伊牟ちゃんの筆箱

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 空気が漏れる音は止まっていたが、ハッチとフランジの接触部に補修剤を塗っていく。それが済むと、倉庫へと急いだ。樹脂製ボードを全てと補修剤を手に、ハッチに戻った。
 ハッチは、ブリッジ側からの圧力に耐えるように、ブリッジ側に膨らませてあるので、ハッチのハンドルは、床面より引っ込んでいる。
 ハッチを覆うように、フランジからフランジへと樹脂製ボードを差し渡す。
「手伝うわ」
 すぐ脇まで来ていた麗子が言ったが、「うるさい!」と怒鳴った。
 3枚でハッチを覆うと、ボードの周囲を補修剤で埋めていった。更に、3枚のボードの境を塞ぐように、2枚の樹脂製ボードを乗せ、同じように周囲を補修剤で埋めていった。
 また倉庫まで行き、レスキューボールを持ってサロンに戻った。
「何しているの?」
 佐々は、麗子を押し退けて、サロンに入った。
 レスキューボールは、シャトルの気密に問題が生じた場合の一時避難用の気密袋だ。これに、未来の遺体を納め、サロンの隅にマジックテープで固定した。
 レスキューボールを使う理由は、減圧だ。代謝が止まった遺体を減圧すれば、内圧で損傷する。酸素が無い方が腐敗も進まない。
 佐々は、レスキューボールに窒素ガスを充填した。膨らんだところで、循環装置を停止した。
 宇宙で未来と組むのは初めてだが、地上では訓練だけでなく、地上バックアップの際にもチームを組んだことがある。宇宙に賭ける想いを語り合ったこともある。
 それが、初めて宇宙に出て4時間も経たない内にこんな事になろうとは、本人も考えもしなかっただろう。
 まだ、やるべきことがある。
 ガンガン響く頭痛に堪え、倉庫の脇にあるエアロックのハッチを開いた。
「私を置いていくのね」
 佐々は振り返り、溜め息をついた。
「俺がどこに行けるのか、教えてもらおう」
「外に出るんでしょう?」
「外に出るなら、ハッチの気密なんか気にしないさ。時間の無駄だ」
 納得したのか、麗子は何も言わなくなった。
「まあいい。何も触らないと約束するなら、付いてきな」
 佐々は、エアロックの中に入り、麗子が来るのを待った。彼女は来なかったが、わざわざに呼び入れる気はなかった。
 エアロックの中にある端末を起動した。端末は、すぐに立ち上がった。直ちに、ブリッジから切り離した制御権をエアロックの端末に引っ張った。
 制御権を獲得して最初に見たのは、新しい軌道要素だった。正直な感想が、口から漏れた。
「運が良いのか、悪いのか」
「どういう意味?」
 麗子の声で、びくっとなった。エアロックの外から、微妙な距離をとりながら佐々を見ていた。その顔を見た時、仕返しをしたくなった。
「当初の予定から変更になりましたところを、御連絡致します」
 わざと営業スマイルを作った。
「月へは、予定通り三日後の到着ですが、通過の際の高度は、予定より低い17kmをフライバイ致します。間近に月をお楽しみください。なお、地球到着は、2時間半早くなります」
「地球に戻れるってことね。良かった」
「ちょっと違うな」
 非常灯の下で、彼女は、怪訝な表情を浮かべた。
「地球に戻ると言っても、15000km以上も離れたところを通過する。まあ、仮に大気圏に入れても、この損傷だと、燃え尽きるか、バラバラに空中分解するかの、どちらかだ」
 言い終わると麗子を相手にせず、エアロックの端末に視線を戻した。
 電源が問題だった。主要な電源は、機械船の太陽電池だ。機械船を失ったので、佐々は、非常用の太陽電池パネルを開いた。
 太陽電池パネルがバッテリーを充電し始めたのを確認できたところで、食品庫の電源を復電した。でも、節電を考え、暖房は入れず、照明も非常灯のままにした。
 各計測場所の気圧を見た。ブリッジの気圧は、0.79気圧まで下がっていたが、サロンやエアロックの気圧は0.95気圧ある。
 このままでは、ハッチがもたない。客室の破孔が一気に裂けたら、ハッチも一緒に吹き飛ぶだろう。
「何か問題があるの?」
「ああ、問題だらけだ」
「火急の問題がありそうに見えるけど」
 無視するつもりだったが、薄明かりの中で辛そうな表情を浮かべる麗子を見て、気が変わった。
「ここの気圧を下げる必要がある。だが、減圧の機能がない」
「私の部屋みたいに、穴を開ければいいじゃない」
 溜め息が出た。
「あそこは、元々が耐圧壁じゃなかったから、穴が簡単に開いた」
「エアロックは? 中の空気を抜くことができるんでしょ?」
 膝を打った。
「いけるかも」
 エアロックは、緊急減圧時に内部の空気を外部に捨てる。注気では、酸素タンクから注入するが、配管図を見ると、酸素タンクからは、エアロックと室内空調機の両方に繋がっている。室内から酸素タンクの手前まで逆送し、エアロックに送ることができそうだ。
 佐々は、エアロックを出た。
 エアロックの外側にある操作パネルから、エアロックの空気を排気した。続いて、空調機側のバルブを開いた。そして、強制制御でエアロックの注気バルブを開こうとしたが、インターロックで強制制御も拒否された。
 一気に空気を抜こうと考えていたが、できなかった。仕方がないので、排気バルブを閉じ、エアロックの注気バルブを開いた。エアロック内の気圧が上がっていく。室内の気圧が下がっている証拠に、耳の奥が圧される感じがする。
 エアロックの内容積は、サロン等の容積の15分の1だ。20回くらい排気すれば、0.3気圧まで下がり、ブリッジ側が真空になっても持ち堪えるだろう。
 エアロックの気圧が室内と同じになった。室内の気圧も、0.91気圧に下がったが、ブリッジの気圧も0.76気圧まで下がっていた。
 佐々は、同じ手順を始めた。これを繰り返していくしかない。
 エアロックの圧力の下がり方の遅さが、苛つかせる。
 12分後、2回目が終わり、気圧は0.86になった。3回、4回と繰り返し、10目が終わった時、船首からドンと鈍い振動が伝わってきた。
 シャトルの姿勢が急激に変わる。
 エアロックは重心に近いので、回転の影響は小さいが、麗子は慌てて壁を突っ張ったし、船首側に引っ張られる加速を感じた。
 気圧を見ると、客室はほとんど真空になっていた。例の壁が、破断したのだ。サロンの気圧は、0.52だった。
 シャトルの姿勢は少しずつ安定してきた。自動姿勢制御装置が働いているのだ。
 見に行きたい気持ちを抑え、エアロックの排気を始めた。
「なぜ、ハッチを確認しないの? 壊れてるかもしれないんでしょ?」
「風を感じないから、ハッチに大きな被害はない」
「そんなの見ないと分からないでしょ。あなたが行かないなら、私が行きます!」
 止める暇も与えず、麗子は補修剤を手にサロンへと向かった。
 多少の空気の漏れは、むしろありがたい。優先すべきは、減圧作業だ。
 佐々は、麗子を無視した。
 1時間余りかかったが、室内は0.35気圧まで下がった。減圧で、気温も氷点下まで下がっている。息が白く曇る。
 佐々は、ハッチの状態を見るため、サロンに入った。麗子は、佐々の顔を見るなり、「寒いわ。何とかならないのかしら」と、両肩を抱いていた。
「節電で暖房を切ってある」
 ハッチに近付く佐々に、彼女は言葉を浴びせた。
「エアロックで遊ぶくらいなら、暖かくする方が先じゃないの」
「部屋を暖かくして、本人が冷たくなりたければな。俺は、優先度が高い方から処理しているだけだ」
 ハッチは、補修剤でベトベトになっていた。気密に関係ないところにも、まんべんなく塗り付けてあった。
「うるさいくらいに、漏れてたわ。ちゃんと塞いでおいたから」
 やり方は下手だが、目的は達したようだ。目に止まった補修剤のスプレー缶を振ってみたが、中身は無さそうだった。
「祈ってくれるか。ぼろぼろの船で漏気の補修が必要にならないことを」
 彼女は、キッと睨み付けてきた。やはり、機嫌を損ねたようだ。
「エアロックに戻る」と言って、その場から逃げた。
 当面の危機は、回避できた。だが、助かる見込みは、未だに0%のままだ。これからは、助かるための第二ステージだ。

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 麗子の部屋は、すぐだった。部屋に入った佐々は、一番奥で、壁に服を押し付けている麗子を見た。
「バカ野郎! 離れろ!」
「だって、空気が漏れてるのよ」
「とにかく、離れてろ!」
 そこまで言うと、部屋を出た。一気に船尾の倉庫まで行き、樹脂製のボードと補修剤と工具箱を手に取った。工具箱を股の間に挟み、空気抵抗と揚力を抑えるためにボードは胸に密着するように抱え、麗子の部屋へ急いだ。
 麗子は、まだ壁際に居た。
「どけ!」
 背を向けたまま、顔だけ振り返った。
「邪魔だ」
「動けないの」
「なに?」
「手が離れないの」
 慌てて近寄ると、右の掌が壁面に吸い付かれている。小指の付け根付近に、クラックの端があり、口笛のような高い音をたてて、空気が漏れていた。
 麗子の手首を握り、力任せに引っ張ってみた。
「痛い! やめてぇ!」
 実際、かなりの圧力がかかっているらしく、力任せでは上手くいきそうにない。
 空気が漏れる音が、少し低くなったような気がする。クラックも、長くなったように見える。
 壁の向こうは、シャトルの船首にあたる。機器を収めるために、いくつもの区画に分かれている。空気は、配管や配線の隙間から漏れているだろうから、完全に真空になっていないはずだ。そうでなければ、こんな薄い軽合金の板は、簡単に破れている。
 佐々は、工具箱を開き、マイナスドライバーを手に持った。
「よく聞け。今からクラックを広げる。空気が勢いよく抜け始めるから、壁に沿って力一杯引っ張れ。手が取れたら、ぶっ飛ぶだろうから、受け身を考えておけ」
「考えておけって、どうすればいいの?」
「知るか」
 佐々は、ドライバーを握り直し、クラックの先端に突き立てた。
 クラックは、一気に10センチ余り伸び、漏出する空気の勢いで幅も広がった。
「どうした? 早く取れ!」
「無理よ!」
 悲痛な声を出す。
「ふざけんな」
 麗子の手首を握り、渾身の力で引っ張った。思ったより簡単に取れたが、力が入っていたので、二人とも重なるようにふっ跳んだ。反対側の壁に、佐々が下になってぶつかった。
 幸い、足が先についたので、衝撃を小さくできた。だが、直後に麗子がぶつかってきたので、肺の空気を叩き出された。
「大丈夫?」
 衝撃を佐々の体で受け止めさせたので、麗子は申し訳なさそうに言った。
 酷く咳き込んだが、体は動かせた。大事には至らなかったようだ。
「サロンに行け」
 呻くような声で命じると、樹脂製ボードを手に、クラックに近付いていった。慎重に位置を確かめ、ボードでクラックを覆い隠すように塞いだ。
 まだ、ボードの回りで、ピーピーと空気が漏れている。佐々は、風船式の漏出補修剤を使って、ボードの縁を塞いでいった。
「これで大丈夫よね」
 麗子は、まだそこにいた。
「邪魔だと言ったはずだ」
 麗子を押し退け、ブリッジに戻った。
 時間が無かった。
 まず、減圧を始めた。バイナリースターには、本来の減圧機能は無い。佐々が採った減圧は、再循環系の停止だ。
 船内の空調は、酸素分圧を一定に保つ機能に加え、二酸化炭素を除去して循環する。この循環機能を止めた。
 佐々の考えた通りになるなら、漏出した空気の8割に相当する分が減圧していくはずだ。
 次に、迷路のような空調ダクトの経路を目で追いかけ、ブリッジと客室に繋がるダクトへのバルブを閉じた。
 最後に、ブリッジが持っている全ての制御権を、一つずつ切り離していく。
 画面を切り替えながら、面倒な作業をこなす佐々の後頭部に何かがぶつかった。強い衝撃ではなかったが、重い鈍痛が頭の奥で何度も反射した。
 頬に髪が触れる感触があった。
 麗子か。
「何度言ったらわかるんだ。邪魔だ」
 それでも、髪の感触が残った。ムカッとなって振り向いた瞬間、佐々は凍りついた。全身の毛が逆立ち、背筋を悪寒が通り抜けた。
 息がかかりそうな近さに、白目を剥いた未来の遺骸が浮かんでいたのだ。
 憐れな未来の姿に、同情より恐怖が先になった自分が情けなかった。
 そっと瞼を閉じてやった。
 客室から、口笛のような音が聞こえるようになっていた。作業に戻った佐々は、イライラしながら制御権の切り離しを進めた。全てが終わると、未来の遺骸を抱くようにして、ブリッジを出た。
 未来の体には、温もりが残っていた。
 サロンに繋がるハッチを、苦労して未来の体を通した。
「何で連れてきたの?」
「地上に連れて帰る」とだけ答えた。
 補修剤と工具箱を、客室まで取りに戻った。
 当て板をした右横から、気味の悪い音が聞こえてくる。軽い補修剤は、そこに吸い寄せられている。麗子が散らかしたシーツや衣類がクラックを覆っているので、クラックの長さがどれくらいになっているか、わからない。
 今にも崩壊しそうな壁に向かって手を伸ばした。補修剤は、軽く手に取ることができた。
 急いでサロンに戻り、ハッチを閉めにかかった。
 このハッチの本来の目的は、ブリッジと客室を守ることだ。だから、サロン側の気圧が下がった場合に対応している。
 今は、逆の状況だ。
 危惧した通り、逆流する空気に圧され、フランジに密着しない。
「手伝え!」
「嫌よ!」
 頼んだ自分が、馬鹿だった。
 麗子の助けを諦め、ハッチを跨ぐように足場を決めると、腰の力で引き上げた。
 甲高い空気漏れの音が更に高くなり、小さくなり、そして消えると、ハッチのハンドルが回り始めた。ハンドルを最後まで回し、ロックがかかった事を確認した。

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 バイナリースターは、2人の乗組員で運航される。シャトルは、前からブリッジと客室が2室、ダイニングにも使うサロン、シャワーとキッチン、エアロックと倉庫等になっていて、ここまで与圧される。
 与圧隔壁の後ろは、空調装置やタンク類があり、最後尾には軌道修正用ロケットエンジンと大気圏内用ジェットエンジンを備えている。
 ただ、自転している今は、前が上に、後ろが下になっている。
 佐々が居るのは、ブリッジの下、いや横にある二人用客室の一つだ。
 元々、この客室は麗子一人で使うことにはなっていたが、もう一室は彼女の祖父が乗る予定だった。それが、メディカルチェックでNGとなり、記念すべきバイナリースターの第一便は、彼女が独占することになった。
 客室を出た佐々は、サロンに降りた。
 ここには、八つの丸窓がある。その一つから、下弦の薄い月が見えた。
 もっと月を見ようと、足を踏み出したが、なぜか踏み出したはずの足は床に届かず、体が宙を舞った。
「無重力?」
 そんなはずはない。
 混乱する頭を、サロンの天井にぶつけた。バイナリースターの船内は、床も天井も壁も、緩衝材で覆われているので、怪我はなかったが、反動で天井から離れた。
 直後、鈍い衝撃音が響き、背中から天井に叩きつけられた。
「ウグッ!!」
 激しい痛みで、息が詰まり、目の前が暗くなった。照明が消えたのだ。
 非常灯の薄明かりと、陽光が射していた窓が、回転している。一回転して、胸から床に落ちた。
 今度は、手で受け身をとることができたが、衝撃は痛めた背中に突き抜け、体が仰け反った。体は強張り、息も詰まったままだ。
 受け身で回転は止まったが、足を前にして、漂っていく。
 佐々は、気持ちを落ち着かせながら、強張る体の力を抜いていく。体の力が抜けていくのにつれて、浅いながらも呼吸できるようになった。
 足が壁に付いた時、足裏のマジックテープで壁に安定させた。
 何回も深呼吸し、ブリッジに向かった。
 ブリッジに入ると、麗子は、ぐったりした未来の胸をはだけ、AEDで蘇生を行っていた。
「駄目みたい」
 潤んだ目で佐々を見つめる。
 パッドの位置を確かめてみたが、問題はなかった。本体の表示で、既に作動させたことがわかった。
「肋骨が折れているわ」
「外見だけでわかるはずないだろう」
 納得がいかない佐々は、AEDを最初からやり直した。
 未来は、蘇生しなかった。AEDは、脈拍も呼吸も停止したままであることを示している。
 自動診断装置を引っ張り出し、未来の体をスキャンする。表示された診断結果は、肋骨3本が折れ、内臓に損傷の疑い。蘇生可能性の表示も、0%になっている。
 諦めるしかなかった。
「何があったんだ!」
 振り返ったが、麗子の姿はなかった。
「クソッ!」
 麗子を追うつもりはなかった。今は、何があったのか、データから読み取るだけだ。
 メインモニターには、警告表示が並んでいた。その先頭は、「軌道逸脱」だった。
 佐々は、緊急事態宣言を発信した。救出は期待できない。救出を求めるには、新しい軌道要素が必要だった。
 軌道要素の計算をコンピュータに指令し、次の警告を開いた。
 長々と続く警告リストを流し読んでいく。機械船の全機能が失われている。
 佐々は、顔を上げた。
 ウィンドスクリーン越しに見えるはずの機械船の赤い標識灯は、どこにも見当たらなかった。どんなに探しても、ウィンドスクリーンの広い視野のどこにも、機械船は無かった。代わりに、船首の辺りでトグロを巻くケーブルがあった。
 機械船とのケーブルが、何かの理由で切断したのだ。
 佐々は、原因を探るような人間ではなかった。それより、生き残るために何が問題になるのかを、彼は優先する。
 見終わった警告リストの中には、通信途絶、電源不足、気密低下等がある。
 シャトル内の精密気圧を表示させた。最も気圧が低い場所が、空気が漏れている場所だ。
 表示を見た佐々は、反射的に身を翻すと、ブリッジを飛び出した。

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軌道上のタイトロープ


  第一章

「目が回ると思ってたけど、意外に平気なものね」
 佐々が客室を覗いた時の、相浦麗子の第一声だった。
 ほっとした表情を浮かべている。
 打ち上げ前のようにガチガチに緊張していてくれれば、こっちもやりやすいのに、寛ぐ様子が忌々しい。佐々にとっては大事なお客だが、金持ちのお嬢様に特有の自己中心的な感覚が鼻につく。
 佐々を見つめる麗子に本音を見破られないように、会話の相手をする。
「意外に平気でしょ。このバイナリースターの自転周期は、60秒ですから」
 連星を意味するバイナリースターは、民間の月往還宇宙船である。乗客4名を乗せ、地球から月までを自由帰還軌道で往復する。一般人の1週間の宇宙旅行を可能にするため、バイナリースターは、機械船とシャトルを250mのケーブルで結び、連星のようにお互いの共有重心を自転することで、疑似重力を得ている。
「でも、体が重いわ」
「相浦様は無重力に慣れるが早かったですから。これでも月面と同じくらいの重力ですよ」
「ここで慣れてれば、月に着いた時も平気なのね」
 彼女が言った意味をどう捕らえれば良いのか悩んだ末、生真面目に答えた。
「申し訳ありません。バイナリースターは、月面には降りません」
 麗子は、微笑みを返した。
 おちょくったのか。
 このお嬢様の相手を1週間も続けなければならないかと思うと、辟易とした。
「宇宙エレベータのステーションも見えるのかしら?」
 彼女は、1時間余りで最接近する事も、肉眼では難しい事も、きっとわかった上で聞いているのだろう。
 腹立たしさで、言葉が出なかった。
「まだ、小さなステーションとパイロットケーブルが届いただけです。肉眼では無理だと思います」
 もう一人の乗組員の星出未来が、佐々の背中越しに声をかけた。
「代わりに、ブリッジを御覧になりませんか?」
 佐々の前に進み出ると、麗子を誘った。
「見せて頂くわ」
 未来は、麗子を客室から誘い出した後、狭い入口から頭だけ客室に突っ込み、「顔に出てるわよ」と囁いた。
 余計な御世話だと、佐々は苦笑いした。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

世界初の民間月旅行で、事故が発生した。

乗員を一人失った佐々だが、たった一人の乗客の相浦を抱えて、地球への帰還を目指す。

しかし、軌道逸脱、空気漏れ、コクピットの閉鎖。
辛うじて地上との通信はできるが、地上側の支援にも疑いが。

満身創痍。四面楚歌。

そんな中、相浦の一言から、救出への道筋を見い出していく。


  < 目 次 >


 軌道上のタイトロープ  1
 軌道上のタイトロープ  2
 軌道上のタイトロープ  3
 軌道上のタイトロープ  4
 軌道上のタイトロープ  5
 軌道上のタイトロープ  6
 軌道上のタイトロープ  7
 軌道上のタイトロープ  8
 軌道上のタイトロープ  9
 軌道上のタイトロープ 10
 軌道上のタイトロープ 11
 軌道上のタイトロープ 12
 軌道上のタイトロープ 13
 軌道上のタイトロープ 14

 軌道上のタイトロープ(自己書評)

※2014年12月25日から2015年1月11日にかけてYahooブログに連載した同名の作品の転載です。

自己書評

本文中にもありますが、アイソスタシーは地殻平衡を意味します。

惑星上では、下から押し上げる力と、山や海のように上から重さで押さえる力が、バランスしています。山があると海の部分より重くなるので、陸はマントルに沈みます。比重が大きなマントルが押し退けられ、比重の小さな陸塊が入り込むことで、海の部分と同じバランスに調整されるのです。
現在の地球は、ほぼバランスが取れている状態です。
ここに小惑星が落ちれば、地表は剥ぎ取られ、バランスは大きく崩れます。
この作品は、資源採取用の小惑星が地上に落下するところから始まります。
小惑星の落下は、ストーリー展開の柱となっています。それだけに小惑星の軌道が重要になります。
「軌道上のタイトロープ」の時と同様に、今回も軌道計算は時間を掛けて行いました。正しい計算方法ではありませんが、概ね実現可能な軌道であることを確認しています。

この作品も、書いた時期が古いため、出てくるアイテムが古臭くなってしまっています。見直しながら掲載すべきでしたが、本業が忙しく、時間を割くことができませんでした。定期的な掲載を優先したためですが、反省点であることに違いありません。


さて、2018年10月20日に水棲探査機「みお」が打ち上げられました。三日後の29日には、温室効果ガス観測技術衛星「いぶき2号」が打ち上げられます。
そして、遥か彼方の「りゅうぐう」では、昨日に「はやぶさ2」がタッチダウンのリハーサルを行っていました。
ですが、こんなのが、地球に落ちてくると思うと、ぞっとします。
「りゅうぐう」で活動する「はやぶさ2」のニュースを聞きながら、本書も楽しんで頂ければと思います。


                < 目次へ >

  エピローグ

 由布森林公園の現場は、随分と整理され、突貫工事で壁面の補修工事が進められていた。周辺の植栽も、奇麗に植え替えられ、事件の痕跡は、『工事中』の立て札だけになっていた。
 辺りが元の静けさを取り戻すのも、時間の問題だろう。
 その由布森林公園に、三人は足を運んでいた。
「僕が、電話した時、二人はどの辺に居たの?」
 大地と宙美は、周りの風景と足元を見比べながら、位置を確認しあっていた。
 二人は、警察の現場検証に立ち会い、ここで状況を説明したのだから、大体の状況は思い出しているようだ。
「ここら辺だよ」と、大地が場所を示した。
「宙美は、その辺で電話を受けたんだったよね」
 宙美は、電話に出る真似をした。
「ここで、隼人君が『壁から逃げろ! 仁科さんに電話するな』って言ったのよ」
「僕は、意味が分からずに、ここに戻って、電話を取ったんだ」
 大地は、宙美の所まで、歩いた。
「これが、利いたんだよ。隼人君が切羽詰まった声で『壁から逃げろ』言ったから、ここから走ったんだ。あそこからここまでの分だけ、僕は助かったんだ」
「大地君が、私の背中を守って走ってくれたから、私も速く走れたの。でも、びっくりしたわ。物凄い音だったもの」
 電話から聞こえた音は、今も隼人の耳に残っている。
「まだ、耳がおかしい気がするわ」
「でも、恐かったのは、爆発より、その後の吸い込みだったな。爆発の衝撃は大した事はなかったのに、吸い込みが強くて後ろに引っくり返ったもんな」
 思った通り、吸い込みは激しかったのだ。それは、勅使河原が狙った事でもあった。
「私は、大地君が捕まえてくれなかったら、あの穴に吸い込まれてたかもしれないわ」
「僕も、実は危なかったんだ。モニュメントの台座に手が掛かったから、吸い込まれないで済んだけど、ぎりぎりだった」
「そうよ。もっと早く隼人君が教えてくれたら、楽勝で逃げれたのに。私を恐い目に合わせたかったんでしょう」
「そんな筈無いだろう」
「だったら、もっと早く教えてよ」
「宙美。そんなに苛めてやるなよ。隼人君だって、必死に伝えようとしたんだし、僕らも、隼人君の言ってる事が直ぐには分からないで、逃げるのが遅れたんだもの。でも、どうして気付いたんだい?」
 隼人は、仁科からの電話で気付いた経緯を説明した。
「隼人君、やっぱり君は刑事向きだね」
「僕も、そう思うよ」
「隼人君たら、直ぐに調子に乗るのね」
「二人の御陰で、最近は調子が良くって」
「大地君は、今も検事になりたいのかい?」
「いや、少し考えが変った。農学や、農業土木を学んで、地上に降りようと思ってる。小惑星の冬で壊滅した地上の農業を、僕の力で取り戻したいんだ」
「全然、方向が違うじゃないか」
「そうでもないよ。僕は、基本的に弱者の味方になりたいんだ。今回の件は、父も関係している事だし、少しでも父の罪滅ぼしになればと思ってるんだ」
「ところで、大地君。勅使河原は、どうなるの?」
 元大統領候補も、呼び捨てにされる立場になっていた。
「そうだね。当然の事だけど、きちんと裁判を受けて、有罪になれば、投獄される事になるね」
「そうじゃなくて、どれくらいの罪になるのか、聞いてるの!」
「それが、微妙なんだ。今、アトランティス議会で、刑法の見直しを検討しているんだけど、これが、勅使河原の事件に適用されるか、微妙なんだ。しかも、証拠の隠滅が酷くて、彼の犯罪を証明する事自体が難しいらしいんだ」
「でも、大地君達に対する殺人未遂は、証明できるんじゃないかな。犯人の特定が早かったから、証拠隠滅の時間は、ほとんど無かった筈だよ」
「ああ、だから、刑事さんの話だと、明日にも送検されそうだよ」
「大地君、さっき言い掛けてた刑法の見直しが間に合わなかったら、勅使河原はどうなるの?」
「見直しをしているのは、死刑の廃止と、刑の加算なんだ。死刑は、事実上廃止されているようなものだから、実質的な部分は刑の加算だけなんだ。勅使河原の罪状は殺人罪と殺人未遂罪だけど、死刑判決が無い今、最大の量刑でも無期懲役なんだ」
 彼の言う通り、死刑制度は、事実上、消滅していた。検察側が死刑の求刑をする事はあるが、裁判所が判決で死刑を言い渡す事は、三十年以上もなかった。法務大臣が、最後に死刑執行に調印したのは、五十年近く前に溯ってしまう。
「無期なら、一生出てこれないんでしょう」
「それが違うんだ。服役中の態度次第では、七、八年で出てこれる事もあるんだ」
「そんなぁ!」
「でも、これが事実なんだ。だから、アトランティス議会も、刑の加算の議案を通そうと急いでるんだ」
 宙美は、死刑が当然と思っていたのに、無期懲役が最大の量刑で、しかも、服役態度次第で十年も経たずに出てくる事を知り、持って行き場のない怒りで憮然としていた。
「僕達には、関係無いよ。勅使河原がどうなろうと、死んだ人達が戻ってくる訳じゃないのだから。僕達は、僕達で、生きていくしかないんだ」
 隼人は、自分に言い聞かせるように言った。
「そうよね。いつも大地君が言ってるように、私達は、一人一人、独立した存在だもの」
(独立した命なんだ。そうさ、一人一人が生きてるんだ)
 彼女は、いきなり駆け出すと、少し先の地面に落ちていた小枝を、思いっきり蹴飛ばした。反動で、彼女の長い髪が、ぱっと広がった。
 くるくる回転しながら飛んでいった小枝が林の中に消えたのを見届けると、くるりと隼人達の方に振り返り、首を竦めて舌を出した。
「やっぱり、大地君は検事になるべきだよ」
「珍しく、大地君に逆らうのね」と、悪戯っぽい笑みを隼人に向けた。
「僕は、僕の意見を言ってるだけだよ。決めるのは、大地君だ。でもね、地上の農業の建て直しに貢献するのも大切な仕事だと思うけど、大地君は、自分が一番やりたい仕事を選ぶべきだと思うんだ。だって、大地君は、誰からも独立した一人の人間なんだから」
 大地は、黙って歩いていた。彼なりに、思うところがあるのだろう。
 その彼が、不意に顔を上げた。
「そうだね。隼人君の言う通りだ。でも、今、決めてしまう事はないね。僕達には、いっぱい時間が残されてるんだから」
 三人は、真っ直ぐ前を向いて歩き始めた。
 遠くに、ここに来た日の湖が、あの日と同じ輝きを放っていた。

                < 目次へ >

  - 5 -

 地下道に居た人達は、さっきの空震で驚き、不安な表情を見せていた。そんな人々の間を、隼人は、掻き分けるように走り抜けた。動く歩道を走り抜け、軌道バスに強引に飛び乗った。
 バス停では必ず止まる無人運転の軌道バスは、隼人の気持ちを逆撫でするかのように、粛々と走り続けた。
(有人運転なら、バスジャックして、駅まで直行させたのに!)
 気が急く隼人は、そんな物騒な事さえ考えた。
 周回鉄道の駅でも、隼人は走った。閉まりかけたドアに体を張って突進し、僅かな隙間をこじ開けて乗り込んだ。そして、目的地でドアが開きかけた時にも、僅かな隙間から擦り抜けた。
 由布森林公園は、本来なら、軌道バスで行く場所だが、ちょうどバスが出た後だったので、隼人は、動く歩道を走った。
 由布森林公園までは、延々と上り坂が続く。隼人は、直ぐに息が切れた。それでも、足を止める事無く、走り続けた。動く歩道は、所々で登りのエスカレータに取って代わる。通常の階段より段差が大きいエスカレータの階段を、隼人は黙々と上り続けた。
 運動不足の華奢な体は、息が上がってしまい、口元では涎が落ちそうなのに、喉の奥は乾いてくっ付きそうだった。時々、唾を飲み込むが、その間、息が止まるのが、苦しかった。最後のエスカレータを降りて地上に出た時、強烈な金木犀の匂いがした。コロニー中の金木犀をここに集めたような匂いに取り囲まれて、隼人は現場に向かって重い足で走り出した。
 現場に着いた時、爆発より、吸い込みの凄さに、隼人は驚いた。
 壁には、大砲で穿ったような大きな穴が開いていたが、穴の縁は壁の中に向かって、強い力で曲げられていた。ぎざぎざの縁には、小枝や土などがこびり付き、洪水の後のようにも見えた。
 近くの木は、多くは枝を圧し折られ、中には、幹から折れて、穴に向かってしな垂れかかっていた。
 森林公園を代表するモニュメントも、横向きに引っ掻いたような痕が、無数に残っていた。それが、吸い込み時の暴風で、周辺の枝で傷付けられたらしく、角には葉っぱや小枝がこびり付いていた。
 やや離れた場所にあった金木犀の花は、吸い込み時の衝撃波で叩き落とされ、山吹色の絨毯となって地面を覆っていた。そして、体にまとわりつくようなしつこい甘い匂いを撒き散らしていた。
 破壊の凄まじさに見入っていると、後ろから肩を叩かれた。
「隼人君、御陰で助かったよ」
 隼人は、大地の顔を見上げた。
「宙美は、足に軽い怪我をして病院に運ばれたけど、大丈夫。今日中に帰ってくるよ」
 大事を取って、彼女は病院へ運ばれたようだ。
「でも、よく、こうなるって予測できたね」
「まあね。それより、刑事さんを捕まえなきゃ」
「どうして?」
「仁科さんの携帯電話の行動記録を押さなきゃいけないんだ」
 黄色いテープで立ち入り禁止になっている現場周辺は、鑑識ロボットが数台あるだけで、人影はなかった。周囲を見回すと、右手の大木の木陰に数人の鑑識と刑事が居るのが見えた。二人は、そこに駆け寄った。
 上手く、芙美子を尋問した小笠原警部を見付けた。
「直ぐに、仁科さんの携帯電話の位置情報を押さえて下さい。そうしないと、冤罪事件になってしまいます。犯人は、特定しませんが、仁科さんの携帯電話を盗んだ人が、犯人なのです。
 これは、小惑星を墜落させた真犯人を探していた大地君達を、事故に見せ掛けて殺そうとした殺人未遂事件で、事故なんかじゃありません。犯人は、コンピュータに詳しく、スペースコロニーの構造にも詳しいから、今回のコンピュータの細工は、消されている可能性が高いと思います。でも、携帯電話の位置情報は、まだ消されていない筈です。だから、消す事に成功する前に、位置情報を保存しておきたいんだす」
「なぜ、携帯電話の位置情報が必要なんだい?」
「今回の事件は、大地君を確実に殺したかったんです。そのためには、大地君をこの場所に呼び出し、しかもここに来た事を確認する必要があったんです。そのためには、どうしても仁科さんの携帯電話が必要でした。犯人は、どんな方法を用いたか分かりませんが、仁科さんの携帯を手に入れ、大地君にメールを送り、ここに呼び出し、大地君がここに来た事を仁科さんの携帯に電話させ、位置情報を取り込んで確認したのです」
「わかった。取り敢えず、位置情報を凍結するように、依頼だけは出しておこう」
 小笠原警部は、電話で依頼した。
「犯人に今会いに行くと、選挙妨害を言われるので、明日の投票が終わったところで、会いに行きましょう」
「君は、もう、犯人が分かっているのかい?」
「ええ。ですが、大物ですし、状況証拠しかないので、最低でも位置情報が必要なんです。明日、証拠が揃ったところで、会いに行きましょう」
 翌日、勅使河原は逮捕された。決め手は、二つあった。一つは、仁科の証言。もう一つは、隼人が押さえさせた仁科の携帯電話の位置情報だ。ほとんど、電源は入っていなかったし、既に廃棄されていたが、何度か電源が入っている時間の位置が、勅使河原の所在地と一致していた。
 警察は、勅使河原宅と仁科宅等の家宅捜査を行い、確実に勅使河原の犯行を固めていった。
 仁科は、IDを貸しただけだった。勅使河原のIDは、彼が科学省を退省した際に失効していた。仁科の息子が来ていたのは、全くの偶然だった。総ては、勅使河原が行った事だった。
 ついに犯行を自供した勅使河原は、自分の才能を踏みにじった地球政府への反発を口にした。
 才気溢れる男は、役所勤めが似合わなかった。彼は、宇宙移民事業団の事務次官にさせられた事を、左遷と考えた。その反発で、彼は省を辞め、政界に打って出たのだ。しかし、その政治活動を支えたのは、皮肉な事に、宇宙移民事業団から受け取った退職金だった。
 勅使河原は、宇宙移民事業団の内部事情を知るために、大学の後輩である仁科を使って情報を集めていた。仁科は、直属の上司である大地の父が不穏な動きを始めているのを知り、それを勅使河原に相談した。
 この時、勅使河原の小惑星墜落の計画が始まったのだ。その内容は、隼人が推理した通りだった。そして、監視を続けていた梅原大地が仁科に連絡を取った事を知った勅使河原は、大地と一緒に仁科を始末しようと考えた。
 ただ、急拵えの殺人計画は、二重の失敗を犯していた。一つは、隼人に殺人計画の概要を見抜かれ、大地を餌にして仁科をおびき寄せる事にも失敗していた。

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  - 4 -

 アトランティスの外壁は、三重構造だ。
 最外郭は、主としてスペースデブリの衝突に耐える事である。穴が開く事は、最初から想定されている。そのため、交換や継ぎ接ぎが容易なように、主として金属で作られている。また、その内側の中央壁と隙間は、真空になっているので、穴が開いても、無駄に空気を失う事はないが、気密構造にもなっていて、内壁に穴が開いても、ここで空気が漏れる事を防ぐ。
 中央壁は、主として気密を保つ役目を持っている。そのため、最内郭との隙間は、居住区と同じ気圧の空気で満たされている。外の真空と一気圧の圧力差に耐え、最内郭と協調して構造重量にも耐える。炭素系の複合材を多用し、非常に高い引っ張り強度を持つ。
 最内郭は、主として内部の構造物の重量を支える。複合材も使用しているが、曲げ剛性に優れた材料や構造を持つ。もちろん、単体でも気密を持っていて、三層の中でも、最も構造が複雑で高い強度を持つ。ただし、最内郭も、地中部分は非常に頑丈な構造になっているが、地上から出ている部分は、気圧以外の力は僅かしか掛からないので、地中部分に比較すると、単純で強度も低い構造になっている。
 三層の壁構造に挟まれた二層の隙間は、細かな部屋に仕切られている。部屋の数は、オリエントリングだけでも五万を越えるが、一つの部屋は、五十メートル四方にもなり、その容積は、八千立方メートルを軽く越える。
 もし、中央壁と内壁に同時に穴を開ければ、外壁と中央壁の間の空隙に、一気に吸い出されるだろう。だが、世界制覇が目的なら、勅使河原は最後の砦であるアトランティスを破壊したくない筈だ。修理が非常に面倒な中央壁を破壊しようとは考えないだろう。
「そうか。内壁と中央壁の間を、気密試験と称して真空にしておけばいいんだ」
 内壁は、気密状態を確認するため、定期的に気密試験を行う。気密試験は、内壁と中央壁の間を真空にし、空気漏れの有無と量を測定する。居住区で、内壁に直接接するのは、この辺りでは由布森林公園と反対側の標茶自然公園だが、この部分の気密試験を行う際には、内壁周辺は安全確保のために立ち入り禁止となる。
 隼人は、由布森林公園側の立ち入り禁止の指定があるか調べたが、何もなかった。
 勅使河原は、コンピュータにも強い。技術者の信望も厚いので、IDも、最高レベルのものを付与されているだろう。隼人のIDではできなくても、彼のIDなら、色々な事が可能な筈だ。
 森林公園のモニュメント周辺の壁内部の空気を抜き取り、張り巡らされた配管が爆発したように見せ掛けて、爆弾を爆発させる。そうすれば、大気圧から真空へと、猛烈な勢いで空気が流れ、周辺の総てを一瞬にして壁の中に吸い込むだろう。生身の人間は、急減圧と衝撃で、即死する危険もある。
 隼人は、スペースコロニー管理センターの公式サイトから、該当箇所の壁内気圧を読み取ろうとした。しかし、壁内気圧を公開していなかった。
 時間がなかった。
 大地達は、森林公園のモニュメントに着く頃だ。電話からの声でも、それが分かる。
「よし、侵入してみよう」
 隼人は、管理センターの制御コンピュータに侵入しようと思った。そこなら、総ての情報が得られるだろう。
 隼人は、まず、中学校の教育用サイトのコンピュータに接続した。ここのコンピュータは、セキュリティが弱い事は、学校の教育の中で気付いていた。ここから侵入し、管理センターの制御コンピュータに繋ごう。
 隼人は、パスワード破りとキー破りのツールの準備を始めた。
「隼人く~ん」
 芙美子が、下で呼んでいた。
「は~い。何ですか?」
「すぐ、降りてきて」
 隼人は、侵入の準備を一時中止し、下に降りた。
「何か用ですか?」
「隼人君、大地君と宙美は、仁科さんの所へ行ったんでしょう」
「そうですよ」
「でも、さっき、仁科さんから電話があったのよ。まだ、来ていないけどって。随分前に出掛けましたよって言ったら、もう少し待ちますって」
 はっとした。入れ違いになる筈が無いのに、今、そうなっている。
「おばさん。仁科さんの電話番号を教えて下さい」
「ええ、いいわよ」
 彼女は、携帯端末で、仁科の電話番号を検索し、隼人に示した。
 隼人は、その番号を、自分の携帯端末に転送し、そのまま仁科に電話した。
 電話は、直ぐに出た。
「はい、仁科です」
 隼人は、その受け答えに疑問を感じた。
 普通、携帯電話は、当人しか出ないから、苗字より名前を名乗る事が多い。なのに、仁科は、苗字だけを名乗った。
「もしもし、征矢野隼人です。さっき、大地君に、メールを送りましたか?」
「え? メール?」
「仁科さん、この電話は、携帯ですか?」
「いや、携帯は無くしたので、これは、家の携帯端末を使ってるんだ。君こそ、この番号に電話していながら、そんな事も知らないのかい?」
 無くした携帯電話は、誰かが悪用している。
「宙美ちゃん、大地君、逃げろ!! 壁から離れるんだ。仁科さんに電話するんじゃない。電話したら危ない!! 壁が爆発する!」
「えっ? 何?」
「走って、壁から逃げるんだ。壁が爆発するぞ! 大地君に、仁科さんに電話するなと言って! 走って、壁から逃げるんだ」
「大地君、隼人君が電話するなって。そして、壁から離れてって」
「宙美ちゃん、急いで!」
「どうしたんだい? 隼人君」
「大地君、何も聞かずに逃げて! 壁から離れるんだ」
「大丈夫、壁からは離れるよ。仁科さんに電話するなって、どういう事? もうすぐ繋がりそうなんだけど」
「だめだ。直ぐに切って! 詳しくは後で話すから、走って壁から逃げて!」
「宙美! 走れ!」
 大地が、宙美に命じる声が聞こえた。
「早く!」
 隼人は、尚も叫んだ。
 次の瞬間、地響きのような音が電話の向こうでした。直後に、宙美の悲鳴が聞こえた。
「おばさん。警察に電話して。由布森林公園で爆発事故があったから、直ぐに救急車と事故調査をして欲しいって。僕も、今から行ってみます」
 芙美子の返事は、聞かなかった。彼女が、警察に電話してくれる事も、期待はしなかった。電話しなくても、壁面で発生した爆発事故で、自動的に警察が出動している筈だからだ。
 玄関で靴を履いている時、ズンと地響きのような空震を感じた。由布森林公園での爆発事故の衝撃波が、今届いたのだろう。
 隼人は、地下道に飛び出した。

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  - 3 -

「何?」
「行き先が変更になったの。さっき、大地君の携帯に、仁科のおじさんからメールが届いて、由布森林公園に場所が変更になったの。私達は、そっちに向かってるから」
 厭な予感がした。
「気を付けてよ。それから、大地君に伝えてくれないかな。共犯者は、もしかすると、勅使河原大善かもしれないって」
「え?」
「勅使河原大善。大統領候補の勅使河原大善」
「まさか」
「そのまさかかもしれないんだ。スペースプレーンを手配させたのは、彼らしいんだ」
「うん。信じられないけど、大地君に伝えるわ」
 電話の向こうで、宙美が大地に説明する声が聞こえた。
「電話は、このままにしておくよ。僕は、勅使河原大善を調べてみるよ。何か分かったら、その都度、知らせるよ」
 隼人は、勅使河原大善を調べるため、パソコンに向かった。
 勅使河原大善は、科学省に入省後、通信事業部、化学部、宇宙移民事業団を経て、二年前に退官した。その年のアトランティス議会議員選挙に立候補し、圧倒的な票差で当選したが、今年五月に任期途中で自ら辞職し、大統領選挙に立候補した。宇宙移民事業団に所属していただけに、アトランティスでも、L51でも、支持基盤は厚く、選挙前の予想でも、優位と目されている。
 アトランティスとパシフィックの両議会の上には、統一議会があり、大統領制を敷いている。政治評論家の間では、統一議会内にも派閥を持っているとも言われ、当選と同時に、大きな影響力を及ぼすものと考えられている。マスコミ各社も、彼に番記者を密着させ、彼の一挙手一投足を伝える体勢を整えている。
 政治家にしては珍しく、勅使河原大善は科学技術全般に明るく、宇宙移民事業団や企業の技術者とも、直接渡り合う事で知られる。工学博士の称号も持ち、特に、アトランティスや飛鳥の構造に詳しく、設計者もメンテナンス技術者も、彼の知識には舌を巻くという。このため、技術者の信望が厚く、この点でも票を集めるものと思われる。
 議員の間では、野心家、あるいは辣腕として知られる。今回の大統領選挙も、小惑星墜落事故により、事実上の世界統一の大統領となった事は、野心家の勅使河原大善にとって、願ってもない状況と言えよう。
 これらの記事を見て、勅使河原が主犯であると、隼人は確信した。
 勅使河原は、現在は、選挙活動中だ。仮に、仁科から連絡を受けていたとしても、彼自身が手を下す事はないだろう。
 問題は、二つある。
 一つ目は、仁科をどう脅迫したかだ。
 二つ目は、動機は何かだ。
 動機については、まさかと思うが、世界制覇が目標なのではないだろうか。荒唐無稽と言えば、返す言葉もないが、今の状況を見れば、強ち大袈裟でもない。統一議会を押さえ、大統領になれば、事実上、世界を手中に納めたともいえる。
 本人に聞けば、それもはっきりするのだが……
 しかし、大地達の呼び出しを由布森林公園に変えた理由は、一体なんだろう。
 仁科の家なら、大地達を殺すにしても殺害現場が特定し易く、しかも、犯人が特定され易い。森林公園なら、通り魔犯罪の可能性も生れるので、犯人が特定しにくくなる。
 でも、それだけで、会う場所を急に変えるだろうか。
 犯人を特定し難いといっても、最有力容疑者は、仁科だけなのだ。取り調べられる事は必至だ。仁科が自白すれば、勅使河原も立場が一気に苦しくなる。
「宙美ちゃん、やっぱり、君達は、命を狙われているよ」
「隼人君、僕だ。命を狙われる危険性は、覚悟してる。大丈夫だ。油断無く、二人で行動してるから、心配しないでいいよ」
「大地君が言うから、大丈夫だと思うけど、僕は、引き返した方がいいと思うんだ。場所を変えたのは、君達を殺すのに都合の良い場所にしたかっただけなんじゃないかな」
「それも、考えてる。でも、仁科のおじさんに会わなきゃ、一歩も進めないんだ。覚悟して行くしかないよ」
「………」
「隼人君が、そこまで心配してくれるんで、場所を正確に行っておくよ。いいかい。由布森林公園の奥にあるモニュメントの裏側だ」
 スペースコロニー建造時の殉職者を奉った慰霊モニュメントは、公園の最も奥にあり、最も壁際でもある。その裏側だから、人目にも付き難いが、それだけが理由なのだろうか。それとも、モニュメントと殺人方法と、何か関係があるのだろうか。
 どちらも、どこか引っ掛かる。
 場所が肝心なのは、間違いないだろう。だからこそ、場所を変えたんだ。
「まさか」
 隼人は、首を振って否定した。
 外壁に、大きな穴を開け、コロニー内の空気が流れ出る勢いで二人を宇宙空間に吸い出す殺害方法がある。
 だが、リスクが大きく、最悪は、アトランティスのオリエントリングが全滅するかもしれない。これでは、大統領への夢も瓦解しかねない。それなら、どんな手段があるというだろう。 

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