伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

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「どうだ。アームストロング」
 ここでは、鉄腕は、アームストロング、または単にアムスと呼ばれていた。でも、アームストロングと呼ばれる時は、必ずロクな話にはならない。
 さっきまでモールスを打っていたリーマンは、上からの返信を待つため、今はじっと耳を欹てている。
「A棟は、閉鎖するしかないですね。連絡トンネルも、厳しいですね。あそこも、閉鎖するしかないです」
「B棟に留まるのは賛成だが、連絡トンネルから閉鎖してしまっては、使えない緊急脱出球しか脱出ルートが無くなってしまうぞ」
 オコーナーの言った事は、当然、出てくる意見だった。
 B棟には、緊急脱出球に繋がるハッチしかない。緊急脱出球には、B棟と接続する下部ハッチの他、上部にもハッチがある。緊急時には、緊急脱出球をエアロック替わりに使用できる。外に出る際には、緊急脱出球の下部ハッチを閉めると、緊急脱出球内に注水し、満水になった所で上部ハッチを開いて外に出る。中に入る際には、緊急脱出球に注水して中に入り、上部ハッチを閉じた後でポンプで排水し、下部ハッチからB棟に入る。
 しかし、電力を温存したい今、ポンプで大きな電力を消費したくない。
 一度出たら、事実上、戻ってくる事が難しい緊急脱出球のルートだけになってしまう事が、根っからダイバーであるオコーナーを不安にさせてしまうのだ。
 再び、リーマンがモールスを打ち始めた。B棟の壁面をハンマーで叩く。目を凝らしていると、壁面とハンマーの間に火花が飛んでいる。
「さて、最大の問題だが、我々は上からの救出を待つべきか、自力脱出を試みるべきか、意見を聞かせてくれないか」
 負傷し、自室のベッドに寝ているリーダーのナンスに替わって、サブリーダーのオハラが切り出した。
 リーマンのモールスが、彼の声を掻き消す。
「もちろん、通常の脱出方法が総て不可能だという事を踏まえての意見をだ」
 言葉を発した本人も含めた四人は、口を噤んでしまった。鉄腕も、気持ちの中で頭を抱えてしまった。
「おい、ドクター・リーマン。モールスは、この話合いが終わってからにしてくれないか」
 リーマンは、きりの良いところでモールスを止めた。そして、ハンマーを床に叩き付けた。ハンマーは、大きな音を立てた後、一度バウンドしたらしく、鉄腕の脹脛にぶつかると、二度目の音を立てて床に落ちた。
 リーマンらしからぬ行動だった。
 鉄腕は、気持ちを切り替えて意見を出してみた。
「取り敢えず、外部から救出に備えて、できる限りの延命策を講じるしかないと思います」
 消極的な意見だと思ったが、自分が口火を切らなければ永遠に沈黙が続きそうだった。
「よし、それを検討してみよう。酸素と二酸化炭素、電力、水、食料、排泄、最後が構造だ。どうだ、酸素と二酸化炭素は」
 酸素と二酸化炭素は、鉄腕の担当だった。
「酸素は、タンクへのケーブルステーションの直撃や配管の損傷から、予備量のほぼ総てが、漏れるか、使用不能になっています。A棟とB棟内の空気だけだと、単純計算で十二日くらいは耐えられると思います。水酸化リチウムタンクも損傷受けていますが、失われた量は僅かです。問題は、電力が足りないため、二酸化炭素を水酸化リチウムに導けない事です」
 酸素の消費は、一分間に睡眠状態で二百ミリリットル弱、軽い運動では三千ミリリットル以上と大きな幅がある。覚醒の安静状態では三百五十ミリリットル程度なので、六人で二千百ミリリットル毎分となる。
 シャングリラの六人は、潜水前の測定では、毎分の消費量は約二千五百ミリリットルであった事が分かっている。この実測値を基準にすると、一時間で百五十リットル、一日で三千六百リットル、三十日で十万八千リットルとなる。
 A棟とB棟の内容量は、約五万三千リットルだ。百気圧に加圧されているが、酸素分圧は0.3気圧なので、常圧では約一万六千リットルだ。中の空気は、四日余りで吸い尽くしてしまう事になる。
 二酸化炭素濃度の許容限度は、ほぼ酸素分圧と二酸化炭素分圧の差で決まる。酸素分圧と二酸化炭素分圧の差の許容値は、二百ヘクトパスカル程度だ。これが、百五十ヘクトパスカルまで下がると、深刻な呼吸困難に陥り、百四十ヘクトパスカルになると、数分の内に死亡してしまう。重傷者がいるので、百八十か、精々百七十ヘクトパスカルが、実際の限度だろう。
 酸素は、一度呼吸すると約五十ヘクトパスカル減り、ほぼ同量の二酸化炭素を産み出す。水酸化リチウムなどの二酸化炭素吸収剤の能力から、シャングリラの定常の二酸化炭素分圧は五十から七十ヘクトパスカルで推移している。シャングリラの酸素分圧は三百ヘクトパスカルなので、一度呼吸すると、酸素分圧と二酸化炭素分圧の差は百五十から二百ヘクトパスカルくらいまで下がる。即ち、一度呼吸すると、二度と同じ空気は呼吸できない。
「A棟は、閉鎖する事も念頭に置く必要があるが、B棟だけだと、どれくらい耐えられるんだ?」
「四十時間くらいです。でも、暖房が止まっているので、体温を維持するのに酸素消費量が増えるので、この数時間の変化を計測して予測しないと危険です。特に、二酸化炭素の濃度には、注意を払う必要があります」
「二酸化炭素濃度から見た場合の、生存可能時間はどれくらいなる?」
「緊急時用バックアップ電源での運転は、十二時間。A棟を閉鎖した状態では、三十時間後には、作動させる必要があります。B棟だけですから、二酸化炭素の除去の効果は大きいと思います」
「つまり、事故後三十時間で十二時間のバックアップ運転をして、更に三十時間耐える事ができるって寸法だな。合計七十二時間」
「いいえ、理想的には、事故後三十時間に四時間のバックアップ運転をし、二十時間後に四時間、更に二十時間後に四時間で、最後の二十時間を耐えれば、百二時間です。ただ、負傷者が、致死量ギリギリの二酸化炭素濃度に耐えられるかです」
 みんなの顔が曇った。
「酸素マスクが使えればなぁ」
 誰かが、ぼそっと言った。
 水素潜水では、水素濃度を爆発限界外に維持しなければならない。酸素マスクを使えば、その周辺だけ水素濃度が下がって爆発限界内に入ってしまう。こうなってしまうと、静電気などの小さな火種でも爆発してしまう。大爆発にはなり難いが、マスクを付けている人間は顔に火傷を負う事になるだろう。
「負傷者が耐えられそうな濃度で計算すると、二十五時間後に四時間、十五時間後に四時間、更に十五時間後に四時間と、最後の十五時間で、合計八十二時間です」
「三日間か。無理かもしれんな」
 鉄腕は、肯くしかなかった。既に十時間が経過しているので、残る時間は七十二時間しかない。負傷者を見捨ててギリギリまで引き伸ばしても、四日に満たない。アクアシティに係留されているクストーが回航されてくるまで、耐えられない可能性が高い。
「空気の問題は、これくらいにしよう。電力は私の担当だが、主電源については話す事は何もない。完全に破壊されていて、修理も考えられない。バックアップ電源は完全に無事だが、耐用時間が四十八時間しかないので、知っての通り、完全に電源を落としてある。今、使っているのは、治療機具の電源だけだ。電源の分配はこれから話合わなきゃならないが、今のペースなら三百時間以上耐えられる。電源が無くなる前に二酸化炭素濃度が致死量になってしまうから、耐用時間は気にすまい。さぁ、今度は水と食料だ」
 食品担当を担当するスポレットが答えた。
「食料は、言うまでもなく最も楽観できますが、電力を使えない場合、調理できませんから非常食を使う事になりますが、こちらは五十食ですから、四、五日でしょうか」
「負傷者は、非常食では無理なので、回復に合わせて調理したものを食べさせる必要があります。電力も必要です」
 唯一の医師、リーマンは、人命第一を強く訴えた。
「分かっている。電力の配分を考える時に相談しよう。で、水はどうだね」
 水と衛生管理も担当するリーマンが答えた。
「水は、全く問題ありません。タンクに損傷が無いので、三十日は耐えられます。もし、電力が使えるなら精製できるので、更に耐えられます。問題は、排泄物の処理です。タンク容量は通常で三日分しかないので、電力が使えない場合、溢れ出る事になります。衛生上も問題がありますが、臭気で健康、特に精神的に苛付く事にもなり兼ねません。二酸化炭素濃度が上がりますと、頭痛や吐き気等の症状も出ますので、相当に辛い状況になるでしょう」
 ここの空気は、海上から送られてくる事もあって清涼な雰囲気があり、閉鎖空間の息苦しさを和らげてくれる。それが、便所臭さの中で耐えるとなると、気が滅入った。換気装置が止まり、その傾向が現れ始めている。
「最後は、この基地が、今の状況でどの程度耐えられるかだが、構造の責任者であるリーダーが負傷しているので、全員で意見を出してもらいたい。まず、私からだが、A棟の漏水は一段落したから、ここに留まる限り心配は無いと思っている」
「そうですね。エア漏れもほぼ収まりましたし、緊急浮上しない限り大丈夫でしょう」
 オハラとオコーナーのスコットランド・コンビが楽観的な見方を示した。
「そうでしょうか」
 鉄腕は、思い余って切り出した。
「A棟は、現状維持ができるかもしれませんが、連絡トンネルは深刻です」
「おいおい、連絡トンネルは、運良く損傷を免れてただろう」
「いいえ、A棟との接合部で漏水が始まりました。事故直後は漏水はありませんでしたが、基礎部分が大きく変形しているので、そのストレスが接合部に掛かり続けているのです。その証拠に、A棟との間のハッチの閉まりが悪くなっています」
 暗闇を通して、仲間の顔を見た。外部からの情報の八十%を受け持つと言われる視覚を奪われ、他の感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。音や空気の僅かな流れで、みんなの動きが感じ取れた。曇った表情さえ、見えるようだった。
「もし、連絡トンネルの亀裂が破断すると、A棟とのハッチにも問題があるので、大量のエアを失う事にもなり兼ねません。A棟を完全に閉鎖し、これ以上の損害を防ぐべきです」
「だが、A棟を完全に閉鎖すると、脱出ルートは緊急脱出球だけになるぞ」
 みんな、超一流のダイバーだ。ハッチから出られなくなる事を、極度に恐れる。鉄腕も、同じダイバーとして、その気持ちは分かった。
「おい、負傷者はどうするつもりだ。彼等にドライスーツを着せ、冷たい海に連れ出すのか。医者として言わせてもらう。ナンスは到底無理ですよ。彼も連れて帰るには、緊急脱出球か、本体の緊急浮上しか、方法は無い」
 語気の荒さから、リーマンが憮然としているのが、闇の中でも手に取るように分かった。
「ちょっと、話が逸れてしまってるぞ。今は、A棟の閉鎖を検討すべきだ。アムスの意見を取り入れ、無駄な消費も抑える意味でもA棟を閉鎖しよう。閉鎖したからと言って、直ぐに失われる訳ではない。どうしても必要となった時には、閉鎖を解けばいい」
 鉄腕も、妥協した。ただ、閉鎖を解いた際に何が起こるか、心配でもあった。
「さあ、今度こそ、最後の問題だ。いつまで待てば良いかだ」
 暗闇の中で、更にみんなの顔が曇った。
 オコーナーが、重苦しい沈黙を破った。
「事故で支援船ダーウィンもやられたのなら、もう一隻の支援船クストーしか、我々を救出できません。でも、クストーはアクアシティに係留されていて、直ぐに出港できるとは思えません。仮に出港できたとして、パナマ経由でここまで来るのに最短でも四日かかります」
「事故後、十時間経ったが、残り八十六時間は耐えるしかないのか」
「いいえ、出航準備するのに最短でも三日かかるでしょうから、百六十時間くらいは覚悟した方がいいですね」
 ぞっとした。
 空気は、九十二時間しかもたない。これは、負傷者を無視したぎりぎりの数値だ。非常食は、二日分が不足する。最悪、水中エレベータを使用するとなると、冷たい海に出るのだから、充分な食事を摂っていないと命取りにもなり兼ねない。現に、ここでの一日の必要摂取カロリーは、三千五百キロカロリーとなっている。非常食では、このカロリーは難しい。
「電力の配分を相当慎重に行わないと、到底生き残れそうにないな。電力の配分は、各自で二時間ほど考えてくれないか。取り敢えず、事故から百八十時間、今からだと百七十時間を生き延びるために、ぎりぎり節約した電力量をそれぞれの担当で検討してくれ。今ここで話し合っても、堂々巡りになるだろうからな。それから、ディックは負傷者の延命も、検討してくれ。二百時間は生きていられ方法だ」
 みんな、納得したらしく、暗闇の中、肯くのを感じた。
「それから、仮に緊急脱出球で脱出できるとして、いつ脱出すべきかも考えておこう」
 緊急脱出球は、浮上に三十分しか掛からない。海上での回収に手間取っても、二、三時間の内に船上減圧室に移れる。だから、内蔵のタンクでは、八時間分の酸素と二酸化炭素除去剤しか持っていない。
 逆に言えば、こちらが勝手に浮上しても、支援船が探してくれなければ、海上で窒息死をする事になる。
「上との連絡が取れない以上、脱出のタイミングも重要な要素だ」
 暗闇の中で、それぞれに頷いた。

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 シャングリラは、ほとんどの設備が、二重化、三重化されている。緊急脱出も、第一に水中エレベータ、第二に緊急脱出球、第三に基地本体の浮上と、三重の脱出方法が用意されていた。ところが、今回は、その総てが被害を受けた。
 鉄腕は、事故直後の海底基地に戻ってきた際に、外から惨状を知った。
 事故で切れたアンビリカルケーブルは、本来ならケーブルステーションの上に落ち、基地本体の上には落ちてこない設計になっていた。しかし、ケーブルステーションは、非常に強い力で引き摺られて基地本体に衝突していたので、当然のようにアンビリカルケーブルは、基地の上に落ちてきた。鉄腕のライトに照らし出されたそれは、大蛇が基地に巻き付き、ぎりぎりと締め上げているようにも見えた。
 緊急脱出の第一の方法、水中エレベータは、ダーウィンが大きな被害を受けて降ろせなくなっているらしく、未だに水中エレベータが下ろされた気配はない。水中エレベータは、その位置が分かるように、特定の音を出す。下ろされれば、必ず気が付く。その音を、誰も聞いていなかった。
 ケーブルステーションが引き摺られるほどの力だ。ダーウィンも、ただでは済む筈がない。水中エレベータが下ろせなくなっていても、不思議はない。
 第二の方法である緊急脱出球は、アンビリカルケーブルが絡まり、海底基地から切り離せない状況になっていた。これは、シャングリラに戻る時に確認しておいた事だ。まだ、脱出を試していないが、緊急脱出球はタンク容量が小さいので、この中に閉じ込められたら死期を縮めてしまう。確実に使える状況になるまで、使う訳にはいかない。
 第三の方法、本体の緊急浮上は、最も難しい状況にあった。
 まず、アンビリカルケーブルが圧し掛かっている事だ。シャングリラの余剰浮力は、それほど大きくない。アンビリカルケーブルを乗せたまま浮上する事は、到底できない相談だ。
 おまけに、落ちてきたアンビリカルケーブルが鞭のようにしなってシャングリラの外壁に叩き付けられたせいで、A棟側の溶接個所にひび割れを生じて漏水が始まっている。もし、このままシャングリラを浮上させると、現在は釣り合っている内外圧力差が内圧超過の状態になり、亀裂の場所から破裂する可能性が高い。
 残された方法は、現在は大西洋側に停泊している。もう一隻の支援船が回航されてきて水中エレベータを降ろしてくれるのを待つ事だけである。だが、パナマ運河を通過したとしても、ここに到着するのは早くても四日後になる。それも、出航準備ができていると仮定しての話だ。記憶違いでなければ、来春に別の場所で行われる水素潜水実験の準備中で、直ぐに出港できるかどうかは怪しいものだ。
 だからこそ、この基地の中で一日でも長く生き延び、救出される確率を高めなければならない。
 鉄腕は、作業艇ハッチ、潜水ハッチ、資材置き場、シャワー室、資料室、研究室と、A棟の各部屋を通り抜けた。
 資料室の漏水は、ほとんど止まりかけていた。
 壁面は、零度近い海水に冷やされて結露していた。だから、僅かな漏水は見抜く事が難しいが、他の部屋に漏水箇所は見当たらなかった。ただ、照明だけでなく暖房も止まり、息が白く凍る程、室温が下がっていた。
 A棟は、閉鎖するしかなさそうだ。
 研究室の脇の直径が五十センチしかないハッチを通り抜け、B棟へ繋がるトンネルに入った。
 トンネルの内径は、二メートル、長さは、四メートル。そのトンネルとA棟との接合部も、亀裂が入っているらしく、海水が滲んでいた。ケーブルステーションは、このトンネルの下側、A棟とB棟の基底部にぶつかっている。構造的には、最も厳しい状況に追い込まれている部分だ。今は、海水が滲んでいるだけだが、鉄腕は、A棟の亀裂より危険な気がした。
 A棟とのハッチを閉めた。厚さ五センチのハッチは、ハッチホールとの間で不気味な擦過音を響かせた。ハッチやハッチホールに傷がつけば、それが僅かな傷であっても、大きな水圧が掛かれば漏水を始めるかもしれない。
 一度、開けて傷が無い事を確認し、ハッチとハッチホールの接触面を奇麗に拭いた。そして、ゆっくりとハッチを閉めたが、また擦過音が聞こえてきた。ハッチホールが変形している事は疑う余地が無い。このまま閉めるしかなかった。
 鉄腕は、B棟とのハッチを通り抜けると、これもしっかりと閉めた。幸いな事に、こちらのハッチには被害が無いようだった。ハッチは、ハッチホールに吸い込まれるように納まった。
 B棟も、照明は落とされ暖房も止まっていた。吐いた息が白く煙り、ヘッドライトに照らされて目の前に浮かんだ。A棟でも聞こえていたモールスを打つ音が、B棟では耳に喧しかった。
 B棟は、生活臭が立ち込めている。厨房があり、トイレがあり、六人の男達の体臭が篭っていた。電源を守るために換気が止まっているので、悪臭と言ってもいいくらいに酷かったが、仲間が居る事を感じさせてくれる臭いが、鉄腕に安心感を与えてくれる。
 鉄腕は、奥に向かって歩き始めた。奥には、厨房、食堂兼会議室、各個人の居室と続いている。居室の二つには、二人の重傷者が寝ている。更に奥にある小さなホールの天井には、緊急脱出球に繋がるハッチがある。
 食堂兼会議室で、一人の男を鉄腕のライトが浮かび上がらせた。彼は、眩しいそうに目を細めた。
 鉄腕は、ライトを消した。途端に、男の顔が漆黒の闇に沈んだ。間も無く、外に出ていたダイバーも食堂に戻ってきた。

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  海底基地シャングリラ

 鉄腕は、漏水の様子を見た。
 遠くで、壁面をハンマーで叩くモールス信号が聞こえてくる。
 懐中電灯の光に照らされた海底基地シャングリラの内壁からは、零度に近い冷たい海水が吹き出していた。床は、踝の上まで海水が溜まっていて、防水ブーツを通してジンジン痛むような冷たさが伝わってくる。
 漏水の勢いが、最初に見た時よりも激しくなっているようだ。だが、深刻なのは、電源と二酸化炭素の方かもしれない。
 理想郷シャングリラは、冷水地獄に変わりつつあった。
 間も無く、漏水の勢いが弱まってきた。
 暫くすると、下部ハッチからダイバーが上がってきた。
「溶接の継ぎ目に亀裂があったが、漏水シートを塗付してきた。これで、漏水も落ち着くだろう。そっちはどうだ?」
 ダイバーは、鉄腕の首尾を聞いた。
「水酸化リチウムはなんとか準備できたが、量は不足している」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素の吸収剤として使う。通常は、ポンプで海水中を通して解かし、処理しきれない分をアンビリカルケーブルで支援船に送っていた。アンビリカルケーブルも電源も切れた今、緊急時用の水酸化リチウムで二酸化炭素濃度の上昇を抑える必要があった。
「どちらかを閉鎖するしかないな」
「ああ。それ以上に気になるのが、上の様子だ。あれから何も言ってこない」
 モールスを打ち始めた時に、一度だけ返信があったのに、それ以降の音信が途絶えている。
「モールスが分かる奴が居ないんだろう」
 誰かがそう言ったが、そんな筈はない。上からの返信は、モールスだった。公式には廃止されたモールスだが、まだまだモールスを打てる人間はかなり残っている筈だ。
「取り敢えず、B棟に戻ろうや」
 フィンとマスクだけ取った二人のダイバーと共に、奥にある連絡通路に向かった。

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 息が続く限り潜り続け、ゾディアックの方向に泳いだ。
 水面から出て振り返ると、左舷のボートが宙吊りになっているのが見えた。ユカリが細工したのだ。右舷もボートを宙吊りにしたら、彼女も脱出する。それまでに、ゾディアックに辿り着かなければならない。
 船尾で、チカチカと小さな光が見えた。光は、時に長い線となる事もあった。発砲しているようだ。発射音は、機関の音と船首が海を切り裂く音で掻き消され、タッカの耳に届く事はなかった。
 ゾディアックを先に流しておいて、正解だった。かなりの距離があるので、弾丸が届いても、ゾディアックのゴムに穴を開ける事はないだろう。タッカを狙うにしても、波間に浮き沈みしている頭だけを見付けるだけでも、至難の技だろう。
 タッカは、もう一度潜り、息が続く限り船とは反対方向に泳ぎ続けた。これで、奴等は完全に見失っただろう。浮上すると、ゾディアックを見付け、航跡のお陰で波が消えた海を全力で泳いだ。
 水を含んで重くなった上着は、海の中で脱ぎ捨て、ゾディアックを転覆させないように、重い体をゾディアックの中に引き上げた。ゾディアックの船外機は、一発で始動した。直ぐ様、奴等の船の追跡に入った。ユカリを拾うためだ。
 奴等の船は、未だに右舷のボートがそのままだった。ユカリが、失敗するとは思えない。
 十分な距離を開けて、右舷の様子を見詰めた。
 予定通り、右舷のボートがダペットを滑り落ち始めた。同時に、見事な空中姿勢で海にダイブする彼女の姿が見えた。舷側からは、弾丸が放つ光の線が延び、彼女の後を追ったが、弾丸は水面下一メートルも届きやしない。軽く四分以上も潜水できる彼女なら、船が遠ざかるまで、浮上してくる事はない。
 約一海里の距離を取っていたタッカは、三分後に彼女が飛び込んだ所に着いた。彼女をスクリューに巻き込まないために、船外機を止めた。
 奴等の船の航跡が、燐光で仄かに光っている。その明かりを頼りに、彼女を探した。
「おーい! どこだぁ!」
 だが、返事はなかった。
 今度は、オールを取り出して海面を叩いた。最悪は、鮫を引き寄せてしまう誉められない方法だったが、水中に居る彼女には、こちらの場所を知る手掛かりになる筈だ。十秒待って、もう一度、水面を叩いた。そして叫んだ。
「おーい! どこだぁ!」
 耳を澄ませた。
「ハァーイ。ここよ」
 真後ろ、それも耳元で声がしたので、驚きと恐怖で、大きくバランスを崩した。慌てて、手近なロープを掴んで体を支えた。
「いきなり後ろから声を掛けるなよ。海に落ちそうになったぞ」
「呼んだから、返事をしてあげたのに」と、膨れっ面を見せながらも、タッカから船外機の舵を奪った。
「さぁ、艇に戻るわよ」
 ゾディアックは、くるりと方向を変え、暗闇に沈んだS-2Rを目指して走り始めた。
 一般に、女性は方向感覚が鈍いと言うが、彼女だけは例外らしい。彼女が舵を握るゾディアックは、ほとんど一直線にS-2Rに着いた。
 彼女は、今度も軽々とS-2Rに乗り移った。
 この先も使う事があるだろうと思い、タッカはゾディアックを機内に収容しようとしたが、遠くに奴等の船の光を見つけた事で、状況が変わった。もう、舵を修理したらしい。ゾディアックの収容を諦め、コクピットの自分の席に飛び込んだ。
「奴等、もう舵を直したみたいだ」
 大慌てのタッカと違い、彼女はけろっとしていた。
「それ、言い忘れてたけど、舵を壊せなかったの」
「えっ!」
「だって、油圧のバルブがガチガチに固定してあったんだもの」
 確かに、仕方が無い事なのだろう。いくら天才と言っても、体重が50kgにも満たない細身の女性なのだから、腕力で男並みの仕事をしろと言うのは酷な話だ。
「さあ、離陸のチェックリストを読み上げるわよ」
 こんな状況下でも、彼女はタッカに操縦させようとした。最初は断ろうかと思ったが、彼女の向こうに見えた監視船の光が、タッカに決断させた。彼女の読み上げるチェックリストに従い、手早く離水準備を始めた。
 左舷の遠くに、彼等の船が見えていた。真っ直ぐに、こちらに向かってきている。残された時間は、僅かしかない。
「チェックリストを中断し、水上航走で逃げよう」
 タッカは、そう提案した。
 S2シリーズは、水上航走での燃費改善のために、APUの電源で船外機を駆動し、最大で十ノット程度の航行が出来る設計になっていた。
「だめよ。そんな事をしたら、チェックリストをやり直さなきゃ駄目になるわ。水上航走の速力だと、逃げ切れないでしょ」
 確かに、水上航走ユニットは、チェックリストの最初の方で収納の確認をする事になっている。反論しようかと思ったが、一基でも二基でもエンジンを起動した方が、逃げ切れる可能性が拡大する。
 彼女に肯くと、いつもより早口で読み上げられるチェックリストに従った。
 漸く、第一エンジンの起動に漕ぎ着けたタッカは、第一エンジンの咆哮を聞いてホッとした。
 その時、ぱっと目の前のガラスが白くなった。
「銃撃よ!」
 彼女の言葉を聞くまでもなかった。
 フロントウィンドスクリーンは、バードストライクに対応するため、下手な防弾ガラス並みの強度がある。一発や二発の弾丸では、最外層に傷が付く程度だ。だが、機体自体は、薄いアルミニウム合金だ。弾丸は簡単に貫通する。脇腹を鉄パイプでグリグリ押される錯覚を起こした。
 第二エンジンは、既に起動手順に入っていた。タッカは、第一エンジンの出力を上げ、機体を旋回させ始めた。奴等の船に、S-2Rの大きな土手腹を、見せておきたくなかったためだ。
 第二エンジンも起動を完了すると、出力を上げていった。第三エンジンの起動が完了する頃には、奴等の船は完全に背後になった。
「第四エンジンは停止のまま離水する」
 そう宣言し、エンジン異常時の手順に切り替えた。
「フラップを第四エンジン停止時のモードに切り替え、BLCオンで五〇にセット」
 第四エンジンが停止している場合、反対側の第一エンジン後ろのフラップはBLCを止める。左右の揚力のバランスを保つためだ。
「了解。フラップモード、4オフに切り替え。BLCオン。フラップ五〇」
 三基のエンジンを離昇出力へ上げた。
「BLCオンを確認。フラップ五〇。大気速度四十ノット」
 フラップ五十度で、今回くらいの燃料搭載量なら、六十ノットくらいでVlに達する。でも、奴等の船より速い速度なら、無理に離水する必要はない。
「五十五ノット、六十ノット、Vl」
 彼女が「六十五ノット」と言ったところで、操縦輪を軽く引いた。S-2Rは、軽飛行機のように、軽い身のこなしで海面を離れた。同時に、少し右に依れたが、トリムで修正した。
 水面すれすれを維持し、地表効果で揚力を稼いで、その分を速度に回す。元々、推力に余裕があるS-2Rは、一気に増速していく。
 彼等の船は、視界から消えた。彼等が、仮に対空火器を持っていても、もう攻撃してくる事はないだろう。
「フラップ四〇。BLC、オフ」
 これ以上、BLCをオンにしていると、推力が揚力に食われてしまう。BLCをオフにし、操縦輪を引いて速度を稼ぎつつ上昇に移った。
 彼女が読み上げる速度と高度が、順調に上がっていく。フラップを完全に収納するまで三基のエンジンで頑張り、第四エンジンも再起動チェックリストで起動した。
「燃料は充分。着弾による被害も無い。ただ、ウィンド・スクリーンにヒビが入っているので、与圧は上げないようにしよう」
 ウィンド・スクリーンのヒビは、思ったほど酷くない。流れ弾が掠っただけらしい。最外層の表面に小さな傷が付いただけだ。でも、上空で吹き飛ぶような事があれば、命はない。用心する事にした。
 七千フィートで機体を水平に戻し、機首をサンディエゴに向けた。
「大した物ね。御見事。でも、ここから先は私がやるわ」
 彼女は、タッカから操縦輪を奪った。でも、タッカには有り難かった。これ以上は、緊張を維持できそうになかったからだ。
 タッカは、座席を目一杯後ろに下げた。そして、大きく深呼吸し、ダーウィンの会議室を抜け出す時から続いていた緊張を、ゆっくりと解いていった。

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 監視船は、支援船の船尾から右舷後方三百メートル足らずに、左舷船尾を見せていた。
 ユカリは、右舷側に回り込むように泳いだ。タッカにも理由の見当がついたが、向かい風の中を泳ぐので、リングスクリューとの格闘で体力を奪われた体には辛かった。
 波高はそれほどでもなかったが、波が押し寄せる度にサーフィンのように流されるし、支援船から丸見えになってしまう。それで、波頭が近付く度に水中に潜ってやり過ごすのだが、繰り返す内に更に体力を消耗し、同時に彼女との距離が開いて行った。
 体力には自信があるが、彼女には適わない。
「女、子供は、足手纏いだ!」とは、映画やドラマでのヒーローの決まり文句だが、今のタッカは、彼女の足手纏いになっている。悔しさと歯痒さが、タッカの頭を支配した。
 彼女は、三分の二を潜って泳いだ。残りの三分の一の大部分は、タッカが追いつくまでの時間だった。彼女は、一度潜ると、平気で三、四分も水中を泳いだ。彼女の驚異的な心肺機能は、赤ん坊の頃から海に慣れ親しみ、専門的な訓練と遊びの中で培われた。子供の頃は、起きている時間の半分を海中で過ごしたという。昼寝は、水の中だったとも言っていた。
 だから、彼女に適わないのは当然としても、せめて彼女に気遣いさせない程度には泳ぎたかった。それでも、一時間も泳ぐと、監視船の舷門が視認できる所まで来た。
 ユカリは、監視船の右舷側に回り込んだ。監視船の乗組員の注意は支援船に集中している筈だし、支援船を乗っ取った連中も監視船を気にしている。だから、支援船からは裏側に当たる右舷は、注意が届いていない筈だ。
 彼女は、彼等に見付からないように潜水したまま、一気に舷門に近付いた。
 タッカは、時間を掛けて呼吸を整えた。そして、彼女と同じ様に潜ると、監視船の舷側に張り付いた。
 ここまで来ると、監視船からは、舷側から体を乗り出して覗き込まない限り見つかる心配は無かったが、風と波に逆らって船を立てているので、じっとしていると直ぐに流されてしまう。流されてスクリューに巻き込まれるのは、二度と御免だった。
 彼女は、舷側に手掛かりを見つけて、水面上一メートル程の所にある舷門に取り付くと、舷門を開けた。そして、中の安全を確認すると、まだ海面に漂うタッカに手を伸ばした。その手を掴み、海中から浮力の無い世界へとタッカは重い体を引き上げた。
 一時間ぶりに浮力の無い世界に戻った二人は、機関室を目指した。
 タッカは、彼女が無線室へ行かない事が納得できなかった。でも、体力を消耗してしまい、浮力の無い世界の感覚が戻ってこない重い体を抱えていては、彼女に付いて行くしかなかった。
 支援船の中ではあれほど苦労したのに、今度は、勝手知ったる他人の船とばかりに、何の障害も無く、あっさりと機関室に行き着いたのには、タッカ自身も呆れてしまった。
 途中の経路同様、機関室も無人だった。機関制御室は船橋の片隅にある筈で、機関室自体は完全に無人化運転が可能になっていた。
「なぜ、無線室に行かなかったんだ?」
 アイドリングとは言え、かなりの騒音の中でタッカは喚いた。
「無線室で何をするの」と、彼女も喚き返す。
「もちろん、救助要請を送信するんだよ」
「それで、殺されちゃう訳? 敵の懐深く潜入して救助信号は発信したら、無事に帰してもらえる訳はないわ。脱出は不可能よ。この船を制圧するしか手は無いけど、そうしようとすると、流血は避けられない。自分の手を血で汚すつもりなの?」
「じゃあ、救助要請は出さないのか。それこそ、この船を制圧するしかなくなるぞ」
「救難信号は、S-2Rから出せばいいじゃないの。そのために、ここに来たんだから」
 ディーゼルエンジン特有の臭気が漂う機関室で、彼女は鼻をひくつかせながら言った。
「いいわ。今からその説明をするから」
 彼女の考えでは、機関を全開で固定すると同時に舵を直進で固定して、監視船を暴走させるのだ。直後に、タッカが後部のボートハッチからゾディアックを略奪して脱出し、彼女の脱出を待つ。彼女は、舵の細工をした後、ボートデッキに上がり、救命ボートと救命筏を切り離して使用に不能にした上で、脱出する。
「いくら風下だって、二海里近くも離された所まで泳ぐとなると、二、三時間は掛かるでしょ。その間にー海里は流されるから、コンスタントに泳いでも早くて三時間、遅ければ六時間掛かるのよ」
「だけど、機関を全開にするのは、支援船での乗組員の立場を変えるためなんだろ?」
 ユカリは小さく肯くと、「いい方に変わるといんだけど」と言った。
 監視船の異状を、支援船の乗組員がどう利用するかによって、チャンスにも危機にも変わるだろう。彼女は、それを懸念しているのだ。
「兎に角、始めましょ」
 監視船も二軸船で、機関は二基ある。それぞれの機関は、機関室の壁にある制御盤で制御されている。実際には、この制御盤は、船橋脇の機関制御室から遠隔操作されている。
 彼女は、ディーゼルエンジンの列式燃料噴射ポンプのスロットルワイヤーに注目した。まず、ワイヤーが動かないように工具を噛ますと、リターンスプリングを逆向きに付け直した。これで、工具を外すと、リターンスプリングの力で機関は全開になる。
 ここまで準備したところで、彼女は一人で船尾に向かった。舵の油圧シリンダーから作動油を抜くためだ。航空機と違い、船舶の油圧系統は多重化していないが、この船は、船尾の特殊な形状から、二枚の舵を持っていて筈だ。二枚の舵は、それぞれが独立した油圧系統で作動する。彼女が二枚の舵の両方に細工を終えるまで、機関室で一人で待機しなければならない。
 機関室の入り口のハッチの一つは、意図的にロックを外してある。これは、敵に脱出経路を勘違いさせるためだ。そのロックされていないハッチから、敵が侵入してくるのではないかと、ひやひやしながら見詰めていた。
 視線をダイバーウォッチに移した。
 約束の時間まで、一分十七秒、十六秒、十五秒……。
 早々と、左舷の燃料噴射ポンプの脇に居た。とても、じっと待っている気持ちにはなれなかった。
 左舷から機関を全開にすれば、監視船はいくらか右舷方向に変進し、支援船の右舷方向、つまりS-2Rから真っ直ぐに遠ざかる筈である。
 彼女は、機関制御盤も、スロットルワイヤー自体も、細工しない事を主張した。彼女は、何処も破壊されていなければ、敵は機関制御盤の故障を考える筈で、リターンスプリングの細工に気付くまで時間が掛かると考えた。確かに、スロットルワイヤーを切断していれば、直接、燃料噴射ポンプを制御しようとするから、直ぐにリターンスプリングの細工に気付くだろう。機関制御盤が破壊されていれば、両舷の機関が同時に暴走する筈が無いので、やはり機関に直接細工した事に気付き、苦も無く細工が見つかるだろう。
 逆に、リターンスプリングだけの細工では、見つければ復旧も早い。むしろ、作動油を抜く舵の方が復旧に時間が掛かるだろう。
 また、時計を見た。
 ちょうど三十秒前だった。
 タッカは、ワイヤーを固定している工具を掴んだ。そして、時計の針を追いながら、秒読みを始めた。
 十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
 力一杯、工具を抜き取った。間の抜けた音と共にスプリングが縮み、機関が轟音をたてて加速し始めた。それは、Gとなって体でも感じられた。キャットウォークを走り、右舷の機関に飛び付いた。そして、同じ様に工具を抜き取ると、手摺を飛び越え下の床に飛び降りた。
 両舷の機関は全開になって、監視船は猛然と加速し始めていた。
 タッカは、つい数分前にユカリが通ったシャフトトンネルに潜り込んだ。機関からスクリューに伸びるシャフトのメンテナンス用のトンネルだった。
 トンネルは、高さが一メートル半程、幅も一メートルちょっと。トンネルの床には、ビルジが小さな水溜まりをあちこちに作っている。そこを、一抱えも有りそうなシャフトは、油を飛び散らしながら、恐ろしい勢いで回転していた。これに巻き込まれたら、ズタズタに引き千切られそうだ。
 顔をシャフトに摺り寄せるよう態勢で腰を折り、横向きの蟹走りで、薄暗いトンネル内を駆け抜ける。シャフトから油が飛び散り、顔が油だらけになるのも構わず、タッカは蟹走りを続ける。
 ほんの十数メートルで、トンネルは行き止まりになった。その手前に、ハッチが有った。だが、ハッチはシャフトの向こう側に有った。
 そこで逡巡していると、入ってきたハッチがガチャガチャ音を立て始めた。脱出ルートがこのトンネルである事がばれると、その後の脱出時間が短くなってしまう。
 シャフトは、船尾に向かって反時計周りに回転している。その右側に居るタッカは、抱き付くようにシャフトに乗った。ところが、想像以上の回転力で振り飛ばされ、反対側の壁面に体を打ち付けた。シャフトと床の間に挟まれたのでは、堪ったものじゃあない。ビルジに足を取られながらも、急いで起き上がり、ハッチを出た。
 ハッチの外は、ロープやワイヤー等が収納された船倉だった。さっと辺りを見回し、見付けた梯子を駆け上った。
 最後のハッチを抜けると、右舷の後部デッキに出た。船尾を見ると、御誂え向きに船外機が付いたゾディアックが二艘あった。その一艘を奪い、もう一艘を海に捨てれば、脱出に成功する。
 タッカは、ゾディアックに駆け寄った……が、そこで息を呑んだ。
 ここまで誰にも出会わなかったので、油断していた。後部デッキの左舷には、遠ざかる支援船を気にする船員が五、六人いた。
 幸いな事に、全員が支援船の方を見ている上、機関銃等を持っている気配はなかった。ゾディアックに掛けられたネットを外し、一艘を逆様に海に投げ込んだ。これで、船外機は水に浸かり、簡単にはエンジンが掛からなくなった筈だ。最悪、敵の手に落ちても、脱出の時間は充分に稼げる。
 次の脱出用のゾディアックのネットを外し始めた時、「そこで何をしている!」と、大きな声が聞こえた。このゾディアックを奪わない限り、脱出の見込みはない。船員が武器を持っていなかった事を思い出し、手を止める事無くネットを取り払った。
 この行動は、賭けだった。
 ユカリは、武器を持たない者にはいきなり発砲する事はほとんどないと、言っていた。それに賭けたのだ。彼等は、持っていてもピストルで、ネットを外す人間を見ただけで発砲する筈はなかった。
 軽く肩を掴まれた。
 タッカは立ち上がり、相手を見下ろした。一七〇センチくらいのスラブ系の白人だった。大した警戒心も持っていなかったが、東洋系のタッカの顔を見て、見る間に緊張を顔に現した。
 男を無視して作業に戻り、ゾディアックをできるだけ静かに投げ入れた。全開で突っ走る船から、ゾディアックはあっと言う間に遠ざかった。
「何をするんだ!」
 男は、ヒステリックな大声を上げた。全開の機関の騒音の中でも、この声が聞こえたのか、他の船員も舷側に張り付いたまま、こちらに振り返った。
 タッカは、立ち上がって握りこぶしに力を込めると、十五センチも背が低い相手を上から思い切り殴り降ろした。男は、呆気なく崩れ落ちた。それを見ていた他の船員は、何が起こったのか理解できずに呆然としていたが、少し遅れて状況を飲み込み始めた。
 騒ぎ始めた船員達の怒声を背中に聞きながら、海に飛び込んだ。

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 F四Lブロックの中央寄りに、上下を結ぶ階段があった。それを通して、直ぐ下のデッキでも、各部屋のチェックを行っているのか、時々、扉を開閉する音が聞こえてきた。
 階段を通して、こちらが見えないように注意して走り抜ける。
 一体、何人の男達が押し入ってきたのだろう。それに、さっきの自動小銃も気になる。全員が自動小銃で武装しているらしい。自称環境保護団体なのに。武器の準備が良すぎる。
 ユカリが目の前で立ち止まった。彼女の前には、水密ハッチが閉じていた。
「まずいわ。防水指揮所にいれば、水密ハッチの開閉は一目で分かるから、ここを開けられない」
「やつらは、誰かが動いたら直ぐに分かるようにしているのか?」
「そうね。あまり人数がいないのかもしれないわね」
 賛成はできなかった。
 Hデッキの二人の監視に、合流した二人。Fデッキで倒した一人と、気配があったもう一人。更に、Gデッキでも家捜しをしていた二人か三人。防水指揮所でハッチを監視している筈の一人。いや、もっと居るだろう。ハッチが開いた時に、その場に急行するための要因が二人は居る筈だ。合計すると、少なくとも九人。おそらく倍!
「どうする?」
「上に上がるしか、ないわね」
 上にも、奴等がうろついているだろう。ついさっきの事もあって、そんな中を通り抜けたくなかった。だが、ここはユカリに付いて行くしかないと、タッカも諦めた。
 階段まで戻り、上下の様子を探った。物音は、下のデッキからしか聞こえなかった。彼女は、するするっと上のデッキに上り、その先へ姿を消した。タッカも、それに続いた。
 E四のブロックは、E五と繋がる大きな食堂だった。左右も両舷側まで届いている。多目的に使えるようにパーティションで区分けできるようになっていたが、今はだだっ広い一つの部屋になっていた。
 こんな所で奴等に出くわしたら、逃げも隠れも出来ない。だから、彼女ももう姿を消している。タッカも、船尾を目指して広い食堂を駆け抜けた。
 食堂の先の整備場を通り抜けると、開放甲板に出た。目の前には、鉄腕の帰還を待つ船上減圧室が鎮座していた。
(こいつに鉄腕を連れ帰るために、俺はここに居るんだ)
 船上減圧室を見て、タッカはその思いを強くした。
 二人は、舷側に沿ってU字形に張り出しているDデッキの開放甲板の下を慎重に進んだ。そして、Dデッキ下のハッチから、再び船内に入った。
 ハッチの中は直ぐに下り階段になっていて、タンク室に繋がっていた。タンク室は、ヘリウム、水素、酸素の大きな高圧タンクが並び、複雑な配管が巡らされていた。驚かされたのは、タンク室内に充満する轟音と室内とは思えない強い風である。もし水素が漏れた時にも、タンク室内で爆発しないように大容量の換気装置が取り付けられているらしい。
 タンク室は、Fデッキの床を打ち抜いた二層分の高さがあり、Fデッキの高さには、申し訳程度の手摺が付いたキャットウォークが、タンクの隙間を縫うように繋がっていた。
 キャットウォークは、歩き辛かった。靴を脱いでいる足に、キャットウォークの網目が食い込んだ。網目には足の指も挟まりそうで、足元に注意しながら歩いた。靴を履く事も考えたが、盛大な足音が換気装置の轟音を貫いて響きそうで、やめた。
 彼女は、足が痛くないのかと、ふと目を上げると、彼女は、靴を手にしたまま涼しい顔で走り去って行った。慌てて走り出そうとした瞬間、下りてきたハッチが、再び開く音がした。神経が轟音の中に聞こえたその音に集中し、足元への気配りが不足した。
 あっと思った時には、遅かった。爪先が網目に食い込み、大きくバランスを崩した。もう倒れる事は避けられなかった。辛うじて手摺を掴んだ左手と床をついた右手で膝をつく前に体重を支え、最小限の音で転んだ。だが、首に掛けていた靴は、キャットウォークでワンバウンドしてGデッキまで落ちていった。背筋が凍り付いた。靴が床に落ちる音を聞かれたなら、万事休すだ。
 重力が弱くなったのではないかと思うほどゆっくりとGデッキの床に落ちて行く靴を、目で追った。靴紐でお互いに結ばれた靴は、縦に回転しながら落ちて行く。キャットウォークの網目から見える靴が、突然、その運動方向を変えた。床でバウンドしたのだ。今度は、横に回転しながら床を滑るように跳ね、やがて止まった。だが、音は最後まで聞こえなかった。
 換気装置の騒音が、靴が落ちた音を掻き消したのだ。
 靴を取りに行くべきか判断に迷ったが、靴を諦め、大急ぎで彼女の後を追った。靴を取りに行けば、後ろからやってくる奴に見つかる可能性が高いが、靴だけなら見付かる心配は少ない。それに、靴を見つけたところで、誰の物か分かる筈もない。
 無事にタンク室を抜けられた事で、タッカが下した判断に誤りが無かった事を確認した。
 タンク室の次は、大きな倉庫になっていた。ここも吹き抜けで、キャットウォークは壁面に張り付くように配置されていた。
 ユカリは、倉庫の反対側に見える最後のハッチに取り付いていた。タッカは、今し方、通り抜けたハッチをそっと閉め、彼女の所へ急いだ。倉庫には何も無く、タンク室側のハッチを開けば、反対側まで遮る物は何も無いのだ。タンク室に下りてきた奴が、倉庫までくれば隠れるところも無く、最悪は蜂の巣にされてしまう。
 彼女が開けた最後のハッチを走り抜けると、大慌てで閉めた。
「これで、防水指揮所でも、ここに誰かが来た事が分かったでしょう。急ぎましょ。誰かがここに来る前に脱出するのよ」
「心配するな。直ぐ後ろまで来てたさ」
 タッカは、タンク室に降りてきた奴が居る事を伝えた。
 彼女は、にっこり笑うと、太いロープが山積みされた部屋の先にあるハッチを開いて、外に出た。
「S-2Rは左舷側だったわね。何処にあるの」
 彼女は、左舷の舷側から身を乗り出しながら、タッカに言った。
 左舷の薄暗くなり始めた海上を、タッカもS-2Rを捜した。最後にS-2Rを離れた時、その距離は二百メートル以内だった。ただ、風に押されて、もう少し離れているだろう。そう思っていたタッカも、我が目を疑った。同時に、視力の良い彼女が、「何処にあるの」と言った意味を理解した。
 S-4Rは、少なくとも三千メートル以上も離れていた。
「シーアンカーを上げてたでしょう」
 彼女の指摘通りだった。支援船に近付く際に、シーアンカーは巻き上げてあった。そのまま拉致されたから、シーアンカー無しにS-2Rは漂流していた事になる。
 彼女は、付近の海域をさっと眺めた。
 目に見えたのは、右舷三百メートル付近に停泊する環境保護団体の監視船だけだった。乗り込んできた連中が、ここに来る前に乗っていた船だ。
「あっちへ行きましょ」
 彼女は、事も無げにそう言った。
 言い終わった時には、彼女は海に向かって身を躍らせていた。タンク室に入ってきた奴がここに現れそうで、タッカも後れを取るまいと海に入った。
 飛び込んだタッカは、いきなり何か強い流れに捕まった。最初は、支援船を回り込む風潮かと思い、深く潜って船から離れようとしたが、益々強い流れに捕まり、支援船に引き寄せられて行った。この時になって、初めてスクリューに引き寄せられている事に気付いた。
 支援船は、風や潮を受けても海底基地との位置関係を保つように、常にスクリューとスラスターを動かしている。船尾は、モーター内臓の二基のリングスクリューを三百六十度向きを変えながら、船の位置を制御している。そのリングスクリューが、大きな口を開いて待ち構えていた。
 真っ直ぐ逃げても、到底逃げ切れるものではない。真横、それも、風下の左舷に必死に泳いだ。だが、吸い寄せる力が強く、直ぐにリングのエッジに足が当たった。タッカは、体勢を変え、リングの外側のしがみつき、吸い込まれそうになる下半身を必死に支えた。
 リングスクリューは、本来なら左舷斜め前方を向いている筈だった。海に入る前の波の向きは、その方角だった。恐らく、一時的な潮の流れを感知して、ほとんど逆方向に回ってしまったのだろう。だから、ほんの少しの時間を頑張れば、吸い込もうとしているスクリューが次は押し出してくれる筈だった。
 だが、肺にはあまり空気が入っていなかった。飛び込んだら直ぐに浮上するつもりだったから、目いっぱいに空気を吸っていなかった。
 目の前が暗くなり始めた。酸欠の症状だった。飛び込んでから一分も経っていなかった。
(俺の実力なら二分は持ち堪えられる筈なのに、早くも酸欠になり、息苦しさよりも先にブラックアウトが始まるとは)
 情けない気持ちになりながら、タッカは必死に耐えた。だが、命の危機に体が大量の酸素を消費してしまっていた。
 スクリューが反転するが早いか、肺がダウンするのが早いか、最後の勝負だと思った。それでも、スクリューはタッカを吸い続けた。悔しいが、力が尽きかけ、靴を脱いだ爪先をスクリューの羽根が掠めるのを感じた。
 指先の力が抜け、体がずれ始め、強い力で流され始めた。タッカは、覚悟を決め、下半身の何処にスクリューが食い込むのか、最後の瞬間を待ったが、なぜか、体の何処にも衝撃を感じなかった。
 直ぐには、何が起こったのか、理解できなかった。なぜか体は浮き上がり、水面に押し上げられた。潮の流れが変わり、スクリューが反転したのだ。
 タッカは、水面に顔を出し、思い切り呼吸をした。同時に、大慌てで船尾から離れた。

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 通気口の中は、予想以上に狭苦しかった。ぎりぎり肩幅と同じ幅しかなく、高さも頭を上げられない程だった。中を流れる緩い風が、海のにおいを運んでくる。その中で、後退り、通気口の網を元に戻してから、ユカリの残り香を追って這い進んでいった。
 しかし、音を立てないように気を使いながら通気口の中を這い進むのは、思いの外、難しかった。靴が壁面を叩く音がするので足は使えず、引き摺るしかない。腕で進む訳だが、高さに余裕が無いので肘を使って進む事が出来ない。結局、両手を前に伸ばし、右手で左の側面、左手で右の側面を押さえて、芋虫のように体を引き寄せて進んだ。だが、一回に進めるのは十五センチ程度で、その割には両方の肩が疲れた。
 彼女の姿は、とっくに見えなくなっていた。水密隔壁があるので、通気口もそんなに遠くまで続いている筈はない。そう信じて、休まずに進み続けた。
 彼女が先に網を外した所まで来て、もぞもぞしながら床に降り立った。ほんの数メートル進んだだけだが、腕が満足に上がらない程、疲れていた。
 彼女はドアの脇に張り付いていたが、タッカの姿を見て通気口の下まで戻ってきた。
「遅いわよ。見つかったらどうするの」
 肩を揉むタッカに、声を潜めながらも彼女は非難の言葉を浴びせてきた。同時に、甘美な香りが鼻を衝いた。
「隙を見て走り抜けようと思ってたけど、無理みたいね。監視役が二人居るわ。二人がそろって余所見するのを待っていたら、明日になっちゃうわ」
 やれやれ、また通気口に戻るのかと、タッカは思った。
 思った通り、彼女は吸い込まれるように通気口に消えた。タッカも、その後に続いて通気口に体を入れると、元の通りに直すために網を引き寄せた。
 タッカが網のネジの一本目を締め始めた時、がちゃりと音がして扉が開いた。急いで顔を伏せると同時に網に掛けていた左手を引いて、右手の指先だけでネジを摘んで網を支えた。
 監視役の男がこの部屋の様子を見に来た事は、明らかだった。男は、テーブルと椅子しかない部屋を見回していたが、しばらくして鼻をヒクヒクさせ始めた。
 あっ!
 タッカは、心の中で叫んだ。彼女の残り香に、男が気付いたのだ。
 男は、通気口の下まで来ると、銃口で網を突付いた。ガシャンという音と共に、衝撃が、右手の指先に響いた。危うく指が滑りそうになったが、必死に指先に力を込めて、ネジを摘み続ける。
 早く部屋を出て行ってくれ。
 指先が痺れてきた。腕も引き攣りそうで、震えがきていた。そっと左手を右手に乗せ、震えを押さえつけた。
「へへへ、ここか」と言うと、また銃口で網を突き上げた。
 心臓が止まった。男の位置からは姿は一切見えない筈だが、網の異変に気付いて、タッカかユカリの存在に気付いたのかもしれない。手を上げて投降するべきか、このまま隠れて男が乱射する銃弾で蜂の巣になるか、タッカは迷った。だが、男は「ここか」とは言ったが、出てこいとは言っていない。
 じっと我慢して様子を見ていると、男は直ぐに部屋を出て行った。男は、隣室の女性を閉じ込めている部屋から女性の匂いが通気口を通して漂ってきていると、勘違いしたらしい。
 男が部屋を出た隙に網を固定するネジを止めて、ユカリの後を追った。
 暫く進むと、垂直の配管部に突き当たった。
「遅い。下に降りてきなさい」
 T字を横にした形の通気口は、下に降りようにも、体勢を整えるのが難しかった。一旦、通気口の上に向かって体を引き寄せ、体を右に左に捩りながら、苦労して垂直の通気口に体を入れた。今度は、両手両足で壁を突っ張りながら、ゆっくりと下に滑り落りて行った。
 これで、Iデッキの天井裏に出た事になる。
 そこでL字型にダクトは曲がっていたが、五十センチ程先にある網が既に外されていて、そこに足を投げ出すようにして床に降り立った。
 その場所は、廊下の真ん中だった。
 廊下の影でユカリが手招きしていたが、通気口の網が開いたままでは直ぐに居場所を知られてしまうので、急いで網を元に戻した。
「本当に遅いわね。今度遅れたら、置いて行くからね」
 そんな憎まれ口さえ気にしていらない程、腕や指先が痛んでいた。
 現在位置は、I三Rだろう。このデッキには、リフレッシュ用にジムやサウナ等があったが、とてもリフレッシュする気持ちにはなれない。この真上には、自動小銃を持った監視が二人居る。だから、上のデッキに繋がる階段まで来た時に、ユカリはそっと上の様子を伺った。そして、安全を確かめると、左舷側に走り抜けた。タッカも、それに続いた。
 I三Lで階段の下まで来た時に、ふと背後のエレベータに目が行った。その表示板から、エレベータがEデッキからFデッキに下りてくるところだった。タッカは、ぎょっとなった。階段は狭くて急だが、エレベータの真正面を一直線に登っている。
 タッカは、エレベータの表示を凝視し、いつでもHデッキに駆け上がれるように構えた。そして、足音がしないように靴を脱ぎ、靴紐で両方を繋ぎ合わせて首にかけた。
 エレベータの表示は、ゆっくりと進む。Fデッキに止まったのではないかと思うほど、表示は変わらなかったが、やがて表示はGデッキになり、Hデッキに下りた。今度こそ、止まったかと思われた。
 階段の真下に居る二人から、Hデッキを望める。逆に言えば、上からも見下ろせる。Hデッキで誰かが降りたなら、どこか物陰に身を隠さなければならない。身を隠す場所をさっと目で探した。
 一瞬の隙を突くかのように、ユカリが猛然と奪取してHデッキに駆け上がった。その意味を頭より先に体が理解し、エレベータの表示には目もくれずにHデッキに駆け上がった。階段を半分くらい上がった所で、下からエレベータの到着を知らせるチャイムが聞こえた。後ろを確認したい気持ちを押さえ、二段飛ばしで必死で駆け上がっていく。
 こんな時の時間が経つのは遅く、Hデッキも遠かった。段数はわずか十二段しかないのに、最後の一歩が遠くて仕方が無い。Hデッキに片足が届くと同時に、体を横に投げ出して、下の連中の視界から姿を隠すようにした。そして、息を止め気配を消した。
 Iデッキには、二人が下りてきた事が、連中の駄弁りで分かった。
 這うようにその場を離れると、急いでGデッキに駆け上がった。
 ユカリは、Fデッキに上がった所で立ち止まった。
「さっき、ここで誰か降りたみたいだから、気を付けてね」
「連中、ここから乗ってきたんじゃないのか」
「用心に超した事はないわ」
 彼女は、角毎にその先の様子を探りながら、進んでいく。後ろを警戒しながら、彼女のケツを追った。我ながら情けない情景だと、タッカは思った。
 船員の居住区は、長い真っ直ぐな廊下に対して十字に交差する短い廊下があり、その廊下の左右に四室ずつ部屋が並んでいる。それを十字毎に安全を確認しながら、先へ進んでいく。
 F三LブロックからF四Lブロックに入った最初の十字路に身を潜めて、先の様子を伺っている時、次の十字路に人の気配を感じたらしく、彼女は少し体を下げた。ほとんど同時に、背後の船員居室の一つのドアノブが動いた。タッカは、彼女を抱えて別の部屋に飛び込んで隠れた。
「誰か残っていないか、全ての部屋を確認しているのね」
「ここは終わったのかな」
「隙を見て飛び出すわよ」
 彼女は、ほんの少しだけ扉を開け、外の様子を覗っていた。そして、風のように廊下に飛び出し、音も無く走り去った。余りの素早さに、タッカは一緒に飛び出すタイミングを失った。仕方なく、また扉を薄く開け、外の様子を探った。
 男は、タッカの居る部屋の方に近付いてきていた。彼女が出て行った時の気配を感じたのだろうか。それとも、タッカが開けた扉に気付いたのか。
 部屋の中に隠れるところを探した。しかし、畳二枚分程度の狭い居室には、目の高さにあるベッドと、その下の机と収納、そして狭い部屋には似合わない大きな書棚があるだけだった。最後に残った扉の陰に隠れた。運良く、奴が銃を先に見せたら、銃を奪い取ろうと、構えた。
 足音が聞こえてきた。扉の直ぐ前まで来ているのが、足音で分かった。息を殺して、奴が扉を開けるのを待った。心臓の鼓動が、奴に聞こえそうなくらいばくばくと打ち続けた。
 ところが、男は扉の前で立ち止まると、すっと扉を閉めてしまった。そして、大きな足音を立てて立ち去った。暫く様子を見たが、先に出た彼女が心配になり、タッカは中腰になって、そっと扉を開けた。その途端、扉は勢い良く全開になった。
 最初は何が起こったのか、さっぱりわからなかった。扉が勝手に開く筈はない。何事かと見上げると、男が目の前に銃を構えて立っていた。
 手を上げ、恐る恐る立ち上がった。これで、男が銃を降ろしてくれる事を期待したのだが、男は今にも引き金を引きそうな雰囲気のままだった。本気だろうかと訝りながら、タッカはゆっくりと後退った。
 不意に、やつは横を向いた。そして、慌てて銃をそちらに向けようとした。
 チャンスだった。
 銃身を両手で鷲掴みにして、銃口を斜め上に逸らしながら、思いっきり押した。銃尻は、男の右肩に食い込んだ。だが、それよりもずっと早く、ユカリの足刀が男の首を捕らえていた。男は、呆気なく崩れ落ちた。
「部屋に引き入れて、ベッドに寝かせて」
 彼女の指示通りに、男を部屋の中まで引き摺った。態勢を立て直すと、男を肩に担ぎ、二段ベッドの上段と同じくらいの高さのベッドに頭から押し込んだ。
「それを置いていくのか?」
 彼女は、男が持っていた銃を、態々に男の手に握らせていた。
「貴方はダイハードをしたいの? それとも鉄腕を助けたいの?」
 答えられなかった。
「銃を持って行っても、人を殺す事以外に使い道はないのよ。人殺しをしたいの?」
 護身用にと安易に考えていたタッカは、ショックを受けた。
 彼女が言う通り、相手を殺す事しか出来ない道具で護身するという事は、人殺しをして自分だけ助かろうとする事だと、思い知らされた。それ以上に、銃を持っているもの同士が出会えば、威嚇無しに撃ち合う事にもなる。それこそ護身のために。
「急ぎましょ」
 彼女は、男のポケットからトランシーバを抜き取ると、スイッチを切って机の上に丁寧に置いた。そして、さっきと同じ様に、風の如き素早さで部屋を出た。

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「船長! よく御無事で」
 紳士は、この事態にも動じる様子も無く、部屋に入ってきた。彼が部屋の中程まで進んだところで、会議室のドアは閉じられた。
 部屋に居た全員が、船長の周りに幾重もの輪を作った。
「全員、怪我はないか?」
 誰よりも早く、船長はその言葉を口にした。顔はタッカ達に向けられていたが、実際には、船長は部下に向かって言っていた。その毅然とした面持ちは、経験した事も無いこの局面に立ち向かおうとする気概と、部下を思い遣る優しさが滲み出ていた。
「全員、全くの無傷です」
 タッカは、他の三人と顔を見合わせ、微笑んだ。
「私達も、ユカリが抵抗しないように指示を出したので、誰も怪我をしないで済んだ。連中も、抵抗しないと紳士的に振る舞うんだ」
 紳士は言い過ぎだが、直ぐに暴力に訴えるような事はなく、身の危険はほとんど感じなかった。
「妙な連中だな」
 ぼそりと、船長はこぼした。
 タッカも、頷いた。
 環境保護団体P.A.E.だと名乗っているが、武装していること自体、環境保護団体らしくない。かといって、海賊にしては統率が取れている。訓練が行き届いている感じなのだ。その点では軍隊的だが、軍であれ、海賊であれ、この船を制圧する理由が見当たらない。
「連中は、いったい何が目的で、この船を押さえたんでしょうか?」
 何か気付いた事があるんじゃないかと、船長に疑問をぶつけてみた。
「それが、妙な事を言ってるんだよ。なんでも、この近くに船が沈んでいるので、サルベージしろと言うだ」
 意味が分からなかった。
「その何処が妙なんですか?」
 船長も、困惑した表情を浮かべた。
「連中は、その船を私達がサルベージしていたと、思っているようだ。海底基地で事故があってその救出作業中だと言ったが、納得しない」
 連中は、何かを勘違いしているのだろう。でも、いったい何を勘違いしているのだろう。それに、船とはどんな船の事なんだろう。
「その船については、何か言っていましたか?」
 船長は、小さく首を振った。
「何も。それに、この船ではサルベージできないと船の装備を説明したら、あっさり引き下がった。いや。むしろ、サルベージできない事に満足したようだった。そこが妙なんだ」
 サルベージしろと言っておいて、できないと知ると満足そうな表情を見せるとは、いったいどういう事なんだろう。
 さっぱり訳が分からない。
「ところで、下はどんな様子なんですか?」
 具体的な状況は、何も知らされていなかった。
「かなり厳しい状況だな。電源と酸素は大丈夫らしいが、水酸化リチウムのタンクが損傷しているのか、二酸化炭素濃度が上がり始めているらしい。ただ、それ以上の詳細な情報は、奴等が乗り込んできたので途絶してしまった」
 水酸化リチウムは、二酸化炭素を吸い取るために使う物質だ。それが被害を受けたのなら、酸素欠乏になる前に二酸化炭素中毒の危険性が高まるだろう。
「で、どうやって救助する予定ですか? 方法はありますか?」
 冷静さを維持する事に努めながら、船長に聞いた。
「なんとか緊急浮上してくれれば、前甲板のクレーンで釣り上げる事が出来るが、今もって緊急浮上してこないところをみると、緊急浮上システムにも障害が発生しているのだろう。こちらが切断したアンビリカルケーブルが海底基地に二次被害をもたらしてしまったのが、影響しているらしい。兎に角、下と連絡を取りたいのだが」
 船長の眉間の皺が、深くなった。
 彼が命じて切断したアンビリカルケーブルが二次被害をもたらした事を、彼は後悔しているのだろう。だが、クレーンの破壊されようを見ると、ケーブルを切った判断は間違っていなかったと思う。
「大型クレーンで、水中エレベータは下ろせないのですか?」
 素人考えだと思いながらも、聞いてみた。
「水中エレベータのアンビリカルケーブルの始末が出来ないので、無理だ。何せ、千メートル以上もあるからな」
「そうなると、海底基地に留まり、少しでも延命してもらうしかないですね」
 船長が、顔をしかめた。彼の手は、胃の辺りに行った。
「そのためには、なんとしてでも、この船の指揮権を取り戻さなければならない」
「でも、ユカリが抵抗するなと言った理由も、考えないと。彼等は、相当に訓練を積んでいます。安易に抵抗すれば、大きな人的被害が出ると思います。そうなったら、下の救出作戦どころではありません」
「わかっている。だから、何もできない。何もできない事が歯痒いんだ」
 船長は、自らの焦燥を吐露した。その気持ちが、タッカにも痛いほど分かった。
 この船を奪還する方法を考えなければならない。
 まずは、連中の人数と携行武器、配置を知る必要がある。出来る事なら、この部屋を抜け出して、状況を把握した上で、全員で一気に行動を起こしたい。統制の取れた相手には、しっかりした作戦と彼等以上の統制で対処する必要がある。
 タッカは、入り口の扉まで行き、耳を澄ませて外の様子を探ろうとした。直ぐに、扉の脇に監視が二人以上居る事を、彼等の会話から知った。
 扉は鍵が無いので、監視をぶちのめしてここを出る事は出来るだろう。だが、一度しか使えない手だ。一度使えば、後戻りはできない。船を奪還するまで、突き進むしかない。しかし、彼等の武装や配置を知らずに丸腰の人間が事を起こしても、飛んで火に煎る夏の虫となってしまう。
 確実に勝てる作戦を立て、全員でここを出る時まで、その手は使いたくない。
 タッカは、他の脱出場所を探す事にした。出入り口はそこしかないし、窓も無い。床にも、メンテナンスハッチは無い。空調ダクトは利用できないだろうかと、天井の通気口を見上げた。
 通気口を見る限り、狭くて入れるかどうか、難しいところだ。しかも、中は暗く、中が広いかどうか等、何もわからなかった。天井が低いのが幸いし、手が届く。網を外したら、脱出口として使えるかどうか、わかるだろう。
 そう思って、通気口に手を伸ばしかけた時、そこに「にぃっ」と笑う人の顔が出てきた。全身の毛穴が、きゅっと締まる感じがした。きっと、鳥肌が立っていただろう。体が凍り付き、視線を外す事さえ出来ずに通気口を凝視し続けた。
 すると、通気口の網が音も無く開き、ユカリの笑う顔が出てきた。
 ユカリは、クノイチのような軽い身のこなしで、天井の通気口から下りてきた。
「逃げてきたのかい」と、声を潜めて聞いた。
「これから逃げるのよ。鉄腕達を助けるには、このままじゃどうしようもないでしょう。取り敢えず、S-2Rまで行って、下と連絡を取ってみましょう。S-2Rは、大丈夫なんでしょう?」
 機体から降ろされた時、連中も一緒に離れた。誰も機体には残らなかったし、爆破する様子もなかった。
「大丈夫だと思うよ。でも、どうやって?」
「あれを使うのよ」と、ユカリは通気口を指差した。
「ユカリは細いから大丈夫だろうが、俺には苦しそうだな」
 体型は細い方だが、百八十五センチの身長があるから、肩幅は狭くない。
「大丈夫よ。隣の部屋まで行ければいいだけから。ただ、私と一緒に行くのは、貴方だけよ。一人くらい居なくなっても気付かれないけど、二人、三人になったら危ないわ」
「ちょっと待ちなさい」と、船長が割って入った。
「ここより二つ上のデッキに、舷門がある。そこから海に飛び込めば、S-2R泳いで行けるだろう」
「舷門を開けっ放しにしたら、誰かが逃げた事がバレてしまうわ。後部甲板の下から海に入りたいから、見つからずに行く方法は無いかしら」
「かなり遠いが、いいのか?」と言いながら、船長は指で床に絵を書き始めた。
「この船は、船橋のBデッキから船底のIデッキまである。船首から船尾までは、水密横隔壁で一ブロックから九ブロックに分かれている。更に、三ブロックから八ブロックまでは、水密縦隔壁で左右に分かれている。船橋は、三ブロックのBデッキだ。今いる所は、ここ。H三R、つまり船底の一つ上、船橋の真下で右舷側だ。
 ユカリの言う場所はF九だから、二デッキ上の六ブロック後ろ。かなり離れているぞ。水密隔壁はFデッキまで届いているが、Fデッキは水密ハッチで通り抜けられる。一般商船じゃないから、機関室のハッチも施錠していない。水密縦隔壁を通り抜けるハッチは、Iデッキにある」
 彼女は、頷いた。
「じゃあ、Fデッキまで上がって、機関室を抜けていけばいいのですね」
 船長は、指先を左右に振って、彼女が思っているほど簡単ではない事を示した。
「F三からF四は、船員の居室になっている。F五は食品庫、F六は機関室の最上部だ。F七は高圧タンク室で、水素と酸素の高圧タンクが並んでいる。F八は、倉庫と資料保管庫になっている。機関室まで行くにもかなりあるし、一直線の廊下だから見通しが良すぎる」
 かなりの距離だ。この間を見付からずに通り抜けるのは、簡単ではなさそうだ。
「機関室から、シャフトトンネルを通って、F9へ行けませんか?」
「本船はディーゼルエレクトリック船で、ダクトスクリュー内にモーターが組み込まれているから、機関室からスクリューまでのシャフトトンネルは無い。残念だが、抜け道は無いよ。表通りを行くしかない」
 彼女は、沈黙した。
「Fデッキを駆け抜けるしかないわね」と言うと、すくっと立ち上がった。
「さあ、行きましょう」
 タッカが肯くのを確認すると、ユカリは通気口に飛び付き、ぶら下がった。軽く体を前後に揺すると、蹴上がりの要領であっさりと通気口に姿を消した。タッカは、長身を利して直接通気口に手を掛け、ジャンプして潜り込んだ。

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 奴等は、ライトで合図を送り二隻目のゾディアックを呼び寄せると、タッカ達四人を分乗させて支援船に連れ込んだ。その間も、一言も口を利かず、無線も使わなかった。まるで、機械のように正確で、つけいる隙はなかった。
 自動小銃で背中を小突かれながら、支援船内の階段を降りた。用心深い奴等は、四人にそれぞれ一人ずつが付き、十分に離れて移動した。タッカはしんがりで、仮に何かを仕出かせば、前からも後ろからも蜂の巣にされそうだった。
 他の三人が通り過ぎた階段を、どうされるのか考えながらゆっくりと降りていった。床に「H」と掛かれた所で、横の廊下に出た。そこで、やはり自動小銃を背中に突き付けられてエレベータを降りててきたユカリと会った。
 彼女は何か考えているなと、直感した。自動小銃を突き付けられているとは言え、武道の達人の彼女なら、自動小銃くらい簡単に奪い取れるだろう。それでも逆らわずにいるのは、何かを狙って自らの爪を隠しているのだ。だが、タッカには彼女の考えが読めなかった。
 俺がS-2Rに残っている事を前提にして彼女が何かを考えているなら、現状を伝えておく必要があると、タッカは感じた。
「おい、あっちはエレベータで俺は階段かよ」
 タッカは、後ろで銃を突き付けてる男に言った。男は、返事の代りに銃口で背中を小突いた。
 銃口を突き付けられている割には、恐怖感は薄かった。
 奴等は、訓練を積んでいる。自制心も強い。こちらが逃亡か反撃を試みない限り、絶対に撃たない。そう確信ができるような鍛えられ方なのだ。
 だから、こんな軽口が叩ける。
 男が動揺しない事が確認できたので、今度はずっと大きな声で言った。
「わかったよ。俺にエレベータは勿体無いよな」
 タッカの声で、彼女が後ろを振り返った。そして、驚いた表情で言った。
「タッカ!」
 振り返った彼女は、小銃を持った男に静止されるのを無視し、タッカの方に歩いてきた。男は、やむを得ず彼女の背後に回り込んで、銃口だけは向け続けた。
「あなた、何でここに居るのよ。信じらんない!」
 彼女の声が非難めいている。
「こいつらに招待されたんだよ。御丁寧に、銃まで突き付けられてな」と答えた。
「そう言うユカリこそ、何でそこに居るんだよ」
「か弱い女性に何をしろって言うの」と膨れっ面を作った。
 先程の行動といい、今の表情といい、とても銃口を突き付けられた女性とは思えない。
「何が、か弱いだぁ」
 彼女は、返事の代りにアカンベェをした。
 日本語で話していたので、二人で無駄口をたたいていると思ったのだろう。背中を銃口で強く小突かれた。これが、男の我慢の限度らしい。タッカも、素直に従う事にした。男は、タッカを彼女とは違う部屋へ押し込んだ。
 部屋は、本来は会議室らしい。広さは十メートル×八メートルくらいだが、天井は高くなく、圧迫感を感じた。どこにも窓はなく、机や椅子は片隅に寄せてあった。そこに、支援船の全男性スタッフが押し込まれていた。七十人近い男達の人息れで、空調が効いていないのかと思うほど蒸し暑くなっていた。
 その中で、男達は憔悴した顔で膝を抱えて床に座っていた。
 女性スタッフは、向かい側の小会議室に集められているらしい。ユカリが入っていく時に、中の様子がちらっと見えた。
 その様子も、直ぐに断ち切られた。
 タッカを部屋の中に突き飛ばすと、男は大きな声を出した。
「一人で英雄ぶろうなんか、思うんじゃねぇぞ。一人の英雄のせいで、死体がごろごろ転がる事になんぞ。さっきも言ったが、下手な真似をしたら、誰彼構わずぶっ放すからな。妙な真似をしたやつだけを撃つような器用な事は、俺様は得意じゃないんでね」
 そう言うと、気味の悪い笑いを口元に浮かべた。
 だが、彼の言動とは違い、出鱈目に撃つ事はないだろう。正確に、狙った奴だけを確実に死に追いやるだろう。その証拠に、その男の言い方は、三文役者の台詞のようにわざとらしかった。
「大人しくしてな」
 奴は、鼻先で扉を勢い良く閉めた。これが締めの演技らしい。
 タッカがみんなの方を振り返ると、一人の士官が立ち上がった。
「船長は、一緒ではなかったのですか?」
 制服の袖口の線の数で、一等航海士だと分かった。
「いや、ユカリとはそこで会ったが、他に見かけなかった」
 他の三人も、同様に肯いた。
「船長は、ユカリと一緒に船橋に残ったのです。ユカリが降りてきたなら、船長も降りてきても良い筈です」
 航海士は、落着かない様子だった。何をどうすれば良いのか自分では決断できず、船長の助言を求めているのだ。
 突然、最後の判断を委ねていた船長が居なくなり、過去に経験の無い事態に晒されて、そのプレッシャーに潰されそうになっていた。どうリーダーシップを取ればよいのか、彼は分からずにいるようだった。
 気持ちは理解できる。責任が重くなればなるほど、決断する勇気が必要になる。人命に直結する状況では、最大限の勇気が無ければ決断する事はできない。
 勇気を奮い立たせる最も簡単な方法は、今の状況が船長にも経験の無い事態である事を、自分に言い聞かせる事だ。船長だって決断する事が苦しい事なのだと、理解すればいいのだ。
 彼がリーダーに成長するための貴重なチャンスなのだが、それを活かす前にチャンスは逃げていった。
 会議室のドアが開き、袖に四本線を付けた紳士が入ってきた。

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 水素潜水試験の現場は、サンディエゴから二時間足らずの場所にあった。
 真っ青に広がる太平洋に、白い船体が見えてきた。
 タッカは、エンジンを絞りながら高度を下げていった。支援船ダーウィンは、視界の中で徐々に大きくなっていく。
「ディセント・チェックリスト・コンプリート」と、ユカリが言う。
 降下は終了。ここからは着水態勢だ。
 アプローチ・チェックリストを要求した。ユカリが次々にこなしていく。タッカは、彼女の手順を一つ一つ確認した。
 BLCをオンにすると、操縦輪を軽く引き、ごく一部の機種でしかできないバックサイド領域に入れた。急激に抗力が増えて一瞬速度が落ちるが、推力自動制御装置が遅れて推力を調整する。
 この遅れが、機長達には不評なのだろう。
 タッカは、支援船の船尾付近を目指した。どうしても事故の状況を見ておきたかった。
 エンジン音に驚いて飛び立つ海鳥に注意しながら、支援船の上空をローパスした。
 最初に目に飛び込んできたのは、船尾の甲板上にある大きく曲がったクレーンだった。クレーンのアームは、箱型に溶接された部分がぱっくりと口を開けていた。
 アームの付け根は、ジョイント部分が引き千切られた様になっている。台座部分の甲板も、引っ張られて膨らんでいる。恐ろしく強い力が掛かったようだ。船自体にも、損傷が出ているのかもしれない。
 このクレーンは、アンビリカルケーブルを釣るためのものなのだろう。事故は、支援船と海底基地を結ぶアンビリカルケーブルで起こったのだ。これでは、アンビリカルケーブルを直す事は不可能だろう。
 ひん曲がったクレーンは、水中エレベータをつり下げた別のクレーンにもたれ掛かっていた。水中エレベータも、降ろせない可能性が高い。
「想像以上ね」
 彼女の暗い声が聞こえた。
 事故の激しさを目の当たりにしたタッカは、彼女の言葉に答える事ができなかった。
 海底基地は、完全に支援船からの支援を絶たれたのだ。電力も、空気も、連絡も。
 海底基地は、電力と空気を海上から供給されるが、緊急時に備え、自力でも一ヶ月の生存ができるだけの電力と空気、二酸化炭素除去物質を貯えている。だが、海上であれだけの被害を受けているのだから、海底の基地でも無事で済んだ筈はない。
 鉄腕の顔が、心に浮かんだ。
 小学校から大学まで、ずっと同じ学校に通った仲だ。親以上に、お互いの事を理解しあう親友だ。そして、勉強から恋まで総てにおいてライバルだった。
 鉄腕が、青く光る海面から千メートル下に閉じ込められている。この深さでは、救出は愚か、遺体の収容でさえ困難を極めるだろう。
 正に、世界最悪の牢獄と言える。
「さあ、そろそろ降りましょう」
 彼女の言葉に促され、タッカは着水予定水面に目をやった。
 そこは僅かなうねりしかなく、波高計測の結果も平均波高で三フィート強でしかなかった。多くの飛行艇では着水限界に近いのだが、世界最高の着水性能を誇るS-2Rには、細波に等しかった。
 S-2の着水性能と比肩し得る唯一の飛行艇は、US-2だ。ところが、US-2は、四基のプロペラが総て同じ向きに回転しているため、エンジンナセルの左側面に揚力を発生し、左傾左旋の悪癖を引き起こす。この悪癖は、限界性能に大きな影響を及ぼしている。主翼の限界が来る前に、左傾左旋による垂直尾翼の失速が先に起こるのだ。S-2は、ジェット化されたため、この悪癖から開放された。
 現行の総ての飛行艇の中で、離着水性能も、航続距離も、最高速度も、上昇限度も、最大離陸重量も、S-2は世界最高の性能を誇る。
 だからこそ、慎重に機体を降ろした。
「流石、No1のファーストオフィサーね」
 機体が停止すると同時に、彼女はそう言った。
 何が、No1の副操縦士だ。
 所詮、俺は副操縦士でしかないと、タッカは面白くなかった。
 機体を支援船の左舷、風下側に寄せると、ゾディアックを出して、彼女とドクターがレスキュースイマーの操船で支援船に向かった。状況の確認と打ち合わせのためである。機は、二人のレスキュースイマーと観測員とタッカの四人となった。彼女達が帰ってくるまで、機を支援船の風下に維持するだけだった。
 タッカは、シーアンカーを降ろした。
 支援船から一海里も離れた所で待機するので、エンジンは四基とも停止し、APUを兼ねる第五エンジンだけ運転を継続する。そして、艇体から小型のウォータージェット推進器を下ろす。必要な時は、これで移動する事ができる。
 タッカがすべき事は、周囲の船舶に注意し衝突を回避するだけで、ぼうっとしていれば良かった。幸い、近くに船影はない。支援船の向こう側はレーダーに映らないが、見えてから行動を起こしても十分に間に合うだろう。
 艇体は、ピッチングもローリングも殆どしていない。
 この真下で、六人の男達が生命の危機に瀕しているとは思えない穏やかな海だった。
 タッカの視線は、吸い寄せられるように後部甲板のクレーンにいった。
 上空から見た情景を思い出すと、支援船の水中エレベータは降ろせそうに無かった。支援船の水中エレベータが駄目なら、下は望みが薄い。水深千メートルまで届く水中エレベータは、支援船ダーウィン以外にはアクアシティで整備中の同型船クストーにしかない。出港できる状態にあるとしても、パナマを通過してここまで来るには相当な日数が掛かるだろう。
 タッカは、アクティブソナーを打ちたくなった。そうしたところで、下の様子が分かるわけでも、救助の手助けになる訳でもない。理屈で分かっていても、無性にソナーを打ちたくなった。
散々に逡巡した後、救助を混乱させる事になるだけだと、思い止まった。
 太陽が太平洋の向こうに沈み、見事な夕焼けが西の空と海面を赤く染めた。赤い空は、やがて紫色に変わり、海も深い藍色になっていった。艇体を叩く波の音が、APUの騒音に混じって微かに聞こえてくる。
 太平洋は、夜の闇に包み込まれようとしていた。
「タッカ? 居る?」
 ユカリが日本語で呼び掛けてきたのは、夕焼けも終わり間近になった頃だった。
「こちらタッカ。どうぞ」と、軽く返した。
 気付くと、タッカの後ろに他の三人が集まってきていた。
「やっぱり相当に厳しそうね。上から見て気付いたでしょう。船尾のクレーンは全滅よ。アンビリカル・ケーブルが急に引っ張られて、クレーンを引き倒したそうよ。その力は、支援船が危なくなったほどらしいわ。でも、原因は潜水艦が引っかけたのか、下の基地自体が動いたのか、下と連絡が取れないから分からないんだって。
 ダーウィン内でも五人が負傷しているけど、一人を除いて軽傷よ。重傷の一人は、私達が搬送すべきかどうか、微妙なところね。ここの医療設備を使って回復を待つ方が、今のところは得策のようよ。
 あっ、ちょっと待って」
 ユカリは、無線の送信ボタンを押したまま、何やら話していた。そして、嬉しそうな声が返ってきた。
「下から、モールス信号を打ってきたそうよ。取り敢えず、六人全員無事よ」
 無線を聞いていた後ろの三人が、奇声を上げた。
「怪我人は二人だって。怪我をしたのは、リーダーのナンスとアロイらしいわ」
 鉄腕は、怪我もしないで済んだらしい。ナンスとアロイには申し訳ないが、ホッとする。
 ユカリは、今度は無線の送信ボタンを切って、何やら話しているようだった。間も無く送信を再開した。
「原因は、下でも分からないそうよ。急に、アンビリカル・ケーブルが引っ張られて、ケーブルスタンドごと引き摺られて、かなりの被害が出てるそうよ」
 後ろの三人が騒がしくなった。原因について、ああでもない、こうでもないと、話しているようだ。彼等も、下の様子が気になっているのだ。
「おまけに、支援船が危険を感じてケーブルを切断したけど、緊急脱出装置がそのケーブルの直撃を受けて、被害が出てるらしいの。もうちょっと待って」
 また、無線の送信ボタンを離したようだ。だが、直ぐに彼女は送信ボタンを押した。
「貴方は誰なの?」
 タッカだよと答えようと思ったが、ただならぬ雰囲気を感じて、沈黙を保った。
 無線の向こうから、きゅっきゅっと軽快な靴音が聞こえてきた。何かが起こっているらしい。タッカは、後ろの三人に静かにするように手で合図を送り、無線に耳を澄ませた。
 靴音は、五、六人分はいただろう。だが、総ての靴音がほとんど同時に止まった。
「この船を占拠した。大人しく、無線を貰おう」という荒々しい男の声が聞こえてきた。同時に無線は切れた。
 暫く無線を開いたまま様子を伺っていたが、それっきり何も聞こえなくなった。後ろの三人も、身動ぎもせず、ヘッドセットからの音に耳を澄ませている。
 このままでは埒が明かない。
 念のため、航空管制所を呼び出し、ダーウィンが何者かに占拠された疑いがある事は連絡した。航空管制所は、救難信号は受信していないが、占拠された事が確認できれば、連絡を寄越すように言った。確認が取れれば、最寄りのコーストガードに通報する事を約束してくれた。
 どんな目的を持っているのか分からないが、何者かが支援船を乗っ取ったらしい。だが、不思議とユカリの事は心配しなかった。彼女を捕まえようと思った連中は、相当苦労するだろう。彼女の武道の腕は、半端じゃない。非力な女性だが、技が恐ろしく切れるのだ。
(俺なら、機関銃を持っていても彼女とは戦わない)
 タッカならそうする。それほどの腕前なのだ。
 タッカは、ウォータジェット推進器を始動した。シーアンカーを引き上げ、機体を支援船の風下三百メートルまで近付けた。ここで様子を見る事にした。この位置なら、重火器でも無い限り、弾は届かないだろう。念のため、機体を支援船に真っ直ぐに向けた。こうする事で、支援船から見えるS-2の大きさを最小にできる。
 発砲もあるかと緊張して監視していたが、支援船は静かだった。
 ユカリは、船橋に居た筈だ。逃げるなら、そこから海に飛び込むだろう。
 誰かが海に飛び込んだら、直ぐにでも救出しよう。
 夕焼けの残光で紫色に浮かんだ支援船の船首から船尾まで目をこらしたが、甲板にも船橋にも人影は無かった。
 いくつかの舷窓からは灯りが漏れてきていた。船橋も、灯りが点いている。
 乗っ取り犯は、風上側から近付いたのだろう。だから、こちら側からは全く見えなかったのだ。同時に、奴等はこちらに気付かなかった。この運の良さを何とか利用しないといけないのだが、現時点では脱出する人を助けよう。それに、彼女なら乗っ取り犯を逆に押さえる可能性も高い。
 もう少し待とうと、タッカは考えた。
「おい、ゾディアックが戻ってくるぞ」と、バブル状に膨らんだ観測窓から監視を続けていた観測員が叫んだ。
 船尾を迂回し、ゾディアックがこちらに向かってくる。
 彼女なら、乗っ取り犯を一人で制圧する事も可能だ。無事、乗っ取り犯を取り押さえたが、無線を壊されていてゾディアックを寄越したのだろうと、タッカは解釈した。
「よし、収容準備だ」
 後ろの三人が、左側面の救難収容扉を全開にした。生温く湿った海風が、大きな開口部からコクピットにまで流れてくる。艇体を叩く波の音に混じって、ゾディアックの船外機の騒音が聞こえてきた。
 コクピットの窓から見ると、船外機を操るレスキュースイマーしか乗っておらず、ほとんどが大きな黒いシートで覆われていた。
 ゾディアックは、左舷側に大きく回り込むと、真っ直ぐに接近してきた。ゾディアックがすぐ脇まで近付いた時、初めてレスキュースイマーの顔が確認できた。だが、顔は蒼ざめていた。そして、何かを表情で伝えようとしていた。
 数秒後、ゾディアックの舳先が機体にコツンと当たった。その瞬間、シートが捲れ上がり、五人の男が機関銃をもって飛び出してきた。
「フリーズ!!」
 機関銃を突き付けられ、全員、言葉通りに凍り付いてしまった。
 タッカは、後の三人に叫んだ。
「逆らうな! 今は言う通りにするんだ!」
 タッカに言われ、ピストルを抜こうとしていたレスキュースイマーは、そっと手を離した。彼は命拾いした。敵は、既に彼に自動小銃を向けていたのだから。
 奴等は、乗り込んでくると、まるで何度も練習していたかのように行動した。
 最初に三人が乗り込むと、一人がタッカ達四人に銃を向け、もう一人が入り口で睨みを利かしながら、残る一人の援護ができる体制を整えた。ゾディアックに残った二人は、一人は舵を握るレスキュースイマーに、もう一人は入り口付近に銃を向けた。
 中に入った三人目は、まずコクピットを、続いて、船上減圧室と、その後ろの水中エレベータまで、素早く家捜しを終えた。最後には、床にあったハッチから床下通路の存在にも気付き、そこも誰かが潜んでいないか、手早く捜索をした。
 一通りの家捜しが終わると、順番に武装解除をしていった。それも、一人ずつ引き離した上で一人が至近距離から後頭部を狙って銃を構え、丸腰の男がボディチェックをするのだ。
 丸腰なのは、ボディチェックの相手に武器を奪われないための用心なのだろう。それに、後ろから狙われていたのでは、反撃のチャンスも捜せない。後頭部に狙いを付けているのは、中腰でボディチェックをしている仲間を楯にされる事無く、確実に打ち殺せるようにするためなのだろう。
「軍隊みたいだ」
 誰かがぼそっと漏らした言葉に、タッカも無言で賛意を示した。

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