伊牟ちゃんの筆箱

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 『うりゅう』の大分港入港は、予定よりも七時間も遅れた。
 母港の横須賀を出て以来、接近中の台風の余波で、速力が落ちてしまった。
 公海に出ると同時に潜航し、海上の波浪の影響を受けにくい深度を維持していたが、豊後水道を北上するために四国沖で浮上した途端、速力が大幅に落ちてしまった。
 元々、『うりゅう』は、潜水調査基地としての機能が主で、単に自力で移動できる能力が追加されているだけだ。だから、水中、水上を問わず、大した速力は出ない。潮流が大きい場所では、潮の流れが変わるまで待たなければならない。
 足摺岬を回りこむ所で、風と波に押されて時間が掛かってしまった。そのために、豊後水道の途中で潮流が変わり、豊予海峡を抜けられなくなってしまった。当初は、ここを夜の内に抜け、未明には別府湾に到着する予定だった。大分港への入港は、セレモニーの準備ができた午前十時を目処にしていた。
 豊予海峡は、潮流が荒い所である。この海域で育った魚は、荒い潮に鍛えられて身がしまっている。有名な「関鯖」「関鯵」は、ここで取れる魚のことである。
 速力の無い『うりゅう』は、鯵や鯖のようにはここを抜けることができない。やむを得ず、宇和海で一夜を過ごすことになった。結局、大分港に着いたのは、夕方だった。
 村岡の父は、大分で育った。今も祖父が大分に健在で、何度も訪れた事がある。だが、海から大分を見るのは初めてである。高崎山が、印象的なシルエットを見せている。
 内海にある別府湾でも、台風の余波で時化始めていた。脱出用の水中エレベータも兼ねるブリッジは、狭い上に視界も悪い。狭さゆえに、操船関係の機器はほとんどがブリッジには無い。居住区内にある制御室で操船するのだが、水上航行では、監視が大切なので、スキッパーの村岡は、ここに陣取るのだ。
 村岡の指示に、浦橋がレスポンス良く操船し、『うりゅう』は予定の岸壁に停泊した。
 岸壁には大型のタンクローリーが何台も待機しており、横須賀からの回航で消耗した水素と酸素の充填作業開始を待ち構えている。今夜の作業は深夜にまで及びそうである。
 と言っても、充填作業の大部分は陸上要員が行うので、充填作業後の点検を別にすれば、乗組員は三人いれば何とかなる。村岡は、浦橋と魚塚、鮎田に『うりゅう』を預け、江坂、小和田、瓜生の三人を連れて上陸した。
 市内は、予想外の騒ぎとなっていた。上陸すると、市役所の迎えの車が待っていた。待っていたのは、車だけではなかった。マスコミが大挙して押し寄せていた。野次馬も集まって、警察官が交通整理まで始めていた。七時間も遅れたのに、この騒ぎである。
 フラッシュの中、二台に分乗して市の中心部にある市庁舎に向かったのだが、途中の街路には、所々に幟まで立っていた。
 大分市民は、瓜生島伝説には関心が強い。
 それは、父から聞かされていた。
 瓜生島伝説とは、現在の大分港付近に在ったとされる沈んだ島の伝説である。東洋のアトランティスとして、大分市民のロマンを掻き立ててきた。過去の調査でも、その存在を示唆する証拠も見つかっており、人々は実在したと信じている。
 『うりゅう』は、文部科学省の海底移動調査基地として建造された。その名前は、瓜生島伝説から戴いたものだ。だから、処女航海の目的地は、命名時から瓜生島の海底調査と決まっていた。
 「瓜生島」という名称が古文書に出てくるのは、一六九九年の「豊府聞書」と言われている。実は、瓜生島が沈んでから百年余りも後の時代である。しかし、瓜生島が存在しなかったわけではない。正しい名称は、「沖の浜」である。「沖の浜」には、フランシスコ・ザビエルも寄航しており、宣教師のルイス・フロイスも、九州にある海港が地震によって被害を受けた事を伝えている。
 「沖の浜」は、縄文の海進期に、大分川が運んできた土砂が堆積し、その後の海退期に海面に姿を現したとされている。このような成り立ちであるため、非常に軟弱だったと推定されている。
 一五九六年の閏七月十二日、マグニチュード七.〇の慶長大地震が発生する。
 この時、「沖の浜」は、全域で液状化現象を引き起こし、直後の津波と共に海底に没したと、考えられている。「沖の浜」の西側は、一気に別府湾に沈んだ。別府湾の最深部を、漁師達は「くぼおち」と呼んでいる。「沖の浜」は、この「くぼおち」に向かって地すべりを起こしたらしい。
 別府湾の地質は、複雑である。
 日本最大の断層である中央構造線は、諏訪湖から始まり、渥美半島から、紀伊半島、四国を縦断し、佐賀関で九州に上陸する。諏訪湖から東と、大分から西では、未だに正確な位置は確定されていないが、中央構造線の影響と思われる断層が、別府湾内には非常に多く見られる。
 このような地質なので、別府湾では、断層地震が起きやすい。
 こうした背景と、大分の県民性が、瓜生島伝説を育んできたのだろう。
 市庁舎内の駐車場で、車を降りた。
 赤絨毯こそ無かったが、まるでVIPのような扱いで、大会議室へと通された。
 先に聞かされた話では、記者会見の後で昼食会を行う予定だったが、到着が遅れたので、予定は記者会見だけとなり、会見終了後は簡単なパーティーを開くとの事だった。村岡は、パーティーの類は苦手であり、夕食時間も近いことから、パーティーには出席できないと、予め無線で告げてあった。
 役人が、素直に聞き入れたかどうかは怪しいが、記者会見だけは避けて通れないので、覚悟して会議室に入った。
 大会議室と書かれた会議室に入ると、ここも盛況というべきか、多くのマスコミ関係者が、村岡らを待っていた。
 村岡らが座るべきテーブルの前には、『うりゅう』のスケールモデルが置かれていた。ずんぐりとした外見が、見て取れる。このスケールモデルは、『うりゅう』の製造メーカがおまけで作ったものだが、四十四分の一とは思えないほど精巧にできていて、『うりゅう』が備える多彩な装備品も、精緻に再現されている。
 実は、横須賀を出港する際の記者会見でも、このスケールモデルが置かれていたので、村岡は、会見終了後にしげしげと見てきている。
 テーブルに着くと、会見席の端に座っている浦田が、苛々を隠しきれないでいた。
「いったい、どこで道草を食っていたのですか」
 棘のある言い方だった。
 浦田は、『うりゅう』プロジェクトの責任者だった。正確には、彼にはもう一人、上がいる。『うりゅう』は、単独航行が可能な性能を与えられているが、本来は、多機能支援船である『わだつみ』の支援を受けながら、海底での作業を行う。そのため、『わだつみ』の総括責任者が、『うりゅう』の責任者の上に立つ事になる。
 実は、『わだつみ』の総括責任者は、女性である。村岡は、その女性が苦手であり、嫌いでもあった。だからというわけでもないが、彼女と同じキャリア組の浦田も、村岡には嫌味な相手であり、できるだけ顔を合わせないように努力をしてきた。
 その例の一つとして、浦田が、『うりゅう』に乗り組んで大分までの回航を同行したいと申し出た時、村岡はありとあらゆる理由を並べて、断固として乗船を拒否した。
「私が同乗していたら、こんな遅れは出ませんでしたよ」
 どうやら、『うりゅう』に乗せなかった事を根に持っているようだ。彼を乗せると、指揮系統が乱れると考えた村岡は、敢然と拒否を続けたのだった。
 小型船舶の免許さえ持たないくせに、遅れを出させない技量があるようなことを言うのは腹立たしいが、相手にすると、達者な口先で言い包められそうなので、必殺技の完全無視を決めた。浦田も、村岡の態度を不愉快に思っているようだったが、多くのマスコミの前では慎むしかなかった。
 村岡達が席に着いたところで、記者会見が始まった。
 どういう訳か、市長も列席していて、彼の挨拶から始まった。
「皆様、本日はお集まり戴き、ありがとうございます。市長の首藤でございます」
 まるで、彼のために人が集まったような口ぶりである。このあたりは、政治家の口達者なのだろう。
「我が大分市は、風光明媚な地でございます。北に別府湾、南に霊山、東には九六位山、西には高崎山と、実に変化のある景観が広がっています。これらを生かした観光都市として、市の発展を支えております。
 また、古くは新産業都市、後には地方中核都市として、重厚長大産業だけでなく、シリコンアイランドとも言われるほど、半導体や知識集約型の産業も育ててまいりました」
 市長は、工業生産と観光産業の数値を並べて、如何に大分市が発展してきたかを、力強く演説した。しかし、彼が入れた力ほどは、誰も聴いていなかったと思う。
「このように、観光と工業だけでなく、我が大分市は、文化の面でも多くの歴史が語り継がれています。過去には、フランシスコ・ザビエルが、時の大名、大友宗麟に招かれて、大分の地を訪れております。そのフランシスコ・ザビエルが大分に最初に足跡を記した場所が、瓜生島でございます。
 瓜生島は、別府湾に浮かぶ島でしたが、慶長の大地震で海に沈んでしまいました。その様が、あまりにアトランティス大陸の伝説と類似しておりますため、東洋のアトランティスとして、今や、大分市民だけでなく、日本国民に知れ渡るまでになりました」
 やっと、本題に辿り着いたかといったところである。
「今回、最新鋭の潜水調査船が竣工するにあたり、文部科学省に要請し、その船の処女航海を瓜生島調査に当てて戴いた次第です。同時に、船の名前も『うりゅう』と名付けて頂きました。
 さて、皆様の前に並んでおられる四名の海の男達は、『うりゅう』の乗組員達です。お名前や担当部署は、文部科学省からいらしております浦田課長代理から、この後で説明があると思いますが、是非とも、今回の調査を成功させて頂き、我が大分市の文化と歴史を世界中に広めて頂きたいと思っている次第です」
 やっと、市長の挨拶が終わったと思ったら、彼はつかつかと歩み寄ると、村岡らに握手を求めてきた。彼に一番近い場所に居た浦田が手を伸ばすと、がっちり両手で握手したが、すぐに手を離し、隣の村岡に手を出した。
 村岡も、軽く握り返したが、今度は直ぐには手を離さなかった。それどころか、他の三人も呼び寄せ、手を取って村岡との握手の上に重ねていった。五人の手が重なり合ったところで、彼は満面に笑みを浮かべて、取材陣の方を見た。
 眩い光が、何度も明滅した。
 フラッシュが完全に収まるまで、彼は手を離そうとしなかった。
 村岡は、政治家のデモンストレーションに、最後まで付き合わされた。
 市長は、撮影の終了と共に、すっと消えた。幽霊の如き素早さだった。
「さて、今から『うりゅう』について簡単にお話させて頂いた上で、乗組員の紹介と質疑応答とさせて頂きます。
 申し遅れましたが、私は文部科学省の浦田でございます」
 浦田は、乗組員よりも先に、自分の名前を売り込んだ。
「御存知の通り、我が国は四方を海に囲まれております。海から食料を得、急峻な崖を避けて移動するためにも用い、まさに、我が国の文化は、海に育まれてきたと言っても過言ではありません。しかし、海は、時として我々に牙を剥き、多くの人命や財産を奪うこともありました。
 移動式潜水作業基地『うりゅう』は、こうした我が国の歴史の中で、水中の遺跡や沈船の調査、あるいは海底の様々な資源の開発を行うため、世界で始めて、移動能力を与えられた潜水作業基地として、竣工したのです。
 移動能力は、母港の横須賀港から大分港までの単独航海で、証明されました。潜水作業基地が、一切の支援を受けずに自力で千キロ以上も移動したのは、世界で始めての事なのです。
 『うりゅう』は、移動能力の他に、高い自立活動能力や、最新の燃料電池技術、分散型のコンピュータシステム、高度な自動化システム等、科学の粋を尽くした潜水作業基地なのです。
 これらの装置の機能は、『うりゅう』において性能評価が行われ、『うりゅう』以外の場所、特に一般家庭において応用される事が期待されています。ある意味、海底の未来住宅と言っても良いのではと、私は思っております。
 その『うりゅう』が、名前の由来ともなった瓜生島を、処女航海の中で調査させて頂ける事は、真に光栄であり、同時に御尽力下さった皆様に、この場を借りて感謝の気持ちを伝えたいと思います」
 言葉を切って、浦田は頭を下げた。
「少々、私の前振りが長くなってしまいましたが、『うりゅう』の乗組員を御紹介させて頂きます。まず、私の隣は、『うりゅう』の初代スキッパーの村岡です。続きまして、今回の学術研究員の江坂准教授です。そして、潜水リーダーの瓜生、最後がカメラマンの小和田です。彼ら以外に、『うりゅう』に保安要員として残っており、ここにはおりませんが、航海士の浦橋とエンジニアの魚塚、ダイバー鮎田の三名が、『うりゅう』に乗り組みます。
 『うりゅう』の装備については、スキッパーの村岡が説明します」
 村岡は、マイクを受け取った。
「村岡でございます。『うりゅう』乗組員を代表して、『うりゅう』の機能と装備等を説明させて頂きます。
 まず、潜水作業基地のメリットを御説明します。御存知の方も少なくないと思いますが、潜水作業は、減圧との戦いです。作業を行う深さや作業時間で、減圧時間はどんどん長くなります。しかも、一度浮上すると、次の潜水まで、充分な時間を空ける必要があります。つまり、潜水深度を増すに従って、減圧や待機の時間ばかりが長くなり、実質の作業時間がほとんど無い状態になってしまいます。
 これを改善する方法として、飽和潜水で連続作業を行う事が考えられます。つまり減圧しないのです。
 潜水夫は、常に水圧が掛かった状態で生活を行い、減圧は行いません。この場合、作業初日に加圧し、作業最終日に減圧するだけとなりますので、効率も良いし、減圧時の潜水病羅患のリスクも減らすことができます。
 飽和潜水作業を実現するためには、船上に加圧タンクを設け、水中エレベータで海底と加圧タンクを行き来する方法と、海底に加圧タンクと同じような潜水作業基地を設置し、そこで寝泊りする方法があります。前者は、海象の影響を受けやすい欠点があります。後者は、設置と撤去が面倒な欠点があります。
 両者の利点を生かし、同時に欠点をカバーする手段として、フランスのプレコンチナン計画の時代から提案されていた手法を、この『うりゅう』が初めて実現しました」
 村岡の本心は、『うりゅう』の基本計画を提案し、完成直前まで手塩にかけて事を自慢したかった。
 だが、それをしてしまうと、現時点の責任者の浦田の立場が無くなってしまうし、今後の『うりゅう』の運用に不透明な部分があるだけに、浦田を敵に回さない配慮が必要だった。
「先程、浦田からも説明がありましたように、『うりゅう』には最新の技術が適用されています。そういった技術を生かした装備を紹介したいと思います。
 なんと言っても、最初は、燃料電池でしょう。『うりゅう』成立の鍵は、燃料電池だったと言っても、過言ではなりません。燃料電池は、『うりゅう』の全電源を賄うだけでなく、廃熱は暖房に、生成物の水は飲料にと、余すところなく使っています。
 『うりゅう』が活動する海底は、海水温が低い場合が多いのです。『うりゅう』は、最新の断熱材を使用していますが、暖房は必須です。電源供給で捨てられる熱を暖房や給湯に使うため、燃料電池システムの総合の熱効率は八十%を超えます。これは、現時点では世界最高レベルの高効率なのです。高効率のお陰で、『うりゅう』は、二週間以上も何の支援もなく活動することができます。更に、燃料電池の燃料補給も、水中でも行える機能を備えています。
 この燃料電池からの電源で動作する主な装備品を、紹介します。
 『うりゅう』の主要装備は、AからGまでの頭文字で表されるA1からG1の七種の装備品があります。
 A1は、自律型ロボット潜水調査機です。指定海域の撮影や水質調査、簡単な資料採取を行います。B1は、ブリッジ兼用の緊急脱出用水中エレベータです。水上航行時は船橋ですが、潜水時には、船体からケーブルで海上まで浮上させることもできますし、本体から切り離して緊急浮上させることもできます。C1は、有線の作業ロボットです。A1とは異なり、ケーブルで『うりゅう』と繋がっているので、『うりゅう』のモニターを見ながら細かな作業をさせることができます。
 D1は、二人乗り潜水円盤です。構造が簡単で小型な潜水艇です。E1は、水中エレベータです。『うりゅう』を海上に置いた状態で、深海との行き来をする際に用います。F1は、作業機械の集合体です。G1は、GIMスーツです。『うりゅう』が潜れない深海でも、GIMスーツなら作業ができます。
 これらの装備の内、D1とG1は、常圧のままで作業を行う事ができます。A1とF1は、高度な自律機能を有し、プログラム次第では、有人に匹敵する作業を無人で行える能力を持っています」
 主役の座を奪われる危機感を盛ったらしく、浦田が割り込んできた。
「さて、長々と話して参りましたが、ここからは、質疑応答とさせて頂きます。どうぞ、どなたからでも御質問ください」
 村岡は、簡単な演説を考えてきていたが、浦田は、自分だけしゃべり、村岡には時間を割かなかった。質問の中で、用意してきた事を織り交ぜるしかなさそうだった。
 直ぐに、ほとんどの記者が手を上げた。浦田は、その中の一人を選んだ。
「大分中央新聞の佐々木です。首藤市長が話されたように、大分市民は、瓜生島の存在を疑う者はおりません。そこで、村岡さんと江坂さんにお伺いします。今回の瓜生島調査の目的と抱負をお聞かせください」
 まるで、台本のような質問だった。それに、いち早く反応したのは、江坂だった。
「僕は、今回の調査には、それほどの期待を持っていません。沖の浜の伝承は、過去の調査から見ても、確度の高い内容だと思います。しかし、四百年余り前の出来事ですので、考古学的な価値は、ほとんど無いと思います。もちろん、この地は、南蛮貿易で栄えていましたし、キリシタン大名を拝していたことでも知られています。それらを裏付ける意味の調査価値はあると思います。ただ、『うりゅう』の性能を考えると、あくまでも今後のための予行演習であり、実働時の問題点の叩き出しの意味が大きいと考えてください」
 大分市民の反感を買いそうな江坂の回答に、浦田は心穏やかではなさそうだった。しきりに、村岡を小突くのだった。
「私から、補足を兼ねてお答えします。『うりゅう』の性能は、ここまでの航海でも垣間見せてくれました。しかし、本来の用法では、定点においてダイバーが飽和潜水状態を継続して活動を行うための拠点となることにあります。瓜生島の調査では、深度が大きいために、過去の調査では手が付けられていなかった別府湾最深部を含む海底の調査を行います。当然、新しい発見があると思います。その意味では、今回の調査には大きな意義があると思います。
 ただ、江坂が申しましたように、『うりゅう』の性能は、遥かに高いところにあります。今回の調査を遥かに超える成果を上げていくことが求められており、我々も高い意欲を持って、それに望んでいこうと考えています。そのためには、瓜生島調査での経験が重要であると、私も江坂も、思っています」
 浦田は、満足したらしく、小突くのをやめた。
「タウン大分の田中です。瓜生さんにお伺いします。瓜生さんは、大分の御出身だそうで、船にも同じ名前が付いていますが、御感想をお聞かせください」
 瓜生は、いきなりの指名で驚いたらしく、太短い首を伸ばした。
 実は、村岡も焦っていた。彼を直接指名しての質問があるとは考えていなかった。口数が少なく、同時に口下手でもあった。だから、質問の大部分は、村岡と江坂でカバーするつもりだった。
 本人も、質問を受けるとは思っていなかったらしく、おどおどするだけで、なかなか声が出てこなかった。背丈こそ低いが、筋肉の鎧を着ているような身体つきは、九州男児を絵にしたようなものだが、今の彼は、助けを求めて村岡に視線を送ってきていた。
 村岡は、顎をしゃくって、自分で答えろと合図した。
「以前……じゃなくて子供の頃やから、瓜生島伝説を聞いた時、苗字と同じなんで他人事やない気がしてました。………苗字と同じ名前の船に乗って、瓜生島を調査できて、光栄というか、ああ……いい気分ちゅうか、そんな感じです。……あの、こんなんでいいでしょうか」
「はい、ありがとうございます」
 つかえながらも、無難に答えてくれたので、村岡はほっとした。ただ、スマートな回答を期待していたのか、浦田はため息をついた。
「豊後ラジオの坂下と言います。江坂さんと小和田さんに質問します。今回の調査では、色々な遺物が発見されると思いますが、その保存状態をどんな風に予想されているのでしょうか。また、カメラマンとして、どのように被写体を捉えようと、お考えでしょうか。私は、空気に触れていないので、保存状態は良いと思います。うまく撮影できるかどうかが、勝負ではないでしょうか」
 本当は、瓜生以上に、この男には喋らせたくなかった。それを見透かしたか、江坂が先に話し始めた。
「保存状態は、予想がつきません。素人の方は、空気に触れなければと思われるかもしれませんが、遺物の劣化の原因は、空気だけではありません。周囲の土砂のPHや有機物の影響、それに四十万都市の下水も関係あるでしょう。少々の劣化は、同時代の品が数多く残っているので、それほど問題にはならないでしょう。遺物の価値は、何があるかが大きいと思いますよ」
「あと、撮影技術を心配しているようだが、大当たりだよ。俺は、女の子を綺麗に撮るのは得意だが、四百年以上も前のガラクタとなると、ありのままに写すしかできそうもないな」
 地元民のロマンをガラクタ呼ばわりとは、流石に村岡も慌てた。
 小和田は、こうして敵を作っていくそうだ。
 カメラマンとしての腕も一流だ。戦場カメラマンも経験しているし、雪山登山も、スカイダイビングもやる。それ以上に、ダイバーとしての腕があり、ヘリウム潜水の経験も豊富だ。彼は、地球上のありとあらゆる種類の危険を経験している。
 だから、本来なら引く手数多の筈だが、性格や生活態度、言動、それに高額の報酬を要求するので、実力ほどの仕事は来ない。生きてきた日数分、敵を作ったと本人が言うくらいだから、世界中に敵がうようよ居るのだろう。
 『うりゅう』の乗組員の中で、唯一、村岡自身が口説き落として連れてきた人物だが、なぜ、小額の報酬にもかかわらず、村岡のもとに来たのか、よく分かっていない。
「次の質問をどうぞ」と、村岡が悪い余韻を断ち切った。
 数名が手を上げたので、その一人を指名した。
「中央TV福岡支局の江頭です。二点、お伺いします。一点目は、村岡さんは、元々は文部科学省のキャリア官僚だったそうですが、なぜ『うりゅう』のスキッパーになられたのでしょうか。二点目は、村岡さんが文部科学省におられた時に、『うりゅう』プロジェクトのリーダーとして、経済産業省にも掛け合って予算割合を調整したと伺っております。経済産業省にはどんなメリットがあるとみて、予算調達の調整をとったのでしょうか」
 村岡にとって、微妙な質問内容だ。村岡は、意識してにこやかな表情を作った。
「お答えします。一点目は簡単です。『うりゅう』に乗ってみたかったからです。あなたは、文部科学省の事務所の中で椅子に座るのと、『うりゅう』に乗るのと、どちらをやってみたいですか」
「まあ、『うりゅう』でしょうね」
「私もそうでした。二点目ですが、確かに私は経済産業省と交渉しました。それをまとめたのは、隣に居る浦田君です。その事は置いておくとして、『うりゅう』は、最新の技術をふんだんに取り入れています。
 最大で十人が、狭い船内で一ヶ月以上に渡って生きていかなければなりません。大深度の飽和潜水となると、減圧にかかる日数は、月まで行く時間よりも長くなります。ほんの数百メートルの距離でしかありませんが、数十万キロの距離に匹敵するのです。そんな苛酷な環境ですから、多角的に乗組員の負担を軽減するために、様々な装置が組み込まれています。これらの装置は、民生品への転用が容易ですので、経済産業省というより、国民への還元が見込めるのです。
 経産省も、そのあたりを理解してくれたようです」
 質問者だけでなく、多くの記者が頷いてくれた。
「二豊報道の山本です。村岡さんのお父様は、SF作家の村岡定道氏だそうですが、お父様は、今回の瓜生島調査をどのように話されていたのでしょうか」
 父の出身地ということもあるだろうが、売れない作家である父を知っているとは、驚きである。作家では食べていけず、定年まで勤めていた会社を辞めることもできなかったのだ。姉を知っているなら、分かるのだが……
「あまり話す機会が無かったのですが、私が『うりゅう』に乗ると知って、父は大喜びでした。もちろん、喜んだ理由は、私から小説のネタを仕入れられると考えたからです。今回の調査で、父に親孝行したいと思います」
 父の件が出たから、姉の件も質問されるのかと思ったが、次の質問は違っていた。ただ、姉の件よりも始末が悪かった。
「経済新聞社の越智です。村岡さんにお伺いします。『うりゅう』は、経済産業省からも予算が割かれています。先程来のお話ですと、『うりゅう』に使われている新規技術の間接的な還元しかないように取れますが、本当にそうなのでしょうか」
 村岡の退路を断つために、持って回った言い方を始めていた。好きなだけ話をさせたら、浦田がしゃしゃり出て、始末が悪くなる。村岡は、記者の言葉を切った。
「質問の意図が見えません。背景ではなく、質問内容を具体的に言ってください」
「では、単刀直入に申し上げます。『うりゅう』は、海中の遺跡の調査もさることながら、海底油田の調査や開発にも使用されると聞いていますが、いかがでしょうか」
「その件につきましては、私の……」
 身を乗り出すように、浦田が口を開いたが、素早く村岡が遮った。
「ちょっと待ちなさい。私を指名しての質問ですので、私が答えます」
 筋を通され、浦田は身を引いた。
「六年前、『うりゅう』プロジェクトを立ち上げた際、その最大の目的に、海底遺構の調査を掲げました。その理由は、現在の温暖化現象と関連があります」
 温暖化現象を口にしたところで、場内の雰囲気が変化した。
「温暖化に関係する問題は、環境問題を中心に、様々な問題があります。その中でも、最も象徴的な問題が、海面上昇でしょう。既に、世界中で海面上昇を思わせる現象の報告がなされています。ベネチアの街が大潮の度に冠水している事は、テレビでも繰り返し報道されています。人々は、広場に設けられた木道のようなところを歩き、海水を避けています。ツバルでは、二〇〇二年から海水の異常出水が発生していて、年々酷くなっている状況です。
 今後、百年間に、海面は一メートル程度、上昇すると考えられていますが、最大の二酸化炭素排出国であるアメリカと中国は、自国の目先の利益を優先し、排出量の制限をやろうとしていません。このような状況ですから、海面上昇は、避けがたい問題であり、予想以上に悪化する可能性もあるのです。
 ヨーロッパアルプスでは、氷河の後退が顕著になっていますし、北極海は、夏に氷が消滅する寸前になっています。南極でも、棚氷が次々と流れ出しており、危機的な状況といっても差し支えないでしょう。
 もし、南極大陸の氷が融けた場合、海水面が上がるだけでなく、津波が押し寄せる危険性もあるのです。南極大陸は、三千メートルにもなる氷の重みで、数百メートルも沈んでいます。氷が融けて、その重みから大陸が開放されれば、大陸自体が地震を伴って隆起してくる可能性もあるのです」
 リップサービスである。
 温暖化では、南極大陸の氷は、逆に増えると考えられている。南極大陸は、あまりの寒さで、空気中の水分はダイヤモンドダスト等で吐き出してしまっているので、地球上で最も乾燥している。ところが、温暖化すると、湿った空気が入りやすくなり、降雪量が増えることが考えられている。村岡自身は、この説を信じていなかったが、否定できるだけの証拠も持っていなかった。
 南極大陸の氷が解けないとなると、どうして海面が上昇するのか。要因の一つは、海水温上昇による海水自体の膨張である。
「現在、旧約聖書にあるノアの方舟伝説は、事実だったのではないかと考える学者が増えています。その舞台は、黒海です。黒海は、氷河期には干上がっていたと考えられています。しかし、氷河期の終焉と共に地中海の水位が上昇し、ボスポラス地峡を海水が越えるようになったのです。ボスポラス海峡ができて一年ほどで、黒海は今の水位まで上昇したのです。この大きな変化が、ノアの方舟伝説になったと考える学者が居ます。
 海底遺構を調査する目的は、単に先史時代の遺跡を発掘するという学術的な調査だけでなく、急激に上昇する海面に怯えながら、生き残りの道を模索していた古代人の様子を知る事にも繋がり、温暖化が進む現代において、多くの知識を与えてくれるでしょう。
 特に、二酸化炭素の二大排出国であるアメリカと中国の指導者には、このまま温暖化が進めば、最終的には自分自身の息の根を止めることになる事を知る切っ掛けにもなるでしょう。なぜなら、氷河期文明は、一つとして現代の文明に繋がっていないのです。メソポタミアも、エジプトも、氷河期文明との繋がりは見られません。海面上昇を生き延びた文明は、存在しないのです」
 村岡自身、興奮を感じていた。これこそ、彼が言いたかったことなのだ。
「私達が、海底遺構の調査を重要視するのは、お話したような目的があるからなのです。もちろん、『うりゅう』の潜在能力は、計り知れません。海底油田の開発に用いれば、大いに貢献できるでしょう。しかし、海上からの掘削技術が確立している海底油田開発で『うりゅう』を用いるのと、『うりゅう』でなければ難しい海底遺構の調査に『うりゅう』を用いるのと、どちらがより効果的な使用方法か、皆さんにはお分かりになるでしょう」
 越智は、憮然とした表情で座った。
 隣を見ると、浦田が顔を真っ赤に染め、村岡を睨んでいた。
「次の質問をどうぞ」
 村岡の演説の後だけに、記者達も質問しにくそうだったが、一人が手を上げた。
「毎朝新聞の佐伯です。江坂さんにお伺いします。瓜生島以降の調査は、どこが予定されていますか。また、どのような場所の調査が有効でしょうか」
「その件につきましても、私がお答えします」
「待ちなさい。江坂君への質問です。横槍を入れるのは、ルール違反ですよ」
 浦田が、先程の村岡の回答に修正を入れたがっている事は分かっていた。ここで、修正されては、村岡の演説も無駄になってしまう。「ルール違反」だと、強い態度に出たのは、この場を村岡が仕切る事を、浦田にも、記者達にも、明確にしておくためだった。
「計画があるのは、沖永良部島の海底神殿と言われている場所です。ここは、海上にある間に作られたグスク様の建造物が、地殻変動によって海底に没したと考えられていて、氷河期文明とは異なるようです。しかし、水深が深いために未調査の部分があり、ここの調査を行う事で、今後の調査計画の立案に役に立ちと考えられます。
 これ以降は、個人的な希望となってしまいますが、台湾東岸や、スンダランド、イス文明、黒海等が候補になるでしょう。台湾東岸は、調査範囲が狭く、『うりゅう』の貢献度は大きくならないでしょうが、それ以外の海域は、調査範囲が非常に広く、『うりゅう』無しでは考えられません。調査は、困難を極めるでしょうが、その価値は非常に高く、是が非でも、調査を成功させたいと考えています」
「すみません。スンダランドとか、イスとか言われましても、場所も、特徴も、分かりません。説明をお願いします」
 村岡は、江坂に簡単に答えるように合図を送った。
「どこも、決定的な証拠が見つかっていないので、場所だけの説明とします。まず、スンダランドは、スンダ海に在ったとされる文明です。イス文明は、北海の辺りにあったとされる遺跡です。どちらも、氷河期には海面に出ていたと考えられ、特に、イス文明は、ドーバー海峡付近を流れていたと考えられるヨーロッパ川と呼ばれる大河の周辺に、大きな文明が存在したと思われます。フランスの首都パリの名は、イスに負けないとの意味もあるそうです」
 江坂が回答している間が、村岡にとって最も落ち着いていられる。二人の目的意識は、ほとんど一致している。その対極にいるのが、浦田だ。だが、回答内容が推測できる分、小和田や瓜生より組みしやすいのかもしれない。
「ちょっと訂正がありますので、御紹介します」
 浦田が立ち上がった。
「今後の『うりゅう』の予定ですが、瓜生島調査の後、一度、横須賀に戻して艇体の検査を行った後、尖閣諸島での資源調査が組まれています。ここで、支援船の『わだつみ』との連携も確認することになっています」
 村岡は、驚いた。そんな話は聞いていなかった。浦田を見ると、してやったりとばかりに、胸を張っている。
「待てよ! おい、コラ! 俺様の契約はどうなってるんだ。一年契約だ。海底遺構の撮影ができるから契約したし、契約書にも調査対象箇所が明記されてるんだぞ。契約違反だ!」
 椅子を飛ばして、小和田が立ち上がった。村岡も立ち上がり、小和田を背中で制しながら、浦田からマイクを奪い取った。浦田も抵抗したが、体格差が大きく、村岡の右手一本で払い除けられた。
「みなさん、御静粛に。簡単に説明します」
 村岡が「説明」と言ったので、騒然となりかけた記者会場も、落ち着きを取り戻した。
「文科省と小和田との契約では、今後一年間に、瓜生島調査と沖永良部島海底遺構を行うことが、明記されています。また、一年間に行われる全ての学術調査に随行することも、書かれています。ただし、二つの学術調査は、一年以内に行われれば、契約違反にはなりません。ただ、『うりゅう』の運用には危険が付きまとうため、艇体の検査と整備には、十分な時間を割く必要があります。そのため、どんなに多くても年に三回のミッションとなります。従って、資源調査が計画あったとしても、この一回のみとなるでしょう。
 文科省でも、それを把握した上での日程変更だと思います。この辺りは、後程、浦田から説明があるはずです。
 また、文科省所属の船ですから、文科省としての運用、すなわち学術調査の優先度や目的があるはずです。私が在籍していた時とは、日程が変わっているので、この辺りの内容も、浦田に聞いてもらうしかありません。もちろん、最初から他の省庁の要望が、文科省や大学等の学術調査より優先度が高く設定されることはないと思います。
 色々と申し上げましたが、我々は明日からの調査に備えなければなりませんので、これにて失礼させていただきます」
 江坂は、空気を読んで、先頭に立って会場を出て行った。
 瓜生は、小和田の左腕を脇に抱え込んだ。瓜生は怪力の持ち主である。片腕を取られただけで、小和田の動きは封じられた。村岡もそれに習い、小和田の右腕を抱え込んだ。興奮して浦田に罵声を浴びせ続ける小和田を、二人で抱えあげるように浦田の後ろをすり抜けた。
 記者達から、質問が飛び交ったが、全て笑顔で受け流しながら、騒然となった会場を後にした。

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  1

 ウィングで受ける風は心地良い。
 双眼鏡を手にしているが、ウィングに出る口実のために持っているようなものだ。彼にとってのこの場所は、一人になれる艦長室よりも居心地が良い。
 「数日後には台風が接近する可能性がある」と気象庁から予報が出ている事が信じられないくらい、日本海は穏やかだった。陸は、夏休み最初の週末で、猫も杓子も行楽地へと押し寄せているはずだが、日本海は細波しかなかった。遠くに鳥山が立ち、それを目指して漁船が集まりつつあるのが唯一の賑わいと言えた。
 その漁船群とも十分な距離があり、かつ右舷後方に遠ざかりつつある。それ以外に船影は無く、気分の良い航海だ。だからこそ、乗組員の緊張感が緩まないようにしなければならない。
 もう一度、双眼鏡で周辺を確認する。
 左舷十時の方向から前方へ、更に右舷へと、ゆっくりと双眼鏡を向けていく。右舷二時の方向まで見渡し、双眼鏡を下ろした。
 やはり何も無い。
 水兵の肩をポンと叩き、艦橋に入った。双眼鏡をキャプテンシートの横に固定すると、そこには座らず、階下のCICに下りていった。
 彼が指揮するイージス護衛艦は、十二ノットで舞鶴港に向けて航海を続けた。
 艦橋の左右のウィングにそれぞれ一人の水兵の姿が見えるだけで、二百名を超える自衛官が乗り組んでいるとは思えない。のんびりとしているように見えても、イージス艦の中は、戦時体制と言ってもよかった。
 平時の第三配備から一段上がった第二配備に切り替わっていたのだ。通常の三交代勤務と違い、二交代制となっているせいで艦内はごった返している。
 海上自衛隊の護衛艦もイージス艦への転換が進んできたが、この『さかなみ』は最新鋭である。舞鶴に配備されたのは、今年の初めである。
 『さかなみ』は、建造計画が決まった時点から舞鶴への配備が決定していた。その最大の理由が、単独の弾道ミサイル迎撃能力である。
 これまでのミサイル迎撃システムは、イージス艦の高度なデータリンク能力を生かし、早い段階での迎撃を可能にした。だが、現実には、迎撃ミサイルの性能にも、レーダー追跡と軌道計算能力にも、問題があった。そのどちらもアメリカ側で開発しており、日本は共同開発と言いつつ、システムの中身を見る事はおろか、口出しさえもできなかった。
 これに業を煮やした防衛庁と国内メーカーは、独自の迎撃システムの開発に着手した。ただ、アメリカの手前、大げさな開発はできず、表向きは、対艦ミサイルの迎撃システムという事になっていた。システムの骨子は、遠距離発射の対艦ミサイルを発射時点の軌道から接近経路を予測し、艦の遥か手前で迎撃ミサイルを用いて迎撃する事を目的としていた。
 長距離の対艦ミサイルは、航空機から発射された直後に海面付近までダイブして、艦載レーダーの探知から逃れる。その後、発射時に航空機から得た情報で敵艦の位置を予測し、高速で接近する。敵艦に接近すると、少し上昇して搭載のレーダーで敵艦を索敵する。上昇する事で敵艦のレーダーに見つかってしまうが、充分に接近しているので、迎撃は間に合わない。最後には敵艦の喫水線付近に突っ込んでいく。
 現在では、超水平線レーダーが開発されたが、艦船は発見できても、小さなミサイルは、長波長のレーダー波から漏れてしまい、発見が難しい。だから、長距離の対艦ミサイルは、今でも効率的な対艦攻撃手段なのである。
 防衛庁が開発を進めてきた迎撃システムは、敵の航空機が対艦ミサイルを発射した直後に、迎撃ミサイルを発射する。このミサイルは、自らのレーダーで敵ミサイルを索敵し、その情報をイージス艦に送る。イージス艦では、このミサイルが送ってくる情報を基に、時には複数の標的を追尾し、同時にミサイルを誘導する。ミサイルは、標的を指示されると、高空からほぼ垂直に降下して敵の別のミサイルをピンポイントで撃墜する。
 この技術は、高速で移動するミサイルに直交する軌道から攻撃をするため、精度の高い軌道予測が必要になる。この技術は、弾道ミサイルの迎撃技術にも転用できる。
 防衛庁は、国内メーカー数社と共同開発を行った。索敵能力が高く、かつ高速で迎撃コースを指示する能力を持つレーダーシステム。高い姿勢制御能力と、高度なレーダーホーミング能力を持つミサイル。両者を結ぶ高速で耐ジャミング能力に優れたデータリンク装置。
 最終的には、政情不安が続く朝鮮半島を鑑み、ミサイルの迎撃可能高度を大幅に増大させる事で、第二の弾道ミサイル迎撃システムとしての開発を急いだのである。
 表向きには、対艦ミサイル迎撃システムだが、実際にはほぼ全ての種類のミサイルの迎撃能力を備えていた。
 しかし、同時期に、K国はICBMをロフテッド軌道で打ち上げる実験を始めた。このため、誘導システムを流用し、ロケットモータを大幅に強化してロフテッド軌道に対応できるミサイルシステムを追加開発した。
 ロケットモータが大型化したため、従来のイージス艦に搭載する事は難しく、イージス艦自体も再設計されることになった。『さかなみ』は、このシステムを初めて装備した護衛艦になった。
 艦橋以上の緊張感が支配するCIC室(戦闘指揮所)は、艦橋の斜め下、艦長室の真下にあった。レーダー監視、攻撃管制、防空指揮所等が同室にまとめられ、ソナー室と通信室が隣接していた。ただ、機器の保護と、戦闘時の損傷を防ぐために、窓は全く無く、分厚い防弾壁に囲まれていた。
「どこかの国が、本艦の性能をチェックするために、何か軍事行動を起こさないといいのだが・・・」
 艦長が、ぼそっと防空司令官に漏らした。
 司令室にいた他の兵達に聞かれないように、防空司令官を引き寄せて小さな声でささやいた。司令官も、頭を寄せてきた。
「F35がスクランブル配備になった時も、ロシアも中国も意図的な領空侵犯をやりましたね」
「そうなんだよ。空自からの報告だと、電子警戒機が少し離れた場所に滞空し、後続の編隊が領空を掠めて飛んだらしい。当然、スクランブルが掛かって、F35が全力で現地に向かう事になるから、およその性能が見えてくるのさ」
 副官は、眉間に皺を寄せた。
「そうすると、本艦にもちょっかいを出してくる可能性がありますな。そのための第二配備ですか?」
 艦長は、小さく頷いた。
「問題は、対艦ミサイルの迎撃性能を見ようとするのか、弾道ミサイルの迎撃性能を見ようとするのか」
 渋面を崩さず、副官の顔を見た。
「対艦ミサイルだと見せてやらないでもないが、弾道ミサイルとなると・・・」
「でも、我々が迎撃体制に入るような餌をまかないと」
「違うな。我々が手を出すまで、やる事を段々えげつなくしてくるさ。迎撃せざるを得ない状況を探ってくるさ」
「そうでしょうか。私が、あちらさんの立場なら、いきなり危機的状況を演出して、こちらの指揮命令系統がどの程度機能するかを見ますがね」
「おいおい、そんな事は冗談でもやめてほしいな。特に、ミサイル迎撃は政治家が絡んでしまうから、実際にあった場合には、責任問題とも絡んで対応は不可能だろうな」
「つまり、艦長が乗艦している間には、そんな事は起こってほしくないと」
「当然だね。もちろん、国民のためには、私が乗艦していない時でも決して起きてほしくは無いがね」
「同感です」
 CIC室を副官に任せ、艦長は艦橋に上った。
 『さかなみ』は、十二ノットで日本海中央部から母港の舞鶴港を目指して航海を続けていた。辺りは、夕闇に包まれようとしていた。遠く、西の空の雲の切れ間には夕焼けが残っていたが、雲の流れは速く、台風の接近を予感させた。梅雨明けが遅れているせいか、『さかなみ』の周囲は雲が厚かった。
 台風は、小笠原諸島の西方海上で迷走していて、梅雨前線を刺激して各地で局地的な雷雨が伝えられていた。幸い、『さかなみ』までは距離があるので、風と波は影響を受けていなかった。作戦司令室で見たレーダーには漁船のエコーが数多く映っていたが、まだ漁には支障が無いのだろう。
「私は、艦長室に戻る。舞鶴湾に近付いたら、呼びに来てくれ」
 副官に言い残すと、右舷側のすぐ後ろにある艦長室に戻った。
 艦長は、艦長室で唯一の小窓を覗いた。
 夕闇の中で、漁船は集魚灯を煌々と照らしていた。
「あれでは底にいても目が眩みそうだ」
 窓を離れ、帽子をフックに掛けた。デスクにつくと、航海日誌を取り出した。幸いなことに、今日も何も書くことがなさそうだ。
 そう思った時に、インターフォンが鳴り始めた。
 CIC室からだった。
「どうした?」
 ロシアあたりの国籍不明機だろうと、高をくくっていた。ところが・・・
「弾道ミサイルを補足しました」
「弾道ミサイル? 何だ、それ?」
 予想もしない内容に、面食らっていた。
「だから、弾道ミサイルです!」
 防空訓練の話は聞いていない。
 これは実戦か?
 一気に緊張が高まった。
「発射地点は特定できてるのか?」
「K国の東海岸です」
「ロケットじゃないのか?」
「事前通告はありません。方向も東ではなく、南東を向いています」
 通常のロケットは、地球の自転を利用するために、自転方向である東に向かって打ち上げられる。軍事衛星や測地衛星は、極軌道と呼ばれる南北方向に打ち上げる場合もある。しかし、ロケットを南東方向に打ち上げることは無い。
 艦長は、ミサイルだと確信した。
「すぐに行く。着弾予想地点と時刻を割り出せ。迎撃プログラムをスタートする。プログラム通りに行動するんだ。大丈夫だ。訓練の通りにやればいい」
 インターフォンを切り替え、艦橋を呼び出して停船を命じた。
 掛けたばかりの帽子を再び手に取ると、艦長室から駆け出した。
 つい先程まで居た時とは、CIC室の雰囲気はまるで変わっていた。
「着弾予想地点はまだですが、進路は東京の上を通過します。それも、ど真ん中です」
「ミサイルの準備は?」
「三発が準備できています。いつでもOKです」
「防衛省とは連絡はついているのか?」
「回線は繋がっていますが、応答はありません」
 緊急対処要綱では、首相の承認を得られない場合に、防衛大臣の判断が許されている。ただ、最終判断は、現場の指揮官、つまり艦長に委ねられる。
 仮に、ミサイルだとしても、東京を通過するだけのミサイルであってほしい。通過するだけなら、房総沖に落ちるミサイルなら、迎撃をしなくてもすむ。
 でも、目標が本土となれば、大臣の命令が無くとも迎撃を命じなければならなくなる。迎撃に成功しようが、失敗しようが、艦を降りることになるかもしれない。そんな事態には遭遇したくない。
 マイクを取るなり、「全艦放送に切り替えろ」と命じた。隣に居た水兵が、切り替え操作を行った。それを目で確認し、艦長は話し始めた。
「艦長の久我山である。これより弾道ミサイルの迎撃体制に入る。これは訓練ではない。繰り返す。これより弾道ミサイルの迎撃態勢に入る。これは訓練ではない。諸君らの実力を見せてほしい。以上」
 マイクを置くと同時に、「第一配備に切り替えろ」と命じた。
「今、着弾予想地点が分かりました。東京です。北緯三十五度四十分、東経百三十九度四十分を中心にして、北西から南東へ長い楕円の長径が百キロメートル、短径が二十キロメートルの範囲内に着弾します。予想時刻は、今から八分です」
 艦長の淡い期待は、打ち砕かれた。本土に着弾する。弾頭が付いていなくても、死傷者が出ることは必至だ。
「中心はどこだ?」
「杉並付近ですが、標的が東京の都心であることは、疑う余地がありません」
「私見は慎め!」
「アイ・サー・・・」
 だが、彼の緊張と危機感は分かった。七十五年ぶりに東京が空襲を受けようとしているのだ。黙ってはいられなかったのだろう。ミサイルの着弾予想範囲には、皇居も霞ヶ関も新宿も渋谷も入っているのだから。
「迎撃に残されている時間は?」
「一分十八秒、十六、十五」
 何とかして、大臣の命令が欲しかった。
「大臣とは、連絡はつかないのか?」
「まだです」
 K国軍に試されているような気がした。それならば……
「迎撃を行う。警報を鳴らせ。甲板とウィングの兵に艦内への退避命令を出せ。艦橋にミサイル発射時の防護装備をさせろ」
 けたたましいサイレンが艦内に鳴り響いた。
 艦橋も、ミサイル発射時の音と光に対応すべく、バイザー付きのヘルメットを大慌てで取り出していることだろう。
「迎撃可能時間が、一分を切りました」
「連絡はまだか?」
「まだです!」
 オカのエライサン達は、現場を知らない。
 迎撃の命令は、勇気がいる。自分の進退を賭けて判断することになる。己の保身と野心だけで行動を決める政治家達が、この重大な決断を行うことの危うさは、どう表現すれば良いのだろう。
 K国が、弾道ミサイルに搭載可能な核弾頭の開発に成功したとの話は聞いていない。
 しかし、これが核弾頭を装備していたら、たった一発で政府の指揮命令系統を粉砕し、その後の戦闘は、相手の計画通りに進行することになるだろう。相手が本気なら、この数分で勝負が決まるのだ。保身も野心も関係なく、物事は進む事だってあるのだ。それも、国民を犠牲にしつつ。
 なんだか、無性に腹が立ってきた。
 単独で決断するしかない。自分は、何のために自衛隊に入隊したのか。今こそ、思い出すべき時だ。
「直ちに第一弾を発射しろ」
「データリンク切り離し。発射します」
 ドンと衝撃を感じ、CIC室にまで、ロケットモータの爆音が響いてきた。
「残り何秒だ?」
「四十五秒を切りました」
「第一弾の三十秒遅れで、第二弾を発射しろ」
「第三弾は?」
「残り時間が無い。迎撃コースに乗せられない。この二発のどちらかが命中することを信じよう」
 二発目のミサイルが発射されたのが、軽いショックと爆音で分かった。
 過去の迎撃実験では、1回だけ発射し、成功している。
 今回は、ロフッテッド軌道ではないので、従来のSM3システムでも対応できる。SM3の命中精度は八割程度だから、二弾でも九十六パーセントの確率で撃墜できる。残る四パーセントが気になるが、もう打つ手がない。
「第一弾の命中予想時間まで、一分を切りました。第二弾は一分九秒」
 第二段は、発射が遅い分だけ、より接近した位置で命中する。ほとんど真上だ。だから、発射間隔より命中予想時間は差が少ない。万が一、弾道ミサイルが核弾頭だったなら、二発目では打ち落としたくない。ミサイルの破片は、日本の沿岸に落ちてくるだろう。核ミサイルだったなら、その中には、核物質も含まれることになる。
「第一弾の命中まで十秒、八、七、六、五・・・」
 命中しようが、すまいが、これから忙しくなる。
 久我山は覚悟を決めた。

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別府湾で潜水調査中の移動式潜水基地『うりゅう』に政府の極秘命令が下る。
『うりゅう』が海底で見つけたもの・・・
同じ頃、新木は氷床コアの最下層であるものを発見した。
浅村も、地の底で不思議なものを捉えていた。
      

自己書評
 
「軌道上のタイトロープ」は、実は全文をガラ携で書いた作品なのです。合間を見て、少しずつメールに書き溜めていったのです。ですが、思い付きで書く事になり、プロットの検討が不十分になっていました。
元々メールでしたから、PCに転送して見直しをする予定でしたが、結果的には、そのまま公開してしまいました。
なぜ、不完全なまま公開する事にしたのかと申しますと、このblogの立ち上げに際し、blog運用の試行として手持ちの中で最も短い本作を利用することにしたためです。
 
さて、自己書評です。
暗号解読に成功した方は、既に最後まで読んでおられるかもしれません。
ですが、長文でもあることから、解読は容易ではないと思います。ほとんどの方は、今も解読されていないことでしょう。
解読版の公開が終わっていない現時点では、内容については書評を控えたいと思いますが、差し障りの無い範囲で一つだけ紹介しておきます。
 
この作品では、「バイナリースター」が辿る軌道が肝になります。
「バイナリ―スター」は、自由帰還軌道で月に向かうのですが、事故によって軌道を外れます。その結果、地球に戻れなくなるわけですが、その後も「バイナリ―スター」の軌道の問題が尾を引いていきます。
軌道を無視していては、物語の骨格が崩れてしまうので、概算ではありますが、軌道計算した結果に基づいて描いています。
このあたりは、私の意地でもあります。
 
最後に、解読版の公開ですが、毎週末の公開を基本とする予定です。
一般的な400字積原稿用紙で140枚余りの短編(中編に分類することも)ですが、blogの機能の問題で一回の公開字数の制限がありますので、第四章までの公開が終わるのは三月中旬となる予定です。
まだ、暗号解読に挑戦していない方は、解読にも挑戦して戴ければと、思います。



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  第四章
 
 離れた場所から見ると、バイナリースターは何の損傷もないように見えた。
 近付くと、最初に見えてきた異状は、ブリッジ後ろのハッチが開いたままになっている事だ。
 状況を把握するため、外観の確認に努める。ブリッジのウィンドスクリーン越しに中を見たが、人影は勿論、物が散乱している訳でもなく、整然としている。二百年前の幽霊船メアリーセレスト号を思い起こさせる。
 位置を変え、バイナリースターの正面に回り込む。この時、バイナリースターが受けた事故の重大さがわかった。船首の下側に大きな破孔があった。破孔の周辺の耐熱タイルも、砕け散っていた。
 船体の下側から船尾に回り込む。損傷は、見られない。船尾のエンジン周りも目視で確認したが、燃料漏れを含め、異状はなかった。
 上面に出た。緊急用の太陽電池パネルが開いている。機能しているか確認できないが、問題があるようには見えない。
 外観上の損傷は、船首下部だけのようだ。報告の通りだ。
 幸いな事に、バイナリースターは回転していない。姿勢は制御されている。
 コリンズ船長は、エアロック直上に、船の位置を固定した。
 コリンズの命を受け、ズワイガートとクランツは、船外に出た。50mほど離れたバイナリースターのエアロックまで遊泳し、エアロックの操作パネルに取り付いた。
 電源は生きていた。
 パネルを操作し、エアロックの外扉を開けた。中は、照明が点灯していて、レスキューボールが一つ浮かんでいた。
「レスキューボールを発見した。回収する」
「了解」
 二人は、レスキューボールをエアロックから引き出し、自船に持ち帰った。
 医師のヘイズは、自船のエアロックからキャビンに引き込むと、二重の気密ファスナーを開いた。だが、中をちらりと見ただけで、元通りにファスナーを閉めた。
「こちら、救難隊。遺体を一体、収容した。若干、腐敗している事から、事故発生時に死亡したミライ・ホシデと思われる」
「了解した。引き続き、収容作業を続けてくれ」
「作業は継続している。オーバー」
 辺りに漂う異臭を振り払うと、小窓からバイナリースターに視線を送った。ズワイガートらの姿は見えなかった。船内に入ったようだ。
 クランツは、エアロックとキャビンの圧力差がなくなった事を確認し、内扉を開いた。内部は、0.11気圧だった。全てが酸素でも、生き残る事は無理だろう。
 二つめのレスキューボールは、エアロックの目の前に、マジックテープで固定されていた。
「救助する順番を指示されている気分だ」
「最初は遺体だったらしい。と言うことは、これは乗客の女性が入っているって事か」
 二人は、レスキューボールを救助船へ運んだ。
 ヘイズは、二つめのレスキューボールを恐る恐る開いた。最初のレスキューボールと同じような東洋人女性の顔を中に見つけ、背筋が凍りついた。
 だが、今回は異臭がない。もう一度、しっかり見た。綺麗な顔立ちの女性は、微かに寝息をたてていた。眠っているらしい。
 バイタルチェッカーを装着した。レスキューボールの酸素残量も見たが、半分近い量を残していた。
「ハロー」
 呼び掛けに対する反応は、ほとんどなかった。バイタルチェッカーの指す数値は、眠っているだけだと示していた。
 レスキューボールからシートに移し、ベルトで固定した。その時、女性の手から何かが漂い出るのを見つけた。手に取ると、睡眠薬だった。半分は飲んでいたが、半分は手付かずで残っていた。
 酸素の消費量を少しでも減らすために、睡眠薬を使っていたのだ。
「こちら救難隊。レイコ・アイウラと思われる女性を収容した。意識はないが、生命に別状はない」
 無線の向こうで歓声が上がるのが聞こえた。
 小窓からバイナリースターを見やると、三体目のレスキューボールを運び出しているところだった。
 ヘイズは、受け入れ体勢を整えた。
 三体目のレスキューボールからは、バイナリースターの船長が顔を出した。彼は、意識があった。ファスナーを開くと、真っ青な顔で這い出てきて、深呼吸を始めた。
「キャプテン・ササ?」
 男は、荒い呼吸の中で頷いた。
「私はヘイズ、医師だ。早速で悪いが、君を診察したい」
「彼女は?」
「ミス・アイウラ? 彼女は大丈夫だ。彼女のレスキューボールは、酸素残量が40%以上あった。今は、彼女は睡眠薬で眠っている。だが、君は問題だ。酸素残量はゼロだった」
「俺は、深呼吸すれば元通りになる」
「私は診察したいが、どうかね」
 男は、肩を竦めた。
「Okだ」
 ヘイズは、診察を始めた。バイタルチェッカーの値は、芳しくなかった。二酸化炭素中毒による障害が、懸念された。
 だが、命に関わるほどではない。元気な彼女の姿を見せて、安心させてやるのが良いと判断した。
 彼をキャビンに運び、ミス・アイウラの隣に座らせた。
「彼女の状態は?」
「彼女は、全く心配はない。君とは大違いだ」
 苦笑いしている。
「重病人は寝てろと、あんたの顔に書いてあるぞ」
「さっき、自分で書いたんだ」
 ササは、わかったとばかりに片手を上げた。
 しばらくすると、ズワイガートとクランツが戻ってきた。二人は、ササと握手を交した。
 ミス・アイウラはまだ寝ているが、バイタルチェッカーは眠りが浅くなっている事を示していた。
 ブリッジに行ったクランツが、戻ってきた。
「キャプテン・ササ。地上から君に通信が入っている。カメラは正面にある。悪いが、音声はスピーカーから流れる」
 ちらりと視線を送ると、「モニターは無いのか」と呟いた。
「おい、聞こえてるぞ」
「宇山か」
「そうだ。報告がある。知りたいだろう?」
「ああ、待ってたんだ」
「やってみたら、一挙動だったよ。シャトル側の切り離しは二挙動だが、機械船側の切り離しは一挙動だった」
「監査卓の記録も見たのか?」
 シミュレータの監査卓だろうか。そうなら、シミュレータでの訓練内容を監査するためのモニターだ。
 ヘイズは、拙い日本語力で二人の会話に聞き入っていた。
「もちろんだ。ブリッジ側のシステムは、シミュレータも実機も全く同じものだ。シミュレータは、ブリッジ側のシステムのインプット、アウトプットを提供しているだけだ。シミュレータへのアウトプットの記録を監査卓で確認したから、間違いない」
「そうか。やっぱりな」
「つまり、事故原因がわかったという事か」
 ミス・レイコが動いた。ササも気付いたらしく、会話を中断した。
 彼女は、軽く伸びをした。レスキューボールから解放された事を喜んでいるようだ。
「あ、済まない。彼女が目を覚ましそうだったんだが、まだ睡眠薬が残っているようだ」
「君は飲まなかったのか?」
「船の状態が気になって、睡眠薬が効かなかった。だから、飲むのをやめた」
 だから、酸素残量が無かったのか。
「実は、もう一つ報告がある」
「報告が多いな」
「二つの意味で、これが最後の報告だ。この通信を切ったら、この足で辞表を出しに行く」
 無線の向こうがざわつくのが、ヘイズにもわかった。
「ちょっと待て」
「引き留めてくれるのか?」
「いや。俺の名前も連名で出してくれ。頼むぞ」
「おい!」
 ウヤマは何か言おうとしてようだったが、動き始めたミス・レイコに気を取られたのか、ササは返事をしなかった。
 ゆっくりと目を開けた彼女は、正面のヘイズの顔を見た。一瞬、驚きの表情、次に戸惑い、そして平静を取り戻した。
「ここは救助船かしら」
 頭脳も冴えてきたようだ。
「その通りです。我々は、間もなく、帰還軌道に移ります」
 彼女は、育ちの良さを感じさせる笑みを浮かべ、ヘイズに応えた。
「ミスターササはどこですか?」
 最初は日本語だったが、ヘイズの日本語力を見切ったのか、今度は英語で聞いてきた。
 ヘイズは顎をシャクって教えた。
 彼女は、ササを見付けると、自分を固定していたベルトを外した。
 無重力空間での彼女の身のこなしは、軽やかだった。ふわりと浮き上がると、ササに抱きついた。
「お預けにしていたキスよ」
 レイコに覆い被さられたササが、手で“あっちに行け”と合図した。
「しょうがないなぁ」
 ウヤマの大袈裟な声が、スピーカーから流れた。
「通信終わり」
 ヘイズも、気を利かせて通信を切った。他の三人にも目配せして、揃ってブリッジへと移動した。
「楽しんでくれ」
 ズワイガートがにやけた顔で言った。
 12分後、救助船は、帰還軌道へと移った。

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 救難隊との合流日程が決まったのは、最後の船外活動から命からがら戻ってきた2時間後だった。
 救難隊が到着するのは、一週間後になる。そこまで、バイナリースター内で二人の命を繋がなければならない。
「どう思う?」
 佐々の問いかけに宇山が応えてくれた。
「ギリギリだな。二酸化炭素は問題ないが、酸素残量が厳しい。漏出が完璧に止められれば、足りるが」
「ハッチの補修は、これ以上は無理だ。だから、気温を下げて空気密度を上げ、その分だけ気圧を下げるつもりだ」
 エアロックを使えない事は分かっていた。エアロックには、二酸化炭素除去フィルターが付いていない。換気によって、空気組成をコントロールする。
「漏出する空気密度も高くなるから、効果は疑問だ。寒いと、酸素消費量が増える事も考えろよ」
 苦労してスーツケースを持ってきたのは、このためだったが、無駄だったようだ。
「そこの酸素分圧は、0.25で一定しているが、窒素分圧は、0.06から0.03に下がった。船内空気の半分が漏れ出て、酸素タンクから補充された計算だ」
「船外活動の際に排気しているから、そこまでは漏れていない」
「最悪を想定しておくべきだ。これからも監視する事にしよう。その上で、最終手段をいつ使うか、考えよう」
「最後の手段?」
「レスキューボールだよ。だけど、24時間しかもたないから、睡眠薬でできるだけ寝て過ごす事も、案の一つに入れておくべきだろう」
 睡眠薬か。
 気が重くなる。
 救助不可能な宇宙飛行士を安楽死させるために、致死量の睡眠薬を飲ませる事は、過去に検討された事がある。
「やるべき事は、生き残る事だけだ。それだけを考えるようにしてくれ」
 宇山の言うとおりだ。
 麗子も、傍の空間を漂いながら、聞いていた。
 五日後、酸素タンクが空になった。酸素分圧は下がり始め、今は0.2気圧になっている。
 最後の手段を使う時がきたのだ。
 佐々は、レスキューボールの注意点を説明した。
「酸欠は、一瞬で気を失う。レスキューボールを開けて外の様子を見るなんて、絶対に駄目だ。酸欠に気付く前に気を失う」
「分かったわ。自分で開けたら死んじゃうって事ね。今度は、あたしから。処方は守ってよ。ギリギリの量だから、多く飲めば心肺停止になると思って」
「分かった。じゃあ君からだ。レスキューボールに入るんだ。外から気密を確認する」
 麗子は、逡巡した。そして、意を決したように口を開いた。
「一つだけ、聞いてほしい事があるの」
 助かる見込みは高くない。これが最期の会話になるかもしれなかった。
 救助は、30時間後に来る。救助活動が完了するのは、33時間後になるだろう。レスキューボールの限界を超えている。女性の麗子は代謝が低いので、可能性があるが、佐々は可能性が低い。
「何だ?」
「事故の原因」
「それは、ケーブルが切れたからだ」
「だから、ケーブルが切れた原因よ」
「ん?」
「ケーブルが切れた原因は、あたしがボタンに触れたからだと思うの」
「順に話してくれ」
「ブリッジを見学している時、赤と緑の光るボタンがあったから、何か聞こうと思って、指差しながら星出さんに聞いたの。彼女が『何ですか?』って言いながら振り返ったんだけど、その時、彼女の体があたしの肘にぶつかって」
 やはりそうだったか。
 切り離しボタンは、シャトル側が赤色、ブースター側が緑色だ。麗子が言う赤と緑に光るボタンは、切り離しボタンに違いない。
「すまない」
「え?」
 佐々には、切り離しボタンの設計変更を上層部に求めた苦い記憶があった。
 切り離しボタンは、タッチパネルになっていた。しかも、スイッチカバーがない。
 佐々は、訓練開始時から、切り離しボタンのフールプルーフについて問題にしていた。
 まず、色が問題だった。通常の運用では操作しない機械船側の切り離しが緑色なのが、気に入らなかった。
 次に、スイッチカバーがない事が、納得できなかった。
 他にも見つけた問題点と合わせて、会社に改造を提案した。
 バイナリ・スターは、アメリカのモハベ宇宙空港を拠点にするベンチャー企業によって開発された。佐々が訓練を始めた時には、一連の受け入れ試験を終わり、購入契約が交わされた後だった。だから、佐々のクレームは、会社の上層部によって拒否された。
 会社は、2号機以降を改造する妥協案を示し、佐々に搭乗を迫った。佐々は、これを受け入れた。
 心の角においていた後悔と、改めて対峙させられる事になった。
「君が触れたボタンは、本来なら触れないようになっているべきだった。俺は気付いていながら、この船に乗りたいがために、上層部への進言を取り下げた」
「あたしが不用意に指差してなかったら…」
「ちょっと待て。未来とぶつかった時、一度しか触ってないよな」
「え?」
「おかしい。二挙動のはずなのに」
「どういう事?」
「俺だって、この船に乗りたいだけで納得したわけじゃない。操作が二挙動だと聞いたから、納得した。実際、シミュレータは二挙動だった」
「機械船側の切り離しも、二挙動だったの?」
「いや、訓練項目に無かったから、試していない」
「じゃあ、二挙動かわからないのね」
 佐々は、無線で宇山を呼び出した。
「確認してもらいたい事がある」
「何だ?」
「機械船側の切り離しボタンが二挙動か、シミュレータで動作を確認しておいてくれ」
「いいだろう。ただ、回答は明日だ。救助船に連絡を入れる」
 シミュレータを立ち上げ、試してみるには時間が掛かるが、回答を待てないほどでもない。宇山が「救助船に連絡する」と言ったのは、「生きて帰ってこい」との彼のメッセージなのだろう。
「わかった」
「グッドラック」
 何となくすっきりしないまま、通信を終わった。すっきりするためには、生き残るしかない。
 薄い空気の中で、深呼吸した。
「さあ、レスキューボールへどうぞ」
 麗子は素直に従った。
 気密ファスナーを閉じる時、麗子はもう一度顔をだした。
「救助船に着いたら開けてね。それまでキスはお預けよ」
「わかった」
 麗子は、恥ずかしそうに顔を引っ込めた。
 念入りに気密やサバイバルシステムの動作を確認すると、床に固定した。
 やらなければならない事がまだまだあった。
 未来が入ったレスキューボールを移動させてきた。大した作業ではないが、呼吸が乱れる。辛い呼吸の中で、レスキューボールをエアロックの中に入れた。
 深呼吸しても、すかすかと空振りしているような感じだ。息苦しさは感じないが、こめかみの辺りが痛む。二酸化炭素中毒に似た症状だ。
 レスキューボールの生命維持時間から逆算すると、キャビンの空気で二時間は耐えなければならない。
 時々、宇宙服の空気を吸いながら、徐々に始まった頭痛と闘った。

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 直後、地上からの無線に呼び出された。
「いったい何をやってくれたんだ?」
「その前に聞くことはないのか?」
「そんなもの、あるわけないだろう!」
 それを聞いた途端、佐々は無線を一方的に切った。安否確認さえしない態度に腹がたった。
 直ぐに、呼び出しが鳴った。
「最初に言う言葉を思い出したか?」
「ふざけるな!」
 それだけ聞けば充分だった。声は、常務だろうと思う。彼は、今回の宇宙旅行の責任者だ。その人物を信用できないとは、情けない。
 また、無線を切った。直後に呼び出しが鳴ったが、今度は無視した。
宇山のローテーションまで待とう。
 それが、彼の結論だった。
 2時間余り後、彼の方から連絡を入れた。
「無事だったようだな」
 宇山の重い声が返ってきた。
「約束通り、減速をした。迎えに来てくれるな」
「あちこちに交渉中だ」
「期待せずに待つよ」
「それより、宇宙エレベータとニアミスしたみたいだが、何をやらかしたんだい?」
「帰還したら、二人で本を出そう。このネタは、その時に教えるよ」
「楽しみだよ、ったく」
 宇山のしかめっ面が目に浮かぶ。
 テレメータの読み上げが始まった。半日ぶりの読み上げになった。読んでいく途中で、一ヶ所だけ気になるところがあった。
 読み上げが終わると、宇山が先に口を開いた。
「空気が漏れているかもしれない」
「俺も気になった。減速時に船体に無理を掛けたのかもしれない」
「あそこを見ておくべきだろうな」
「そうするよ。状況によっては、相談するかも」
「任せてくれ」
 無線を切ると、エアロックを出た。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 佐々は、麗子を押し退けるように通り抜けた。そのまま、1層上のサロンに向かった。
 思った通りだった。
 ハッチに施した応急措置の回りに、埃が吸い寄せられていた。吸い出されていく空気で、埃が揺れている。甲高い音も聞こえる。
「やっぱり漏れてたか」
「あたし、ちゃんと塞いでおいたわよ」
 いつの間にか、彼女は背後に来ていた。
 確かに、彼女は念入りに補修剤を塗り付けていた。補修板と補修板の隙間はもちろん、補修板の表面全体やその周囲まで満遍なく塗り付けてあった。
「原因は、宇宙エレベータにぶら下がったからだ。船首が破壊されているから、歪みが出たんだと思う。ただ、問題は、誰かさんが補修剤を使いきった事さ」
「他には補修剤は無いの?」
「あれが全てさ」
「あたしが指で押さえておくわ」
 事故直後の情景が目に浮かぶ。
 麗子は、シーツでクラックを塞ごうとして、手を吸い取られたのだ。
「マイナスドライバーは、ここには無い。吸い付かれたら、助けようがない。それより、手伝ってくれないか」
「思い付いたの?」
「ああ、シーツの代わりをな!」
 べとべとに塗ってある補修剤に指先で触れてみた。強い粘着力は、衰えていなかった。
 必要な品を求めて、倉庫へ向かった。
 ゴミ箱の中から、使用済みのレトルトパックを見つけ出した。パックを開封する時に使う鋏とピンセットも、用意した。
 更に、新聞紙程の大きさのビニールを見つけ出した。交換用のシーツを入れてあった包装用のビニール袋だ。
 サロンに戻ると、不安そうな面持ちで麗子が待っていた。
「これを直径1cmくらいの大きさで、できるだけ丸く切ってくれ。10個くらいあれば足りるはずだ」
 渡されたレトルトパックと鋏を受け取ると、何も言わずに作業を始めた。彼女の手先の器用さが、意外に感じた。
 切り取られた丸い切れ端を、ピンセットで摘まみ、漏出が続く隙間に重ね貼りしていく。2ヶ所あった隙間を、レトルトパックの切れ端で埋め尽くした。
「もう一仕事だ。これを広げてハッチを覆うんだ」
 ビニール袋を示した。
「ハッチを覆ったら、周囲から補修剤に貼り付けていくんだ。周囲をきちんと貼れば、真ん中の方は自然に貼り付く筈だ」
 二人でビニールを広げて、ハッチに貼り付けた。周囲を、粘着力が残る補修剤に貼り付けていくと、中の空気が船外に吸い出され、びたりとハッチに貼り付いた。
「我ながら、上手くいった」
「これで、大丈夫ね」
 答えずに、エアロックに戻ると、備品リストを端末に表示した。目的の品が何処にどれだけあるのか、これから必要になりそうな品はないか、リストに探した。
 リストをチェックし終わった頃、宇山から無線が入った。
「いい知らせか?」
「当たりだ」
 皮肉のつもりで言ったから、朗報と言われると返事ができなかった。
「嬉しくないのか?」
「あ、いや、なっ内容しだいだ」
 無線の宇山が笑っているだろうなと思った。
「君らの救出するロケットの発射日が決まった」
 耳を疑った。
「但し、問題がある」
 やっぱり。
「ギリギリの高度になるから、君らがシャトルの外に出て、自力で乗り移ってほしいということだ。しかも、ランデブーから30分以内だそうだ」
「ここまで軌道を下げても足りないのか?」
「まだ高いと言ってきている」
「宇宙服が一つしかないことも、承知しているのか?」
「聞かないでくれ」
 宇山の気持ちもわかった。
「今まででは最高の朗報だ」
「ちょっと聞いてくれ」
「なんだ?」
「残った燃料で目一杯減速できないか?」
「いいアイデアだ。噴射のタイミングと、地球に落ちないか、教えてくれ」
「できるのか?」
「できなきゃ、乗客を見捨てる事になる。二人揃って帰るか、彼女だけが帰るかのどちらかだ。さっきの話だと、俺一人しか助かりそうにない。そんな救出案は、無いのと同じだ。やれるだけやってみる」
「必要なデータは、こちらで用意する。俺も、二人揃って帰るか、俺が死ぬかの覚悟で闘う」
「わかっているさ。君が救出ロケットを用意してくれた事を」
「通信、終わり」
 照れたのか、宇山は本当に通信を切った。
 やるべき事は、明白だ。宇宙服を整備し、もう一度だけブリッジに行けるようにする事だ。
 直ぐに、作業に取り掛かろうとした。
「話があるの」
「後にしてくれないか」
 最後の軌道修正は、近地点で行う。それまで、一時間を切っている。
 時間が無い中で呼び掛けられたから、二度目だとわかっていながら、無下にせざるを得なかった。
 最低限の整備しかできない事はわかっていた。
 二酸化炭素除去フィルターは、一度目の船外活動で使ったものに戻した。
 推薬の残量は、僅かだった。ブリッジまでの往復は無理だ。命綱が無いので、万が一、船体から離れてしまった際に、戻ってくるために残しておく。
 酸素は、充填を諦めた。充電を優先するためだ。まだ2時間分は残っているし、フィルターの限界を越えれば酸素の残量は関係無い。
 時間が許す限り、充電を続けた。その間に、倉庫の中からロープを探し出し、エアロックに戻った。
「あれ?」
 辺りを見回した。ヘルメットが無いのだ。
 麗子なら知っているかもと思い、エアロックを出ると、彼女がヘルメットを持って浮かんでいた。
「また出るの? ほんの数時間前に死にかけたばかりじゃない」
「いいか、聞いてくれ」
「あたしの話は聞けないのに、自分の話を聞けっていうの?」
「今なら90%の確率で助かるが、5分後には0%まで下がる。時間が無いんだ!」
 ヘルメットを掴み、奪い取ろうとした。ヘルメットを掴んだ左手に激痛が走った。
「骨折している手で、何ができると言うの」
「幸い左手だ。ほとんど関係無い」
 左手から右手に持ち代えようとしたが、彼女は後ずさった。
「わかった。君は俺を殺したいんだな。俺を殺したいなら、それを持っていればいい」
 佐々は、手を引いた。
 彼女に任せた。
 麗子は、迷っているようだった。だが、意味は理解していた。
「90%の確率は本当なの?」
「今すぐなら」
「だったら、あたしが行きます。怪我してるあなたより、あたしの方が上手くできるわ」
「この宇宙服は、俺の体に合わせてある。体に合わない宇宙服だと、スイッチ一つ操作できないぞ」
 スイッチと聞いて、彼女の血の気が引いた。
 その隙に、ヘルメットを奪った。
「本当にできるの?」
「時間が無い。宇宙服をエアロックに押し込んでくれ。それが終わったら、エアロックの外で待っていてくれ。2時間以内に戻ってくる」
 彼女は言われた通りにした。
 ヘルメットの内側は、汚物を綺麗に拭き取ってあった。バイザー越しの宇宙は、佐々に恐怖を呼び起こした。
 佐々は、慎重に船外に出た。シャトルの外壁には、手掛かりらしい突起はほとんどない。点検孔やメンテナンス用の小さなハッチ等を辿り、ブリッジに向かった。
 意外だった。彼のリーチの範囲内で、エアロックからハッチまで、何がしかの手掛かりがあった。シャトルの屋根部分は、大気圏突入時にも極端な高温にはならない。
 だからだろうか。アンテナやピトー管等があちこちにあった。
 佐々は、開けっ放していたハッチからブリッジに入った。
 直ちに、軌道修正の準備に入った。近地点は、数分後に迫っていた。シャトルの姿勢を変え、軌道修正ロケットを点火した。
 軌道修正ロケットは、2分余りで燃料を使い果たし、自動で停止した。
 軌道修正で、船体の姿勢が乱れたので、姿勢制御する。制御権をエアロック側に移し、各スイッチを切って行く。
 今度こそ、ここに戻ってくる事はない。
 一通りのシャットダウン手順を終えたところで、酸素残量と二酸化炭素濃度をチェックした。まだ、30分は動ける。
 シャットダウンの再チェックを行う。
 失敗は許されないが、落ち着いて行動すれば、何も心配する必要はない。
 チェックが終わったところで、キャビンに向かった。ハッチの状態を、裏側から見ておきたかった。
 ハッチは、見た目に異常は感じなかったが、ロックハンドルは、僅かに弛んでいた。きちんと締め直した。
 自分と麗子のスーツケースを手に、ブリッジに戻った。
 二つのスーツケースの持ち手部分にロープを通して結わえ、2mくらいの余裕を取って体に結びつけた。もう一端は、ハッチのハンドルに通した上で、これも体に結びつけた。
 ハッチからスーツケースを押し出し、続いて彼自身も外に出た。
 来た道を引き返すため、右手を伸ばして最初の手掛かりのピトー管を掴んだ。体を引き寄せ、次の小さな点検孔に左手の中指を掛け、更に引き寄せた。
 次の手掛かりに視線を移し、右手を伸ばした。
 ゴツン!
 何かが、バックパックに追突した。強い衝撃ではなかったが、体が頭の方に押し出された。手掛かりを持つ左手で体を支えようとした時、手首に電気が走った。
 一瞬の事だっだが、気が付くと、体が船体から浮かび上がっていた。右手を伸ばしたが、船体にさえ届かなかった。
 躊躇う事なく、ロケットを噴射する。だが、直ぐにガス欠を起こし、船体から遠ざかるのを防ぐ程度だった。
 佐々は、ロープを引いた。軽い手応えがあり、体はゆっくりとハッチに向かって流れ始めた。
 間も無く、船体に手が届き、手掛かりを確保できた。
「振り出しに戻るっか」
 一人ごちた。
 バックパックにぶつかったのは、スーツケースだった。気をつけて進む事にする。
 再び、手掛かりを辿り始めた。左手は、ズキズキ痛み、感覚が鈍くなっている。力も入らない。
 振り出し以前に戻った気分だった。
 慎重に一歩ずつ進む。

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  第三章
 
 息苦しさはない。だが、頭痛と吐き気に、目眩が加わった。
 ハッチから頭を出し、周囲の安全確認した。真っ暗闇の宇宙空間で、淡く視野が霞む。
 駄目かもしれない。
 弱気を振り払うために、頭を振った。
「うっげぼっ!」
 激しい吐き気に襲われた。胃から喉を突き破り、口の中へと噴き上げてくる。焼けるような痛みが、胃から喉、そして口へと広がる。
 佐々は、逆流してきた胃液を口の中で塞き止めた。吐き出し、バイザーを汚したら、視界を失う。バイザーの内側は、曇り止めの加工はしてあるが、吐瀉物までは対策されていない。
 胃は、腹の中で捻られたようで、繰り返し胃液を噴き上げてくる。それを頬を膨らませて堪える。
 吐き気が落ち着くのを待つつもりだったが、そんな余裕はないようだ。
 背中の推進ロケットを噴射させた。
 宇宙空間での噴射は慎重を要する。抵抗が無いので、噴射を続ければ、速度が上がりすぎる上、減速にも同じだけの噴射が必要になる。失敗すれば、永遠に宇宙を彷徨う事になる。
 佐々は、リスク覚悟で連続噴射を始めた。
 加速力は弱いが、連続噴射の効果で徐々に速度が上がっていく。
 噴射の向きを90度変え、シャトルから離れないように飛ぶ。
 推進剤は十分にある。
 大胆に行こう。
 ブリッジを回り終わる前に、噴射の向きをに90度変えた。それでも、シャトルの屋根の上に出ると、慣性で離れていく。
 だが、佐々は船尾にあるエアロックに向かって加速を続けた。
 佐々は、ブリッジを出る際に最終チェックをした事を後悔した。チェックで異常はなかった。無駄に時間を浪費しただけだ。
 佐々の視線は、エアロックに釘付けになっていた。なんとかブリッジでの遅れを取り戻したかった。
 ふと気付くと、エアロックが近かった。
 気持ちが急き、逆噴射するタイミングが遅れた。スピードを上げすぎた。
 このままでは、エアロックを通りすぎてしまう。
 佐々の目に、エアロック脇の埋め込み取手が映った。減速を諦め、取手に向かうように噴射方向を変えた。
 埋め込み取手は、大気圏を飛行する際の空気抵抗を減らすため、船体内に埋め込まれていて、船体表面と面一になるように二分割の蓋が付いている。赤い枠線で囲まれた蓋は、軽く押すだけで、内側に開き、取手を握れる仕組みになっている。
 佐々は、取手に向かって斜めに突っ込んでいった。そして、埋め込み取手に左手を入れた。蓋は、何の抵抗もなく開き、取手をがっちり掴んだ。
 だが、慣性で取手を軸に体が回転し、船体に激突した。歩くより遅い速さだったが、宇宙服を通して腹に衝撃が伝わった。
 同時に、口の中に堪えていた吐瀉物を吐き出した。胃液の臭気が鼻腔を刺激し、猛烈な吐き気が胃を襲い、噴水のように吐いた。
 あっと言う間に、バイザーは吐瀉物で黄色く汚れ、視界を奪っていった。バイザーに当たって飛び散った雫がヘルメットの中を漂い、右目に入った。
 思わず、手をやったが、外側からヘルメットを叩いただけだった。
 痛みと吐き気でのたうった。のたうちながら、佐々は、ぞっとした。同時に、ほっとしてもいた。
 左手は、今も取手を握っていた。右利きだったから、目に吐瀉物が入った時も右手を使った。取手を右手で掴んでいたら、どうなっていただろう。
 だが、視界は完全に奪われた。手探りで操作するしかない。幸い、慣性は無くなり、左手一本でぶら下がるような体勢で安定していた。
 左手で体を引き寄せようとした時、痛みを感じた。痛みは直ぐに引いた。大した事はなさそうだ。
 エアロックは、思ったより簡単に開ける事ができた。ただ、体が思うように動かない。しかも、エアロックに灯りが点かなかったらしく、汚れたバイザー越しにはエアロックの位置がわからなかった。
 手探りで場所を確認し、重い体をハッチから中へと入れた。体を捻り、ハッチを閉めた。最後の力を振り絞り、ロックした。
 佐々は、自分の体勢を自覚していなかった。目眩のせいで、平衡感覚を失っていた。それに気付かされたのは、エアロックの加圧ボタンを押そうと思った時だった。
 思っていた位置には、加圧ボタンは無かった。その周囲も手探りしたが、手がボタンに触れる事はなかった。
佐々が気付かない内に、彼の体は、180度近く回転していたのだ。
 加圧ボタンを探し当てるまで、狂ったようにエアロック内を探し回った。
 漸く加圧ボタンを見付けた時には、朦朧としていた。エアロック内で、のたうち回ったので、二酸化炭素濃度を更に上げてしまったのだ。
 早くヘルメットを脱ぎたかった。ヘルメットの咽頭部にあるロック解除レバーを引き起こそうとしたが、びくともしない。
 ロック解除レバーは、フールプルーフ設計になっている。ヘルメットの内外気圧差が30hPa以下にならないと、ロック解除はできない。
 平時の佐々なら、気圧差が無くなるまで待つのだが、今の彼は時間感覚を失っていた。
 頭痛は治まりかけていた。喉の痛みも、感じなかった。左手の痛みもない。不快感は消え、浮遊感が気持ちよいくらいだった。
「助かったのか」
 ロック解除レバーを引き起こそうとしていた右手から、力が抜けていった。
 バイナリースターを運営するルナプロジェクト社は、日本では唯一の観光用宇宙船運営会社だ。
アメリカの民間宇宙旅行会社に遅れて発足したため、設立当初から月面旅行を目指す事で巻き返しを狙っていた。バイナリースターは、万を辞して登場した世界初の月往還宇宙船だった。
 初飛行の搭乗客を募集したところ、一人当たり1000万ドルにも届こうかという高額のため、日本からの応募は相浦家の二人だけだった。その二人も、宗太郎氏がメディカルチェックで搭乗できなくなり、麗子一人の搭乗となった。
 相浦宗太郎氏は、三代続く製薬会社の会長職に就いている。孫娘の麗子は大学在学中の二十二歳。夏休みを利用し、地上訓練と月世界旅行に挑んだ。
 星出未来は、ルナプロジェクト社に入社して7年のパイロットだ。月に向かうのはもちろん、衛星軌道はおろか、弾道飛行の経験さえ無かった。彼女が搭乗する事になったのは、女性である麗子の存在があったからだ。
 佐々は、JAXA出身の宇宙飛行士だ。宇宙ステーション往還機の操縦士の経験に加え、船外活動も経験があった事から、ルナプロジェクト社がバイナリースターの船長候補としてヘッドハンティングした。
 彼ら三人を乗せたバイナリースターは、前世紀のアポロ13号同様の大事故を似たような場所で発生し、同じく自由帰還軌道で地球に帰ろうとしていた。
 何となく、唇に暖かさを感じた。その暖かさが離れていくのに合わせて、意識が戻ってきた。
「佐々さん。佐々さん」
 呼び掛けに、佐々は小さく頷いた。
 麗子の声だった。
 ゆっくりと目を開けた佐々だったが、ただ明るいとだけ思った。全身が脱力しているが、体を動かしたいとは思わなかった。
 寝惚けたような感覚で、再び眠りに落ちそうだった。
「佐々さん。大丈夫?」
 頬を二三回叩かれた。
 頬を叩く手を払い除けようと思ったが、夢の中で抵抗するような感じで、思うように動かない。
 思わず「五月蝿いなぁ」と呟いた。
「良かったわ。意識が戻ったのね。ゆっくり休んでね」
「五月蝿い」と言って「良かった」と返されたのは、生まれて初めてだろう。
 佐々は、意識がはっきりしてくるのを自覚した。自分が置かれている状況も、徐々に把握できるようになってきた。
 ヘルメットは脱がされていた。
「助かったのか」
 指が動かしてみた。見えないが、動いているようだ。
 右腕を目の前まで持ってきた。
 間違いない。動いている。指も大丈夫だ。
 痛むところがないか、順番に動かし、確かめた。
 左手首と上腕が痛むが、他は問題なかった。頭痛と吐き気が戻ってきたが、我慢できない程ではない。
 佐々は、宇宙服を脱いだ。
 エアロックを出ると、麗子が待っていた。
「上半身裸になって」
「何を言ってるんだ」
「こう見えても、医大生ですからね」
 大学生とは知っていたが、医学部とは思わなかった。だが、事故直後の未来への処置と判断の早さも、医大生なら頷ける。
 佐々は上半身裸になった。彼女は、聴診器を当てた。
「どうやら、誤飲はなかったみたいね」
 聴診器を外しながら、そう診断を下した。
「ちょっと腕を見せて」
 彼女が左手を取った時、鈍痛を感じた。
「やっぱり痛むのね。腫れてきているから、折れてるかもしれないわ」
「まさか。そんなに痛くないぞ」
「二酸化炭素中毒は、神経を麻痺させるって言ってわね。明日あたり、痛み出すかも」
 医大生程度では分かるまいと、鼻で笑った。

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 4時間余り前に出たエアロックは、なぜか予圧されていた。佐々は、エアロック脇のカバーを外し、操作パネルを見た。
「なぜだ?」
 操作パネルは、真っ暗だった。電源が切れているのだ。パネルに触れてみても、変化はなかった。
 考えている暇は無い。
 ブリッジにとって返し、エアロックの状態を見ようと試みた。しかし、モニターには「権限がありません」と表示され、それ以上の要求は受け付けなかった。もう一度、試みたが、同じだった。
 事故直後に全ての制御権をエアロック側に切り替えた事を思い出した。
 彼女に操作してもらう以外に、選択肢はない。
 ヘッドセットのプラグを差し込んだ。
「相浦さん、聞こえるか?」
 船内カメラには、彼女の姿が映っている。声は聞こえているらしい。呼び掛けた際に、カメラを見た。
「エアロックの操作パネルの電源が落ちているんだ。それで、戻れなくなってしまった」
 彼女が青冷めていくのが分かる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣き出してしまった。
「あたしが悪いの。ごめんなさい」
 そうか。そうだったのか。
 佐々は、無理にでもインカムの操作方法を教えて来るべきだったと後悔した。彼女は、インカムを使う際に、エアロックの操作パネルの電源まで切ってしまったのだ。
 そうと分かれば、手の打ちようはある。
「相浦さん、聞いてくれ。エアロック脇にパネルがあるだろう。左から3番目のLEDは点灯しているか?」
 モニターの向こうで首を振った。
「ちょっと待ってくれ」
 3番目のLEDは、エアロックの主電源の状態だ。消灯しているなら、操作パネルが使えないのは当然だ。
「今から言う通りにパネルを操作してくれ」
 また、首を振った。
「簡単な操作だ」
「無理よ!」
「インカムのスイッチを入れる事が出来たんだ。出来るよ」
「あたしが触ったら、また間違えて、あなたを殺してしまうわ」
「言う通りにすれば、大丈夫だ」
「無理よ! 絶対に無理。間違えないで出来るわけないわ」
 麗子は、涙を浮かべている。
「よく聞いてくれ。君が操作しなければ、1時間もかからずに俺は死ぬ」
「酸素が無くなるの?」
「炭酸ガス中毒が先だろう」
「一酸化炭素中毒?」
「いや、二酸化炭素中毒だ。3%を越えると、頭痛や吐き気が始まる。7%を越えると、意識を失い、放置すれば呼吸停止で死亡する」
 彼女の表情が強張る。
「俺は、まだマシだ。苦しむのは、精々30分だ。だが、君は違う。救助隊が来ても、エアロックが開けられないと、君を助け出す方法がない。そこは広いから、二酸化炭素中毒でも頭痛と吐き気に2日間は苦しむだろう」
 おろおろするだけで、覚悟を決めた様子はない。
「何もしないで俺を見殺しにするのを選ぶのか。一か八か助かる可能性に賭けるのか。君次第だ」
「あたしの立場だったら、どっちを選ぶの?」
「考えるまでもない。賭けに出るさ」
「もし、操作を間違えても、恨まない?」
「何もしないで俺を見殺しにすると言うなら、死ぬまでの一時間か二時間、思い付く限りの恨み事を言ってやる。だけど、頑張ってやってみると言うなら、命尽きるまで応援するぜ」
「本当に?」
「今の状況で、その操作パネルを使って俺を殺す方法を、俺は思い付かない」
 彼女の表情がいくらか明るくなる。
「よし、やるぞ。確実にやるために、俺が手順を言うから、まず復唱するんだ。復唱を聞いて大丈夫だとわかったら、実行と言うから、もう一度復唱しながら操作するんだ。いいね?」
 モニターの向こうで、彼女が頷く。
 頭痛が始まった。時間がない。一発勝負だ。だからこそ、慌てずに確実に進めなければ。
「第1ステップは、右下のボタンを押す。まず、位置を確認しろ」
「右下のボタンの位置を確認し、それを押す」
 直ぐに、彼女の指が止まった。
「位置を確認したなら、実行だ」
「押します」
 モニターからは、彼女の手元は見えない。ただ、手が動いたことは分かる。
「ディスプレイに出た文字を読んでくれ」
「PmwerOn……InitializeComplete」
 初期化まで、終わったようだ。
「Menuと書いてあるボタンは、分かるか?」
「……あっ、あったわ」
「Menuを押す」
「Menuを押す」
「よし、実行だ」
「Menuを押したわ。あっ、表示が変わった。1.SetUp、2.StartUp、3.Control、4.Priority、5.Moniter」
「2のボタンを探せ」
「あった。場所は分かるわ」
「よし、2のボタンを押せ」
「押したわ。あっ、表示がどんどん変わっていく。読めない!」
「大丈夫だ。Completeの表示が出たら教えてくれ」
「わかったわ。……ちょっと待って。StartUpComplete。これでいいのかしら?」
「Okだ。だけど、ここからが危険なオペレーションになるぞ。気を抜くな」
 佐々は、更に数ステップの手順を彼女に課した。
 続くパスワードの入力には手間取った。「オー」と「ゼロ」を打ち間違えたのだ。打ち間違えたとわかった時、彼女は半狂乱のようになった。宥めるのには時間がかかったが、いい薬にもなった。以後の入力には、呆れるほど慎重になった。
「終わったぁ!」
「終わったの?」
「ああ、終わったよ。ここからは、俺の頑張りだけだ。だから、俺が死んでも、俺がヘマをやらかしたんだなって、思ってくれ」
「何が言いたいの?」
「君は、最後までやり抜いたんだ」
「冗談じやないわ。私は、何のために必死になったと思ってるの? 生きて戻ってこなかったら、あなたの意識が無くなるまで、ありったけの恨み言を聞かせるわよ」
 どこかで聞いた台詞だ。佐々は苦笑いした。
「時間がない。また会おう」
 モニターが消える瞬間に見せた彼女の不安そうな顔が、脳裏に焼き付いた。
 吐き気が酷くなってきた。フィルターは、二酸化炭素を吸収できていない。二酸化炭素濃度が上がり始めている。
「慌てるな!」
 自分に言い聞かせた。そして、もう一度、ブリッジの計器を確認した。
「制御権はエアロック側。よし」
 無駄な電力を使わないように、計器の電源を落とした。最後に照明を落とし、シートを離れた。
 エアコンディションモニターは見ないことにした。エアロックに辿り着けるかどうかが問題だ。二酸化炭素濃度を知っても、焦りを誘うか、落ち込むかのどちらかにしかならない。
 慎重にブリッジを出た。

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 30分後、佐々は、気象レーダーを睨んでいた。
 気象レーダーは、波長が短いので、宇宙エレベータのケーブルでも捉える事ができるはずだと、考えたからだ。
 既に、レーダーのレンジ内に近付いているはずだが、まだ捉える事ができなかった。
 軌道計算をやり直す。結果では、今から70秒余りで最接近する。それも、10メートル以内の誤差だ。衝突すると言っても良いくらいだ。
 眼を凝らして、宇宙エレベータのケーブルを捜す。しかし、真っ暗な背景に溶け込んでいるのか、全く見えてこない。
 ヘルメットの中で、脂汗が滲む。
 突然、衝突警報装置が、けたたましい警報音をたて始めた。レーダーにケーブルの反応が現れたのだ。
 ブリッジから外を見ると、2本の黒光りする棒状のケーブルが見えた。ピンと張り、何処までも続いているように見える。太さは5cmくらいだろうか。5mくらい離れて、前後に並んでいる。
「どっちだ?」
 一人、呟いた。今の今まで、電流の方向に関心を持とうとしなかった自分を問い詰めた。
 迷う必要はなかった。2本のケーブルの位置関係から、手前側のケーブルにしか、連結器を引っ掛けることができない。
 電流の向きが逆なら、ケーブルに吸い付き、あっと言う間に連結器は焼き切れてしまうだろう。ゆっくりと近付いてくるように見えるが、実際には秒速2kmもの速さでケーブルに沿って動いているから、猛烈な摩擦熱で焼き切れるのだ。
 失敗しても、チャレンジしなくても、結果は同じだ。
 佐々は、モニターを睨み、軌道修正ロケットのスイッチを入れた。
 微かな加速を感じる。
 宇宙空間での操船と言うより、滑空中の操縦に近い。エンジンの力を使って、目標に接近していく。
 ケーブルは目の前にある。だが、接近は終わり、逃げるように離れ始めていた。それを追いかける。
 佐々は、巧みな操船で、ケーブルに並行にした。
 視野の狭いモニター画面に、ケーブルを捉えた。
 全神経をモニター画面に集中させる。
 連結器の右側の切り欠き部分から、ケーブルを連結器の中心へと導いていく。軌道修正ロケットの推力が強すぎれば、船体がケーブルに衝突する。弱ければ、連結器を引っ掛けることができない。
 慎重に近付ける。
「今だ!」
 心の中で叫ぶ。左手の人差し指が、連結器への通電スイッチを弾く。
 目の前に、青白い火柱が上がった。連結器の根元がケーブルに触れたのだ。ケーブルから電磁気力による反発を受けたのだ。
 軌道修正ロケットの出力を絞り、ちょうど良い出力を見つけるつもりだったが、悠長なことをしている余裕はない。
 佐々の手は、磁石のコントローラに跳んだ。磁石への通電を目一杯に上げ、同時にロケットを停めた。
 ロケットの推力が無くなり、連結器からケーブルは離れた。
 火柱が立ち昇ったのは、一瞬のことだった。
 だが、佐々には次の心配があった。
 モニターを見ていると、ケーブルはゆっくりと連結器から離れ、反対側の磁石に近付いていく。
 ケーブルが、秒速2kmもの猛スビードで流れているとは、とても見えない。だが、磁石側は巻線が剥き出しだから、接触した瞬間に、青白い光と共に飛び散ってしまうだろう。
モニターの倍率を上げ、凝視した。
 幸いにも、磁石の力が勝っていたようだ。
 かなり際どいところだったが、ケーブルは、ゆっくりと磁石から離れ始めた。が、佐々は、次なる問題に気付いた。
「振動モードに入らないでくれよ」
 磁石の反発で、ケーブルから離れ始めたが、反発力以上に離れると、今度はケーブルに向かって近付き始めるだろう。
 ケーブルは、とてつもなく大きな張力がかかっているが、撓みはゼロではない。しかも、バイナリースターの負荷は、高速で移動している。
 もし、バイナリースターの移動速度をケーブルの長さで割った値が、ケーブルの固有振動数の整数倍なら、共振を起こすかもしれない。
 バイナリースター単独でも、振動するかもしれない。バイナリースターがケーブルに近づいたり、遠ざかったりしている周期が、船体が持つ固有振動と共振を起こす可能性もある。
 バイナリースターがケーブルに近付き始めた。
 ほんの一瞬だけ、姿勢制御用のエンジンを噴射したが、バイナリースターとケーブルの間隔は、狭まり続けた。
 今度は、少し長く噴射する。だが、ケーブルへの接近は止まらない。噴射し過ぎて反動が来るのが怖くて、これ以上の噴射はできない。
 佐々は、コンピュータに音声で命じた。
「宇宙エレベータのケーブルとの距離の変位を表示しろ」
 コンピュータとの押し問答になることを覚悟していたが、あっさり目的の画面が表示された。連結器に組み込んだ二つの磁石の間でケーブルが取る位置が、曲線で表されていた。
サインカーブを予想していたが、何回か行った噴射が影響し、かなり歪な軌跡を描いていた。その線の先端は、今も上に向かって延び続けている。ただ、その早さはゆっくりで、今にも止まりそうだった。
 様子見だな。
 佐々は、体を固定し、モニターをにらみ続けた。
 ケーブルとの距離は、1cmを切ったところで止まり、離れ始めた。モニター上のグラフは、サインカーブの山を下り始めた。
 佐々は、軌道修正ロケットを2秒だけ噴射した。
 ケーブルとの距離は、一旦止まったが、また離れ始めた。
 佐々は、更に2秒間、噴射した。
 今度は長すぎた。ケーブルとの距離は、反対側に近付き始めたのだ。
「くそ!」
 逆噴射はしたくない。
 船首は損傷が大きい。逆噴射エンジンも損傷している可能性がある。推薬が漏れていれば、爆発の危険もある。
 ケーブルは、着実にフック側に近付いていく。まるで、いじめっ子だ。
「お願いだから、止まってくれ」
 泣きたい気分だ。
「ほんと、頼むよ」
 佐々の泣き脅しが効いたわけではあるまいが、ケーブルの動きは止まった。
 この後も、ケーブルの僅かな動きで、佐々は神経を磨り減らした。ケーブルとの距離が安定しなかったのだ。頻繁に姿勢制御エンジンを起動し、距離を一定に保とうと努力を続けた。
 宇宙服の中は、汗でぐっしょりとなっていた。指先まで汗が流れ、グローブの中で指が滑った。エンジンの操作をする際に、微妙な調整がやりにくく、緊張を高めた。
 悪循環に陥っている事は分かっていた。だが、全神経を、ケーブルとの距離を保つ事に集中させた。
 ヘルメットのバイザーが曇り始めていた。
 宇宙服の調湿機能が不調なのか、汗の掻きすぎなのか、佐々には考える余裕がなかった。
 ただ、悪化する視界の中で、必死の操縦を続けていた。
「まだ、切り離しはしないの?」
 突然、麗子の声が、頭の中で響いた。
「まだだ」
 そんなに時間は経っていない筈だ。
 曇ったバイザー越しに時計を見た。
「あっ!」
 なんたることか。切り離し予定を、1分も前に過ぎていた。
 反射的に手が動き、連結器を切り離した。連絡器は弾け跳び、漆黒の宇宙に消え去った。
 僅かにあった重力は消え去り、徐々にケーブルから離れ始めた。あれほどケーブルとの距離に神経質になっていたのに、今は中々離れていかないケーブルに焦れていた。
 宇宙エレベータの軌道ステーションが迫っている事は分かっていた。曇ったバイザー越しに読める数値から、十数秒後には軌道ステーションを通過する。
 なのに、ケーブルから離れていかない。
 僅かな時間が、永遠のように感じた。
 軌道ステーションに激突すれば、一瞬で終わるだろう。激突した事に気付く暇さえないだろう。
「このまま死ねたらな」
 パシン!
 音を感じる程の強い光が、ほんの一瞬だけ煌めいた。
 軌道ステーションを通過したのだ。
 軌道ステーションは、宇宙エレベータのケーブルを製造する無人工場だったが、パイロットケーブルが地上に届いた現在では、居住区の建設も始まっている。居住区自体は、ドーナツ状の重力ブロックに設ける予定だが、現時点では重力ブロックの建設は始まっていない。
 それでも、基部はケーブルの長さ方向に80mもある。地上なら、20階建てのビルの高さに相当するが、バイナリースターは、すれすれを0.1秒とかからずに通過した。
 4時間を超える船外活動となっている。早く船内に戻らなければならない。
 佐々は、ブリッジを後にした。

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