伊牟ちゃんの筆箱

 詩 小説 推理 SF

タグ:SF

 二度目の船外活動は、翌日に行った。
 取り外して船内で加工してきた連結器を、機首に固定する。
 連結器の仕上がりには、自信があった。
 問題は、連結器を機首に固定する方法だ。がっちりと固定しなければならない。その方法は考えていない。
「でたとこ勝負だ」
 そう言い残して、ヘルメットをかぶった。
 エアロックを出ると、ブリッジに向かった。ブリッジには、ケーブルの先端があった。だが、連結器の本体に仮留めすると、外に出た。
 船首がどうなっているのか、見て確認しておきたかった。
 シャトルと機械船を繋ぐケーブルの両端は、同型式の連結器が備わっている。シャトル側の連結器に、機械船側の連結器を取り付ける事も可能だ。
 実際に見てみると、船首の連結器は無傷だった。連結器は、レーダーの上側にあり、50cm突き出ている。宇宙エレベーターに接近する際に、レーダーは邪魔にならないだろう。
 連結器を船首の連結部に取り付けた。
 エアロックに戻った時、後悔と不安が襲ってきた。連結器を付けたあと、ブリッジ内に確保しておいたケーブルのもう一端も、宇宙空間に投げ棄てた。
 たった一つの危うい選択肢を選び、それ以外の選択肢を捨ててしまった。
 トラブル対応の基本は、まず考える時間を作る事。次は、先に選択肢が残るような手を打つ事だ。その基本を外れた手を打ったのだ。
「準備は上手くいったのね」
 エアロックを開いた時に、麗子の第一声だった。
「ああ、完璧だ」
 自分で言っておきながら、-どこが完璧なんだ-と自分で否定した。
「じゃあ、しばらくは、暇なのね」
「明日は、することは無い」
 佐々は、軌道要素の再確認に時間を割いた。
 月は歪な形をしているだけでなく、場所により重力の斑があるため、軌道が乱されやすい。その月を通り過ぎてから丸1日が経過した。かなり高い精度で軌道要素を算出できる。
 その計算結果を見た時、神憑り的な力を感じた。
 月に乱された軌道は、宇宙エレベータに真っ直ぐ向かうコースに変わっていた。
「コリジョンコース?」
 佐々の説明を聞いた麗子が呟いた。
「そうだ。コリジョンコースだ。バイナリースターは、宇宙エレベータにまっしぐらさ」
「どれくらいまで近付くの?」
「まだ、誤差が10m単位で残っているけど、50m以内さ。正に、奇跡としか言いようがない」
「それで、近付いてどうするの?」
「船首に付けたフックを引っ掛けるのさ」
「できるの?」
「水平方向の速度は、完全に同期する。直前の加速度は、0.045Gしかないから、軌道修正用ロケットを噴射しなくても、4秒間は1m以内に留まれる」
 麗子の懐疑的な視線を感じる。
「もちろん、軌道修正用ロケットも使うから、30秒はチャンスがある」
 ふうぅんと、納得したのかしていないのか、曖昧に頷いた。
「聞いてもいいかしら? さっき、水平方向は同期するって言ったと思うけど、垂直方向はどうなの?」
 鋭いなと、感心する。
「最大の問題が、そこにある。垂直方向には、秒速1000m以上だ」
「そんな速さでぶら下がっても大丈夫なの?」
「非接触でぶら下がるのさ。宇宙エレベータのケーブルは、エレベータの昇降箱の動力源にするために、電流が流されているんだ。電流が流れてるところに、磁界をかければ…」
「フレミング左手の法則ね。吸い付くの?」
「逆だ。反発力を使う。反発力は、近付くほど遠ざかる働く力が強くなる。遠くなると力は弱くなるから、十分な反発力があれば、何もしなくていい。だけど、吸引力は、近付くほど、より近付こうとするから、細かく調整しなきゃならない」
「反発力は、足りてるの?」
 佐々は親指を立てた。
「良かった」
 本当のところは、自信は無かった。ただ、0.16Gに耐える吸引力を持っていた連結器だから、0.045Gくらい大丈夫だろうと、高をくくっているだけだ。
 連結器は、切り離しの容易さを考慮し、電磁石の吸引力で繋がっていた。爆破ボルトでは、切り離ししかできないので、採用されなかった。
 後は、二日後を待つしかない。
「どうだろう。最後まで月を楽しまないか?」
「逆光になる月より、私は地球を見たいわ」
 彼女も、里心がついてしまったのだろうか。
「地球を外から見るのは、次はいつになるか分からないから」
「そうか? まあ、いいか」
 船外作業をサポートするため、エアロックからも姿勢制御はできる。
 少し船体の角度を変え、地球を見易くした。
 間違いなく、地球は月より美しい。色彩に富み、明るく大きい。雲と海と陸と植物が織り成す、複雑な模様は、不思議なことに理路整然としているようにも見える。
 太陽系内にも、生物の存在が予想される星はあるが、地球は一目で生物の豊かさが分かる。全ての生物が絡み合って混沌を生み出し、しかし役割を分担するかのように整合性を持つ生態系を形作っている。様々な色彩が無秩序に溶け合う地球の外観を、生態系が論理的にも知性的にも見せるのだろう。
 雲を見ているだけでも、見飽きるこもことはない。海を見ているだけでも、見入ってしまう。
 なのに、かろうじて見える人工物は、興味を惹くのは最初だけ。目を凝らして、それが人工物だと分かると、興味を失うのはなぜだろう。
 この二日間、作業手順を作る合間、佐々は、窓から地球を見続けた。雲の動きや海面の耀きまで、ありありと思い出せる。
 地球の素晴らしさを再認識する二日間になった。
 当日、清々しい朝を迎えた。
 昨夜のテレメータ読み合わせでは、宇山が謝ってきた。打つ手がないと、みんな頭を抱えてると言う。
 そのくせ、宇宙エレベータに近付きすぎるから、軌道修正しろときた。
「こっちの計算では、ケーブルにはぶつからない。100%ぶつかると分かったら、連絡をくれ」
「分かった。俺が頑張ればいいって事か」
「すまない」
 宇山は、味方と思っていいのかもしれない。嬉しく感じた。
 エアロックの端末で、全ての制御権を解放した。宇宙服を着て、エアロックを出た。
 今回の船外活動は、宇宙服の最大活動時間に近い。酸素の消費量には、注意を払わなければならない。
 二酸化炭素除去フィルターも交換していない。予備が一個しかなかったのだ。二回目の船外活動が一時間余りで済んでいるので、連続で使う事にした。
 佐々は、船首に向かった。もう一度、連結器を確認するためだ。
 連結器は、二日前と何も変わらなかった。当たり前のことだが、佐々は安心した。
 宇宙エレベータのケーブルは、軌道上では後ろから追い付いてくる。現時点では、船体は後ろ向きになっているので、前から近付いてくるように見えるはずだ。その方向に目をやったが、数千キロ先の細いケーブルが見える訳もなかった。
 佐々は、ブリッジに潜り込んだ。
 全ての制御権を、ブリッジに切り替えた。これで、ブリッジ本来の機能を取り戻した。
 最初に、レーダーを起動した。
 宇宙空間では、レーダーを使う事はほとんどない。レーダーの主要な機能は、気象観測だ。もう一つは、対航空機監視だ。どちらにしても、宇宙では必要ない。
 そのレーダーを起動した。宇宙エレベータのケーブルを捉えるためだ。
 現時点では、1万kmは離れている。探査半径が300航空マイル、つまり550km程度しかない大気圏内用レーダーでは、何も映らない。
 佐々は、手順に従い、軌道修正用ロケットを立ち上げた。燃料は充分に残っているし、流動性も保たれている。
 一通りの準備が終わったところで、宇宙エレベータとのランデブーのための軌道を再確認した。そして、軌道修正ロケットの動作確認を兼ねて、1秒間だけ、噴射した。
 点火と同時に、ぐっと推されると思っていたが、ほんの少しGを感じただけだった。積算G計を見たが、体で感じた通りだった。
 今度は、2秒に伸ばしてみた。すると、噴射開始から遅れて、Gが立ち上がった。
 噴射開始から1秒間は、噴射が安定しないようだ。微妙な噴射には、神経を使わなければならない。
 他の機器をチェックした。気になっていた電力は、予想以上に厳しい。どこかで漏電しているのか。
 連結器の脇にあるモニターのスイッチを入れた。
 宇宙に出てすぐに、機械船と繋ぐケーブルを接続するために、司令船をドッキングさせた。その際に、連結器のアップ映像をモニターで見ながら操船を行う。そのモニターを見ながら、今回は宇宙エレベータのケーブルに引っ掛けるのだ。
 時計を見た。
 時間は、中途半端に残っている。
 船内の通話回線を開いた。麗子には、エアロック脇の通話器を教えてあるが、そこにある集音器のスイッチを入れた。
 でも、真空のブリッジで宇宙服を着ている佐々には聞こえない。かと言って、本来の回線は、船外かエアロックしか、電波が届かない。
 操縦席横に固定してあったヘッドセットのコネクターを抜き取り、代わりに、宇宙服からコネクターを伸ばして差し込んだ。
「相浦さん」
 今回は、彼女にも無線の使い方を教えてきた。彼女は、「機械は苦手だから」と操作を嫌がったが、半ば強引に教え込んだ。
「相浦さん」
 もう一度、呼び掛けてみたが、やはり返事は無かった。
 佐々は、船内モニターのスイッチを入れた。
 予想したとおり、彼女は、エアロック脇の端末を睨んで、固まっていた。
「相浦さん、右上のカメラを見て。僕は、そのカメラで見ているから、安心して操作してみて」
 麗子は、カメラを捜した。カメラを見付けると、首を振った。
「大丈夫だ。言うとおりに操作すればいいから」
 また、首を振った。
 唇が動くのが見えるが、彼女の声は聞こえない。
 姿は見えるが声は聞こえないまどろっこしさに、設計者を殴り倒したくなった。
「通話器を使わないと、相浦さんの声が聞こえないんだよ」
 彼女の困った表情が、見てとれる。
「まぁいい。こっちからの一方通行で良ければ、無理しなくていいよ。何かあれば、連絡するね」
 ほっとした様子で、麗子は頷いた。
 なぜ、麗子は装置を操作する事を嫌がるのだろう。いや、触れる事を怖がっている。
 佐々は、頭を振った。
 今は、残念に気を取られている時ではない。
 集中するために、最初から機器のチェックをやり直し始めた。チェックリストに従い、順々にスイッチやメーターを確認していった。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

  第二章
 
 翌朝、夢も見ないくらい熟睡した自分に呆れた。時計を見ると、8時前だった。
 麗子は、まだ寝ていた。彼女の神経の太さにも、感心する。
 定時のテレメータの読み上げが終わると、昨夜の宿題に話題が移った。
「夕べの話だが、大気圏突入を検討している。そのために、今日中に軌道修正することを考えている」
 苦し紛れに、大気圏突入を出してきた。どう反応すべきか、迷うところだが、聞き出す事に専念する。
「成功率はどの程度と推定している?」
「正直に言って五分五分ってところだ」
 正直に言うなら、万に一つだろう。
「逆に言えば、他に方法は無いと?」
「すまない」
「こっちは、地球をもう一周する事を考えているんだが、それでも救助船を出せないのか?」
「軌道が高過ぎる」
 その通りだ。それでも、生きて帰れる可能性は、この方が高いだろう。
「エアロックからは、姿勢制御はできるが、軌道修正はブリッジしかできないぞ。真空になってるのに、どうやって軌道修正をやればいいんだよ?」
「宇宙服でエアロックから外に出て、ブリッジ上部のハッチから進入する」
「詳しく聞かせてくれ」
 佐々は、メモを取った。
 朝食後、地上基地が出した案について、麗子と話し合った。
「下が言ってるから、大丈夫じゃないの?」
「一番高温になるところが破壊されているのに、成功するはずがない」
「じゃあ、この案を出してきた理由は何なの?」
「他に方法が無いからだろう」
「早い話、見捨てられたのね」
「たぶんな。だけど、俺は君を見捨てていないぜ」
「まるでナイトね。それで、案はあるのかしら?」
「宇宙エレベータを使うつもりだ」
「ナイトは取り消すわ。私が女神様ね」
 佐々は、肩を竦めた。
「この船は、宇宙エレベータのカウンターウェイト側のケーブルに数kmまで接近する」
 佐々は、麗子の目を見て「ここからが、奇跡なんですよ。女神様」と、ウィンクした。
 携帯端末に、バイナリースターと宇宙エレベータの位置関係を表示し、具体的な計画を説明した。
「凄いわ。ナイトに戻してあげてもいいくらいよ」
「問題もある。一つずつ考えていくしかない」
「下に考えさせれば」
「やめておけ。タイル一枚欠けただけでも、大気圏突入はできないのが常識だ。一番高温になる船首が大破したシャトルで大気圏に飛び込めと言うんだぞ」
「あなたが、情報を渡さないからよ」
「一時間かけて読み上げたテレメータで、この船の被害が推定できないなら、どんな情報を流しても無駄だよ」
 佐々は、無事に帰れたとしても、今の宇宙旅行会社を辞めようと思うようになっていた。
「信用できない?」
「ああ。アドバイスを貰えるどころか、裏で何を画策するのか」
「画策?」
「世界の20ヶ国以上が参加している宇宙エレベータが、被害を受けるかもしれないんだ。外から圧力が掛かったら、何かを画策しても不思議じゃない」
「佐々さんて、愚痴っぽいのね」
 カチンとくることを、彼女はさらりと言ってのける。
「リスクは犯せない。それだけだ」
 気持ちを落ち着かせ、対策を考え始めた。
 12時の定時連絡で、軌道修正の詳細が伝えられた。1時間後に、軌道修正を実施しろと言うのだ。
 指示された1時間後に船外に出た佐々は、慎重に船首に向かった。ブリッジの上部ハッチは、簡単に開いた。
 宇宙服を傷つけないように、慎重にブリッジに潜り込んだ。
 操縦席は、宇宙服を着たままでは座れない。軌道修正中、体の固定方法に見当をつけると、また外に出た。
 今度は、船首に回り込む。ケーブルに絡まれないように、迂回しながら船首の下側に向かう。
「こんな状態で、大気圏突入をさせるのか。これで平気なら、耐熱タイルを貼る理由は無いぞ」
 愚痴も出る。
 シャトルの基本構造は、20世紀のスペースシャトルと変わらない。基本の骨格は、加工性に優れる合金で作り、表皮を張力に優れる複合材で包む。最外郭は、耐熱性に優れるセラミックタイルで覆い、大気圏突入能力を与える。
 機械船から切り離されたケーブルと連結部は、セラミックタイルを粉砕し、複合材の外皮も破り、船体に食い込んでいた。
 外皮の破孔は鋭く尖っていて、宇宙服でも切り裂きそうだ。その破孔から中を覗いてみた。ヘルメットのライトに照らし出されたケーブルの連結部は、思っていたほどは深くは食い込んでいない。精々、1mくらいだ。手を伸ばせば、届きそうだ。
 だが、破孔の縁は、鋭利な刃物のようだ。
 佐々は、その場を離れた。ブリッジに戻ると、客室の前まで進んだ。客室の前にある手摺を、工具を使って取り外した。それを手に、再び破孔に戻り、中に差し込んだ。
 手摺の先端で連結器を押すと、連結器は重い手応えを残し、奥へと下がっていった。10数cm下がったが、何かにぶつかったらしく、はね上がってきた。そして、元の位置まで来ると、今度は、引っ張られるように奥へと下がっていった。
 ケーブルがどこかに引っ掛かっている事は、間違いない。
 連結器のケーブル接合部が見えるように、手摺を使って、連結器の向きを変えた。
 手摺には、壁に固定するための足状の突起がある。それを使って、ケーブルの付け根を引っ掛けた。
 引っ張ってみると、数cm動くが、ガツンと止まってしまう。見ると、ケーブルがピンと張っている。
 連結器の周囲を、手摺で突つきながら一周させる。またケーブルを引っ掛けて引いてみると、今度は、船体の外皮の外まで出てきた。ケーブルが破孔に引っ掛からないように気をつけて、全てを抜き取る事に成功した。
 佐々は、連結器を抱え、ケーブルを引き摺りながら、ブリッジに戻った。そこに置いておいた工具で、連結器を二つに分解し、一方を手に、エアロックに戻った。
 船外活動時間は2時間余りになっていた。
 宇宙服のメンテナンスを始める。酸素の注入、二酸化炭素フィルターの交換、充電、推進ロケットの推薬の補充等、少なくとも、あと2回は使用できるように整える。もし、これが上手く行かなければ、生きる望みは断たれる。
 手が空きかけた頃、回線が開いた。
「軌道修正は、上手くいったか?」
 嘘をつくべきか、喧嘩すべきか、迷ったが、いずれバレる嘘より喧嘩を選んだ。
「船首の損害を確認した。前輪の車輪収納庫の前側に、直径1m近い破孔が開いてる。大気圏突入は成功しない」
「こっちの見解は、五分五分だ。専門家が言ってるんだ。こっちを信用してくれ」
「その専門家とやらに、耐熱タイルを張っている理由を聞いておいてくれ」
 返事は無かった。彼も、無理だとわかっているのだ。
「どのみち、軌道修正は間に合わないから、新しい救出方法を考えてくれ」
 ため息が聞こえた。
「そっちがその気なら、こっちも覚悟を決め、君が置かれている状況を正直に言おう。4日後の深夜に、地球に最接近する。その時の高度は、25000kmだ。そのあと、23日の周期で地球を周回する。ここまで言えば分かるだろう」
「言われる前からわかっている。問題は、高度と速度だ」
「救出のタイミングは、地球に接近している時しか無い。ところが、4日後を逃すと、27日後までチャンスはない」
「27日後まで待てば、救出してくれる……訳がないな」
「25000kmまで上がるだけでも大変だ。そこで、秒速5km近くまで加速するのは、もっと大変だ。その上、減速して地球に戻るのは、不可能に近い」
「全ての元凶は、速度だ。何とか、速度を落としてみるから、救出は頼むぞ」
「速度を落とすって、どうするつもりだ?」
「腹を割って話してくれて、嬉しかったよ。事故が発生してから、この時を待っていたんだ」
 佐々は、話をはぐらかした。
「まあいいだろう。読み上げを頼むぞ」
 地上局のオペレータ(声から宇山だろう)は、まる1日待った反応をしてくれた。あとは、彼がどれくらい頑張ってくれるかだが…
 読み上げが終わると、直ぐに宇宙服を見に行った。酸素と推進薬は、充填が終わっていた。充電も問題は無かった。温水循環系のチェックも、問題はなかった。二酸化炭素フィルターは、交換済みだ。
 佐々は、ほっとした。
「はい、どうぞ」
 目の前に、宇宙食のカレーが差し出された。
「ああ、サンキュー」
 食事を受け取った。時計の針は1時半が近い。
「上手くいってるのね」
「苦労はしているが、悪くない」
「それは、何?」
 連結器を指差した。
「命の綱さ」
「命の綱?」
 それ以上の説明はしなかった。
 悩んでいた。外してはきたが、どう使えば良いのか、何も思い付かない。
「悩む時は、敵の藁の女神に聞くべきよ」
 麗子が口を出してきた。彼女からヒントを得られることは、ないだろう。技術的な問題の解決には、知識が必要だからだ。
 でも、彼女には話しておくべきだとも思った。
「要は、引っ掛かればいいのね」
 話を聞き終わった時、彼女は軽くそう言った。
「毎回の事ながら、簡単に言ってくれるね」
「まだ、何も言ってないわ」
 佐々は、忍ぶように笑い始めたが、抑えきれず、声を上げて笑いだした。
「どうしたの?」
 笑いを堪えながら、「大丈夫でございます。藁の女王様」と答えた。
 完成形が浮かんだ訳ではない。だが、あるべき姿は、描く事ができた。
 そう。引っ掛ければいいのだ。彼女の一言が、彼にヒントを与えてくれたのだ。
 佐々は、アイデアスケッチを始めた。
 2日後、バイナリースターは、月に最接近した。
 月の裏側に回り込む24分余りは、地球との交信はできない。元々、定期交信は無い時間帯だが、解放感は格別だ。
 佐々も、手を休め、窓の一つに取り付いた。
 月は、どんどん近付いてくる。まだ、地球も見えている。満月ならぬ、満地球だ。月より高い反射能を持つ地球は、眩いばかりに輝いている。舞台上でスポットライトを浴びる女優のような美しさだ。
 直ぐ目の前に見える砂漠のような月面は、一目で死の世界だと分かる。色彩豊かで生き生きとした地球の素晴らしさを再認識させられる。
 その地球が月に隠されると、不思議な事に、クレーターだらけの月面が、天然の彫刻の見事さを伝えてくる。
「凄いわ!」
 麗子が矯声をあげる。
「通常より高度が低いからな」
 自分で言っておきながら、恐怖を感じていた。高度15kmは、歪な月の形状を考えると、月に激突しても不思議ではない。
「大迫力だわ。でも、どうして、予定の高度は高かったの?」
「理由は、低すぎると月に激突する危険が高まる事と、月の裏側を見られる時間が短くなる事の二つだ」
「間近に見られるのは、今回限りなのね」
 月に激突する危険性を、彼女は無視した。
 目の前を次々にクレーターが通り過ぎていく。そのスピードたるや、目も眩むほどだ。
 窓の視野は狭い。秒速12km近い猛スピードで、高度は15kmだ。視野に入ってから消え去るまで、2秒かそこらしか掛からない。
 ジェット機に例えるなら、高度400mを音速で飛行するようなものだ。しかも、操縦不能だ。
 運を天に委せるしかない。
 それでも、目の前を通り過ぎていくクレーターに、目を奪われる。地球との交信が月によって遮断されている今は、何も気にせず、この光景を楽しんでいよう。
 彼女も、窓に張り付いたまま、矯声をあげている。突然現れ、掠めるように飛び去る地形に驚き、後退りする事もあるが、また窓に張り付く。
 24分あまりの月面ショーは、地球の出と共に終わった。
 安否確認のため、回線が開いたのだ。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 食事が済むと眠くなるものだが、エアロックから呼び出し音が聞こえてきた。「こちらバイナリースター。何か進展があったのか?」
「原因の調査方法が決まった。ブリッジは閉鎖したと言ってたな。それで…」
「船外から見ろか。断る。宇宙服は一度しか使えない」
「宇宙服は何度でも使える」
「ここの状態で、宇宙服の整備ができると思うのか? テレメータを見ないで断言できるのか?」
 浅はかな連中だ。佐々の反論で黙ってしまった。
「テレメータを復帰させれば、俺が駄々を捏ねても、そっちで勝手に原因調査ができるぞ。以上だ」
 地上は、当てにならない。自力で生き残るしかない。
 今の会話で、そう考えるようになった。
「また、喧嘩したみたいね」
 下とやり合って毒が抜けたのか、彼女の言葉に嫌味を感じなかった。
「まあな」と言って、「寒くないか」とつづけた。
「節電で暖房を切ったんでしょ」
「そうだったな。暖房を入れられるか、調べてみるよ」
 バッテリーの充電状態を調べてみると、満充電になっていた。充電の推移を見ても、太陽電池パネルを開いた後、エアロックのバルブ操作の影響を受けず、満充電になっている。
 暖房装置の消費電力を計算すると、余裕で賄える。空調分と冷蔵庫を加えたが、若干の余裕が残った。
 電源の心配はなさそうだ。
 佐々は、サロンとを隔てる扉を閉めると、今居るフロアの暖房と照明を元に戻した。
 麗子の顔が、花開いたように輝いて見えた。
「俺達は運命共同体だ。だが、どうやら下は、違うらしい」
「あなたが、喧嘩を売るからじゃないの?」
「こっちの状態を確認する前に、宇宙服を使って事故原因を調べに行けと言ってきた。俺が宇宙服を使おうとしたら、止めなきゃいけないのに」
「期待できない?」
 佐々は、頷いた。
「俺が座右の銘にしているのは、遠くの味方より近くの敵。近くに居る敵の方が、遠くの味方より頼りになる」
「私は敵ってことね」
「利害が一致した敵ってところだ」
「それで、共同戦線を張ろうって、言いたいのかしら」
「今のところは、することは無いけどな」
「嘘。こっちからマスコミネタは発信しないんでしょ?」
 佐々は、親指を立てた。
 また、呼び出し音が鳴り始めた。今夜は、寝られないだろう。
「状況を教えてくれ。まず、太陽電池パネルは、開いているか?」
「大丈夫だ」
「気圧は?」
「0.35気圧だ」
「何?!」
「意図的に下げた。大丈夫だ」
「問題無いのか?」
「こっちが聞きたいよ。何をすればいいか、指示をくれ」
「今は、情報が必要だ」
 その後も、色々と聞かれた。彼らの質問が、マスコミに対しての状況報告を目的にしているのは分かっていたが、救助にも有効だと思えたから、素直に回答した。
 悠に1時間をかけて、計器の数値を読み上げた。
「やっと終わったみたいね」
 佐々は、エアロックを出て、体を伸ばした。
「このデータを有効に使ってくれればいいが…」
 佐々が交信している間は静かにしていた麗子が、やおら口を開いた。
「一つ教えてもらってもいいかしら。私達は、なぜ地球に帰れないの?」
「軌道を外れたから…じゃ、回答になっていないよな」
 麗子は頷いた。
「自由帰還軌道は、分かるか?」
「地球と月の周りを数字の8を描きながら回る軌道よね。乗る前にレクチャーを受けたわ」
「上が地球、下が月だとして、8の字を描くように回るんだが、事故で月に近付きすぎる軌道に変わってしまったんだ。8の字の下の円が小さくなると、上の円は大きくなるのが、直感的に分かる思う」
 麗子は、指先で8を描いた。
「早目に軌道修正すれば、地球に近付けるんじゃない?」
「二つ目の問題があるんだ」
「このまま大気圏に入ったら、バラバラになるか、焼け死ぬかのどっちかだって言ってた件ね」
「ああ。それに、地球に近付くと、地球の引力でより遠くに飛ばされるから、無駄な軌道修正はしないようにしたのさ」
「話をまとめると、私達は他の宇宙船に乗り換えるしか、地球に帰る方法は無いのね」
「調べてみるか」
「何を調べるの?」
「俺達の軌道に乗れるタイミングがあるか」
「意味が分からないわ」
「俺達が地球から遠い間は、追い付けない。チャンスがあるなら、近地点の辺りしかない。具体的には、俺達の近地点を救助船が通るように打ち上げる。俺達との距離が近付いたら再加速して速度を合わせる。俺達を救出したら、目一杯減速して、地球に戻る」
「難しいの?」
「難しさは、準備時間が無い事と、火星に行くくらい大パワーのロケットが必要だという事だ」
 麗子の声が小さくなった。
「火星まで人が行ったのは、私が高校1年の時よ。それからは、誰も行ってないわ」
「搭載する食料、水、機材の量が段違いに少なくて済むから火星に行くほどじゃないが、月へ行くロケットだと、役不足だ」
「あなた、私を安心させたいの? 不安にさせたいの?」
 佐々は、首を竦めた。
「そこで…自力で何ができるか、考えよう」
「食料と酸素を長持ちさせて、もう一周して地球に戻ってくるのは?」
「酸素量が問題だから、後で計算してみよう。他には、アイデアは無いか?」
「あてにしてくれてるの?」
「藁にもすがるってとこかな」
「藁? 私って、敵で、しかも藁なのね」
「近くの敵はあてになるのさ」
「あてにして頂いて、とても嬉しいわ。じゃあ、思い付いた事を言うわ。宇宙エレベータって、長さが10万kmあるって聞いたことがあるの。このシャトルは、2万kmくらいまで近付くんでしょう。飛び移ればいいと思うわ」
 馬鹿馬鹿しい。
「国際法で、宇宙エレベータに接近する軌道は禁止されている。バイナリースターも、必要な距離を確保した軌道を採っている」
「でも、軌道を外れたから…」
「そうだが、近付いても、速度差があるから、飛び移れない」
「近付くかどうかだけでも、調べてみたら」
「そうだな」
 気が進まなかったが、曖昧に返事をした。
「あなたは、何もないの?」
「減速の方法を考えてみるよ」
「減速? 何のために?」
「地球の近くに留まるためさ。減速できれば、地球の近くを周回することになるから、救助のチャンスが増えるし、大きなロケットも必要なくなる」
「どうやって減速するの?」
「それを考えるのさ」
「うどん屋の釜ね」
 カチンときたが、無線の呼び出しが聞こえてきたので、エアロックに入った。テレメータの読み上げだった。
 2時間毎に1時間も値を読むのは辛い。
「相浦さん、この次から読み上げを手伝ってくれないか?」
「嫌よ!」
「簡単だから」
「嫌です!」
 取り付く島も無い。
 協力関係は解消かなと、佐々はがっかりした。
 時計を見ると、午後9時を回ったところだった。
 彼女と話す前に、減速の案を考えておきたいが、そんな気分ではなかった。代わりに、宇宙エレベータと軌道の関係を調べる事にした。
 バイナリースターの軌道と、総延長10万kmにも及ぶ宇宙エレベータの接近遭遇は、実現するならワクワクさせる。気分転換のつもりで計算してみた。
「マジかよ」
 計算結果を見て驚いた。偶然とは言え、バイナリースターは、宇宙エレベータから100km足らずまで接近するのだ。
 考えるべき時だ。
 軌道修正を考えれば、なるべく早く結論を出す方が良い。しかし、宇宙エレベータの利用価値が見付からないなら、無駄は避けるなければならない。
 バイナリースターを基準に、宇宙エレベータの相対的な動きを描いてみた。
「面白い」
 思ってもみなかった動きに、興奮を抑えられない。利用価値があると、直感した。
「問題は、どんな利用方法があるかだ」
 アイデアをコンピュータでシミュレーションしてみた。シミュレーションを繰り返すことで、一つのアイデアに集約されていく。
「よし!」
 端末に体を固定していたマジックテープに手を伸ばした時、タイミング悪く回線が開いた。例によって、テレメータの読み上げだ。
 回線を切ったところで、夕食にした。宇宙エレベータの件は、話題から遠ざけた。
 会話が途切れる頃、テレメータの読み上げの時間になった。早めにエアロックに入り、麗子から逃れた。
 読み上げが終わったのは、午前1時だった。回線を切る前に、佐々は提案をした。
「次から、テレメータの読み上げは、4時間毎にしよう。問題ないはずだ」
「いや、2時間毎だ」
「この6時間で、数値の変化はほとんどなかった。俺も、手も取られる」
「テレメータが自動送信されていない以上、君らの安全を確保するために必要なんだ。理解してくれ」
「俺にテレメータを読ませるだけで、何の行動も提案も報告も無い。俺達を救出するプランが無いからなのか?」
「こちらでも、検討を重ねているところだ。待ってもらいたい」
「俺が求めているのは、最終案じゃない。途中経過だ。検討中の案は、無いのか?」
「検討していると聞いている。次の定時連絡で知らせる」
「次回の定時連絡は、午前4時か? 俺は、1回飛ばして8時がいいんだが」
「わかった。8時にしよう。おやすみ」
 回線が切れた時、佐々はほくそえんだ。
 エアロックを出ると、倉庫から寝袋を二つ取り出した。その一つを麗子に渡した。
「二人とも、同時に寝てしまうの?」
「寝ずの番をしろと言うのか?」
「交代で寝た方がいいと思うの」
「俺の代わりを君ができるならね。俺が寝ている間は、この船は機能停止さ」
 まだ、納得できていないようだった。
「最低でも1週間、最悪は1ヶ月以上も続くかもしれない。今は、二人ともぐっすりと寝ることだ」
「生きるも死ぬも、一緒ってことね」
「そうだ」
 麗子は、寝袋のマジックテープを床に固定し、中に潜り込んだ。佐々も少し離れて寝袋に入った。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 佐々は、地上基地との回線を開いた。大事故の直後にもかかわらず、回線はあっさり繋がった。
「おぉ、佐々か。緊急信号を受信したって、宇宙局から問い合わせがきてるが、どうなってるんだ?」
 地上からの声が飛び込んできた。
「事故だ。機械船側でケーブルが切れた」
 無線の向こうで沈黙があった。
「被害状況を詳しく教えてくれ」
 今度は、佐々が黙ってしまった。常時、テレメータは送られているはずだ。それを見る方が早い。
「3時間前から、テレメータが送られて来ないんだ。だから、何度も呼び掛けていたんだ」
 ブリッジにいた時、何の呼び掛けもなかった。あれば、必ず気付く。回線は簡単に開いたのだから、通信機器に大きな問題はなかったはずだ。疑問は横において、佐々は続けた。
「ブリッジは閉鎖した。こっちからの要求は、地球への帰還だけだ。だけど電力が足りない。地球への帰還に必要な情報だけ送る」
「わかってるよ。まず軌道要素を教えてくれ」
「そっちで調べられることは、そっちで調べてくれ。こっち計測装置は、真っ当か分からない」
 また、沈黙があった。
「事故原因は何だったのかは、教えてくれないか」
「手が回らない」
「原因が分からないと、手の打ちようがない」
「俺と相浦さんは無事だが、未来が死んだ。手が足りない」
 息を飲むのが伝わってきた。
「事故原因と死因は、必須だ」
「わかった。事故調査団と監察医の到着を待つ。以上だ」
 佐々は、一方的に回線を切った。
 事故原因は分からなくても、対策は打てる。彼らが事故原因に拘るのは、マスコミから求められているからだろう。
 麗子が、エアロックの前でモゾモゾしていた。それを見て、思い当たることがあった。
「トイレか? やり方が分からないのか?」
 恥ずかしそうに頷く。無重力になると、下半身の体液が余り、トイレが近くなる。無重力では、トイレの使い方も微妙に違ってくる。
 タイミング悪く無線の呼び出し音がなったが、無視した。
「こうやって使うんだ」
 やって見せ、彼女一人を残し、エアロックに戻った。
 無線の呼び出し音は、続いていた。
「遅いぞ!」
 回線を開いた第一声がこれか。カチンときた。
「軌道要素が確定できたのか?」
「まだだ」
「じゃあ、テレメータの送信方法が見つかったんだな」
「原因が分からないと、手の打ちようがない」
「原因が分からないと軌道要素が分からない理由を説明してくれ」
「とにかく、原因を教えてくれ」
 麗子がトイレから戻ってきた。それを見て、佐々も尿意を催した。
「悪い。手が放せなくなった」
 回線を切り、トイレへと急いだ。
 無重力では、排尿の反作用で体が浮く。ベルトで体を固定するのももどかしく、トイレを済ませた。
 地上基地のメンバーが、マスコミを突き放す勇気を持つのは、いつになるだろう。
 すっきりした膀胱とは反対に、気分はすっきりとはしない。憂鬱な気持ちで、エアロックに戻った。
「あのぉ、事故の原因ですか?」
 麗子の声が聞こえる。無線に出たのだ。
 佐々はエアロックに飛び込み、回線を切った。
「何を話した? 俺がいない間に何を話した?」
 佐々の勢いに気圧されたのか、麗子は怯えた声で答えた。
「まだ…。佐々さんを呼ぶ声が聞こえたから、中に入ったら、向こうで私に気付いて。でも、私、何も触ってないから」
 回線を切ったつもりだったが、切れていなかったようだ。
「それで、向こうは何か言ってきたのか?」
「原因がわかりますかっていうから」
「それで、何か答えたのか?」
 麗子は、かぶりをふった。
「それならいい」
 少し落ち着いてきたらしく、麗子は疑問をぶつけてきた。
「でも、どうして、事故原因を教えないの?」
「マスコミに流す情報を要求してきてるだけだからさ。事故原因を教えれば、次は、詳細な被害状況を要求してくる。外に出て、あれやこれや写真を撮ることになる。最後に、責任の所在を追求される」
「それでも、対策が見つかるならいいと思うけど」
「今、向こうはマスコミにせっつかれているんだ。民間初の月周回旅行で事故があり、生存者の救出作戦をするんだ。マスコミ関係者にとって、一生に一度あるかどうかの大事件だ。情報集めに必死だろう。事故原因を教えても、次の情報を要求してくる。最後は、俺達にインタビューさ。おまけに、俺達が死ねば責任追求、助かれば奇跡の生還物語。マスコミから見れば、どっちも損はない。マスコミから俺達の救出作業を切り離さないと、前に進まない」
「事故原因を教えないことが解決策になるとは思えないけど」
「いや。この状態を続ければ、向こうが根を上げるさ。それに、宇宙服は最後まで残しておきたい。助かるために、船外活動が必要になりました。でも、宇宙服は原因調査に使いました、じゃあ洒落にならない」
「宇宙服って、一回しか使えないの?」
「使えば整備が必要になるが、今のこの船の状態だと、整備できるか心配だ。一度しか使えないと考えておくべきだ」
 麗子も、納得したらしい。
「そろそろ出てやるか」
 呼び出し音が鳴り続く無線回線を開いた。
「グッドニュースだ。軌道要素がわかった。月面すれすれを掠めるが、墜落はしない。その後、地球に近づく」
 まだ、そのレベルなのかと、佐々は苛立った。
「そこで、俺達を拾ってくれるって訳だ」と、皮肉をこめて返した。
「まだ検討中だ。それより、事故原因はわかったか?」
「真面目な話、事故調査団を送り込んでほしいよ。手が回らない」
「そうか。また連絡する」
 初めて、地上側から回線を切った。
「少しマスコミが大人しくなったのかしら」
「マスコミは、最後まで手を引かない。広報が俺から情報を取るのを諦めるかが、問題さ。さっきのは、俺の機嫌をとってから情報を聞き出せと、広報が知恵を付けただけだろう」
 麗子が微笑んだ。
「悪知恵が働くのね」
「どっちが?」
 麗子は、肩を竦めただけだった。
 空腹を感じて、時計を見た。
「腹は減らないか?」
「そう言えば」
 朝8時に離陸し、9時25分に親機から切り離された。25分後には衛星軌道に乗り、地球を一周半して、自由帰還軌道に移った。
 事故が起こったのは、その1時間12分後だ。事故がなければ、20分ほどで宇宙に出て最初の食事が供されるはずだった。
 今は午後5時前。
 事故から4時間近くが過ぎている。
 朝食は、6時過ぎだった。麗子も似たような時間に食べたはずだ。
「用意するよ」
 佐々は、昼食用に用意されていた宇宙食を、レンジに入れた。搭載していた宇宙食は、今回の事故を予見していたのか、全て無重力用だった。


       < 次章へ >              < 目次へ > 

 空気が漏れる音は止まっていたが、ハッチとフランジの接触部に補修剤を塗っていく。それが済むと、倉庫へと急いだ。樹脂製ボードを全てと補修剤を手に、ハッチに戻った。
 ハッチは、ブリッジ側からの圧力に耐えるように、ブリッジ側に膨らませてあるので、ハッチのハンドルは、床面より引っ込んでいる。
 ハッチを覆うように、フランジからフランジへと樹脂製ボードを差し渡す。
「手伝うわ」
 すぐ脇まで来ていた麗子が言ったが、「うるさい!」と怒鳴った。
 3枚でハッチを覆うと、ボードの周囲を補修剤で埋めていった。更に、3枚のボードの境を塞ぐように、2枚の樹脂製ボードを乗せ、同じように周囲を補修剤で埋めていった。
 また倉庫まで行き、レスキューボールを持ってサロンに戻った。
「何しているの?」
 佐々は、麗子を押し退けて、サロンに入った。
 レスキューボールは、シャトルの気密に問題が生じた場合の一時避難用の気密袋だ。これに、未来の遺体を納め、サロンの隅にマジックテープで固定した。
 レスキューボールを使う理由は、減圧だ。代謝が止まった遺体を減圧すれば、内圧で損傷する。酸素が無い方が腐敗も進まない。
 佐々は、レスキューボールに窒素ガスを充填した。膨らんだところで、循環装置を停止した。
 宇宙で未来と組むのは初めてだが、地上では訓練だけでなく、地上バックアップの際にもチームを組んだことがある。宇宙に賭ける想いを語り合ったこともある。
 それが、初めて宇宙に出て4時間も経たない内にこんな事になろうとは、本人も考えもしなかっただろう。
 まだ、やるべきことがある。
 ガンガン響く頭痛に堪え、倉庫の脇にあるエアロックのハッチを開いた。
「私を置いていくのね」
 佐々は振り返り、溜め息をついた。
「俺がどこに行けるのか、教えてもらおう」
「外に出るんでしょう?」
「外に出るなら、ハッチの気密なんか気にしないさ。時間の無駄だ」
 納得したのか、麗子は何も言わなくなった。
「まあいい。何も触らないと約束するなら、付いてきな」
 佐々は、エアロックの中に入り、麗子が来るのを待った。彼女は来なかったが、わざわざに呼び入れる気はなかった。
 エアロックの中にある端末を起動した。端末は、すぐに立ち上がった。直ちに、ブリッジから切り離した制御権をエアロックの端末に引っ張った。
 制御権を獲得して最初に見たのは、新しい軌道要素だった。正直な感想が、口から漏れた。
「運が良いのか、悪いのか」
「どういう意味?」
 麗子の声で、びくっとなった。エアロックの外から、微妙な距離をとりながら佐々を見ていた。その顔を見た時、仕返しをしたくなった。
「当初の予定から変更になりましたところを、御連絡致します」
 わざと営業スマイルを作った。
「月へは、予定通り三日後の到着ですが、通過の際の高度は、予定より低い17kmをフライバイ致します。間近に月をお楽しみください。なお、地球到着は、2時間半早くなります」
「地球に戻れるってことね。良かった」
「ちょっと違うな」
 非常灯の下で、彼女は、怪訝な表情を浮かべた。
「地球に戻ると言っても、15000km以上も離れたところを通過する。まあ、仮に大気圏に入れても、この損傷だと、燃え尽きるか、バラバラに空中分解するかの、どちらかだ」
 言い終わると麗子を相手にせず、エアロックの端末に視線を戻した。
 電源が問題だった。主要な電源は、機械船の太陽電池だ。機械船を失ったので、佐々は、非常用の太陽電池パネルを開いた。
 太陽電池パネルがバッテリーを充電し始めたのを確認できたところで、食品庫の電源を復電した。でも、節電を考え、暖房は入れず、照明も非常灯のままにした。
 各計測場所の気圧を見た。ブリッジの気圧は、0.79気圧まで下がっていたが、サロンやエアロックの気圧は0.95気圧ある。
 このままでは、ハッチがもたない。客室の破孔が一気に裂けたら、ハッチも一緒に吹き飛ぶだろう。
「何か問題があるの?」
「ああ、問題だらけだ」
「火急の問題がありそうに見えるけど」
 無視するつもりだったが、薄明かりの中で辛そうな表情を浮かべる麗子を見て、気が変わった。
「ここの気圧を下げる必要がある。だが、減圧の機能がない」
「私の部屋みたいに、穴を開ければいいじゃない」
 溜め息が出た。
「あそこは、元々が耐圧壁じゃなかったから、穴が簡単に開いた」
「エアロックは? 中の空気を抜くことができるんでしょ?」
 膝を打った。
「いけるかも」
 エアロックは、緊急減圧時に内部の空気を外部に捨てる。注気では、酸素タンクから注入するが、配管図を見ると、酸素タンクからは、エアロックと室内空調機の両方に繋がっている。室内から酸素タンクの手前まで逆送し、エアロックに送ることができそうだ。
 佐々は、エアロックを出た。
 エアロックの外側にある操作パネルから、エアロックの空気を排気した。続いて、空調機側のバルブを開いた。そして、強制制御でエアロックの注気バルブを開こうとしたが、インターロックで強制制御も拒否された。
 一気に空気を抜こうと考えていたが、できなかった。仕方がないので、排気バルブを閉じ、エアロックの注気バルブを開いた。エアロック内の気圧が上がっていく。室内の気圧が下がっている証拠に、耳の奥が圧される感じがする。
 エアロックの内容積は、サロン等の容積の15分の1だ。20回くらい排気すれば、0.3気圧まで下がり、ブリッジ側が真空になっても持ち堪えるだろう。
 エアロックの気圧が室内と同じになった。室内の気圧も、0.91気圧に下がったが、ブリッジの気圧も0.76気圧まで下がっていた。
 佐々は、同じ手順を始めた。これを繰り返していくしかない。
 エアロックの圧力の下がり方の遅さが、苛つかせる。
 12分後、2回目が終わり、気圧は0.86になった。3回、4回と繰り返し、10目が終わった時、船首からドンと鈍い振動が伝わってきた。
 シャトルの姿勢が急激に変わる。
 エアロックは重心に近いので、回転の影響は小さいが、麗子は慌てて壁を突っ張ったし、船首側に引っ張られる加速を感じた。
 気圧を見ると、客室はほとんど真空になっていた。例の壁が、破断したのだ。サロンの気圧は、0.52だった。
 シャトルの姿勢は少しずつ安定してきた。自動姿勢制御装置が働いているのだ。
 見に行きたい気持ちを抑え、エアロックの排気を始めた。
「なぜ、ハッチを確認しないの? 壊れてるかもしれないんでしょ?」
「風を感じないから、ハッチに大きな被害はない」
「そんなの見ないと分からないでしょ。あなたが行かないなら、私が行きます!」
 止める暇も与えず、麗子は補修剤を手にサロンへと向かった。
 多少の空気の漏れは、むしろありがたい。優先すべきは、減圧作業だ。
 佐々は、麗子を無視した。
 1時間余りかかったが、室内は0.35気圧まで下がった。減圧で、気温も氷点下まで下がっている。息が白く曇る。
 佐々は、ハッチの状態を見るため、サロンに入った。麗子は、佐々の顔を見るなり、「寒いわ。何とかならないのかしら」と、両肩を抱いていた。
「節電で暖房を切ってある」
 ハッチに近付く佐々に、彼女は言葉を浴びせた。
「エアロックで遊ぶくらいなら、暖かくする方が先じゃないの」
「部屋を暖かくして、本人が冷たくなりたければな。俺は、優先度が高い方から処理しているだけだ」
 ハッチは、補修剤でベトベトになっていた。気密に関係ないところにも、まんべんなく塗り付けてあった。
「うるさいくらいに、漏れてたわ。ちゃんと塞いでおいたから」
 やり方は下手だが、目的は達したようだ。目に止まった補修剤のスプレー缶を振ってみたが、中身は無さそうだった。
「祈ってくれるか。ぼろぼろの船で漏気の補修が必要にならないことを」
 彼女は、キッと睨み付けてきた。やはり、機嫌を損ねたようだ。
「エアロックに戻る」と言って、その場から逃げた。
 当面の危機は、回避できた。だが、助かる見込みは、未だに0%のままだ。これからは、助かるための第二ステージだ。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 麗子の部屋は、すぐだった。部屋に入った佐々は、一番奥で、壁に服を押し付けている麗子を見た。
「バカ野郎! 離れろ!」
「だって、空気が漏れてるのよ」
「とにかく、離れてろ!」
 そこまで言うと、部屋を出た。一気に船尾の倉庫まで行き、樹脂製のボードと補修剤と工具箱を手に取った。工具箱を股の間に挟み、空気抵抗と揚力を抑えるためにボードは胸に密着するように抱え、麗子の部屋へ急いだ。
 麗子は、まだ壁際に居た。
「どけ!」
 背を向けたまま、顔だけ振り返った。
「邪魔だ」
「動けないの」
「なに?」
「手が離れないの」
 慌てて近寄ると、右の掌が壁面に吸い付かれている。小指の付け根付近に、クラックの端があり、口笛のような高い音をたてて、空気が漏れていた。
 麗子の手首を握り、力任せに引っ張ってみた。
「痛い! やめてぇ!」
 実際、かなりの圧力がかかっているらしく、力任せでは上手くいきそうにない。
 空気が漏れる音が、少し低くなったような気がする。クラックも、長くなったように見える。
 壁の向こうは、シャトルの船首にあたる。機器を収めるために、いくつもの区画に分かれている。空気は、配管や配線の隙間から漏れているだろうから、完全に真空になっていないはずだ。そうでなければ、こんな薄い軽合金の板は、簡単に破れている。
 佐々は、工具箱を開き、マイナスドライバーを手に持った。
「よく聞け。今からクラックを広げる。空気が勢いよく抜け始めるから、壁に沿って力一杯引っ張れ。手が取れたら、ぶっ飛ぶだろうから、受け身を考えておけ」
「考えておけって、どうすればいいの?」
「知るか」
 佐々は、ドライバーを握り直し、クラックの先端に突き立てた。
 クラックは、一気に10センチ余り伸び、漏出する空気の勢いで幅も広がった。
「どうした? 早く取れ!」
「無理よ!」
 悲痛な声を出す。
「ふざけんな」
 麗子の手首を握り、渾身の力で引っ張った。思ったより簡単に取れたが、力が入っていたので、二人とも重なるようにふっ跳んだ。反対側の壁に、佐々が下になってぶつかった。
 幸い、足が先についたので、衝撃を小さくできた。だが、直後に麗子がぶつかってきたので、肺の空気を叩き出された。
「大丈夫?」
 衝撃を佐々の体で受け止めさせたので、麗子は申し訳なさそうに言った。
 酷く咳き込んだが、体は動かせた。大事には至らなかったようだ。
「サロンに行け」
 呻くような声で命じると、樹脂製ボードを手に、クラックに近付いていった。慎重に位置を確かめ、ボードでクラックを覆い隠すように塞いだ。
 まだ、ボードの回りで、ピーピーと空気が漏れている。佐々は、風船式の漏出補修剤を使って、ボードの縁を塞いでいった。
「これで大丈夫よね」
 麗子は、まだそこにいた。
「邪魔だと言ったはずだ」
 麗子を押し退け、ブリッジに戻った。
 時間が無かった。
 まず、減圧を始めた。バイナリースターには、本来の減圧機能は無い。佐々が採った減圧は、再循環系の停止だ。
 船内の空調は、酸素分圧を一定に保つ機能に加え、二酸化炭素を除去して循環する。この循環機能を止めた。
 佐々の考えた通りになるなら、漏出した空気の8割に相当する分が減圧していくはずだ。
 次に、迷路のような空調ダクトの経路を目で追いかけ、ブリッジと客室に繋がるダクトへのバルブを閉じた。
 最後に、ブリッジが持っている全ての制御権を、一つずつ切り離していく。
 画面を切り替えながら、面倒な作業をこなす佐々の後頭部に何かがぶつかった。強い衝撃ではなかったが、重い鈍痛が頭の奥で何度も反射した。
 頬に髪が触れる感触があった。
 麗子か。
「何度言ったらわかるんだ。邪魔だ」
 それでも、髪の感触が残った。ムカッとなって振り向いた瞬間、佐々は凍りついた。全身の毛が逆立ち、背筋を悪寒が通り抜けた。
 息がかかりそうな近さに、白目を剥いた未来の遺骸が浮かんでいたのだ。
 憐れな未来の姿に、同情より恐怖が先になった自分が情けなかった。
 そっと瞼を閉じてやった。
 客室から、口笛のような音が聞こえるようになっていた。作業に戻った佐々は、イライラしながら制御権の切り離しを進めた。全てが終わると、未来の遺骸を抱くようにして、ブリッジを出た。
 未来の体には、温もりが残っていた。
 サロンに繋がるハッチを、苦労して未来の体を通した。
「何で連れてきたの?」
「地上に連れて帰る」とだけ答えた。
 補修剤と工具箱を、客室まで取りに戻った。
 当て板をした右横から、気味の悪い音が聞こえてくる。軽い補修剤は、そこに吸い寄せられている。麗子が散らかしたシーツや衣類がクラックを覆っているので、クラックの長さがどれくらいになっているか、わからない。
 今にも崩壊しそうな壁に向かって手を伸ばした。補修剤は、軽く手に取ることができた。
 急いでサロンに戻り、ハッチを閉めにかかった。
 このハッチの本来の目的は、ブリッジと客室を守ることだ。だから、サロン側の気圧が下がった場合に対応している。
 今は、逆の状況だ。
 危惧した通り、逆流する空気に圧され、フランジに密着しない。
「手伝え!」
「嫌よ!」
 頼んだ自分が、馬鹿だった。
 麗子の助けを諦め、ハッチを跨ぐように足場を決めると、腰の力で引き上げた。
 甲高い空気漏れの音が更に高くなり、小さくなり、そして消えると、ハッチのハンドルが回り始めた。ハンドルを最後まで回し、ロックがかかった事を確認した。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

 バイナリースターは、2人の乗組員で運航される。シャトルは、前からブリッジと客室が2室、ダイニングにも使うサロン、シャワーとキッチン、エアロックと倉庫等になっていて、ここまで与圧される。
 与圧隔壁の後ろは、空調装置やタンク類があり、最後尾には軌道修正用ロケットエンジンと大気圏内用ジェットエンジンを備えている。
 ただ、自転している今は、前が上に、後ろが下になっている。
 佐々が居るのは、ブリッジの下、いや横にある二人用客室の一つだ。
 元々、この客室は麗子一人で使うことにはなっていたが、もう一室は彼女の祖父が乗る予定だった。それが、メディカルチェックでNGとなり、記念すべきバイナリースターの第一便は、彼女が独占することになった。
 客室を出た佐々は、サロンに降りた。
 ここには、八つの丸窓がある。その一つから、下弦の薄い月が見えた。
 もっと月を見ようと、足を踏み出したが、なぜか踏み出したはずの足は床に届かず、体が宙を舞った。
「無重力?」
 そんなはずはない。
 混乱する頭を、サロンの天井にぶつけた。バイナリースターの船内は、床も天井も壁も、緩衝材で覆われているので、怪我はなかったが、反動で天井から離れた。
 直後、鈍い衝撃音が響き、背中から天井に叩きつけられた。
「ウグッ!!」
 激しい痛みで、息が詰まり、目の前が暗くなった。照明が消えたのだ。
 非常灯の薄明かりと、陽光が射していた窓が、回転している。一回転して、胸から床に落ちた。
 今度は、手で受け身をとることができたが、衝撃は痛めた背中に突き抜け、体が仰け反った。体は強張り、息も詰まったままだ。
 受け身で回転は止まったが、足を前にして、漂っていく。
 佐々は、気持ちを落ち着かせながら、強張る体の力を抜いていく。体の力が抜けていくのにつれて、浅いながらも呼吸できるようになった。
 足が壁に付いた時、足裏のマジックテープで壁に安定させた。
 何回も深呼吸し、ブリッジに向かった。
 ブリッジに入ると、麗子は、ぐったりした未来の胸をはだけ、AEDで蘇生を行っていた。
「駄目みたい」
 潤んだ目で佐々を見つめる。
 パッドの位置を確かめてみたが、問題はなかった。本体の表示で、既に作動させたことがわかった。
「肋骨が折れているわ」
「外見だけでわかるはずないだろう」
 納得がいかない佐々は、AEDを最初からやり直した。
 未来は、蘇生しなかった。AEDは、脈拍も呼吸も停止したままであることを示している。
 自動診断装置を引っ張り出し、未来の体をスキャンする。表示された診断結果は、肋骨3本が折れ、内臓に損傷の疑い。蘇生可能性の表示も、0%になっている。
 諦めるしかなかった。
「何があったんだ!」
 振り返ったが、麗子の姿はなかった。
「クソッ!」
 麗子を追うつもりはなかった。今は、何があったのか、データから読み取るだけだ。
 メインモニターには、警告表示が並んでいた。その先頭は、「軌道逸脱」だった。
 佐々は、緊急事態宣言を発信した。救出は期待できない。救出を求めるには、新しい軌道要素が必要だった。
 軌道要素の計算をコンピュータに指令し、次の警告を開いた。
 長々と続く警告リストを流し読んでいく。機械船の全機能が失われている。
 佐々は、顔を上げた。
 ウィンドスクリーン越しに見えるはずの機械船の赤い標識灯は、どこにも見当たらなかった。どんなに探しても、ウィンドスクリーンの広い視野のどこにも、機械船は無かった。代わりに、船首の辺りでトグロを巻くケーブルがあった。
 機械船とのケーブルが、何かの理由で切断したのだ。
 佐々は、原因を探るような人間ではなかった。それより、生き残るために何が問題になるのかを、彼は優先する。
 見終わった警告リストの中には、通信途絶、電源不足、気密低下等がある。
 シャトル内の精密気圧を表示させた。最も気圧が低い場所が、空気が漏れている場所だ。
 表示を見た佐々は、反射的に身を翻すと、ブリッジを飛び出した。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

軌道上のタイトロープ


  第一章

「目が回ると思ってたけど、意外に平気なものね」
 佐々が客室を覗いた時の、相浦麗子の第一声だった。
 ほっとした表情を浮かべている。
 打ち上げ前のようにガチガチに緊張していてくれれば、こっちもやりやすいのに、寛ぐ様子が忌々しい。佐々にとっては大事なお客だが、金持ちのお嬢様に特有の自己中心的な感覚が鼻につく。
 佐々を見つめる麗子に本音を見破られないように、会話の相手をする。
「意外に平気でしょ。このバイナリースターの自転周期は、60秒ですから」
 連星を意味するバイナリースターは、民間の月往還宇宙船である。乗客4名を乗せ、地球から月までを自由帰還軌道で往復する。一般人の1週間の宇宙旅行を可能にするため、バイナリースターは、機械船とシャトルを250mのケーブルで結び、連星のようにお互いの共有重心を自転することで、疑似重力を得ている。
「でも、体が重いわ」
「相浦様は無重力に慣れるが早かったですから。これでも月面と同じくらいの重力ですよ」
「ここで慣れてれば、月に着いた時も平気なのね」
 彼女が言った意味をどう捕らえれば良いのか悩んだ末、生真面目に答えた。
「申し訳ありません。バイナリースターは、月面には降りません」
 麗子は、微笑みを返した。
 おちょくったのか。
 このお嬢様の相手を1週間も続けなければならないかと思うと、辟易とした。
「宇宙エレベータのステーションも見えるのかしら?」
 彼女は、1時間余りで最接近する事も、肉眼では難しい事も、きっとわかった上で聞いているのだろう。
 腹立たしさで、言葉が出なかった。
「まだ、小さなステーションとパイロットケーブルが届いただけです。肉眼では無理だと思います」
 もう一人の乗組員の星出未来が、佐々の背中越しに声をかけた。
「代わりに、ブリッジを御覧になりませんか?」
 佐々の前に進み出ると、麗子を誘った。
「見せて頂くわ」
 未来は、麗子を客室から誘い出した後、狭い入口から頭だけ客室に突っ込み、「顔に出てるわよ」と囁いた。
 余計な御世話だと、佐々は苦笑いした。

       < 次章へ >              < 目次へ > 

世界初の民間月旅行で、事故が発生した。

乗員を一人失った佐々だが、たった一人の乗客の相浦を抱えて、地球への帰還を目指す。

しかし、軌道逸脱、空気漏れ、コクピットの閉鎖。
辛うじて地上との通信はできるが、地上側の支援にも疑いが。

満身創痍。四面楚歌。

そんな中、相浦の一言から、救出への道筋を見い出していく。


  < 目 次 >


 軌道上のタイトロープ  1
 軌道上のタイトロープ  2
 軌道上のタイトロープ  3
 軌道上のタイトロープ  4
 軌道上のタイトロープ  5
 軌道上のタイトロープ  6
 軌道上のタイトロープ  7
 軌道上のタイトロープ  8
 軌道上のタイトロープ  9
 軌道上のタイトロープ 10
 軌道上のタイトロープ 11
 軌道上のタイトロープ 12
 軌道上のタイトロープ 13
 軌道上のタイトロープ 14

 軌道上のタイトロープ(自己書評)

※2014年12月25日から2015年1月11日にかけてYahooブログに連載した同名の作品の転載です。



 
索引
 

自己書評

本文中にもありますが、アイソスタシーは地殻平衡を意味します。

惑星上では、下から押し上げる力と、山や海のように上から重さで押さえる力が、バランスしています。山があると海の部分より重くなるので、陸はマントルに沈みます。比重が大きなマントルが押し退けられ、比重の小さな陸塊が入り込むことで、海の部分と同じバランスに調整されるのです。
現在の地球は、ほぼバランスが取れている状態です。
ここに小惑星が落ちれば、地表は剥ぎ取られ、バランスは大きく崩れます。
この作品は、資源採取用の小惑星が地上に落下するところから始まります。
小惑星の落下は、ストーリー展開の柱となっています。それだけに小惑星の軌道が重要になります。
「軌道上のタイトロープ」の時と同様に、今回も軌道計算は時間を掛けて行いました。正しい計算方法ではありませんが、概ね実現可能な軌道であることを確認しています。

この作品も、書いた時期が古いため、出てくるアイテムが古臭くなってしまっています。見直しながら掲載すべきでしたが、本業が忙しく、時間を割くことができませんでした。定期的な掲載を優先したためですが、反省点であることに違いありません。


さて、2018年10月20日に水棲探査機「みお」が打ち上げられました。三日後の29日には、温室効果ガス観測技術衛星「いぶき2号」が打ち上げられます。
そして、遥か彼方の「りゅうぐう」では、昨日に「はやぶさ2」がタッチダウンのリハーサルを行っていました。
ですが、こんなのが、地球に落ちてくると思うと、ぞっとします。
「りゅうぐう」で活動する「はやぶさ2」のニュースを聞きながら、本書も楽しんで頂ければと思います。


                < 目次へ >

↑このページのトップヘ