々も、いくつか目に入った。空港での三人だけの壮行会の後、鉄腕はここに来た。
 壁だけでドアの無いA棟を、反対端まで来た。右手に、連絡通路のハッチがあった。これを通り抜けたら、B棟に入れる。空気の残量も、心細くなってきた。
 タッカは、ハッチに手を掛け、ロックを解除した。
 異常に気付いたのは、その時だった。ハッチの隙間から、海水が霧のように吹き出したのだ。
「連絡通路が浸水している!」
 必死になって、ハッチのロックを元に戻そうとしたが、バンと言う音と共に、ハッチが勢い良く開いた。タッカは、弾き飛ばされ、後ろの壁に叩き付けられた。
 やっとの思いで、態勢を立て直し、ハッチに目をやった。ハッチからは、ちょろちょろと海水が溢れているだけだが、自分の居る辺りは、脛まで海水が溜まっていた。連絡通路に溜まっていた漏水が、ハッチを通って、A棟に吹き出したのだった。
 タッカは、立ち上がり、連絡通路内の様子を覗った。
 連絡通路のA棟との接合部から、夕立のような漏水があるが、B棟のハッチは、水面ギリギリの所にあった。
 ハッチを潜って連絡通路に入ると、念のため、A棟のハッチを閉めた。A棟のハッチは、締まりが悪くなっていた。このせいで、ロックを外しても、直ぐには開かなかったのだ。お陰で、ハッチが開く際の衝撃が、いくらか軽くなっていたようだ。
 膝上まで海水に漬かりながら、B棟のハッチまで辿り着いた。ハッチのロックに手を掛け、ゆっくりと開いた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 ゴン、ゴン、ゴン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴン、ゴン、ゴン
 モールス信号。それもSOSだった。
 続いて、違う文字を打ち返してきた。タッカは、必死になって書き留めた。相手は、何十年も前に廃止になった筈のモールスを打ち慣れているのか、次から次に送ってくる。それを線と点に書き留めるのは、想像以上に大変だった。
 文章は、五分も続いた。もし手帳を置いてきていたなら、書き留める事ができなかっただろう。書き終わると、直ぐに「少し待て」と送信し、モールスの翻訳を始めた。
「重傷者二。浸水有り。電力無し。A棟閉鎖。連絡通路閉鎖。緊急脱出球使用不能」
 文章にすると、わずかこれだけだった。
 通常のモールス信号と違い、「ツー」に相当する音は、打音の間隔広げて表現するので、一文字の区切りは間隔を十分に空けている。だから、一文字打つのに、五、六秒も掛かる。一行の文を打てば、七、八分にもなる。
 これでは、時間ばかり掛かって埒が明かない。
 気圧計の針を見た。
「二十分後、行く。以上」
 タッカのモールスに反応し、「了解」が返ってきた。続いて、長文のモールスが入る。気圧計の針を見やりながら、モールスを書き留める。彼等は、状況を連絡し、こちらの救出作戦の助けになるようにしてくれているようだ。返信は必要無いらしく、ひたすら打ち続けてくる。少しでも窮状を知って欲しいようだ。だが、タッカは、気圧計の針が百気圧を越えた所で、手帳をモールス表を一緒にビニールの袋に詰めて、雑嚢に入れた。
 また、頭痛が始まった。慣れないモールス表と格闘したので、脳の酸素消費量が増え二酸化炭素濃度が上昇していた。
 吹き出し口に顔を寄せ、何回か深呼吸をした。頭痛は治まらないが、体内の二酸化炭素はいくらか排出できただろう。
「A棟閉鎖か。参ったな」
 ハッチは、A棟側にある。A棟が閉鎖されているのなら、入る所が無いのではないか。
 海底基地の図面を開き、調べ始めた。
 水素ガスで、少し酔ってしまったようだ。頭が朦朧としている。酔いを覚まそうと、二、三度、頭を振ったが、はっきりしない。今度は、空気吹き出し口で深呼吸し、少しでも多くの酸素を取り入れ、二酸化炭素による頭痛だけでも取り除こうとした。それでも、頭痛は相変わらず続いた。
 シャングリラのB棟は、一番奥の上側に緊急脱出球があった。別冊の解説書を読むと、ここがエアロックも兼ねているとある。
(俺が向かうべき場所は、ここだろう)
 タッカは、シャングリラの形状と経路を頭に描いた。
 また気圧計を見た。ちょうど百四気圧になった。ボンベを閉じると、下部ハッチの内外圧力差計が見れるようにボンベを移動させる。圧力差計は、内圧が0.1気圧低かった。これは水深で一メートル分に相当する。このままハッチを開ければ、非常に危険だ。
 内外圧力差計を睨みながら、再びボンベから水素ガスを放出する。内外圧力差計は、じりじりとゼロに近付いていく。ゼロを過ぎた所でボンベを閉じる。そして、ハッチの圧力調整弁を少し開く。
 何も起こらない。
 一旦、通常のチェックリストに戻り、ハッチ開放の手順を確認する。そして、内開きのハッチを開いた。目に入ったのは、エレベータ内の照明でゆらゆら光る水面だけだった。
「今、行く。十秒おきに叩け」
 これを二度打ち、彼等のモールスが止まったところで、更にもう一度打った。彼等は、ほぼ十秒間隔で壁を打ち始めた。
 タッカは、ドライスーツの温水循環が始まった事を確認し、ボンベを背負った。手順に従い、レギュレータ、フェイスマスク、フィン等を確認した。そして、後で戻ってくる時のために外部照明を点灯し、室内灯は消した。
 ゆっくりとハッチに体を沈めていく。爪先が水中に入った時、ドライスーツを着ているにも関わらず、零度近い海水温で体が強張った。暫く足をばたつかせながら温度に体を慣らし、また一段下りていく。やがて、上半身をハッチ内に残したまま、足が海底に着いた。
 人類史上七人目の水深千メートル突破だ。
 過去の記録では、海水中では四百メートル、陸上の圧力タンク内では五百メートルが最高だ。千メートルは、驚異的な記録なのだ。同時に、人間が踏み入ってはならない世界への挑戦でもある。
 レギュレータを確認すると、フェイスマスクをかぶった。そして、ゆっくりと水中に顔を沈めた。辺りは、足が舞い上げた泥で全く視界が利かなかった。
 ゴーンと音が聞こえてきた。
 音の方向を探ろうと、頭を回した。十秒後、また、打音が聞こえてきた。頭まですっぽり覆うドライスーツのせいか、考えていたより音の方向は掴み難い。でも、大体の方向は分かった。その方向は、トランスポンダーが示していた方向とほぼ一致する。
 タッカは、水中エレベータの外側を取り囲むガイドフレームを確認しながら、水中エレベータの上部に移動した。海底から離れるに連れて、視界は回復した。だが、目に見えるものは何も無かった。ヘッドライトを点灯する。でも、視界は変わらなかった。
 漆黒の闇。
 都市に住む現代人が忘れ去ったこの言葉こそが、この場所を表す最良の言葉だろう。照明を当てても、マリンスノーが浮かび上がるだけで何も見えない。僅か三十メートル先が、闇に沈んでいる。
 実際には、かなりの数の生物が密かに生きている筈なのに、気配さえ感じられない。
 月周回軌道上のアポロ指令船で、月面に下りている二人を心配しながら一人留守を守っていた宇宙飛行士でも、これほどの孤独は感じないだろう。ここは、無線さえも届かない。
 酸素が無くなれば、窒息死。二酸化炭素濃度が上がっても、中毒死。ドライスーツの温水循環が止まれば、凍死。一気に浮上すれば、潜水病でアウト。更に浮上すれば、体が中から破裂する。アポロ十三号のクルーの気持ちが、ここなら容易に理解できる。
 なんで、こんな所に来てしまったのだろう。
 鉄腕が死ぬ事は辛い。だけど、奴に傾いているユカリの気持ちを自分に取り戻すには、棚ボタのチャンスだった。それを無に帰して、おまけに自分自身が生きて帰れる保証も全く無いここに、何の目的で来たのだろう。
 鉄腕が死んでも、タッカに何の責任も無い。タッカは、与えられた仕事をきちんとこなしている。それどころか、与えられた以上の事をするために、それも周囲の反対を押し切る形でここまで来てしまった。
 その後悔が、タッカの心に頭をもたげた。
 マリンスノーが、降り頻っている。ゆっくり、ゆっくり、落ちてくる。
「奇麗だ……」
 フェイスマスクの中で、独り言が漏れた。
 恥ずかしくて、きょろきょろ周りを見たが、誰も居る筈はなかった。
「俺は、一人で生きていけない人間なんだ」
 いつも誰かが傍に居て、文句を言ったり、言われたりしてきた。特に、小学校からずっと一緒だった鉄腕とは、兄貴や親以上に、文句を言い合い、喧嘩し合い、競い合い、励まし合ってきた。奴が居たから、今のタッカ俺があった。奴が居たからこそ、タッカはここに来た。
 手元を見た。S-2Rで注文した品物は、そこにあった。その中のロープを外し、一端をガイドフレームに括り付けた。もう一端は手に握りしめ、意を決して、音のする方角へ泳ぎ始めた。
 二十メートルも行くと、水中エレベータの照明はぼんやりしてきた。ヘッドライトが照らす前方も、まだ何も見えてこない。下を見ると、卵色掛かった海底が浮かび上がる。海底基地の上を通り過ぎる心配だけは、ないだろう。
 十秒周期で聞こえてくる打音は、かなり近くなった気がする。
「音は聞こえど、姿は見えず……か」
 確かに、音は聞こえている。方向は、大体の方向しか分からない。それが、心の奥底の不安を掻き立てる。最悪でも、水中エレベータには帰れる。それを心の拠り所に、音がすると思う方向に泳ぎ続ける。
 後ろを振り返っても、水中エレベータの照明もほとんど見えなくなった。手に持ったロープを確認する。これさえあれば、最悪でも水中エレベータへ戻れる。そう思って、先へ進んだ。
「近い?」
 空気中の四倍の速さで伝わる海中の音波は、八百倍の密度の海水を震わせ、伝わってくる。その振動が、腹で感じられるようになってきた。ゆっくりと辺りを見回す。
 突然、ヘッドライトの光の中に大蛇のようなアンビリカルケーブルの残骸が浮かび上がった。ケーブルは、のたうつように海底を這いまわり、前方の闇の中に消えていた。更に、回りを見ると、海底に何か大きな物を引き摺った跡が有った。その後を辿って泳いでいくと……
「あった!」
 ヘッドライトの照明の中に、海底基地の脚部が浮かび上がった。引き摺った跡は、ケーブルスタンドだった。ケーブルスタンドは、海底基地の脚部に激突し、大きくひん曲げていた。
 タッカは、脚部に取り付き、握り締めてきたロープを、海底基地の傷ついていない脚を探してそこに括り付けた。
 どうやら、今居る場所はA棟側らしい。
 見上げると、大きな円筒の一部が見えた。視線を左に移していくと、ずっと細い円筒が左に伸びている。これが、連絡通路だろう。A棟との接合部から、気泡が途切れる事無く立ち昇っている。更に左には、A棟と同じ大きさの円筒が見えた。これが、B棟に間違いない。
 浮上して、A棟の上に出た。
 恐怖とも畏怖とも言えない感覚に襲われ、思わず後退りした。A棟の上には、襲い掛かる深海の大蛇のようにケーブルが海底基地に圧し掛かっていた。さながら、獲物の息の根を止めるために、体をくねらせて締め上げているように見えた。
 全長千メートルを越えるケーブルが、A棟の上にあった。
 気を取り直して、連絡通路の上を泳ぎ、B棟の上に出た。緊急脱出球は、B棟の円筒の反対端にある筈だ。ヘッドライトをそちらに向けると、暗闇の中に、緊急脱出球の丸い姿がおぼろげに浮かんだ。B棟の上には、ケーブルはほとんど乗っていなかった。
 B棟の上を手で這うように、緊急脱出球に向かって進む。
 数秒後、緊急脱出球を目の当たりにした。直径は、三メートルくらいあろうか。タッカが載ってきた水中エレベータと比べると、一回りも、二回りも、大きな球体だった。
 何故、彼等が緊急脱出球で脱出しなかったのか、理解した。緊急脱出球に付属するタンクやバッテリ等の補機類に、ケーブルが引っ掛かっていた。手で何とかしようと考えたが、びくともしなかった。
 片手を緊急脱出球の外壁に這わせながら、ゆっくりと上部ハッチまで浮上した。
 ハッチは、S-2Rの水中エレベータと全くの同形だった。違いは、注排水スイッチがある点だ。操作方法は、一目で分かるようになっていた。直ぐに、注水を始めた。ベントから、大きな気泡が立ち昇った。
 注水には、約一分掛かった。その間に、酸素の残量をチェックした。一時間分を持ってきたのだが、ここまでの十五分で半分近くを消費していた。緊張が、酸素の消費量を増やしてしまっていた。
 気持ちを落ち着かせるため、小さく深呼吸した。
 注水が完了し、ハッチは中に向かって開いた。背中のホース類を傷付けないようにゆっくりと中に入ると、一回転してハッチを閉めた。ハッチのロックを確認し、排水のスイッチを探した。これも、直ぐに見付かった。直ぐに、スイッチを入れた。だが、ランプが点かない。インターロックでハッチのロック状態をちぇっくしているのだろうと思い、もう一度、ハッチを確認した。上部ハッチだけでなく下部ハッチも見たが、しっかりとロックされている。
 改めて、排水のスイッチを入れた。だが、結果は同じだった。その時になって、初めて自分の愚かしさに気付いた。
 彼等は、「電力無し」を連絡してきていたじゃないか。排水ポンプのように、大きな電力を必要とするものが、動く筈無い。注水は空気を抜くだけなので電力を必要としなかったが、排水はそうはいかないんだ。
 タッカは、迷った。
 このまま水中エレベータに戻り、救出を諦めて浮上するか。それとも、他の入り口を探して、救出を続行すべきか。判断の時間は残っていない。戻るなら、直ぐだ。帰りにも、約半分の空気が必要だ。
 緊急脱出球の天井に溜まり始めた空気を見て、もう一度、タンクに戻したくなった。
 ここを出ない事には、何も始まらない。
 上部ハッチを開き、緊急脱出球を出た。そして、念のためを考え、ハッチをがっちりと閉めた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 我が目を疑った。
 いや、今まで気付かなかった間抜けさ加減に、嫌気が差した。
 二酸化炭素分圧は、0.04気圧になっていた。濃度で言えば、0.0006パーセントだ。これは、かなりの中毒症状を起こすレベルだ。実際に、三十分も前から症状があった。
 タッカは、頭痛の原因を、急激な圧力の上昇が原因と考えていた。しかし、それが間違っていたのだ。吐き気が始まっても、まだ頭痛から来る吐き気と考え、二酸化炭素濃度の上昇を考えなかった。
 何という馬鹿さ加減だろう。
 この水中エレベータは、ヘリウム潜水用に設計されている。当然、各部の性能は、ヘリウム潜水の限界といわれている五百メートル五十一気圧に設計されている。今は、七十気圧に届こうかという高圧下だ。おまけに、不活性ガスのヘリウムガスから活性の水素ガスに交換したのだ。二酸化炭素除去装置が本来の性能を発揮できなくても、不思議ではない。
 こんな事なら、水素潜水用の二酸化炭素除去装置を頼んでおけば良かった。
 後悔したが、今更遅すぎる。
 タッカは、空気の吸い込み口に近付いた。
 これから先は、息は吸い込み口に向かって吐こう。そうすれば、いくらか濃度の高い二酸化炭素が二酸化炭素除去装置に流れるので、効率が上がるだろう。
 今から二時間半も、吸い込み口に向かって息を吐きながら耳抜きを繰返さなければならない。面倒な事、この上無しだ。
 この方法で、三十分、様子を見てみた。
 狭い水中エレベータ内で、体を捩った態勢で、右を見て息を吸い、左を見て息を吐く事を続けてきたので、首が痛くなってきた。肩も凝り、その不快感で苛々もつのった。
 頭痛は相変わらずで、頭を押さえつけられるような圧迫感があった。吐き気は少し治まったような気がするが、新たに耳鳴りが始まった。息苦しさは感じないが、呼吸が少し深くなっている。どれも、二酸化炭素中毒の症状だ。二酸化炭素濃度は、ほとんど変わっていない。ちょっと辛いが、我慢すれば何とかなりそうだ。
 間も無く、海底に着くだろう。
 節電のために切っていた音波水深計のスイッチを入れた。音波水深計が発する音が、海底からピンと返ってくる。
「海底まで八十六メートル。六分足らずだ」
 水深計の発する音しか聞こえないエレベータ内に、独り言が淋しく反響した。
 海底に激突しないために、バラストチェーンを降ろした。バラストも二個捨てた。下部の照明を付け、四箇所しかない小窓の一つから海底を探した。
 まだ、見えなかった。
 海底まで四十メートルを切っているが、降下率も毎分三メートル程度まで落ちていた。内圧がまだ六十九気圧しかない。外圧は九十九気圧を越えていく。内外圧力差がマイナス三十気圧もある。水中エレベータの外圧超過の限界状態だ。それも、外圧の上昇に内圧が追いつかない状態が続いている。
 この状態で、海底に激突したくなかった。
 間も無く、水圧計は百気圧の目盛りを振り切り、目盛りの無い所を進み始めた。安全係数は、二割超過までしか余裕がない。外圧が内圧を三十六気圧超過すると、水中エレベータは圧壊する。それも、計算通りならの話で、少しでも傷みがあればそれより前に圧壊する可能性さえある。今、三十二気圧の超過だ。
 軋み音がする度に、胃がきゅっと締め付けられる。
 まだ、海底は見えなかった。音波水深計は、ほとんど海底に着いた事になっている。まさか、こんな深い所に温度境界層があるはずがない。頭では、それを信じようとしているのに、体は冷や汗を流し、信じていない事を教えた。
 ふと、窓の外が、暗闇でなくなったと思った直後に、もうもうと上がる土煙で、完全に視界が無くなった。チェーンバラストが着底したのだ。続いて、エレベータの外側を囲むフレームが、ゆっくりと着底した。
 数分すると、土煙のカーテンが取り払われ、海底が見えるようになった。
「よし!!」
 思わず、ガッツポーズした。
 ほとんど衝撃を感じる事無く、海底に着底する事ができた。しかも、横倒しにもならず、真っ直ぐに起立している。
 水中エレベータが着底した時、横倒しになったら、救助活動をできないまま、ここで死ぬ事になっただろう。この第二の難関も、理想的な姿勢で着底し、通り抜ける事が出来た。正直、ほっとした。
 内圧が外圧と同じ百四気圧まで上がれば、外に出てケーブルの除去作業をすればよい。
 電源を節約するために照明を落とし、トランスポンダで位置の確認を始めた。
 シャングリラ周辺に設置されていたトランスポンダは、まだバッテリが生きていた。お陰で、自分の正確な位置を確認できた。
 ユカリは、波と同じくらい潮流を読むのも上手いらしい。千メートル上でタッカを落とし、一時間半も掛けて降下したのに、今居る場所は、海底基地からの直線距離がわずか五十メートルほど。しかも、作戦には有利なケーブルスタンド側だ。真っ直ぐに落ちた懸架装置はどの窓からも見えなかったのだから、かなり流された筈だが、タッカはベストポジションに居た。
 ユカリが操縦していなかったら、この位置にタッカは居なかったかもしれない。
(ユカリに感謝)
 気圧計は、七十気圧を越えたばかりだ。二酸化炭素分圧は、ほんの少しだが下がり始めている。気圧調整には、まだ一時間半以上も掛かる。
 そろそろ、外部タンクと室内の圧力差が小さくなり、昇圧のペースが少しだけ遅くなり始めた。八十気圧を越えたら、室内に持ち込んだボンベからも水素ガスを放出しよう。
 室温は、十八度まで下がった。水素雰囲気の中では、体からどんどん熱を奪われる。ヘリウム環境と同様、水素ガス環境も、体感温度の適温の幅が非常に狭い。体感では、実際の温度よりずっと低く感じる。ドライスーツを着ているので、寒さはあまり感じないが、顔は冷たくなっていた。
 内壁も、零度に近い海水で外壁から冷やされ、水滴で覆われている。水滴が、あちこちで滴り落ちていた。ヒーターは入っているのだが、水素ガスが放出される際の断熱膨張でどんどん熱が奪われていき、ヒーターの加熱が追いつかないのだろう。
 時計を見る。
 実際に外に出て救出活動をするまで、十分に時間がある。その間に、鉄腕達と連絡を取っておこう。
 駄目元で、水中電話を試してみた。事故後、上から水中電話を試した事が有ったが、繋がらなかった。海上からだと、途中に温度境界層がある事も想像できるが、電源をやられて使えなくなっている可能性も高い。
 十回は呼び掛けたが、予想通り駄目だった。
 今度は、可能性の高いモールスを試してみた。ハンマーで内壁を叩いて、返事を待った。
 返事は無かった。
 また、ハンマーで内壁を叩く。
 十秒、待った。
 返事は無かった。
 ハンマーで叩き、返事を待つ。これを何度も繰り返す。
 きっと、彼等は、救出されるまでの消費酸素量を極限まで減らすために、ベッドに体を横たえているのだろう。即答できる状態じゃないんだ。そうに決まっている。鉄腕は、まだ生きている。絶対に生きている。
 十分が過ぎても、返事が無かった。
 タッカは、モールス表を確認しながら、「我、救助隊。応答せよ」を打ち続けた。
「早く、返事しろ……」
 絶対に生きている。
 それだけを考えていた。だが、自信が揺らぎ始めていた。いくら体を横たえていたにしても、とっくに返信できる筈だ。
 ふと、我が身が心配になった。
 タッカは、海底基地の緊急脱出球で帰るつもりだった。だが、海底基地が破壊されていて入る事ができなければ、この水中エレベータで戻らなければならない。水中エレベータ内は、八十気圧を越えている。このまま浮上すれば、内圧が高過ぎて破裂する危険性がある。安全係数を計算に入れても、ぎりぎりだ。
 浮上する前に、安全な五十気圧まで減圧しなければならない。だが、ポンプは、圧力差が三十気圧までしか内部の空気を排出できない。大量の電力も必要だ。ケーブルを切り離している水中エレベータの電力では、不足する事は目に見えている。おまけに、外圧超過は三十気圧が限度だから、この位置では七十気圧までしか減圧する事ができない。
 浮上には、一時間かそこらしか掛からない。その間に二十気圧は減圧しなければならないが、一時間で二十気圧の減圧をすれば即死に近いだろう。仮に、無事に浮上できたとしても、浮上後に直ぐに救出されて船上減圧室に移るか、酸素の補充を受けるかしなければ、俺も鉄腕と同じ三途の川を渡る事になる。
 タッカは、加圧を中止すべきかどうか、迷い始めた。
「三分だけ」
 それだけ待って返事が無ければ、一旦、加圧を中止し、減圧して浮上しよう。
 また、モールスを叩き始めた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 少しは、明るい希望はないだろうか。
 真っ暗闇の中で、鉄腕は考えていた。
 ついさっき、小さな振動音を感じた。錯覚かもしれないが、基地自体で発した音ではなく、遠くの海底に何かがぶつかった感じだった。
 沈船が海底にぶつかる時、あんな音を立てるのだろうか。
 ダーウィンが沈没した音だろうか。それなら、海面に浮上する事ができても助かる見込みは皆無になる。モールスの返事が無くなった事が、不安を掻き立てる。
 沈船だとすれば、ダーウィン以外に無いだろう。広い太平洋で、ダーウィン以外の船がシャングリラの直ぐ近くで沈没する可能性は、隕石が頭の上に落ちてくるのと同じくらい確率が低い。
 鉄腕は、不安を掻き消すため、空耳だったと、心に言い聞かせた。
 本来なら、寝ていなければならない。と言って、こんな状況下で簡単に寝られるほど、精神はタフにできていない。だが、睡眠導入剤を使う事はできない。緊急時に、素早く行動できない危険性があるからだ。
 でも、こんな錯覚を起こす程に神経過敏になっているようでは、パニックを起こして正しい判断をできないだろう。
 鉄腕は、寝られない自分に対して、居直った。
 起きている事で余分に使う酸素分以上に、長く生き残る方法を考えればよい事だ。
 二酸化炭素濃度を致死量以下に抑える続け、電力を確保すればいい。
 思考をまとめ、本気で考え始めた。
 ある程度まとまった電力は二酸化炭素浄化装置のバックアップ電源だけだが、それ以外には本当にないのだろうか。
「あっ!」
 いくつか、電源はある。ドライスーツの温水循環装置に使うバッテリーや、水中スクータのバッテリー、水中カメラのバッテリー等だ。だが、使うためには、二つの問題がある。一つは、閉鎖したA棟からどうやってバッテリーを持ってくるかだ。もう一つは、どうやって電源を接続するかだ。大事な事は、作業で浪費する分以上の延命ができるかだ。
 第一の問題の運搬は、連絡トンネルのハッチを開ける事と、重量があるバッテリーをどうやって運ぶかだ。
 連絡トンネル内は、浸水で相当量の海水が溜まっているだろう。ハッチを開けた時に、その海水が流れ込んできる。その浸水で新たな被害があったら、それこそ命取りになる。何とかして、浸水を食い止めなければならない。
 バッテリーの運搬は、ある意味では簡単だ。難しいのは、水中スクータから取り外して棟内に運び込む事だ。水中スクータのオーバーホールは、海上で行う事を原則にしている。海底でバラしてバッテリーを濡らさずに取り出す事は、非常に難しい。水中カメラやドライスーツのバッテリーは容量が小さく、運搬自体は問題無いが、浸水のリスクを犯す割には得られるものが小さい。
 いくら考えても、実行する価値はなさそうだ。
 電力が手に入らないなら、二酸化炭素対策は、ほとんど打つ手がない。打てる手として、浄化装置の運転時間を二時間毎の二回に分ける事だ。これで、二時間くらい伸びるだろう。酸素分圧を上げるのも、方法の一つだ。酸素分圧が上がれば、二酸化炭素の致死量も若干だが上がる。これで伸ばせる時間は、分オーダーかもしれない。どちらの方法でも、三十時間後には集中治療機が止まっているだろう。
 やはり、自力脱出を考えないと。
 水中エレベータは、期待できそうに無い。緊急脱出球も、ケーブルが圧し掛かっている。本体ごと浮上しようにも、ケーブルの重さを支えて浮上するほどの余剰浮力はない。仮に浮上できたとしてもA棟の損傷が問題だし、ケーブルで重心が上がっているので本体もバランスを崩す心配がある。
「待てよ」と思った。
 本体を浮上させる上手い手がある。
 恐ろしく荒っぽい方法だが、ケーブルさえ除去できれば脱出できるかもしれない。まあ、ケーブルが除去できれば緊急脱出球で脱出できるから、この方法を使う事はないだろう。一応、選択肢の一つとして記憶には留めておこう。
 頭が少し重い気がする。二酸化炭素濃度が、上がってきたのだろう。これが今から四日間も続くかと思うと、気が滅入った。
 上からの助けは、来ない可能性が高い。四日後、二酸化炭素濃度が致死量に達した時、どんな苦しみ方をして俺は死ぬのだろう。二酸化炭素中毒は、頭痛から始まり、吐き気、嘔吐等があり、最後に昏睡状態になって死に至る。今から三日間は、嘔吐するほどの濃度にはならない。だが、それ以降の一日は、これらの症状で苦しみながら死を迎える事になる。
「くそ!」
 何としてでも、全員で生き残ってやる。
 俺は、無事に戻らなきゃいけないんだ。タッカのためにも、彼女のためにも。
 鉄腕は、心の中で希望の光を探し続けた。
 シャングリラが壊れてもいい。何とかして、浮力を得て海面まで浮上しなければならない。何でもいい。浮力を得られるものを探した。
 空気が溜まるもの。
「そうだ! 潜水艇の回収用気嚢を使う手があるぞ」
 この実験が終わったら、クリスマスツリーも、潜水艇も、そして、この海底基地も、浮上させて回収する。クリスマスツリーは、解体して海底基地内に戻し、海底基地毎、浮上する。潜水艇は、回収用気嚢で包むようにして気嚢の浮力で海上まで運ぶ。
 非常事態だから、潜水艇の回収は考える必要はない。だから、不要になった回収用気嚢でケーブルを引き上げれば、緊急脱出球が使用できるようになるかもしれない。ケーブル全体を引き上げる浮力はないが、ケーブル全体を持ち上げる必要無い。全員で相談し、最良の方法を見つければいい。
 我ながら、上手い方法だと思った。
 今日は、冴えてるな。
 俺は、二酸化炭素で呼吸しているんだろうか、と冗談に思った。
 鉄腕は、全員に招集をかけた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 水中エレベータ

 一瞬の無重力感で、S-2Rから切り離された事が分かった。次の瞬間、海面に叩き付けられ、狭い水中エレベータの中で十本のボンベと一緒にシェークされた。
 ボンベの上に寝そべっていたので、ボンベの上に腹から飛び降りたようになった。ボンベの左右の脇腹、鳩尾に食い込み、息が詰まった。頭もしたたか打ち付け、目から火花が飛んだ。ボンベ同士もぶつかり合って、水素ガスだらけの中で火花も飛んだ。だが、爆発はしなかった。
 外も賑やかだった。
 水中エレベータの懸架装置ごと切り離したせいで、水中エレベータの上にそれが圧し掛かるように激突した。
 S-2Rは、航空機だから、限界まで強度を落として軽量化を図っている。だから、水中エレベータは、機体には大きな負担となっている。万が一、水中エレベータに異常が発生した場合、機体にまで影響が及んでしまう。それを防ぐために、水中エレベータを懸架装置ごと切り離す事ができる。逆に、機体側に異常が発生した場合も考慮し、水中エレベータ側でも切り離しができる。ただ、切り離す場所が違う。
 水中エレベータは、釣り下げている側、この場合にはS-2Rの波浪による揺れでケーブルに大きな力が掛かって切断する事を防ぐために、必ず懸架装置が付属する。水中エレベータを切り離す場合、懸架装置から伸びているケーブルも切り離さなければ下部ハッチが閉められない。このため、S-2R側で切り離す場合、懸架装置毎、切り離してしまう。
 逆に、水中エレベータ側で切り離す場合、懸架装置分の余剰浮力を持っていないので、水中エレベータのケーブルスタンド部分で切り離す。
 当初の予定では、水中エレベータを降ろして水中エレベータ側で切り離す予定だった。だが、銃撃を受けた事で、一々水中エレベータを降ろす暇はなくなった。だから、ユカリは、機体側で切り離す大胆な手段を選んだ。
 タッカは、体の痛んでいる所をチェックした。
 心配は無さそうだ。
 そう思っていると、水中エレベータは一気にひっくり返った。懸架装置が水中エレベータより先に沈降し、水中エレベータを引き摺っているのだ。傾くに連れ、一旦は落ち着きを取り戻していたボンベが暴れ始めた。水中エレベータが一気にひっくり返る瞬間、天地が逆になり、体の上にボンベが降ってきた。
 慌てて、水中エレベータ切り離しスイッチをまさぐったが、その腕の上にも容赦無くボンベが降った。
「うっ!!」
 思わずうめきが漏れた。ボンベがぶつかったのが腕だったのに、激しい痛みで息が詰まった。ボンベに押しつぶされながら、ひたすら息を続ける事だけを考えた。
 懸架装置を切り離せば、今度は、水中エレベータが起き上がりこぶしのように、また回転する。その時にも、ボンベが宙を舞うだろう。その時の衝撃を抑えるためには、ボンベの下敷きになったままがいい。もう一度、切り離しスイッチに手を伸ばした。途端に、激痛が走り息が詰まった。
 骨が折れた?!
 痛む右手を引き寄せ、外から触ってみた。ゆっくりと閉じたり開いたりしてみたが、かなり痛みはすれど特に問題はない。ただ、握力が無くなった事と痺れたみたいになっていて、速く動かすのはできない。
 左手に変え、ボンベの隙間から手を伸ばした。ボンベは絡み合うように行き先を阻んだが、何とかカバーを開くと、スイッチを捻って押し込んだ。
 ゴンと音がして、ゆっくりと回転が始まった。懸架装置が切り離されたのだ。
 回転を助けるようにボンベの位置を直しつつ、内部の整理をした。落ち着いたところで、水圧計を見た。
「百二十メートル」
 予定より早い。時計の秒針を睨んで、分速の沈降率を求めた。
「分速九メートルか。下まで二百八分。この間に五十気圧上げるから、毎分0.25気圧ずつ上げていけばOKだ」
 独り言は、狭い水中エレベータ内で反響した。
 本来は、四十時間以上も掛けて加圧する。目安になる加圧速度は、毎分0.1気圧である。既に、五十気圧まで加圧してあるので、残りの五十気圧分、即ち八時間二十分掛けて加圧すべき所を2.5倍の猛スピードで加圧する不安はあった。S-2R内でも、六時間の飛行時間内で五十気圧まで加圧した。その影響も、体のどこかに出てくる可能性もある。だが、時間との闘いだ。
 早速、水中エレベータの外部ボンベから、水素ガスをエレベータ内に導いた。耳の奥が、痛くなる。直ぐに耳抜きをするが、またツーンとなる。だから、また抜く。数秒毎に繰り返す。これが三時間続くと思うと、うんざりする。
 0.25の気圧差は、三千メートルの高山から地上に降りるのに匹敵する。パイロットとして、四万フィートからの一万四千フィートへの緊急降下はシミュレータで何度も経験している。だが、シミュレータでは気圧は一定で、本物と同じなのは急減圧時の大きな音だけだ。0.6気圧の急減圧だけなら、減圧室で二度だけ経験している。ただ、今までに経験した事が無い急加圧である。
「クストーは、百三十時間でここに来るそうよ」
 切り離す直前に彼女が言った言葉が、耳に残っている。
 六日余りで来るとは、クストーの乗組員が徹夜で頑張った事がわかる。それでも、間に合いそうにない。ただ、俺に無理をさせないために、ほんの僅かだがクストーによる救出の可能性も残っている事を伝えてくれたのだろう。
 水圧計と時計を見比べる。
 降下率がかなり早くなっている。この五分間の降下は、七十一メートルにもなっている。最初の一分で九メートルだから、その後の四分で六十二メートルも降下した事になる。毎分十五メートル以上だ。このペースなら、一時間で下に着く。だが、気圧は五十一気圧になっていない。当初の予定より遅い。
 この水中エレベータは、内圧超過では五十気圧に耐えられる。だが、外圧超過では三十気圧が限度になる。もちろん、安全係数を考慮してあるので、この圧力のまま下まで行っても圧壊する事はないだろうが、危険である事には違いない。
 タッカは、バルブを更に開き、水素ガスを増やした。
 時々、軋み音が聞こえてくる。急激に替わる水圧で、エレベータの色々な場所が少しずつ縮み始めている。その時、中空になっている居住球部分やタンクは、他より早く縮む。その差が歪みとなる。時々、歪みが滑って元に戻り、音となって伝わってくる。
 分かっていても、気持ちのいいものではない。
 エレベータの内壁に触れてみた。まだ、少し濡れているだけだ。
 海水温は、もう三度か四度くらいだろう。外壁が冷たい海水に冷やされれば、熱伝導率の高いチタン製のエレベータは、直ぐに冷やされる。替わりに、吹き出し口から水滴が滴り落ちていた。吹き出し口には加熱装置があるが、追いつかないようだ。加熱装置の出力を上げた。
 また、水圧計と時計を見た。やはり、分速十五、六メートルだ。気圧計を見たが、この一分は0.26気圧上昇し、五十一気圧を越えた。
 ユカリは、この空域を無事に脱出しただろうか。かなり無理をして着水したようだが、上手く離水できたのだろうか。彼女の腕前は一流だ。しかし、攻撃を受けている状況で、兵装が無く防弾にも無縁な飛行艇で、無事に逃げ切ったかどうか。
 ユカリも、大きな危険を冒して俺を落としていった。彼女にとって、危険を冒す価値が、この愚行とも言える救出作戦にあるのだろうか。やはり、鉄腕の存在が大きいのか。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。
 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 俺は、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 彼女に初めて会ったのは、今から十年前の高一の時、夏休みのバレー部の合宿が終わって鉄腕と自宅に帰る道だった。
 今考えると、無用な手出しだった。
 どちらが先に見つけたか覚えていないが、若い女性がちんぴらに絡まれているのが目に留まった。それが、初めて見た彼女だった。
 腕に覚えのある鉄腕も、熱血漢だったタッカも、それを見過ごす事はできなかった。正義の味方宜しく、六人のちんぴらと彼女の間に割って入った。数で優勢と見るや、ちんぴら共はタッカ達に絡んできた。タッカも、鉄腕も、相手が先に手を出すのを待っていた。予想通り、ちんぴらが先に手を出してきたので、それを合図に大立ち回りになった。タッカと鉄腕は、それぞれ二人を片付け、残る二人を探したのだが、なぜか、その二人を含めた六人全員が道路に伸びていた。
 後で分かったのだが、タッカと鉄腕が、二人ずつを相手に梃子摺っていたので、彼女が加勢してくれたのだった。もちろん、ほんの一瞬で二人を叩きのめし、涼しい顔してタッカ達の立ち回りが終わるのを待っていたのだ。
 翌日、何発か殴られて顔に痣を作ったタッカ達の前に、転校生として紹介されたのが、彼女だった。それが、二度目に顔を見た時だった。と言うのも、大立ち回りが終わるが早いか、とんでもない俊足を飛ばして彼女は逃げてしまったのだ。
 当時でも百メートルを十二秒前後で走っていたタッカが、荷物を持っていたとは言え、あっという間に振り切られてしまった。だから、彼女の名前も、住所も、年齢も、何も知らなかった。
 ただ、この後が大変だった。
 彼女が、タッカ達から助けられたと、事の詳細を担任にばらしてしまったから、暴力事件として取り上げられ、危うくバレーボール部の対外試合の禁止、謹慎にまで、事が大きくなりかけた。幸い、彼女の父親が政財界にも顔が利く大物だったので、「正義感を失わさせるような処分は断じて認められない」と教育委員会や関係各所に訴え、注意処分だけで済んだ。
 結局、注意処分になったのは、自分の身に危険が降り掛かるような事をした事に対する注意だった。他に方法があったか無かったかを無視していたので、タッカ達は笑って注意を聞き流した。

「ランディング・チェック」
 彼女の指示が飛んだ。
 直ぐに、飛行鞄から着水時のチェックリストを取り出し、読み上げと確認を行った。
 S-2Rは、彼女の操縦で滑るように着水した。「波の読み方は天才的」と、どこかの機長が言っていたが、その言葉が誇張ではないと、タッカも同意せざるを得なかった。S-2R以外のどの飛行艇もできない暗闇の海面への難しい着水を、好天の滑走路への着陸のようにやってのけた。
 S-2Rは、ランプを登り、真水による洗浄を受けた後、指定のスポットに駐機した。
 駐機時の一通りのチェックリストを済ませると、磯の臭いの中でタラップを駆け下りた。そのまま、もう一機のS-2Rへと走った。
 用意されていたS-2Rには、既に二人のパイロットが乗り込み、エンジンの始動を始めていた。ユカリは、その二人と揉め始めた。危険が伴うので、最小の人数で行きたいと、二人に降りるように説得を始めた。
 タッカには、関係のない話だった。誰でもいいから、目的の海域まで水中エレベータと一緒に運んでくれればよかった。揉め事には首を突っ込まず、前部キャビンの床から下部通路に下りて、水中エレベータセクションまで通り抜けた。
 水中エレベータの外部チェックを始めた。注文の品は、色々な工夫を凝らして、水中エレベータに固定してあった。充分に満足のいく状況だった。救難管制部は鈍いと思っていたが、この辺りの仕事ぶりは大した物だと感心した。
 再び、下部通路を通り抜け、前部キャビンに戻った。そして、今し方通ってきた下部通路との扉を閉め、ドア周りのシール状態を確認した。
 地上作業員は、コクピットで続いている喧騒を気にしていたが、タッカの顔を見ると、減圧室のブリーフィングを始めた。
 水素潜水のマニュアルを受け取り、減圧室のハッチを潜り抜けた。
 減圧室にも、必要な品物が総て揃っていた。地上作業員が、短い時間だったにも関わらず必死に揃えてくれた事が、痛いほど分かった。
 物品のチェックが終わったところで、ハッチを閉め、加圧のためのチェックリストを行った。そして、シール確認のための第一段階の加圧を開始した。第一段階を終了すると、毎時十気圧の割合で加圧する。これが、S-2Rの減圧室の加圧速度の上限に当たる。加圧は、ヘリウムを追加する事で行うが、今回の加圧では、大気中の窒素分を除去する事が難しい。加圧すると、窒素は窒素酔いを引き起こす。それが気掛かりだった。
 機体は、中々発進しなかった。彼女と二人のパイロットの間で揉めている事は、容易に想像できた。タッカは、彼女が強硬手段に出なければと、心配になってきた。
 加圧が第二段階に入り、三気圧を越えた時、エンジン音が高まり発進を始めた事が分かった。
 タッカは、ベッドに横になり、ベルトで体を固定した。非常に狭いS-2Rの減圧室内では、通常のシートが用意されていない。そのため、離着陸時は、カイコ棚のような狭い三段ベッドに潜り込み、ベルトで体を固定する事になっている。
 ランプを下り、海面に機体が浮かんだ事が、大きなピッチングで分かった。
 壁に掛かっていたヘッドセットをかぶった。これで、機内の各所とのインカムによる通話と、無線通信をモニターする事ができる。ピンをプラグに挿し込むが早いか、ユカリがグランドコントロールに捻じ込んでいる声が聞こえてきた。
「滑水路三三で離水します。周辺の機体を退けて下さい」
 彼女は強い口調で言ったが、それ以上に激しい声でグランドコントロールは言い返してきた。
「離水は認められない。貴機は、正規の乗員が乗務していない」
 危惧していた通り、彼女は強硬手段に出たらしい。
「非常時に何を言ってるんですか。兎に角、離水します。空中衝突しないように、誘導して下さい。それから、あの二人は、急にお腹が痛いって寝転がっちゃったんだもの。降ろすしかなかったのよ」
 何が、お腹が痛いだ。彼女が、みぞおちに当て身を食らわしたに違いない。その上で、二人を強引に引き摺り下ろしたのだ。
 グランドコントロールも、事態を理解したらしく、苦い声で離水を認めた。
「了解。スクランブル時のマニュアルに従い、貴機の離水を認めます。滑水路は、三三。離水支障無し」
 ユカリが復唱して返す。
 四基のエンジンが轟音を轟かせ、燃料を満載した機体を僅か七秒強で空中へ持ち上げた。何度体験しても、感心する離水性能だ。
 離水後は、直ちに左へ旋回し、上昇を続けた。
 外気圧の減少分を調整するため、加圧のペースを少し落とした。
 目的地までの所用時間は、およそ五時間。東の空は、紫色に変わり始めていた。
 操縦は彼女に任せるしかないので、到着までは、急激な加圧による窒素酔いに備え、体内の窒素分を体外に排出するための体操を繰り返した。左手に持った非常食に齧り付きながら、右手で水素潜水具の確認をする。
 加圧による酔いと、既に三十時間以上も寝ていない事で、睡魔に襲われた。だが、初めての水素潜水でいきなり千メートルの海底に直行するのだから、マニュアルはしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。睡魔と闘いつつ、マニュアル読みを続けた。

 がくっとなって、タッカは目が覚めた。慌てて時計を見ると、三十分も居眠っていた事が分かった。慌てる事はなかった。マニュアルは読み切っていたし、着水まで、する事が無くなっていた。ぼんやりチェックリストを見ていたら、居眠ってしまったようだ。
 気圧計を見た。
 四十九気圧を越えるところだった。
「これから、着水態勢に入るわよ」
 インカムを通じて、彼女の声が飛び出してきた。
「了解した」
 ドナルドダック効果で、思い切り高い声になっている。聞き取り難い声だが、彼女なら、ドナルドダック効果にも慣れているので、問題は無い筈だ。
 タッカは、またベッドに体を固定した。
 間も無く、APUのエンジン音が高まり、BLCがオンになった。いよいよ着水だ。
 既に、夜の帳も明け、着水には何の問題も無いだろう。ただ、この減圧室には、前部キャビンとのハッチに小窓があるだけで、外の様子を見る事ができない。感覚を鋭敏にして、機体の傾斜や加速度から外の状況を読むしかない。
 突然、エンジンが全開になった。明らかに、ゴーアラウンドだ。同時に、インカムが鳴った。
「攻撃を受けたの。様子を見て強行着水して、水中エレベータを懸下装置ごと切り離すから、水中エレベータで待機して」
 奴等は、タッカ達が戻ってきた事を、快く思っていないのだろう。
「了解した。水中エレベータに乗り移るから、それまで上空待機をしてくれ」
「了解」
 タッカは、全裸になり、全身に水素潜水用のスキンクリームを塗った。こうしておかないと、長い時間、水素ガスに触れている事で、皮膚がただれてくるのだそうだ。続いて、パンツを履き、防寒用の毛織りの下着を着て、温水循環ジャケットを身に付ける。その上に、ドライスーツを着込み、一通りの確認をチェックリストに従って行う。
「これから、水中エレベータに移る。一時的にインカムが不通になる」
 ヘッドセットを外し、減圧室内の総ての電源をOFFにした。水素ガスが減圧室内に大量に侵入した場合に、電源部のスパークで爆発しないための配慮である。S-2R側での最大の危険要素である。
 電源OFFで減圧室内は真っ暗になり、前部キャビン側のハッチの小窓から一筋の光が差し込むだけとなった。FE式携帯光源のスイッチを入れた。周辺が、仄かに明るくなった。
 続いて、水中エレベータとの連絡通路の接続状況と圧力差である。元々、こことの圧力調整弁は、加圧の第一段階終了時に開放状態にしておいたので、何ら問題はなかった。 
 連絡通路との圧力差が無い事を確認して、減圧室側のハッチを開いた。そして、圧力調整弁を閉じた。
 直径五十センチ、長さも五十センチの連絡通路の先に、水中エレベータ側のハッチが見えた。ハッチに付いている圧力差計は、二十七ヘクトパスカルだけ、水中エレベータ側の圧力が低い事を示していた。これなら、圧力調整弁を開いても、減圧室側から水中エレベータ側へと空気が流れるので、水素ガスが減圧室に吹き込む事はない。
 圧力調整弁を開くと、ぴーという高周波音を伴い、空気が水中エレベータに流れ込んだ。
 タッカは、圧力差が無くなるのを待ってハッチを開くと、体毎滑り込んだ。水中エレベータ内は、水素ガスが詰まったボンベで、体を入れる隙間を探すのさえ、難しい状況だったが、無理矢理、体を捻り、減圧室側のハッチを閉じた。再度、ハッチの圧力調整弁が閉じている事を確認し、今度は水中エレベータ側のハッチを閉じた。そして、こちらも圧力調整弁を閉じた。
 水中エレベータ内は、FE式光源の白い光で満たされていた。タッカは、ボンベの上に丸くなり、エレベータ内を見回した。
 ヘッドセットは、直ぐに見付かった。
「水中エレベータへの乗り移りは完了した。これからチェックリストを始める」
「了解。連絡トンネルは、こちらで遠隔切り離しをします。チェックリストが終わったら、連絡して下さい」
 事務的な喋り方が、緊張感を高める。
 チェックリストが終わると、彼女に連絡した。だが、連絡トンネルは切り離されないまま、着水した。下部ハッチを開くモーター音が聞こえる。
「おい、まだ連絡トンネルが切り離されていないぞ!」
「慌てないで! もう一度着水したら、今度こそ切り離すから、そちらは、切り離し時の衝撃に対処できるように、準備をしておいて!」
 直ぐに、下部ハッチは閉じられた。通常なら、重量を減らすために、ハッチ内の水をポンプで排出する。ところが、彼女はそのまま機を離水させた。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 閉会になった後、みんなで負傷者の様子を見に行った。
 三番目の部屋に、通信と構造担当のアロイが寝ていた。意識はあるのだが、ちょうど鼾をたてて寝ていた。事故の時、研究室に居て、衝撃で胸部を強打したのだった。レントゲンが無いが、肋骨にひびが入っているらしいとの診断だった。今のところ、命には別状ないが、体を動かすと激痛があるらしい。
 続いて、一番奥のリーダーの部屋に入った。ナンスは、集中治療器による監視下に置かれていた。頭に巻かれた包帯に血が滲んでいる。一応、傷は縫合してあるが、衝突のショックで転倒して頭部を強打し、意識は失ったままだ。アロイが、激痛に耐えて止血の応急処置をしたので致命傷にはならなかったが、なるべく早く本格的な治療を受けるべきだと、リーマンは言っている。
 四人はそっと部屋を出ると、それぞれの個室に引き上げた。
 鉄腕は、ベッドに横になって考えながら、頭を使っても酸素摂取量が増える事が気になった。
 一時間後、集まった者は、皆、焦燥しきった顔でだった。電力配分を決めるために集まったのではなかった。配分する電力は、残っていなかった。
 四十分くらい前、ナンスの集中治療器が警報を鳴らした。
 真っ先に飛び込んだ鉄腕は、集中治療器の表示が直ぐには信じられなかった。部屋の照明を点けてみたが、点灯しなかった。表示の通り、電源が切れた事が証明された。
 集中治療器は、内部のバッテリーでバックアップ運転していたが、内臓バッテリーは、本電源が復電するまでの時間稼ぎをする以上の能力はない。遅れて飛び込んできたオハラは、直ぐに復電の作業を始めたが、間も無く、酷く疲れた表情で戻ってきた。連絡トンネル内での漏水による漏電で、主電源のほぼ総てが失われていたと言うのだ。
 集中治療器のバッテリーは、間も無く切れる。それまでに何とか電源を確保したいが、その電源が無い。集中治療器が止まったからと言って、直ちにナンスの命が失われる訳ではないが、格段に危険が増す事には違いがない。考えた末、空調システムのバックアップ電源を取り出し、集中治療器に接続した。
 一段落した後で、どの程度バックアップ電源が持つか確認したところ、集中治療器だけなら六十時間程度だった。その代わり、二酸化炭素の除去は一切行えない。
 B棟内の空気を吸い尽くしたら、全員が死ぬ事になる。しかも、この一時間での消費量は安静状態の十倍近い量となった。負傷者の酸素消費量も多く、鉄腕が計算した予測値は深刻な値となった。
「残りは、二十時間足らずか」
 オコーナーの声は、苦悩で掠れた。
「十五時間後に、一度だけ二酸化炭素の除去をやりましょう。そうすれば、今から四十時間持ちます」
 鉄腕の意見に、リーマンは首を振った。
「酸素分圧が下がると、人間の体は、呼吸数を増やして獲得する酸素量を増やすように反応する。呼吸数が増えるから、安静状態でも基礎代謝が増え、酸素の消費量は増える。アムスの予測値は、現在の消費量をベースにしているよね」
 鉄腕は、素直に頷いた。
「それなら、予測値の八割程度の時間しか持たないと考えた方がいいな」
 リーマンの修正に、鉄腕は異存なかった。
「残りは、三十五時間あるか、ないかだ。クストーが回航されてくるまで待てない。各自で、自力脱出の方法を考えてくれ。そのせいで酸素消費量が増えるのは、認められない。できる限り安静にしながら、頭だけを働かせてくれ。以上だ」
 四人は、自室のベッドに潜り込んだ。そして、体温維持のために酸素消費量が増える事を防ぐため、有りっ丈の毛布をかぶった。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

↑このページのトップヘ